ルドルフ・シュタイナーの年譜と歩み

(91/11/06作成)


<ルドルフ・シュタイナーの年譜>


*参考/高橋巌:若きシュタイナーとその時代

1861 2月27日クラリエベック(現在ユーゴスラビア領)に誕生

1863 父、ヨハン、ポットシャッハに勤務。

1869 ノイデルフルでの青年時代

1872 ウィーナー・ノイシュタットの実業学校へ入学

1879 ウィーン工科大学入学。ゲーテ研究を始める。

 薬草売りのコグツキーに出会う。

1882 キルシュナーの「国民文庫」に「ゲーテ自然科学論文集」を編纂。

1884〜90 ウィーンのシュペヒト家の家庭教師

1886 「ゲーテ的世界観の認識論要綱」

1886 「ドイツ週報」編集長。

        ウィーンのゲーテ協会で「新しい美学の父としてのゲーテ」を講演。

1890 秋にワイマールへ移住。

        「ゲーテ・シラー文庫」に非常勤勤務。

        ヘルマン・グリム、エルンスト・ヘッケルらと交流。

1892 学位論文「真理と科学」刊行。

1894 「自由の哲学」

1895 「フリードリヒ・ニーチェ/反時代的闘士」

1897 「ゲーテの世界観」。ベルリンへ移住。

1899 アンナ・シュル=オイニケ夫人と結婚。

1899〜 労働者養成学校講師

   1904 

1900 「19世紀の世界観と人世観」。

        ブロックドルフ伯爵邸の「神智学文庫」で講演活動を始める。

1901 「神秘的事実としてのキリスト教」と題して「神智学文庫」で講演。

                                 (25回) 

1902 「神秘的事実としてのキリスト教と古代秘儀」

        神智学協会ドイツ支部事務総長に選ばれる。

        雑誌「ルチフェル」(後の「ルチフェル・グノーシス」)編集長。

1904 「神智学」

1904〜05 「いかにして超感覚的世界の認識を得るか」「アカシャ年代記より」。1910 「神秘学概論」

1910〜13 「神秘劇」4部作とミュンヘンにおける上演。

1911 ボロニアの国際哲学会議で「神智学の心理的基盤と認識論的立場」を

        講演。「個人と人類の霊的指導」。

        アンナ・シュタイナー死去。

1912 「人間の自己認識への道」「魂のこよみ」

    オイリュトミー誕生。

人智学協会設立。

マリー・フォン・ジーフェルスと結婚。

1915 ゲーテアヌム完成。

1916 「人間の謎」

1919 「現在と未来を生きるに必要な社会問題の核心」

シュトゥットガルトにおいて自由ヴァルドルフ学校創設。

1920 医者のための第1字講習会。

ゲーテアヌムのオープニングと人智学大学の活動開始。

1922 キリスト者共同体(宗教改革運動)の出発。ゲーテアヌム焼失。

1923 一般人智学協会の設立とゲーテアヌムにおける大学諸部門の開始。

1924   新しい人智学的秘教的活動の開始。

       第2ゲーテアヌムのためのモデルづくりと新建築の開始。

       「生物学的動的農法」の創始。治療教育運動の開始。

       言語形成と演劇のための講習会。

1925   「霊学的認識による医学改新の基礎」

1923〜25 「自伝」

1925   3月30日。ドルナッハに没す。

 

<ルドルフ・シュタイナーの歩み>


*ベースにしたのは、F.カルルグレン:ルドルフ・シュタイナーと人智学(高橋弘子訳/創林社)です。年代ごとに順に、シュタイナーの歩を辿っていきます。

シュタイナーと人智学・第1回


(91/11/15作成)

●第1生活期/1861〜1889(18歳まで)

