精神科学・薔薇十字


神智学と人智学など

精神科学の基本的な考え方

宗教・科学・芸術は本来一体

薔薇十字関連書籍

薔薇十字的叡智

 

 

神智学と人智学など


(92/11/27)

 

 神智学協会と人智学協会の違いについてですが、シュタイナーは最初、神智学協会のドイツ支部長だったのですが、シュタイナーは最初から神智学を全面的に肯定してたわけではなくて、神智学に則ってみずからの世界観と認識法を構築しようとしていました。「神智学」や「いかにして超感覚的世界の認識を得るか」というのがその時代の代表作ではあるのですが、それはそのまま神智学の教説なのではありません。

 シュタイナーが神智学協会と決裂したのは、それまでなんとか表面上は尊重しあっていたベザントとの間の反目が決定的になったからで、その両者の見解違いはどこにあるのかというと、ベザントがキリストを東洋の覚者と同列に見ようとするのに対し、シュタイナーはキリストの世界史的意義とその一回性ということを強調していました。神智学は西洋の秘教から出発したものの、次第にインドの影響が色濃くなってきたのに対して、シュタイナーは逆に西欧神秘思想を再認識しようとしたわけなのです。しかも、シュタイナーは、新しいキリスト論に加えて、グノーシスやマニ教などの伝統までも取り入れたものとしていています。

 で、その両者の見解の相違が形になって現われたのが、クリシュナムルティを担ぎ出したベザントの「東方の星」の創設で、それ以降、シュタイナーはみずからの運動を人智学と呼ぶことになります。

 もちろん、その両者の基盤はかなり共通しているといっていいと思います。要は、先にも述べたような、次のベザントとシュタイナーの言葉から推し量れる両者のスタンスの相違といっていいだろうと思います。

 まずは、ベザントの1907年の手紙より。 

シュタイナー博士のオカルト修練は私たちのそれとはひどく違います。あの方は東洋の方法を知りません。だからまたそれを教えることもできません。あの方の教えるのはキリスト教的ローゼンクロイツ「流の方法で、これはいくらか人の助けにはなるでしょうが、私たちのとは全然違います。あの方は自分の流儀をもっており、それに対してはご自分で責任をもっておいでです。私はあの方がご自分の方向でおやりになる限り立派な先生だと思いますし、本当に立派な認識をお持ちの方だと思います。あの方と私は完全に友好的にまた調和的に共同作業をしております。しかし私たちの方向は違います。

 続いて、シュタイナーの「新しい思索と新しい意欲」(1923年の講演)より。

初期には人智学は神智学協会の内部でいわば一種の胎児のような生活を過ごした。再歩のこの期間内でのインチ学の特別な課題は、神智学協会に存在するもの----それは太古の東洋の知恵を受容するという伝統であったが----に対して、中心点がゴルゴダの秘儀にあるところの西欧文明の霊性を対峙させることであった。

 ま、これがもし日本の神道の内部で起こったとしたら、高天原の天照大御神の秘儀の再認識だとかいうことになるのでしょうから、それぞれのスタンスにおける、ある種の傾向性ということは十二分に認識しておいたほうが理解しやすいだろうと思います。

 で、ついでに僕の考え方をいっておきますと、次のような「人智学指導原則」(水声社)の冒頭に述べられているような観点に基づいた人智学のスタンスをベースとしながらも、シュタイナーが「キリスト」にこだわった部分を、もっと広く他の観点から補ったり、修正したりしていきたいと思っています。

 アントロポゾフィー=人智学は、人間存在のなかの精神的(霊的)なものを宇宙のなかの霊的(精神的)なものに導こうとする、一つの認識の道である。人智学は人間のなかに、心と感情の要求として現われる。人智学はこの要求に満足をもたらすことに、その意義を見いださねばならない。・・・

 

 

 

精神科学の基本的な考え方


(95/05/15)

 

