シュタイナーの色彩論の一部をここで紹介してみることにしたい。
シュタイナーは1884年〜1897年の間、「ゲーテ自然科学論文集」全五巻を編集しているが、そのなかの第三巻〜第五巻に収められているのがゲーテの色彩論である。シュタイナーは現代の自然科学の成果の上に立ってゲーテ的な意味での色彩論を書くことを「わたしの人生のもっとも美しい課題」としているが、その成果の一端は、次の訳書で日本の私たちにもふれることができるものとなっている。
●シュタイナー「色彩の本質」(高橋厳訳/イザラ書房)
●シュタイナー「色彩の秘密/『色彩の本質』秘教篇」(西川隆範訳/イザラ書房)
通常の色彩に関する研究の現在について概観するには、今年に入って刊行された手軽なものがある。
●大山正「色彩心理学入門/ニュートンとゲーテの流れを追って」(中公新書)
副題にもあるように、色彩の研究には大きな二つの流れがあって、それはニュートンの「光学/光の反射、屈折、回折、及び色に関する論述」で論じられたプリズム実験による色の物理学的側面を中心に扱ったものと、そのニュートンの色彩論への批判という形で展開されたゲーテの「色彩論」における色彩体験の主観的な体験の現象学である。
この本ではその二つの流れを端緒として、その両者に欠けているという「色覚の生理学」についてドールトンの色覚異常研究やヤング−ヘルモホルツの三色節、ヘーリングの反対色説などが紹介されたりしているが、大きくはニュートンとゲーテに色彩論の方向性は大別できるものと思われる。
シュタイナーの色彩論の方向性は、最初に述べたようにゲーテの色彩論の流れにある。シュタイナーはゲーテのニュートン批判のようにニュートンの色彩論を批判しているが、そのすべてが肯定すべき見解であるとはいえない。しかし、基本的にニュートンの「光学」の延長線上にある現在の色彩の考え方、つまり、色というものは光が目に入り、それで生じた神経作用が大脳に伝えられたときにはじめて生じる感覚であって、自然界にはさまざまな色の感覚を生じさせる波長の光があるだけであるという考え方に対する根本的なアンチテーゼとしては、注目に値するのはないだろうか。
「色彩の秘密」に収められた「霊的諸存在と虹」の章では、シュタイナーはニュートンの色彩論が信仰箇条となっていったことなどについて次のように語っています。シュタイナーの神秘学的な言葉使いに戸惑われる向きもあるだろうが、シュタイナーのいうような「人々は、一方では物理学者のいうことを聞き、他方では絵画を見ます。しかし、その両者を統合しようとは思いません。画家は。この両者を統合しなければなりません。」という言葉にみられるように、ゲーテ的な色彩論を採用しそこに見られる自然への理解のために、ニュートン的な意味でのあまりにわかりやすい科学的信仰から目を覚ます必要があるのではないだろうか。たとえば、そうした「科学的信仰」では、空がなぜ青いのか、朝焼けや夕焼けの意味についても、おそろしく複雑かつ陳腐な説明しか可能でなくなる。結局、その波長の光がある、としかいえないのである。これでは、自然の神秘はまるで解明できないのは当然なのである。
ニュートンの色彩論からは、霊的世界についてなにも知ることができません。 ゲーテのように霊的世界から刺激を受けた人はニュートンの色彩論に対して、真正な色彩論を打ち立てて、ニュートンに恥辱を与えました。ニュートンに対してほど、ゲーテがぼろくそに語ったことは、ほかにありません。ゲーテは、ニュートンの愚にもつかない色彩論を手ひどく罵っています。今日では、ゲーテのこのような悪態は理解できないものになっています。ニュートンの色彩論を承認しない者は愚か者だと物理学者がいうからです。けれども、ゲーテの時代にあっては、ただゲーテひとりがこのような反論をしたのではありません。外部にむかって発言したのはゲーテひとりでしたが、十八世紀にいたるまで、識者はいかに色彩は霊的なものから流れ出るかをはっきりと知っていました。空気は光の影です。光が生じると、ある条件下に影が生じます。色彩が存在 し、その色彩が空気要素のなかで作用し、空気中にきらめくように飛び散ると 空気要素のなかにある別の要素が生じます。ある条件の下で、圧力によって逆流が生じるように、色彩から液体状、水状の要素が生じるのです。光の影が空気であるように、水は色彩の反映なのです。
