シュタイナー

四つの福音書のキリスト叙述における四つの異なった視点

Die tieferen Geheimnisse des Menschheitswerdens im Lichte der Evangelien
『福音書の光に照らした人類生成の深遠な秘密』(GA117) 第1講
1909/11/2  ベルリン
yucca訳


 ヨハネ福音書とルカ福音書に関連してなされた考察と、この両福音書に目を向けさせる心情は、次のように言うことで特徴づけられるほかないかもしれません、つまりこういう考察は、次のような観点から始まっていると言うことによってです。すなわち、私たちがキリスト・イエス存在とみなすもの
は、ーーこの存在についてのそもそも現代における人間の理解力に可能な限りにおいてーーかくも偉大な、かくも広大にして力強いものなので、キリスト・イエスとは誰で、このキリスト存在はひとりひとりの人間精神[Menschengeist]にとって、および個々の魂にとってどういう意味を持っていたか、ということを、何か一面的に語るということを考察の出発点とするのは不可能だということです。そのようなことは私たちの考察の内部では、存在する最大の宇宙(世界)問題に対して敬意を欠くように思えたでしょう。深い敬意と畏敬、これが私たちの考察をまさにそこからもたらしたあの気分を表す言葉です。深い敬意と畏敬、これはたとえば次のような気分のなかに表現されるかもしれません。お前が最大の問題に立ち向かうのなら、人間の理解を高く評価しすぎないよう努めよ。あらゆるものを、これほど高度な精神科学がお前に与えてくれるものであっても、決して高く評価しすぎないよう努めよ、そして生の最大の問題に立ち向かうということであれば、最高の領域にも上昇せよ。そして、この圧倒的に大きな問題を”ひとつの”{原文は斜字}面から特徴づける以外の何かを言うために人間の言葉が十分なものであるなどとは考えるな。ここ三年にわたって行われた講義はすべて、ほかならぬヨハネ福音書において私たちに現れた言葉を中心点としていました。《私は宇宙(世界)の光である(私は世の光である)》というのがその言葉です。ヨハネ福音書について説明されたすべての講義では、ヨハネ福音書のこの言葉を理解しなければなりませんでした。そして、ヨハネ福音書に関連して行われたこれらの講義は、次のようなことのためにはほぼ十分なものでした。この言葉を自らのものとするならば、語られたこの言葉を少しずつ理解していくためには、つまりヨハネ福音書そのもののなかにある《私は宇宙の光である》という言葉がどういう意味なのかを、予感するだけであるにせよ理解するためには、これらの講義で十分だったのです。

 光が輝くのを見るときみなさんは、この光を見つめることによって、そこで輝いているものは光であると理解されたのでしょうか。そしてこの光の色合いと特殊さについていくらか知ったなら、みなさんはそこで光っているものが何か理解されたでしょうか。太陽の光をあおぎ見て、その白い太陽光をひとつの開示として受け入れるがゆえに、みなさんは太陽を知るのでしょうか。輝くものを輝くもののなかの光として理解するというのはなにかまた別のことだと思い描くことはできないでしょうか。私たちがそれについて語った存在は、自らについて《私は宇宙の光である》と言うことができます、ですから私たちはこの言葉を理解することを余儀なくされましたが、同時に、あの存在について、彼のこの《私は宇宙の光である》という生の表出の言葉より多くのことは理解しませんでした。ヨハネ福音書に関連して考察として示されたすべては、自らのうちに宇宙の叡智を担うあの存在が宇宙の光であるということを示すために不可欠だったのです。けれどもこの存在は、ヨハネ福音書のなかで特徴づけられたものをはるかに超えるものでした。ヨハネ福音書についての講義からキリスト・イエスを理解したいとか、キリスト・イエスを包括的に捉えたと思うひとは、そのひとが予感しつつ認識したただひとつの生の表出から、光輝くこの存在全体を理解できると思っているのです。