 シュタイナーの「精神科学(霊学)」もしくは「人智学」というのは、今回のテキスト(「薔薇十字会の神智学」)の表現を借りれば「叡智の新しい型」であり、またそれは新しい認識のための方法でもあり、それらを通じて、いってみれば「魂の力」を養成していくというのがその基本的なあり方です。

 最初は、さまざまに展開される内容に???の連続であるのは避けられませんがまずはそれらをひとつの「ファンタジー」とみなしながら、それを学んでいくというくらいのスタンスがいいんじゃないでしょうか。なにせ、シュタイナーの残した業績はものすごく広大なものですから、そのひとつひとつに???となっていたんでは全体像が見えてきません。ですから、それらを半ば「ファンタジー」として楽しみながら、ある程度全体像が見えてきたあたりから、判断されるようにするのが適切のような気がします。

 たとえば、九九がまだわからないままに、方程式について考えたり、微積についてそれを理解しようとしても、あまり意味がないのと同じです。少なくとも、シュタイナーは教育や治療、医学、農業や芸術など、それなりの業績を残しているのですから、まずはそれらの一端なりと理解してから、それを評価するほうが、ずっと得るものも多いはずだと思うのです。もちろん、そのうえで「否」という評価を与えるのはそれなりの回答だと思います。

 参考までに、シュタイナーの「精神科学(霊学)」についての基本的な考え方について、F.W.ツァイルマンス・ファン・エミヒョーベンの「ルドルフ・シュタイナー」(人智学出版社)より。

いかなる科学であれ、およそ真の科学に従事するものにとって、魂の諸力の修練は必須の条件であり、科学者はこの修練を通じて知識を集め整理し、結論を導き、法則を定立するのである。若い自然研究者は自然を観察し、その結果を適切に整理する方法を学ばねばならない。まだ若い哲学者は論理学の諸法則を自家薬籠中のものとし、その適用方法を修得する必要がある。自然科学者にとって、単に物を見る目があるだけでは不十分であり、見る能力を科学的観察の一助としなければならぬ。同様に若き哲学の徒にとって、正常な思考能力を保有しているだけでは不十分である。思考能力は学問的訓練を積むことによって初めて開花する。

精神科学も、これに携わろうとする者に対して、この学問に不可欠な諸々の能力を修練するよう要求する。この修練によって精神科学は初めて真の科学になる。そのためには特別の要求が課せられ、特別の前提条件が満たされねばならない。恣意や空想は排除されねばならない。過去には精神科学は一部少数の天賦の才に恵まれた人々の知識であった。しかもこれらの人々にして、なお長期にわたる準備が必要であった。特に鍛錬し育成しなければならなかったのは道徳的な力であった。彼らはまず次元の低い欲望から自己を解放せねばならなかった。宇宙に遍在する神的な力に魂を没入せねばならなかった。こうして自己発展と諦念の長い道程を踏破し、人々はやっと高次の認識に参入できた。

このような高次の認識を追求する人々のために、シュタイナーは、霊的発展の道程を自分自身の力によって、しかも内面的に何の束縛も受けずに進む可能性を初めて示唆したのである。その結果、ここ数世紀の間に自然科学の領域で実現された普遍性が、精神科学の領域にも導入されるに至った。それ故、ドルナッハに建設された《ゲーテアーヌム》が《精神科学のための自由大学》と称されるのもけだし当然のことといえよう。この大学は、他のあらゆる大学と同じく社会に全面的に公開されている。(P177-178)

  念のためにつけ加えておきますと、今回の読書会のテキストの「薔薇十字会の神智学」(平河出版社)の最初の章にもありますが、上記の引用で述べられているような「叡智」を見いだすために、必ずしも「超感覚的」な霊視能力などは必要とされるわけではなくて、「通常の悟性によって理解」できるということです。それと、そうした霊的認識ともいえることは、必ず日常生活に流れ込んで実際の事柄の認識を高めていくものであって、どこかの彼方にあるものを追い求めるわけでは決してないということです。