1861 2月27日クラリエベック(現在ユーゴスラビア領)に誕生

1863 父、ヨハン、ポットシャッハに勤務。

1869 ノイデルフルでの青年時代

1872 ウィーナー・ノイシュタットの実業学校へ入学

1879 ウィーン工科大学入学。ゲーテ研究を始める。

 薬草売りのコグツキーに出会う。

1882 キルシュナーの「国民文庫」に「ゲーテ自然科学論文集」を編纂。

1884〜90 ウィーンのシュペヒト家の家庭教師

1886 「ゲーテ的世界観の認識論要綱」

1886 「ドイツ週報」編集長。

        ウィーンのゲーテ協会で「新しい美学の父としてのゲーテ」を講演。

●シュタイナーは7歳の頃、肉体の眼や耳とは違う別の視覚と聴覚で、「見」そして、「聴く」体験をし、それ以降、内なる魂にある霊的な存在とふれあうようになる。

●小学校の最初の数年間、授業には無関心。夢想的に過ごす。

●12歳のとき、「原子と分子に関する論文」に出会ってから、知的に目覚め、自然科学の文献を読み始め、「優等生」と呼ばれるようになる。

●14歳、哲学、とくにカントの「純粋理性批判」を繰り返し読む。

●1879年、「ひとりの薬草収集家」と出会い、霊界について語る機会を得、これを通じ、「霊的指導者」と知り合いになる。

●1879年秋、ウィーン工科大学に入学し、生物学、科学、物理学を学ぶ。「彼は、大学で学ぶ自然科学と、自己の内部で体験する自分の霊的観照とのあいだになんらの接合点もみいだせなかった。」

●文学史教授、K.J.シュレーヤーを通じて、ゲーテの存在を知り、その光学、植物学、解剖学を学び、自然科学者としてのゲーテを発見する。

「霊を否認する近代自然科学の観察方法は、根本的には自然における生命のないものだけを把握し、決して生命あるものを把握していないこと、同時に、ゲーテがその自然科学的著書において有機てきなものの実用的な研究方法をしめし、それによって自然と霊のあいだの接合点をしめしたことを次第に確信するようになった。」

●1883年、キュルシュナー教授の誘いで、「ドイツ国民叢書」のなかの自然科学論文 の出版の手伝い。

●工科大学卒業後、ウィーンの裕福な商人の息子の住み込みの家庭教師に(6年間)。その10歳の息子は、脳水腫で、知能の発達が著しく遅れていたが、この少年は後に医師になるまでに回復、成長することになる。かれはこれによって、「生理学および心理学の私本来の研究をやりとげた」。

 

シュタイナーと人智学●第2回


(91/11/18 作成)

●第2生活期/1890〜1896(29〜35歳)

1890 秋にワイマールへ移住。

        「ゲーテ・シラー文庫」に非常勤勤務。

        ヘルマン・グリム、エルンスト・ヘッケルらと交流。

1892 学位論文「真理と科学」刊行。

1894 「自由の哲学」

1895 「フリードリヒ・ニーチェ/反時代的闘士」

*この間、「ショーペンハウエル全集」「ジャン・パウル全集」の編集も。

●ワイマールでの新生活。ゲーテ全集の校訂。自然科学論文の編纂。研究者、文学者、芸術家、他の文化人との親しい交流。

●ゲーテの認識方法の再確認。

「事物を包括し霊的に洞察するゲーテの思考及び探求が、なぜに特殊な自然領域における個々の発見につながったか、あきらかになるはずだった。私にとって重要だったのは、そうした自然科学上の個々の発見それ自体ではなく、個々の発見は霊的な自然観という植物に咲いた花であったことである。」

 しかし、シュタイナーが意図したようなゲーテ的な精神に基づいた文化の刷新は理解されなかった。

「保守的で無味乾燥な人々の集まっているこの町ワイマールで、私は生活行動のすべてに、ひややかに、よそよそしく対峙しています。」

●エドアルト・フォン・ハルトマンとの会談。

●マリー・ラング夫人の神智学サークルに出入りする。シュタイナー自身、「私が生涯、最大の敬意を払い抱き、その人間的発展の過程に最大の関心を払ってきた人物の一人」と語っている人物、ローザ・マイレーダーと知り合う。

「ローザ・マイレーダーは私の芸術観に不満であった。彼女の意見によれば、私は芸術の本質を誤認しているというのである。然るに、私が努力していたことはまさに、芸術に固有なものを、霊的体験によって私の魂に生じた直感でもって把握することであった。彼女の言い分によれば、私は感覚世界の諸現象の中に十分深く入り込むことができず、それ故、真に芸術的なものに迫ることができないというのだが、しかし私は、他ならぬ感覚的形態のもつ完全な心理に到達しようと努めていたのである。しかしまた、私たちの間にこうした意見の食い違いがあったからといって、私たちの間の親密な友情に傷がつくということは少しもなかった。」

<シュタイナー自伝(人智学出版社)より、P160>

 

●「自由の哲学」

 ・感覚的世界は真の現実ではない

 ・「感覚から自由な思考」を開発することによって、魂は世界の霊的本性と結びつく

 ・認識の限界について語ることは無意味

「感覚的世界に眼を向け、次に外部に向かって感覚的世界を突破することによって真の現実に到達しようとす留認識方法を、私は否定しようとした。私の述べようとしたのは、真の現実はそのような外部へ向けての突破ではなく、人間の内部への沈潜によって見いだせるということであった。外部に向かって突破を試みて、これが不可能であることに気づいた者は、認識の限界について語る。しかしそれが不可能なのは、人間の認識能力に限界があるからではなく、そこで目指されているものがそもそも普通の内省をもってしては語りえないものだからである。」

