シュタイナーのキリスト論2


シュタイナーの福音書観など

二人のイエス

福音書・キリスト

シュタイナーのキリスト観「転回」

肉体について真の表象を形成する試み

肉体について真の表象を形成する試み2

肉体について

中と愛など

ソフィア試論

 

 

シュタイナーの福音書観など


(94/06/12)

 

 スピリチュアリズムの立場?から、聖書やキリストなどを解説している本についてということですが、僕がイエス関係でそうした種類のものの中で非常に楽しく^^;読めたのは、G・カミンズの「イエスの少年時代」「イエスの青年時代」、そして「イエスの弟子達/パウロ回心の前後」(ともに潮文社)です。

 通常のキリスト教のイエス観や福音書観は、あまりにも陳腐で、ほとんどトートロジーでしかないので僕もそうしたのにはうんざりしてます。

 僕が現在、キリスト教及び福音書に関してもっている考え方は、基本的にシュタイナーのそれに沿ったものです。それは、イエス・キリストをたんに「一人の優秀な霊能者・霊覚者だった」とする考え方とは違っているというか、むしろその説明を、宇宙進化というビジョンのプロセスの中に置いているというように思います。もちろん旧約聖書や新約聖書に関しても、そうした考え方から、一貫した考え方をもっていたようです。そしてそれはいわゆる「宗教的」な立場からのものではなく、人智学的な考え方から説明されたものです。

 それによると、たとえば、引用していただいた箇所の「イエスが身をかがめて地上にものを書いた動機や目的については何もふれていない。これは、イエスが完全に<自動書記>の体勢に入っていたことを示すものである。」という部分に関しても、それは秘密文字を記していたとされ、ヨハネ福音書講義などで詳しくその意味について解説がなされています。

 残念ながら、それについては邦訳がないのですが、幸い手許にドイツ語の原本があって、概略は読んでますので、そのうちこ抄訳でも試みてみたいと思ってます。

 現在キリストや聖書に関して邦訳で読めるシュタイナーの文献を参考までに挙げておきたいと思いますので、そのうち時間でもあったときに本屋さんででも手にとってみてください。 

●「ルカ福音書講義/仏陀とキリスト教」(イザラ書房)

●「マルコ伝」(人智学出版社)

●「第五福音書」(イザラ書房)

●「仏陀からキリストへ」(水声社)

●「神秘的事実としてのキリスト教と古代の秘儀」(人智学出版社)

●「創世記の秘密」(水声社)

●「黙示録の秘密」(水声社)

 どれも通常のキリスト観を根底から変えてしまうような極めて秘教的な内容が盛り込まれていますが、それを簡単に説明することは難しいことですので、その「さわり」の部分を、上記の「第五福音書」の「訳者あとがき」での高橋厳さんの、シュタイナーの福音書観についての解説を引用させて、ご紹介にかえさせていただきます(ちょっと安易かなぁ^^;)。ちょっとわかりにくいでしょうが、ま、いろいろ細かく説明しているというのはご理解いただけると思います。 

 マタイ福音書は建築的、マルコ福音書は彫刻的、ルカ福音書は絵画的、ヨハネ福音書は音楽的な構造を有しており、マタイ、マルコ、ルカの三福音書がイマジネーションの段階にあるのに比して、ヨハネ福音書はインスピレーションの要素を含んでゐる。

 マタイはキリスト・イエスの肉体とエーテル体を叙述し、マルコは太陽のオーラとしてのキリストを描いた。ルカはキリスト・イエスのアストラル体と自我を記述し、ヨハネは太陽霊キリストの魂を描いた。ヨハネ福音書の中にはケルビーム(叡智)、ルカ福音書の中にはトローネ(力)が働いてゐる。マタイ福音書にはマルコ福音書、ルカ福音書、ヨハネ福音書の要素が全て入っているが、キリスト・イエスを人間として描いている。

 マタイ福音書はユダヤ教に対して書かれ、マルコ福音書はローマに対して書かれ、ルカ福音書は人類全体のために書かれ、ヨハネ福音書は死者たち、あるいは、天使たちのために書かれた。マタイ福音書はイエス・キリスト当時に適した福音書であり、マルコ福音書は第五文化期、ルカ福音書は第六文化期、ヨハネ福音書は第七文化期に適した福音書である、とシュタイナーは述べてゐる。

 太陽霊キリストは自らの神性を犠牲にして人間イエスの中に入って、三年間地上に生き、ローマの総督ピラトの下で十字架上の死を遂げ、地の墓に埋められた。死の中で、キリストは死者たちの魂を救ひ、三日の後に復活した。

いきなりこういうことを書いても、ぶっとんでしまうかもしれませんが^^;、(実は僕も最初はいったいなんのことなのか全然わかりませんでした^^;)「なんかすごそうだぞ!」というので、ずっと読んでいくうちに、キリストだけではなく、古代の秘儀的な流れのなかでのさまざまな在り方、そして現在と未来の在り方について少しずつ理解できるようになりました。仏教とキリスト教の関係についても、それまでわからなかった関係が、必然的な進化の流れとして理解されるようになったのです。たとえば、上記の「神秘的事実としてのキリスト教と古代の秘儀」の中には、キリスト教と古代の秘儀との関係についても論じられています。そしてそれが単なる古代の秘儀の継続ではなく、まったくエポックメイキングな事実であったということが書かれています。そしてそういう見方ができてこそ、たとえば創世記やヨハネの黙示録などとの深い関係性などが理解されます。

 ここらへんのことは非常に興味深いところですので、またあらためて少しはご紹介してみたいと思います(^^)。

  

 

 

二人のイエス


(94/06/17)

 

 昨今では、スピリチュアリズムという言葉よりも、チャネリングという言葉がよく使われるようになりましたが、原則的には同じ現象を言っているんですよね。ですから、その功罪についても同じことがいえるようです。肝心なのは、そのソースの質についての、言ってみれば「サニワ」で、それをちゃんと見ていくということが大事です。基本的にいって、ラジオのチューニングのようなものですから、受けるほうの「器」しだいでその質はまったく違ってくるようです。