 ここらへんのことは、なかなか実感としては解らない部分がありますが、精神科学的なアプローチを続けていくうちにきっと少しずつ、その理解の鮮明度は高まっていくものであるように思います。少なくともぼくの場合、シュタイナーをある程度読むようになる前に一見いろいろばらばらに勉強してきたように思っていたことが、次第次第にそのトータルな姿を見せてくるようになったというのがあります。それはぼくにとっては、確実な認識の進化と深化であったように思えます。もちろん、これは個人比であって、いまでこれですから、それまでがひどすぎたということも多分にあるんですけどね。

 善悪の認識に関してですが、ぼくはかつて言語学やコミュニケーション理論を大学で勉強していまして、かなり、唯名論的な、今で思うとかなり愚かな考えをもっていました。ですから、もちろん、性善説や性悪説なんてのも、すべて言葉の問題以外のなにものでもないと思い、そうでない議論をする方を、哲学の授業などでも軽蔑していたりしました^^;。この善悪の問題というのは、シュタイナーの神秘学のなかでも、非常に深い問題に関わってくることですい。これからこれまでの自分の愚かな認識への罪滅ぼしをする意味でも、しっかりそこらへんについても、いろいろお話していくつもりです^^;。

 ちなみに、それについての一端の考え方は、「神智学の門前にて」(イザラ書房)の第8章の「善と悪」でもそれをカルマの問題に関連して述べられていますので、少しばかり引用をば、してみることにします。

 わたしたちの文化の段階では、良心は一種の内面の声であり、なにをおこない、なにをおこなわないでおくべきかを人間に示す。このような内面の声は、どのようにして発生したのだろうか。(中略)

良心とはなになのだろうか。さまざまな受肉をとおした経験の成果である。最高のものから最低のものまで、知識とはすべて経験の成果である。知識は試みと経験の途上で生じたのである。

 なぜ黒魔術的なあり方がでてくるのか、悪を克服するとはどういうことか、などなどの話まで展開できると、今回のオウムさんの話に関連した面白い話ができるのですが、長くなりますので、さわりだけにしておきました。ここらへんについても、読書会の進行のなかで、少しずつふれていくようにしたいと思いますので、お楽しみに。

 

 

宗教・科学・芸術は本来一体


(92/11/02)

 

 思考の基調をポジティブに保つ重要性も強調したいということですが、ポジティブな思考の基調というのは大切だと思います。というのも、「念」ともいえる「思い」というのは、「一念三千」のようにその指向する方向に伝わっていき、そこに影響を与えるからなのです。だから、ネガティブを指向すると、そのネガティブな思いに応じた現実を引き寄せてしまうことになってしまいます。

 「縁」というのもあって、その「縁」をどういう方向に「起こす」かというのもそうした「一念」のあり方ひとつであって、それによって起こされた「縁」は空間的にも時間的にも広がっていくことになります。だから、「こんな本がほしいな!」とか思っていると、それを実現させる方向でいろんな「縁」が起こってくるわけなのです(^^)。

 「創造活動と学習」としての「現世」についてですが、ちょうど先日出たシュタイナーの新刊「西洋の光の中の東洋」(水声社)の冒頭に、こういう言葉がありました。

 どのような領域においても、人生は学習を要求します。そして、どのような領域においても、学習は忍耐を要求します。忍耐とは待つことができるということです。

 ま、「修練」というとなんだか苦行の場のような感じがありますが、創造のためのたゆまぬ努力というのを芸術的にとらえるということは大切でしょうね。シュタイナー教育をとってみても、その土台は、1に精神科学(霊学)、2に芸術、そして3に教育学であるということがいわれるように、シュタイナーにとって、生きるというのはそのまま芸術であるということが常に強調されているとみてよいと思います。それがシュタイナーの大きな魅力のひとつでもあります(^^)。ただ、その芸術創造のためには、学習と忍耐が必要、ということです。