 次いでルカ福音書についての講義が行われましたが、私たちはこれらの講義からまた別のものを見てとることができます。ヨハネ福音書についての私たちのすべての考察において語られたことを、《私は宇宙の光である》という言葉の理解のための手段とほぼみなすことができるなら、場合によってはルカ福音書についての考察は、ただルカ福音書が十分深く把握されればですが、《父よ、彼らをお許しください、彼らは自分が何をしているかわからないのですから》、あるいは、《父よ、あなたの御手に私の霊[Geist]を委ねます》という言葉の言い換えと解してよいかもしれません。キリスト・イエスであるものーー今や単に宇宙の光としてではなく、献身という最大の供犠をもたらした存在、自身を失うことなくすべてを自分のなかでひとつにすることを許された存在としてキリスト・イエスであるもの、献身という供犠として特徴づけられるものーー、自分自身のなかに最大の供犠、考え得る最大の献身という供犠の可能性を孕み、そしてそれによって未来のあらゆる人間の生と地球の生を貫き暖かく注ぎ込む泉である存在、つまりこの言葉のなかに捉えられ得たすべては、私たちがキリスト・イエス存在と呼ぶものの第二の面を与えるのです。

 このように私たちはこの存在を、その同情において大いなる供犠を実現することができる存在、その光の力によって現存するあらゆる人間を照らす存在として特徴づけました。私たちは、キリスト・イエスという存在のなかにあった光と愛を描写したのです。それで、ヨハネ福音書およびルカ福音書をその完全な範囲において捉えるひとは、キリスト・イエスのなかで《光》であったもの、キリスト・イエスのなかで《愛と同情》であったものについて、ある意味で予感を抱くことができます。私たちはキリスト・イエスのなかに、二つの特性をその普遍的な意味において理解しようとしたのです。悠久の叡智としてあらゆる事物にのなかに注ぎ込み、それらのなかで生き活動する宇宙の霊的な光としてキリストについて語られねばならなかったこと、これは霊的な考察に明らかになり得ます、これはまたヨハネ福音書から私たちに向かって光り輝きます、そして、人間に到達できる叡智であって、ある意味でヨハネ福音書に含まれていないものはありません。宇宙の叡智はすべてこのヨハネ福音書のなかに含まれています、なぜならキリスト・イエスのなかに宇宙の叡智を見るひとは、単にその叡智がはるかな過去にいかに実現されたかということのみならず、はるかな未来においていかに実現されるかも見るからです。したがって、ヨハネ福音書に関わる考察においてひとは、人間的なあらゆる生存の上空高く、鷲のように舞います。ヨハネ福音書の理解を可能にする大いなる理念を繰り広げなければならないとき、広大無辺な理念とともに、個々の人間の魂のなかに起こることを超え、空中を舞うのです。包括的な宇宙理念(世界理念)は、ヨハネ福音書に関連して考察を行うときに私たちに流れ込むあのソフィア[Sophia]を働かせます。そしてこのとき、ヨハネ福音書から流れ出るものは、日々刻々移ろう人間の運命のなかで起こることすべてを越え、ひとり鷲の高みで旋回しているように私たちには思われるのです。

