シュタイナーの視点からの

社会論・共同体論


社会有機体三分節

社会有機体三分節化2

人智学的共同体形成

宇宙進化的アンガージュマン

霊学探究における自覚の必要性

共同体

 

 

社会有機体三分節


(91/11/25)

 

 アインシュタイン・ロマンの第6回目がありましたね。あいかわらずミヒャエル・エンデがプレゼンテーターでした。

 今回は、科学者の役割というか、科学者が担っている社会的、道義的責任のようなものがテーマとして設定されていたように思いました。

 原子爆弾の製造に結局間接的にであれかかわってしまったアインシュタイン。第1次世界大戦以降、特に現代においては、科学者は単なる自由にテーマを研究していればいいというものではなくなっています。その探求が世界の命運を大きく変えてしまうものであることを絶えず自分に問いながらの科学でなければならないのは、公然の事実になっています。特に生物学の領域なんかは、あの遺伝子操作の問題っていうのは、今後ますます重大な倫理的問題を意識しなければ研究できなくなるはずですよね。

 シュタイナーとはちょっと関係ないとおもいがちですが、ある意味ではこれこそシュタイナーの視点が見直されなければならない問題のひとつであるような気がしています。

 そういえば、シュタイナーの時代っていうのは、そのままアインシュタインの時代でもあったわけですよね。ユングだっていたし、グルジェフだっていたし、ある意味では現代にある要素っていうものの要素がすべてあの時代にあったような気もします。あの時代に提出されたさまざまな問題が、今、全世界、地球全体のレベルで問題にされざるを得ない状況になっています。 

 さて、この科学の倫理性という問題そのものではないのですが、こうした種類の問題を考える場合、シュタイナーのいう、「社会有機体3分節」ってとても意味深いんですよね。

 つまり、人体の中には、精神活動にかかわる頭脳=神経系、物質活動にかかわる代謝=運動系、上記の両者を相互に調和的に結び付ける、呼吸=循環系という3分節化された働きがあるってそれぞれの組織に、思考、意志、感情という3つの魂の力を実現するという目標があるとされています。

 これと同じように、「社会有機体」も、精神活動にかかわる精神生活、物質活動にかかわる経済生活、上記の両者を相互に調和的に結び付ける国家=法生活という3分節化された働きがあって、この3つの生活形式には、自由、友愛、平等という3つの目標が与えられているとされています。

 つまり、精神生活における自由、経済生活における友愛、国家=法生活における平等です。 

 この問題については、今後またとりあげていきたいと思ってますが、いつになることですかね。

  

 

 

社会有機体三分節化2


(94/01/12)

 

 シュタイナーの「社会有機体三分節」についてですが、それについて理解するには、邦訳の「社会の未来」(イザラ書房)、「現代と社会を生きるのに必要な社会問題の核心」(イザラ書房)を通じてシュタイナーが第一次大戦中から戦争直後、あのドイツの状況のなかで何を提唱しようとしたかを理解する必要があると思いますし、そのあり方が決して教条的なものでもスタティックなものでもないことも理解する必要があると思います。

 また、シュタイナーは上記の「社会問題の核心」のまえがきで、

人生の観察の中から本書の諸理念は闘い取られた。人生の観察を通して本書を読みとっていただきたい。 

 と述べているように、あくまでも生活実践を通して社会生活の歩むべき道を語っているわけです。

 ま、それはそれとして、とにかく、一応説明してみることにします。

 シュタイナーは、社会有機体を健全に機能させるためには、三分節化された各部分を合法則的に形成しなければならないといいます。

 まず、そのひとつが経済生活で、その組織は、人間が外界との物質的関係を規制するのに必要なすべてに関わります。また、法、政治生活における組織というのは、人間と人間との関係のために社会有機体の中で必要とされるすべてに関わり、精神生活における組織というのは、個々の人間個性から生じたものが社会有機体の中へ組み込まれるのに必要とされるすべてに関わるものです。

 そして、その三つの有機体がそれぞれ独立しながら、その上で、それらが有機的に結びつきあわなければならないというのです。

 シュタイナーがこういう考え方を提唱したのは、人間の有機体の研究を通じて、人体の中に、精神活動に関わる頭脳=神経系、物質活動に関わる代謝=運動系、そして両者の働きを相互に調和的に結びつける呼吸=循環系という三分節化された働きを見いだし、それぞれの組織にそれぞれ思考、意志、感情という三つの魂の目標があるということを認めるようになったことからきているようで、社会有機体も、精神活動に関わる精神生活、物質活動に関わる経済生活、そしてその両者を相互に調和的に結びつける国家=法生活をもち、その三つの生活形式に、それぞれ自由、友愛、平等という目標が与えられる、ということなのです。

