シュタイナー

「キリスト衝動の告知者としてのノヴァーリス」

1912年12月29日、ケルンでの講義(GA143所収)

yucca訳


 以下に訳出してみましたのは、GA(シュタイナー全集)143 Erfahrungen des Uebersinnlichen.Die drei Wege der Seele zu Christus 所収の1912年12月29日ケルンでの講義です。

 ノヴァーリス(Novalis1772−1801 本名 Friedlich von Hardenberg 作品『ハインリヒ・フォン・オフターディンゲン』(青い花)、『ザイスの学徒たち』など)についてはほかの著作、講義でも触れられていますが、この1912年12月29日は、連続講義「バガヴァッド・ギーターとパウロ書簡」(GA142)の第2日目にあたり、「バガヴァッド・ギーターとパウロ書簡」の内容との関連も深く、古インドのヴェーダやサーンキヤ哲学の余韻がゲーテやフィヒテに響いていることなどがここでも語られています。

 ノヴァーリスは、こういうゲーテやフィヒテ、そしてシラー等の形成する豊穣な精神的地平のなかに育ち、深く共感・沈潜しながらその内容を血肉化し、さらにこれらをいわば未来へ向かって、愛=キリスト衝動で貫き暖める・・・このノヴァーリスが、新しい精神潮流(この翌年シュタイナーは神智学協会を離れ、人智学協会を発足させます)の導きの星のひとつとされているのが印象的です。

 「夢幻的な浪漫派詩人」としてのノヴァーリスにとどまらず、30年に満たない生涯のなかで、カントやフィヒテ研究をはじめ、鉱山官としての実際的な仕事に加えて(とくに『青い花』の第5章などでは、鉱山実務に携わった人ならではの体験が活かされています)数学、化学、物理学等々当時の自然科学全般に深く親しみ、膨大なメモを取りながら、精神と自然のあらゆる学の分野を綜合する「百科全書学(エンチュクロペディー)」を構想していたノヴァーリス・・・

 高次の自然学としての詩学を追求するノヴァーリスと芸術を認識原理としてとらえながら諸学に生命を吹き込むことを目指したシュタイナー、こういう点でも、ちょうどシュタイナーの一世紀前に生きたノヴァーリスの志向は、シュタイナーの精神科学的人智学の魅惑的な序曲のようにも思えます。

                                    yucca

 


  1912年12月29日 ケルン

 このように、私たちの愛するノヴァーリスの心の響き、彼をかくも親密にキリストの使命について告知することに導いたこの心の響きを聴きますと(☆1)、私たちは私たちの精神潮流を正当さを証しする何かを感じます、と申しますのも、その全性質が宇宙の謎と宇宙の秘密のすべてと深く親しんでいた人物から私たちはそれを感じるからであり、私たちが目指すのと同じ世界観を通じてこれからの新しい人間が求めていかなければならないあの霊的世界への憧れのように、何かがこの人物から響いてくるのを感じるからです。ノヴァーリスがそうであったような、そのような人間の心魂のなかに沈潜していくのは、驚くべきことです。ノヴァーリスはヨーロッパの精神生活の何という深みから成長し、霊的世界への憧れを何と深く把握したことでしょう。そしてさらに、ノヴァーリスがその受肉においていかに若々しい心のなかにこの霊界を流れ込ませたか、そしてこの霊界が彼に向かっていかにキリスト衝動により輝きわたらされたかをそのように私たちに作用させるなら、私たちはこれを、私たち自身の魂、私たち自身の心を奮い立たせるもののように感じるでしょう、ノヴァーリスの前に常に神々しい光のように輝いていたものに向かって、ノヴァーリスがその短い生涯をかけて目指したものに向かって、彼とともに邁進して行こう、と。そして私たちは、彼がこの受肉において、私たちが霊界において探求しようとするもののための近代における預言者のひとりであったことを感じます、さらにまた、ノヴァーリスの心、魂のなかに生き、そしてキリスト衝動に親密に貫かれることで彼のものとなったあの霊感[Begeisterung]によって、この探求のためにいかに私たちがもっともよく霊感を吹き込まれうるか、ということも感じます。そしてまさしく今この瞬間、つまり一方においては人間の謎のすべてを自らのうちに包み込もうとする人智学協会を設立し、他方においては、オリエントからかくも輝かしく射してくる光(☆2)をキリスト衝動との関連においても考察しようという現在のこの瞬間、私たちはこの瞬間においてキリスト衝動のひとつの現われとしてこのノヴァーリスの魂のなかに生きたものと結びつくことが許されるでしょう。

