シュタイナーに関する諸テーマ1

 

シュタイナーの治療教育

生きた概念/響く自分を取り戻そう

12感覚論など

思考への信頼と思考する魂の本質

思考について●資料編

  

 

シュタイナーの治療教育


(91/11/28)

 

 シュタイナーの治療教育に関して僕の読んだことのあるのは、以下の2冊で、ともに高橋巌さんの著作であり、訳です。 

●R.シュタイナー:治療教育講義(高橋巌訳、角川書店)

●高橋巌:シュタイナーの治療教育/教育の核心を考える(角川選書)

 この書籍の全体を把握するというか説明し、理解を深めるというのも、すぐにはできそうもありませんし、教育者でもない僕の負える範囲をはるかに超えている作業でもありますので、この治療教育の意味について、高橋巌氏がその著書(紹介した後者の方)のあとがきに、以下のように説明されてますので、引用しておくことにします。 

健常者が障害者に手をさしのべることができるのは、障害者のおかげであり、そうすることが許されなければ、健常者は健常者であることの意味さえも失ってしまう、と思います。猿やねずみを実験のために可能なかぎりの残酷な手段で苦しめたり殺したりする健常者、同じ人間仲間を差別し、戦争をしかけて大量の同胞を殺りくする健常者が、健常者であることの意味を自覚すること、そのためにシュタイナー教育があるのだと思います。[・・・]彼によれば、治療教育は教育の中の教育であり、教育の核心なのです。なぜなら、健常者が障害者によって救済され、障害者が健常者によって治療を受けるという、この2つの行為の中に、人間の聖なる本性が生きているからです。 

 この治療教育に関する著作をはじめとしたシュタイナー教育に関する高橋巌氏の著作は、角川選書に数冊あって、どれもが感動的で、僕にしても、「教育」という問題をまじめに考えるようになったのは、この著作がきっかけでした。

 シュタイナー教育を知るまでの僕の教育感というのは、どちらかというと、自然放任主義というか、子どもの教育はそれぞれの子どもの意志によってなされるべきだ、というような、今から考えると馬鹿げた、そして危険な発想からのものでした。こうした僕の無責任というか、無自覚な教育感が育ってしまったのも、僕自身の体験に原因を発する「教育」に対する根強い不信感のせいで、本当にものごころついてから、教師といえば、信じてはいけないタイプの代表のようなイメージが支配的でしたので、(まあ、いまから考えると笑えますが、思い出すと、かなり悲しい少年時代でしたね。小学校に入る早々大きな病気にもかかったりしましたし。そうそう、幼稚園だって、登校拒否で、1週間しかもちませんでしたしね。)子どもは、できるだけ自分の意志で自由に育っていけたら一番なんだ、なんて素朴に考えていたわけです。なんと、今から考えるとおそまつな考え方なんでしょうか。笑ってやって下さい。

 ほんとうに、シュタイナー教育の考え方から受けた影響は、僕自身、絶大なものがあって、気質ごとに教育の仕方というか、教師の生徒への対し方が違うことなどをはじめとして、成長の7年周期に応じた教育の比重の変化とか、12感覚論だとか、すべてが、驚きと発見の連続でした。

 参考までにいうと、シュタイナーは治療教育に「出生天球図」つまり、占星術の出生時のホロスコープを研究しなければならないということを語っています。(本当は、受胎時がいいそうなんですが)。

 

 

 

生きた概念/響く自分を取り戻そう


(92/07/20)

 

 先日、ルドルフ・シュタイナー治療教育研究会の会報誌「はぐくむ」の7号(1991年1月発行)を入手したところ、その中に「第6回 R.シュタイナー治療教育研究会全国大会」での高橋巌さんの「エーテル体と治療」という講演が掲載されてまして、興味深い内容が盛り込まれていましたので、その中からいくつかのテーマをピックアップしてご紹介しておきたいと思います。

 この講演のメインテーマは、人智学思想におけるエーテル体の意味、現代人の私たちに一番欠けている部分としてのエーテル体、そして、東洋思想の根本をなすエーテル体の文化、という3つです。

