ルドルフ・シュタイナー

『神秘学概論(GA13)』ノート

40 地球紀10 人種・民族


2003.7.21.

 

         太陽の分離の直接的影響により、神智学文献において第三根源人種、レムリア人
        と呼ばれる、人間の祖先の第三の根元的な状態が生み出された。ここでも、進化に
        おけるこの状態に対して「人種」という呼称は、特に望ましいものではない。とい
        うのも、真の意味においては、当時の人間の祖先は、今日「人種」と呼ばれるもの
        とは比較しえないからである。遠い過去や、同時に未来の諸進化形態は、今日のそ
        れとはあまり完全に異なっているので、我々の今日の名称がただ代用品としてしか
        役立たず、そしてこれらの遠い時代との関係においては事実上すべての意味を失う
        ということを、我々は完全に明確にしておかなければならない。
         実際、先に確認された第三根源的状態(レムリア)の進化が、後半三分の二頃に
        立ち至った時に初めて、「人種」ということを語り始めることができる。その時初
        めて、今日「人種」と呼ばれるものが形成されたのである。この「人種的特質」は、
        第四の根源的状態、アトランティスの進化期に、そしてさらに我々の第五の根源的
        状態に入っても保持される。しかし早くも我々の第五の最後において、「人種」と
        いう言葉は再びすべての意味を失うことになる。未来において人類は、「人種」と
        呼ぶことが不可能であるような諸要素に分割されることになるのである。
        (『アーカーシャ年代記より』人智学出版社/P191-192)
 
         レムリア時代になって人類が地上に受肉するにいたった事情はすでに述べた。そ
        のとき以来、人間は、さまざまな本性を担うようになった。さまざまな本性が他の
        宇宙領界からやってきて、太古のレムリア以来の人体に受肉してきた。この事実の
        ひとつの結果が、人種の相違を生み出した。そして再び受肉してきた魂たちは、そ
        れぞれのカルマに応じて、あらゆる種類の異なった生活要求をもつようになった。
         このようなことが続く限りは、「普遍人類」の理想など存在する余地がない。人
        類はひとつの統一体として出発したけれども、これまでの地球紀の進化は、分裂を
        重ねてきたのである。キリストを心に受け入れることができたとき初めて、一切の
        分裂に歯止めをかけるような、ひとつの理想が与えられた。なぜなら「キリスト」
        という名を名乗った人間の中には、崇高な太陽存在の作用力が生きており、どの人
        間の自我もこの力の中に自分のもっとも根源的な根拠を見出すことができたからで
        ある。イスラエルの民でさえ、まだ自分を民と感じ、個人をこの民の一分肢と感じ
        ていた。
        (『神秘学概論』ちくま学芸文庫/P304)
 
         精神科学をとおして、あらゆる人間の分断がなくなることが、ますます洞察でき
        ます。ですから、いまこそ民族魂を知るべき時なのです。精神科学は、民族魂をた
        がいに敵対させるのではなく、調和的に共同するように呼びかけるのです。
        (『民族魂の使命』イザラ書房/P231)
 
レムリア時代において、「人種」が形成された。
そして、これからふたたび「人種」が意味をもたなくなってくる時代へと向かっている。
 
なぜ、「人種」が形成されることになったのだろうか。
おそらくそれは「民族魂の使命」とも関係してくるのだろう。
そしてこれから「普遍人類」へと向かい、
「人種」「民族」という「分断」がなくなってゆく。
 
しかしそれはすべての人間が同じような「顔」になるというのではもちろんなく、
自分を「民」というふうに集合的なものの一分肢としてではなく、
みずからを個としての自我をもった存在として位置づけるということである。
つまり、これまで「人種」「民族」といった単位であったものが、
「個」が単位となるようにシフトするということ。
集合自我が個的な自我になるということ。
同じ民族だから同じような「顔」というのではなく、
個々の人間がそれぞれの個性をもった「顔」になるということである。
 
「キリスト」の意味もそこにおいて見出すことができる。
みずからのなかに太陽存在という中心の働きを自覚するということにおいて、
個的な自我の働きが高次の意味での統一性をもって可能になるということである。
 
性別ができたのも、レムリア期であるというが、
そうした性別や人種などといった、いわば「類」的な差異を通じてしか
育てていくことが可能ではなかったものがあり、
個的な自我が育ってくるにつれて、
今度はそうした「類」としての差異ではなく、
「個」としての差異が重要になってくるということなのだろう。
その意味でも『自由の哲学』が重要になってくる。
 
そうしたことを考えていくにあたって、
たとえばこの日本では、「天皇」ということに向き合わざるをえないところがある。
ちょうど、大塚英志がみずからの「天皇論」をまとめた
『少女たちの「かわいい」天皇』が文庫で編集されているので少しだけ見てみたい。
 