 私たちは、それがかつて古代ヘブライにおいて偉大な預言として、創造から迸る意義深いエリヤの言葉として響いていたのを知っています。私たちは、それが宇宙的なキリスト存在がナザレのイエスの体に下ったときにそこに居合わせた衝動であったことを知っています。私たちはそれが、人類進化に組み入れられるべきものを当時預言として前もって告知していた衝動と同じ衝動であったことを知っています。私たちはそれが、ラファエロの魂のなかで人間の注視の前にキリスト教の無限の秘密を不可思議に現出させたのと同じ衝動であったことを知っています。そして憧れに満ち謎を感じつつ、私たちは、ノヴァーリスの中に再受肉したエリヤの、洗礼者ヨハネの、ラファエロの魂に向かい、この魂とともに、その霊的な振動のすべてが人間の新たな精神生活への憧れを貫き燃え立たせているのを感じます、そして勇気を感じ、さらには人類のこの新たな精神生活に向かって生きていく力のいくばくかが私たちに与えられるのを感じます。おお、このノヴァーリスは、いったいなぜスピリチュアルに捉えられるべきキリスト衝動を預言的に告知すべく近代に生まれ落ちたのでしょうか。彼をめぐるその精神的地平は、実に全人類の偉大な精神潮流が復活したかのようでした。ノヴァーリスは、ヨーロッパの神智学ー人智学的世界観の最初の告知のごとく精神生活そのものが燃え上がっていたグループのなかから成長しました。ゲーテという太陽、シラーという太陽の輝きのなかで、キリスト衝動へと止むことなく憧れるこの魂は成熟していったのです。

 ゲーテのなかにはどのような精神潮流が生きていたのでしょう。霊太陽はゲーテを通じてどのように顕われ、ゲーテの若き同時代人ノヴァーリスを照らしたのでしょう。ゲーテは、自らの熱く燃えさかる情熱を静め至福に導き霊へと向かわせることのできる全てを、スピノザの世界観から感受しようとしました(☆3)。スピノザの包括的世界観から、ゲーテは宇宙の広がりへの眺望、この宇宙の広がりを織りなし人間の魂のなかに輝き入る霊的存在たちへの眺望を探し求めました、この存在たちが輝き入ることで、人間の魂はあらゆる存在と宇宙のなかに活動し生きているこの存在を感じ認識して、自然を解明し自身の謎を解くことができるのですが、そういう眺望を求めました。このようにゲーテは、スピノザから得られたものから清澄さと観照へと跳躍しようと努めたのです。ゲーテは、古いヴェーダの言葉から私たちに響き輝いてくる、あのスピリチュアルな意味での一神論的な[monotheistisch]世界観のいくばくかを感じていました。そして、耳を傾けようとしさえすれば、ゲーテが再生させる宇宙的ヴェーダ(☆4)の言葉とノヴァーリスから響いてくる暖かい霊感が、宇宙のキリストの秘密のなかでこの上なく美しく共鳴しているのを聴くことができます。キリストを告知するノヴァーリスの言葉が、ゲーテの光に満ちた言葉のなかに流れ込むのを感じるとき、ゲーテのヴェーダの言葉から私たちに光が迸り、光の中に愛と熱が流れ込みます。さらに私たちが別の位置でのゲーテ、つまりゲーテは、宇宙ー統一認識を十全に知覚しつつ、どの魂にもライプニッツ的な意味での独立を認めるのですが(☆5)、そういうゲーテをとらえるとき、サーンキヤ哲学(☆6)の再生の響きであるヨーロッパのモナド論が、言葉の上ではなく心情に即してゲーテから私たちに吹き寄せてきます。サーンキヤ哲学の再生の響きのように当時のヴァイマール、当時のイェナが体験したものすべてへと、ノヴァーリスはキリストに向けられた心とともに成長していきました。そして時にひとは、フィヒテのようにその生硬さのなかで近代的なニュアンスでサーンキヤの心情に浸透された精神を感じ、そしてその精神の傍らに、帰依に満ち熱中しつつその精神を受け入れるノヴァーリスを思うとき、いかにこの精神が時代の真の精神へと和らげられたかを感じるのです。一方ではフィヒテの独特に再生された古インドの言葉が聞こえます、我々を取り巻く世界は夢にすぎず、通常の思考は夢の夢にすぎない、しかしこの夢の世界に力として意志を注ぎ込む人間の魂は現実である、と。フィヒテの新たに再生されたヴェーダの言葉(☆7)はこのようなものでした。その傍らにノヴァーリスの確信があります。おお、ノヴァーリスはその確信をほぼこのように感じます:そう、物質的存在は夢で、思考は夢の夢だ、けれどもこの夢からは、人間の魂がその最も価値あるものと感じ感受し、そのように感じ感受しつつ精神的に行為しうるものすべてがほとばしり出る、と。そしてノヴァーリスの魂はこの生の夢から、キリストに霊感を与えられた自我から、彼の名づけるところの魔術的観念論を、すなわち精神(霊)に支えられた観念論を創造するのです。

