オイリュトミーなど


オイリュトミー文献

オイリュトミーにおける母音と子音

シュタイナーの母音・子音観

 

 

オイリュトミー文献


(93/04/14)

 

 「オイリュトミー」に関しては、邦訳で手にはいりそうな文献はといえば、次の2冊くらいです。 

●オイリュトミー芸術(高橋巌訳/イザラ書房)

●高橋巌監修:オイリュトミー(泰流社)

 笠井叡さんの次の著作もあるようですが、僕は残念ながらもってません。 

●笠井叡:人智学とオイリュトミーI(ダンスワーク社)

●笠井叡:人智学とオイリュトミーII(ダンスワーク社)

 オイリュトミーは「目に見える言語」で、その要素として、「押し迫ってくる外的知覚の人間の内面における反作用として形成される」母音と、「自然の造形的活動が反射的に模倣された言語形式」としての子音からなっています。

 さらに音楽オイリュトミーになると、

・「旋律」(「上下の方向で大小様々の動き」を示す)

・リズム(「前後の方向に早くなったり遅くなったりしながら速度を変化」させる)

・拍子(「左右の動きが重みと軽みの平衡を取ることに基づいて」いる)

・ハーモニー(「様々な種類の動きの共同作用によって表現」する)

・和音(音程の動きと歩みの動きとが一体化するように、秩序づけれら」る)

 といった基本要素が加わることになるようですが、こうした運動形式を理解するにはかなり時間がかかるような気がします。

 ま、母音と子音ということでフォルム化されることについて、ドイツ語と日本語の違いということも少なからず問題になっているでしょうし、そもそも日本におけるオイリュトミーということについて、いろいろ考えてみる必要は多分にあると思います。

 そうした問題についても、上記の泰流社のものの中に、笠井叡さんの」オイリュトミーを語る」というインタビューや、高橋巌+笠井叡+西川隆範+鎌田東二といった方々による「オイリュトミーにおける秘儀と芸術」という座談会でもいろいろ語られています。特に、後者の座談会は非常に興味深い内容を数々含んでいて、必読かもしれません。「能と歌舞伎とオイリュトミー」についての話なんかもありますしね。

 

 

 

オイリュトミーにおける母音と子音


(93/04/15)

 母音のポーズは、泰流社の分に、笠井さんの写真入りで載ってますが、参考までに、母音と子音の表現について、その中に収められているエルゼ・クリンクの「オイリュトミー」からちょっと紹介しておくことにします。まず、母音から。

 

Iは、オイリュトミー的には、重力から解放されたように、身を起こして、自由に世界の中に身を置く身振りで表現されます。その際両腕を対角線の方向にまっすぐ伸ばすことによって、この身振りは、更に、強調されます。つまり一方の腕を、明るい上方へ伸ばし、もう一方の腕は、大地を踏みしめている足のように、下方の暗い対極に向けたままにし、そしてその間、身体はまっすぐの姿勢を保つのです。

魂に感銘を与え、驚きで我を忘れさせる印象はAで表現されます。両腕を、一定の角度に開くのです。それは体験を受け入れてはいるが、しかし、それをどこかで限定しています。印象があまりにも強く、人間を倒してしまうような場合、そのAは、防御の表現となります。身振りの基本型は同じですが、体験次第で、例えば上半身をそらすといったような仕方で、変化されねばなりません。

Oにおける魂は、世界を賛美と愛でもって包み込みます。両腕は輪を作るように曲げられます。 

Eの場合、自我が他人の自我または外界に対して、自己を主張しています。その際、両腕は交差されます。

Uにおいては、事物の中へ自己を沈潜させようとする意志が現れています。両腕は、深みを指示しつつ、平行に狭くすぼめられています。

 続いて、子音について。 

たとえばBは、周りから覆うような身振りによって、守護するものを表現しています。ちょうど“bau(建物)”“berg(山)”“burg(砦)”“ver-borgen(隠されている)”といった言葉のうちに示されているように。Bのための身振りでは、内部に向かって明るい中心を取り囲んでいる青の色調が、オイリュトミーの動作を強調してくれます。

Rは、自然現象における回転するものを反映しています。それが赤の感覚により活発化される時、その身振りは力強い生命を受け取ります。

造形化された「波の音」であるLは生成一般として、開花し、蘇り、色あせて消えていく様を、その動きで特徴づけます。可愛らしいリラのような赤や灰紫色の緊張において、Lは、その本質をリズミカルに展開します。息を吹き込む音であるFは呼吸作用の力であり、火花のように炎を吹き起こす力です。両腕を並べて二回程小刻みな節をつけて前方につき出します。色彩感覚は、橙色に近い白色で、透明で明るくなければなりません。

