物質と光、光と愛についてのZUSHI さんの情報提供に触発され、私も少し関連することをご紹介したいと思います。
>「物質は光になろうとしている」は、確か稲垣足穂の言葉だったと思います。
>宇宙が膨張、収縮する過程で星たちは光速にかぎりなく近づいてい
>く。そのことを上記のような簡潔かつ詩的な表現で言いあらわした
>のだと思いますが、私はこの言葉がとても好きです。
稲垣足穂、私も大好きです。タルホといえば松岡正剛、松岡正剛といえば、「遊星的思考」、そして「魔術的観念論」のノヴァーリス、と魅力的にリンクしていきますよね。
さて、地球に転生する魂の数、といった話題からはそれますが、ZUSHIさんの引用してくださった「シュタイナーのカルマ論」後半部分、特に「愛」に関連することで、以前読んでとてもこころを動かされた部分を思いだしましたのでご紹介します。
それでは、魂の本質とは何なのでしょうか。同じように神智学の観点から魂の実体を、その本当の基礎存在を知ろうとするのであれば─すべての物質存在が圧縮された光にすぎないように─地上のどれほど異なる魂的現象も、すべては「愛」の様態、「愛」の多様な変形に他ならないのです。ただし愛という言葉を、その根本的な意味において理解してください。どんな魂の働きも、何らかの仕方で変形された愛なのです。
以下、GA102「霊的諸存在の人間への働きかけ」第6章からの引用です。(まずい訳、ご容赦ください^^;)
今日、地球進化の進展にともなってますます大きな意味を持ってくるとみなされる特性を、古い月上で捜したとしても、この特性は月の存在者たちの場合には見出せません。
この特性とは愛であり、諸存在を自由な意志から互いに導く衝動です。愛は私たち地球という惑星の使命なのです。
したがって、秘教(オカルティスム)においては、月は「叡智の宇宙(コスモス)」、地球は「愛の宇宙(コスモス)」と呼ばれています。
今日、私たちが、地球上にあって、地球に組み込まれた叡智に感動するように、(未来の)木星の存在たちは将来、自分たちに向かって愛の息吹を発する存在に出合うでしょう。彼らはいわば、自分たちのまわりの存在から愛を味わい、愛の香りを嗅ぐことでしょう。
地球上の私たちに向かって叡智が輝くように、木星上では、木星の存在たちに向かって、単なる性愛からスピノーザ的神的愛にいたるまで、この地球上で愛として展開したものが香りを放つことでしょう。
ちょうど今日植物がさまざまな芳香を発するように、匂いたつでしょう。このように、いろいろな段階の愛が芳香となって溢れ出し、この地球の後を継ぐものとして木星と名づけられたこの宇宙から、たち昇っていくことでしょう。
現在、私たちがさまざまに展開している「愛」が、はるか未来の木星紀のいわば「環境」を決定する、つまり、さまざまな「香り」という形で未来の環境を作る、ということになるようです。これは何とも魅惑的なヴィジョンであると同時に、地球紀の人間の、未来に対する宇宙進化論的な責任、ということからすれば、ずいぶんと身の引き締まる感じがします。日々愛に満ちているとは言いがたいワタクシ・・
ともあれ、ここで言われている、地球紀の使命、「諸存在を自由な意志から互いに導く衝動」=「愛」というのは、キリスト衝動ということになると思います。
そこで、人間の内なる部分と外なる部分とが、いわば互いに押し込まれ、組み込まれたとき、その外なる身体部分は光で織りなされ、その内なる魂的部分は愛で織りなされて現われました。事実、愛と光とは、私たちの地上生活上のすべての現象の中で、互いに織りあわされて存在しています。
以上、引用ですが、この後、光を愛に織り込む存在として、ルツィフェルが論じられます。
まさに、「物質は織りなされた光であり、魂とは薄められた愛である」ですね。
「シュタイナーのカルマ論」このあたりをざっと読み返してみましたが、愛と光に関連して、「自由から発する」愛とルツィファー存在との深い関わりについてあらためて考えさせられました。
最後に、西川隆範さん編訳の「瞑想と祈りの言葉」のなかから、私の気に入っている部分です・・・
人間の進化とは、
愛の魂の火のなかに
精神の光輝く叡智を灯すこと。
認識は光。
愛は、その熱。
imaiさん wrote:
>マックス・ウェーバーがかつて、現在の資本主義の衝動は化石燃料(石油)の最後の
>一滴がなくなるまでやむことはないだろう、という意味のことを言ったことがありま
>した。この言葉に触れたとき、やや絶望的な印象を受けたことがあります。その後だ
>いぶ経ってから、シュタイナーが、地球上のすべての原子が人間の手によって加工さ
>れた時地球は次の段階にシフトするという意味のことを言っていることを知ったとき
>、ああそうなんだと妙に納得しました。しかし、今改めて、地球紀の課題が愛である
>ことを思うと、すべての原子が愛の手によって加工されたとき、地球紀から木星紀に
>シフトするという意味だったのだと気がつきました。