 シュタイナーは、19世紀末〜20世紀初頭に活躍したのですが、スピリチュアリズムの危険性からそれをあまり評価してはいなかったようです。というのも、シュタイナーはそれを基本的に古代的な巫女的現象としていて、そうではなくて、自らが主体的に霊界を認識していくことが重要だとしました。それはおそらく、スピリチュアリズムの「功」の部分よりも、「罪」の部分を問題視していたからだったのでしょう。つまり、それに依存するということによる迷妄ということです。それはシュタイナーが信仰ではなく「認識」を重要視したのと同じことです。

 ま、それはそれとして、スピリチュアリズムの遺産や現在のそれを毒にするにも薬にするのもそれを受け取る人間次第なのですから、そこらへんのことをいつもちゃんと受け取ることのできる自分でありたいものです。

 イエスの出生の秘密については、どれが正しいかはわかりませんが、僕はやはりシュタイナーの説明が比較的う〜む、とうなってしまうものでした。それは、福音書でイエスの家系が二種類記述されている部分をも、その深い意味を説明しているものです。

 それについての概略を「第五福音書」(イザラ書房)からの引用もふくめて簡単にご紹介させていただきます。

 まず、ヨルダン川でのヨハネの洗礼のときから、ゴルゴタの秘蹟までの3年間ナザレのイエスの中に高次の太陽存在としての「キリスト」が生きていた。シュタイナーのイエス論はそのことが前提となります。その場合、キリスト衝動とゴルゴタの秘蹟とはなにか、ということが重要なのですが、今回はそれは省略させてもらいます^^;。

 で、そのイエス論のキーになるのが、マタイ福音書とルカ福音書とでは、イエスの少年時代について、なぜ異なった記述がされているのかということです。今回は、その点についてちょっと長くなりますが、引用紹介させていただきます。なんだかミステリーのような感じがして面白いですよ(^^)。 

 ルカ福音書に記されているイエスの系図をマタイ福音書に記された系図と比べてみると、相違が見られます。なぜ、二つの系図が異なっているのかは、アカシャ年代記によって解明されます。

 このルカ福音書とマタイ福音書での系図との違いというのは、一方が母系で一方が父系だなどという解釈もあるようですが、あの時代に母系の系図が書かれるということは考えられないんですよね。やはり、福音書の中に書かれてある、一見矛盾に見えることを、矛盾ではなく必然として見ることが必要だと思います。シュタイナーは、福音書について、それを「文字通りに読みなさい」といい、「文字通り」に読まないから、イエスやキリストへの間違った理解が生まれるといいます。で、訳などの問題についてあれこれいっていますが、それについてはまたの機会に。 

 イエスが生まれたのとほぼ同じ頃、パレスティナで、やはりヨセフとマリアという名の夫婦にイエスという名の子供が生まれました。イエスという名の子供が二人、そしてヨセフとマリアという名の夫婦が二組いたのです。一方のイエスはベツレヘムの出身で、両親とともにベツレヘムに住んでいました。ベツレヘムのイエスはダヴィデ家のソロモン系の血を引いていました。ナザレのイエスはダヴィデ家のナータン系の出でした。ルカはナータン系のイエスについて語り、マタイはソロモン系のイエスについて語っています。ベツレヘムのイエスはナザレのイエスとは全く違った能力を示しました。ベツレヘムのイエスは外に現れる特性を発達させました。例えば、周囲の人々にはあまり理解できないものではあっても、このイエスは生まれるとすぐに話をすることができました。ナザレのイエスの方はより内的な素質を有していました。  

ベツレヘムのイエスの中には偉大なゾロアスターが受肉したのです。ゾロアスターは自らのアストラル体をヘルメスに、エーテル体をモーゼに与えました。彼の自我は紀元前六世紀にナザラトス、あるいはザラトスという名でカルデアに受肉し、次いで、イエスとして受肉したのです。このイエスはエジプトに行き、しばらくの間、自分に適した環境の中に生き、エジプトの印象を自分の中に甦らさねばなりませんでした。ルカが語っているイエスとマタイが語っているイエスを同一人物だと思ってはなりません。ヘロデ王の命令によって、二歳以下の子供は全て殺されました。洗礼者ヨハネとイエスの誕生の間に十分な年月の差がなかったなら、洗礼者ヨハネも殺されていたはずです。

 通常の場合、転生というのは、自我の転生を意味していますが、シュタイナーは肉体、エーテル体、アストラル体、自我というように人間を多次元的複合体としてとらえています。ですから、厳密にいうとするなら、転生というのは多次元的にみていかないとその正確なところはわからなくなるといえます。

 ですから、肉体的な転生という意味では、血縁が重要な意味をもつわけです。転生ということでよく誤解されるのは、特に高次の役割をもった転生の場合、上記のイエスの記述のように、非常に複雑なのに、たとえばそのアストラル体の部分の継承見解を自我の転生と誤ってしまうということがよくあるといいます。たとえば、イエスを例にとってみると、イエスのエーテル体のコピーは、アウグスティヌス、ヨハネス・スコトゥス・エウリゲナなどに関わり、アストラル体のコピーは、アッシジのフランチェスコ、テューリンゲンのエリザベート、トマス・アクイナス、マイスター・エックハルト、ヨハネス・タウラーなどに関わり、自我のコピーはクリスティアン・ローゼンクロイツに付与されたといいます。

 十二歳の時、ベツレヘムのイエスの自我、つまりゾロアスターの自我は、もう一人のイエスの中に移り行きます。十二歳以降、ナザレのイエスの中にはかつての自我ではなく、ゾロアスターの自我が生きることになります。自我が去って行った後、すぐにベツレヘムのイエスは死にました。ゾロアスターの自我の、ナザレのイエスへの移行は、ルカ福音書の「神殿に於ける十二歳のイエス」の場面に語られています。なぜ自分の子供が突然叡智に満ちた話をするようになったのか、両親にはわかりませんでした。この両親にはこの子供の他には子供はありませんでした。もう一方の両親には、イエスの他に四人に男の子と二人の女の子がありました。後にこの二家族はナザレで近くに住むようになり、遂には一つの家族になりました。ベツレヘムのイエスが生まれたとき、父親は既に年老いていました。このヨセフは間もなく死に、母マリアは子供たちを連れてヨセフの家庭に入ったのです。

