ルドルフ・シュタイナー

『神秘学概論(GA13)』ノート

3 懐疑


2002.2.8

 

         明らかな事柄の中に隠された意味を認識する人、もしくはそれを推測
        し、予感する人ならば、どんな人でも神秘学への道を、その人にふさわ
        しい時点で見出すことができる。そのような人は、認識の力が進化しう
        ることを知っており、いつかは隠された意味が自分にも開示されるであ
        ろう、と感じている。そのような魂の体験を通して神秘学に導かれる人
        は、神秘学が自分の認識衝動の問いに答えを与えてくれる、と思えるだ
        けでなく、生命を弱め、妨げるすべてを神秘学によって克服することも
        期待できるようになる。人間が超感覚的なものから離れたり、それを拒
        否したりせざるをえなくなるとすれば、それは高次の意味で、生命を弱
        め、魂を死に至らしめる。
         (…)
         人間は騙されやすい存在なのだ。隠された意味など存在せず、感覚と
        悟性の及ぶ範囲内に、そもそも存在しうるもののすべてが含まれている、
        と信じさせられている。しかしこの思い違いは、意識の表面では可能で
        あっても、意識の深みにおいては存在しえない。人間の感情と願望とは、
        この思い違いに従おうとしないで、繰り返して隠された意味を求め続け
        る。そしてそれを見出せなかったときには、懐疑的になり、人生を不確
        かなものと感じ、絶望へ駆り立てられる。隠された意味を開示する認識
        は、希望のない、不確かな、絶望的な状態を、つまり生命を弱め、世界
        のために役立つ力を失わせるすべてを克服することができるのである。
         霊学の認識は、知的な好奇心を満足させるだけではなく、生きる上で
        の強さと確かさを与えてくれる。このことは、霊学の実らせる美しい果
        実なのだ。この認識が労働の力と人生への信頼とを汲み上げる泉は、つ
        きることがない。一度この泉を見出した人は、そこへ戻るたびに、必ず
        慰めと力づけとを受けとるであろう。
        (P48-51)
 
現代人は、疑心暗鬼の塊で、
騙されやしないかといつも不安である、わりには
それが逆転して、いちど信じ込んだら、
その洗脳の影響を脱しがたい、という状態にもなる。
 
ほんとうのところは
なにかを真に認識しようとしているのではなく、
ただ騙されまいとだけしているために、
その疑心暗鬼のロックが一度外れると、
その姿勢が単に顕わになるというだけのことかもしれない。
それゆえに、みんながしていると自分もそうしたくなり、
一極集中のようなブームなども起こりやすい。
つまり、安心して目を瞑って
手を引いてもらいたいということ。
 
懐疑は必要不可欠であるが、
その懐疑の底には認識への欲求がなければならない。
そうでないと、信じたいけれど信じられないというにすぎなくなる。
信じたくないし信じてもいないけれども
そうであると考えざるをえない、というのが
懐疑から導き出されるものでなければならないだろう。
そのためにも、懐疑はより多面的なものである必要がある。
水が幾重ものフィルターにかけられていき濾過されるように、
懐疑は幾重もの異なったフィルターが必要なのである。
 
そういう意味でのニヒリズムは
積極的な生の肯定にもなりうる。
逆にいえば、ニヒリズムというフィルターを経ない生は
他律的なものになってしまいかねない。
最初から生に対して目を瞑ったまま肯定していると
それに対して絶望せざるをえない状況に陥ったとき
生そのものを吟味しないまま
その絶対否定に陥ってしまってもおかしくないだろう。
 
「明らかな事柄の中に隠された意味を認識」しようとするならば、
まず、その「明らか」であるということに対して
懐疑の視線を向けなければならない。
そうでないと、最初から「隠された意味」が否定されてしまっていることになる。
それは認識そのものの否定にもなりかねない。
まず目を開けて、今の自分が「明らか」だと思っていることを
信じないようにすることから始める必要があるのではないだろうか。
 
 


 ■シュタイナー研究室に戻る

 ■神秘学遊戯団ホームページに戻る