ルドルフ・シュタイナー

『神秘学概論(GA13)』ノート

4 進化プロセス


2002.2.8

 

         超感覚的な事象の記述が、この「エーテル体」または「生命体」に及
        ぶと、現代の観点からではどうしても矛盾に陥らざるをえないところに
        きてしまう。現在の精神段階においては、人間本性のこの分肢に話が及
        ぶと、人はそれを非科学的なことだと思ってしまう。現代の唯物論的な
        立場は、生命のある身体の中にも、無生物としての鉱物の中に見出せる
        物質素材とその働き以外のものを見ようとはしない。(…)
         超感覚的な認識の観点に立って、このような立場の科学者と議論して
        も、概して何の成果も得られないであろう。むしろ、唯物論的な考え方
        が、われわれの時代における自然科学の偉大な進化にとって必要だった
        のだ、と考えることの方が、超感覚的な認識の立場にはよりふさわしい
        といえよう。自然科学の進歩は、感覚的な観察手段を無限に洗練させて
        いく。人間は進化の過程で、そのつど、ある能力を、他の能力の犠牲の
        上に、より完全なものにしていく。このことは、人間の本質に基づいて
        いる。厳密な感覚的な観察は、自然科学によって重要な発展を遂げたが、
        そのために「隠された世界」へ導く能力の育成を犠牲にしなければなら
        なかった。しかし、この能力の育成を必要とする時代が、今再びやって
        きたのだ。
        (P60-61)
 
思考は生命力を犠牲にすることで生まれてきたという。
たとえばトカゲの尻尾が生え替わるような能力が失われ、
そうした能力が変容することではじめて
思考することができるようになった。
 
蜜蜂の集合魂のような在り方を
これからの進化期において人は獲得していくということだけれど、
人はそのとき蜜蜂になるわけではない。
かつて人は集合魂的であり、
それが個において顕現しうるものになった。
その個が否定されるのではなく、
その個を踏まえながら新たな進化段階を迎えるということである。
 
人間の進化プロセスにおいて重要なのは、
「私」ゆえに「私たち」なのであって、
「私たち」ゆえに「私」ではないということである。
そのプロセスが踏まえられないときに、
人は容易に集合魂的な退行に陥ってしまうことになる。
「国」あっての「私」という発想もそうである。
「自由の哲学」が重要であるのも、
その進化プロセスにおいてそれがふまえられる必要があるからである。
人は集合的になることで容易に「私」を超えてゆこうとするのだが、
「私」を超えるのではなく、「私」が拡大変容するということでなくては、
それは単に退行にすぎないだろう。
 
霊的な事象に関わるときにも、
唯物論的な考え方が不要だということではなく、
その観点が不十分であるというふうにとらえる必要がある。
つまり、唯物論的なアプローチによって得られたものを否定するのではなく、
それを踏まえながら新たな認識へとシフトさせていくということ。
感覚的な観察をおざなりにするということでなく、
それを踏まえて先に進むということである。
 
「物質は光になろうとしている」というのも、
物質そのものをふまえながら、
それがいかに霊的なものであるかということを
深く認識しなければならないということでもあろう。
 
そういう意味でも、
霊的なものを否定するのではなく、
また霊的なものを礼讃するのでもなく、
いかに事象をとらわれなく観察することのできる観点が
得られるかということが重要なのである。
 
 


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