 このように、ナザレのイエスの中で、仏陀は応身でゾロアスターの自我とともに働きました。仏陀とゾロアスターがイエスの中で協力して働いたのです。

 マタイ福音書はベツレヘムのイエスについて書いています。このイエスの誕生に際しては、星に導かれて、東方の三賢者が再受肉したゾロアスターのところにやってきます。

 神智学については、「神智学大要」がたま出版から出てますが、シュタイナーはそうした内容を基本的に踏まえながらも、神智学に対して「人智学」といったように、宇宙論的な人間学を探求していたと僕は考えています。ですから、教育をはじめ、農業、医学、芸術、社会論などなどの人間社会における実践ということを深く探求できたんだと思うのです。

 

 

 

福音書・キリスト


(94/06/24)

 

 聖書に関してですが、旧約聖書はヘブライ語で書かれていますが、それが「七十人訳ギリシア語聖書」としてギリシア語に翻訳され、新約聖書は、アラム語で書かれたマタイ福音書以外は、ギリシア語で書かれ、それが「ヴルガタ版聖書」として、ヒエロニムスによってラテン語に翻訳されました。

 シュタイナーは、このラテン語翻訳について、たとえば、ヒエロニムスはマタイ福音書の秘められた意味を理解せずに訳したということを言っているそうです。ちなみに、ヘブライ語にはアジアの原初の霊性が漂い、ギリシア語は神々の言葉であって、ラテン語は地上的な言葉であるといいます。

 シュタイナーが福音書を「言葉通りに受け取る」ことをいい、福音書に使われている言葉の正確さということをいいますが、それいうのについてはたとえば「ルカ福音書講義」(イザラ書房)にはこういう箇所があります。

 注目すべきまえがきが、ルカ福音書にはあります。ルカ福音書の筆者よりまえに、多くの人々がパレスティナの出来事にまつわる、さまざまな話を集めて書きましたが、いまルカ福音書の筆者は、最初から「目で目撃し、言葉に仕えた者」(ルカ福音書一章−二節)が伝えうることを書く、というのです。ルカ福音書の筆者は、目で目撃した者(より適切には、「霊視者」)と、言葉に仕える者がいうべきことを伝えるというのです。ルカ福音書においては、「霊視者」というのはイマジネーション認識を有し、形象の世界に入って、キリスト事件を知覚した者のことです。「霊視者」は、とくに正確に見る訓練を受けた者であり、同時に、「言葉に仕える者」でした。このような霊視者の伝えることに、ルカ福音書はもとづいているのです。・・・

 ルカ福音書は、イマジネーション界のなかで自己を見、自己を経験した者の報告にもとづくものなのです。イマジネーション界で見たものを、インスピレーション認識を獲得した者が持つ手段によって学び、言葉に仕える者となったのです。

 ちなみに、イマジネーション認識を有する者を「霊視者」、インスピレーション認識とイントゥイション認識の段階に至った者を「秘儀参入者」と呼ぶ、とシュタイナーは言っていて、それを混同してはいけないといいます。

 この3つの認識については、説明すると長くなるのでまたの機会にしますが、ヨハネ福音書には、秘儀参入者に由来するものが書かれ、その他の福音書は、霊視者の伝えるものに基づいているそうです。

 ここらへんのことは、おそらくスピリチュアリズムの視点と共通する部分もあると思います。

 こうしたことについては、今後、「創世記」や「黙示録」を含めて、詳しく取り上げてみたいと思いますが、ここでシュタイナーが「キリスト」ということで意味していることの一端を表現している箇所が、「神秘的事実としてのキリスト教と古代密儀」の訳者(石井良)あとがき(人智学出版社)で、シュタイナーの引用という形で紹介されてますので、それを。

 「キリストの宇宙的意味合いは、キリスト教的なヨーロッパ人に語りうるのと同様に、ユダヤ人、中国人、日本人、インド人のいずれにも語りかけることができる。それによって、一方では地球上におけるキリスト教の今後の展開に、他方では地球上の人類の発展にきわめて重要な展望が開けてくる。なぜなら、現実にあらゆる人間が同じように理解できる心魂内容への道が求められる必要があるからである。」(ゴルゴタの秘儀認識のための構成因)

 「キリストは、あらゆる人間のために死んだのであり、キリスト・インパルスは全地球の力となったのである。こうした客観的な意味合いにおいて……キリストは、ユダヤ人、異教徒、キリスト教と、ヒンズー教徒、仏教徒等々のいずれのためにも存在しているのである。そのためにキリストは存在する。キリストは、ゴルゴタの秘儀以来、地球・人類発展のために働いているのである」(太陽の秘儀および死と復活の秘儀)

 ここでいうキリスト・インパルス(衝動)というのは、たとえば仏教でいえば「大乗」ということにあたり、決して狭義のドグマティックなキリスト教とはまったく異なっていることは強調しておかなければならないことです。

 キリストというのは、「太陽霊」のことであり、それはゾロアスター教においてはアフラ=マズダ、仏教では「毘廬遮那仏」、はたまた神道においては「天照大神」ともいえる存在に他なりません。

 

 

 

シュタイナーのキリスト観「転回」


(95/01/12)

 

 シュタイナーは、最初キリスト教を「信仰告白」にみられるような通常の宗教的意味でとらえていて、決して後にみられるようなキリスト観をもってはいなかったようである。

 シュタイナーの初期の思想は、ゲーテの認識論、フィヒテの自我哲学、ヘーゲルの精神と存在の同定思想、ダーウィン、ヘッケルの自然認識の方法を批判的に統合した「自由の哲学」にみられる思想などに要約される。この思想の重要な柱は「倫理的個人主義」と自らが呼んでいるものだが、これはその当時は、通常のキリスト教とは対立的なものだった。