 そしてノヴァーリスの愛に満ちた魂が、同時代のまた別の精神の英雄のかたわらに立っているのを感じるとき、つまりその観念論によって世界に霊感を吹き込もうと試みたシラーに耳を傾けながら、ノヴァーリスの魂がこの英雄のかたわらに立っているのを感じるとき、さらにノヴァーリスがシラーの倫理的観念論を描き出すことで、彼自身の内部でキリストに霊感を与えられた心からいかに魔術的観念論を告知するかを感じるとき、私たちは、宇宙空間におけるいつもの状態よりもほとんど調和的に何かが結び付き合うのを感じるのです。それにしてもこれは何と深く私たちの魂に語りかけることでしょう、ノヴァーリスが感激してシラーについて書くとき(☆8、*1)の善良さ、ノヴァーリスの最も内面的なヨーロッパの親密な善良さとでも呼びたいこの善良さは。ノヴァーリスにとってシラーがそうであったもののために、人類にとってシラーがそうであったもののために、このシラーを讃えて語るノヴァーリスのこのような言葉を私たちに作用させてみるとき、そこには人間の魂の善意のすべてが、人間の魂の愛の能力のすべてが表現されています。この称讃を表明するために、ノヴァーリスはほぼ次のように言います:

 私たちが霊たちと呼ぶあの欲望を離れた存在たちが、シラーから流れ出るこれほどの言葉、これほどの人間の智を霊の高みで聴き取ることができるなら、私たちが霊たちと呼ぶ欲望を離れた存在たちですら、人間界に降(くだ)って受肉したいという願いではちきれそうになるだろう、このような人物から流れ出るこのような智を受け取ることを許された真の人類進化のなかで働きかけるために。

 愛する友人の皆さん!このように敬い、このように愛することのできるのは何という心でしょう、これは、混じりけのない真の献身的尊敬と愛の感情に身を捧げたいと思うすべてのひとにとって模範となる心です。このような心はまた、宇宙と人間の魂の秘密であるものをもきわめて平明に語ることができます。それゆえ、ノヴァーリスの口から発せられた言葉の数々も価値あるものです、三重の人間の潮流から霊へと、あらゆる時代を通じてかくも憧れに満ち、時にかくも光にあふれて鳴り響くことを許されたものを、あたかもふたたび鳴り響かせるかのごとく価値あるものなのです。このように彼は私たちの前に立っています、この三十歳に満たないノヴァーリス、この再生したラファエロ、この再生したヨハネ、この再生したエリヤは。このように彼は私たちの前に立ち、そして私たちはこのように彼そのひとを敬うことを許されています、このように彼は、霊的な世界観潮流のなかで追求される霊の啓示に加えて、私たちがいかに真正の心、真正の愛、真正の情熱、真正の帰依をも見出すことができるか、その道を教える数ある仲介者のひとりなのです、崇高な霊の高みから降ろしてこようとするものを、私たちが最も素朴な人間の魂にも流れ込ませることができるようになるための。と申しますのも、だれかれがこの新たな精神探究の理解しがたさについて何を言おうとも、この理解しがたいというのが真実でないということは、ほかならぬ素朴な魂、素朴な心情によって証明されるでしょうから。なぜなら彼らは、この精神潮流における私たちの追求によって霊の高みから降ろしてこられたものを理解するでしょうから。霊的な高みからのこの道を、私たちは単に、何らかの形である種の知的な精神生活のなかで自らに作用させうるひとたちのためのみ見出そうとするものではありません、真実と霊への憧れを持つすべての憧れる魂のためにこの道を追求していこうとするのです。そしてその平明さによってこそ十分深く捉えられねばならない「叡智は真実のなかにのみある」というゲーテの言葉(☆9)を私たちの序の言葉としたいように、私たちの目指す目標は次のようなものでなければなりません、つまり、私たちが求め耳を傾けるスピリチュアルな生活を、スピリチュアルな力の恩寵によって私たちに与えられるように変容させ、それがありとあらゆる憧れる魂に接近することができるようにこのスピリチュアルな生活を刻印することです。このように私たちは努めなければなりません。

