シュタイナーはたとえば呼吸法を用いた行等を批判的に述べていたりするが、 そうした在り方においては身体と結びついた感覚的知覚等に依存しているため、 「霊的現実」を取り違えてしまう恐れがあるからであると理解することができる。 たとえば断食行や苦行等によって 身体そのものの機能をできるだけ働かせないようにして 身体から意識をもったまま離れるというような行にしても 現代人の在り方にとってはにとっては危険なものを含んでいるのではないだろうか。 しかもそうした在り方の多くは、この物質的世界の現実に かなり偏った仕方でしか対することができない。 たとえ、そうすることで「低次の自己」を克服することができたとしても、 自分をただ「高次の」現実において存在させることだけを目的としてしまい、 この生そのものをさまざまな仕方で深めていくことにはならないだろう。 シュタイナーの示唆している行は、 現代及び現代人の意識状態にふさわしいものであるということができる。 ちなみに、シュタイナーはそうした行に関して、 たとえば『神智学の門前にて』等において、 東洋の行法やキリスト教の行法などについても説明しているが、 シュタイナーの示唆している行法は薔薇十字的な行法であるということができる。 薔薇十字的な修行の本質は、「真の自己認識」である。 (『神智学の門前にて』イザラ書房/P178) ということができる。 しかしその「真の自己認識」においては、 日常的に自分だと思い込んでいる「低次の自己意識」を克服する必要がある。 自分を見つめる必要があるといっても、 日常的な「低次の自己」をいくら見つめたところで 見えるものは身体に結びついた低次の自己意識以外のものではない。 重要なのは高次の自己認識なのである。 高次の自己認識は、「日常の自我のなかには、高次の自我は存在しない、 高次の自我は、外なる世界すべてのなかにある。星、太陽、月、石、動物 のなかに存在するのである。あらゆるところに、私たちのなかにあるもの が存在する」というときに、はじまる。 もし、だれかが、「わたしは、わたしの高次の自己を育成したい、わたし は隠棲したい。わたしは物質のことなど、なにも知りたくない」というな ら、その人は、その人自身の高次の自己が外界のいたるところにあり、自 分の高次の自己は外界にある大きな自己の一部にすぎないということを、 知らないのである。「霊的」な治療法は、この過ちを犯しており、往々に して命取りになる。物質的なものは存在しないのだから、病気も存在しな いという考えを、病人に教えるのである。これは、誤った自己認識にもと づいた、非常に危険な考えである。 (同上/P181) 「低次の自己認識」の自覚のないままに、容易にそれを克服したと思い込み、 ただ「高次の自己認識」を求めるという在り方は 「真の霊的現実」をゆがめたイリュージョンをそこにつくりだしてしまうことになるだろう。 重要なのは、確実な仕方で、「真の霊的現実」へと向かうことのできる 魂の力を育てていくことなのである。 このことを踏まえた上で、『神秘学概論』の本文の流れのほうに戻ることにする。 物質的な外界から自由になれるだけの魂の力を育て、 身体に反射するかたちではない内的本性を体験できるようになると、 そこには通常の自我ではなくて、「第二の自我」と呼べるようなものが育ってくる。 この「第二の自我」が「高次の自己」である。 霊的な修行の過程においては、二つの魂的な体験が重要になる。外な る物質界が与える印象のすべてを無視して、自分の内面を見つめるとき、 その内面は、どんな活動も消えてしまっているのではなく、感覚や悟性 の与える印象からでは何も知りえない世界の中で、みずからを意識して いる内面なのである。第一の体験では、そのような内面を見る。この時、 魂は、自分の中に新たに魂の核心が生み出されたと感じる。それは、こ れまで魂の中の「自我」であったものの外に、今自分を感じている。ど う考えてみても、自分には二つの「自我」があるかのように思える。一 方の自我は、これまでも知っていた自我であり、もう一方の自我は、新 たに生まれて、第一の自我の上に立っている。そしてこの第一の自我は、 第二の自我に対して、一定の独立性を獲得している。