 その経緯については、みずから「自伝」に書き残している。(シュタイナーの「シュタイナー自伝II」(人智学出版社)の第二十六章より。)

当時私が論文に書いたり、講演会で述べた個々の見解は、後に私がキリスト教について語った表現と矛盾していると思われる人もいよう。しかし、その際、左記のような事情を勘案する必要がある。つまり、私がこの時期に「キリスト教」という言葉を使ったときには、それはキリスト教の信仰告白に見られる如き彼岸の教えを意味していたのである。宗教体験においては、霊界は、人間が自己の霊的な力をいかに発展させても、決して到達できない世界であるとされている。宗教が必ず語ることや道徳的戒律として人間に課す事柄は、人間の外側から人間に向かって現われる啓示に基盤を置く。私の霊的観照も倫理的個人主義も、こうした見解を容認するものではない。私の霊的観照は、霊界を感覚世界と同様に人間の感覚や自然の中で体験しよとする。また私の倫理的個人主義も、道徳を外側から対立を原因として規制されたものと考えるのではなく、神性の宿る心的・霊的な人間存在の中から道徳を発現せしめようとする。(P146)

 この「当時」というのは前世紀末頃までのシュタイナーの活動を指しているがその後、シュタイナーは「キリスト教をいかにとらえるか」という問題を「試練」として受けとめる体験を余儀なくされることになる。

 キリスト教の真実が内的認識現象として芽吹き始め、「最も内的な最も真剣な認識の祭典の渦中にゴルゴタの秘儀に直面」したのである。この体験をシュタイナー自身、「ダマスクス体験」と呼んでいるそうだが、これはその名の通り、パウロの回心に匹敵するものだということであろう。

 そのシュタイナーの思想的発展というか転回後の最初の基礎が「神秘的事実としてのキリスト教と古代密儀」(人智学出版社)という1901年から1902年にかけてベルリンでおこなわれた講演をまとめたものである。

 シュタイナーがキリスト教に関して成し遂げたことの骨子は、「神秘的事実としてのキリスト教と古代密儀」の「あとがき」で訳者(石井良)が次のように挙げている四つのことであると思われる。

第一は、キリスト教の中心的秘儀、言葉の受肉、キリストの死と復活の神秘的事実を回復させたこと、第二は、これに接近しうる精神(霊)科学的認識方法を形成したこと、第三は、宗教的認識内容と認識方法を明確に区別することにより、宗教を哲学的宗教の手から救出し、宗教をよみがえらせたこと(シュタイナーは代用宗教に終止符を打ったのであり、したがって、かれの思想を代用宗教とする非難は的外れである)、第四は、認識方法に科学的な厳密性を継承させ、神秘主義の恣意性を排除することで、自律的人間に、信仰を前提とする啓示神学の道を通ることなく、宗教的秘儀に近づく道を拓いたことである。(P214)

 

 

 

肉体について真の表象を形成する試み


(95/06/18)

 

 シュタイナーのいう肉体、エーテル体、アストラル体、自我についてそれを実感するというのはそう難しいことではないんですよね。そこらへんのテーマについては

●シュタイナー「自己認識への道」(人智学出版社)

 という訳書があってそのなかには、「肉体について真の表象を形成する試み」「エーテル体について真の表象を形成する試み」「アストラル体について表象を形成する試み」「自我体あるいは思念体について表象を形成する試み」といった章があって、けっこう面白いです。

 たとえば、通常、「肉体」についてはなんとなくイメージしてはいますが、よくよく考え直してみると、そうちゃんととらえられているとはいえません。参考までに、「肉体について真の表象を形成する試み」から少し。

死後初めて肉体と外的世界との真の関係が現われるという考えは、外的世界あるいは内的世界におけるどんな真実の経験をも否定するものではない。・・・全く偏見なく自己の活動に没頭するならば、魂は自己の深奥において、死後の肉体の崩壊という考えを耐え難いものと化すどんな願望も、肉体の側から発するものではないことを見出すことができる。その崩壊という考え方は、それが、魂や意識的な自己体験は外的世界のに帰滅する物質や諸力と運命を共にするということを意味する時に、初めて耐え難いものとなるのである。・・・

生存中と死後とでは肉体と外的世界との関係が全く異なるとするのは、明らかに無益な考え方である。この考え方は無意味なものとして常に現実から否認されるだろうが、生前も死後も外的世界と肉体との関係は変わらないとする考え方には十分な根拠がある。(P20)

 かつてぼくが「死」を深く恐れていたころを思い出してみると、肉体の死ということと自分の意識作用というのがともに無に帰するという観念から「いまこうしてぼくがぼくだと思っている意識さえなくなってしまうんだ」「・・・なくなってしまうんだ、という意識さえなくなっていくんだ」・・・という無限の合わせ鏡のなかで恐れおののいていたようです^^;。

 しかし、この恐れは、肉体と意識の存立基盤を同定しているといういわゆる唯物論的な認識を前提にしたときに成立してしまうものです。しかし、そこらへんのことをつっこんで考えてみると、肉体の死と意識の消滅ということは、必ずしも同定できないことに気づきます。意識が消滅するかしないかはもちろん???なままなのですが、肉体が物質そのものであるという観点からすると、上記の引用にあるように、

生存中と死後とでは肉体と外的世界との関係が全く異なるとするのは、明らかに無益な考え方

 なわけで、その肉体と外的世界が同じ法則に則っているということによってみずからの肉体についての「真の表象を形成する試み」がなされていかなければなりません。

 つまり、今、私という存在が「肉体、エーテル体、アストラル体、自我」という複合的な存在であるとすれば、生きている存在である以上、私の肉体だけを「真に表象する」ということは素朴にはできないということです。そのためには、「私」から「エーテル体、アストラル体、自我」の部分を取り去ったものとしてとらえなければならないわけです。

