シュタイナーのキリスト論1


「コリントの信徒への手紙」より

キリストの復活について

四苦八苦・四諦を超えるための視点1

四苦八苦・四諦を超えるための視点2

四苦八苦・四諦を超えるための視点3

 

 

「コリントの信徒への手紙」より


(97/01/15)

 

 パウロについて。

パウロの「コリントの信徒への手紙」にはこうあります。

キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。更に、わたしたちは神の偽証人とされ見なされます。(15-12〜15)

しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされるようになったのです。(15-20〜22)

しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません。愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。あなたが蒔くものは、後でできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です。神は、御心のままに、それに体をお与えになります。どの肉も同じ肉だというわけではなく、人間の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉と、それぞれ違います。また、天上の体と地上の体があります。しかし、天上の体の輝きと地上の体の輝きとは異なっています。太陽の輝き、月の輝き、星の輝きがあって、それぞれ違いますし、星と星の間の輝きにも違いがあります。

死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときには卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。「最初のアダムは命のある生き物となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。最初に霊の体があったのではありません。自然の命の体があり、次いで霊の体があるのです。最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人は天に属する者です。土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、天に属する者たちはすべて、天に属するその人に等しいのです。わたしたちは土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです。(15-35〜49)

 こうして、聖書にはほんとうにちゃんと書かれてあるんですけど、これほど簡潔にシンプルに書かれてあるだけに、わかりにくいともいえます。

 サウロだったパウロは、ユダヤのかなりすぐれた秘儀参入者でしたし、ギリシャの秘儀にも精通していました。その秘儀によれば、「キリスト」はこの世に肉体をもって生まれるのではなく、また、霊体(変容した肉体)としての復活ということは理解できなかったといえます。肉体からエーテル体(生命体)が離れた状態で活動するというのはその秘儀では周知のことではあったのですけど。

 パウロのダマスクスでの体験というのは、復活するはずのないキリストをまさに霊体として体験し、まさに新しい秘儀を体験したということでもあります。そして、キリスト教は、この点を除いてしまえば、なんの教えかわからなくなります。キリスト教は「愛の宗教」だとかいうことがいわれますけど、宗教というのは多かれ少なかれ、「愛の教え」だといえます。そうであれば、ただそれは表現形式の問題だけだということになってしまいます。

 そうではないということが、まさにこの「コリントの信徒への手紙」にちゃんと書かれているわけです。

 「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。更に、わたしたちは神の偽証人とされ見なされます。」ということは、キリスト教のメインテーマは、キリストの復活、死者の復活ということにあるということは確かではないでしょうか。

 けれど、なにもその復活は、ゾンビのようなわけのわからないのではなくて、人間の進化のひとつの極北としての在り方です。

 で、あえていえば、密教で即身成仏などということがいわれますけど、それは霊体(変容した肉体)としての復活ということに他ならないように思います。

 ここで注意が必要なのは、肉体とひとことでいっても、ただ物質だとしてとらえれば、理解できないということです。もちろん、ここでは、エーテル体、アストラル体、自我といったことではなく、まさに「肉体」についていっているので、誤解なきよう。

 で、

主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり」(創世記2-7)

とあるように、アダムが人間の、土の体、地に属する者の原型であったとすれば、キリストの秘儀によって、キリストが人間の、天に属する者の原型になったわけです。

 ここで理解する必要があるのは、肉体は一見、目に見える形で存在しているように思われがちですけど、実際はそうではなく、見えない形で、肉体の存在形式ともいえるものがあるわけです。その肉体の存在形式を地上的、土てきな実質が満たすことで、現在の肉体が成立しているのです。

 で、キリスト衝動の核心にあると思えるのは、この復活したキリストという、人間にとって理想としての肉体の存在形式をそれぞれの人間が受け入れ、成長させていくということにあります。

 それをパウロは、

あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。あなたが蒔くものは、後でできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です。

死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときには卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。

 ということで表現しようとしていたのではないでしょうか。

 そして、そうした霊化した肉体としての霊体の形成には、自我が深く関わってくることになります。

 けれど、この自我は、肉体という鏡があってはじめて働くことのできるものです。それは、闇のなかで自分の体を映そうとしても見えないようなもので、肉体がなければ自我は働くことができません。