 それから下降し、そして、刻々と日に日を継ぎ、年を経て、世紀から世紀へ、千年紀から千年紀へと続くひとりひとりの人間の生を観察するなら、とりわけそこに人間の愛と呼ばれるあの力を観察するなら、生きている人間の心と魂のなかでこの愛が数千年を通じてうねり息づいているのが見えます。さらに、この愛が一面においては人類の内部で最大の、最も意味深い、最も英雄的な行為を成し遂げるのが見られます、それから、人類の最大の供犠が、あれこれの存在あるいはあれこれの事柄に対する愛から流れ出したのが見られます。そしてさらに、この愛が人間の心のなかで最高のことを成し遂げるのを、けれども同時にそれが諸刃の剣のような何かであることが見られます。ここにある母親がいます。彼女は自分の子どもを心底愛しています。子どもがなにか乱暴なふるまいをしても、彼女は子どもを愛していて、その深い熱烈な愛情にあっては子どもを罰するということがどうしてもできません。それから子どもが二度目に乱暴なふるまいに及ぶと、今度も母親は深い愛情のために子どもを罰するに忍びません。引き続きそんな調子で、子どもは成長し、役に立たない、人生の平和を乱す者となります。こういう意味深な事柄に触れるときは、現代から実例を取るのはよくありませんから、ずっと以前の例を挙げることにします。十九世紀の後半、わが子を愛し抜いた母親がいました。どんなものもこの愛を賞賛するのに足りない、どんなことがあっても愛は人間の最高の特性のひとつ、とはっきり言っていたようです。さてこの母親は子どもを愛していたので、この子が家族のなかで働いたちょっとした盗みのためにこの子を罰するということがどうしてもできませんでした。続いて二度目の盗みが起こり、彼女はまたも罰することができませんでしたーーその女の子は悪名高い毒殺者になりました。その子は、叡智に導かれない母の愛によって毒殺者になったのです。愛は叡智に浸透されたときに最も偉大な行為を成し遂げます。けれどもゴルゴタから世界に流れ出したあの愛の意味とはまさに、愛がひとつの存在のなかで、宇宙の光と、叡智とひとつにされた、ということなのです。したがって私たちが、愛は世界で最高のものであると認識しつつ、同時に、愛と叡智が最も深い意味において補完し合っていることを認識するというようにふたつの特性を考察すれば、これはキリスト・イエスに眼差しを向けることなのです。

 けれども今ヨハネ福音書およびルカ福音書についてこれらすべての考察が行われましたが、私たちは何を理解したのでしょうか。叡智の普遍的な光、愛の普遍的な熱、と呼ぶことができるあの特性、世界でほかのどんな存在にもなかったやりかたであのようにキリスト・イエスのなかに流れ込み、かつてどんな人間の認識力も近づけなかったあの特性、この特性以上のことは何も理解しなかったのです。そして、ヨハネ福音書との関連では、鷲の高みにあるかのように人間の頭を超えてゆく力強い理念について語られる一方、ルカ福音書に依拠すれば、瞬間ごとにひとりひとりのどんな人間の心にも語りかけてくるものが見出されます。ルカ福音書の重要な点は、それが愛の外的な顕(あらわ)れであるあのような熱で私たちを満たすということです、最大の犠牲を厭わない愛、自己自身を捧げ、自身を捧げること以外何も望まない心構えのあの愛への理解で私たちを満たすのです。

 ほぼ同様に感じられるのはーーあの気分、正しい意味で考察するときにルカ福音書に関連する考察する場合にそうなるあの心情の状態についてイメージを得たいと思うならーーそこへと急ぐ犠牲の牡牛の見られるあのミトラ像において私たちに現れてくるものです。牡牛の上に人間が座っているのが見え、上には大いなる宇宙の出来事の歩みが、下には地上的な出来事の歩みがあります。この人間は、血を流す牡牛の体に斧を打ち込みます、人間が克服せねばならないものを克服することができるように自らの生命を捧げるこの牡牛の体に。人間が生の道を行くことができるように犠牲にされねばならないこの人間の下の牡牛を観察すると、ルカ福音書に関わる考察に正しい基本的な気分を与える感情・心情状態をほぼ得ることができます。犠牲の牡牛つまり自分自身の中へと深まっていくべき愛の顕れのなかにあるものを理解していた人々にとって、いつの時代にも牡牛がそうであったところのものです、そういう人々はルカ福音書の考察が与えようとする愛の特性の描写についても何かを理解します。と申しますのも、それが描き出そうとしたのはキリスト・イエスの第二の特性以外のなにものでもないからです。けれども、ひとつの存在のなかのふたつの特性を知るひとは、その存在全体を知っているでしょうか。この存在においては最大の謎が私たちに向かって立ち現れてきますので、ふたつの特性を理解するための説明が不可欠でした。しかし、ふたつの特性の考察からこの存在そのものを見通すことができるなどと思う人があってはなりません。