すべての原子が愛の手によって加工される、つまり、物質の霊化のことですね。これはおそらく、錬金術と呼ばれているもののテーマでもあるのでしょう。薔薇十字的秘教は、物質界からの解脱を目標とするのではなく、物質界にあって物質そのものを霊化することを目指す、ということをシュタイナーも強調しているようですが、この「愛による原子の加工」の対極にあるのが、核実験、核兵器、ということになるのだと思います。(インドの地下核実験!)シュタイナーが、精神科学的人智学が真に理解され広まることによってしか、現代の危機は避けられない、という意味のことを言っていたのが身にしみてわかる気がします。
そもそもこの地球が固体として成立しているのは、本来宇宙的な存在が途方もなく大きな供犠を捧げてくれたからであり、人間の課題はそれを認識し、地球紀の使命を全うしなければならない、そうすることによってのみ、供犠を与えてくれた存在たちが解放され、救済される・・・
核実験は、人間が解放せねばならない存在たちを救い難いまでに閉じこめてしまうのではないでしょうか。
>ちょっとここで、光感覚と熱感覚について。12感覚のうち、7番目に光感覚(視覚
>)が来て次の8番目に熱感覚が来ているのは、意味があるのだと思います。視覚は、
>考える、といいます。目が錯覚を起こすのは、目で考えているからだそうです。有名
>な反転図形は、目が考えている証拠だそうです。認識は光なのですね。光と熱はいず
>れも太陽からくるわけですが、熱がないと、変化が起こらず、時間は静止してしまう
>といいます。時間と温度がラテン語で同根なのは、そのせいだといいます。オランダ
>語の「時」という言葉には、分け与える、共感するという意味の語源を持っているそ
>うで、温度と時間と熱は愛に関係があるわけです。熱というのは、相手から何かが流
>れてくることで、何も流れてこないと冷たい人という感じがするのだそうです。
>以上は、Albert Soesman:Die zwoelf Sinne--Tore der Seele Verlag Freies
>Geistesleben 1996 からですが、この本は、オランダ語のドイツ語訳なのですが、内
>容的に実に魅力的なので、是非お勧めしたいと思います。
>とくに、例のスフィンクスの謎「生まれたときは4本足で、次に2本足で最後に3本
>足になるのは何か」「人間である」というあれですが、杖をついて老人が3本足にな
>るという程度の話でどうしてスフィンクスが身投げする?必要があったのか、という
>問いとそれへの神秘学からの答えは、近代的的悟性には承伏しがたい内容ですが、と
>ても魅力的なものがあります。
本のご紹介ありがとうございました。十二感覚についてはもう少しきちんと理解しておきたいと思っていたところですので・・・
温度と時間と熱は愛に関係があるというのは興味深いですね。時間ー変化ー展開ー進化は、熱によって起こり、愛が熱、とすると、確かに、という感じがします。
これに関連して、時間というのは人間に与えられた自由、つまり変化していく、自らを変容させていく自由を与えられていることであり、これは愛ではないか、以前思っていたのを思い出しました。
GA230(「創造し、造形し、形成する宇宙言語の協和音としての人間」)、見るからにスゴイ題ですが、内容もほんとうに引き込まれるものばかりです。今まで読んだシュタイナーの講演集のなかでももっとも魅力あるもののひとつだと思います。
コンテクストを無視して引用するのも何かとは思いますが、特に印象的だったことを箇所を少しだけ・・・
植物を見よ
植物は地(つち)に
つなぎとめられた蝶
蝶を見よ
蝶は宇宙によって
解き放たれた植物
植物は・・地につなぎとめられた鱗翅類(蝶、蛾)なのです。鱗翅類は・・宇宙によって地から解き放たれた植物なのです。
[中略]・・植物の天への憧れがさまざまな色彩にきらめく花びらを統べています。
植物自身はその憧れを満足させることはできません。そこで植物に向かって宇宙から蝶が放たれます。植物は蝶を見つめます、自分の望みが蝶のなかでかなえられているのを見るのです。植物界の憧れが、昆虫とくに蝶を見ることで静められるというのは、地球をめぐる驚くばかりの結びつきです。
これを読んだとき、たしかオスカー・ワイルドの「アポロ蝶とアネモネ」(だったか、ちょっと題名が思い出せません)の童話を思いだしました。宮沢賢治や、その他いろいろな童話のなかにこういうイメージの余韻が感じられるような気がします。もう季節はずれてしまいましたが、満開の白い花をつけた木蓮の樹などを見ると、ほんとうに純白の鳥のような蝶が今にも飛びたたんばかりに見えます・・
それから少し前にミルクのことで牛が話題になったとき、imaiさんが書いておられましたが、牛が食べているときは至福のオーラが輝いている、ということに関連したことがこのGA230にもありました。