ちょうど人体が、 第一の自我に対して、独立しているように。 (P336-337) 新しく生まれた第二の自我は、霊界を知覚するようになる。この自我 の中で、感覚的、物質的な世界にとっての感覚器官に相当するもの、つ まり霊的な感覚器官が発達する。この器官が必要な程度にまで発達でき たとき、人は自分を新しく生まれた自我であるうと感じるだけでなく、 ちょうど感覚器官によって物質界を知覚するように、自分の周囲に霊的 な本性を知覚する。そしてこれが第三の重要な体験になる。 (P337) その際の要注意事項が、そうした修行の際には、 「自己愛」が限りなく強まっていくということである。 従って、通常の自我においてもそれを克服できていないとすれば、 その「自己愛」による陥穽が待ちかまえているということがいえる。 霊的修行のこの段階を確かな足取りで進むためには、通常の魂の生活 ではまったく経験したことのないくらいの自己愛、自己感情が、魂の力 が強まるに応じて、現われてくることを、十分に意識していなければな らない。 (…) 霊的な修行は体的な行為であって、魂の道徳的な進歩とは無関係であ る、とよく信じられているが、今述べた自己感情の克服に必要な道徳的 な力は、魂の道徳的な水準がふさわしい段階にまで高められなければ、 獲得されえない。霊的な修行の進歩は、同時に道徳の進歩がなければ、 考えられない。前述した自己感情の克服は、道徳的な力がなければ、不 可能である。 (P337-338) 禅には魔境があるとかいわれるが、 霊的修行とかさまざまなワークとかを通じて たとえば「ハーアーセルフ」にめざめたとか悟りを得たとかいっても、 ともすればそれは「自己愛」の陥穽に片足を突っ込んでいる、 というふうにとらえたほうが適切なのかもしれない。 「自己愛」を克服するためには、自己犠牲が必要になる。 もちろん自己犠牲は自己放棄ではない。 放棄しなければならないのは自己愛のほうであって 自己はまさに高められなければならないのである。 その際の極めて重要なことはやはり「思考」である。 自分の中にまだ思考法則も判断力も十分に育成していない人が、その 状態のままで高次の自我を生み出そうとすると、その人は、これまでに 育成した思考能力だけしか通常の自我にゆだねることができない。秩序 だった思考を働かせることができないと、独立した通常の自我の中に、 無秩序な、混乱した思考や判断力が現われる。そのような人の場合、新 しく生まれた自我がまだ弱いものでしかないので、超感覚的に見ると、 混乱した低次の自我が支配権を獲得する。超感覚的なものを観察するに も、的確な判断を下すことができない。論理的な思考力を十分に育成し ていたならば、通常の自我を安心して独立させておくことができたはず なのである。 (…) とはいえ、ここに述べる霊的修行の場合には、思考生活をあらかじめ 育成することができるので、以上に述べた誤謬の危険に陥ることはあり えない。思考の育成は、そのために必要な内的体験のすべてを生じさせ る。しかも魂は、有害な幻想や錯覚を伴わずに修行を続けることができ る。この思考の育成がなければ、どんな霊的な体験も魂に不確かな印象 を呼び起こす。 (P340-341) ノートの42で、「人間には数学を学ぶことが可能である」ということを 理解していることが重要なのだということについてふれたが なぜそれが重要なのかもこの視点からみるとさらによくわかる。 「論理的な思考力を十分に育成」することのないままに、 非常に不安定な魂のままで高次の自我を生み出そうとすると、 通常の自我の混乱のなかでまるで嵐のなかをこぎ出す小舟のようになってしまう。 安全な航海のためには、通常の自我のレベルにおいて その魂の海をおだやかにしておく必要がある。 高次の自我はとくに最初はほんとうに小さな小舟で タンカーのような大型船では決してないので ちょっとした波風にも簡単に転覆してしまいかねないのである。 魂の海をおだやかにしておくのが「思考」の役割でもあり、 またそのことによって視界を良好なものにしておくことで 波風が引き起こすさまざまな「有害な幻想や錯覚」から 自由でなければならないのである。 |