 キリスト・イエスのふたつの特性を私たちは描写し、これらふたつの特性の高次の意味を予感し理解することに私たちを導いたすべてを行うことを怠りませんでした。けれども、この存在そのものを前にした私たちの敬意と畏敬の念はあまりに深いので、この存在が自らのうちに秘しているそのほかの特性について、私たちはもういくらか理解したなどとは思ってもみないでしょう。ここで今、第三のものが考えられるでしょう、そしてこの第三のものは、私たちの運動の内部ではまだ観察されていないものと関連していますので、一般的な特徴づけを行うことだけしかできません。次のように言えるでしょう、ヨハネ福音書のキリストを描写するなら、高き存在として働きかけるキリストを描写するけれども、叡智に満ちたケルビムの領域を意のままにする存在であるキリストを描写する、と。ヨハネ福音書の意味ではこのように、キリストは鷲の高みに漂うケルビムによって呼び起こされる気分とともに描写されます。ルカ福音書の意味でキリストを描写するなら、キリストの心臓から熱い愛の火として迸るものが描き出されます。宇宙にとってキリストであるところのもの、セラフィムの居ますあの高みで働きかけることによってキリストであるところのものが描かれるのです。セラフィムの愛の火が宇宙を貫き流れ出し、そしてそれはキリスト・イエスを通じて私たちのこの地球に伝えられました。

 さて、ここで第三のものを描写しなくてはならないでしょう。それは、キリストが単に叡智の光、愛の熱であるだけでなく、つまり地球存在の内部でのケルビム的およびセラフィム的要素だけでなく、私たちがキリストの力の全てを観察すれば、この地球存在のなかにキリストが《かつて存在し[war]》かつ《現に存在する[ist]》ことによって地上(地球)世界のキリストとなったところのもの、《トローネの領域を貫いて働く》ものとみなしうるものです、それを通じてあらゆる強さ、あらゆる力が宇宙にもたらされ、叡智の意味においてあるもの、愛の意味においてあるものが成就されるのです。これらは霊的ヒエラルキアの最高の三つ、ケルビム、セラフィム、トローネです。セラフィムはその愛とともに、私たちを人間の心の深みに導き、ケルビムは私たちを鷲の高みへと誘います。叡智はケルビムの領域から放射されてきます。帰依に満ちた愛は供犠となり、犠牲の牡牛は私たちにそれを象徴(シンボル)として示します。宇宙を貫いて脈打つ強さ[Staerke]、つまりあらゆるものを実現するための力を繰り広げる強さ、宇宙を貫いて脈打つ創造的力、これを獅子はあらゆる象徴表現をとって私たちに示します。キリスト・イエスを通じてこの地球に引き入れられたあの強さ、すべてを秩序づけ方向づけ、それが展開されるとき最大の威力を意味するあの強さ、これを、マルコ福音書の書記はキリスト・イエスにおける第三の特性として私たちに描写します。

 キリストとみなす高き太陽存在について、私たちがヨハネ福音書の意味で、霊的な意味における地球太陽[Erdensonne]の光について語るように語り、ルカ福音書の意味で、キリストの地球太陽から迸る愛の熱について語るなら、マルコ福音書の意味においては、私たちは霊的な意味での地球太陽の力そのものについて語ります。地球における諸々の力として存在するすべて、秘されかつ開示された地球の諸力活力としてそこここで活動するすべてが、マルコ福音書に注目して考察するとき私たちに現れてくるでしょう。ヨハネ福音書の意味で自分を高めるとき、地球に到来した理念を、予感するのみではあっても、キリストの地球思考のように理解することが許されるなら、ルカ福音書の熱を自分自身を通して流出させるとき、供犠の愛の熱い息吹を感じることができるなら、つまりヨハネ福音書のなかにキリストの思考を、ルカ福音書を通してキリストの感情を予感することができるなら、マルコ福音書を通してキリストの意志を良く知るようになります。キリストが愛と叡智を実現するための諸力、そのひとつひとつを知るようになるのです。

