ルドルフ・シュタイナー

『神秘学概論(GA13)』ノート

39 地球紀9 後アトランティス文化期


2003.7.20.

 

         人間の能力には、脳を使用することで、一方的に物質生活のためにはたらく部分
        がある。その能力は、遂には、現代の科学、技術等を可能にするところまできた。
        この物質文化の起源は、ヨーロッパの諸民族の下でのみ見出すことができたなぜな
        ら、これらの民族は、物質的=感覚的な世界に対する関心を熟成させ、有効な能力
        にまで育成したところのアトランティス人の後裔なのだから。彼らは、この能力を
        それまでは微睡みの状態に置き、アトランティス見霊能力の遺産やその秘儀参入者
        の言い伝えの中で生きてきたが、精神文化がもっぱら秘儀参入者たちの影響の下に
        あったとき、その一方でゆっくりと、物質界を支配しようとする力が内部から育っ
        ていったのである。
         けれども現在は、すでに第六後アトランティス文化期の夜明けをむかえている。
        人類の進化は、それがはっきりと現われてくる前から、ゆっくりと成熟を遂げてい
        く。現在すでに始まりつつあるのは、人間の胸中にある二つの側面、すなわち物質
        文化と霊界でのいとなみとを結ぶ糸を見つけだすことなのである。このために今必
        要なのは、一方では霊的な直観を体験することであり、他方では感性界を観察し、
        それにはたらきかけを行ないつつ、そこに霊の啓示を認識することである。
        (P308)
 
アトランティス時代の後には7つの文化期(ひとつの文化期は2160年間)が続く。
インド文化期、ペルシア文化期、エジプト文化期、ギリシア文化期、
そして1413年から始まった現在の第五文化期である。
この後、第六文化期、第七文化期と続くことになる。
 
後アトランティス文化期の課題は、古い見霊能力を去り、
感覚界、物質界へと関心を向け、そこに働きかけるということであるということができる。
 
たとえば、アトランティスの居住地を去った後、
アジア内陸部へ向かっていった秘儀参入者について次のように述べられている。
 
         キリスト秘儀参入者の弟子たちは、高度に発達した悟性を身につけたが、当時の
        人間のなかでは、超感覚的体験を持つことが最も少なかった。彼らとともに、この
        この秘儀参入者自身も、西方から東方へ、アジア内陸部のある地域にまで移動して
        いった。彼はその弟子たちのために、できる限り、意識の進化においておくれてい
        る人たちとは接触させないように配慮した。
 
後アトランティス文化期のが進展していくなかで、
超感覚的な古い見霊能力が次第に失われていかなければならなかったことがわかる。
「意識の進化」を進めるためには、無意識的な霊能力を去って、
感覚界、物質界のほうへ向かう必要があった。
明るい思考力や感覚界を観察することのできる力を育てるためには、
遺伝的に継承されていた古い見霊能力を失う必要があったのである。
 
現代の唯物論的な世界観が、そのエジプト文化期のミイラづくりへの情熱と
カルマ的にむすびついているともいうエジプト文化期のところでも
その課題について次のように示唆されている。
(現在の第五文化期は、7つの文化期の中心にくるギリシア文化期を中心にして、
その直前のエジプト文化期を反映している)
 
         そもそも後アトランティス期の課題は、人間が感覚界を観察し、その中に深く入
        り込み、それを作り変えることができるような、目覚めた思考力や心情の働きを育
        てることにあった。その能力は、直接霊界から刺激を受けて獲得されるものではな
        かった。この能力によって感覚界、物質界を征服することが後アトランティス時代
        の使命だった。
        (P292)
 
そして、その結果、まさに現在の第五文化期においては、
感覚界、物質界以外は存在しないとまでされるようになってきてしまっている。
しかし第六文化期に向かおうとしている現代においては、
いわば感覚界、物質界を深く認識することによって、
まさにそれを貫いていくことによって、
そこに働いている霊的なありようを見ていく必要があるのだといえる。
 
霊的なものに目を向けるといっても、
それはあくまでも、感覚界、物質界から目を背けるというのではなく、
それらを深く認識しようとすることによってこそ、
霊的なものの認識へと向かっていかなけれならないだろう。
 
そのことに関連して、ちょうど面白い例を見つけたのでご紹介することにしたい。
この月末に保坂和志の新作『カンバセーション・ピース』が
刊行されることになっているが、
それに関連して「ほぼ日刊イトイ新聞」で連載されていた
保坂和志と糸井重里との対談が面白かったのもあり、
まだ読んでいない保坂和志の『残響』(中公文庫)という小説を読んでみた。
そしてそのなかで、登場人物の野瀬俊夫が次のように考えるシーンがでてくる。
 
        …そういう臨床的に単純化された状態をして人間を物質的存在であると捉え、
        物質だから単純な存在だと考えたいわけではなくて、“精神”とか“心”とか
        呼ばれているものを電気的反応と化学的反応の集積ないし総体として捉えよう
        が霊的な何ものかと捉えようが、そこで起きていることの複雑さに変わりはな
        くて、むしろ、“霊的”と呼ぶときに一括りにされてしまいがちないろいろな
        ことが、物質的に記述しようとしていけば緻密になるというが俊夫の考えで、
        その考えでいうなら俊夫にとって、“霊的”と名づけることが世界を単純化す
        ることで(“霊的”でなく他の呼び名でもいいが)、物質性にこだわることが
        この世界の複雑さに釣り合うことだった。
         野瀬俊夫の知りたいのはこの物質の世界で何が起こっていて、人間を物質と
        して捉えたときに何が起こっていて、その世界と人間の認識過程がどのような
        関係でつながっているかということで…
        (P104-105)
 
野瀬俊夫は、霊的なものを拒絶しているわけではない。
むしろ、「この世界の複雑さ」をより深く認識したいと思っているのである。
そこでは、物質的であるか、霊的であるか、ということが重要なのではない。
この引用にもあるように、「霊的」と称して、
ひどく単純すぎる世界観を持ってしまっている例がかなりあるように思う。
ニューエイジ的な流れなどの多くにもそういう傾向が見られる。
 
そういう意味では、霊的なものを安易に持ち出すよりも、
むしろこの登場人物のように、「物質性にこだわる」ことで
「この世界の複雑さ」へと向かうことのほうが
ずっと誠実な在り方なのではないかと思えるのである。
短絡的に「霊」を持ち出すよりも、
じっくり「物質性にこだわる」ほうがむしろ
霊的認識により深く近づく可能性に向かって開かれているのかもしれない。
「物質性にこだわる」ということによって
その物質性そのものがいかに霊的であるかということに
行き着くという可能性である。
 


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