シュタイナー「神智学の門前にて」

読書会関連諸テーマ


霊我・生命霊・霊人

エーテル体・アストラル体

群魂としての鉱物・植物・動物

霊界の証明についてなど

自我などについて

シュタイナー教育論

 

 

霊我・生命霊・霊人


(92/10/23)

 

 ご質問は

>アストラル体に「働きかける」というのは具体的にどういうことを指すのでしょうか?

 ということですが、早い話が、アストラル体をコントロールするということです。ただ、「意図的な禁欲生活」というのもそのひとつの方法ではあるでしょうが、それはその「禁欲」ということが、カタチだけではないときに限ると思います。つまり、感情や欲望などを単に殺してしまうのは無意味で危険なことであって、むしろそれらを高次のものに高めていくということが大事だということです。ここらへんについて詳細に述べているのは、僕の知る範囲でいうと、シュタイナーというよりも神智学で、参考までにそのいくつかを紹介しましょう。(A・E・パウエル編 神智学大要2「アストラル体」第25章感情の支配より)

それによれば、アストラル体について肝要なことは、次の3点であるといいます。

 「第一にアストラル体を統御する」、「第二にアストラル体を次第に訓練していって『真人』である魂の意志に完全に従服させ、意識の道具とする」、「第三にアストラル体に具わっているもろもろの力を着実に開発し、ついにはそれを完全なものとする」。

 これらに関するいくつかの記述をピックアップしておきますので、参考にして下さい。

 欲望を変え、最後には欲望を克服しうるのは、思惟であることを常に銘記しなければならない。精神が統御するようになると、欲望はその性質を変えて意志となり、もはや好き嫌いによって外物から支配されることはなくなり、霊、真我、内なる統治者によって支配されるようになる。

 個人的な愛は抹殺すべきものではなく、これを拡げて普遍的な愛に昇華させるべきものである。愛は高めるべきものであって、低めるべきものではない。

 しかしまた、低級、粗悪な欲望を完全に抹殺するのは必要である。それ以外の欲望はそれを純化し、変性して上求菩提、下化衆生の大願とそれへの決意に昇華させるべきである。欲望したり希求したりするのは力の浪費である。密教徒は意志するのである。意志は欲望の高次元の姿である。

 われわれは「月の形姿」すなわちアストラル体を殺さなければならないといわれている。これは何も一切の感情を殺さなければならないという意味ではなく、アストラル体を完全に統御しなければならないという意味であり、「月の姿形」を意のままにすなわち意志によって、抹殺することができなければならないという意味なのである。

 

 自我がアストラル体をコントロールし変成させたものが霊我(マナス)ですが、それは「意識魂」の中で発達していきます。

 この「意識魂」については、「神智学」(イザラ書房/P54)より。

 魂の中で永遠の存在として輝くものは、ここでは意志魂と名づけられる。

 低次の魂のいとなみの場合にも、意識について語ることができる。どんな日常的な感覚も意識に属しているし、動物にも意識があるといえる。ここで意識魂と呼ぶのは人間意識の核心、つまり魂の中の魂のことである。意識魂は、ここでは魂の特別の部分として、悟性魂から区別される。悟性魂はなお、感覚、衝動、激情等のなかに巻き込まれている。人は誰でも、はじめは自分の感覚や衝動の中から取り出してきたものを、真実だと思おうとする。しかし感覚等々に含まれた共感、反感の添え味をすべて取り去った真理だけが永続的真理なのである。真理は、たとえすべての個人的感情が反抗するときにも、真理である。この真理が生きている部分を意識魂と呼ぶのである。

 そして、さらにこの「意識魂」と「霊我」の関係について。(同書P58〜59)

 自我は魂の中に生きている。「私」の最高の表現が意識魂によるとしても、この「私」は意識魂から輝き出て、魂全体を充たし、そして魂を通して、その作用を体にまで及ぼす。自我の中には霊が生きている。霊は自我の中を照らし、自我を外皮として、その中で生きる。自我が体と魂を外皮としてその中で生きるように。霊は内から外へ向けて、鉱物界は外から内へ向けて、自我を形成する。一個の「私」を形成し、その「私」の中で生きる霊は、人間の「私」もしくは「自我」として現れるから、「霊我」と呼ばれる。「霊我」と「意識魂」との区別は、次のような仕方で説明できる。意識魂はあらゆる共感、反感から独立した、自分自身によって存在する真理に係わる。霊我は自分の中にこの同じ真理を担っている。しかも、その真理は「私」によって取り上げられ、「私」の中に包み込まれている。「私」によって、真理は個体化され、独立した人間の本性になる。永遠の真理がこのように独立し、「私」と結びついたひとつの本性になることによって、「私」自身が霊我となって永遠性を獲得する。

 それから、「生命霊」(ブッディ)、「霊人」(アートマ)の形成ですが、この際サービスで(^^)紹介しますと、やはり「霊我」の形成も含めて、それらは働きかける対象が異なっていますので、「一連」とは言いがたいでしょうし、「ブレイクスルー」という表現がどうかは別として、まったく違うヒエラルキーの問題としてとらえたほうがいいと思います。これらについてもちょっと紹介してみましょうか。

