人間が新たに地上に生まれてくるとき、地球が前の人生におけるとき と同じ姿をしていることは、決してない。人間が死後、地球から離れて いる間に、地球上ではあらゆる可能な変化が生じている。 地球上のこの変化には、隠された諸力もまた働いている。その諸力は、 死後の人間のいる世界から働きかけている。そして死後の人間もまた、 地球のこの改造に協力して働いている。 人間が生命霊と霊人とを生み出し、霊的なものとその物質的表現との 関連が意識できるようになるまで、人間は高次の本性たちの指導の下で その働きを行なっている。人間は地球の状況を変化させるために、死か ら新たな誕生にいたる期間にも高次の本性たちと共に働き、地球を改造 し、自分自身の進化にふさわしい状況を用意しているのである。 ある時代の地上と、その後の長い時代を経てすっかり変化した地上と の違いを生じさせたのは、死者たちの働きである。死から新たな誕生に 至る間、死者は地球とも結びついているのである。 超感覚的な認識は、すべての物質存在の中に、隠された霊的なものの 開示を見る。肉眼で観察する場合、太陽の光や気候の変化などが、地球 を変化させている。超感覚的に観察する場合、太陽から植物に降り注ぐ 陽光の中に、死者たちの力が働いている。人間の魂が植物の周囲をただ よい、地上を変化させている。死後の人間は、自分自身の来たるべき地 上生活のための準備をしているだけではない。地上の人間が物質的に働 くように、死後の人間は、外界に対して霊的に働いているのである。 (P123-124) 神秘学を学んでいると、 死者のイメージがかなり変わってくる。 ひとつには、死そのものを、 「すべておわり」というような否定的にとらえることがなくなる。 実際のところ、霊界からみれば、死のほうがむしろ誕生なのだから。 それから、死んでけっこう長い間迷っている人もいるとしても、 死後から再誕までの間の人間もいろいろ忙しく、 この地上世界とも深く関係しているということがわかってくる。 ここに述べられているように、 死者は新たな誕生までの間、地上に働きかけ続けている。 死者はとってもクリエイティブなのだ。 むしろ地上でこうして生きているほうが、 ともすれば亡霊のような存在にもなりかねない。 しかし、そういう視点だけだと、 地上世界はいわゆるグノーシス的にばかりとらえられてしまう。 やはり、この地上で生きる意味をしっかり認識する必要がある。 実際のところ、この地上における認識がいかに深まるかに応じて、 霊的世界での在り方が変わってくる。 生きている間にわからないことが、 死後わかってくるということは 認識的には基本的に望めないということでもある。 そういう意味でも、こうして生きている間に、 霊界でできなかったことの種を蒔き できるだけ成長させておくということが非常な課題となる。 地上は霊的存在が創造的進化を遂げるための 反射板のような働きをしているともいえるのだ。 そしてその反射板はただ反射するだけではなく、 「自由」に反射の在り方を創造することも可能なのである。 人間は霊界から物質界の状況に働きかけているだけではなく、逆に物 質界での活動を通して霊界に働きかけている。…霊的な絆は、物質界の ためだけではなく、霊界のためにも織られる。…物質界において霊的な 働きによって織られたものは、霊界においても存在し続ける。この世で 深く結ばれ合った友人たちは、霊界においても、その結びつきを継続す る。そして人体から離脱したあとは、物質界での生活におけるよりも、 はるかに深く結びつく。なぜなら、すでに述べたように、霊的存在が他 の霊的存在に、その存在の内部を通してみずからをあらわすように、霊 となった友人同士も、互に相手の内部を通して結びつきをあらわすから である。そして、二人の間で織られた絆は、次の人生においてもその二 人を再び結びつける。それゆえ、言葉の真の意味で、人間は死後におい ても再会を果たすことができる。 (P124-125) こういう永遠の友情関係というのも、うれしいところで、 生まれ変わり、関係を変化させながら、 ともに手を携えていけるというのは非常な希望ともなる。 イエスを「友なるイエス」と呼ぶこともあるように、 「友」であるということには永遠の価値があるのである。 そういえば、バッハのカンタータなどを聴いていても、 イエスのことはSieではなくduで呼ぶことが多い。 このように、神秘学を学んでいくことによって、 死者のイメージが根本的に変わるとともに、 地上的に形式化されてしまった関係性ではなく、 「友である」ような関係性こそが 永遠であるということもわかるようになる。 |