ルドルフ・シュタイナー

『神秘学概論(GA13)』ノート

5 魂


2002.2.11

 

         アストラル体がみずからを自由な状態におけば、快と不快、飢えと
        渇きがそこに現われるであろう。しかしその場合は、これこそが持続
        的なものだ、という感情は現われない。その場合、持続そのものでは
        なく、持続を体験するものが「自我」なのである。
        (…)
         眼の前の対象を意識化するのは、アストラル体の働きである。しか
        しその意識を永続的なものにするのは、魂なのである。しかし今述べ
        たことからもすぐ分かるように、人間の中ではアストラル体と、意識
        を持続的なものにする魂の働きとが、深く結びついている。その魂の
        働きとアストラル体とは、人間のいわば同じ本性となっている。した
        がって、この両者をも「アストラル体」と呼ぶことができる。しかし
        さらに正確な言い方をしようとするなら、人間のアストラル体を「魂
        体」と呼び、アストラル体に結びついている魂を「感覚魂」と呼ぶこ
        ともできる。
         自我が対象を意識するだけでなく、更にその意識に働きかけを行う
        とき、自我の本性は一段高次の段階に上る。この活動を通して、自我
        は、知覚の対象からますます離れて、自分の所有しているものの中で
        働くようになる。そうすることのできる魂の部分は、悟性魂もしくは
        心情魂と呼ばれる。
         感覚魂も悟性魂も、感覚的に知覚された対象の印象を受けとり、そ
        れを記憶に保持するが、その時の魂は、自分の外なるものに完全に帰
        依している。記憶を通してみずからの所有物にしたものも、魂は外か
        ら受けとったのである。
         しかし魂は、こうしたすべてを超えていくことができる。魂は感覚
        魂と悟性魂だけではない。超感覚的な直観は、ひとつの単純な事実に
        眼を向けることによて、このさらなる魂の行為についてのイメージを、
        容易につくることができる。
        (…)
         人間はみずからの内に、神的なものを見出すことができる。なぜな
        ら、人間のもっとも根源的な存在部分は、神的なものからとってこら
        れたのだから。このように人間は、みずからの中の神的なものを通し
        て、魂の第三分肢を獲得する。アストラル体を通して、外的な意識を
        獲得するように、自我という、みずからの中の神的なものを通して、
        自分自身についての内的な意識を獲得する。それゆえ、神秘学は魂の
        この第三分肢を「意識魂」と呼ぶ。そして神秘学の意味において、魂
        は感覚魂、悟性魂、意識魂の三分肢から成り立っている。同様に体は、
        肉体、エーテル体、アストラル体の三分肢から成り立っている。      
        (P66,69-70,72)
        
心と体、または心さえ体から生み出される現象のようにとらえる仕方が
あたりまえのようになってしまっている現代では、
「魂」という言葉は、どのようにとらえていいか
わかりにくくなっているように見える。
池田晶子が「魂を考える」という著書をだしているが、
現代人にとって「魂」は新たに発見しなければらない類のものになっている。
 
もちろんここで「魂」と使われているのは
霊ー魂ー体という三分節からきている。
現代においては、「魂」や「霊」という言葉は違和感を伴うらしく、
抽象的にそれらを「こころ」「いのち」とかいう言葉に置き換えて
なんとかそれらを扱おうと試みることもあるようだけれど、
そういう言葉の置き換えは、むしろすべてをあいまいにさせてしまうことになる。
 
それでは、「魂」とは何かということになるのだけれど、
それをアストラル体との違いとしてとらえるならば、
上記の引用部分にもあるように、シュタイナーは
「眼の前の対象を意識化するのは、アストラル体の働きである。
しかしその意識を永続的なものにするのは、魂」であるとしているが、
人間の場合は、アストラル体とそれに結びついている「感覚魂」があり、
それによって対象を意識するとともにそれを持続的なものとすることができる。
また、「悟性魂」においては、対象を意識するその意識に働きかけることができ、
さらに「意識魂」においては、対象へ依存している意識ではなく、
おそらくいわば対象のない思考をも可能にするような、内的意識が可能になる。
そのように「魂」ということをとらえる際には、
その3つの働きについてとらえる必要がある。
 
ところで、人間の構成要素においては、
肉体を鉱物界と共有し、エーテル体を植物と共有し、
アストラル体を動物と共有しているといわれているのだけれど、
そこには大きな違いがあることを見落とすことはできない。
たとえば、「人間存在一人ひとりに於いて、アストラル体は2層である」
「「私」が、自我が、3つの体に作用して初めて、
人は真の意味で自らの使命を果たすのです。」
(「薔薇十字の秘教」第3講「人の性質と存在1909年7月5日 ブダペスト)
といわれているように、人間はみずからの肉体、エーテル体、アストラル体に
自我によって働きかけそれを変容させることができるわけです。
そこに大きな違いがあるといえる。
 
ところで、シュタイナーは、人間を、
体的な要素である肉体、エーテル体(生命体)、アストラル体、
魂的な要素である感覚魂、悟性魂、意識魂、
霊的な要素である霊我、生命霊、霊人、
というふうに三分節及び9つに区分してとらえている。
また、感覚魂とアストラル体、悟性魂と自我、意識魂と霊我を
それぞれアストラル体、自我、霊我としてとらえて、
肉体、エーテル体(生命体)、アストラル体、自我、霊我、生命霊、霊人
というふうに7つに区分してとらえることもできる。
 
これに関して、以前から少し疑問に思っていることがある。
上記の引用にもある『神秘学概論』の「人間性の本質」の章では、
「私」をどちらかといえば意識魂的にとらえていると思われるのだけれど
7つに区分してとらえたとき、
悟性魂と自我とをいっしょにしてとらえているというのは
どういうことなのだろうか。
これに関しては、今後、別の角度からも考えてみたいところでもある。
 
さて、こうした人間の構成要素に関しては、
訳語が難しいところもあるので、
原文ではどのように表現されているのかを確認しておくことにする。
 
体                       Leib
肉体                     Physischer Leib
エーテル体(生命体)     Aetherleib(Lebensleib)
アストラル体             Astralleib
魂                       Seele
感覚魂                   Empfindungsseele
悟性魂(心情魂)         Verstandesseele(Gemuetsseele)
意識魂                   Bewusstseinsseele
自我                     Ich
霊                       Geist
霊我                     Geistselbst
生命霊                   Lebensgeist  
霊人                     Geistmensch    
 
 


 ■シュタイナー研究室に戻る

 ■神秘学遊戯団ホームページに戻る