 1番目と3番目のテーマについて簡単に要約しておきますと、アトランティス時代の人間はシャーマン的であって、エーテル体の原則で、無意識なままで脱魂状態になって、霊界からの通信を受け、エーテル体の響きを頼りに暮らしていたが、現代ではそういうことはできなくなっているから、今度はそうしたことを今度は意識的に霊界の響きを自分のエーテル体で受けとめられるような生き方をつくっていこうとするような、いわば新しいシャーマニズム的な方向性をつくる必要がある。そうした生き方をつくっていこうとするのが、人智学である。ということですが、今回は主に2番目のことについて紹介したいと思います。 

 しかし、エーテル体といっても、なかなか理解しがたいと思いますので、少しだけ説明しておきますと、自然界には鉱物、植物、動物、人間という4つの存在があって、エーテル体というのは、鉱物にはなく、植物、動物、人間に共通して存在するもので、生命体とも表現できます。これは、人間にとっては記憶、習慣、気質の担い手でもあって、腺組織として体的に表現されていて、物質と霊界との境界にあたる部分でもあります。また、人間は、肉体、エーテル体、アストラル体、自我からなっていますが、そのそれぞれを支える要素として、生命エーテル、化学(音)エーテル、光エーテル、熱エーテルというのがあって、そうしたエーテルの働きのおかげで人間は活動できるように、エーテル体というのは、こうしたエーテルそのものを担っている、人間の特定部分なわけです。これを身体の部分等と関連させて図式化すると以下のようになりますので、参考にしてください。 

自我・・・・・・・血液・・・熱・・・・・・・・熱エーテル

アストラル体・・・呼吸・・・気体・・・・・・・光エーテル

エーテル体・・・・体液・・・液体・・・・・・・化学(音)エーテル

肉体・・・・・・・骨格・・・固体・・・・・・・生命エーテル

 さて、それでは、「現代人の私たちに一番欠けている部分としてのエーテル体」についての講演の一部を紹介させていただきます。そのキーワードになるのが、「生きた概念」と「死んだ概念」です。 

現代の人間はエーテル体がどこか歪んでいたり弱まっていたりするために、自分で気づかなくても、生活する態度において無意識の嘘とか、無意識の歪みとかがあると最初にいいましたけれども、そのこととこの図式が関係あると思うからです。他人が見ていると明らかに違うところに理由があるのに、その人は一生懸命違った理由で自分の行動を弁解しているということが続くと、無意識にそういう経過が進んでしまい、自分でイメージしている部分と本当の自分との隔たりが大きくなってしまいます。生活が安定していて、うまくいっている場合にはあまり気がつかないのですけれども、何かの時に行き詰まりがきたり、失敗したり、何かマイナスの方向に生活が転換してきた時に、自分の真実の姿が見えないで、いくら自分と向き合おうとしても歪んだ自分にしか向き合えなくなると、カルマ的に非常にマイナスなのです。その時、仮に非常に辛い思いをするにしても、とことん追い詰めて自分の姿と自分が向き合えた時には、そこから幾らでも立ち直れるし、エーテル体がそこから成長できるのです。ところがその機会がなくなると、全部ちぐはぐになってしまって、結局自己教育ができないのです。その時に真実の自分の自分に対する自己反省ができるのは、人間の中のエーテル体なのです。

人間の中のエーテル体も、そのエーテル体が調和を保つためには、そのエーテル体がきれいな響きを発していないと駄目で、エーテル体の響きが歪んでいたり、いびつであったりすると、そのエーテル体の中の調和だけでなく、概念や理念による知性の働きも、働かなくなるのです。先程宇宙叡智と言いましたけれども、宇宙の中の知性の働きなり、宇宙の中の概念の働きはエーテル界の中では音として響いているのです。音で響いているエーテルの流れが物質界に働くと、それが「結び」の働きになって、万有引力の法則のような科学法則として働くのです。そして人間の中にそれが働くときには、それが人格を成長させる働きになるのです。ところが、肝心の人間が自分のエーテル体のそういう働きを受け付けないと、宇宙叡智或いは宇宙法則が、ひとりひとりの人間の中に音として響いているときに、その音を聞きとる力をもてません。そしてエーテル体が歪んだり曇ったりしてしまいます。「一般人間学」では、今言いましたことは、「生きた概念」と言っています。死んだ概念と対応させて述べているので、それと結びつけて考えていただくと考えやすいかもしれません。人間の心の中に生きた概念と死んだ概念があるというのです。概念というのは、思考内容と同じだと考えてくださって結構です。私なら私が、教育を通して何か知識を学びますね。学んだ時に、それが死んだ概念として入ってくるか、生きた概念として入ってくるかによって、その教育の内容が私の魂を成長させるか、成長を妨げるかどっちかになるわけです。成長を促進させる知識は生きた概念なのです。それはどういうことかというと私の中のエーテル体に響いてきて、エーテル体をつくり変える働きだと生きた概念になるのです。ところが、エーテル体の働きを阻害して、ちょうど心の中のコンプレックスみたいに孤立して存在してしまうと、エーテル体の働きに対してそれは妨害的になってしまうので、そういう知識が増えれば増える程、その人間の魂は弱っていかざるをえません。