 実際のところ私たちは、受肉のいかなる段階にあるにせよ、あらゆる探し求める魂への道を見出すべく、働きかけたゆまず心がけたいと思っています。受肉の秘密は奥深く、ほかならぬノヴァーリスそのひとのそれのような受肉の道が私たちにそのことを示してくれます。このノヴァーリス自身が一種の導きの星のように私たちの行く手に輝いています、彼を感じ従いつつ、認識において全力をあげて彼のところまで高まろうという良き意志を私たちが持てるように、また他方で、霊的なものを真実求めるいかなる人の心にも認識とともに押し迫っていこうという生き生きとした意志を私たちが育むように、その星は輝きます。このように、ノヴァーリス自身がかくも見事に語ったもの、そして私たちにとって決意するための一種の座右銘(モットー)でもありうるものが、人智学的な精神潮流の出発点で私たちの前に輝いているのです。

 精神の言葉が世界観を基礎付けるものであるとき、言葉はもはや単なる言葉ではなく、そのとき言葉は最高の魂にとっても最も素朴な魂にとっても輝き暖めるものとなります。これが私たちの憧れでなくてはなりません。これがノヴァーリスの憧れでもありました。ノヴァーリスはこれを美しい言葉に表現しています、私はこの言葉の最後を一語だけ変更して、愛する友人のみなさん、みなさんの心のためにこれをご紹介させていただいと思います。私はノヴァーリスのこの語を変えます、自分を自由な精神と思い込んでいるうるさがたは少々ご立腹かもしれませんけれどもね。そうしてノヴァーリスの美しい言葉のなかにあるもの(☆10)も、他の導きの星々とならんで私たちの導きの星となりますように。 

     数と図形がもはや

     あらゆる被造物の鍵でなくなり、

     歌ったり口づけしたりするものたちが

     学識深き人たちよりも多くを知るとき、

     世界が自由な生へ、

     そして世界へと立ち帰るとき、

     それからふたたび光と影が結婚し

     ほんとうの澄みきった明るさが生まれるとき、

     そして童話(メールヒェン)と詩のなかに

     ひとが永遠の世界歴史を識(し)るとき、

     そのとき、ひとつの秘密の言葉を前に、 

     道を誤ったものたちの群はことごとく飛び去るだろう(*2)。

 

     Wenn nicht mehr Zahlen und Figuren

 Sind Schluessel aller Kreaturen,

 Wenn die, so singen oder kuessen,

     Mehr als die Tiefgelehrten wissen,

 Wenn sich die Welt ins freie Leben

 Und in die Welt wird zurueckbegeben,

 Wenn dann sich wieder Licht und Schatten

 Zu echter Klarheit werden gatten,

 Und man in Maerchen und Gedichten

 Erkennt die ewgen Weltgeschichten,

 Dann fliegt vor einem(原文斜字) geheimen Wort

 Das ganze verkehrte Herden-Wesen fort.