従って何よりも最初に私達は、自分たちの内部に、外的世界の法則を感じる。人間の肉体という形で自己表現している諸物質の特殊な構成の内に働いている法則を、である。私達はこの肉体を外的世界の一構成員と感じるが、その内的な働きに対しては依然無知である。現在の自然科学は、外的世界の諸法則が、自らを肉体として表現しているその特異な存在の中で、どのように結合しているかについて、ある知識を提供している。しかし、このような進んだ知識は、魂が自己を肉体との関係を考える時に取るべき方法に対しては、いかなる影響も与えることはできない。逆に、外的世界の法則が、死の前でも後でも、魂に対して同じ関係を持つことを証明する事実をさらに提供することになるだろう。肉体の諸過程はどの程度まで魂の活動の媒体であるのか−−これを自然界についての知識の進歩が外的世界の諸法則から明らかにすると期待することは、幻想でしかない。私達は、生存中に肉体に起こることをより明瞭に認識するであろう。しかし、問題の肉体の作用は、常に死後の肉体における作用がそう感じられるのと同じように、魂にとっては自らの外にあるものとして感得されるであろう。

それ故、外的世界において肉体は独立に存在し、外的世界の一構成員として説明し得るような諸力と物質の構成物として、現われるに違いない。自然は植物を成長させ、再び崩壊させる。自然は人間の肉体を規制し、また自然界の内部においてそれを崩壊せしめる。もし人がこのような考えで自然に相対するならば、彼は彼自身と彼の内にあるすべてのものを忘却し、彼の肉体を外的世界の一構成員と感じることができる。もし、彼がこのように肉体と彼自身や自然との関係を考察するならば、その時こそ、自らの物質体(肉体)と呼ばれるものを体験することができるのである。(P23-24)

  エーテル体、アストラル体、自我に関しても、見ていけば面白いのですが、この「自己認識への道」は、シュタイナーの修行論に関する基本書である「いかにして超感覚的世界の認識を得るか」が前提になったほうが理解しやすいと思いますので、時期を待ってご紹介したいと思います。

 さて、悟った人は、死後すぐに肉体から抜け出せるといいますし、愛にあふれた献身的な方であれば、苦痛にも耐えられるかもしれません・・・というのはあまりに楽観的な話でして、多くの方は、死後の混乱した意識状態にあってそれどころではない^^;。そのときに、すさまじい激痛が襲うことにもなりかねません。特に、肉体を自分を同定しすぎている方は、つらい思いをするのかもしれません。

 こうしたことの真偽は別としても、そういう可能性について少しなりとも想定していおいても損はないと思うのですが、現状でこうしたことをテーマ化するのは通常はとっても難しいですよね。

 自分が思ったことや行なったことというのは、想念体とでもいうものにデータベースとして記録されるようなんですけど、その記録は、反省することによってお掃除できるといいます(^^)。つまり、想念体のクリーニングが反省であって、それが死後の欲界期での気の遠くなるような作業を緩和するといいましょうか。そうした作業を生前にするか死後にするかの違いにすぎないともいえますが、死後は、生前にくらべてその効率が非常に悪いということなのだそうで、やはり肉体やエーテル体という反射板とでもいるようなものの存在のあるうちに少しでも試みてみるものいいかなと思います。ま、こういう話がまったく嘘だとしても^^;、反省して心の引っかかりを少なくしておくということは、日々の精神衛生上にもいいですので、おたがい、反省に励みましょう(^^)。

 死後一番苦しむのは、食欲だと思うんですけど、生前そうしたことを意識できていると、死後のあきらめの良さにもつながるでしょうから、食欲にも反省を重ねておくのがいいでしょうね(^^)。

 しかし、そうした反省のことばかり考えていると、せっかく走っている車が動けなくなるような状態になりかねませんから、安全運転を心がける程度にとらえるのがいいのではないでしょうか。

 

 

 

肉体について真の表象を形成する試み2


(95/06/20 22:47)

 

 死ぬときに、痛いのや苦しいのはイヤです。基本的に臆病者ですから、けっこうじたばたするかもしれません^^;。拷問なんかされて、「白状しろ!」なんて言われると、「はい、何でもしゃべりますから許してください」なんてすぐに自白するかも。でも、死ぬことそのものは、あまり恐怖感は感じないようになりましたからかつての自分にくらべると少しは潔くなっているような気がします。

 死後の世界を考えるのはむしろ逃避であるかのように思っていたのですが、神秘学を学んでから、それが誤解であることに気づきました。さまざまな可能性についての認識を、自己認識としても、また世界認識としても深めていくというのが必要だということに気づいたのです。気づいてから、やっとこさ歩み始めることができたように思います。そして、気づいたらもう後戻りすることはできようはずもありません。あとは、生きているうちにどれだけ歩めるかという自分との闘いが続きます。そしてそれは決して苦しみなんかではなくて、非常な喜びです。「あ、わかった!」という「ユリイカ!」の連続が待ち受けていますから、こんなうれしいことはないわけです。そうなると、「なぜこれまで自分で自分を閉ざしていたのだろうか」と疑問さえ浮かんでくるくらいです。

 知ってしまえば、もうなあなあで済ますのは物足りないし、どうも落ち着かなくなりますから、学ばざるを得なくなります。ぼくも知ってしまってからは、飛躍的に質量ともに学ぶことが増えました。

 さて、仏教などが陥りやすい魔境は、反省だけで終わってしまうことだと思います。肝心なのは、いっしょうけんめいに生き抜くことであって、いくらプランを山のようにつくったところで、それを自分で生きることができなければ、どこにもいけないんですよね。もちろん、な〜んにも考えずにただただ走り回っているタイプもいますが、それもまたどこに行ってしまうかわからないので、ちゃんと計画性を持つこと、目的をちゃんと持つこと、ちゃんと実践すること、そして実践とともに反省すること、そうしたバランスというのが大切だと思います。

 

 

 

肉体について


(95/10/02)

 

 シュタイナーは、人間の肉体というものを重要視していました。ご存知の通り、シュタイナーは現在の人間の構成要素を肉体、エーテル体、アストラル体、自我というふうに説明していますが、この4つの構成要素のうちで、いちばん歴史が古いのが肉体なわけです。