理解しがたいことかもしれませんが、一度、色彩の真の意味を把握しようとしてみてください。たとえば赤というのは、なにか攻撃的な色です。赤の前を走り去ろうとすると、赤は人を突き返します。青紫にむかって走ると、青紫はわたしたちから逃げ去り、ますます遠くなっていきます。色彩のなかになにかが生きているのです。色彩は一個の世界です。心を込めて色彩を体験すると、 感動せずにはいられません。そのように魂は、色彩世界のなかで自己を感じるのです。
まず、何よりも大切なのは色彩を抽象化するのではなく、それを実際に体験することではないだろうか。抽象化されて語られた色彩には「いのち」の輝きはないから。末永蒼生さんの「色彩教室」があるが、まずはそうした体験的な色彩体験からはじめなければならないと思う。
色彩には歴史があり、さまざまな文明がさまざまな色彩で彩られていたが、そうした色について考察するときにも、物理学的な説明でその色を説明したところで、何もわかったことにならないのに気づかねばならない。
「シュタイナーの色彩論」の第1回目として、最後に、上記に紹介した意外で、今後引合にだすであろう主な文献を紹介しておくことにする。機会があれば、参照されたい。
●ゲーテ「色彩論」(木村直司訳「ゲーテ全集14/潮出版社」所収)
●ゲーテ「色彩論/色彩学の歴史」(菊池永一訳/岩波文庫/赤407−4)
●城一夫「色彩の宇宙誌/色彩の文化史」(明現社)
●is 総特集「色」(ポーラ研究所)
●北沢方邦「数の不思議・色の謎/日本文化の記号を読み解く」(廣済堂)
シュタイナーの色彩論の第2回目として「色彩の本質」の中の「色彩体験と四つの像の色」「色彩の像と輝き」、「色彩の秘密」(イザラ書房)の中の「像の色と輝きの色」から、振動としての抽象的な色彩ではなく、体験としての色彩について。
シュタイナーは、「緑」「桃色」「白または光」「黒」を像の色、または影の色、それに対して、「青」「黄」「赤」を輝きの色、影のような像から輝き出る色、としている。
まず、「像の色」について。
たとえば植物の「緑」の色。シュタイナーは、その色が「生命の死せる像」を表しているという。それは肖像画に描かれた先祖が先祖そのものでは決してないようなもの。今見ている緑の中には、植物の像だけがあって、植物の本質を見ているわけではない。植物の本質とは、生命であり、その緑の色はその像である。
このように、色彩の世界は現実の世界ではなく、像であり、それが生命の像、魂の像、霊の像、死の像となる。
さまざまな自然界、死の世界と生命の世界と魂の世界と霊の世界とをとりあげるとき、ちょうど私が死から生へ、生から魂へ、魂から霊へと昇るように、黒から緑へ、桃色へ、白へと昇っていきます。私が死から生を通って、魂と霊の世界へ昇っていけるように、私が私を取りまく周囲の世界の中で、黒から緑へ、 桃色へ、白へと昇るとき、私は私を取りまく周囲の世界を像として見いだすのです。……私はいろいろな現実世界の中でその現実世界を辿っていけます。そして自然は私にこれらの現実世界の像をも与えてくれます。自然はこれらの現実世界を像に変えます。色彩の世界は現実の世界ではありません。色彩の世界は自然そのものの中でさえも像なのです。死の像は黒です。生の像は緑です。 魂の像は桃色です。そして霊の像は白です。
このことによって私たちは色彩の客観的世界の中に導かれます。色彩の本性、色彩の本質の中に入っていけるには、このことを前提にしなければなりません。色彩が主観的な印象に過ぎない、と述べるだけでは何の役にも立たないのです。
(「色彩の本質」(イザラ書房)より)
「桃色」「緑」「黒」「白」という色彩は「像」であり、世界の中で「像」の性格をとって存在している。そしてそれらの色には次のような図式が成り立つ。
●緑/生の死せる像を表す
●桃色/魂の生きた像を表す
●白または光/霊の魂的な像を表す
●黒/死の霊的な像を表す
そしてこの図式を円に置き換えると、色彩の客観的本質についての上記の色の相互連関を見ることができる。(「死−生命−魂−霊」、「死の霊的な像」〜「魂の霊的な像」、そして「黒」〜「白」というのを円環としてみてください^^;)
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死
