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先日新宿の朝日生命ホールであったオイリュトミー公演、「緑の蛇と百合姫の物語」に出かけたのをきっかけにして、その後、シュタイナーのメルヘンについてのものをいくつか読みなおしましたので、それについていくつか述べてみたいと思います。
ちなみに、ドイツ語の「メルヘン(Maer-chen)」というのは、語源的にいえば、「小さな海」を意味しているということで、この言葉の響きからイメージされるのは、「物語の一つひとつが精神の大海原から取り出された一滴であり、またその一滴一滴が広大な海を内包している」ということです。
さて、上記の「緑の蛇と百合姫の物語」の原作となったのは、ゲーテのそれで、そのメルヘンについて、シュタイナーは、「『緑の蛇と百合姫のメルヘン』にみられるゲーテの精神様式」という論文を残しています。
シュタイナーは、このメルヘンについて、このメルヘンを「超感覚的なものへ向けて努力する人間の魂のいとなみを描いた一つの絵巻物として見る人は、その他の個々の部分をすべて、生き生きと感じとることができるであろう。」と述べています。
さらに、「霊学の光のもとにみた童話」という講義では、霊学的に考察されたメルヘンの意味について、こう語っています。
「メルヘンや伝説は、人間が生まれた時に人生遍歴にそなえて故郷から授けられる善き天使である。それは人生の遍歴を通じて、人間の忠実な伴侶である。そして、それが人間に付き添うことによって、人生は真に内的に生き生きとしたメルヘンとなることができる。」
シュタイナーは、「むかしむかしあるところに」ではじまるような土地や民族や時代を超えて存在する共通の真理の含まれているメルヘンと民族のファンタジーが生み出した民話や創作童話とは厳密に区別して考えていて、真のメルヘンは「人間存在そのもの」「叡智」について根源的なるものを表現しているといいます。
なぜ、そうした叡智について、メルヘンという表現形式をとるのかといえば、宇宙や人間の秘密を直感したことをふつうの形式で表現することが困難だからで、その体験内容を生き生きと表現するためにはメルヘンという形式がもっとも適しているというのです。
「私たちの一生を通じて魂が体験する最奥の深みが、メルヘンの中に現れています。そのような体験とその体験の基礎をなすものを、自由に、往々にして軽やかに、イメージ豊かに表現しているのがメルヘンなのです。」
これはほんのシュタイナーのメルヘン論の概略ではありますが、シュタイナーのメルヘンについての考察の一端は理解していただけるのではないかと思います。
なお、上記の引用部分は、ルドルフ・シュタイナー:メルヘン論(高橋弘子訳、白馬書房)からのものです。
日本でも、昔話についての注目すべき論考があって、松居友さんの「昔話の死と誕生」(大和書房)が要注目で、特にそこに考察されている「昔話の宇宙像」についての考察は、(記憶ですが)シュタイナーのメルヘン論と併せてみるときわめて興味深いのではないかと思っていますので、今後の検討課題にしたいと思います。
小さな海としての私たちが大きな海としての宇宙の叡智にふれるためにメルヘンや昔話には大いなる畏敬の念をもって接していきたいと考えています。
水声社から、シュタイナーの関連書である、ヨハネス・W・シュナイダーの「メルヘンの世界観」(高橋明男訳)がでました。これは、もちろんシュタイナーのメルヘン論につながるものなのですが、読んでみると予想以上に素晴らしい内容なので、その一部をご紹介させていただきます。
この著者のヨハネス・W・シュナイダー氏は、シュタイナー教育を代表する教育学者のひとりだそうですが、今回訳出されたのは、日本での講演を集めたものなのだそうです。そのために、日本のメルヘンもなかには紹介されています。
とっても読みやすい講演録なのに、内容はとっても深いもので、その内容を簡単に言い表すことは憚られるのですが、メルヘンの意味するものは、人智学の神髄に近い認識のように思われますし、このところ僕が幾度か「叡智と愛」というテーマで繰り返しお話してきたことと驚くほど近い内容となっていまして、正直言って驚きでした。
シュナイダー氏によれば、メルヘンの主人公のたどる道は、これまで人類が歩んできた進化の道そのものでもあって、それは、天上界と結ばれていた状態からあえて遠ざかって、この世界でさまざまな試練に会い、それによって成長していく人間の姿を表現しています。