 ヨハネ福音書およびルカ福音書についての考察に、マルコ福音書についての考察を付け加えることができれば、三つの特性を予感しつつ把握していることでしょう。そのときひとはこう言うでしょう、畏敬の念をもって私たちは御身(おんみ)に近づき、御身の思考[Denken]、感情[Fuehlen]、意志[Wollen]について、御身の魂のこれら三つの特性が地球上の最高の模範として私たちの前に高く掲げられているのを予感します、と。

 私たちはこのような考察をしました、ちょうど小さな規模において私たちが人間を考察し、人間は感受魂、悟性魂、意識魂から成る、と言い、今度は感受魂、悟性ないし心情魂、意識魂の特徴を考察する場合のように考察したのです。私たちが意識魂という語をキリストに適用するなら、私たちは次のように言うことができるでしょう。意識魂はヨハネ福音書において私たちに予感的に理解される、心情魂はルカ福音書を通じて、その意志の力のすべてを伴う感受魂はマルコ福音書を通じて、私たちに理解される、と。私たちがそれを一度考察することができれば、これは私たちに、開示されかつ隠された自然力について、私たちの世界にあり、キリストというただひとりの個性[Individualitaet]に凝集された自然力について明らかにするでしょう、それは私たちに、宇宙に存在するあらゆる力の本性について明らかにするでしょう。私たちはヨハネ福音書においては思考内容のなかに、ルカ福音書においてはこの存在の感情のなかに沈潜しましたが、この{マルコ福音書の}場合人間はそれほど深くこの個性に入り込む必要はないので、この考察は単にマルコ福音書において私たちにーー宇宙のあらゆる隠された自然力および霊力の組織(システム)としてーー立ち現れてくるものに対してのものとなります。このすべてはアカシャ年代記にしるされています。マルコ福音書の圧倒的な記録を私たちに作用させるなら、すべては私たちに反映されるのです。そのとき私たちは予感しつつ、キリストという単一の存在のなかに凝集されているもの、通常は宇宙という単一の存在全体に振り分けられているものを理解するでしょう。私たちは理解できるでしょう、そして、私たちがさまざまな存在たちの基本的な原理原則として知っていたものが、さらに気高い輝きと光のなかで私たちに現れるでしょう。全宇宙意志の秘密を含んだマルコ福音書を私たちに明らかにするとき、私たちは深い敬意とともに宇宙の中心点に、キリスト・イエスに近づいていくのです、キリストの思考、感情、意志を徐々に会得しながら。

 思考、感情、意志が相互に入り混じって作用しているのを観察すると、まるごとの人間のおおよその像(表象[Bild])が得られます。けれども私たちは、ひとりの人間の場合ですら、思考、感情、意志を分けて観察しないわけにはいきません。私たちがすべてを統合する場合、私たちの眼差しはすべてを見通すことができるためにはもはや十分ではないでしょう。この三つの特性を分けてそれぞれ別個に考察することによって私たちは課題を比較的軽減しているのですが、他方私たちがこれら三つの特性を人間の魂のなかで統合的に見ると、私たちの思い描く像は色褪せてくるでしょう。すべてを一緒に考察するには私たちの力は不十分なので、私たちが原因でそういうことになるのです、私たちが諸特性を統合すると、像は色褪せるからです。

 ヨハネ、ルカ、そしてマルコ福音書という三つの福音書を考察して、それによってキリスト・イエスの思考、感情、意志について予感を得たなら、これら三つの特性を再び調和[Harmonie]へと導いているものを統合することができるでしょう。このときどうしてもその像はぼやけた色褪せたものになってしまわざるを得ません、人間のどんな力も、私たちによって分けられたものを十分に統合することはできないからです。と申しますのも、本質においてあるのはひとつ(統一[Einheit])であって分離[Trennug]は存在しないのです、私たちは究極においてようやくそれをひとつに統合することを許されます。けれどもそのときそれは私たちの前で色褪せたものになるでしょう。そのかわり究極において私たちの前には、初めて人間としての、地上の人間としてのキリスト・イエスとなったものが立っているでしょう。