 引用文献は「神智学概論」(人智学出版社/P72〜75)

・・・自我が、性格や気質等々を変えることに、その活動を向ける場合には、・・・エーテル体に働きかけが及んでいる。・・・通常の生活のなかで、このような変化を目指して働きかける最も強力な衝迫は、宗教的な衝迫である。自我が、宗教から流れ出る刺激因子を、繰り返し己に作用させる場合には、この因子が自我の内部に力を生じさせ、この力が、エーテル体に作用して、エーテル体を変成させるのであり、この変成の仕方は、宗教的衝迫よりも弱い生命刺激因子が、アストラル体を変成させる仕方と変わるところはない。・・・真性な芸術が人間に作用する場合も、類似の仕方で行われる。人間が、芸術作品の外的形姿、色彩、音調を通じて、その作品の精神的基盤に、想像や感情を介して迫っていく場合、そのことによって自我が受け取る衝迫が実際にエーテル体にまで作用を及ぼすのである。・・・この構成要素を霊の第二の構成要素、すなわち生命霊と呼ぶことができる。「生命霊」という表現が適切なのは、この言葉で表されているものの内部には、「生命体」内で働いている力と同じ力が働いているからである。ただ、この力が生命体のかたちで開示される場合は、その力の内部に人間の自我が作用していないだけなのだ。この力が、生命霊のかたちで現れる場合には、そこには、自我の作用が浸透しているのである。

 自我の活動は、アストラル体やエーテル体に対する働きかけのみで尽くされるわけではない。その活動は、物質体にも及ぼされるものなのである。物質体に対する自我の淡い影響は、何らかの体験をして、たとえば、顔が赤くなるか青ざめるかのような場合に見ることができる。こうした場合は、まぎれもなく自我が物質体の出来事の誘因となっているのである。自我の活動によって、人間内部で、物質体に対する自我の作用に変化が生じた場合、自我は、実際に物質体に潜在する力と結びついたことになる。この力とは、物質体の物質過程を生じさせる力にほかならない。その場合、自我は、そのような活動を通じて物質体に働きかけているということができる。・・・物質体に、粗大な物体のかたちで現れているものは、物質体の顕在する面にすぎない。この顕在する面の背後に、物質体の存在の隠れた力が秘められている。そして、この力は霊的性質のものなのだ。・・・通常の生活にあっては、物質体に対する自我の働きかけは、極めてぼんやりとしか人間には意識されない。これが明瞭に意識されるのは、人間が超感覚的な認識の影響のもとで、この働きかけを意識的に行う場合のみである。だが、そのような場合には、さらに、人間内部に、第三の霊的構成要素が存在することが明かとなる。すなわち、物質的人間と対照的に、霊人と名付られるものがそれである。

 これらの観点から当然浮かび上がってくるテーマは、それらを形成するための「行」という視点ですが、それはテキストの12〜14章あたりのテーマです。また、「行」の視点をまとめたシュタイナーの代表的著作が通称「いか超」(「いかにして超感覚的世界の認識を得るか」)です。

 また、さまざまな民族的・宗教的あり方の違いについて考える場合、上記のような霊我・生命霊・霊人といった視点が非常に参考になると僕は考えています。つまり、ちょっと極端にいうと、意識魂を通じた「霊我」の形成というプロセスを通過しないで、いきなり「生命霊」や「霊人」を形成しようというあり方もあって、それらの観点からいうと、おそらくシュタイナー的あり方は亀のようなのろい認識の高め方のように受け取られかねないということです。それらは方法論の違いであり、「兎と亀」の話のように着実でマイペースのやり方がシュタイナー的なのではないかと思っているKAZEでした。

 

 

 

エーテル体・アストラル体


(92/10/23)

 

>(1)植物にアストラル体(魂)がない

>(2)鉱物にエーテル体(生命)、アストラル体(魂)がない

 この件については、そうした「典型的な差」の部分を際だたせたシュタイナーの説明はどうなっているのかということを紹介したいと思います。

 「シュタイナー思想入門」(西川隆範著・水声社)のなかでも、たとえば鉱物について、こういう説明がされています。

鉱物は自然のなかで、不動のまま黙している(鉱物のなかに、高次の霊的世界に存在する鉱物の原像、あるいは、鉱物の意識が語る言葉を聞くことができるのは確かに事実であるが、いまは考察を現象面に限定することにしよう)。鉱物は物質原理のみに貫かれた存在なのである。

 つまり、シュタイナーはこの物質界としての「この世」の観点として、鉱物、植物、動物、人間の「典型的な差」の部分をビジョン化してるのだといえます。別のところでも、「高次の認識の視点から見れば、人間の肉眼に映じる物質界の姿はもちろん幻影であるが、今は日常的な認識の視点から物質界を考察しよう」という記述があるように。霊界にある物質や生命の原像等については、輪読会をすすめるうちにご説明する機会があると思いますので、そのときに。

 では、そうした観点を念頭においていただいて、「神秘学概論」(イザラ書房)より鉱物、植物、動物について(P52〜62)