・・・すべてのメルヘンはなんらかのかたちで人間の発達を描いている、といえます。そこでは、人間の意識が、いわば最底辺にまで下降していく過程、そしてその最底辺からふたたびもといたところまで上昇していく過程、という二つの過程が描かれます。そして一つのメルヘンのなかには、人間の全体像が描かれております。また、メルヘンのなかには、人間にとっての古い世界に属する存在たちが描かれています。それと同時に、人間の新しい時代、知性の時代に輝く太陽とでも言えるような、そういう存在も描かれています。けれども、そのような新しい光に人間がいたるのは、必ずこの地上、大地の上でということになっています。つまり、人間は地上から逃れるのではなく、地上における生活を通して、そのような新しい光にふたたび到達するのだ、ということをメルヘンは描いています。
別の箇所で著者は、古代の叡智は一度すべてすてさられねばからなかった、ということを言っていますが、これは、運命論に関して僕の繰り返していっていた、叡智というのは愛によって再創造されなければならないということと同じですし、以前からずっとテーマになっていたような、「一度切り放されたものをもう一度結ぶ」という「結び」ともつながるものです。つまり、一度は古代の叡智から切り放されないと、人間は成長する可能性を持てなかったということです。それがシュタイナーのいう「自由」「自由な意志」ということでもあり、「ルシフェル=グノーシス」のテーマにつながるものでもあります。
ちょっとまえに、河出書房新社から訳出されたハンス・ベンマンの「石と笛」という現代ドイツのメルヘンをご紹介したことがありますが、あらためてこうしてメルヘンというテーマの深さを見てみると、そこに込められている人間学には感動をおぼえざるをえません。
前にも言いましたが、この「石と笛」は、おそらくエンデの「はてしなき物語」を越えた超名作だと思いますので、機会があればぜひ読まれるといいと思います。また、それとあわせてこの「メルヘンの世界観」を読まれると、思いがけないほどのメルヘンの世界の深さを再認識されると思います。
シュタイナ―の「メルヘン論」は、とっても深いものですよね。それはドイツロマン派の理念を継承しそれを深く洞察したものでもあります。正直いって、学生のころ認識していたドイツロマン派関連のものをつい最近になったあらためて再認識してみて、その深さに驚いています。
さて、「メルヘン」という話になりましたので、せっかくですから、ご紹介した「石と笛」のなかで心にのこったワンシーンをご紹介します。
このシーンは笛の名手でもある主人公の「聞き耳」が、ある試練のために地下に下っていく途中で出会った蜘蛛男との話です。聞き耳は、道の途上で、その蜘蛛男のいる洞窟のなかをどうしても通り抜けなければなりません。
ひろい洞窟のまんなかに、見えない糸で吊るされたように無数の白く光る水晶が浮かんでいて、それがたがいに入りまじって、たえまなくぐるぐるとまわっていた。
この水晶の完全な調和こそが、星の運行、循環する天体の均衡をとることであり 、自分こそがその秩序の統御者 であるというのです。蜘蛛男は、この水晶を完璧に調和させようと孤軍奮闘しているのですが、それがどうしてもうまくいきません。そこで、聞き耳は、笛をとりだします。
・・・そこで笛をとりだすと、ますます多くの水晶がぶつかって軌道からはじきだされる音を聞きながら、その余韻をつぎつぎにとりいれて、ひとつの旋律を組み立てた。これが世界の写し絵だというのか、この 硬直した冷たい秩序が?聞き耳は自問した。つねに同じ軌道を永遠に循環して、けっしてそこから新たな、予見できない動きが展開することはない、それが人生なのか?そんんはずはない。人生は花のようなもの。芽をふき、葉をだし、花を開き、実をむすぶもの。そう思いあたったとき、祖父が死んだ夜に聞いた楽の音を思い出した。あの音の連鎖の百花繚乱、そこからさらに音の新芽が萌えだして、全体の脈絡のなかにおさまりながら、ひとつひとつの特性は失わなかった。聞き耳はこの歌を、思い浮かべるままにかなでたが、それでも新しい別の歌になったのは、このような歌は再現できるものではなかったからだ。この楽の音が洞窟に響きわたると、水晶群が新たな配列をとって動きだし、あらたじめきめられた軌道をはなれて、自由に空間をただよっているかに見えたが、ひとつとして他の動きをさまたげるものはなく、ひとつひとつが独自の、たえず変化する力によって推進されているようでいて、全体の連関は失われず、華麗な星の配列が、たえずすがたを変えながら、つぎつぎと新しい星座を生みだしていった。
なかなか素晴らしいシーンでしょう。自由と運命の妙を基軸とした宇宙論としてこのシーンは読むことができます。この「石と笛」というのは、全4巻もあるのですが、一カ所も退屈することなく、どきどきしたり考えさせられたりしながら、一気に読めるものだと思います。
特に、シュタイナーの思想を理解されている方には、こたえられないメルヘンだと思いますので、機会があればぜひ。