死の霊的な像
黒
霊 魂の霊的な像 白 緑 生の死せる像 生命
桃 色
魂の生きた像
魂
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また、これらの4つの色が像として現れるとき、その「影を投げるもの」と「輝くもの」とを区別しなければならない。
影を投げるものが霊であれば、その霊は自分に向かって投げかけられるものを受け取ります。そして輝くものが死であれば……、その場合には既にみたように、霊の中に死の像として、黒が生じます。影を投げるものが死であれば、そして輝くものが植物のような生あるものであれば、緑が生じます。影を投げるものが生きたものであり。輝くものが魂であれば、像として桃色が生じます。影を投げるものが魂で、輝くものが霊であれば、像として白が生じます。
(「色彩の本質」(イザラ書房)より)
つまり、「影を投げるもの」と「輝くもの」と「像」との関係は、次のようになる。
<影を投げるもの> <輝くもの> <像>
霊 死 黒色
死 生 緑色
生 魂 桃色
魂 霊 白色
続いて、「輝きの色」である「青」「黄」「赤」について。
「青」「黄」「赤」は「輝く」という性格をもち、そのなかで何かが光輝く。それらの色は本質的なものの外側であって、「像」をもつ色とは反対の性格をもっている。
「輝き」というのは、本質がそれによってみずからを外へと表すもので、それらの色はみずからの内に輝く性質をもっているのである。
では、それらの色はどういう「輝き」をもっているのだろうか。
黄は外へ輝き、青は内へ輝き(輝きが内へ集まり)、そして赤は両者を中和して、一様に輝きます。この一様に輝くものを、運動する白と黒の中へ輝かせると桃色が生じます。静止した白の方へ、一方では黄と他方では青とを照射させ ますと、緑が生じます。(「色彩の本質」(イザラ書房))
さて、物理学ではこうした色彩を、「赤」「橙」「黄」「緑」「青」「藍」「紫」というように、単純に色を順番に並べているだけだけれども、そういうふうに並べるだけでは、色相互の働きあいについて考慮したいることにはならない。色相互の運動とでもいうことを考えなければならないのである。つまり、それを「円環」として、次のように、上下に像の色、左右に輝きの色を記して、記すことができる。
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黒
<像の色>
桃 色
赤 紫
<輝き> 橙 ↑ 藍 <輝き>
黄 青
緑
<像の色>
白
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もし私が今、白から初めて、(下から上へ)上っていくなら、その白は緑の中に入り込むでしょう。それから(上から下へ)黒がこの白に向かい合い、そして互いに引っ張り合います。そしてそこに、赤い輝き(緋色)が加わって、桃色を作り出します。このように白と黒とは、互いに掴み合い、働き合う色として考えなければなりません。(「色彩の本質」(イザラ書房))
さて、再び「輝きの色」に話を戻すと、その「輝き」とはいったい何が輝くのかという疑問が起こってくるが、それは次のようにいうことができる。
●「黄」は、「霊の輝き」
●「青」は、「魂の輝き」
●「赤」は、「生命の輝き」
黄色は私たちを快活にします。快活であるというのは、魂を大きな生命力で充たすことです。ですから黄色によって、私たちは私たちの自我によりふさわしくなるのです。別な言葉でいえば、私たちはより霊化されるのです。黄色の根源的本性は外へ向かって拡がり、薄れていきます。その輝きが今、皆さんの内部へ向けて輝くのです。それが皆さんの内部で霊として輝くとき、「黄色は霊の輝きの色である」、と皆さんは言うでしょう。青色は内的に集中し、鬱積し、内的に持続します。それは魂の輝きです。赤色は空間を一様に満たし、中心を保持します。それは生命の輝きです。(「色彩の本質」(イザラ書房))
さて、ここでこの「輝きの色」と「像の色」と比べてみることにする。「緑」は「生命の像」であった。それに対して、「生命の輝き」である。
白い画面上の赤い色を見つめ、その赤を急に取り去るとしよう。そうするとその画面上には、残像として「緑」が見える。赤が見る者の中へ輝き入り、その像を見る者の内につくりだしたのである。つまり、生命の像を作り出すために、それを殺さねばならないということである。