牛は土(大地)の元素霊と深い関わりがあり、牛は絶えず土を霊化し続け、牛自身が宇宙から取り入れた霊的実質を大地に与え続けているので、草を食べている牛の群の下の地は喜ばしく生き生きと活気づけられ、牛によって宇宙からの栄養を与えられた土の元素霊たちが歓呼の声をあげている、ということです。いやっほう、という感じですね・・
GA232「秘儀の歴史」(西川隆範訳)ですが、これもまた本当に深い秘密に触れた驚くべき講演集です。
ヒベルニア、サモトラケ、エレウシス、エフェソス・・こういう響きを聴くだけで何だか不思議な気持ちになってしまいます。
この本で特に印象的だったのは、金属の秘密についてです。地球上に見られる金属はかつて星々の領域まで達していて、宇宙を漂う色彩であったといいます。
般的な錬金術の解説書などでも、土星ー鉛、木星ー錫、火星ー鉄、太陽ー金、金星ー銅、水星ー水銀、月ー銀という惑星と金属の対応関係に触れられると思いますが、古代の秘儀の内容というかたちで本書のシュタイナーのような解説がされているものはおそらくないのでないかと思います。
第5講には、金属自身が自らの秘密を語る言葉が示されます。 (「秘儀の歴史」102〜103頁を参考にしました)
地球の内部に突き進み、堅き金属に語らせよ、
かつての記憶を語らしめよ
されば金属は語るであろう、
われらはかつて彼方に拡がりしもの、
われらは凝りたる物質(もの)にあらざりき、
霊のうちに漂い、うねり、
万有のうちに波打つ色彩なりき・・
地球の金属が有する記憶は、金属が宇宙的な色彩であった状態にまで遡ります。当時それらの色彩はたがいに浸透しあい、宇宙は本質的に一種の内的な虹、スペクトルでした。それが分化して、物質的なものになっていったのです。
そして地球の金属から得られる、たんに理論的に伝達された内容が道徳的な印象に変わっていきます。ひとつひとつの金属が語ります、私は空間の彼方、地球の彼方より発し、天空から来たもの。いま、私は地球の内部に引き寄せられ、呪縛されている。私は解き放たれるのを待っている。いつかふたたび私の本質で宇宙を満たすときが来るだろうから。
金属の言葉を知るようになると、金は太陽について、鉛は土星について銅は金星について語り始めます。かつて、銅は金星まで、鉛は土星まで達していました。
金属は語ります、いま、私たちはここに呪縛されている。けれども、地球がその課題を終え、人間がこの地上でのみ達成できることを成し遂げたあかつきには、私たちはふたたびかなたにまで及ぶだろう。私たちは地球のうちに呪縛された、人間が地上で自由な存在となることができるように。人間に自由があがなわれれば、私たちの呪縛もまた解かれ始めるのだ。
金属の呪縛を解くことはずっと以前から準備されてきました。このことを理解しなければなりません。地球がふたたび人間とともに、いかに未来へと進化していくかを、理解しなければならないのです。
(最初だけ変な文語調に訳してみたら後は無理だったので、おかしなことになってしまいました・・・m(__)m)
金属はかつて宇宙からやってきて地表に抱き留められ、結晶化して現在のような形態をとったということです。宇宙からの金属を受けとめたのは、石灰その他の岩石をふくむ地球の地上的実質だそうです。この地上の岩石のうち、とくに石英のような結晶は、地球そのものの宇宙的感覚器官だとされます。宇宙的ー天的な金属を愛に満ちて受け入れる地上的なもの、この地上的物質のもっとも重要なものが母たちと名づけられ、ゲーテの「ファウスト」が降っていった「母たちの国」はその一面であるということです。長大な時の流れのなかで、宇宙的金属ー父と地上的実質ー母の共同により、現在の地球のような状態が生み出される・・・(183〜184頁)
長くなってしまいましたので、この辺にしますが、岩石鉱物にせよ、金属にせよ、もっとも物質的に見えるこういう固体状のものが、どんなに深い宇宙的な秘密を語るものなのか、この本によって物質そのものの秘密に少しだけ近づけるような気がします。
■GA1O6 エジプトの神話と秘儀
ー−現代において作用する霊的諸力との関連でーー
●第一講/1908年9月2日、ライプツィヒ
人智学の本質。輪廻転生の法則。アトランティス後の文化:第7文化と古インド文化、第6文化と原ペルシャ文化との関係、唯物主義、ミイラ製造の結果、後アトランティス第4文化は反復しない。
●第二講/1908年9月3日
地球の生成。人間の形姿の原像としての原地球原子。一体であった太陽・月・地球。太陽の分離。月の分離とレムリア時代における水と大気の分化。アトランティス時代の意識。後アトランティス文化の宗教的見解に見られる宇宙的事件の反映。
インド文化:ブラフマ。ペルシャ文化:オルムズドとアーリマン。エジプト文化:オシリス、イシス、ホルス。ギリシア・ラテン文化:神々の形姿はアトランティス時代の高次の存在たち。現代の文化:神々なき時代、この時代はキリスト衝動を受け入れ、未来へと目を向けなければならない。意識は黙示的にならねばならない。
●第三講/1908年9月4日