 ・思考は理念の補足器官

 ・自然の本性は霊的なものである

 ・自由の理念の定式化

 ・道徳的直感の霊的性格

「人間における精神的なもの(霊的なもの)が行動するに至るのは、人間が己の行動の原動力を、感性から自由な思考の領域において定立するときである。このときはじめて、他ならぬ人間自身が行動する。このとき人間は、自己自身に基づいて行動する自由な存在となる。」

「感覚から自由な思考を、人間内部の純粋に霊的なものとして認めない限り、決して自由は理解できない。そして逆に、感覚から自由な思考の現実性を洞察しさえすれば、直ちに自由の概念を理解することができる。」

  以上、<シュタイナー自伝(人智学出版社)より、P164〜170>

●神秘主義と批判的対決し、シュタイナーは自然科学的方法に拠ることになる。

「私からみると神秘家は、霊的なものが顕現する理念の世界を正当に扱っていないように思われた。彼らが魂の満足を得んがために、理念を、理念を欠く内面へ沈めようとするのは、彼らに真の霊性が欠如している証拠であると思われた。それは光への道ではなく、霊的な闇への道である。霊的な現実は、確かに理念の中でそのままの形で活動しているのではないが、しかし、理念を通して体験される。それ故、理念から逃避することによって魂がこの霊的な現実に到達しようとするなら、それは認識上の失神であると私には思われた。

  以上、<シュタイナー自伝ッ(人智学出版社)より、P171>

 

シュタイナーと人智学●第3回


(91/11/27作成)

●第3生活期/1897〜1902(36〜41歳まで)

■文芸雑誌の編集〜神智学協会ドイツ支部事務総長に。

■1897〜1900は、シュタイナーにとって、「きわめて集中的な霊的試練」を克服した時期。つまり、「外的体験を定めていた力」と彼が霊界体験から生じた内的な方針という2つの相対する力がぶつかりあっていた。

1897 ●「ゲーテの世界観」。

       ●ベルリンへ移住。

   ●「文芸雑誌」の責任編集者

       ●著述家、講演者として、オットー・E・ハルトレーベン、フランク・ウェーデキンント、パウル・シェーア

        バルトその他の若き文学者との交流。

       ●「自由文芸協会」

       ●「演劇協会」(モーリス・メーテルリンク「招かざる者」)

1899 ●アンナ・シュル=オイニケ夫人と結婚。

1899〜 ●労働者養成学校講師

1904 (霊的方法に基づく歴史観と唯物史観)

1900   ●「文芸雑誌」の編集を他の人々にゆだねる。

       ●「19世紀の世界観と人世観」。

        (この著作を補遺拡充して、1914年、「哲学の謎」として刊行)

        ブロックドルフ伯爵邸の「神智学文庫」で講演活動を始める。

        フリードリッヒ・ニーチェに関する講演や「ゲーテの隠された啓示」の講演など。

1901  ●「神秘的事実としてのキリスト教」と題して「神智学文庫」で講演。

                                 (25回) 

1902  ●「神秘的事実としてのキリスト教と古代秘儀」

(ユダヤの予言ばかりでなく、古代の秘儀のすべてが、根本的にはキリストの降臨、すなわちこの地上への宇宙的・神的な実在の降臨に備えての準備であった、という内容が盛り込まれている)

       ●ジョルダーノ・ブルーノ同盟の会員を前にしての講演

(「自然科学を基盤とした新しい霊の認識方法を見いだす」というシュタイナーの人生の目的を公言)

       ●神智学協会ドイツ支部事務総長に選ばれる。

(「・・・人智学が、まず第一に、すでに獲得された霊界認識にその根をおろしたにせよ、それはあくまで根にすぎません。その根は、あらゆる分野での人間の生活および行動に入り込んでのびのびひろがり、その葉を茂らせ、その実をむすばなければなりません。」)

       ●雑誌「ルチフェル」(後の「ルチフェル・グノーシス」)編集長。

■「シュタイナー自伝」より(人智学出版者刊)