「輝きの色」は能動的な性格をもち、「像の色」は 受動的な性格をもつということができる。
色彩について体験しようとするなら、色彩世界の中にとどまり、色相互の関係について、輝くものやその影を見なければならない。
いかに世界は桃色、緑、黒、白という像の色彩と、像の色にそれぞれ相応した啓示の輝きを与える赤、黄、青の輝きの色彩から成り立っているかを感じとると、わたしたちは色彩のなかに生き、感情によって色彩を理解します。このようにして、色彩の世界の輝きと形象のなかに生きると、内的に、魂から画家になります。色彩とともに生きることを学ぶからです。個々の色がわたしたちに、なにを語ろうとしているかを感じとれるようになります。(「色彩の秘密」イザラ書房)
こういう視点を持って、ルネサンスの絵画などを鑑賞するときに、こうした忘れられた色彩宇宙の余韻がその中に生きていたのがわかる。赤は近づき、青は遠ざかるという色彩遠近法、内的遠近法なども、まだその時代には生きていたのである。
朝焼けや夕焼けのときのように、闇を通して光を見ると赤い色が見えます。
シュタイナーはいいます。
闇を通して光を見ると、赤く見える。闇を通して見た光は赤い。
この反対に、「光を通して見た闇は青い」といいます。
これが色彩論の2つの基本法則であるとシュタイナーはいうのです。こうした考え方は、古代のアジアでも古代のギリシャでも当然のように考えていたようです。
これは14・15・16・17世紀へとなるにつれて、人々が「賢く」なるまではこうした考え方があったといいます。こうした考えはニュートンの色彩論が風靡してなくなってきたようです。
闇と光。それを単に、闇に光を当てると闇は消える、とかいうのはあまりにも軽率な光中心の考え方であることは言うまでもありません。しかし、それがなんとあまりにもまかり通っていることでしょうか。わたしたちは、そうした軽率な考え方に注意深くなければなりません。そうでなければ、色彩はその輝きを失ってしまうからです。
ちなみに、闇を通した光、光を通した闇についてシュタイナーはこういうこともいっています。
闇を通した光=赤は血液を破壊し、身体から酸素を吸収し、目に活力を与える
光を通した闇=青は神経を破壊せず、身体はよい気分を目に送る
色彩を生きるということをもっともっと大切にしていきたいと思うこの頃です。
「シュタイナーの色彩論」で概略説明したように、「黒」は「死の霊的な像」を表す。影を投げるものが霊、輝くものが死であり、その像が黒となる。
また、「赤」は、「黄」が外へ輝き、「青」が内へ輝くのに対し、両者を中和して一杯に輝く色である。「赤」は、「黄」が霊の輝き、「青」が魂の輝きであるのに対し、「生命の輝き」である。
また、赤の補色は「緑」であるが、「緑」とは「生命の死せる像」であるという。この「赤」と「黒」について、その文化史的背景を調べてみたのでまとめてみる。
参考にしたのは、●城一夫「色彩の宇宙誌/色彩の文化史」(明現社/1993)。
まず、「赤」について。
古代から赤は血の色、炎の色という強烈な色であることから「太陽」、「生と死」、「戦闘」、「歓喜」、「怒り」「悪霊を防ぐ」象徴的な色として用いられてきた。
古代エジプトでは、緑の顔をしたオシリス、白い神ホルスに対して、赤は赤く塗られた太陽の舟を運ぶ役割「セト神」と関連づけられている。
ギリシャでは、木蔦は赤い染料で塗られ、豊穣祈願の象徴とされた。ローマでも、太陽に関係している豊穣神マルス、バッカス、処女神ディアナの衣服の色として尊ばれたという。特にこの月の女神ディアナの信仰はは「赤頭巾」の話として伝承されているという。
北欧の神トール神は赤い髭をつけ、ハンマーをふるって雷と稲妻を起こす。
また、赤は、ヒンズー教の月の女神ソーマロヒティー(空の赤い予言者)の色、美と幸運の女神ラグモユミーの聖なる色であり、イランの太陽神も赤い衣服を着て、「赤い食べもの」といわれる神々の食べものを食べる闇の神々と戦う。
キリスト教では、赤は、神の愛と贖罪の血を象徴する色である。イサクの子エサウは「赤くて全身毛ごろもようであった」と聖書にあるように、神に良しとされた子は赤い身体をしている。受難の色、復活の色としての赤は、キリスト教の聖徒や殉教者の外衣の色であり、毎月の聖餐式に赤い葡萄酒がでる。