 今の人間は救いようのないくらいにエーテル体が硬化し、歪んでしまっているそうで、そのためには、「どんな相手にどんなことを言われても、その言ったことをエーテル体で受けとめ、自分の中に全部流し込」まなければいけないといいます。

 つまりは、現代の人間は低次の自我の働きで、自らを閉ざしているから、自分をある種「器」のような状態に置くことで、「響き」に対する敏感さを養いエーテル体に調和を取り戻す必要があるということなのでしょう。

 「嫌いでも理解・好きなら当然理解」ということも、そういう意味では、「響く自分を取り戻す」ということでもあるでしょうね。そうした「響く」自分にならなければ、認識力の向上も決して望めないのではないかと思います。

 

 

 

12感覚論など


(92/12/10)

 

 大人は論理的に考えたり理性的に考えることの必要性から、子供のころのような空想と現実との境目のない世界からでてくるわけなのです。それはある程度仕方のないことなのだと思います。

 ただ、大人になってからでも芸術的な活動を通じて、インスピレーションを受けやすくすることは可能なのだという気がします。子供のそうしたファンタジー的なあり方は、「見えない遊び友だち」ということに典型的にあらわれているように思えます。子供は、大人にみえない自分だけの友だちをもっていることが多いですよね。先日紹介した「子どもの体と心の成長」には、そうした「見えない遊び友だち」について書かれているところがあります。 

子どもの心眼は、ファンタジーの創造的な力と結びついています。そのように集中的に、自分の形成力の作りだしたもののなかに。子どもは生きているのです。子どもはそれらを対象化し、外界に投影するのです。それが、子どもが作り出す「見えない遊び友だち」の源泉なのです。自然な賢さをもった小さな子どもは、大人がそのような見えない遊び友だちのことを理解しないことに、すぐに気づきます。大人は子どもが嘘をついているとか、「ほらを吹いている」とかいって、非難します。大人には、そのような遊び友だちが見えないからです。夢みるようなファンタジーと心眼から構成されている。その力を把握するのは、大人には困難なことなのです。自分の幼年時代を思い出すことによって、その力をふたたび心のいとなみのなかに呼び出すことができます。

 また、子供の「空想」と「嘘」ということについても、それとの関連で、教育実践について考えていなければならないことが述べられています。 

 小さな子どもは真実と虚構をまだ区別できないというわかりきったことが、教育実践においてつねに考慮されてはいません。なぜ、夢は、昼間の体験よりも事実ではないのでしょうか。・・・ 

 子どものファンタジーが生み出した形姿は、現実よりも「真実」なものではないといえるでしょうか。子どもは、あまり強烈でない現実を望みたいのです。なぜ子どもは、外的な感覚によって知覚したものを、内的な思索のなかで外に投影したものよりも真実であると思うべきなのでしょうか。・・・

 ファンタジーが理性的に働かないとき、子どもは嘘のファンタジーに駆られます。外から健全な心の栄養として供給されないものが、自分が内的に考え出したものをとおして空想の表象のなかに入っていきます。そのような子どもには、価値のある童話、伝説、またのちには神話を聞かせ、そのすばらしいイメージを内的に生きるようにさせるべきです。そのような子どもは、絵や彫塑などの芸術的な行為をたくさんおこなうべきです。また、家庭や学校で、みんなが認めてくれるような小さな工作をする機会を与えるべきです。だれからも気にかけられず、放っておかれると、いきいきとしたファンタジーが紡ぎ出します。つまはじきされていることの均衡をとるために、不思議な話を考えだして語るのです。