 経済生活における連合作業は連合体から生じる友愛に基づく必要があり、法においては人と人との人間関係が問題となるから、そこには平等の理念の実現が目指されなければなりませんし、精神の領域においては、自由の衝動が実現されなければならないというのです。

 で、問題は、三つの社会分野は、それぞれ固有の原理をもっていてそれぞれの原理が独立して働く必要があるということです。たとえば、精神や経済について平等であることが求められるといった、悪平等につながるような原理を無差別に適用すべきではないということです。そう考えてみた上で、それぞれの原理を考えてみてくだされば、もちろんそれがベストではないとしても、有効な原理であることが理解されるでしょうし、それぞれが独立して働いた上で、それが共同して働き合う統一性のダイナミズムについて、イメージすることができるのではないでしょうか。

 もちろん、最初にも言いましたように、それがベストとは限りませんし、現実問題からいって、それが成立する基本条件として、最低限、その社会の構成員の最低限の自覚というものがなければなりません。で、その自覚がないから、そうした社会構造が困難ななわけです^^;。ただ、社会を有機的に機能させるある種のモデルとしてそれを検討してみるというのは、それなりに意味のあることだと思うのです。

 最後に、特に精神生活についてのシュタイナーの考え方を、「社会問題の核心」から少し参考までに紹介しておきましょう。

 われわれの公共生活の混乱は、精神生活が国家と経済とに依存していることによる。このことを明示するという、今日あまり歓迎されない課題を、本書は引き受けなければならない。そしてこの依存から精神生活を解放することが極めて緊急な社会問題の一部分を構成していることも明示しなければならない。

・・・国家制度の内部で精神生活は自由を獲得するようになったが、完全な自己管理が許されなければ、これからの精神生活はこの自由の中で、正しく生きることができない。

 栄進生活はその本質上、社会有機体の中で、完全に独立した分野として形成されることを求めている。・・・

 もちろん精神生活のこの自己管理がすべてうまくいくわけはない。しかし現実生活においては、完全であることを要求する必要はまったくないのだ。可能な限りで最善を尽くす、ということだけが求められうる。必要な判断を精神的な根拠から下せる人だけが、子どものなかで成長する諸能力を社会のために本当に役立つものにまで育成することができる。子どもを特定の方向にどこまで導いていくのかを判断することは、自由な精神共同体の中でのみ可能である。そしてそのような判断を正しく下すのも、そのような共同体が基準にならなければ不可能である。国家生活、経済生活は自分の立場から精神生活を形成するときには獲得できなかった力を、その精神共同体から受け取ることができる。

 

 

 

人智学的共同体形成


(93/07/16)

 

 今回紹介したシュタイナーの講義録のテーマと関係の深い内容が、ちょうど、「人智学通信」(1993年5月8月/43号)に、「人智学的共同体形成」(上)として翻訳紹介されていましたので、それで今回の講義録を補足説明しておくことにしたいと思います。

 人間は、古くは血縁や集合魂的なあり方をしていましたが、次第に物質世界に下降するにつれて、自由で個人的な魂をもつようになってきていますが、これからの時代は、そうした自由な個性をもったままで、新たな共同体的なあり方になっていかなければならないといいます。

 現在は、どちらかというと、人と人との結びつきを深める方向性ではなく、個々人を孤立させ、共同体的なあり方の解体へと進んできているように見えますが、魂の奥底では真の意味での共同体を激しく求めているというのです。シュタイナーはこう言っています。 

人間はそのような孤独への傾向性だけをもって生きているわけではありません。魂の奥底では共同体を求めています。そしてそのことは意識魂を成熟させて、人生をより意識的に生きようとするときには、絶対に必要なことなのです。意識的になるということは、知的になるということではありません。それは本能的な体験に留まってはいられない、ということなのです。意識魂に関して特に人智学徒に求められているのは、素朴な生活感覚、知覚生活のような基本的な生活態度の中で、明瞭な意識を獲得することです。

人間はまず、夢の世界から目覚めなければなりません。夢は、どれがどれほど美しいイメージであふれていたとしても、人間を結局のところ孤立させるものでしかありません。まず、そうした孤立した世界から現実のこの外的世界へと目覚める必要があります。ただ、それは決して真の目覚めではなく、そこからさらに真に目覚めなければなりません。その真の目覚めとは、他の存在の魂的霊的なものを自分の内部に感じとることによる高次の意味での目覚めだと、シュタイナーは言っているのです。