 人間としてのキリスト・イエスとは何であったのか、彼は人間として地上での生存の三十三年にどのように働きかけたのか、この考察は、マタイ福音書との関連で展開することができます。マタイ福音書に含まれているものは、私たちに自らのうちで調和しているひとつの人間像を与えます。私たちが
ヨハネ福音書において、宇宙万有の一部である宇宙的な神人[Gottesmensch]を描写したなら、私たちがルカ福音書において、自らを犠牲として捧げる一個の愛の存在を描写しなければならなかったなら、そしてマルコ福音書においては、ひとつの個性のなかの宇宙意志を描写しなければならなかったなら、マタイ福音において私たちが得るのは、パレスティナ出身のひとりの人間、三十三年生き、私たちがほかの三つの福音書の考察によって獲得することのできたすべての統一をそのなかに持ったあの人間の真の姿です。マタイ福音書との関連では、キリスト・イエスの姿がまったく人間的に、ひとりの地上の人間として私たちに現れてきますが、ほかの考察を前提としなければこの人間を理解することはできません。このときこの地上の人間は色褪せているとしても、この色褪せた像のなかにはそれでもやはり、ほかの考察によって獲得されたものが反映しているのです。キリストの人格についての像は、マタイ福音書に関連する考察によってはじめて与えられます。

 このように今、以前私たちが第一の福音書を取り扱った時には別の特徴づけをせざるを得なかった事柄が示されます。今私たちは二つの福音書の考察を終えましたので、これらの福音書が内的にいかに相互に位置づけられるか、そして、いかに私たちがキリスト・イエスの像を得ることができるか、言うことができます、これはこの地上でキリスト・イエスを通じて存在するようになった人間に、私たちがそれにふさわしい準備をして近づくときにのみですが。ヨハネ福音書に関連づけられる考察においては、私たちに神人が立ち現れました、そしてルカ福音書との関連では、地上においてゾロアスター教や仏教の同情と愛の教えとして発展したもののなかにあらゆる方向から流れ込んだ潮流を自らのうちに統一する存在が現れてきます。私たちがルカ福音書に注目して考察をしたとき、今まであったすべてのものが私たちにたち現れてきたのです。マタイ福音書が考察されるとき、何よりも親密詳細に私たちに立ち現れてくるのは、キリスト自身の民族から、古ヘブライ民族から生じるものでしょう、つまり、その民族に根ざした人間イエス、ほかならぬ古ヘブライ民族の内部でそうあらざるを得なかった人間イエスです。そして私たちは、地球人類のために、まさにこのキリスト・イエスの血が貢献できるために、なぜ古ヘブライ民族の血がまったく特定のしかたで用いられねばならなかったかを認識するでしょう。

 マタイ福音書の考察において私たちに立ち現れてくるのは、ヘブライの古代の本質です、けれども単にヘブライ古代の本質のみならず、この民族の全世界のための使命、新たな時代の誕生、古ヘブライ世界からのキリスト教の誕生ということです。そして、ヨハネ福音書を通して、偉大な、意味深い包括的な理念を学ぶことができるなら、ルカ福音書を通して、最も熱い、限りなく熱い供犠の愛のための感情を獲得することができるなら、マルコ福音書の考察を通して、あらゆる存在と領域の諸力についての認識を獲得することができるなら、今得られるのは、人類の内部、地上の人間の進化の内部に、パレスティナにおけるキリスト・イエスを通じて生きているものについての認識と感情です。人間としてのキリスト・イエスであったもの、人間としてのキリスト・イエスであるもの、人間の歴史と人間の進化の秘密のすべてが、マタイ福音書に含まれています。マルコ福音書のなかに、地球と地球に属する宇宙のあらゆる領域と存在たちについての秘密が含まれているように、マタイ福音書においては、人間の歴史の秘密が探究されねばなりません。ヨハネ福音書を通してソフィアの理念を学ぶなら、ルカ福音書を通して供犠と愛の秘蹟を学ぶなら、マルコ福音書を通して地球と宇宙の諸力を学ぶなら、マタイ福音書に注目した考察を通してひとは人間の生、人間の歴史、人間の運命を知るようになるのです。