 自我を顕現させるためには、つまり、自らを意識化するためには、肉体という鏡がどうしても必要であり、さらに、それによって自我が肉体に働きかけてそれを変容させる作業が不可欠です。

 「霊主体従」という重要な観点があります。霊も体も同じく重要だけれども、霊がそれを導かねばならないということです。けれど、通常、どうしても、霊を高次のもの、体を低次のものとして、とらえてしまいがちです。それか、体だけで、まったく霊的なものを否定するか、です^^;。

 物質というのは、第一ロゴスとしての「父」なる働きであり、そのことを理解しなければ、人間がこうしてわざわざ地上に肉体をもって存在する意味は決してわからないことになります。

 肉体を霊化すること、その秘儀がキリスト衝動であるともいえます。もちろん、それは道教や密教のような性急な方向ではなくて、「愛」と「叡智」と「自我」ということの調和の中で、達成しようというものにほかなりません。

 この「コリントの信徒への手紙」のパウロの言葉は、そうしたことを理解して初めて受け取ることのできる重要なメッセージです。

 こうしたシュタイナーのキリスト理解に関しては、今後、折りに触れて、ご紹介していければと思います。

 

 

キリストの復活について


(97/01/16)

 

 キリストの復活には、ただ聖書を読んだだけではわからない、神秘学的な意味があります。

 神秘学的な意味を理解してから聖書を読むと、それまで自分はいったい聖書の何を読んでたんだろう、と思ってしまいます。とはいっても、ぼくの場合もともとあまり聖書を読むほうではありませんけど^^;。

 興味深いことに、明治頃に内村鑑三という無教会派のキリスト者がでますけど、この内村鑑三という方も、この「復活」ということを重視してました。もちろん、シュタイナーのような神秘学的観点ではなかったんですけど、かなり似た時代に、キリストの意味を見つめ直そうとしていた方が、まさに日本にいたということは注目すべきことかもしれません。

 パウロや使徒たちは、おそらく殉教さえ厭わず伝道へ動き出したほどに強烈な衝動を受けたんだと思います。キリスト教に限らず、なんらかの強烈な衝動から、確固たる信仰を得、激しく行動される方というのは歴史的にもたくさん生まれていますけど、それが実際、どういう衝動なのか、興味がありますね。

 ぼくなどは、今ある種、ライフワークのようにして、シュタイナーを初めとした神秘学をあれこれ模索してるわけですけど、こういうのも、そうした衝動のはしくれなのかもしれません。とはいっても、爪の垢にも満たないような衝動に過ぎませんので、かなりいい加減で、気楽なものではありますけど^^;。

 

 

 

四苦八苦・四諦を超えるための視点1


(97/02/12)

 

 仏教では、四苦八苦・四諦の話はかなりベーシックなものではありますが、そうした仏教的視点を越えるための視点を神秘学的な観点から試みてみたいと思います。もちろん、ネタはシュタイナーです(^^)。邦訳の「輪廻転生とカルマ」からの引用をベースに進めますので、興味のある方は参照してくださればと思います。

 まず最初は、仏陀の四苦八苦・四諦について。

やつれた、悲惨な子供を仏陀は目にします。苦は誕生をとおして存在のなかに入っているのです。生は苦である、と仏陀は感じます。

ついで、仏陀は感じやすい魂を持って、衰弱した病人を見ます。存在への渇きをとおして地上に歩み込んだ人間はこのようになるのです。病気は苦です。老衰した老人を仏陀は見ます。次第に自分の手足の主になれなくなるとは、人生をとおして何が人間に与えられるのでしょう。老いは苦です。そして仏陀は死体を見ます。死はすべてを破壊します。死は苦です。仏陀はさらに人生を考察して、「愛する者と別れることは苦である。愛さない者と結びつくのは苦である。欲するものを得られないのは苦である」と、語ります。

この苦についての教えは人々の心と胸に、偉大で強力で、印象深く響きます。多くの人々が、存在への渇きを断つことによる苦からの解放という偉大な真理を学びました。いかに地上的・物質的存在の外に目を向けて、地上への受肉からの解放という偉大な真理を学び、いかに、存在への渇きを消すことによって苦から解放されうるかを学びました。まさしく、人類進化の頂点の一つが私たちの魂のまえに立てられたのです。

