ルドルフ・シュタイナー

『神秘学概論(GA13)』ノート

35 地球紀5 悪と自由


2003.5.11

 

人間は「自由の霊」であるともいわれるが、なぜなのだろうか。
 
月を地球から分離させ、みずからは月から人間に働きかけた存在たちは
人間を宇宙を映し出す認識の鏡としようとしたのだが、
それを妨害しようとした霊たちがいた。
ルツィフェル的な霊たちである。
ルツィフェル的な霊たちは人間のアストラル体を独立させ、それに働きかけ、
人間が「認識の鏡」であることを妨害したのである。
 
その妨害がなかったとすれば、
人間は「宇宙を形象として映し出す」ことのできる
「認識の鏡」となっていただろうが、
もしそうなっていたとしたら人間には「自由」はなかった。
認識の「主体」であることはできなかった。
ただ宇宙の形象を映し出す自動的な装置としかなりえなかった。
 
          月を地球から分離させ、自分も月と結びつき、地球紀の月の存在となった霊的本
        性たちは、月から特定の力を地球上に放射しつつ、人体組織に特定の形態を与えた。
         その働きは、人間によって獲得された「自我」にも及んだ。その作用はアストラル
        体、エーテル体ならびに肉体と、この「自我」との相互作用となって現われた。そし
        て、その結果、叡智に充ちた宇宙の形成過程が、意識の内部に映し出されるようにな
        った。
         それは認識の鏡とでもいえるような現れ方をした。すでに述べたように、月紀にお
        ける人間は、分離することによって、独立し、太陽存在から直接得た意識よりももっ
        と自由な意識を獲得することができた。そして今述べた地球紀の時代にも、当時の月
        紀の遺産である、この自由で独立した意識が再び現われる。しかし、正にこの意識が、
        前に述べた地球紀の月の存在たちの影響を通して、再び宇宙と調和させられ、宇宙の
        模像にされた。
         もし何も影響がなかったとすれば、実際そうなりえたはずであった。もしも他の影
        響がなけば、自然必然性の中で、つまり自由なる働きかけによるのではなしに、認識
        生活の中で、宇宙を形象として映し出すことができたはずであったが、実際はそうな
        らなかった。
         ちょうどこの月の分離期に、人間の進化にある種の霊的本性たちが働きかけてきた。
        この本性たちは自分の中に月紀の性質をあまりに保ちつづけてきたので、太陽が地球
        から分離したとき、それに参加することができなかった。彼らはまた、地球紀の月か
        ら地球に向けて働きかけた存在たちの活動に加わることもできなかった。かつての月
        紀の性質を保ちつづけるこの霊たちは、地球紀にいわば太陽霊に反抗した時の衝動が
        生き続けていた。
         月紀の当時には、この衝動は、人間を自由な独立した意識状態に導いた点で、祝福
        でさえあった。しかし地球紀になって、この存在たちが独自の進化の過程を辿るよう
        になると、彼らは、月から働きかけて人間の意識を宇宙の必然的な認識の鏡にしよう
        と望んだ霊的な存在たちの敵にならざるをえなくなった。月紀においては、人間がよ
        り高次の状態に至るために役だったのに、地球紀の状況においては、人類の妨害者と
        ならざるをえなかった。この妨害勢力の月紀の性質の中には、人間のアストラル体に
        働きかける力が含まれていた。その力が、前述したような意味で、人間のアストラル
        体を独立させた。彼らはこの力を行使して、アストラル体に独立性を、この地球紀に
        おいても与えた。それは地球紀の月紀の本性たちが生ぜしめた人間の必然的な、自由
        ではない意識状態に対してなされたのである。
        (P254-255)
 
         月紀の段階に停滞するこの霊的な存在たちが人間に及ぼした作用は、人間に二重の
        結果を生じさせた。第一に、これによって、宇宙の姿だけを映し出すという人間の意
        識の特徴が失われた。なぜなら、人間のアストラル体に意識像を制御し、支配する可
        能性が与えられたからである。人間は、自分の認識行為の主体になったのである。
         第二に、人間が主体的に認識する際、その出発点は正にアストラル体であったので、
        アストラル体の上位に位置する「自我」は、それによって、常にアストラル体に依存
        しつづけるようになった。したがって人間は、それ以降、人間本性の低次の要素をた
        えず受けつづけるようになった。人間生活は、地球紀の月の存在が宇宙進化の中で位
        置づけてくれた水準から脱落してしまった。そして、この不規則な進化を遂げた月の
        存在たちの影響を、人間の本性はたえず受け続けた。この月の存在たち、つまり地球
        の月から働きかけて人間の意識を宇宙の鏡に変え、それによって、人間に自由な意志
        を附与しなかった霊的存在たちと対立するものは、ルツィフェル的な霊たちと呼ぶこ
        とができる。ルツィフェル的な霊たちは、人間の意識の中に自由な活動を呼び起こし
        たが、それと同時に誤謬と悪の可能性をも人間に与えたのである。
        (P256-267)
 
