ルドルフ・シュタイナー

『神秘学概論(GA13)』ノート

46 5つの魂の能力


2003.9.23

 

         高次の諸世界へ至ろうとする人は、修行を通して、以下の諸特性を身
        につけなければならない。特に必要なのは、魂が思考と意志と感情を支
        配することである。魂のこの支配能力を行によって獲得する方法は、二
        つの目標に向けられている。第一に、第二の自我が魂の中に生じたとき
        にも、不動心、信頼感、公平さを失わぬように、これらの特性を魂にし
        っかりと刻みておくこと。第二の目標は、この第二の自我に強さと内な
        る支えを賦与することである。
        (342)
 
「第二の自我」は最初はまだ萌芽のようなものなので、
それをしっかりと育てていく必要がある。
そのためにも第一の自我が思考と意志と感情の手綱を
しっかりととれていなければならないのである。
逆にいえば、自分の思考、感情、意志が暴れ馬のようになって、
どこにいくかわからない状態では、
その馬車は暴走してしまってどこに行くかわからない。
 
そのための5つの魂の能力についてここでは簡単にまとめられている。
 
・思考過程の制御
・意志衝動の統御
・快苦に対する平静さ
・世界理解における積極性
・生活態度における公平さ
 
最初の3つは思考、意志、感情に対する行、
4つめの「世界理解における積極性」は、思考と感情を結びつける行、
5つめの「生活態度における公平さ」は、思考と意志を結びつける行である。
 
まず、「思考過程の制御」のためには、「事実に即した態度」が求められる。
つまり、「内的な堅固さを持ち、対象にしっかりと留まり続ける態度を、
思考は身につけることができなければならない」。
 
この物質的、感覚的な世界には外的な対象があって
それらがおのずと私たちを規定するところがあるが、
霊的世界においてはそういった意味での外的な対象は存在しない。
従って、思考は自分で自分の軌道を修正しなければならない。
つまり、思考は「自分で自分に方向と目標を与える」ことができなければならない。
 
そのための「思考の行」として、身近で単純な対象を選んで、
数ヶ月の間、少なくとも毎日5分間は、
その「対象にしっかり留まり続ける」例が紹介されている。
そのとき必要なのは「内なる力によって具体的に思考すること」である。
みずからの思考が「自分で自分に方向と目標を与える」ためには
たしかに「対象にしっかり留まり続ける」というのはかなりな訓練になる。
 
続いて、「意志衝動の統御」。
そのためには、「自分みずからが下す命令に、
厳格に従う習慣を身につけなければらない」。
ここで紹介されているのはこんな例である。
 
        ひとつのすぐれた行は、数カ月間毎日きまった時間のために、自分に命
        じる。ーー今日、「この時間に」お前は「このこと」を実行するように、
        と。そうすると次第に、実行する時間と実行する内容を、その内容がま
        ったく正確になされうるように、命じることができるようになる。こう
        して、実行できるかどうかを考えずに、ああしたいと願う悪習慣から解
        放される。
        (P344-345)
 
けっこう耳がいたくなってしまうようなことなのだけれど、
たしかに、自分で自分に命じて正確に実行する習慣はなかなか身に付かず、
「ああだ、こうだ」と自分に言い訳しながら過ごしてしまうことが多い。
朝起きることだけでもそうなのだから、ほかのことは押して知るべしである。
できれば、あまり意味のありそうなことではなく、
意味のなさそうなことでこれを実行するのがむしろ力になるようなのだけれど、
ぼくにはなかなかむずかしそうなので、
たとえば毎朝きまった時間になにかをするように心がけるなどから
あれこれやってみたりもしているのだけれど、これもむずかしいかぎりで、
すぐに面倒くさくなってしまう悪癖からはなかなか逃れられそうもない。
 