アトランティス最後の人類とアトランティス後の人類。アトランティス人の意識。アトランティス人はまだ知覚する事物の内的な本質に入り込むことができた。アトランティス時代の人間の形姿。エーテル体は今日よりずっと大きかった。四つの典型的な形姿:鷲、獅子、牡牛、人間。アトランティス時代の秘教学院。秘儀参入の徒に人間の形姿の原像が瞑想の内容として与えられた。思考の力によって、物質体に働きかけて、直接改造することができた。
●第四講/1908年9月5日
地球進化の初期における人間の霊的原像。原インド文化の秘儀:像、音、言葉。「ヴェーダ」−言葉。七人の神仙(リシ)−マヌの弟子たち。諸惑星の分離。七人の神仙はそれぞれ七つの惑星のひとつひとつが人間に与える作用の秘密を理解していた。インド時代、エジプト時代、ギリシア時代における導師と弟子との関係。治癒力ある神殿の眠り。アトランティスの意識を技術的に創り出すこと。原言語の下降−キリスト。
●第五講/1908年9月7日
太古の状態の地球進化。ポラール時代。愛の衣装としての光。ヒュペルボレアス時代。太陽の分離、太陽は最も精妙な実質(光)を共に持ち去った。それにより地球は水へと硬化した:「水地球」。水存在としての人間。魚類、両生類、龍、龍の殺害者。蛇のシンボル。レムリア時代。地球から月が分離する。人間は骨組織を形成する。誕生と死の意識のような空気呼吸の原基。光と空気;オシリスとテュフォン。
●第六講/1908年9月8日
太陽の力。月の力と人間への作用。オシリス神話。月から投げ返された太陽光が人間の14の神経索を形成する。オシリスは新月から満月までの14の月相において作用する。満月から新月までの時期にはイシスが作用する。イシスはさらに14の神経索を形成する。男性と女性の成立。ホルスの作用による肺、喉頭、心臓の形成。
●第七講/1908年9月9日
オシリス伝説。人類の進化。ポラール時代の人間の形姿。動物界の成立。ヒュペルボレアス時代とレムリア時代。当時の人間の発光器官と知覚器官:今日の松果腺。人間の形姿との関連における黄道十二宮:魚座=両足、水瓶座=下腿、山羊座=膝、射手座=上腿、蠍座=生殖器。月の分離による両性の発生。上位の人間的形姿の像としてのイシスとオシリス。アポロの竪琴。
●第八講/1908年9月10日
黄道十二宮の星座を運行する太陽の動きに応じて人間の形状が段階的に発達する(天秤座、乙女座)。動物の形状の下降(魚座)。キリストは太陽と共に地球から遠ざかる。初期キリスト教の魚へのシンボル。人間の形姿への太陽・月の力の影響。アトランティスの人間の四つのタイプ。両性の分離:男性と女性はオシリス、イシスの力のどちらが優勢かによって成立する。ネルトゥス神話、神話のイメージ。実際の出来事の叙述。
●第九講/1908年9月11日
太陽の霊と月の霊の作用。オシリスの力とイシスの力。眼の形成。レムリア、アトランティス時代の人間の睡眠−覚醒状態。インド文化:マーヤとしての世界。ペルシア文化:物質界は活動の場となる。エジプト・バビロニア・アッシリア・カルデア文化:神々の書としての世界。ギリシア・ラテン文化:人間は自身を物質に刻印する。人類進化の最低点でキリスト・イエスが地上に現れる。そのことにより、人類は再び霊的世界への道を再び見いだす。
●第十講/1908年9月12日
死と新たな誕生との間の宇宙的な事実と出来事に関するイメージとしての古代伝説。人間の霊的意識が暗くなってくること。霊的な死の危険。秘儀の参入原理により明るくすることができる。キリストによる救い。キリストの先駆者としての秘儀参入者たち。彼らの予言的意識。イメージを通して、エジプトの秘儀参入の入門者たちの霊は、人間の自我進化を把握できるほどに形成される。これらの神秘的事実に基づくイメージの多くは、ギリシアの秘儀を通して人間の意識へ移行した。
●第十一講/1908年9月13日
エジプトの秘儀参入の本質:超感覚的な霊視器官のアストラル体への刻印。それはさらに三日半の仮死状態の間に型をとるようにエーテル体に刻印される。仮死状態の間でエーテル体は物質体から引き離される。超感覚的領域で体験されたことが、再び目覚めた者を光明に導く。エジプトの秘儀の司祭の宇宙的な器官の学。今日人間は以前霊的なものの中に見たものを物質的な仕方で見る。死んだ魂にとってのキリストの行為の意味。
●第十二講/1908年9月14日
ギリシアの芸術創造における霊の刻印。現代における物質の奴隷としての精神。物質の克服者としてのキリスト衝動。時間的に連続する世代の集合魂的特性もキリストの力によって克服された。古代エジプト人の父たちの道と神々の道。エジプトの民族魂としてのイシス。イシスとオシリスの息子としてのファラオ。祖先:霊的な財産を集め、施す人であり、死者の24人の裁判官である。相続されたものは物質的世界で生かされねばならない。死と現代の新しい誕生との間で、当時魂が体験したことの再生。
あと本の入手等についてです。