         あるいは若い世代にとっては「おたく」や「新人類」とかつて呼ばれた
        「高度消費社会」や「ポストモダン」の最初の申し子であるはずのぼくた
        ちの世代にとって「天皇」問題への決着がなぜ必要なのかは理解しがたい
        かもしれない。ただ宮台真司の「自己決定」、福田和也の「ナショナリズ
        ム」、ぼくの「戦後民主主義」は「天皇制」の乗り越えによってしかなさ
        れない、とぼくが考えることは記しておく。
        (大塚英志『少女たちの「かわいい」天皇』角川文庫/272)
 
この視点は、「民族魂」的なものをまとめるためにあたって
近代において担ったであろう「天皇」の役割を
乗り越えようとするものとしてもとらえることができる。
そういう意味でも、「「天皇」問題への決着」というのが非常に重要になってくる。
そこを曖昧にしたままで前に進むことはできない。
大塚英志や宮台真司、福田和也といった論客はその点に自覚的でありながら、
その極めて困難な課題の前でそれぞれの論を展開させてきている。
これからこの「天皇問題」がどのようになっていくかわからないが、
その問題と日本の「民族魂」の問題と
密接にリンクしていることだけは確かであるように思える。
もちろんその道はきわめて錯綜し輻輳していて容易に見極められるようには見えない。
 
大塚英志は、「天皇」問題への決着の方向性として、
福田和也の示唆しているような「天皇抜きのナショナリズム」の
三つのシナリオを挙げている。
 
         天皇抜きのナショナリズムの行方には、現時点で三つのシナリオが考え
        られる。
        「天皇」という超越性、あるいは統合装置に替わる、新しい「中心」を結
        局は欲すること。「石原慎太郎」的な強い指導者が待望される気分は、あ
        るいはそれに近いのかもしれない。
         二番目は、強固な中心、統合の装置を必要としない不定形で曖昧なナシ
        ョナリズムが私たちの日常を実にまったりと覆うこと。
         いずれも「天皇」という「抑止力」を欠いたナショナリズムがとり得る
        形である。「強い指導者」を主張する新保守の人々の問いはアメリカの大
        統領性を模した首相公選制の主張であるが、しかし、それは「天皇制」と
        制度的に矛盾することが憲法論として指摘されている。首相公選制もまた
        「天皇抜きのナショナリズム」の一つの形式なのである。恐らくこの国が
        向かいつつあるシナリオはこの二つが合わさった形であり、ぼくは今も
        「抑止力としての象徴天皇制」を肯定し続けたい気持ちに駆られる。宮台
        真司が危うい手続きで「文化概念としての天皇」という超越性を持ち出し
        かけている心情もわからないではない。
         それに対して第三のシナリオは、個々人が「国家」に対する責任主体と
        なることで「天皇」は断念されるべきだという最もモラリスティックなナ
        ショナリズムの提示である。
        (大塚英志『少女たちの「かわいい」天皇』/P270-271)
 
最初のシナリオは「現実的」(こういう言い方はかなり嫌悪感があるのだけれど)
かもしれないが、新たな形での集合魂への逆行になってしまう。
まるであらたに「人種」や「民族」や「性別」などの類的な在り方を
つくりあげ強固なものにしようとするような在り方とつながってくる。
 
第二のシナリオも、最初のシナリオとはコインの裏表にあるような
「現実的」なシナリオのひとつのように見えるが、
まるで風化しかけているなにかをイメージさせるところがある。
「日常を実にまったりと覆う」ナショナリズムというのはちょっとコワイ(^^;)。
 
第三のシナリオは、おそらく「現実的」ではないのかもしれないが、
個的な自我を育てていくにはこの方向しか考えられないところがある。
しかし、「モラリスティックなナショナリズム」というのもよくわからない。
 
この「ナショナリズム」というのは、
福田和也も示唆しているように「結局民主主義」のことで、
「近代国家における国民主権を、国民自体のものとして完全に担うということ」
だというのだけれど、「国家」や「国民」ということそのものが
そこではやはり問い直されなければならないように思える。
少なくとも、「国家」や「国民」が先にでてくるというあたりが
ぼくにとっては違和感を感じざるをえないところなのだ。
 
この問題は、おそらく現代という第五後アトランティス文化期から
第六文化期に向かうにあたってもっとも大きな問題のひとつなのかもしれず、
容易に答えは見つかりそうもないのだけれど、
少なくとも、『自由の哲学』をガイドにしながら
その方向性を見定めていくことはどうしても必要なことであるように思っている。
 
 


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