ルドルフ・シュタイナー

『神秘学概論(GA13)』ノート

33 地球紀3 動物・植物・鉱物


2003.2.16

 

地球紀には、肉体(物質身体)、エーテル体、アストラル体、自我をもった人間だけではなく、
肉体(物質身体)、エーテル体、アストラル体をもった動物、
肉体(物質身体)、エーテル体をもった植物、
肉体(物質身体)だけをもった鉱物も存在している。
 
おそらく現在の地球紀に存在している存在は
そうした単純な4分類だけではとらえられないだろうけれど、
基本的な進化段階としてはその4つの分類でとらえることができる。
では、そうした動物、植物、鉱物はどのようにして現在のようになったのだろうか。
 
『神秘学概論』の「地球紀」での説明はそう多くはないが、
「人間性の本質」の章で、人間の構成要素に関連して、
動物、植物、鉱物について述べられている(P57-65)が、
ここでは煩雑になるのでそれらについて詳しくはふれず、
「地球紀」での説明を中心に見てみることにする。
 
それではまず、動物存在について。
 
        地球が空気の要素を形成したとき、…月紀の生き残りのようなアストラル存在たちが
        生きていた。彼らは、進化という点では、人間のもっとも低級な魂よりもあとにとり
        残されていた。彼らの魂は、太陽が分離する以前に、人間から見捨てられた形姿に受
        肉した。これらの存在が、動物界の祖先である。彼らは長い進化の過程で、人間にと
        っては添えものでしかなかったような諸器官を、特に発達させた。彼らのアストラル
        体は、ちょうど人間が月紀においてなしたような仕方で、肉体と生命体に働きかけた。
        このようにして生じた動物たちの場合、その魂は、個々の動物の中に住まうことがで
        きず、祖先の形姿をとり続ける末孫にまで存在をひろげた。本質的に同一の形姿から
        生じた動物たちは、共同で同一の魂を保つことになる。子孫が、特別な影響を受けて、
        先祖の形態をとらなくなったときにのみ、新しい動物魂が受肉する。その意味で、霊
        学は動物については、集合魂もしくは群魂について語るのである。
        (P251)
 
動物は、地球から太陽が分離する以前に、
人間がもはや受肉できない形姿に受肉した存在であり、
人間のように自我を持たず、集合魂的なあり方をしている。
自我を持たないといっても、地球上にはもたないというだけで、
自我をアストラル界において有している。
 
続いて、植物存在について。
 
        同じようなことが、太陽と地球の分離期にも生じた。水の要素から生じた形姿は、月
        紀以前の人間以上に進化することができなかった。それらは、もっぱら外から働きか
        けるアストラル作用だけを受け取ることができた。そしてそのような作用は、太陽と
        地球の分離以降はじめて生じることができた。地上に太陽の季節が来る毎に、太陽の
        アストラル作用がこの形姿に働きかけて、地球のエーテル部分から自分のエーテル体
        を形成できるようにした。そして太陽が地上から他へ転じると、その生命体は、地球
        体のなかに解消された。こうして太陽のアストラル成分と地球のエーテル成分との相
        互作用の結果、水の要素から、今日の植物界の祖先となったものの物質形姿が生じた。
         (P252)
 
植物は、太陽と地球の分離期に、
月紀以前の人間以上に進化することができなかった存在である。
地上においてはアストラル体も自我ももたないが、
アストラル界においてアストラル体を、霊界下部に自我を有している。
 
そして、鉱物存在について。
 
        地球の鉱物界もまた、人類の進化全体から排除されることによって生じた。鉱物の形
        態は、月が地球から分離したあとでも、凝縮したままでいた。魂の存在のうち、土星
        紀の段階に留まりつづけ、したがって物質形態を取ることしかできないものだけが、
        このような鉱物体に惹きつけられた。
        (P253-254)
 
鉱物存在は、月が地球から分離しはじめたときその萌芽が形成され、
地球が現在のような、いわば固体化した形態をとるようになってはじめて
「鉱物界」が存在するようになったといえる。
鉱物は、地上においてはエーテル体、アストラル体、自我を持たないが、
アストラル界においてエーテル体を、霊界下部にアストラル体を、
そして霊界上部に自我を有している。
 
さて、動物、植物、鉱物の存在は、人間がその進化において、
みずから放出してきた存在であるということができる。
逆に言えば、そうした存在を放出することによって
人間は現在のような進化段階に立つことができたともいえる。
 
それらの存在は人間に供犠を捧げている存在だともいえる。
人間は、食べることひとつとっても
動物、植物、鉱物の存在なくしてはこの地上で生きることはできない。
それらの存在によって助けられながら生きているわけで、
その意味においても、人間はそれらの存在に対する責任を有しているといえる。
仏教で「山川草木悉皆成仏」というように、
この世のありとあらゆる存在は「成仏」する可能性を有していて、
人間はそれに対する責務を負う存在であるということもできるかもしれない。
 
現在の科学主義的な世界観では、この世界は、すべて物質でできていて、
エーテル体とかアストラル体だとか自我だとかいうのも
それらに還元されてしまうことになる。
そうした世界観においては、動物、植物、鉱物の存在への視点を持とうとしても、
詭弁のような「保護」の発想しかでてこないだろう。
その意味でも、地球進化における進化段階の違いや
それぞれの存在様態の違い、及び相互関係について
神秘学的な観点がどうしても必要なのではないだろうか。
 
 


 ■シュタイナー研究室に戻る

 ■神秘学遊戯団ホームページに戻る