 シュタイナーは、地球の転生を、土星紀、太陽紀、月紀、そして現在の地球紀というふうに説明していますが、もっとも古いのが土星紀で、その土星紀に肉体の萌芽ができます。

 ちなみに、太陽紀にはエーテル体の萌芽、月紀にはアストラル体の萌芽、そして現在の地球紀にようやく自我の萌芽ができます。つまり、肉体は、土星紀からの長いプロセスを経て、人間の現在の構成要素のなかではもっとも完成されているといえます。

 これからも人間は、地球の転生のプロセスとともに、新たな構成要素を発達させていくのですが、次に発達させるのが自我がアストラル体に働きかけて変容させた霊我、続いて、自我がエーテル体に働きかけて変容させた生命霊、そして、自我が肉体に働きかけて変容させた霊人です。つまり、肉体の変容させた構成要素である霊人こそが、現在の進化のスパンではもっとも高次のものなわけです。

 そうした肉体のあり方というのは、シュタイナーのいう「キリスト」、パウロが復活したキリストとして「コリント書」のなかで、もしキリストが復活しなかったとしたらすべての信仰は空しくなると述べたその復活したキリストということと非常に深い関係にあります。そこらへんのことは、シュタイナーの連続講義の「イエスからキリストへ」に詳しく語られているのですが、残念ながらまだ邦訳がありません。

 しかし、そこらへんのことについては、高橋厳さんの「千年期末の神秘学」(角川書店)のなかの第6章「キリスト衝動」で扱われていますので、そのなかから該当個所をいくつかご紹介しておきます。 

肉体は宇宙創造の出発点から今日まできているので、もっとも長期間に亘営為の結晶であり、人間存在を構成するものの中でもっとも高度に発達した部分なのです。そのいちばん発達している肉体が本来、目に見えない性質のものだというのです。見えているのは、その肉体に物質素材が入り込み、エーテル体、アストラル体、自我と結びついているからで、純粋な肉体形式そのものは可視的ではないのです。眼に見えず、透明に輝いているのです。そういう肉体の形が、そもそもの宇宙の発端から、神々によって与えられ、時代とともに進化発展してきたのです。

その眼に見えない肉体形式のことを、シュタイナーは「ファントム」と呼びました。「ファントム」とは、物体の構成部分を形式と素材に分けるとき、素材の働きから自由な形式そのもののことをいうのですが、単なる形式であるにとどまらず、素材に働きかけて、物体を構成しようとする意志をもった形式のことです。その形式は非常に強い意志をもって人体を形成してきましたが、その形式に盛り込まれた内容(素材)が堕落しているのです。・・・

ですから二つの人体があるのです。現実の人体と理想の人体の二つです。現実の人体は遡るとアダムにまで行き着くのに対して、理想の人体はキリストに行き着くのです。この二つを併せ持っていることが、われわれの肉体の意味なのです。人体とは、言い方をかえれば、自然の体と霊の体のことです。それでパウロが、「コリントの信徒への手紙」で、「自然の体で朽ち果てて、霊の体で甦る」と書いたのです。(P147-149)

 続いて、ではなぜ肉体の存在が重要なのかということに関しても見ておくことにします。

シュタイナーがキリスト教の本質を復活論の中に見て、パウロ的なキリスト教を大切にしようとしたのは、人体の存在が本当に重要だということを知っていたからです。なぜシュタイナーは、人体のことをそれほどだいじにしたのでしょうか。そもそも人体は土星紀から、神々が長い時間をかけて創り上げてきました。人間は人体から始まったのです。もちろん人間の人格にとって本当にだいじなのは、人体ではなく、人体の中の自我です。けれどもその自我は、肉体がないと発達しません。自我と肉体とは不可分の関係にあって、それを媒介するのがその中間にあるエーテル体とアストラル体なのですが、肉体は人間の自我を発達させるいちばんの大切な道具なのです。人間には肉体がありませんと、地上を生きる人間の課題を果たす自我が、その力を十分に発達させることができません。(P153)

 もっと詳しく説明すると面白いのですが、長くなりますのでこのくらいにしますが、こうした考え方の展開として、シュタイナー教育などもあるわけで、ここらへんは基本的にきちんととらえておく必要があるように思います。

 

 

 

中と愛など


(95/10/10)

 

 ガイスト、デーモンスペクトル、ゲシュペンスト、ファントムについては、シュタイナーもそこらあたりはあまり詳しく説明してないのですが、ぼくなりのとらえかたでご説明してみることにします。

 ガイストは自我に、デーモンはアストラル体に、スペクトル、ゲシュペンストはエーテル体に、ファントムは肉体に侵入・浸透するとありますが、まずこれらは必ずしも否定的にとらえる必要はないことを確認しておきます。それは、みずからの自我、アストラル体、エーテル体、肉体それぞれのレベルに働きかける諸存在であって、それは言ってみれば、波長が同じだから、その影響を受けてしまうとでもいえるのではないでしょうか。

 キリストとファントムということで以前ご説明しましたが、この場合は、このファントムというのは肉体の理想的な理念とでもいうものを言っていたわけで、理想的な理念ではないファントムももちろんあるわけです。そのように、人間の自我、アストラル体、エーテル体、肉体は、転生の過程で、理想型からどんどんゆがんだものになることがあり、その歪み方に応じてそれぞれのレベルの存在たちが影響してきます。それを「憑依」だとかいうことで言ったりもしますよね^^;。極端になると、ほとんど乗っ取られた状態になることもあるようです。分裂病や多重人格という現象の多くはそうした極端な状態なんですよね。

 でもって、テキストにあるように、「秘儀参入者たる導師は修行を伝授し、人々が肉体、エーテル体、アストラル体に侵入した存在を追い出して自由になるようにさせます」というのは、まずは、そういう影響に対する自由度を獲得できるようにし、そのうえで、理念形としてのファントムなどを受け入れるようにするわけです。