 私たちの精神科学運動の七年において、原理原則を消化するために四年、それらを生のさまざまな領域へと投げかけるべき光として深めるために三年費やしていたなら、今、マルコ福音書の考察がそれに続くことができるでしょう。そうすれば最後に、マタイ福音書に注目してキリスト・イエスを考察することにより、建物の全体を完成させることができたでしょう。けれども人生は不完全なので、少なくとも精神科学運動に携わっているすべての人々の場合、そうではなかったとしても、誤解を起こさせずに直ちにマルコ福音書の考察へと移ることは不可能なのです。ヨハネあるいはルカ福音書の考察の帰結としてキリスト・イエスの本性について何か知ることができるだろうと信じるとしたら、キリストの姿を完全に見誤ることになるでしょう。逆にまた、マルコ福音書に関連して言われなければならないことを、一面的にあらゆることに適用してよいのだと信じることにもなるでしょう。そうす
ると誤解はすでにあったよりもさらに大きくなるでしょう。ですからこのことを考慮して別の道が選ばれなければならないのです。さてそこで次回には、可能な限り、マタイ福音書に注目した考察が続かなくてはなりません。そのためさしあたり、マルコ福音書の巨大な深みを諦めることになりますが、そのかわり、その人の全体が“ひとつの”特性だけで描写され尽くされるなどと誰かが思うことは避けられるでしょう。それによって誤解を取り除くことができるでしょう。そしてまず、古ヘブライ民族からキリストが出たことについて、パレスティナでのキリスト教の誕生と呼びうるものについて、可能な限り考察がなされるでしょう。それについては次回、マタイ福音書に注目して考察していくつもりです、それによって、またもひとつの特性とこの存在全体の考察と混同することを避けなければなりません。そうすればそれに続いてマルコ福音書に注目して語られねばならないことが容易になるでしょう。

(1909/11/2 ベルリンでの第1講「四つの福音書のキリスト叙述における四つの異なった視点」了)

*訳者付記

ヨハネ、ルカ、マルコ、マタイという四つの福音書がそれぞれどういう視点からキリスト存在を描き出しているか、
シュタイナーのキリスト論の重要な骨格が予感できるような講義。
ヨハネー鷲、ルカー牡牛、マルコー獅子、マタイー人間というシンボリズムの深い意味とともに、ヨハネ福音書、ルカ福音書の叡智と愛をまず基本として消化してから、マルコ、そして、マタイへ・・・という順番・プロセスが重視されています。

なお、この第1講で話題にされる順番はヨハネ、ルカそしてマルコ、そしてマタイ、ですが、最後の部分で言われているように、次の第2講で(マルコ福音書より先に)まずマタイ福音書についての考察を行えば誤解を避け、マルコ福音書の理解が容易になる、ということで、第2講はマタイ福音書との関連で「古ヘブライ民族の使命」について語られています。”力”に関わるマルコ福音書の考察はそれだけ慎重にしなければならないようです。

四つの福音書を直接扱ったシュタイナーの講義は以下の通り。
■ヨハネ福音書(GA103 1908年5月 ハンブルク)邦訳 高橋巌 春秋社
■ルカ福音書(GA114 1909年9月 バーゼル)邦訳 西川隆範 イザラ書房
■マタイ福音書(GA123 1910年9月 ベルン)邦訳 高橋巌 筑摩書房
■マルコ福音書(GA139 1912年9月 バーゼル)邦訳 市村温司 人智学出版社