●1902年の神智学協会ドイツ支部長就任

「マリー・フォン・ジーフェルスと私とが神智学協会ドイツ支部を指導し始めた時期の私の心境は、かくのごときものであった。マリー・フォン・ジーフェルスは、彼女の人柄全体からして私たちの活動を一切の党派性から守り、この活動に普遍的な精神生活と朗唱芸術に深い関心を寄せ、その考えからパリで最高の教習所に通って訓練をうけていた。[・・・]彼女と私とはまもなく深い友情で結ばれた。そしてこの友情が機縁となり、実に多種多様な精神分野にわたって、共同作業が展開されていった。人智学、更には文学と朗唱芸術を協力して育成すること、やがて私たちの生活の実質となった。」

 

シュタイナーと人智学●第4回


(91/11/29作成)

●人智学第1発展期/

1902〜1909(41〜48歳)/根本的な著書

 

■人智学の思想内容の確立期

「シュタイナーが明示しなければならなかったことは、社会思想でも、道徳の教えでも、新しい宗教でもない。もしそれらのどちらかであったとしたら、彼は扇動的な演説をしたり、予言したり、説教したりせねばならなかったであろう。彼のなすべきことは、認識内容の伝達であった。そして、そのためには、概念と理念によってつまり人間の健全な思考力で理解されうるような仕方で事実をつたえる以外には、それを実現できなかった。こうした仕方でこそ、読者あるいは聴講者の内的な自由が保証されたのである。」(カルルグレンの著書より)

■講演活動に終始(主に、ベルリン)

■管理業務は、主にマリー・フォン・ジーフェルス。

 哲学・神智学(のちに哲学・人智学)出版者の創始・運営。

1904  ●「神智学」

・人間の魂的・霊的本質及び超感覚的世界の事象を、一般の人々にも理解される仕方で描き出そうとした。

・霊の「転生」及び「カルマ」の思想を言明し、その正当性が反論の余地のないものであることを彼自身に確証させた霊的研究を示唆

1904〜05●「いかにして超感覚的世界の認識を得るか」

・それまで「秘密にされていたもの」を公にしようとした著作。

・「どんな人間の内にも、超感覚的世界の認識を獲得する能力がまどろんでいる」

       ●「アカシャ年代記より」

1908   ●講演/「人間と諸構成要素と諸芸術との関連」

・ヘーゲルの精神哲学による人間精神の発展の段階(建築、彫刻、絵画、音楽、詩、自然宗教、精神的個性の宗教、啓示宗教、哲学)を受け継いだ形で、建築−肉体、彫刻−エーテル体、絵画−感覚魂、音楽−悟性魂、文学−意識、という分類をした。

1909   ●「神秘学概論」

・人智学の思想内容の主な特色が明示されている。

・地球と人間の生成は、霊的・神秘的な宇宙に起因していることを立証することで、地球と人間に関する理解を深めようとした。

       ●講演/「芸術の本質」

*この時期の講演活動全体のなかで重要な位置をしめている「福音書についての連続講義」もこの時期にはじまっている。シュタイナーは、聖書や伝統的な宗教教義との結びつきを失った多くの現代人に、福音書の講演を通して、新しいキリスト体験の道をひらいた。

 

■人智学運動における芸術活動の意義/マリー・フォン・ジーフェルス

 (「シュタイナー自伝」より、227〜229)

「神智学協会には、芸術的な関心を育成する試みがほとんどなかった。[・・・]神智学協会の会員たちの関心は当初、霊的生活の現実に集中していた。物理的世界に生きている彼らにとって、人間は単に霊から切り離されたうつろいやすい存在でしかなかった。[・・・]マリー・フォン・ジーフェルスと私は、協会の中に芸術的な要素を復活したいと願った。体験としての霊認識があらゆる心的な力に刺激を与える。この体験があるとき、霊体験の光が創造的な想像力を照射する。しかし、この場合、障害をもたらす困難な事態がもちあがる。芸術家は創造力の中に霊界の光が射し込むことに、ある種の不安を抱く。芸術家は心における霊界の支配に対して無意識でありたいと望む。意識の時代が開始されて以来、文化生活を支配するようになった、あの覚醒した意識によって創造力を「刺激」するのだとしたら、芸術家がそうした不安を持つのももっともである。人間内部の知性による「刺激」は、芸術に壊滅的な影響を与える。しかし、真に直感された霊内容が創造力を照らし出すときには、これとは正反対の事態が発生する。これまで人類の生活に芸術をもたらしたすべての創造的な力が、再びここに復活する。マリー・フォン・ジーフェルスは、言語形成の方法に通暁していた。演劇的表現に対する彼女の理解力は、抜群に優れていた。こうして、人智学運動にとって芸術は霊的観照の創造的な豊かさを確認できる一分野となった。」

(未完) 


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