 「均衡感覚」「運動感覚」「生命感覚」ということについてですが、幼児教育について考えるときには、感覚をどう発達させ、どう統一させていくか、ということが大切だといいます。

 シュタイナーは、この感覚について、意識のなかに12の感覚の座を設けています。そして、その12の感覚を集中的に体験すると同時に、それら相互の結びつきをとっても大切なことだと考えています。その12の感覚とはどういう感覚かというと、「視覚」「聴覚」「味覚」「嗅覚」「触覚」という五感の他に、「熱感覚」「均衡感覚」「運動感覚」「生命感覚」「運動感覚」「言語感覚」「概念感覚」「個体感覚」という感覚を加えた全部で12の感覚です。これらの感覚は大きく「内部」と「外部」の二つに分けることができ、「味覚」から「生命感覚」までを「内部感覚」で、「言語感覚」から「聴覚」までが「外部感覚」です。

 では、感覚とはいったいなにかということになるのですが、「私たちが直接刺激によって与えられる体験内容を意識化する働き」であって、思考、感情、意志というのは、「魂の内部でこの感覚体験を基底にして構築される内的建造物のようなもの」ということができそうです。シュタイナーは「一般人間学」などで、この12感覚論を提示したのですが、それをふくむシュタイナーの感覚論については、高橋巌さんの「シュタイナー教育の方法」の中の「感覚の教育」や「神秘学講義」の中の「霊的感覚論」などで詳説されています。ここでは、「神秘学講義」から、とりあえず五感を除いた感覚の主な考え方を紹介させていただきます。 

・・・熱感覚は触覚の一部分のように考えられますけれども、神秘学からいうと、熱は実は外部感覚でもあるし、内部感覚でもあるのです。それは決して皮膚感覚ばかりではありません。ですから、ある家の中に敏感な熱感覚をもっている人が入っていくと、その家の温度が20度でもなにかひやっと感じたり、15度でもなんとなく暖かく感じたりすることがあります。あるいは人と向かい合ったときに、相手の体温と関係なく、暖かい感じのする人と、冷たい感じのする人があります。集中的な自我体験を通して熱を作り出すならば、冬の寒気の中でも自分の周囲の温度が非常に熱いと感じることができます。・・・熱というのは触覚だけに関係するのではないどころか、もっと非常に霊的な存在であり、いわば物質と非物質との橋渡しをする存在のようにも思えます。 

 均衡感覚は、耳の中に三半規管という解剖学的に確かめられる部分がありますから、説明するのは容易ですが、これと関連して運動感覚も問題になります。これは自分以外のものが運動しているのを知覚する感覚ではなくて、自分自身が動いているか静止しているかを体験する内部感覚です。・・・ 

 生命感覚も、・・・自分自身の生命の営みを、たとえばいま調子がいいか悪いかとか、生命力が弱っているか否か等々、生命に観するあらゆる身体の営みを直接体験する場合に、生命感覚という言葉を使います。 

 言語感覚は、ふつう聴覚に射れますけれども、しかし言語は耳で聞く音とはちがいます。もっと固有の、もっと本質的な質的内容をもっていると考えます。ヨハネ福音書で「はじめに言葉ありき」というときの言葉とか、日本の言霊における言葉のような場合、言葉そのものが固有の力をもっているわけです。その言葉によって人間や事物に固有の働きが加えられます。・・・ 

 概念感覚と言いますと、もっと奇妙に感じられるかもしれません。概念は判断によって生まれてくると考えれば、概念感覚という言い方はそもそも形容矛盾なんですけれども、ここで概念というのは、哲学で言うエヴィデンツ(名証性)と同じなのです。あることがらが直観的に真実だと悟れるときがあります。なぜそうなのかわからないけれども、それが真実だと悟れる場合に、哲学では説明のしようがないものですから、明証性という言葉を使うのです。そういう特定の思想内容を、判断を通さないで、じかに体験する場合、それを概念感覚という言葉で表現するのです。神秘学にとって、概念教育の問題は非常に重要になてきます。いわゆる霊的な体験というのは、すべて概念感覚の体験であると言うこともできると思います。 