 顕在する世界内部では、人間の物質体は、人間が鉱物世界と等しく分けもっている要素である。これに対して、人間を鉱物と区別している要素は、物質体と見なすことはできない。虚心に考察した場合、重要な点は、とりわけ、鉱物世界と性質を等しくする人間構成要素は、死が始まった時点であらわにされるという事実である。・・・

 ・・・超感覚的な認識によれば、生命のある間、物質的な素材と力が、物質体を崩壊へ導く特有の道を歩まないよう阻止する要因を、人間存在の自立的な構成要素と見なすことができる。この自立的な要素を「エーテル体」もしくは「生命体」と呼ぶことにしたい。 

 ・・・超感覚的な考察は、このエーテル体から、さらに別の人間構成要素にまで進んでいく。この構成要素を具体的に思い浮かべるために、眠りの現象を想起するのがよい。これは、エーテル体のさいに、死という現象を考えたのと同じことである。----人間の仕事は、顕在する世界を考えるかぎり、すべて覚醒時の活動にもとづいている。だが、この活動は、人間が、使い果たした力を、繰り返し眠りの中から汲み出してこなければ不可能なのだ。・・・人間が目覚めると、秘密の、隠された泉から湧き出てくるかのように、無意識の眠りのなかから意識をもった力が湧き出てくる。眠りに入るときに、暗い深みに沈んで行く意識と、覚醒時に再び浮かび上がってくる意識とは同じものなのだ。生を繰り返し意識喪失の状態から目覚ます契機が、超感覚的な意味での、人間存在の第三の構成要素なのである。こお構成要素は、アストラル体と名付けることができる。

  ・・・植物は、持続的な眠りの状態にある。この点について厳密な判断力を持たない人々は、植物にも、動物や人間が覚醒時に有している類の意識があるとする誤りに陥りがちである。こうしたことは、意識についての観念が不正確な場合にのみ起こることなのだ。そうした場合に言われるのは、植物に対して外部から刺激が加えられると、動物のようにある種の反応を示す、といったことである。・・・だが、意識の特質とは、ある存在が作用に対して反作用を示すことなのではなくて、ある存在が、その内部で、単なる反作用に新たに加味されたものを体験することなのである。

 ・・・超感覚的な認識によれば、覚醒時の体験の内部にも、さらに本質的な区別がある点が指摘されるが、このことにより、人間存在のこの別の構成要素について、ひとつの表象を得ることができる。この区別は、人間が、覚醒状態にあって、一方では現れては消えていかねばならない体験の只中に存在し続け、他方では、そのような体験とは別の体験を続けていることに注意を向けた場合、ただちに明かになる。このことが、とくに明瞭に現れるのは、人間の体験と動物のそれとを比較した場合である。動物は、極めて規則的に外界の影響を体験し、寒暑や苦楽の影響を受け、規則的に反復されるある一定の身体的な経過に基づいて飢餓を意識する。だが、人間の生は、その種の体験では汲み尽くされない。人間はそうした一切の経過を超える欲望や願望を実現することができる。・・・この領域に属する一切の事柄は、特別の源泉に由来するものとしなければならない。そして、この源泉は、超感覚的な科学によれば、人間の「自我」のうちに存在するとされる。」自我」は従って、人間存在の第四の構成要素と見なすことができる。

  ・・・植物に意識を認める誤り以上に陥りやすい誤りは、動物に記憶を認める誤りである。・・・記憶というものは、ある存在が、現在、様々な体験を感じているというだけでなく、過去の体験を保持している場合に、はじめて存在するということができるのもなのだ。だが、それを認めて、なおかつ犬には記憶があるという誤りに陥ることがある。(以下、犬の生態について説明/注)

 ある種の先入見から、このような説明に対して、そうは言っても、動物に人間の記憶に類似するものがあるかないかは知りえないではないかという異議が提出されるであろう。だが、この種の異議は、未熟な観察に基づくものと言える。動物が、その諸々の体験の連関のなかで、どのように行動するかを、事実に即して観察できるものであれば、その行動が人間の行動とは区別されることに気づくはずである。・・・・・(あと、「記憶」について説明/注)

 

 ま、こんなところです。細かいところよりも、全体の意味ということに重点を置いて、

その趣旨の部分をご理解いただければ幸いです。植物にしても、シュタイナー農法というのがあるように、その生態等については非常に詳しく観察し、その核心部分をとらえていたはずです。そうしたことについても、今後機会があれば、紹介していきたいと思います。 

>(3)マナス、ブッディ、アートマへ段階が進むにつれてアストラル体、

>   エーテル体、肉体が自我の力によって「霊化」される。

>   その「霊化」とはいったいどういった状態なのでしょうか。

 これについては、霊我、生命霊、霊人についての説明をご参照くだされば、その外観は得られると思います。ただ、それが具体的にどういう状態なのかという体験については、そうしたものを形成してない僕には説明不能です(^^;)。ただ、それらの実践的観点については「いかにして超感覚的世界の認識を得るか」に詳しく述べられていますので、いずれこれについても12〜14章あたりでふれることになると思います。

 

 

 

群魂としての鉱物・植物・動物


(92/10/25)

 

