ルドルフ・シュタイナー

『神秘学概論(GA13)』ノート

37 地球紀7 祖先と転生


2003.5.19

 

         言語は、人間が物質的な素材の中にまで濃縮し、そして生命体の一部分が
        分離したことによって、人間に与えられた。月が分離したあと、人間は、は
        じめは肉体上の祖先と集合自我を通して結びつけられていると感じた。けれ
        ども、子孫と祖先を結ぶこの共通意識は、世代の移りゆく中で、次第に失わ
        れていった。次第に子孫たちは、あまり遠くない祖先に対してしか、この内
        的記憶を保持しなくなった。もはや、昔の祖先にまで帰って行くことができ
        なくなった。
         睡眠に似た特殊な状態の中で、人間は霊界と接触することができたが、こ
        の状態のもとでのみ、さまざまな祖先への思い出も生じた。そのとき人間は、
        自分を祖先と一つであると見なし、祖先が自分たちの中に再び現われたと信
        じた。これは輪廻転生の誤った考え方であった。この考え方は、特にアトラ
        ンティスの末期に生じた。輪廻転生の真の教えは、秘儀参入者の学堂内での
        み学ぶことがでいた。秘儀参入者は、肉体から離れた状態の中で、人間の魂
        がどのようにして転生を続けていくかを見た。
        (P243-274)
        
現代人は基本的に肉体上の祖先は遺伝的につながっているものの、
魂及び霊においてはそれぞれ独立した存在としてとらえる必要がある。
 
しかしかつては集合自我によってむすびついていて、
おそらくそのひとつが○○代目○○○○のような表現にも残っているのかもしれない。
名前が同じであるということが、
集合自我においてつながっているということだった時代があったということである。
 
この子はじいちゃんの生まれ変わりだ、というようなことが
いわれたりもするという話も聞いたことがあるが、
それもまたかつての名残だといえるのかもしれない。
 
シュタイナーはどこかで7歳までは遺伝的影響があるものの、
それ以降はその影響からはなれて独立して成長していくことができる、
ということを述べていたように記憶しているが、
つまり親に似ているというのは、
親に似ようとして似ているのであって、
似ようと思わなければ似る必要はないということでもある。
似ているというのは、親を模倣することで似てくるのである。
もしくは、遺伝の力に余りにも影響を受けすぎてそれに負けているということ。
 
親に似ないですむというのは、なんという希望の原理であろうか。
親に似ているとしても、それが自分の自由な選択の結果であるとすればいいのだけれど、
なにかを親のせいにしないですむほうがずっと幸福ではないだろうか。
 
ところで、ぼくはいわゆる先祖とかその墓とかいうのに
ほとんど意味を見出すことができないのだけれど、
どうして人はお骨にこだわったり、お墓を「守」ったりするのだろうか。
もちろん、人は火葬にせよ土葬にせよ、
死体が地球にとりこまれ地球の成分の一部になることが
鉱物界にとっても植物界にとっても、もちろん地球にとっても
非常に重要な意味をもっているということが
たとえば『教育の基礎としての一般人間学』の第三講でも述べられているが、
それは祖先を祀るということではない。
 
儒教では、祖先からの継承を重要視するわけだけれど、
そういう在り方は、古代から伝えられてしまった「輪廻転生の誤った考え方」が
今に残っているものなのかもしれない。
祖先を大事にするという慣習を身につけているとしても、
そこにきちんとした認識があるかどうかが問いなおされないとしたら、
その慣習をカルト的な在り方と分けることは基本的にできなくなる。
ただ多くがそうしているために
「そういうものだ」ということで疑いをもたれていないか、
少数派ゆえに異質だととらえられてしまうかどうかの違いでしかないだろう。
 
 


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