 個体感覚・・・。ある外的な対象を個として、かけがえのない個体として体験するか、それともたくさんのある中の一つとして、量として、体験するかは、認識上決定的にちがう二つの態度です。量的な感覚しかもたない人が、ひとりの人間を集団の中の一員としてしか考えようとしない場合、相手に対していくらでも残酷な態度がとれるわけです。それから自分のもっている万年筆や本などにだんだん愛着が出てくると、同じものを店で売っていても、自分が今まで使ってたものをかけがえのないものと感じるようになります。それは個体感覚の体験です。

 長くなりましたので、フォルメン線描等については、またにさせていただきますが、子どもの教育だけではなく、私たち人間すべてにとって、上記で紹介した12感覚ということと、それらの相互作用ということを考えてみると、いろんな大事な問題が浮かび上がってくるように思えます。

 

 

 

思考への信頼と思考する魂の本質


(92/07/23)

 

 「咬みつくような疑念」がなければ、意識魂は育ちません。謎・謎・謎・謎・・・の連続というか自己増殖のようなものは、自己認識にとって欠かすことのできないプロセスであり契機であると思います。シュタイナーが(純粋)思考ということを強調するのも、そこらへんのことと深い関係があるようです。「霊界の境域」(風の薔薇)の第一章「思考への信頼と思考する魂の本質」にはそれに関連したことが述べられています。ここらへんをちゃんと把握しておくと、「思考」ということに対する無意味な誤解はとけるはずなんですけどね、誤解されやすいところではあります(^^;)。 

明瞭な意識にとって、思考は魂の生活の中を流れ去る印象、気分、感情等の奔流のただ中の一つの島である。印象や感情を思考によって照らし出し、把握すれば、印象や感情から自分を自由に保つことができる。魂の舟を思考の島へ漕ぎ着けることができれば、激しい感情の嵐の中にあっても確固とした平安を得ることができる。 

魂は本来、思考に対する信頼を有している。この信頼を持つことができなければ、人生に於ける確かさを全て失わざるを得ないと魂は感じている。思考への疑いが生じれば、健全な魂の生活は断たれる。思考が不明瞭になった時でも、思考に力と怜悧さを取り戻しさえすれば、明晰さは自ずから獲得できる、という確信が持てなくてはならない。無力を克服し、思考によって明晰さを獲得すれば、平安が得られる。思考は魂の生活に全き光を注ぎかけることができるのである。 

思考に対する魂のこの気分が認識への努力全ての基盤になる。この気分はある魂の状態によってかき消される。その魂の状態は暗い感情の中に常に存在する。思考の価値と力に疑いを抱く者は魂の基調を誤認している。思考が鋭利に過ぎると、疑いが生じる。思考を信頼しない思索家はこの疑いを断つことができない。

思考に対する信頼の感情を育ててゆく者は自らの内に魂の力を形成するだけではなく、自分の魂とは全く別の宇宙存在を自らの内に担うようになる。自分自身であると同時に自分とは別の世界に属するものの中に生きるために、この宇宙存在に徹底的に働きかけねばならない。 (中略) 

魂は世界からの疎外感に対する慰めを必要としている。この慰めは思考によって与えられる。「果てることなく流れ去る日常の中で私は一体何者なのか。私の感情、望み、意志は自分にとってしか意味がないのだろうか」という感情を抱くのは稀なことではない。思考生活が正しい方向に向かうや否や、そのような感情に対して、「宇宙事象に関する思考はおまえの魂を迎え入れる。宇宙事象の本質を思考し、内面に流れ込ませる時、おまへは宇宙事象の中に生きる」という感情が立ち現れる。宇宙に迎え入れられ、宇宙に於ける自己の正しい位置を感じることができるのである。この気分は、あたかも思慮深い法則に則って送り届けられた宇宙の力のような、魂の活力となる。

この感情は「私はただ単に考えるのではない。宇宙が私の中で思考するのである。宇宙は私の中で宇宙の生成を語る。私の魂の中で宇宙は思考として生きる」という感情になる。

 つまり、真性の思考内容を感情の内容とするというか魂の気分とすることがアストラル的な欲念や低次の想念を克服し、また冷たい思考ではない宇宙思考的な方向性をもった意識魂の形成にとって欠かせないということだと思います。この宇宙思考ということは、西田幾多郎的にいえば絶対矛盾的自己同一的な「無の場所」ということでもあって、この場合の「無」というのは、主観−客観という図式を越えたというかそれが立ち現れる前の叡智的な意識の場のことです。