>シュタイナーの追い求める主体がまず人間であって

 ということですが、シュタイナーの神秘学は「人智学」と呼ばれています。つまり、「人智学=アントロポゾフィー/人類学+智」というわけです。「神智学」という言葉が使われているのは、そのころはまだシュタイナーは神智学協会のドイツ支部長をしたころだったからで、それ以後、考え方の違いから、独立して、人智学協会を設立するのです。

 えっと、先日もちょっとふれましたが、鉱物、植物、動物については、A・E・パウエル編著「神智学大要4 コーザル体」の第10章〜第12章の「群魂」としての詳細な記述をご参照いただいたほうが理解しやすいかもしれません。その中の第10章の「群魂」の中から比較的わかりやすそうなところを紹介させていただきます(実はかなりむずかしいのです。僕もよくわからない(^^;))。

 進化・・・の過程は全体として観れば、・・・神の生命の大いなる流れが次第に分化し特殊化し、分裂と再分裂をくりかえしてついに完全に個別化して一コの人間となることである。その後は再分裂は不可能となる、なぜならば一コの人間という存在は分割不可能の一コの単位すなわち「魂」であるからである。

 故に、鉱物・植物・動物界に存在する群魂はいずれは完全に個別化してそれぞれの人間存在すなわち人間という単位となるまでの中間の段階である。したがって前述の三王国(鉱物・植物・動物/KAZE)の中では、鉱物あるいは植物、動物のどの一群にも一コの魂もないのである。その代わり一かたまりの生命(もしそういう言葉を使ってもよいのであれば)が巨大なる量の鉱物髄質(エッセンス)、多数の植物、あるいは若干の動物全体の魂となっているのを観る。・・・・ 

 群魂の一番よい具体例は、おそらくバケツの中の水にたとえた東洋の話であろう。すなわち、バケツの中からコップ一杯の水を取り出したとすれば、この場合コップ一杯の水は、たとえばある一本の植物あるいは一体の動物の魂または魂の一部分を現わすことになる。当面、コップの水はバケツの水より全く離れており、かつまた、水は容器のコップの形をとる。ちょうどそのように、群魂の一部が一つの植物あるいは動物の体を占めそれを賦活しているのである。 

 ある一匹の動物は物質界にいるその一生の間、および肉体死後のアストラル界で過ごしているある期間はちょうど人間がそうであるように一個の魂を持っている。しかしその動物のアストラル生活が終わると、その魂は生まれ変わってある一つの体(この場合はもちろん動物の体)の中に宿るのではなく、群魂という一種の魂質料の貯源の中に戻るのである。したがってその動物の死は、前のたとえを使えば、水をコップからバケツに移すようなものである。ちょうどコップからバケツに移された水はバケツの中の水と完全に混合しかつひとつになるように、ある動物から出た魂(正確には群魂の一部)は群魂の魂全体に混入し混合される。バケツの中から前と同一の分子より成る水を再びコップ一杯を汲み出すことが不可能であるに、群魂の中の前回と全く同一部分の魂が別の動物の体の中に宿ることは不可能である。・・・ 

 鉱物、植物、動物界の群魂と人間の胎児期とは全く正確に類似している。人間の胎児が母胎の生命の流れによって養われているように、群魂の保護膜がその中の個々の生きものを養い、その中に入ってきたもろもろの体験を受け入れ、かつそれを個々の生命に配分する。こうして循環する生命は親の生命である。個々の幼少の植物や動物はまだ単独の生命として独り立ちする準備はできておらず、その栄養は親に頼らなければならない。このようにして鉱・植・動物の芽生えゆく個々の生命はロゴスの生命を宿すエレメンタルおよびモナド髄質より成る覆膜によって養われているのである。

 ここらへんのことは、もうちょっと詳細にみていけばなかなか面白いのですが、ま、「群魂」という考え方をここでとりあえず理解していただければと思います。ただ、これもあくまでも典型的な説明ですので、それはご理解ください。

 それから、この「群魂」という考え方は、人間の魂のあり方に関してもある程度当てはまるようです。ただ、人間はそれぞれが「個」としてのエネルギーを有しているので、ひとりのエネルギー体がひとつの「群」として形成されているようです。つまりは、霊界において、「○○○さん」というエネルギー体があり、標準的にはその本来の隆ちゃんのエネルギーは6体程度で構成されていて、その一体がいまこうして3次元的な「○○○さん」として現れているというのです。で、よく守護霊という存在があるとかいわれますが、それは○○○さんの残りの5体のうちのどれかということでもあります。その守護霊というのは、心理学的な用語では「潜在意識」とか呼ばれていたりするようです。ま、これはちょっとした参考までの付録でした(^^)。

 それから、「神」についてですが、「神様は一つ」というのであれば、「私たち人間は一つ」というようなことになりますし、諸現象を理解できなくなりますので、とりあえず区別しておいた方がいいと思います。

 ちなみにシュタイナーの使っている霊的ヒエラルキーについて参考までに紹介すると 

●第一ヒエラルキア(セラフィム、ケルビム、トローネ)

●第二ヒエラルキア(キュリオテテス、デュナメイス、エクスシアイ)

●第三ヒエラルキア(アルヒャイ、アルヒアンゲロイ、アンゲロイ)