 

■編集者註

☆1 このように私たちの愛するノヴァーリスの心の響き[…]を聴きますと:この発言の直前に、マリー・フォン・ジーフェルスによるノヴァーリスの「宗教的な歌」の朗唱が行なわれた。

☆2 オリエントからかくも輝かしく射してくる光:1912年12月28日から1913年1月1日までの講義『バガヴァッド・ギーターとパウロ書簡』(GA142)参照のこと。

☆3 ゲーテは[…]スピノザの世界観から感受しようとしました:スピノザはーー新プラトン主義とデカルトから出発してーー汎神論的な必然性哲学を説いた。彼は倫理的な理想として情念からの解放を提示し、人間は存在物の必然的法則の明確な洞察によって導かれるべきであるとした。ーーゲーテは自叙伝『詩と真実』において、この世界観に影響されたことについて以下のように記している。「かくも決定的に私に作用し、私の思惟方法全体にかくも大きな影響を与えたにちがいないこの精神は、スピノザであった。つまり私は、私の不可思議な本性を教化するすべを見出すべくむなしく世界中を探しあぐねた末に、ついにこの人物の”エーティク”[エチカ]に行き着いたのだ。この作品から何を読み取ったにせよ、作品のなかへ何を読み込んだにせよ、私には釈明の余地はないだろうが、ともかく十二分に、私はこの作品に私の熱情を静めるものを見出した。それは私に感覚的道徳的世界について偉大にして自由な展望を開いてくれるように思われた。[…]すべてを宥和させるスピノザの静謐は、すべてを揺り起こす私の奮闘と対照をなし、スピノザの数学的方法は、私の詩的な感覚の使い方および叙述法の反対であった。そしてひとが倫理的対象に対してはふさわしくないとみなしたがったまさにあの法則的な扱い方こそが、私を彼の熱狂的な弟子、公然たる崇拝者としたのだ。精神と心、理性と感覚が必然的な親和力[Wahlverwandtschaft]をもってたがいに求め合い、この親和性を通じて異なった本性の一致が達成されたのである。」(14 巻第3部)

「私は[スピノザの]読書に没頭し、私自身の内を見つめるにつけても、世界をこれほど明瞭に見たことはついぞないと思った。」(16 巻第4部)

☆4 ヴェーダ:リシ(聖仙)によって啓示されたインド人の聖なる智慧。インド、インドゲルマン文献のうち最古の記録。

☆5 ゲーテは、宇宙ー統一認識を十全に知覚しつつ、どの魂にもライプニッツ的な意味での独立を認めるのですが:1813年1月23 日ヴィーラントの埋葬の日、ゲーテはファルクとの対話のなかでこう述べている(ゲーテと個人的に親しく交流して書かれたファルクの『ゲーテ対話録』チューリヒ1969 第2巻、771頁)。「[…]私はあらゆる存在の究極の根本要素には、つまりいわば自然におけるあらゆる現象の原点(起点[Anfangspunkt])というべきものには、さまざまなクラスや序列があると思いますが、全体の魂化(魂を吹き込むこと)[Beseelung]はここから始まりますので、私はこれを魂[Seelen]、あるいはむしろ単子(モナド[Monaden])と呼びたいと思いますーーライプニッツのこの用語を憶えておいてください!最も単純なものの単純さを表現するのに、これ以上良い表現はないでしょうから。ーーさて、これらの単子ないし起点のうちのいくつかは、私たちに経験が示すとおり、非常に小さく取るに足らないものなので、せいぜい副次的な役割あるいは副次的な存在にしか向いていません。これに対して、非常に強く力強い単子もあります。この後者のような単子は、近づいてくるすべてのものを自分の圏内に引きずり込んで自分に帰属するものにしてしまうことを常としています、つまり、人体や、植物や、動物や、さらには天の星にまで変化させるのです。そして、その志向を霊的に内在させている小世界(小宇宙)あるいは大世界(大宇宙)が外的に姿を表わすまで、それは続けられます。この後者の単子のみを私は魂と呼びたいのです。その帰結として、世界単子、世界魂が存在するように、蟻の単子、蟻の魂が存在し、両者はその起源においては完全にひとつとは言えないまでも、元なる存在という点では親和性のある、ということになります。」

☆6 サーンキヤ哲学:六つの古典的正統的なインド哲学体系のひとつ。シュタイナーの1912年12月28,29,30日

の講演『バガヴァッド・ギーターとパウロ書簡』(GA142)、また1909年9月16日の講演『ルカ福音書』(GA114)に見られるサーンキヤ哲学についての言及も参照のこと。