 えっと、最初に言いましたように、ここらへんのことについては、あまりシュタイナーは詳しく語っていないようなので、参考までに「神智学大要」(たま出版)から参考になりそうなところを少し。

人生には、いろいろな種類の好ましからざる影響から、自分や他の人々を守るために、エーテル質料でももって殻や防護膜を造ってよい場合、あるいは造るのが望ましい場合があるものである。・・・

ある種の異常な場合には、特殊な存在者[亡霊など]が他人の肉体に取り憑こうとする場合もある。また、たとえば、汽車などでヴァンパイヤー型の人や、好ましからざる劣悪なる気を放射している人の近くで寝たり、病人や病毒の蔓延している場所を訪れたりする場合にも、生気を抜かれることがある。

(「1エーテル体」P153-154)

  こうした存在たちというのはほんとうにたくさんいるようですが^^;、ま、そういう影響があるのだということに意識的であることが必要で、そのこととと同時に、自分のさまざまなレベルにおける身体についてその状態を理想的なものにするべき努めるということが求められるということです。

 中道に関しては、「中」を弁証法的なダイナミックな展開のプロセスとしてとらえていくことがまず必要だと思います。

 中道のないところに愛はない、ということですが、愛とは、いったん切り離されたものを結びつける働きだともいえます。本来は一なるものがさらに大いなる一に展開するために分かれ、その分かれたものをもう一度高次の意味で結びつける。その結びつけるという愛の働きそのものはまさに「中」というダイナミズム以外の何者でもないということです。愛は調和だともいわれますが、それは静止したあり方ではなく、ダイナミックな発展的な展開そのものだと思うからです。ダイナミックな調和、矛盾を合していく展開のあり方こそが中であり愛であるという視点です。つまり、すべてを生かしながら調和に導き進化していく運動ということです。

 中道というと、天台大師の空・仮・中という三諦円融というのが有名ですが、「諦」とは真実という意味で、空(霊的なあり方)なるものも真実、仮(現世的なあり方)も真実であるが、そのどちらも尊重しながら、そのどちらにもとらわれない「中」というあり方を求めながら、そのダイナミズムを生きよ!ということだとぼくはとらえています。

 この「中」ということについては、語れば長くなりますが、とりあえず、こういう感じでご理解いただけますでしょうか。

 

 

 

ソフィア試論


(95/10/12)

 

 ロゴスとソフィアに関しては、高橋厳さんの「神秘学講義」(角川選書)のなかに、まさに「ロゴスとソフィア」という節がありますので、まずそれをご紹介させていただくことにします。

 ただ、これらのとらえ方は、シュタイナー的な観点を基軸にしながら、それをぼくなりに解釈したものですので、念のため。

 まずは、上記の本の、検討すべき必要個所の引用紹介からいきましょう。

理性による学問の特質をロゴス、そして感性の場合をソフィアと名づけますと、理性と感性の対立は、学問におけるロゴス学とソフィア学の対立になります。従来学問のほとんどがロゴスの学問であったために、・・・われわれはレグレッシブな認識の機能をほとんど考えずにすませてきました。つまりソフィア学はほとんど現代の学問体系には組み込まれていないのです。(P79)

  でもって、グノーシスにおけソフィア論として、アレクサンドリアのフィロの次のような言葉も、ロゴスとソフィアの興味深い関係を表わしています。

ロゴスには両親がある。神なる両親が存在していた。そして父は神そのもの、万物の父なる神であり、母はソフィアである。

  で、この「母はソフィアである」ということから、キリスト教においては、「マリア=ソフィア」という考え方がでてきます。

キリスト教になってきますと、ソフィアはマリアと結びついて、マリア=ソフィアという考え方がでてきます。そしてマリア=ソフィアというのは結局は、聖霊のことになってくるわけです。

聖霊については、ヨハネ福音書の第十四章以下の一番大事なキリスト告別の中に、キリスト教における一番深い思想として語られていると思いますが、そこでいう聖霊とは、自分はいまこの世を去るけれども、そのあとで、自分のかわりに「助け主」があなたがたひとりひとりの心の中に入ってくるであろう、だからもし、それぞれが心の中にこの助け主を受け入れる用意ができたら、自分以上のなぐさめ手となる助け主が、ひとりひとりの心の中に生きてくるだろうという話をキリストが別れに際して弟子たちにする際の、その助け主、もしくはなぐさめ手のことです。

そのような救い主、もしくは助け主としての聖霊を、キリスト教ではソフィアと考えるのです。(中略)

そこで、神秘学の場合には、いま言いましたことを全部ふまえて、ロゴスが生まれてくる以前の精神の根源的な営み、言葉や概念や表象等々が心の中にあらわれる以前の、それらを生み出すもとになる働き、それをソフィアと考えるわけです。イマジネーションもしくは想像力を通して働くのです。それに対してロゴスは、概念と言葉とを通して働きます。(P84-85)

  高橋厳さんのソフィアの説明はここまでですが、さらに、このソフィアについて独特のとらえ方をしている方にソロヴィヨフがいます。

 このソロヴィヨフは、シュタイナーも非常に評価していた方でもありますし、また、ドストエフスキーが「カラマーゾフの兄弟」のなかの登場人物がこのソロヴィヨフではないかといわれている方です。

 さて、ソロヴィヨフの「ソフィア論」ですが、ソロヴィヨフは、先のマリア=ソフィアのような考え方をさらにすすめて、いわば「母なる大地」の人格化とでもいうべき「永遠の女性」としてとらえます。ここらへんのことについては、ソロヴィヨフを紹介しているものを読まれるより、それを踏み台にしながらキリスト教の新しい展開を模索した著作であり、さらにまたそれを西田哲学の展開としてもとらえている格好な

 ●小野寺功「大地の神学/聖霊論」(行路社)

 というのがありますので、それを使いながら、ソフィアについての理解を深めてみようと思います。

キリストに働く絶対的実在者の創造的統一原理は、明らかに言葉(ロゴス)であり、そのロゴスによって規定され、実現された統一こそ、ソフィアと呼ばれるのである。ソフィアはこの意味ではまぎれもなく「神の身体」である。そしてこの統一を実現するキリストは、ロゴスであると同時にソフィアである。従って、ソフィアはキリストの中に含まれる、理想的、永遠的人間性を指すことになる。