 これは、日本的霊性とキリスト教とを比較しながら日本的聖霊神学を模索している小野寺功さんの「大地の神学」(行路社)によれば、西田幾多郎のそうした場所的論理との関連でいうと「三位一体のおいてある場所」ということになるそうです。この論文集は、日本的霊性とキリスト教的霊性を同時に成り立たせるビジョンを西田幾多郎の哲学を批判的に継承しながら模索していこうとするもので、「神学」的にはかなり画期的なアプローチだと思われます。でも、シュタイナー的な神秘学がさらりと説明可能なところをキリスト教的なもってまわったような説明をしてたりしてますけど、基本的にはかなりまともなアプローチではないでしょうか。

 さて、キリスト教が苦手、という件ですが、これはたぶん日本人の多くに特有なキリスト教に対する感情で「罪」とか「迷える小羊」とか「懺悔」とか「洗礼」とかはたまた、あの頑強な自己犠牲的な(半ば自虐的な)信仰態度とかいうことへのどうにも落ちつかないイメージを軸にして形成されてきたようです。「信仰」とかいう表現でも、ちょっと苦しいですし、「天のお父さん」とかいうことなども、ちょっとね。たぶんこれは、僕が生まれてきた環境にはほとんど全くキリスト教的な要素がなかったことが大きく影響しているのでしょうね。こうした感情を意識してみると自分のこだわりもみえてきてなかなか楽しい認識作業にもつながりますけど・・・。

 もちろん、キリスト・イエスという存在やその意味については探求すればするほどに魅力的に感じていて、今後もますますひかれていくだろうなとは思いますが、それはたぶん「キリスト教」という制度的な信仰形態とはほとんど関係のないところでの魂のひかれ方だと思います。

 これは仏教についてもいえてて、制度的な信仰形態としては仏教であろうと、まったく受け付けないのが事実で、仏教をハイパーな認識論や広義のサイエンスとして受け取っているから仏教への親近性を感じているのだと思います。つまりは、薔薇十字的なアプローチであれば、キリスト教も仏教も同じ土俵で探求できるということなんです。

 ただ、最近、低次の(^^;)信仰ということは問題になりませんが、その本来の高次の意味でとらえた「信仰」ということにはなみなみならぬものを感得するというか「気配」を感じるといったらいいのでしょうかそんなことを思うようになりました。

  ということで、自分の感情のベースを理解することは、好き・嫌いのレベルを超えたさまざまな探求への道を開いてくれるのではとも感じています。

 

 

 

 

思考について●資料編


(92/08/29)

  

<R.シュタイナー「ゲーテ的世界観の認識論要綱」(筑摩書房)より抜粋> 

☆純粋経験

・私たちが自己を全く放棄して現実に向かうとき。現実が私たちに現れてくるそのありようが純粋経験である。

・純粋経験の内容とは、空間内に事物がただ隣り合って並んでいること、時間の中で前後して現れることにすぎない。全く脈絡のない部分部分の集合である。 

☆思考は経験の中のより高次の経験である

・思考が現れたその瞬間、法則性をもった諸関連はその思考の内にすでに含まれている。思考以外の経験においては、この関連は他から借りてくるより仕方がない。

・思考以外の経験において私たちの求めているものが、思考においては、それ自身直接の経験になっている。

・私たちが本当の法則性、理念的な確実性を知るのは思考の中だけである。それゆえその他の世界の法則性(これは世界自体からは得られない)もすでに思考の内に存在するに違いない。 

☆思考と意識

・私たちの思考世界は全く自立的な本性であり、自ら完結した、完璧で完成された統一体である。この時、思考世界の持つ二面性のどちらが本質的であるかはっきりしている。内容の客観性が本質的なのであり、その登場する主観性は本質的ではない。

・思考の唯一の場が人間の意識であることは、確認しておかねばならない。

 

 