(シュタイナー「輪廻転生とカルマ」白馬書房/P64-65)

 仏陀は、この世に「生」まれてくることを苦ととらえました。生まれ育ち「老」いていくことも苦ととらえました。さらに、「病」むことをも苦ととらえ、「死」ぬことも苦ととらえました。この生老病死を死苦といいます。これが四苦です。

 さらに、愛する者と別れなければならない苦である愛別離苦、怨み憎む者と会わなければならない苦である怨憎会苦、求めるものが得られない苦である求不得苦、そして、一切は、色(物質的要素)、受(感覚)、想(表象)、行(行為、意志)、識(意識)という五薀であり、それに満たされているという苦である五蘊盛苦を加えた八苦という人間存在の「苦」という真実について仏陀は説きました。

 さらに付け加えるとするならば、この四苦八苦は人間存在そのもの(実存)に根ざす苦ですが、そのほかにも、欲望に基づく苦、無知に基づく苦(無明)、無常に基づく苦と仏陀の説いたのは、苦、苦、苦、苦・・・・のオンパレードで、こうした苦という真実からの解放を、苦諦、集諦、滅諦、道諦という四諦によって説きました。

 「諦」というのは、真理・真実という意味で、「あきらめる」とも読みますが、それは本来「あきらかにする」という意味ですので、断念ではありません。

 苦諦は、先の四苦八苦という真実を認識するということ、集諦は、いかにしてその苦が生じるのかを探究し、解明すること、滅諦は、そうした苦を滅するためのニルヴァーナ(涅槃)、解脱で、それを実践するための道諦ということが説かれます。その道諦という「道」はたとえば、八正道、つまり、正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定のことです。

 存在への渇望からの解放という偉大な道を仏陀は説きました。けれども、その四苦八苦、四諦は、こうして生をもつ我々にとっては、結局のところ、解脱のすすめ以外のものを提案しているとはいえません。生そのもの意味がそれではまったくわからなくなってしまうのです。「人は苦しむためにだけ生まれてきたのだろうか」という素朴な疑問でもあります。

 

 

四苦八苦・四諦を超えるための視点2


(97/02/13)

 

紀元前六世紀、仏陀は死人を見て、苦について説きました。紀元後六世紀、無数の人々が死体の掛かった十字架に目を向けました。しかし、この死体からは生命を霊化し、生命をとおして死を克服する衝動が人類に発するのです。これは仏陀が死体を見て感じたことの対極です。

仏陀は死体を見て、生命の価値のなさを認識しました。ゴルゴタの秘跡の六百年後に生きた人々は敬虔な情熱をもって、十字架上の死体を見上げました。この死体は彼らにとって生命のしるしであり、彼らの魂のなかに、存在は苦であり、存在は苦ではなく、死を超えて至福へと導くものであるという確信が生まれました。十字架上のキリスト・イエスの死体は、ゴルゴタの秘跡の六世紀後に、生命と生命の復活と、死と苦の克服の記念のしるしとなりました。ゴルゴタの秘跡の六世紀前には、死体は、存在への渇きをとおして物質界に入った人間を襲う死を認識するしるしでした。人類の進化全体のなかで、これほど大きな転回はほかにありません。

紀元前六世紀、物質界に歩み入ることは人々にとって苦でした。ゴルゴタの秘跡以後、生の苦の真理はどのように魂のまえに現れるのでしょうか。ゴルゴタの丘の十字架を見上げる人々に、この真理はどのように現れるのでしょうか、その十字架と結ばれるのを感じる人々は、「誕生は人間を地球に導く。地球はみずからの元素をキリストにまとわせる可能性を持っていた」と思います。彼らはキリストが歩んだ地上へと歩み入ろうと欲します。キリストとの結びつきをとおして魂のなかに力が生じます。この力をとおして、霊界に上昇することができるのです。そして、誕生は苦ではなく、救世主を見出すための門であるという認識が生じます。救世主は人体を形成する地上の素材をまとったのです。

   (シュタイナー「輪廻転生とカルマ」白馬書房/P65-66)

 この世に生まれてくることが「苦」なのだとしたら、そこから逃れようとする解脱病が横行する原因はそこにあるともいえるのではないでしょうか。仏陀の教えには、生命を否定的にとらえようとする傾向がどうしてもあります。