GA106の英語版 Egyptian Myths and Mysteries は、ニューヨークのAnthroposophic Press, Bell's Pond,Star Route, Hudson, NY, 12534. Tel: (518) 851-2054から入手できるようです。また、他の講義集の英語版も、Rudolf Steiner Research Foundation,Box 1760, Redondo Beach, CA 90278. Tel: (213) 437-5438から入手可能です。
ドイツ語をお読みでしたら、スイスのRudolf Steiner Verlag からが早いと思います。
RUDOLF STEINER VERLAG/ Haus Duldeck , DORNACH/SCHWEIZ
Postfach 135, CH-4143 Dornach 1,
Tel 0(041)61 706 91 30 Telefax 0(041)61 701 25 34
E-mail: steiner-verlag@magnet.ch
また、邦訳のある関連書としては、ヘルマン・ベック「秘儀の世界から」(西川隆範訳 平河出版社)があります。私はまだ拾い読み程度なのですが、ゾロアスターやキリストの秘儀との関連で、エジプト神話・秘儀がかなり詳しく人智学的に解釈されているようです。シュタイナーの講義からの引用も多いです。
Kawaeさん、トト神について詳しいご説明ありがとうございました。ヘルメス学、錬金術に関する本などから、トト・ヘルメス・トリスメギストスという名の何ともすごく秘密めいた響きに惹かれ、トト神については以前からたいへん興味を持ちながらも、あまり調べたこともなかったのでありがたいです。ヘルメス学の流れはアレキサンドリア、ビザンティン、アラビア、を経由して、パラケルススなどにも流れこんでいると言われますが、その起源たるトト神については興味は尽きません。やはり、非常に古い起源の神ということなのですね。
>われは、トト・・・・われの口から出るものはすべてラー(太陽神)のためとして実
>現する
> われは、インク皿と葦筆の主人
> われは、マアト(真実、正義)を書くもの
> われは、時の主人
>
>トトは古代エジプトではジェフウティと呼ばれていました。
>その起源はいまだはっきりとはわかっていません。
>
>トトの姿はアフイカクロトキや狒々として描かれてきました。
>トトはその頭部に弦月と満月を頂き、ペンと棕櫚の枝を手にしています。
>狒々は初期王朝時代(前3100−2686)の狒々の神、ヘジ=ウェル(大いなる白きもの)
>と密接に関連付けられたからです。
>トキの姿で頻繁に描写されるようになったのは、古王国時代(前2682−2181)の末頃
>からです。説きが学問の神として神格化されたのは、これはトキが長い首を水中に
>つっこんで餌をさがすようすが、書記が字を書く時の手の動かし方に似ているからだ
>といわれています。またトキが嘴で水中から魚をくわえるさまは、未知(不明)の世
>界から知識をつかみとるイメージを彷彿したのでしょう。
>トト神は月神でもあります。
>新王国時代の「死者の書」のなかにトトは冥界におけるの裁判の場面でペンとパピル
>スを持ち、裁判の判決を記述しています。彼がによって書かれた判決は神々でさえも
>覆す事ができずそれは絶対的なものだったのです(これはおそらく言霊からくるので
>しょう)。
>
>トト神は後にギリシアの神ヘルメスと同一視され、習合しヘルメス=トリスメギスト
>ス(三度偉大なるもの)とされます。
>
>古代エジプトではトト神は一般に「学問の神」、「魔術の王」、「時の主人」など
>様々な形容があります。
ヒヒの姿のトトというのは知りませんでした・・「学問の神」、「魔術の王」、「時の主人」と形容されるトト神には、まさに神秘的なヘルメス学のイメージがありますね。クフ王と魔術師ジェディイの話も興味深く拝見しました。トト神の聖所の秘密の部屋(封印?)というのも、秘儀的な意味あいを暗示しているようにも思えました。
「時の主人」に関しては、シュタイナーがヘルメスと関連して非常に興味深いことを言っているのですが、通常のみかたからするとかなり突飛な、いわゆる「神秘学的事実」なので、まずは、シュタイナー的精神科学的な神話探究の基礎となっていることを以下に少しまとめておきます。
まず、エジプト神話に限らず、神話全般についていえることですが、シュタイナーが基本的にいつも強調していることは、神話というものは、通常考えられているような、古代人の「想像力」や「空想」によって考え出され創り出されたものではない、単なる空想の産物ではない、ということです。
