ルドルフ・シュタイナー

『神秘学概論(GA13)』ノート

43 イマジネーション認識


2003.9.13

 

まず、最初の高次の認識段階として、
イマジネーション(霊視的)認識へと通じる行がとりあげられている。
 
私たちの通常の認識は「対象的認識」と呼ばれるものだが、
これは感覚的な知覚及びそれに結びついた知性とによる認識である。
しかしイマジネーション(霊視的)認識においては
その対象的認識から自由になることが求められる。
 
         覚醒時の意識活動は、外的な事物を再現するという課題をもっている。
        この課題が真に果たされれば果たされるほど、当の意識内容は真実になる。
        この意味で真であることが、この意識内容の課題である。
         霊的修行の目標のために魂が没頭すべき形象は、そのような課題をもっ
        ていない。この形象は外なるものを映し出すのではなく、魂に対して覚醒
        的に働きかけることのできる特性をもたねばならない。そのための最上の
        形象は、象徴的な形象である。
         しかし別の形象を用いることもできる。なぜなら、大切なのは、形象が
        何を意味しているかではなく、当の形象以外の何ものも意識の中に含ませ
        ないように全力を尽くすことなのだからである。
         通常の魂の営みの中では、その魂の力が多くの事柄に向けて分散されて
        おり、意識内容が急速に交替するが、一方、霊的修行にあっては、魂のい
        となみ全体が一つの形象に集中させられる。形象は、自由な意志を通して、
        意識の中心点に置かれねばならない。それゆえ、象徴的な形象の方が、外
        的な対象もしくは外的な経過の再現である形象よりも適している。なぜな
        ら、後者は、外界によりどころをもっているので、魂が自分自身で作り出
        す象徴的な形象よりも、形象だけに意識を集中しにくいからである。何を
        イメージするのかが大切なのではなく、イメージする仕方を通して、魂を
        物質から完全に解放することが大切なのである。
        (P320-321)
 
シュタイナーは講義などにおいても随所で
「対象のない認識」がいかに重要かを示唆している。
それは通常は物質的な外界から自由になれるだけの
魂の力を育てていく必要があるからである。
 
前回のノート42で、
「人間には数学を学ぶことが可能である」ということを理解することが、
「高次の諸世界の認識」のための修行の出発点になることを述べたが、
それは「外界」に依存しない認識のためには不可欠だからである。
 
しかし私たちは通常、外界に依存した形で認識をしており、
外的な刺激がなければ意識を覚醒したかたちのままでいることが難しい。
これはたとえば感覚遮断実験などによっても確かめられていて、
人は五感を外界から遮断されてしまうと眠り込んでしまうか
そうでなければある種の幻覚や幻聴などの状態になってしまう。
 
もちろんシュタイナーのこの行は幻影を見るためのものではない。
行のために使われる象徴図形にしても、
その象徴図形の形態そのものや意味等は一切意味をもたない。
必要なのは、象徴図形を通じて、物質的な外界から
魂を解放することなのである。
 
シュタイナーの著作や講義などが多くの場合読みにくく記憶に残りにくく
ときに眠くなってしまうのは、そこでは
「対象のない認識」が必要とされることが多いからである。
たとえば「土星紀」の熱といわれても
それを通常の物質的な外界における表象で理解することは困難である。
また、初期の講義等は比較的ストーリー的な要素があるが
後期になるととくにその要素が比較的少なくなり、
その内容についての表象を形成することが困難になってくることが多くなる。
もちろん繰り返し読んでいくことで少しずつ理解することはできるのであるが、
それはシュタイナーの著作や講義はそれを読むことそのものが
行のひとつともなっているからである。
従って、シュタイナーを理解するために、図式的な解説書や
用語集などをいくら読んでみたところで、
それを認識するためのの魂の能力を育成することはむずかしいだろう。
 
さてここで、行のために使われる「象徴像」について少し見ておくことにしたい。
その「象徴像」の具体例については、説明していくと長くなるので、
『神秘学概論』の本文や『いかにしてより高次の世界の認識を得るか』を参照されたい。
 
        象徴像に沈潜している間は、準備に用いた思考内容をすべて、魂の中に呼
        び入れないようにする。そして像だけが生き生きと心の中に漂うのでなけ
        ればならない。準備に用いた思考作業の結果として生じたあの感情だけが、
        共振しているのでなければならない。
        このように、象徴像とは感情体験を伴う図像のことなのである。魂がこの
        体験の中に留まり続けるとき、効力が現われる。妨害となる他の表象内容
        を混入させずに、この体験の中に留まり続ければ続けるほど、その経過全
        体が有効な働きをするようになる。
        (P325)
 
象徴像をつくった思考内容さえそこに働かせてはならないように、
その象徴像は物質的な外界から自由でなければならない。
その象徴像は「夢幻的な思考」や「恣意的な想像力」から
つくりだされているのではないかという非難についても
シュタイナーは次のように、その非難は当てはまらないと述べている。
 
        この場合の象徴像は、外なる感覚的な現実に関わりを持たないように選ば
        れており、外界から一切の注意を転じ、感覚的な印象をすべて抑え、外か
        らの刺激に応じた思考内容をまったく排除するときにも、その象徴像が魂
        に働きかけられるように配慮するかたであり、そのような働きかけだけに
        価値を置いているからである。
        (P330)
 
あらためて付け加えておけば、
その象徴像に沈潜することで魂の中に呼び起こされる
こうしたイマジネーション(霊視的)認識において重要なのは
その内容が重要なのではなく、その修行によって育成されていく
魂の力であるということである。
そのことを忘れたときに別の陥穽がそこには生じてくるのではないかと思われる。
 
        「霊視的」な内容は、感覚的な知覚内容が現実的であるのとは異なる意味
        において、現実的である。この現実にとって大切なのは、霊視体験へ導く
        イメージの内容なのではなく、そのための修行によって形成される魂の能
        力なのである。
        (P329-330)
 


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