<R.シュタイナー「自由の哲学」(イザラ書房)より抜粋>

☆観察の対象としての思考と感情とを同じ次元で扱うことはできない。同じことはその他の精神活動についても言うことができる。思考以外の精神活動はすべて、外界の事物同様、観察の対象になる。しかし思考活動だけは、もっぱら観察する方の側に留まり、自分を観察の対象にはしない。この事実は、思考の特異な性質からきている。何かについての思考内容を作るとき、その表現の仕方はわれわれの感情や意志行為とは反対のあり方をしている。 

☆思考内容を互いに関連づけるとき、私の思考内容そのもの以外には何も基準となるものがない。 

☆私が無条件に確実だと知り得るのはただ私の思考だけである。なぜなら思考だけは私がそれを確かな存在にしているのだから。私の思考だけは私自身がそれを生み出している。 

☆私が確かな基礎づけの上に立とうとすれば、存在の意味をその存在そのものから汲み取れるような対象が見つけ出されねばならない。しかしそのような対象は私自身以外にはない。なぜなら思考する私自身だけが、私の存在に思考活動というそれ自身に基づく特定の内容を与えることができるからである。 

☆思考を観察対象にする場合には、われわれ自身がまずその対象を作り上げる。その他の場合はすべての対象がわけわれの手から離れたところですでに存在している。 

☆思考行為においてこそ、宇宙の秘密の一端を掴むことができるのである。そこで何かが生じるときには、必ずわれわれ自身がそこに立ち会っている。そしてまさにそのことが大切なのである。なぜ事物が私にとって謎めいた現れ方をするのか。その理由はその事物の成立過程に私が立ち会わなかったからである。私は出来上がった事物を眼前に持っている。けれども思考だけは、それがどのようにつくられるのかを私は知っている。だから宇宙の出来事を考察するとき、思考以上に根源的な出発点はどこにも存在しないのである。 

☆思考を考察しようとするとき、思考の外へ出ることはまったくできない。 

☆私は自分の思考を自分以外のところからながめるつもりは、今のところまったくない。逆に私は、思考の助けを借りて、思考以外の宇宙の働きを考察しようとしている。 

☆われわれはまず思考をまったく中立の状態で、つまり思考を思考する主観にも思考対象にも関係させずに考察しなければならない。なぜなら主観の中にも対象の中にも、あらかじめ思考によって生み出された概念が含まれているからである。どんな存在の仕方が考えられるにしても、まず思考という形式をとらなければならない。 

☆宇宙進化がもたらした最後のものこそ、思考に他ならない。 

☆思考はひとつの事実なのだ。その事実が正しいか正しくないかと問うことは無意味であろう。せいぜい言えることは、思考が正しく適用されているか否かなのである。 

☆意識とは思考と観察の仲介者である。 

☆対象を観察するだけなら、対象は外からわれわれに与えられたものとして現れるが思考する場合には、人間は自分を能動的な存在にする。その人は対象を客観と見、自分を思考する主観と見る。思考を観察するものへ向け、対象意識を持つ一方で、思考を自分自身へ向け、自分についての意識、つまり自己意識を持つ。人間の意識は思考する意識である故に、必然的に自己意識でもなければならない。なぜなら思考の眼を自分自身の活動に向けるとき、思考は自分の最も固有の本性である主観を客観対象として持つのだから。 

☆しかもわれわれは思考の助けを借りてのみ自分を主観として措定し、そして自分と対象とを対置させることができる。だから思考を単なる主観的な活動であると解することは許されない。思考は主観と客観の彼方にあって、この2つの概念をすべての他の概念と同じように作り上げるのである。 

☆思考はわれわれの特殊な個性を宇宙全体と関連づける。感覚と感情と(さらに知覚と)は、われわれを個別的な存在にする。思考するとき、われわれはすべてに通用する全一の存在となる。われわれの本性が二重であることの深い根拠は、まさにこの点にある。

☆われわれの内なる思考は、われわれの特殊存在を覆い、われわれを宇宙の普遍存在に結びつける。その結果われわれの中には認識衝動が生み出される。

  