つまり、シュタイナーの基本的観点によれば、超古代においては人間の意識状態は現代人とは全く異なり、今日のような知性的意識ではなくいわゆる霊視的意識というべきものであった、この霊視的意識が時とともに次第に失われて、現在のように感覚(五感)によって外界を知覚し、知性と悟性によって結合するといった方法が主になった、というわけですが、(このことからしてすでに近代科学の立場からは受け入れがたいことかもしれません、意識状態が異なる、といったことは直接測定できないし、実証できないでしょうから)神話というものは、まだ人々の意識が太古の霊視状態の名残をとどめている時代に成立したのであり、ただその霊視が時と共にどんどん失われ、退化していく途上で、時代や民族によってその霊視意識の状態にいろいろと差が出てきて、その違いによって、いろいろな神話が成立したとされるのです。
ですから、太古の時代にさかのぼるほど、人間にとって、神話を含め、あらゆる宗教的なものは、近代においてよく見られるような、わからないけれども、もしくはわからないからこそ信ずるというような意味での信仰の対象ではなく、あくまで一種の事実であり、アトランティス人などになると、夢のような意識状態のなかで神話的存在たちと直接交流していた、とされます。
つまり、エジプト文化期というのも、それ以前の古ペルシア文化期、古インド文化期に比較すればかなり衰えたとはいえ、人々はまだ現代人と比べれば、かなり霊視的な意識状態が残っていたというわけです。
そして、シュタイナーのいう精神科学的探究というもの自体も、古代の霊視とは異なりますが、いわゆる超感覚的な認識を前提としています。通常の感覚、知性に基づいた、あるいは測定、実証を主とする研究方法のみでは、きわめて狭い範囲のことしか確認できず、あとは推測ということになってしまうことが多いのではないか・・
けっして安易に鵜呑みにしてはならないとしても(シュタイナー自身がそれを警告しています)、超感覚的認識というものをとりあえず仮説としてでも認めない限り、現代科学の基準でいう「客観性」のみを重視すれば、対象はどんどん限定されていき、学問は細分化していくばかりになるのではないか(もちろん、それが必要な場合もあるのでしょうが)・・と私自身も思っています。
imaiさんwrote:
>人智学協会の方ですが、これは多分、社会的な契約上のあるいは法的な
>承認を前提とした団体だから、ゲゼルシャフトとなっているのでしょうネ。
>シュタイナー的な銀行もひとまず社会の中で法的に認知されて
>いるわけでしょうし。シュタイナー学校連盟も同じような組織なのでしょう。
>経済や法と関わらざるをえない限り、いかなる精神的な集団も
>ゲゼルシャフトとならざるをえないということでしょうか。
>ですから、ゲゼルシャフトにも二種類あるということに
>なるのでしょうね。
>生協の協同組合とか、有機農業の組合的なネットワークとか。
>こうした新しいゲゼルシャフトのあり方を提示していくことが
>三層化運動といえるのかもしれませんネ。
そうですね、ご指摘いただいてよくわかります。たしかに、ゲゼルシャフトというのは、社会的な契約上のあるいは法的な承認を前提とした、という要素から考えるとよくわかりますね。あ、それとテンニースのゲゼルシャフトーゲマインシャフトの区別というのは、「近代化」にともなってゲマインシャフトからゲゼルシャフトへと移行する、というようなコンテクストに基づいているのでしょうか。じぶんで調べればいいのですが、手元に社会学系の本がないもので、もしお時間あれば教えて下さい(とすぐひとをあてにする・・^^;)。
>未来のゲマインシャフトは、きっと、地縁、血縁ではなく、魂縁の共同体と
>なることでしょう。スエデンボルグが霊界の生活で暗示していたような。
>
>組織無きネットワークというのも、経済的な市場のグローバリゼーションとは異なった
>ゲマインシャフト的グローバル・ブレイン構想につながっていくものだと
>思います。これこそが、コンピュータの血液であり太陽なのでありましょう。
おっしゃるように、未来にシフトしたゲマインシャフトは、社会有機体三分節化の思想と切り離せませんね。組織なきネットワークというのも、抽象的・無機的な、オートマティックなものではなく、真の精神の自由に基づいたキリスト衝動ー友愛に貫かれている、というのが理想だと思います。
コンピュータの血液であり太陽・・たしかに、コンピュータ・ネットワークが「生きた」ものになる可能性、それはまた、メカニックなものの霊化[Vergeistung]という、とてつもなく夢想めいたことにも、つながっていくのかもしれません。それを祈り、意志しつつ・・
シュタイナーのいうエジプト文化期は、BC2907〜747ということです。シュタイナーによれば、アトランティスの大洪水ののち、古インド文化期(BC7227〜5067)、古ペルシア文化期(BC5067〜2907)を経てから、このエジプト文化期(ふつう人智学ではエジプトーカルデア文化期と呼ばれるようです)、そしてギリシアーラテン文化期(BC747〜AD1413)、現在の第5文化期(1413〜3573)と続きます。