 シュタイナーはこう言っています。

芸術は見かけ上は進歩しましたが、家庭の中でわれわれを取り巻いている一切のもの、必需品として日々目にしている一切のものは、考えられ得るかぎり非芸術的になってしまいました。芸術自体が、人生と切り放されてしまったため、実践的な生は芸術的な形式へと高められることができませんでした。(1919.10.28チューリヒでの講演より)

 シュタイナーの芸術的行動の本質的な特徴は、芸術と人生に調和をもたらすことですべての人間が芸術家であることを求めているといえると思います。そして、宗教と学問と芸術の源泉はひとつだとして、その一体性についての意識が人智学的な世界観には常に存在していることを強調してさえいます。人間の構成要素と芸術との関係についても、シュタイナーは<建築−肉体、彫刻−エーテル体、絵画−感覚魂、音楽−悟性魂、文学−意識魂>という分類をしたりしていますが、こうしたことについては、お求めになったという「芸術と美学」に詳しく述べられています。こうした芸術観を背景にしてできたオイリュトミーや言語形成等のテーマについては今後じっくりと取り組んでみたい課題のひとつだと感じています。テーマは教育と芸術との間くらいになりますが、メルヘン論については、前会議室の比較的最初のころに紹介したことがありますのでお暇なときにでも参照してみてください。

 「心の働きの実践」については、神秘学の基本中の基本ですので、今後折りにふれてコメントしていきたいと思っています。ご紹介の「ポジティブ宣言」ですが、プラス発想の体系的な実践書ですよね。以前、「怖れは愛をサバ折りにする」という、同じくヴォイスから出版されている本を紹介したことがありますが、こうした発想を身につけておくというのはとっても大切だと思います。ただ、最終的に問題になるのは、今自分はどうしたいのか、どういうビジョンをもっているのかということですから、やはり認識力を高次のものにするということが一番ですけどね。 

 人類が「精神の未熟さ」を克服することが出来れば、科学・芸術にはまだ限りない可能性が開けてくると思う、ということですが、先ほどもシュタイナーの芸術観を紹介したように、本来宗教と学問(ドイツ語では科学と同じWissenschaftです)と芸術とは一体であると僕も思っていて、確かにそれに向けての限りない可能性を開くというのはとっても大切なことだと思います。 

 シュタイナーという大きなテーマは、見ていけば見ていくほどこちらの認識に応じた発見をもたらしてくれます。そしてそれはどっかの彼方にあるのではなく、今、ここで、こうして生きている中にある、ということに新鮮で限りない感動を日々覚えています。

 

 

薔薇十字関連書籍


(91/12/10)

 

 薔薇十字関連の書籍で僕のもってるのを紹介しておきます。 

●フランシス・イエイツ:薔薇十字の覚醒/隠されたヨーロッパ精神史(工作舎)

 *これには、C.ローゼンクロイツの薔薇十字宣言なんかも載ってます。このイエイツの外の著作もありますが、読み始めたらやめられないくらい面白いテーマがたくさんあります。

●シュタイナー:薔薇十字の神智学(西川隆範訳、平川出版社) 

●マンリー・P・ホール:カバラと薔薇十字団(象徴哲学体系V、人文書院) 

●クリストファー・マッキントッシュ:薔薇十字団(平凡社) 

●種村季弘:薔薇十字の魔法(青土社)

 

 

 

薔薇十字的叡智


(92/04/13)

  

 僕の考える神秘学の基本的な考え方「精神生活における2つの事実」を紹介させていただきます。

 これは、これまでも繰り返し述べてきた神秘学という考え方の基本的なものです。なぜ、日常生活での経験が必要なのか。なぜ、権威に対する信仰ということを疑問視するのか。なぜ、繰り返し「認識」の重要性ということを言うのか。そういうことが比較的わかりやすく述べられていると思います。要するに、いわゆる宗教とシュタイナー的な神秘学の相違についてですが(^^)。

 以下の引用は、シュタイナー「叡智の新しい型」(シュタイナー「薔薇十字会の神智学」/西川隆範訳、平川出版社 所収)からです。

 