 ということになります。

 これらのヒエラルキアについては、宇宙進化やカルマを論じるときには不可欠になるのですが、いま説明すると混乱するでしょうから、こういう霊的ヒエラルキーの働きがあるというのだけをご記憶ください。

 鉱物、植物、動物、そして人間は同じく「魂」を有してはいるのだけれどその個性化の度合いや顕在化の仕方、また進化の度合いの違いから区別して論じていかなければ、霊的進化論が理解できなくなると思います。

 

  

 

霊界の証明についてなど


(92/10/25)

 

 鉱物、植物、動物の「魂」のあり方としての「群魂」について、先にご紹介しておきましたので、それを参考にしてほしいのですが、鉱物、植物、動物それれの「種」によって、それらの「群魂」のあり方はさまざまではないかと僕は考えていますし、人間的な「魂」のあり方に非常に近い「個性化」した魂もあるとは思います。ま、これについても宇宙進化という問題と絡めて全体を概観できたときにまたあらためて検討した方が理解しやすいとは思います。それと、これはそのうちもうちょっと理解が進んだら話したいと思うのは、神秘学的に見た進化論というのは、ふつうイメージされる進化論とは認識のベクトルというかその基盤が異なっているということです。

 この問題と関連した視点が、例の「意識の再編」のなかでも「存在のヒエラルキーモデル」としてけっこううまく説明されてますので、本が届いたらそれを参照されると、なんとなくその意味がわかるかと思います。

 えっと、「霊」についてですが、やっぱりこの言葉には誤解されやすいイメージがたくさんつきまとっているようですが、これって早い話、「精神」のことなんです。シュタイナーの「霊学」というのはそのまま「精神科学」とも訳すことができます。原語は"Geisteswissenschaft"ということで、"der Geist"というのは「精神」でも「霊」でもあります。

 よく「あなたは霊はあると思いますか」と聞くと、No!って答える方って多いですがでは「心はあると思いますか」と聞くと、Yes!と多くの方が答えるようです。ま、多くの方はほとんど言葉のイメージに左右されているだけということをこのことは如実に表しているようにも思えます。

 僕の考える「心」というのは、「魂」の中核部分にある意識のエネルギーのことでそれを「霊」という言葉で表現しているんだと思います。ふつうテレビなどでやってる「霊」ていうのは、その「心」とはあまり関係のない「低次アストラル」のエネルギー現象に過ぎません。よくいわれる「幽霊」っていうのはこの低次アストラルのことであることが多いです。ときには、エーテル体の物質的顕現ということもなくはありませんが・・・。そこらへんのことは、ちゃんと「区別」しておかないと「みそもくそもいっしょ」的になって混乱するばかりだと思うのです。そういう意味でもちゃんとした神秘学的ビジョンっていうのは重要になります。

 ちなみに、「霊・魂・体」という3分節の分け方でいうと、「体」は「物質体」「エーテル体」「アストラル体」、「魂」は「感覚魂」「悟性魂」「意識魂」、「霊」は「霊我」「生命霊」「霊人」ということがいえます。

 それから、「霊界の証明」ということがいわれますが、もちろんそれを完全証明することはまずできないと考えていいと思います。というのは、もし証明できるとすれば、「同じ世界」になってしまうからです。ただ、間接証明については、おびただしい料の参考資料はあって、やはりそれらの信憑性の高いものを検討する努力だけは必要だと思います。それから、これは大事なことなのですが、「霊界はない」という方は多いのだけれどその完全証明どころか間接証明さえできてないのが現実のところです。「証明」するとしたら、やはり「霊界」を記述したものそれぞれに詳細に当たってその「虚偽」をちゃんとひとつひとつ明らかにしていく作業が必要です。もし、それが証明できたとしたら、過去のそして現在の霊的現象の記述のすべてがまったくの虚偽であることが明確になると思います。

 ま、ほとんどが「信じられない」「まだ見たことがない」(アタリマエダ!)というくらいで正直なところ「信じたくない」という盲信的宗教に近いものがあります。嘘だと思ったら、そうした方の発言を集めてみるといいと思います。盲信的感情を吐露したものがたくさん見られると思いますよ(^^)。そしてそれらの方の多くは肝心な資料の調査はまずしてませんから。

 「証明」とうことについて極論をいうと、たとえば、僕なら僕という存在の確かな証明というのさえ厳密に言えば不可能ということがいえます。物質的にみれば、昨日の僕と今日の僕どころか、一瞬一瞬変化していますし、「心」の部分さえも、昨日も今日も一瞬前も一瞬後も、絶えず変化しています。だから、「無常」あり、「空」というのですが、だからといって、「僕」という存在がいないかといえば、やはりそうはいえない。現に、こうしてパソコンの前に座ってこうしてキーを叩いている僕はいる(^^;)。

 どちらにせよ、安易な常識や感情などに惑わされず自分なりに納得いくところまで見ていくという作業は不可欠であって、結論を出すには慎重な態度が求められると思います。そして、その結論に対する責任は各自がすべて負わなければならない、ということは言うまでもありまん。