次に、「黒」について。
シェイクスピアの「黒の衣服は悪魔にくれてやり、赤い服を着よう」「黒は地獄の記章、地下牢の色にしてまた夜の衣」とあるように、悪魔、悪霊は通常黒で表される。
黒は、インドの破壊の神シバとその妻バルハティとカリの象徴の色である。カリは、真っ黒な身体に骸骨の首輪をしただけの真っ裸の姿で、シバの死体の上で誇らしげに立つ。
セス神はエジプトの悪の神であり、黒の神であり、オシリスとホルスに敵対する。冥界の使者であるアヌビスの顔は黒く描かれる。
キリスト教社会では、黒は白とともに改悛、謙虚、希望を表し、儀式や職制上重要な色である。
キリストの降臨祭、四旬節、聖金曜日、告別式んどに衣装などに用いられる。
中国の陰陽五行説では、黒は北、冬などと対応し、冥府の世界に通ずる。
かなり羅列的になるが、最後に
●北沢方邦「宇宙論としての色彩」(ポーラ研究所刊「is/色」所収)より
黒と赤に関係している部分をいくつか抜き書きしてみる。
……われわれの文化において天が白であるのは、明あるいは光の源泉が天にあり、また地が黒であるのは、暗あるいは闇が地下に固有のものであるという宇宙論に由来する。いうまでもなく、最大の光の源泉は女神アマテラス、すなわち太陽であるが、夜の闇においても男神ツクヨミ、すなわち月と高天原の神々である星々が、白い粒(つづ)または白玉として支配している。……
……地が黒であるのは、死者の国であるヨミが地下であり、死んだ妻を訪問したイザナキが、櫛の歯を欠いて燭火としなくてはならないほどのヤミ(ヨミはヤミの音韻転化であるという)に閉ざされていたことに由来する。…
しかし、この同じ黒が、中国やホピでは天の色となるのはなぜだろうか。いうまでもなくそれは、太陽系以外に属する天体以外のすべての天体が、(地球からみて)それをめぐって運行している真の天頂としての天の北極(みかけの天頂ではなく)が、宇宙論の中心であるとする認識による。……
したがって中国では、天頂=天の北極こそ天帝の座であり、夜の色すなわち黒こそ、万物を支配する天帝の色であったのだ。天の北極に位相的にもっとも近い地上の北が四方向のなかでも特に聖なる方向とされ、黒が配色されているのも当然であろう。……
ホピの場合も同様である。天の色が黒であるのは、天頂=天の北極が宇宙の中心であるとする同じ宇宙論に由来する。……
白と黒との交換が、女性・男性の性別体系に基づく死と再生の弁証法を暗示しているナバホの例は、色彩のダイナミズムをしめしている。わが国の象徴主義も、その例外ではない。
すでに私は、日本の色彩の分類体系が、白・黒・赤・アヲ(緑青)の四項による深層構造をもち、それぞれが天・地(または光と影)・火(または日)・水の意味論的機能に対応していることをあきらかにしてきた(「日本人の神話的思考)。この四色のうち、アヲと赤が、それぞれ青丹と赤丹という顔料を媒介として<春>と<秋>の季節的二項対立に対応していることもあきらかにした(「天と海からの使信」)。……
……こうして天の色<白>は、冬の天の水である雪や霜を媒介にして冬に、地の色<黒>はあ、冬の雷雲や豊穣な泥土を媒介として夏に結びつけられ、ここの四季の色彩的循環が完成される。……
……わが国にあっては一日の循環は、あくまで太陽黄道に沿う立体的な循環であり、太陽はつねに東=アヲから昇り、天頂=白にいたり、さらに西=赤に沈み、天底=黒を……常世の龍宮船に乗って航行するのである。常世の国がつねに薄明であるのはあ、ホピの神話同様に、夜の闇の波涛を蹴って、この眠りについた太陽を乗せた龍宮船が航行するからである。
こうした北沢方邦さんの文化記号による「読み解き」というのは非常に興味深いもので、こうした色彩に限らず音楽についての論考も一度はご紹介してみたいと思っています。参考までに、手許にある北沢方邦さんの著書をご紹介しておくことにします。
●「構造主義」(講談社現代新書)
●「日本人の神話思考」(講談社現代新書)
●「メタファーとしての音」(新芸術社)
●「知と宇宙の波動」(平凡社)
●「日本神話のコスモロジー」(平凡社)
●「数の不思議・色の謎」(廣済堂)
かなりざっぱではありましたが^^;、「赤と黒」に関する主に文化史的な概観でした。