●精神生活における事実/その1「師に対する弟子のあり方」のための考え方● 

☆霊視について☆

高次の霊的能力、つまり霊視霊聴能力を発達させることなしに高次の世界の霊的真実を直接見いだすことは誰にもできません。霊的真実の発見には霊視力という前提が不可欠です。けれども、この前提が不可欠なのは真理の発見に関してのみです。今日まで、そしてこれからも、通常一般の論理的悟性によって把握できないものを、真の薔薇十字会が公教的な形で教えることはありません。ここが肝要なところです。神智学の薔薇十字的形態に異議を唱えて、霊視力云々について語るのは正しくありません。霊的知覚能力が問題なのではありません。薔薇十字の叡智を思考によって把握できない人は、論理的理解力を十分に形成していないのです。今日の文化が提供し、人類が今日までに到達したものを受容し、忍耐と持続力を持って学習を怠らなければ、薔薇十字の導師の教えることを把握、理解することができます。薔薇十字の叡智に何らかの疑念を抱き、『自分にはこのようなことは理解できない』というのは、超感覚的世界が洞察できないからではなく、日常生活での経験を通しての論理的理解力の育成が十分になされていないからです。

 

☆権威への信頼について☆ 

薔薇十字的な師と弟子の関係は、東洋における弟子と『師(グル)』の関係とは本質的に異なるものです。薔薇十字的な叡智にあっては、師に対する弟子の態度は権威に対する信仰とはまったく異なるものなのです。日常生活の中から例を挙げて、このことを明らかにしてみようと思います。薔薇十字の師は弟子に対して、あたかも大数学者が生徒に対するのと同じような対し方をしようとします。生徒は教師に、権威への信頼によって依存しているのではありません。(中略)教師が数学上の真理を生徒に伝えるとき生徒は権威への信仰を必要とはしません。生徒は正確に真理を理解しさえすればいいのです。 

薔薇十字的な意味における霊的進展に関しても変わるところはありません。師は霊的体験の範を示し、弟子をそのような体験に導く友であり、助言者であります。霊的体験を持った弟子は『三角形の内角の和は二直角に等しい』という定理を受け入れるのと同じように、権威への依存なしに師を受け入れます。薔薇十字においては権威は権力ではなく、むしろ最高の真理に至る道を円滑にするために必要なものなのです。」

 

●精神生活における事実/その2「霊的叡智の一般的な精神生活に対する関係」● 

単に理論的に価値のある体系を打ち立てるのではなく、現代の知の根底を認識しようとし、霊的真理を日常生活に流入させようとするときに必要なものを薔薇十字の叡智は提供するのです。薔薇十字の叡智は頭だけでも、心だけでもなく、日々の行為の中に行き渡ります。感傷的な同情ではなく、人類全体への奉仕能力の鍛錬なのです。薔薇十字会は人類の友愛のみを目的として創設された、人類の友愛のみを説く協会ではありません。薔薇十字会員は次のように語ります。『脚を折った人が道に倒れているところに通りかかったと想像してみてください。14人の人々が骨折した人を囲んで温かい感情と同情を抱いたとしても、その中の一人も骨折を治療する術を知らなかったら、この14人は感情豊かでなくとも骨折を治療できる1人の人に本質的には劣るのです』----このような考えが薔薇十字会員を貫く精神なのです。 

霊的認識の日常生活への関与の可能性を、薔薇十字的神智学は提供します。薔薇十字の叡智にとって、同情心についての話は危険なものでもありうるのです。同情心を絶えまなく強調するのは、一種のアストラル的歓楽と考えられるからです。アストラル界において物質界における歓楽に相当するものは、いつまでもただ感じようとし、認識しようとしない傾向です。生活に関与しうる日常的な認識----もちろん、唯物論的な意味ではなく、霊界から下ってくる認識----を通して私たちは実際的な働きができます。世界は進歩すべきであるという認識からは、おのずから調和が流れでます。そして、この調和は認識するときにおのずから生ずるだけに、いっそう確実になります。

 


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