 この目覚めを可能にする力は、人間共同体の中に霊的な理想主義を植えることによって生じます。今日、多くの理想主義が語られていますが、いずれも現代文明の中では、かなりみえすいたものになっています。なぜなら、真の理想主義は、私たちが霊界を地上生活の中に持ち込むことが意識的に可能となったときにのみ、存在しうるものだからです。

 キーになるのは、この「意識的」ということだと思われます。あくまでも自由な個性的なあり方をベースとしながら、それを基盤とした、それをさら生かしていくようなあり方で、共同体的な理想を紡ぎ出していかなければならないということだと思うのです。おそらくそれは、キリスト衝動や大乗ということで意味される「愛」を人間の魂の奥底で輝き出させる働きにほかならないと思います。

 ちょっと方向性は異なっているかもしれませんが、英米型資本主義と対比された、日本とドイツの資本主義のあり方に、そのひとつのあり方の可能性があると思われますので、それについてはまた別のアーティクルで紹介してみたいと思います。

 

 

宇宙進化的アンガージュマン


(94/06/24)

 

 「低級」とか「高級」といった価値判断というのは、それがある種の無自覚な差別的感情から由来するものであることが多いのも事実です。それがある種の適正な基準で表現されるならばともかく、社会的、ドグマティックな偏見から、自分が軽蔑すべき対象を「低級」として、「高級」なものから峻別するということは避ける必要があると思うのです。

 また、霊的ヒエラルキーにしても、それを宇宙進化のダイナミクスにおいてとらえていく場合における高低というのと、それをいわゆる次元の高低として、たとえば「高級霊と低級霊」とかいう表現を使うのとは違うと思うのです。

 シュタイナーが神智学批判をしたというのも、神智学には「キリスト衝動」的な観点が希薄で、宇宙進化のビジョンはあっても、そのダイナミクスにおいてとらえていく、という観点における「愛」についても、いわゆる「慈悲」ということになりがちです。

 なんだかちょっと表現はまずいかもしれませんが、シュタイナーが「仏陀からキリストへ」ということで述べていることで、「神智学から人智学へ」という視点があるとすれば、「慈悲から愛へ」ともいえるかもしれません。

 また、「近代的価値意識」というのも、「自我」形成という進化のプロセスの視点でみなければなりません。「ヒューマニズム」の視点もそうですよね。それはおっしゃるように、「霊的なヒエラルキアの崩壊」という人間の傲慢を意味しているのかもしれませんが、シュタイナーがいうように、バガバットギータにおける叡智は至高のものではありましたが、それは神々からの賜物でしかなく、パウロはそれを不完全な形ではあったとしても、それを「個」という立場で獲得しようとしました。その意味を考える必要があると思うのです。また、その意味で霊的ヒエラルキアの絶対化という視点への疑問というのもまた持つ必要があるのではないでしょうか。

 ちょいと前の哲学では「参加(アンガージュマン)」ということが叫ばれましたが、人智学というのは、まさに霊的な衝動をこの3次元世界に導入するのみならず、この3次元世界における「参加」によって、霊的世界ともども変容させていくという課題をもっているのではないでしょうか。もちろん、「人智学」という特定のものだけを指す愚は避けなければなりませんが。

 それを「神への冒涜」であるとか「神をもおそれぬ傲慢」だとかいういわゆる宗教者からの批判はシュタイナーに対して後を絶たなかったようですが、それに対しては、シュタイナーの「精神科学から見た人間生活」という1916年の講演の次のような言葉が適切な回答となるでしょう。 

精神科学は、認識の拡大を通じて、単なる知性によって魂に関して解明される諸々の洞察を増強するのであるが、その場合も精神科学は、信仰に先立つものの領域に属する認識の外延を広げるのであって、その領域を越え出ていくことはない。精神科学はそれによって単なる知性を通じて得られるものより以上に、信仰真理に対して強力な支えを提供するのである。

 

 

 

霊学探究における自覚の必要性


(94/06/24)

 

 「〈自覚なき政治感情〉を霊学から排する」ことの必要性についてですが、たとえば、現代日本に見られる「自由・平等・博愛」の無差別適応という状況。そこに現れてくる、言葉だけがうわすべりした観念の遊戯。健全な畏敬の念さえ否定されなければならない悪平等的観念の状況と、かたちだけの上下関係を絶対化してしまう社会的現実との矛盾のなかで、それに気づかないふりをしたり、今更のように気づいて大騒ぎするするマスコミ。実生活ではそれぞれがある種の権威に依存して生きていながら、ある種の権力や富に対して執拗な妬み攻撃を続ける観念の大衆たち。