これによると、シュタイナーのいうエジプト文化期は、歴史でだいたいBC3000年前後から始まるといわれるエジプト文明の時期とほぼ重なるのではないでしょうか。この時代にも特殊な秘儀参入の儀式の導師や、祭司、神官といった人々は、とくに霊的能力が発達していた(というよりもっと古い時代の能力を保持してきた)のでしょうが、おっしゃるようないわゆるふつうの人々にしても、一般的の現代人よりは霊視的であったと考えられます。前回書いたことと少し重複しますが、「世界史の秘密」(西川隆範訳 水声社)から少し関連部分を引きますと、
(略)太古において、ポスト・アトランティス文化期(BC7227〜)においても、通常の歴史学であきらかにされている時代よりも数千年さかのぼるだけで、人間は多かれ少なかれ霊視的状態にあったことが明らかになってきます。物質界に限定された無味乾燥な目覚めの状態と、曖昧な夢を伴った無意識の眠りの状態との間にあるもう一つの意識状態をとおして、私たちは霊的現実のなかに先入していくことができます。今日、教養人が虚構の民族的空想と解釈している神話や伝説は、実際には当時の人間の霊視的な魂が物質存在の背後に見たものに基づいて、語り継がれてきたものです。霊視的に見られたものが、神話や伝説のなかに表現されているのです。太古の真正な神話、民話、伝説のなかに、今日の抽象的な学問よりも多くの認識と叡智と真実を見出すことができます。太古の霊視力を有した人間に目を向けてみましょう。時代が下るにつれて、さまざまな民族の霊視力は減少していきました。ヨーロッパでは、太古の霊視力が比較的後代まで広い範囲にわたって存在しつづけていたことを指摘しておきたいと思います。霊視力が消え去り、物質界に限定され た意識が現われた時期は、民族によって異なっています。(9頁)
人間の魂と霊的世界とのいきいきとした結びつきは、ギリシアーラテン文化期においてはじめて中断され、現代のポスト・アトランティス第5文化期にいたって完全に消え去ったのです。 (10頁)
ここで言われている「当時の人間」とはとくに特別の人間ではなく、一般的な能力としてそうであった、ということだと思います。ただ、歴史上名の残っているような人物にはとくに霊的諸存在が強く働きかけていたということが言われます。
古代の人間の魂のなかには、(中略)人間を超えて霊的世界にいたる霊的諸存在が生きていたのです。霊的諸存在は人間の魂という道具を通して物質界に働きかけ、人間は霊的諸存在との結びつきを意識していました。エジプトーカルデア文化期には、いわゆる歴史的人物が見出されますが、今日の意味での歴史的人物として把握すると、彼らを理解することはできません。唯物論の時代に生きている私たちは、歴史的人物が自分の衝動と意図によって行動したと考えがちです。このような考え方は、紀元前1000年から現在にいたるまでの人物についてのみ当てはまるものです。プラトン、ソクラテス、ミレトス学派の祖タレス、アテネの政治家ペリクレス等は、まだ私たちに似た人間として理解することができます。けれどもさらに時代をさかのぼっていくと、当時の人物を現代の人間から類推して理解できる可能性はなくなります。エジプト文化の偉大な導師ヘルメスや、ゾロアスター、モーセ等は、もう理解できません。紀元前1000年よりも過去にさかのぼると、歴史上の人物の背後には霊的存在が立っており、霊的存在が彼らとともにあったということを考えにいれねばなりません。このような認識なしに歴史を理解しようとすると、誤りに陥ってしまいます。(10頁〜11頁)
このことは、やはりシュタイナーの言う、人間は過去にさかのぼるほど、個人、個という意識が希薄で、一種の集合自我的なものが作用していた、ということと考え合わせて、わりに納得できるような気がします。
クレー、カンディンスキーはものごころついてから惹かれ続けた画家です。彼らと神智学、人智学との関係には私もとても興味がありますので、少しだけ・・
カンディンスキーといえば、以前平凡社のヴァールブルク・コレクションのS・リングボム「カンディンスキー 抽象絵画と神秘思想」を拾い読みしたのですが、その辺りのことがかなり詳しく具体的に述べられていました。カンディンスキーが、ルツィフェル・グノーシス誌に載ったシュタイナーの瞑想的修行法について深く研究していたことや、シュタイナーの色彩論に衝撃を受けたことなど・・普通の画集などの解説ではあまり触れられない部分ですし、神智学協会のリードビーターなどのほか、シュタイナー自身の論文や講演からの引用もあって、ちゃんと読み直さなくてはと思っています。
クレーについては、絵やデッサン自体の魅力はもちろん、あの題名のつけかたが何ともセンス抜群ですよね。題名そのものがひとつの詩のようです。(美術と音楽の両方に才能があるひとというのはかなりめずらしいようですが、彼はプロ並みのヴァイオリニストでもあったし、うらやましい限りであります・・)
あの独特の詩的な題名は、やはりシュタイナーと関係の深かったCh・モルゲンシュテルンの詩の影響も大きいようですが、このあたりについては、昔愛読していた種村季弘さんの「ナンセンス詩人の肖像」(筑摩書房)がおもしろいです。モルゲンシュテルンとクレーの照応関係ともいうべきものが語られていて、たとえば、クレーの「鐘の音の女ビム」というデッサンはモルゲンシュテルンの「絞首台の歌」のなかの「ビム、バム、ブム」に基づいている、というくだりなど、とても印象に残っています。