☆7 フィヒテの新たに再生されたヴェーダの言葉:ヨーハン・ゴットリープ・フィヒテ『人間の使命』(1800年

フランクフルト及びライプツィヒ)を参照のこと。第2巻「知識」には、「あらゆる実在[Realitaet]は、夢見られる生も夢見る精神もない不可思議な夢に転ずる、自己自身についての夢のなかで凝集する夢に。直観(直観すること)[Anschauung]は夢であり、思考(思考すること)[Denken]ーー私が空想するあらゆる存在とあらゆる実在の源泉、私の存在の、私の力の、私の目的の源泉ーーは、かの夢の夢である」とある。

☆8 ノヴァーリスがかつて感激してシラーについて書くとき:1791年10月5日、ノヴァーリスはイェナ大学哲学教授ラインホルト(1758ー1823)(*1)宛にこう書き送っている。「シラーは幾百万の凡人を超えています、私たちが霊たちと呼ぶあの欲望を離れた存在たちに、死すべき者となりたいという望みを抱かしめたのですから。シラーの魂は愛情をもって(コン・アモーレ con amore )自然を形づくったように見えます、彼の倫理的な偉大さと美は、彼自身がそこに住まう世界を、定められた没落から救済することができるでしょう[…]」ノヴァーリス著作集、Paul Kluckhohn 編、ライプツィヒ(出版年なし)、第4巻『書簡と日記』(Nr.21)22頁。

☆9 「叡智は真実のなかにのみある」というゲーテの言葉:『箴言と省察』

☆10 ノヴァーリスの美しい言葉のなかにあるもの:『ハインリヒ・フォン・オフターディンゲン』[邦訳『青い花』未完]の遺稿に見られる詩。この続編を企図したティークの報告も参照のこと(Paul Kluckhohn 編

ノヴァーリス著作集 第1巻『文芸作品』244,251頁)。最終行はノヴァーリスでは Das ganze verkehrte Wesen fort 「狂った(あべこべになった、道を誤った)ものはすべて飛び去るだろう」となっている。

 

■訳註

*1 ラインホルト:Karl Leonhard Reinhold ノヴァーリスはイェナ大学在学中にこのラインホルトとシラーに

深く影響を受けた。ノヴァーリスはフィヒテをとくに深く研究したが(彼の父がフィヒテの学資援助者であった関係もあって個人的にも早くから交流があった)、フィヒテはラインホルトの後任として1794年からイェナの教授となった。

*2 シュタイナーはこの詩の最終行にHerden(群れ)という一語を付け加えてHerdenーWesen としています。

 『青い花』遺稿に見られるこの詩の邦訳をいくつかご紹介しておきます:

 

     もしも数と図形が、

     すべての自然の鍵でなくなり、

     もしもすべての自然が、深遠な学者が知っているよりも豊かに、

     歌い、接吻するならば、

     もしも世界が自由な命(いのち)のなかにおもむき、

     自由な世界にもどるならば、

     もしもそれから、光と影がふたたび結婚して、

     まことの澄みきった明るさが訪れるならば、

     そしてひとが童話(メールヒェン)と詩のなかに  

     真実の古い歴史を識るならば、

     そのとき、一つの秘密の言葉をまえにして、

     逆さまになっていたすべてのものが飛び去るだろう。

                       (中井章子訳)

 

     最早数や図形などが  

     すべての被造物を解く鍵ではなく、  

     歌ったり口づけし合う人々が

     学者たちより知に勝るとき、   

     そして世界が自由な生へ、

     <自由な>世界へふたたび帰り、

     こうしてふたたび光と影が

     真の明澄へと結び合わさり、

     ひとびとが童話と詩の中に

     <古い>真の世界歴史を認識するとき、

     ひとつの神秘な言葉の前に、

     狂ったものはすっかり飛び去る。

                      (薗田宗人訳)

 

     もはや数学と図形が

     全ての存在物をとく鍵とはならず、

     歌い口づけしあうものたちが、

     深い学識の人より多くを知るなら、

     世界が自由な生活へと戻るならば、

     そして再び光と影が交わって

     真の光明に変じるならば、

     メールヒェンと詩の中に、

     <もとの>真の世界の歴史が認められるならば、

     その時こそ秘密のひとつの言葉から、

     狂ったものはすべて飛び去る。

                    (青山隆夫訳)


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