<R.シュタイナー「神智学」(イザラ書房)より抜粋> 

☆人間は思考を通して個人生活の圏外へ出ていく。彼は自分の魂を超越した何かを手にいれる。思考の法則が宇宙の秩序と一致していることは、彼にとって疑う余地のない事実なのだ。彼はこの一致が存在するからこそ、自分をこの宇宙の定住者であると考える。この一致が存在するという事実によって、人間は自己の本性が何であるかを学ぶのである。人間は自分の魂の内部に真理を求める。この真理を通して語るものは、魂だけではなく、世界の事物でもある。思考が真理と認めるものは、単に自分の魂だけでなく、世界の事物にも関係のあるひとつの独立した意味をもっている。星空から受ける感動は私自身のものである。しかし天体運行の法則を把握した私の思考内容は、他の人の思考内容にとっても、私の思考にとっても、同じ客観的意味をもっている。 

☆特に強調しておかなければならないのは、霊界が、人間の思考内容を織り成す素材とまったく同じ素材によって、織り成されているということである。(「素材」という言葉も勿論ここでは比喩的意味に用いられている。)ただ、人間の思考内容の中に生きている素材は、この素材の真の本性の影であるに過ぎず、図式であるに過ぎない。壁に投影された事物の影がその事物そのものに対するように、人の頭に浮かぶ思考内容は、この思考内容に対する「霊界」の存在に対している。人間は霊的感覚が目覚めたとき、ちょうど肉眼が机や椅子を見るように、この思考内容の本性をはじめて本当に知覚できるようになる。そのような人の周囲を思考の本性が取りまく。肉眼は獅子を知覚し、感覚的知覚と結びついた思考は獅子のこの知覚像に関する思考内容を図式もしくは影絵としてもつ。(中略)霊眼を用いることを学んだ人にとって、周囲は新しい生きた思考内容や霊たちの世界によって満たされるのである。

 

<R.シュタイナー「霊界の境域」(水星社)より抜粋>

  (第1章/「思考への信頼と思考する魂の本質」より)

☆明瞭な意識にとって、思考は魂の生活の中を流れ去る印象、気分、感情等の奔流のただなかの一つの島である。印象や感情を思考によって照らし出し、把握すれば、印象や感情から自分を自由に保つことができる。 

☆魂は本来、思考に対する信頼を有している。この信頼を持つことができなければ、人生における確かさを全て失わざるを得ないと魂は感じている。(中略)思考は魂の生活に全き光を注ぎかけることができるのである。(中略)思考に対する魂のこの気分が認識への努力すべての基盤になる。 

☆思考に対する信頼の感情を育ててゆく者は自らの内に魂の力を形成するだけではなく、自分の魂とは全く別の宇宙存在を自らの内に担うようになる。自分自身であると同時に自分とは別の世界に属するものの中に生きるために、この宇宙存在に徹底的に働きかけねばならない。 

☆魂にとって、感情生活は自己の内での存在であり、思考生活は自らの解放である。 

☆魂は世界からの疎外感に対する慰めを必要としている。この慰めは思考によって与えられる。「果てることなく流れ去る日常の中で私は一体何者なのか。私の感情、望み、意志は自分にとってしか意味がないのだろうか。」という感情を抱くのは稀なことではない。思考生活が正しい方向に向かうや否や、そのような感情に対して「宇事象に関する思考はおまえの魂を受け入れる。宇宙事象の本質を思考し、内面に流れ込ませる時、おまえは宇宙事象の中に生きる」という感情が立ち現れる。宇宙に迎えいれられ、宇宙における自己の正しい位置を感じることができるのである。(中略)この感情は「私はただ単に考えるのではない。宇宙が私の中で思考するのである。宇宙私の中で宇宙の生成を語る。私の魂の中で宇宙は思考として生きる」という感情になる

☆霊学の道を歩もうとする者は思考についての瞑想に入るのが有益である。思考についての瞑想に入ることで、霊界への扉を開く魂の状態が得られる。魂が霊的事象、霊的告知を拒絶しているかぎり、最も明敏な思考、最も完成された知性にも霊界への扉は閉ざされ続ける。----「思考によって宇宙の諸事象の流れに合一するのを私は感じる」という、気力を回復させる力を持った言葉を魂の中に繰り返し浸透させるのは霊界の認識を獲得するための有効な準備となる----このような思考を内面生活の中に流し込み、霊的な生命の風を魂の中に吹き込む時、この言葉の抽象的な認識的価値が問題なのではない。魂の中でこの思考の有する力を感じとることが重要なのである。この思考内容を認識することが問題なのではなく、思考内容を体験することが問題なのである。」

 


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