「鏡」となっていたとすれば、
人間はさまざまな問題に対して
正解だけを答えることができていただろうが、
それはまるで解答集そのものような存在だともいえる。
そこに問いを見出しそれに答えようとするプロセスが欠如している。
正解だけを答えるマシーンのような存在…。
 
人間は「鏡」としての「解答集」を見ることを
ルツィフェル的な霊たちに妨害され続けているのだが、
むしろそのことで「認識の主体」であること、
つまり「自由」の可能性を与えられたことになる。
 
正解を見ることができないがゆえに、
自分でそれを導き出そうとしなければならない。
本来はすべてが満点しかとりえなかった優等生が
そのことでひどい劣等生になってしまうことにもなりえたが、
いわば、自分で考えることのできる存在にもなりえたのである。
 
自分で考えるということは、
間違うかもしれないということでもあり、
間違うということは「悪」の可能性でもある。
「善」であるためのルーティーンワークはそこでは存在しえない。
それは「自由」によって選び取られるものでなくてはならない。
 
「自由」であることと「悪」とはコインの両面のようなものなのである。
「悪」の可能性がないということは、
「善」のロボットであるということでもある。
悪を犯すことがあらかじめプログラムされたロボット。
しかしそのときの「善」のなんとうすっぺらで、
陰影に欠けていることだろうか。
 
その意味では、この地上世界はなんと陰影の深い世界だろうか。
地球紀の意味もそこに見出すことができる。
 
この「悪」について、キリスト者共同体の代表者でもあった
フリードリヒ・リッテルマイヤーは、次のように印象深く述べている。
 
         私たちの世界理解が大いなる事柄に対して目覚めると、「悪が妨げられることなく
        最高の段階にまで発展できるような世界が誕生せねばならなかった」という宇宙的思
        考の計り知れぬ偉大さにますます驚くようになる。…
         「悪がこのようになすがままにさせられているのには、どのような意味があるの
        か?」。「悪は何のためにこの世界に存在しているのか?」。私たちが正しい精神を
        もって悪と戦おうとするならば、これらのことをはっきりと知らねばならない。
         悪が野放しにされている世界の中で生きると、人間の思考、感情、意志にとって非
        常に偉大なものが獲得されるのは明らかである。
         私たちの思考はどうだろうか。神の神聖さとは何であるかは、そこに影としての悪
        がない限り決して認識できない。別な分野から例をとろう。誰がいちばん印象的に太
        陽を表現するかというコンテストを画家達がやったとすれば、賞を獲得するのはたぶ
        ん、画面の上に明るさだけを表現した画家ではなく、影の中で、深く重い影の中で太
        陽がいかに明るく強く輝くかを体験させてくれる画家であろう。
         神の神聖さだけではない。神の善もまた、自分に対立する者にさえ慈悲深く救いを
        与えつつ頭を下げるときにのみ、その最高の深さを明らかにできる。
         …
         悪が存在する世界では感情もまた別なものになる。悪事を行なうことから来る全き
        絶望と空虚、悪意をもつことで内奥の魂の死が体験されるような世界では、人間の魂
        の最高のものである神的善への愛は全く違った性格をもつようになる。それはずっと
        意識的で、また特別に深いものになるのである。
         …
         さて最後に私たちの意志はどうだろうか。神に反する決意が許され、妨げられるこ
        となく、また明らかに一見したところ罰もなくその決意を生きられるような場所、つ
        まり自由がある場所でのみ、意志による意識的で自由な神のための決意が可能になる。
        これこそ高みにいる霊たち全てが地上の人類に望んでいることなのだ。彼らにはそれ
        こそが人間の霊的高さである。これこそが人間を天界に連れていくものである。
        (フリードリヒ・リッテルマイヤー『我らが父よ』
         キリスト者共同体の会刊 1997年12月/P159-162)        
 
 


 ■シュタイナー研究室に戻る

 ■神秘学遊戯団ホームページに戻る