そしてこの場合、極めて重要なことは、ソフィアが「神の場」と考えられたことである。・・・ソロヴィヨフが委曲をつくして説明するところによれば、父なる神から子なる神がロゴスとして発出すること自体、神は他者との関わりにおいて自己を顕現することなのであり、この区別の前提となるのは、神が現実に啓示され、働かれる「場所」なのである。そして、この場合、神的な働きに関与する場所を、ロゴス自体だということはできない。何故なら、ロゴスとは同一の神の現われに外ならず、元来現われるということは、他者を前提にしたものであるからである。そしてソロヴィヨフは、かかる「場所」を「永遠なる人間」としてのキリストの人間性の内に見出した。ソロヴィヨフの場合、この「永遠なる人間」は常にソフィアを意味するのである。(P81-82)

  つまり、「ロゴス」の顕現、その働く場所、ロゴスを受け入れる器、そうしたものを「永遠なる人間」としてのソフィアとしてとらえているわけです。それを誤解を恐れず言うと、天としてのロゴスが、大地性としてのソフィアとして顕現し、人間という場所において「永遠なる人間」として働くということです。人間はその際、そのソフィアを受け入れる「器」とならなければなりません。むしろ、その器そのものを「ソフィア」といってもいいのかもしれません。

 そうしたソフィアのとらえ方と深く関係していると思われるのが、ホルスを抱くイシス、そして「聖杯」です。

 まず、「ホルスを抱いたイシス」ですが、それについては、シュタイナーの「神秘的事実としてのキリスト教と古代密儀」(人智学出版社)ご紹介します。

オシリス神話は、永遠的な契機を自己の内部に覚醒させようとする者の範となる。オシリスはティフォンに殺され、分断される。この遺体の断片は、妻のイシスにより手厚く守られる。オシリスは、死後、イシスに光を降らせる。この光により、イシスは身ごもり、ホルスを生む。このホルスが、オシリスの地上での仕事を引き受ける。ホルスは。まだ不完全ではあるが、真のオシリスを目指す第二のオシリスである。−−真のオシリスは、人間の魂の内部に宿っている。人間の魂はさしむき無常な存在である。だが、この無常な存在が永遠なるものを生むべく定められている。人間は、それゆえオシリスの墓と見ることができよう。低次の自然(ティフォン)が、人間内部の高次の自然を殺す。人間の魂内部の愛(イシス)は、遺体の断片を手厚く保護せねばならない。次いで、高次の自然、つまり永遠の魂(ホルス)が生まれ、これがオシリス的存在を目指す。最高の存在を目指す人間は、マクロコスモスでもオシリスの宇宙過程を、自らの内部のミクロコスモスで反復しなければならない。これが、エジプト的な「秘儀参入」の意味あいである。(P108-109)

 一度殺され分断されたオシリスが、第二のオシリスとしてのホルスとしてイシスの懐のなかで真のオシリスとして育っていきます。表現をかえれば、ロゴスは大地にふれて死した後、ソフィアとして再生する、または、西田哲学の用語でいえば、絶対無としてのロゴスが、逆対応的に、平常底として、「永遠なる人間」と化するといえばいいでしょうか。

 このように説明すればけっこう難解ですが、これを「聖杯」ということで説明してみましょう。これは少し前にご紹介した、浅野信「ハルマゲドンを超えて」(ビジネス社)に適切な説明がありましたので、その部分を改めてご紹介します。

「聖杯」という魂の枠が広がってくるにつれて、その己の「聖杯」−−すなわち心臓、ハートですが−−この「聖杯」というハートの魂の容器が、地球大に広がってくるのです。

私たちはこのようなイメージを今見ています。すなわちグリーンの大きな聖杯です。一つの大きな聖杯、そしてその聖杯の器の中には青い地球が盛られています。この聖なる杯には、地球が乗っているのです。なぜならこの青い惑星地球は愛なのです。これを人はワインとも呼ぶでしょう。「新しいワインは新しい杯に」。これが新しい時代の新しいイメージです。

地球は新しいワインです。キリストの血液は新しいワインとして、大きな一つの杯に盛られるようになるのです。青い地球をもし溶かすことができれば、それは新しいワインとなるでしょう。地球生命体の血液は新しいワインです。人々の認識能力が高まってきます。それによって、このような新しい聖杯のイメージが浮上してきます。その時にそのワインは輝かしい愛のオーラを放つことでしょう。グリーンとブルーが混じり合った、それがこの地球のオーラです。

(P107-108)

 人間は、ロゴスを受け入れる器にならなければなりませんが、その器がソフィアであり、「聖杯」です。その聖杯には、キリストの血が注がれます。「聖杯」は、「ハートの魂の容器」です。つまり、アストラル体を浄化し、魂をキリストの血の注がれるにふさわしい器にするということです。

 キリストは、十字架の上で、血を流し、その血は大地に注がれました。そのことで、天としてのロゴスが大地に深く浸透しました。また、その血を受け入れた器が「聖杯」です。大地性をそなえた人間が、「永遠なる人間」となるためには、ロゴスを受け入れる魂の器を「聖杯」とすることが必要です。

 シュタイナーは、ソフィアを「浄化されたアストラル体」であるといいますが、まさに、人間ひとりひとりが魂を聖杯とすることが、青い地球を盛る大きな聖杯を用意するということなのです。

 仏教では、反省ということが説かれますが、それは自我がアストラル体を貫き、それを浄化していくことです。そしてそうしたあり方に加え、阿弥陀如来の光をあまねくこの地上に注ぐという大乗仏教的なあり方こそが、大きな聖杯づくりということでもあります。

 ・・・ということで、説明足らずのところや、かなり飛躍しているところもありますが、ロゴスとソフィアということに関しては、こうした観点を見ていく必要があるのではないかということを少しだけ概略的にご提示してみました。

 


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