続いて、感情に対する制御としての「快苦に対する平静さ」である。
 
心情に落ち着きを与えるためには、
快と不快などに対する「表現」を統御できるようにしなけれなならない。
喜びや悲しみなどに対して鈍感になる必要があるというのではなく、
あくまでもその表現に対する統御である。
感じたことを思わず外にあらわしてしまわないようにする。
むしろそのことによって、「以前よりも周囲の喜び、悲しみのすべてに対して、
鈍感になるどころか、一層感じやすくなる」。
一見感情が豊かにみえている人は実際はそうではなく、
自分の感情に対しても、他者の感情に対しても、むしろ鈍感なのだ。
 
心情に落ち着きを与えるためには、
「長期間にわたって、自分自身をよく観察しなければならない」。
逆にいえば自分自身をよく観察していれば
快不快のなかに自分を無自覚に放置しておくことはできなくなる。
 
さて、さらに、思考と感情を結びつけるための「世界理解における積極性」の行。
 
ここで紹介されているのは、有名なイエス・キリストの美しい物語。
死んだ犬のそばを通りかかったとき、ほかの人たちは顔を背けたのだけど、
イエス・キリストは「なんと美しい歯をしているのだろう」と賞賛したのである。
 
         この物語が述べている魂の在りようで世界に向き合うとき、ひとつの
        修行の道がひらける。誤謬、悪、醜があるからといって、真、善、美を
        そこに見出そうとする態度をあきらめてはならない。この肯定的な態度
        を、無批判的な態度と混同してはならない。悪や偽や、人の不幸に対し
        て安易に目を閉ざすことを求めているのではない。死んだ動物の「美し
        い歯」を賞賛する人は、腐敗したその死骸をも見ている。しかし死骸が
        美しい歯を診る妨げになってはいない。悪を善と見、偽を真と見ること
        は許されない。しかし善と真を見る眼を悪と偽によって曇らされてはな
        らない。
        (P347-348)
 
この「世界理解における積極性」の大切さは
いくら強調しても強調しすぎることはないだろう。
ともすれば、悪や偽の前で、人はあまりに感情的に拒否反応が強くなって、
そこに思考は働かなくなってしまう。
逆にいえば、真、善、美をただしく見ることができるということは
誤謬、悪、醜に対してもしっかりと
眼を開いていなければならないということである。
先の感情の行にもあったが、自分自身をよく観察するということが
そこでも非常に重要になってくる。
そして、思考の行にもあったように、「事実に即した態度」が必要となる。
そうでなければ、真、善、美を理解することもできなくなるのである。
 
そして最後に、思考と意志を結びつけるための「生活態度における公平さ」の行。
 
        これまで体験したことによって、新しい体験の自由な受容が邪魔されな
        いようにする必要がある。霊的修行者は、「そんな話は聞いたことがな
        い。とても信じられない」、と考えてはならない。どんな機会にも、ど
        んな事象からも、新しいメッセージを受けとろうとする時間を持たねば
        ならない。その時間内に、これまでにない新しい見方をしてみるなら、
        どんな風のそよぎからも、どんな木の葉からも、幼児のどんなつぶやき
        からも、何かを学ぶことができる。
        (P348)
 
このこともとても重要であって、ぼくの場合にも、
10年以上前にこの「神秘学遊戯団」をはじたとき
繰り返し基本コンセプトとしていうようにしていたのが
「何からでも学べる」ということだった。
ちなみに、基本コンセプトのもうひとつが「嫌いでも理解」だった。
これは先の「世界理解における積極性」にあたる。
 
じっさい、「何からでも学べる」と思えないと、
今現在の自分の思い込みでつくっている世界がすべてになってしまう。
そしてその世界にないものはまさに
「そんな話は聞いたことがない。とても信じられない」となってしまう。
こうしたシュタイナーの神秘学にしても理解しようなどとは思わず、
「霊」とか「キリスト」とかやっぱり受け入れられない、となる。
受け入れる必要はないけれど、理解する必要があるということが
そうした人にはわからないのである。
つまり、世界理解に対しても「公平さ」を著しく欠いている。
 
以上、5つの魂の能力について、
これまでのノートよりも、比較的に詳しくご紹介してみることにした。
この5つの項目は、霊的修行云々を別としても、
できればいつも意識しておくようにしたいものである。
 


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