 「霊学」においても、こうした〈自覚なき政治感情〉というのは、かなり浸透しているのは事実だし、またそれ故の「反作用」として、ニューエイジの暗黒の側面、新興宗教における権威の絶対化などが、肥大化してきているという現実があります。

 人智学でさえ例外ではなくて、その「弟子」たちはシュタイナーの「自ら吟味し、確かめなさい!」という再三の要請を忘れ去っているかのようにシュタイナーの言葉を盲信してかかる愚に多くの場合陥っているといいます。

 もちろん、〈自覚なき政治感情〉もこうした「盲信」も、「自覚のなさ」という意味でまったく同じコインの裏表にすぎません。

 そういう意味では、「高級」「低級」を絶対化することも、それを「平等ではない」として批判するのも同じ事なんですよね。価値観を絶対化して持ち込むこと、また持ち込んではいけないと排撃することも同じ。

 ですから、大切なのは「そうしたことを〈問題〉化する」ということ。そしてその問題に「自覚」の光をあてることを忘れないようにすることですよね。

 ま、これもどれほどの自覚が僕自身にあるかというと、おそらくまだ〈問題〉化することさえできないことがたくさんあって、無意識の暗闇の部分がたくさんあるのでしょうが、少なくとも「自覚しよう」という姿勢だけは大切にしたいですし、ヒエラルキーや権威に対しても、それがどの点でそうなのかということに理解のできる範囲において光をあてていく意識だけは持っていたいものだと思ってます。

 こうしたことは、今の僕には、「こう」と言えるだけの基準を明示することはなかなかできることではありませんので、非常に語りづらい面がたくさんあるのですがやはり「理解」を少しでも広げていくという姿勢だけは、忘れないで肝に銘じておかなければなということです。

 

 

 

共同体


(94/07/06)

 

 僕はほんと生まれてこの方「帰属意識」っていうのが希薄です。血縁はもちろんのこと通常の共同体というのが持っている半強制的とでもいえる非常な求心性?というのにそらぞらしいものを感じ続けてきています。だからといって、反=社会的かというとそうではなくて、「何かが違う」っていう感覚なんですよね。もちろん、通常の社会的枠組みに対して独自の(宗教団体的?)共同体を形成するコミューンなんてのには、否定的な意味の方を強く感じています。

 真の意味での「共生」というのは、個としての主体性が前提となって、それが自由な意志で共存しながら形成される場だと思うのですが、現実的に考えるとそれはほとんど絵空事にしか過ぎません。

 現実に存在している集団というのは、その構成員の半ば無意識的な働きが一種の集合魂的な自我となってその在り方を決めています。その場合、顕在的には構成員が反対していようが、その集団は、あるヘッドを用意し、ある方向性を目指すようになります。現在の日本のような混迷も、そういう意味では、「われわれ」の深層意識の部分の集合的部分の表現でもあるわけです^^;。そしてそれはこれからもその在り方は基本的に変わらないという気がします。

 ということは、現在存在しているいかなる集団もその構成員の総合だから、その集団の自覚は構成員の自覚と同時であるということになります。これは、「あなたが世界なのだ」ということと同じように、「あなたが共同体なのだ」ということなのですから、「新たな共生の場」を模索するということは、共同体=「わたし」、別の言い方をすると「わたし」の内なる共同体を模索していくということでもあります。

 現在ではまだまだそれは絵空事の段階を過ぎるものではありませんが、帰属意識のあるがゆえの共同体ではなく、「わたし」の内なる共同体のネットワークとしての自覚的な共同体を僕は漠然とイメージしているのです。でも、なんだかうまく言葉になりませんね^^;。

 そういう絵空事的なイメージではいけないと思い、最近では、現状の具体的な政策論等に関するものを読んだりしてるのですが、なかなかイメージと現実のギャップが開く一方でちょいと苦しい。しかし、人間の意識のシフトということは、なんらかのかたちで起こってきていると思いますし、これからかなり急激にシフトしていくと思いますから、<「わたし」の内なる共同体のネットワークとしての自覚的な共同体>ということが近い将来?なんらかの形で実現してほしいと思っています。

 その先駆けとなるのが、このパソ通かもしれないなあと思っているのですが、このパソ通にしても、「これから」なんですよね、たぶん。

 ここらへんのことについては、そのうちもそっと具体的に説明できるように勉強してみたいと思います。そのためのベースにもなるであろうシュタイナーの社会論なども勉強しなくちゃあと思うのですが、課題が多くて大変です。

 


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