yucca 覚え書き

シュタイナーをめぐって 4

1998.12.4-1999.2.10


●鉄と銅

●「精神科学と医学」第15講など

●悪の秘儀・・自己意識、自由、認識

●”食事と癌”10 水晶パワー

●アポロン的、ディオニュソス的

●ワーグナー、ニーチェ、シュタイナー

●ワーグナーとナチズム、民族主義を超えて

●民族主義からキリスト・インパルスへ

●「Ich」の内なるキリスト(GA220より)その1

●「Ich」の内なるキリスト(GA220より)その2

 

 

 

鉄と銅


1999.12.4

 

 ドルイドの祭祀で月齢6日にヤドリギを切り取るのは黄金の鎌と決まっていて、けっして鉄の刃で刈ってはならなかったそうです。鉄は精霊を追い払うというので、ドルイドに限らず多くの宗教儀礼では鉄はタブーだそうですが、良くも悪くも霊視的意識から切り離すためには、鉄が有効ということを裏書きしているようです。銅と鉄の対照で見ても、銅剣、銅矛、銅鐸など銅製のものは祭祀的機能がほとんどで、鉄器が普及するにつれ先祖返り的霊視的意識はうすれ、(進化の流れのうえで必要とはいえ)もっぱら現実的な戦闘用の武器という機能が前面に出て、行きすぎれば殺伐とした時代となる・・ということかなと思います。

 WELEDAカレンダー(1991、銅の特集)の説明文によれば、7惑星の金属のうち、鉛(土星)、錫(木星)、鉄(火星)はとくに上部人間の神経ー感覚プロセスに関連があり、銀(月)、水銀(水星)、銅(金星)は下部人間の新陳代謝領域に主に作用を及ぼす、となっています。なお、金(太陽)は中心にあって均衡を保つ働きをするそうです。(金粉入りのお酒、化粧水などもまったくばかげた迷信とは言い切れないのかもしれません、認識的であるかどうかは 別として・・)金星ー銅は腎臓組織に親和性があるとされます。銅と銅のさまざまな結合物は、治療にさまざまに組み込まれ、(質、調合、Potenzの度合い、適用する部位の選択により)、暖め、痙攣をほぐす、循環の静脈の障害に作用する、あるいは鉄との組み合わせにより、血液形成を促進する、などといった特性があるとされています。

 『オカルト生理学』(高橋巌訳 イザラ書房)などによると各臓器と惑星の対応は 

太陽ー心臓、月ー脳、水星ー肺、金星ー腎臓、

火星ー胆汁、木星ー肝臓、土星ー脾臓、

 となるのですが、臓器そのもののとらえ方もwhite birchさんのご指摘のように東洋医学的なものに近いですし、そう図式的に単純化できないようで大変です^^;

 

 

 

「精神科学と医学」第15講など


1998.12.4

 

 ヤドリギが癌腫に作用するプロセスの説明は『病気と治療』122頁以下にありました。エーテル体の異常増殖が癌腫の原因とされますが、ヤドリギを人体に投与することによってヤドリギを通じて樹木のエーテル実質が人体にもたらされ、それが人間のアストラル体を強めることによって癌を崩壊させるのだそうです。

ヤドリギは、異常増殖する樹木のエーテル体を奪い取る。(ヤドリギがなければ樹木のエーテル体は異常増殖する)ヤドリギが樹から奪ったエーテルを正しい方法で処理して人体に注射すると、癌腫における異常増殖したエーテル実質をヤドリギが受け取り、物質実質を押し返すことによって、アストラル体の働きが強められる、そして癌腫の腫瘤を崩壊させる。

 また、バセドー氏病の人はアストラル体が硬化していて、自我組織がアストラル体を支配できないとされますが、自我組織に強い作用を及ぼすのは、銅、輝銅鉱、硫黄だと言います。

バセドー氏病の人に輝銅鉱の調合剤を与えると、輝銅鉱の内的な力が自我組織を強め、アストラル体と自我の間に均衡がもたらされる。

 銅や鉛など通常食物のなかには含まれない実質、つまり通常食べられることのない鉱物、植物、動物は、人間の自我とアストラル組織に特別強く働きかけるといいます。つまり、病気の原因が肉体、エーテル体レベルではなく、アストラル体、自我などになると、通常の食物に含まれるものでは間に合わない、ということかと思われます。

 『精神科学と医学』第15講でも糖尿病と自我の関係が述べられていますが、ここで、遺伝の力に屈服しやすい(つまり親などに似やすい)傾向が自我の弱さだとされているのはわかるとして、主知主義とか、あれこれ(頭だけで)考えることも自我の弱さと結びつけられているのは印象的でした。自我の強さというのが、「周辺部にとどまらず内部にまで作用を及ぼす」力という説明で、少しなるほどと思いましたが。糖尿病も自我が弱くてアストラル体を統御できない、とされていましたが、その点に関しては上記のバセドー病と同じのようです。