清粛を求める時、誰もがSの音を使います。つまり、支配することで事物に形式を与えるのです。両腕は常に互いに引きつけあったり、反発しあったりする緊張関係を保ちながら、Sの線を上から下へ、下から上へとまた左右へと描きます。暗く真剣な響きが、動きに切羽詰まったような性格を与えます。Sと似ていて、一層角ばったZの中に電光という自然現象を見ることもできます。

大地の中に支柱を打ち込む、外的な動き、ある対象を照らす一条の光線は、Tという音にそれと対応する表現を見いだします。外から内へと目指す態度が左右の腕によって腕をそれぞれの側から、頭上に上げ、更に指先を頭の上に置くことで表現されるのです。それは光が灑がれる様を強調しています。この動作によって輝きが黄赤色に現れてきます。

 ここでは、能と歌舞伎との絡みの話だけではなくて、日本の舞踏の原点でもある鎮魂=魂振などのことや、神道の言霊などとの関連についても、いろいろ話されています。ちなみに日本の舞踏というのは、そもそも回転する動きとしての「舞」と、上下運動(特に足)としての「踊り」というふたつが平行して存在してきたらしくて特にこの「踊り」というのは足を上げて神霊を呼び起こして、踏んで霊を鎮めるという動きだったらしいです。

 ここらへんの話の中で、鎌田さんは、オイリュトミーの現代性についてちょいと批判的なことを言ってたりすることころもあって、なかなか面白いですよ。

 

 

 

シュタイナーの母音・子音観


(95/05/24)

 

 言霊論についてまとまったものとしては、

●鎌田東二「記号と言霊」(青弓社)

 というのが手元にあったので、日本での言霊論のあれこれを見てみると、やはり、当然のごとく「五母音」が基本になっています。

 これは日本語だけではなく、有名なものでいうと、ランボーの「母音」という有名な詩のなかでも「Aは黒、Eは白、Iは赤、Uは緑、Oは青」となっていますし、シュタイナーの創始した言語音楽舞踏芸術であるオイリュトミーでも母音は五つになっているようです。

 ちなみに子音は黄道十二宮に対応したWRHFTBCSGLMNです。もちろん、ドイツ語では母音+子音のセットではないですから、日本語のように五十音というような整然とした体系はありませんけど。しかし、もし対応させるとしたら5×12で、60になってしまいますね^^;。

 さて、この母音と子音というテーマについてのシュタイナー的な視点を、

●音楽の本質と人間の音体験(イザラ書房)

のなかに収められている「音と言葉をとおしての人間表明」のなかからご紹介します。

人間の歴史のなかで、言語は本来、歌から発生したものです。歴史以前の時代にさかのぼるにしたがって、言語は歌に似てきます。非常な過去にさかのぼると、歌と言語の区別はなく、両者はひとつのものでした。人間の原言語についてはよく語られますが、「人間の原言語は原歌謡であった」ということもできます。今日の言語は純粋な歌から離れ、散文的−知的要素のなかに沈んでいますが、今日の言語を考察すると「子音と母音」という二つの要素があることがわかります。(中略)子音の要素は、わたしたちの精妙な身体造形に基づいています。BやP、LやMという音を発するとき、それは、なにかがわたしたちの身体のなかに一定の形態を持つことに基づいています。(中略)

人体の形態を、「ある言語が有する子音のすべては、十二の原子音のヴァリエーションである」ということによって把握することができます。(中略)

ところで、人体とはなになのでしょうか。音楽の観点から見ると、人体は楽器なのです。ヴァイオリンやその他の一般の楽器も、なんらかの子音から組み立てられたものとして把握することができます。子音について語るとき、楽器を思い出させるものがいつも感情のなかにあります。そして、あらゆる子音の全体的調和が人体の姿を示すのです。母音は、人体という楽器の上に演奏される魂です。人間の話す言語のなかに子音と母音を追っていくと、おのおのの言語表現のなかで人間が自己を表現するのがわかります。人間の魂は、人体の子音的構成の上に母音的に躍動します。(P106-108)

 日本語は、母音と子音がきわめて調和的に結びついています。しかも、子音だけの表現というのがないということは、人体という楽器のなかに魂が極めて調和的に結ばれているということがいえます(^^)。

そういう意味でも、母音は本来五つであったということがいえるのではないか、とそんなことを考えたりもしていました。 


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