ルドルフ・シュタイナー

『神秘学概論(GA13)』ノート

8 眠りについて


2002.2.17

 

         人間が睡眠に陥ると、その本性部分の関連に変化が生じる。眠って
        いるとき、ベッドに横たわっている人間は、肉体とエーテル体を含ん
        でいるが、アストラル体と自我とを含んではいない。睡眠中は、エー
        テル体が肉体と結びついているおかげで、生命が活動し続ける。肉体
        は、もしも単独で存在するようになったら、その瞬間に崩壊し始める
        であろう。けれども睡眠中は、思考内容も、快と苦も、喜びも悲しみ
        も、意識して意志を行使する能力も、消えてしまう。これらすべての
        担い手は、アストラル体なのだが、あらゆる快と苦、あらゆる思考世
        界と意志世界を伴ったアストラル体が、睡眠中は破壊されている、と
        は誰も考えない。アストラル体は、ただ、別の状態において存在して
        いる。人間の自我とアストラル体とは、快と苦その他のすべてを担っ
        ているが、そのことを意識するためには、アストラル体が肉体、エー
        テル体と結びついていなければならない。覚醒時のアストラル体は、
        そのような在り方をしており、睡眠中のアストラル体は、そのような
        在り方をしていない。アストラル体は、肉体、エーテル体から抜け出
        ているとき、肉体、エーテル体に結びついているときとは異なる在り
        方をしている。
        (P87-88)
 
眠るというのは、自我とアストラル体が
肉体、エーテル体から抜け出るということであり、
その際、意識が失われてしまうのは、
現段階の人間が、物質的器官によって知覚するしかないからである。
我々の通常の覚醒意識というのは、
アストラル体が肉体、エーテル体に結びつくことによって可能になる。
死の際には、生命体とも呼ばれるエーテル体が肉体から抜け出てしまい、
肉体の崩壊が始まることになる。
 
では、眠っているときに肉体、エーテル体から抜け出たアストラル体は
いったいどこに行っているのだろうか。
 
         肉体が物質世界に組み込まれているように、アストラル体はアスト
        ラル界に従属している。ただ覚醒時の生活におけるアストラル体は、
        アストラル界から切り離されている。その事情は、次のような類比に
        よって暗示できる。
         水の入っている容器を考えてみよう。その水中の一滴は単独では存
        在していない。けれども海綿を手にして、その水の中から、一滴の水
        をそれに浸み込ませることはできる。人間のアストラル体も、目覚め
        るときに、同じ様な経過を示している。睡眠中のアストラル体は、自
        分と同質の世界の中にいる。目覚めるとき、肉体とエーテル体がアス
        トラル体を吸い込み、みずからをアストラル体で充たす。それらはア
        ストラル体のために、外界を知覚する諸器官を提供する。しかし、ア
        ストラル体は、外界を知覚するために、自分の世界から切り離されね
        ばならない。ただ、自分の世界からは、エーテル体のために必要とな
        る手本だけを受け取る。
        (P91-92)
 
アストラル体は本来アストラル界に属している。
これは、肉体が物質的世界に属していて、
その世界から切り離されては存在しえないようなもので、
シュタイナーはそれを
「指が人体の一部であるのに似ている。
指を手から切り離してしまえば、
指は指であうことができず、干からびてしまう」
というふうに表現している。
 
では、人はなぜ眠るのだろうか。
眠らなければ生きていけないのだろうか。
 
         人体の形姿は人間のエーテル体によって維持されている。しかしエ
        ーテル体は、その人体の形姿を維持するのに必要な力を、アストラル
        体から受け取る。エーテル体は肉体の彫刻家であり、建築家であるが、
        その形成の仕方をアストラル体から受け取るのでなければ、正しい形
        成は行なわれない。アストラル体の中には、エーテル体が肉体を形成
        する際の手本が存在している。
         ところが、覚醒時のアストラル体には、人体を形成するのに必要な
        この手本が、完全にはそなわっておらず、それがあったとしても、あ
        る程度までにすぎない。なぜなら、覚醒時の魂は、そのような手本を
        提供する代わりに、自分自身の中に現われる模像を提供しているから
        である。感覚を働かせて周囲を知覚している人は、その知覚活動を通
        して、自分のこころの中に周囲の世界の模造を形成している。その模
        像は、肉体を維持するためにエーテル体が必要とする形象を妨害する
        働きをしている。もしも人間が、エーテル体のために役立つ形姿を、
        アストラル体に生じさせることができたとしたら、そのような妨害は
        存在しなくなるだろう。
        (P89-90)
 
アストラル体は、眠りの間に、
アストラル界から「エーテル体が肉体を形成する際の手本」を受け取り、
目が醒めて後、エーテル体にその「手本」を渡す。
従って、眠らないとその人体の形姿を維持することができなくなるのである。
 
ふつうなぜ人は眠るのかといえば、
起きていると疲れてしまうから
その疲れをとるためだというふうに説明されていたりするようだけれど、
その説明はあまり説得力のあるものではない。
 