カンディンスキーも、クレーも、印刷された画集であっても、疲れたときなどに眺めていると癒されるように感じられるのは不思議です。両者ともわりにポピュラーで展覧会も比較的多く、地方にいても実際に観る機会があるのはありがたいことです。神秘学との関わり、という点はあまりポピュラーではないようですが(^^;)。
クレーの病気は、たしか筋肉硬化症とか・・それに第2次世界大戦という大変動のなかで晩年を迎えたことも影響しているのでしょう。ナチスの例の「頽廃芸術展」での展示をはじめ、毎日のように執拗な家宅捜索を受け、多くの作品を没収されたり、各地を転々としなければならなかったり、それに病気、となるとそれはもう大変だったでしょう。私もたしか3年前に高知県立美術館でひさびさにクレー展を観たのですがいままで日本では公開されたことのない晩年の作品など数多く展示されていて感動しました。色彩といい、勢いといい、かなり暗く激しいものがあったように思います。ただ、最晩年のデッサンのなかにも、ある種不思議なユーモアをふくんだものや、禅僧の書のような境地が感じられるようなものがあってほっとさせられました。
若いころあまり経済的に恵まれなくて奥さんのピアノのレッスンで生計を立てていたころ、息子のフェーリクスを台所でお守りしながら空き瓶や紙や毛糸でいろいろな人形を作ってあげた、というエピソードを読んだときは印象的でした。そのお人形の写真を見ると、いきいきとしてユーモラスで、これは、ヴァルドルフ教育的なお人形作りの生きた実践のひとつじゃあないか、と思ったりしたものです。
それとクレーの日記に「ただあまりにもたくさんシュタイナー」というメモがある、ということは何かで読んで知っているのですが、実際にクレーがシュタイナーに関心を持つにいたった経緯というのはどういうものなのでしょうか。親しかったカンディンスキーの影響なのでしょうか。
クレーの一群の天使の絵はとても印象的ですが、それと関連して晩年のクレーについての示唆的な文章を少し・・
ーーしかしいま、ふくらんでばらばらに散ってゆくこの世界の代償として、その世界に属すことを望まぬ存在者がしずしずと姿を現わす。各階級に属するすべての天使たち。”大天使”、”兵士としての天使”、”見張りの天使”、”あり余る天使”、”星からの天使”など。かつてクレーの裡で、言葉が段々と短い三行詩となって、この言葉は、彼が、その伝達を書き留めるまで、子供のフォークダンスの歌がもつ律動のあのしつこさで、彼につきまとった。その言葉は次のようだった。
「いつか、わたしは無の世界に横たわることだろう。だれかひとりの天使の傍に。」
これらの天使たちの供ぞろいが、いま立ちのぼってきて、最後の道連れとなる。クレーはいつも中間の世界に住んでいて、彼は、一方から他方へと模様替えするのが好きだった。彼は、彩色された形態をそれこそ変貌(メタモルフォーゼ)のための媒体とみなして、その魔法によって、地上に束縛されたものを宇宙に動くものに、無機的なものを有機的なものに変え、生育するものから運動するものへ、植物から動物へ、そしてそこから人間へと進んでいくのであった。変転があらゆる存在の根底に在り、可能なるものは、つねに現実的なもののうちに潜在として横たわっていた。宗教的 なものに眼を向ければ、なお地上的な変貌でありながら、そのもっとも幅 のある可能性は天使にあった。最後の瞑想のなかで、クレーはいまなおこの中間の世界へ入ろうとするーーだれかひとり自分の天使のところへ。
(W・ハフトマン「パウル・クレー 造形思考への道」西田秀穂・元木幸一訳 美術出版社)
クレーの日記といえば彼の墓碑銘も日記からとられたそうですが、なんだかとても人智学的ですね。
「この世のことばだけでは私は理解されないだろう。なぜなら、私は、死者とも、まだ生まれないものたちともしあわせに生きることができるからだ。一般の人よりも創造の核心に近づいてはいるけれども、まだ十分近づいているとはいえない。」
*補足
高橋巌さんによると(「アーガマ」の特別号「存在光」の巻頭)ピアニストであるクレーの奥さんはシュタイナーの弟子であり、息子のフェリックスの奥さん(オペラ歌手)も人智学の研究家だそうです。カンディンスキーをはじめ、フランツ・マルクやファイニンガーもかなりシュタイナーの思想に打ち込んでいたということで、こういうひとたちが周囲にいたこともかなり影響しているだろうということでした。奥さんがシュタイナーの弟子というのには驚きでした。
それにしてもこの対談では、すばらしい染織家の志村さんと高橋さんが、ゲーテ、シュタイナーの色彩論、ノヴァーリス、香りのことなどについて魅力的に語り合っていて、つい引き込まれてしまいそうです。「風の谷のナウシカ」についてのふたりのお話もおもしろい・・・