 仏教の中でもっともコンパクトでポピュラーなお経でもある般若心経にしても、色即是空、空即是色と説かれているにもかかわらず、どうしても彼岸への憧れが盛り込まれていることは否めません。不成仏霊などにもこの経が有効なのは、いわゆるこの世への執着から解き放ち霊的世界へと導こうとする方向性が強いということが意味されているのではないでしょうか。

 キリストは十字架上で死に、そして復活したといわれています。パウロは、キリストが復活しなかったのだとしたら、すべては無意味でむなしくなり、自分の活動はすべて欺瞞になると言っています。ここに大きな鍵があります。

 仏陀は、生老病死、すべてを苦という真実でとらえました。そして、その時代において、それはまさに真実だったともいえます。しかし、そういう仏陀の教えを超えて、生を意味深いものとさせる秘儀がキリストによって成就されたといえます。

 人生には大きな意味がある。そう力強く言えるためには、生を意味深いものとすることが必須条件です。仏陀の教えには、その必須条件が欠落しています。その条件が欠落しているがゆえに、誤解すると自殺のすすめにもなり、出家による解脱修行ばかりを奨励することにもなりかねません。

 生まれてくることそのものが意味深いものでなければなりません。肉体をまとうことそのことに、深い意味を見出すことができなければなりません。そのために、キリストの秘儀があったのだといえます。

 

 

四苦八苦・四諦を超えるための視点3


(97/02/16)

 

 今回は、もっとも重要なポイントである、キリスト衝動の根本の部分について、かなり、秘教的な観点にはなりますが、お話してみたいと思います。かなり難しい部分ではありますが、この観点が理解できたとき、四苦八苦・四諦という観点は、おのずと、結び目がとけていくようにするすると止揚されていくことになります(^^)。

 仏陀は「苦」という真実を語りました。生まれてくることは苦であり、老いることは苦であり、病気になることは苦であり、そして死ぬことは苦以外のなにものでもありませんでした。そのことは、この物質界そのものがひとつの牢獄であることを示していました。そして、それは仏陀の時代において真実だったのです。

 世界はマーヤーに満ちています。感覚によってとらえられる世界はマーヤーでしかありません。そこに深く根ざしてしまうことは、マーヤーにとらわれてしまうことになります。だから、この世界は「苦」であるという真実を深く認識しなければなりませんでした。そして、彼方にある霊的世界、原初の聖なる地に帰ることで、太古からの遺産、神的なもののなかに身をおくことができました。だから、かつてみずからのいた世界へと歩みを向ける必要がありました。その時代においては、人生の成果を携えて霊界に歩み入ることはできかなったのです。

 しかし、ペルシアのゾロアスターは、それとは逆の方向に歩みを向けました。インド人とは異なり、ペルシア人は古い神々を見出すことはできなかったのです。前に進まねばなりませんでした。

 インド人のように物質界、感覚界を「苦」だととらえるのではなく、その世界から出発して、その世界が霊的なものの表現であることを見出す方向に歩みを向けたのです。

 目を太陽に向けたとき、魂は物質的な太陽の力だけを見るのではなく、太陽神アフラ=マズダ(キリスト)を見ることを学びました。ゾロアスター教です。

仏陀は「歩みをうしろに向けることによって人間は神的なものにいたることをいたることができる」と教え、ゾロアスターはザラトスとして、「光が地球のなかに受肉するときがくる。そのことによって、魂は前方に向かって歩めば、神的なものに近づく」と、教えました。

仏陀は「後方に歩めば魂は神を見出す」と語り、ゾロアスターは「前方に歩めば魂は神を見出す」と、語ります。

神はアルファのなかに探究しても、オメガのなかに探究しても見出されます。後方に向かって歩んでも、前方に向かって歩んでも、神にいたるのです。ただ、高められた人間の力によって、神を見出すべきなのです。アルファの神を見出すのに必要な力は、人間がみずから地上で獲得しなければなりません。アルファに戻るか、オメガに進むかはどちらでもいいことではありません。ただ神を見出し、霊界に参入することだけを望む者には、後方に向かっても前方に向かっても同じことです。しかし、地球を一段高められた状態へともたらすことに責任をとろうとする者はオメガへの道を歩まねばなりません。このことをゾロアスターはおこなったのです。地球の力に手を加えようとする人々のために、ゾロアスターは道を拓きました。(中略)