この「疲労」に関して、シュタイナーは巻末の「註」で、
次のように説明している。
 
         眠りと疲労の関係については、たいていの場合、事実に基づいた考察
        がなされていないので、眠りは疲労の結果おとずれる、と考えられてい
        る。しかしそう考えるのでは単純すぎる。興味のない話を聞かされたよ
        うな場合、全然疲れていなくても眠ってしまう。そういうときこそ疲れ
        るのだ、と言う人は、真剣に認識しようとしないで、そう語っているに
        すぎない。
         目覚めと眠りは、振り子が左右に振れるときのようにリズミカルな仕
        方で、魂と体との関わり方を変化させている。このことを先入見を持た
        ずに観察すれば、魂が外界の印象を十分に受け取ったとき、自分の身体
        を十分に味わうために、別の状態へ移りたいと欲していることがわかる。
        外界の印象にふけることと自分の身体にひたること、魂はこの二つの状
        態を繰り返している。前者の状態にいる魂は、もちろん無意識に後者の
        状態を欲するようになる。そして後者の場合は、もちろん無意識に経過
        する。自分の身体を味わいたいと欲することのあらわれは、疲労である。
        したがって、眠りたいから疲れを感じるのであって、疲れを感じるから
        眠りたくなるのではない。
         人間の魂は、通常の生活習慣において必ずおとずれるこの二つの状態
        を、自分の恣意に従って呼び起こすこともできるから、外からの印象を
        受け取らなくても、自分の身体を味わいたいと願うことができる。つま
        り、魂の内なる状態が求めるのではない場合にも、眠ってしまうことが
        ありうる。
        (P447-448)
 
たしかに、疲れるから眠る、というのは説明になっていなかったりする。
たとえば物質的に疲労の物質がたまるからといって
それが眠る原因であるということにはならない。
むしろ、疲れすぎていると眠れなくなることさえある。
 
シュタイナーは、「振り子が左右に振れるときのようにリズミカルな仕方」
という説明をいろんなところで用いているようだけれど、
この目覚めと眠りについても、そういうリズムとしてとらえるときに
はじめてその宇宙的な意味が理解されるのではないだろうか。
        
さて、この項の最後に、『神秘学概論』では説明されていないのだけれど、
眠っているときの肉体とエーテル体には、
自我とアストラル体が存在していないのだろうか?
という疑問について少しだけ見ておくことにしたい。
 
つまり、眠っているときに、
人が肉体とエーテル体だけの存在になっているのだとしたら、
まさに植物とまったく同じであるということになるのだけれど、
それだけではなさそうだというのは
だれでも直感的に感じることなのではないだろうか。
 
もちろん、自分のアストラル体と自我は、
肉体とエーテル体を抜け出てしまうのだけれど、
その代わりをするものがありそうだということ。
そのあたりについて、ちょうど先日、佐藤公俊さんの訳された
『薔薇十字の秘教』第3講「人の性質と存在」のなかで
興味深くふれられている。
 
         夜眠っている人は、言わば、昼の植物のレベルに降下しているので
        す。人は2層存在になります。物質体とエーテル体は寝床にあり、ア
        ストラル体と自我は外にあります。皆さんは、それでは眠っている人
        は植物であると言えるのだろうかと、お尋ねになるかも知れません。
        そうではありません。しかし、その時人と植物は同じ体の組成で出来
        ているのです。地上で物質体とエーテル体だけを持つ存在は、植物で
        す。アストラル体と自我が存在すると、物質体とエーテル体は変化を
        受けます。植物には神経網は存在しません。暖かい血があるのは、自
        我を持つ物質体だけです。高等動物は、原人間の退化した形態と見な
        されねばなりません。物質体で自我は血液に表出します。アストラル
        体は神経に、エーテル体は腺組織に、人の物質的性格はその体に、表
        出します。ですから、もしアストラル体が神経組織の創造者なら、事
        実そうなのですが、この神経組織は悲痛な状況にあります。睡眠中に
        それはその創造者に見捨てられているからです。腺組織の場合は事情
        が違います。エーテル体はそれとともに留どまるからです。しかし物
        質体とエーテル体の血液組織は、夜、無慈悲に自我に見捨てられます。
        物質体は自分自身で存在出来ます。なぜなら物質的性質は同じままだ
        からです。それは腺組織の場合も同じです。エーテル体は睡眠中も物
        質体の中に留どまるからです。ところが、神経組織はその主に見捨て
        られます。霊視意識に、その時、何が物質体に起きているのか、聞い
        てみましょう。人のアストラル体が夜に物質体とエーテル体から出て
        行く、ちょうどそれと同じ度合いだけ、「神的で霊的」アストラル体
        が寝床に横たわっている体に移行するのです。同じ事が血液組織にも
        当て嵌まります。神的ー霊的自我がその中に入り、その維持をします。
        夜にも、人は4層存在なのですが、高次の存在たちが寝床に残る2つ
        の体を所有するのです。朝になって人のアストラル体と自我がエーテ
        ル体と物質体に帰って来ますと、彼自身のアストラル体は偉大な力の
        存在を追放します。同じ事が血液組織の場合にも生じます。人の自我
        は、夜の間、血液組織を維持してくれた神的ー霊的自我を駆逐します。
         神的ー霊的存在たちはいつも私たちの周囲に存在しています。昼間
        彼らは退かねばなりません。ちょうど私たち自身が夜には退出しなけ
        ればならないのと同じです。こうした神的ー霊的存在たちは昼間は眠
        ります。一方人間存在たちは夜に眠ります。夜に神的ー霊的自我と神
        的ー霊的アストラル体は、寝床に眠る人の物質体とエーテル体の中に
        入り、朝にこれらの体を去って行きます。人の過程は正反対です。夕
        べに人は体を見捨てて、朝にそれらの所有を回復します。様々な宗教
        に、神々は昼間眠るという感情がまだ残っています。神々が一番深い
        眠りに落ちているといって正午に教会を閉める国もあるのです。
        (ルドルフ・シュタイナー『薔薇十字の秘教』第3講
        「人の性質と存在」1909年7月5日 ブダペストより/佐藤公俊訳)
 
 


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