 また、シュタイナーは神秘学の芽生えてくるのに必要な思想として、「可視世界の背後に不可視の世界、つまり、感官および感官に束縛された思考にはさしあたり隠されている世界が存在する」という思想と、「人間は、人間内部にまどろむ能力を開発することにより、この隠された世界に参入することができる」という思想の2つを挙げていますが、他方で、「その種の隠された世界などは存在しない」と主張する人、また「可視世界の背後に、隠された世界が存在しないとは言えない」が、「人間の認識能力では、その世界に参入できない」とする人、また、「『知ること』を断念し、『信じること』で安んじなければならない領域へ、人間が自らの認識作業により参入しようとするのは、一種の傲慢である」という見解をもっている人などもいることを挙げています。

 これらの見解に対して、シュタイナーはそれぞれ次のようなことで反論しています。

 可視世界を考察してみれば、その世界自体の諸事実からは決して解きえない謎が、人間に提示されていることを明瞭に知ることができる。・・・可視的な事実というものは、それ自らの内的本性により、明らかに隠れた世界を指示しているのである。その事実に気づかない者は、感覚世界の事実から至るところで明らかに生まれ出ている謎に眼をふさいでいることになる。そのような者は、ある種の問題や謎を見る意志を全くもたないと言ってよい。したがって、すべての問題が感覚的事実によって解答できると信じているのである。

虚心に考えるならば、我々は知っている事柄についてのみ語るのであり、知らない事柄については何も確言できないという原則を信奉せざるをえない。成心なき考え方からすれば、自らが体験した事柄を報告する権利は存在しても、自分が知りもしなければ知る意志もないことについて、それが不可能であると主張する権利などは存在しないのである。超感覚的な事柄に関心をもたない権利は、誰に対しても否定することはできない。だが、ある誰かが、自分が知りうる事柄についてだけでなく、『人間』が知りえないことについてまで、断定的な説明を加える正当な理由というものは決して生じえないのである。 

超感覚的世界に参入することを、不遜な行為と考える人々に対しては、神秘学の立場からは、次の点に一考を煩わさないわけにはいかない。すなわち、超感覚的領域への参入は可能なのであり、人間に与えられたこの能力を育成し、利用することをせず放置しておくことは、この能力を不当に扱うことになるという点である。

 また、超感覚的世界についての見解は、どこまでも個人的な意見や感情の領域に属するものと信じている人々は、あらゆる人間存在に見られる共通な要因を否定することになる。超感覚的事象の認識は、各人が己れ自身を通じて見いださねばならないことは確かであるが、十分に進んだ境地になる人々が、すべて、その種の事象について異なる認識には至らず、等しい認識を得ていることも事実なのである。認識の相違は人間が科学的に確実な道を歩まず、個人的な恣意に任せて至高の真理に接近しようとする場合に生じてくるものなのだ。

 こうやって説明してくとどこまでも果てしなくなっていくような気がしますので、ここらへんのことに関してはときなく、結論を急がず、自分が本当に納得がいくところまで見てみる以外にないとも思います。

 

  

 

自我などについて


(92/10/28)

 

>もし鉱物・植物・動物にそれぞれの群魂があるとして、鉱物と植物、植物と

>動物の間のどこで線を引くのかという問題に興味が湧きました。細菌類とか

>酵母とかウイルスとかバクテリオファージとかマイコプラズマ(細菌とウイ

>ルスの中間微生物)あたりをどうみなすか、ですね。

 えっと、僕もそこらへんのことについてそんなに詳しくはありませんが、あくまでも僕の考えで説明するとするとこうなります。

 前回の「群魂」の説明はちょっと不十分でして、「群魂」ということで意味されるものにはいくつかのヒエラルキーがあって、鉱物・植物・動物という種類や性質の大きく異なった「群魂」と、鉱物なら鉱物のなかでそれぞれの種類の違いによる「群魂」があると思います。

 つまり、植物でいうとチューリップならチューリップという群魂があって、チューリップはチューリップという「群」の中から繰り返し転生し、菊は菊という「群」として転生を繰り返していくというのと、それらは大きく「植物」という「群」の中のエネルギー「群」として存在している、という2つの観点からそれを見ることができるということです。先日バケツの比喩で説明したのは、「種」としてのエネルギーのことになります。ですから、細菌類などは大きくみてどの大きな「群」の中に位置するのかはわかりませんが、それぞれの種類ごとの「群」としては存在すると思います。 

>人間はそれぞれが「個」としてのエネルギーを有しているので、ひとりのエ

>ネルギー体がひとつの「群」として形成されているようだ、とのことですが、

>その「群」とは、鉱物・植物・動物の群魂というところでの「群」と同じ様

>な解釈をしてよいのでしょうか。・・・人間のエネルギー体における「群」

>は、それぞれが別の性質を持っているように私には受け取れました。

 ですから、鉱物・植物・動物の典型的なあり方というのは、「種」の単位で基本的な単位「群」を形成するのに対して、人間は「個」、たとえばBREATHさんというエネルギー体の「群」として成り立っていると考えてよいと思います。もちろん、その「個」というのも、それを認識する観点によってもっと大きな「群」単位での認識も可能になります。

 そうした人間の「個」としての考え方は「神智学大要4 コーザル体」の中で「個々の人間となるメカニズムと目的」「個々の人間となる方法と程度」において「コーザル体の形成」による「個人化」としてのわりとちゃんと説明されていますが、これを説明するとすると用語だけでもたいへんなので、またの機会に。