ゾロアスターは何をなさねばならなかったのでしょう。キリスト衝動が地上に下ることができる可能性を生み出さねばならなかったのです。ゾロアスターはナザレのイエスとして再受肉します。(中略)

そして、ナザレのイエスにさまざまな仕方で、仏陀の本質も結合しました。(中略)ラル体を捨て去り、太陽神キリストの霊がナザレのイエスの肉体、エーテル体、アストラル体のなかに入り込み、三年間生きました。(中略)

このことによって、地球の進化にとって重要な瞬間がやってきました。人間は神をみずからの内面に見出すことができるようになり、死と再受肉との間の人生から、何かを新たな地球上での人生に携えてゆくことができるようになったのです。「キリストの光が輝く世界に私はいたのだ」と感じる、強い魂が現れたのです。

   (シュタイナー「輪廻転生とカルマ」白馬書房/P96-98)

 霊界への道をアルファのなかに探究する、歩みをうしろに向けることによって神を見出そうとする方向をとったのインドのが仏陀でした。それに対して、霊界への道をオメガのなかに探究する、歩みを前方に向けることによって、神を見出そうとする方向をとったのがペルシアのゾロアスターでした。

 人類の進化の道は、オメガへの歩みでなくてななりません。過去へと戻るのではなく、前に進まねばならないのです。そのために、太陽神キリストは、地上に受肉する必要がありました。受肉するためには、その肉体、エーテル体、アストラル体を準備する必要がありました。

 その準備のために、仏陀の流れとゾロアスターの流れが合流する必要がありました。ここできわめて重要なことを説明する必要があります。イエスは二人いたのです。

 (このように書くと、推理小説風になってしまうのですが^^;、それについては、あらためて細かくご説明することにして、続けます。)

 ルカ福音書に書かれているイエスの系図とマタイ福音書に書かれているイエスの系図はなぜか異なっています。それには深い意味があるのです。

 ルカ福音書に書かれているのは、ナータン系のイエス(ナザレのイエス)で、マタイ福音書に書かれているのは、ソロモン系のイエス(ベツレヘムのイエス)です。

 ナザレのイエスのアストラル体には、仏陀の応身(ニルマーナカーヤ)が働きかけました。そのことを「ルカ福音書」には、「羊飼いと天使」ということで描かれています。ベツレヘムのイエスには、ゾロアスターが受肉しました。このイエスの誕生に関しては、星に導かれて東方の三賢者が訪れたことがマタイ福音書の「占星術の学者たちが訪れる」として描かれています。

 そのゾロアスターの自我は、12歳のとき、ナザレのイエスに移行します。その時のことはルカ福音書には、「神殿における12歳のイエス」、突然叡智に満ちた話をするようになったイエスとして描かれています。  このように、ナザレのイエスのなかで仏陀は応身として、ゾロアスターの自我とともに働きました。

 そして、ヨルダン川での洗礼のときに、ゾロアスターの自我は去り、ゴルゴタの秘蹟までの三年間を生きる太陽存在としてのキリストが、ナザレのイエスに入り込みます。太陽存在キリストの受胎ともいえる事件です。そこのとをルカ福音書は、「イエス、洗礼を受ける」ということで、「すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた。」と描いています。

 駆け足でしたが、仏陀とゾロアスターの二つの流れが、イエスのなかで協働することで、キリストを準備したことをご説明しました。このキリストによって、地上そのものの意味が変容していくことになります。地上はもはや牢獄なのではなく、キリストの働きかけている栄光の地である可能性を得たのです。

 そのことによって、人間は、地上で得た力を霊界へと携えていくことができるようになり、地上での生の意味が刷新されたのだといえます。

 長くなりましたので、今回はこのくらいにしておきます。ちなみに、今回ご説明したことについての詳細は、邦訳では、特に

●シュタイナー「ルカ福音書講義」(イザラ書房)

●シュタイナー「第五福音書」(イザラ書房)

 で詳しく見ることができますので、興味がおありの方はぜひどうぞ。


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