ルドルフ・シュタイナー

『神秘学概論(GA13)』ノート

7 縛りに気づき問い直すこと


2002.2.16

 

今回は、「眠りと死」の章より。
 
         人間の覚醒意識の本質を解明するには、人間の睡眠状態が観察でき
        なければならない。そして人生の謎を解くためには、死が考察できな
        ければならない。超感覚的な認識の意味が分からない人は、この認識
        が眠りと死をどう考察するにしても、それをいかがわしいものと思う
        であろう。超感覚的認識は、いかがわしいと思う理由を認めるのにや
        ぶさかではない。なぜなら、人間は充実した人生を積極的にすごすた
        めに存在しており、人間の創造行為は、この世の人生に没頭すること
        に基づいているという言い方も理解できなくはないのである。
        (P85)
 
なぜ生のこともまだわからないのに死について語ることができるだろうか、
というのはもっともなことであるし、
生をなおざりにするために情緒的に死に近づくよりは、
生に積極的なぶんだけいいだろう、
というのも納得できないことはないのだけれど、
今自分が見えているものだけ、意識できるものだけを
世界のすべてであるかのようにとらえてしまうとするならば、
その生さえも断片的なものでしかなくなってしまうのも確かである。
 
死を考察しないがゆえに、多くの人は死に際して
(「死」に直面するには、一人称における「私の死」、
二人称における身近な人の死、そして三人称における一般的な死があるが)
すでにその意味もわからなくなっている形式的な儀式に
機械的に対応する以外にすべがなくなっているように見える。
 
少しでも葬儀やその後の墓という形式に疑問を持つならば、
死んですべてが終わると考える場合、
それらはすべてまったくの茶番でしかないし、
死後の真のプロセスを理解しようとする場合でも、
現在行なわれている慣習というか風習は、
あまりにも滑稽なものであるとせざるをえないように思える。
 
神秘学的な意味での眠りや死へのアプローチではないが、
フロイト以降の「無意識」の探究というのは、
少なくとも今自分が見えているものだけ、意識できるものだけを
世界のすべてであるとすることをなくする意味では
そうしたアプローチの出発点とはなりうるかもしれない。
しかしいわゆる深層心理学的なアプローチによって、
生と死を貫く世界の秘密に迫るには
その限定された領域と方法論ゆえに、かなり無理があるように思えるし、
中途半端に正しい部分をもっているがゆえに、
それ以外の部分への錯誤が生まれやすくなってしまう。
そうした錯誤にはかなり注意が必要であるように思う。
 
さて、上記の引用にあるように
「人間の創造行為は、この世の人生に没頭することに基づいている」
ととらえる仕方の意味とその限界とは、
本章にあるつぎのような二つの例えで理解することもできる。
 
         家を建てるには、レンガをひとつずつ積み重ねていかなければなら
        ない。だから出来上がった家の形態や構造を、純機械的な法則に従っ
        て説明しても一向にかまわない。人がそう説明するのなら、超感覚的
        な認識もまたそれをすべて承認する。しかし家を建てるには、建築家
        がそれを設計しなければならないが、物質的な法則だけをいくら調べ
        ても、その設計思想はどこにも見出せない。
        (P93)
 
         ある人物の人格が遺伝的特質から生じる、という主張は、時計の金
        属部分がおのずと集まって時計になる、という主張と同じようなもの
        である。けれども、時計の金属部分がおのずと集まって、時計の針を
        先へ進めることなどできない、針が進むのは、霊的な何かがそこに働
        いているからに他ならない、と言うのと似た仕方で、霊界について語
        る人が多い。そのような言い方よりも、時計の針を先へ進める神秘的
        存在のことなどには全然興味がない、時計の針を先へ進める機械的な
        仕組みを知ることで十分だ、という人の方が、はるかに説得力がある。
         時計のような機械の背後に霊的存在(時計屋)が存在するというこ
        とが大切なのではなく、時計屋の精神の中にあらかじ時計についての
        思考内容が存在していなければ、時計は造れない、ということが大切
        なのである。そしてその思考内容は、機械そのものを通して確認でき
        るものでなければならない。
        (P130)
 
唯物論的なアプローチの問題点は、
ごくごく単純にいえば、この宇宙が偶然によってたまたま存在している、
と考えることそのものがはらんでいる矛盾ということでもある。
史的唯物論において述べられるような歴史の展開のようなものも
その理念がどこからきたのかを問わざるをえなくなるはずなのだけれど、
そこだけは見ないふりをしなければならない場所になる。
そのそも「唯物論」という「考え」そのものが意味を持たなくなる。
 
また、「べき」、ドイツ語でいえばsollenということは
単に、人間関係の調整論以外の何者でもなくなってしまい、
たとえば「人を殺してはならない」というのも、
人間関係を円滑にするためにそれに対して罰則を設ける、
という以外のものではなくなる。
つまりは他者にばれなければなにをしてもいいということになる。
 
そうしたことの影響で、
いわゆる理論と実践の乖離というか、
そういう二分法がつくられてしまうことになる。
目にみえることをしないと実践ではないということにされ、
それがなくては成立しないはずの「思考内容」が
なおざりにされたままになってしまうことになる。
しかし、実際のところ、そうした「実践」と名づけられた場所では、
固定化されているがゆえに、
それが人を縛ることになってしまうような、
問い直してはならない「思考内容」が無意識のうちに働くことになる。
 
神秘学的なアプローチは、そのような、
それと気づかずに自分を縛っているものの多くに気づかせてくれる。
生と死、覚醒と眠り、夢、といった
切り離されたままになってしまっているものを、
その根底から問い直そうとする。
 
 


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