>神秘学的に見た進化論は、・・・

 ということですが、シュタイナーの宇宙進化論的ビジョンについての概説が西川隆範さんの「シュタイナーの宇宙進化論」(イザラ書房)にあります。 

>死んで肉体から解放された後にまで、現世と同じ怒りや嫉妬や怨念、憂欝に

>縛られて思考し、行動しているものがいるらしいことを示す「心霊体験」談

>には気が滅入ってしまうからです。いわゆる恐怖感をあおるような幽霊の行

>動や「たたり」などの現象は、それに遭遇する人間の「深層心理」の反映=

>幻覚や自己暗示ではないかと思いたいわけですね。

 「気が滅入る」かもしれませんが、死後の「迷い」は現実のようです。単純にいえば、死後は自分の「心」しか残りませんので、それが肉体等の制約を離れて、その「心」そのものを体現してしまうのです。いつもいつもひとを憎んでいるひとは、その憎しみそのものの存在となり、いつも怒っているひとは、その怒りそのものの存在となります。反対に、いつも感謝に満ちているひとは、その感謝に応じた存在となるのです。それは誰の責任でもなく、自分自身の「心」のあり方にすべての原因があります。「天国」とか「地獄」という表現も、その「心」のあり方の具体化なわけです。そして、最近では、その「地獄の心」を有して亡くなる方が半数以上だそうです。

 「幽霊」を「「深層心理」の反映・・・」としても説明できますが、その深層真理こそが霊的世界のこといえる側面もありますし、それらの現象に遭遇するということは、「心」の波長がそれとチューニングされた状態でもありますので、それも「唯心の所現」であるといえるのだと思います。

 もちろん、そうした「低次アストラル」や死後脱ぎ捨てられたアストラル体の殻、はたまた人間のアストラル的な想念のエネルギーが集まってできた集合体などとそれらの「幽霊的」現象のあり方にはいろいろあるでしょうが、単なる「幻覚」として片づけられる問題ではないと思います。そして、もしそれが真に「幻覚」であるとしても、その幻覚を引き起こす原因を探っていけば、なんらかの霊的な作用が働いていることがほとんどだと思います。精神分裂や多重人格といった症状にしても、それらは霊的な憑依状態である場合がほとんどだといってもいいようですから。

 もちろん、こうした説明というのは、なかなか納得されるものではないと思いますがある現象をもっとも納得させ、しかもそれに対する効果的な処置ということを多面的にみていくと、少しずつ納得のいく可能性は高いと思います。そうした現象に対する一般的な説明というのが、ほとんど説明になっていないことがそのうちにわかることになるかもしれませんので、お楽しみに。 

>・・・「自我」。これは「考えている自分を意識する主体」「他と自分を区

>別する主体」というようなものと考えていいのでしょうか。そして「霊」と

>「自我」の関係、これについてはどう考えればよいのでしょうか。

 これについての詳細な説明は、これも「神智学大要3 メンタル体」にありますが、あまりにも煩雑になりますので、「意識」と「自我」についての概説を「人智学指導原則」(イザラ書房)より、ちょっとむずかしい言い方かもしれませんが紹介させていただきます。今はなかなか理解しがたいかもしれませんが、次第に、ははあん、そうだったのかあ、なんてわかるようになることと思います。

11 「自我」のなかに総括される自己意識は、意識から生じる。肉体とエーテル体の諸力が解体することをとおして精神的(霊的)なものが人間のなかに入るときに、自己意識は発生する。肉体とエーテル体の解体のなかで、意識がその生命を展開する基盤が作られる。しかし、組織が破壊されないためには、解体に再建が続かなければならない。このとうに、組織の体験のために解体が生じ、解体されたものがふたたび築かれる。この再建のなかに自己意識の体験が存在する。内的な観照のなかで、この経過を追っていくことができる。人間は、自分から意識の残像を創造することによって意識的なものが自己意識的なものへ移るのを知覚することができる。単なる意識的なものは、解体を通してある程度まで空になった有機体のなかに、自らの像を有している。この像は、空虚が内からふたたび満たされたとき、自己意識のなかに入った。この充足の能力のある実体が「自我」として体験される。

12 瞑想のなかで体験された思考に意志を浸透させることによって、アストラル体を認識、把握した内的観照をさらに形成しつづけたときに、「自我」の現実は見出される。人は最初、意志なしにこの思考に没頭した。そのことをとおして、感覚的知覚に際して色が音のなかに、音が耳のなかに入ってくるように、精神的(霊的)なものがこの思考のなかに入ってくるにいたった。このような方法で。受動的な没頭をとおして、意識のなかに生かしたものを一個の意志行為をとおして模写する状態にいたれば、この意志行為のなかに、自分の「自我」の知覚が入ってくる。

13 通常の意識において「自我」が現れる形態を瞑想する途上で、さらに3つの形態を見出すことができる。1.エーテル体を把握する意識のなかで、「自我」は像であると同時に活動的な実体として現われ、そのようなものとして人間に、形姿、発育、形成力を与える。2.アストラル体を把握する意識のなかで、「自我」はそこから自分の諸力を受け取る一つの霊的世界の一員として現われる。3.最後に獲得される意識のなかで、「自我」は霊的周囲から比較的独立し、自立した精神的(霊的)実体として現われる。

 それからついでに、紹介しておきますと、人間存在は、自然と心魂、精神の関係において次のようにとらえられます。(引用は同上)

17 人間は2つの世界領域の中央で生命を展開する存在である。人間は身体の発展によって「下方の世界」のなかに組み入れられている。人間はその心魂の実体をもって「中央の世界」を形成し、精神の諸力をもって「上方の世界」へと努力する。身体の発展は自然から与えられるものである。心魂の実体を、人間は自分固有の分担分として、みずからの内に担う。精神の諸力を人間は、自分自身を越えて、神的世界への関与へと自分を導く賜物として、みずからのなかに見出す。

 

 

シュタイナー教育論


(92/11/28)

  

>教育論については、・・・芸術論とともに私がシュタイナー哲学で現在最も

>注目するところであり・・・

 そうそう、芸術論といえば、いい本がでたところなんです。シュタイナーの思想を芸術の部分で継承しているといえる方の対話録で、誰あろう、ミヒャエル・エンデと今やなきヨーゼフ・ボイスの二人による

●「芸術と政治をめぐる対話」(丘沢静也訳/岩波書店)

というものです。

 この対話は、芸術家の生む新しいイメージが人間を変えるというファンタジー作家としてのエンデと、社会こそ誰もが参加する「見えない彫刻」だとする社会彫刻家としてのボイスが、シュタイナーの「社会有機体三分節化」をはじめとする考え方をめぐって、意見を戦わせているもので、どちらの二人も注目に値する方なだけに、貴重な記録でもあるようです。今、1/3ほど読んだところですので、読み終えたら、面白そうな部分を紹介してみようと思ってますので、お楽しみに(^^)。 

>教育とは受ける側・施す側、当事者すべての問題であるはずなのですが、そ

>の点が現在の教育界でどれほど切実に問題にされているのかどうか疑問を抱

>きます。私には、教師側への教育が急務ではないかとも考えるのです。

 僕の大いなる偏見をもっていえば、現代という時代において、もっとも人材に恵まれていない領域がこの教育界なのではないかと思います。そもそも、教師というものが、単なる「労働」として位置づけられるという発想自体、もう救いようのない状況なのだと思うのです。「聖職」から「労働」への転化ですから、どうしようもないですよね(^^;)。 

>シュタイナーの文章というのは、訳された文章から見ると、その誠実で確信

>的な態度は伝わるのですが、読み手の認識を越えた単語の使われ方がされて

>いたりするところで時々私には理解しづらくなるところがあるようです。

 ううん、シュタイナーの文章というのは、「部分」では理解できないところがあります。ある種、ホログラムのようなもので、最初はぼんやりしていたものが、次第次第に全体としてクリアになっていくようなのです。ここ数年、僕もそういう経験をしてきまして、今でも読む度ごとにクリアさを増していく感じがしてます。

>それにしても「自然な権威」というのは、これも難しい問題ですね。

 僕もまったくそう思います。現代は、そうした「自然な権威」を地の底に引きずり降ろすのに忙しいようでして、まったく反対の方向に行っているのが実状で、悲しい限りです。でも、困難なのは事実だけど、どの方向に向かうのがいいのかというのがわかるかわからないだけでも大きな違いだと思います。知らずに逆の方向にいく愚かさというのは、子どもにとっても致命的ですから。

>「概念は魂を消耗させるが、イメージは魂を強め、生命力を活性化させる」。

>このイメージについての説明は、「美」なるものの定義にも加えられそうです。

 そうですね、「美」を「概念」の枠組みで説明したものは数多いですがそれはもはや「美」とはいえないものになってしまっているような気がします。「魂を強くし、生命力を活性化させる」というのはいい定義かもしれません。 

> 私は霊魂の存在については、UFOや未確認生物、サイキック現象などと同

>じく、現実に存在するという「決定的な」証拠をまだ得ていないものとみなし

>ています。シュタイナーの宇宙論も、彼自身の想像によるファンタジーに過ぎ

>ないのではないかという考えも否定できません。しかし、ただひとつ、これだ

>けは言えます。それがたとえファンタジーであろうとも、それには精神に訴え

>かける確かな力がある、ということです。

 おそらく、「決定的な証拠」というのは、これからも得られない、つまり、それが完全に証明させることはありえないとは思いますが、あるときに、ふと魂の底の方で「腑に落ちる」ときはくやってくるかもしれませんね。「精神に訴えかける確かな力」をBREATHさんに及ぼし続けるとしたら、必ず、ある「確信」が訪れるだろうなあ、と思っています。そうした「確信」というのは、決して「外から」くるものではなく、「内」からわきあがってくるものですから、マイペースでどうぞ(^^)。

 僕にしても似たようなものですが、僕にとって霊的世界というのは疑いをいれないものとなっています。それは、その「ファンタジー」と共に生きることを確信しているということなのです。その生き方は、唯物的な貧しさに比べ、比較にならない豊かさを秘めた、「精神」の無限の成長を伴うものであるという気がしているのです。 


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