 銅が自我組織を強める、ということは、銅にも自我を周辺部にとどまらせず、内部にまで送り込む作用がある、ということでしょうか。

 ちなみに、もし、人間が鉛の作用を内に有していなかったら、潜伏性の硬化症によって思考プロセスが鈍化し、人間は思考する存在になっていなかったといいます。硬化症に対抗する鉛の働きが人間の思考を成立させているそうです。

(『病気と治療』133頁)

>日本糖尿病列島といわれて久しいが、サウナに霧状のエーテルオイルを散布してや

>れば、糖尿病は治るのかしら?、このオイルはなんのオイルなんですか。是非、知

>りたい。

 残念ながらオイルの種類は書いてないので、よくわかりません・・一般に自然界においてエーテル的油、油化する傾向全般が、内部へと作用する自我プロセスに親和性がある、という部分ですね。自我の働きを強めるハーブとしては、14講でローズマリーなどが挙げられていますが・・

 トモシリソウ[Loeffelkraut](コクレアリア・オフィシナリス[Cochlearia officinalis])などにしてもどの程度実用化されているのか、よく知りません。ヨーロッパの民間療法では薬草として用いられていたようですが。日本原産のよく似た作用の植物もあるのかもしれません。

 そういえば、珪酸が多いスギナですが、私も以前スギナ茶を飲んだことがあります。家の横にスギナがいっぱい生えていたので、干してこしらえたのです(^^)が、たしかに利尿作用など著しく、慢性肝炎でいろいろな症状があった母にもわりに良かったようです。ただ、お味はちょっと??ですが・・

 

 

 

悪の秘儀・・自己意識、自由、認識


1998.12.7

 

 「悪の秘儀」=「ルシファーを変容させること」は一度、知恵の実を食べた人間のこの地上での使命のようですね。

 前回、うろ覚えで書いた部分に関連するところ、もう一度読み返しました。GA107『精神科学的人間学』第16講、松浦賢さん訳で『悪の秘儀』(イザラ書房)に所収されています。自己意識と自由、認識とキリストとの関連について核心的な部分だと思います。私がシュタイナーの神秘学にとても惹かれるのも、こういった「悪の変容」といったことが重視されるからです。以前KAZEもシュタイナーノートで取り上げたことがあるようで、重複する部分もあるかと思いますが、気に入っている部分なので(^^;)少し。

いまや、人間は自己意識を備えた人間として、キリストの本質を、そしてキリストと世界全体のつながりを認識しなければなりません。そうすることによってのみ、人間が実際にひとりの「私(自我)Ich」として活動することが可能となるのです。(略)

現在人間は、もしそれを欲するならば、キリストを認識することができます。人間はいま、キリストを認識するために、あらゆる智恵を集めることができます。そのとき、人間は途方もなく大きなことを行なうのです。「キリストとは何なのか」ということを洞察するためにキリストを認識し、智恵と現実的に関わり合うならば、人間はキリスト認識によって自分自身を、そしてさらにはルシファー存在たちをも救済することになるのです。もし「私はかつてキリストが存在したことに満足している。私は無意識のうちに救済されるのだ」と言うだけならば、人間はルシファー存在たちを救済するために寄与することは決してできません。人間に自由を与えたルシファー存在たちはまた、「キリストを洞察するために、いま、この自由を自由な方法で使用する可能性」を人間に与えました。もし、人間がこのことを実行するならば、キリスト教の炎の中でルシファーの霊たちが浄化され、浄められ、ルシファーの霊たちによって地上で犯された罪は、罪から恵みへと変化するのです。ルシファーの霊たちを通して人間は自由を獲得しました。しかし、人間がキリストを認識するとき、恵みとしての自由が霊的な領域へともたらされます。(略)

聖霊降臨祭は、霊的な意味においては復活祭の一部です。聖霊降臨祭を復活祭から切り離すことはできません。この聖霊とは、再び甦り、いまや。より純粋で高次の栄光のうちに復活した「自立した認識、智恵に満ちた認識の霊」としてのルシファーにほかなりません。(略)

キリストの先に立って松明を掲げるのは、再び甦ったルシファー、つまりいまや善なるものへと変化したルシファーです。キリストそのものをルシファーが支えるのです。ルシファーが光の担い手であり、キリストが光です。ルシファーはその言葉どおり、光の担い手なのです。

(『悪の秘儀』79頁以下)

 精神科学的は、通常のキリスト教信仰では無意識にとどまりがちなものを、完全な意識にまで引き上げる智恵だと言います。「聖霊とは変容し復活したルシファーである」・・シュタイナーの比類ない言葉の数々のなかでも、とくに心に刻みつけられたもののひとつです。もっとも、その「変容」のプロセスこそ大事で、現実的にはほんとうにシンドイことがほとんどなのでしょうが・・(^_^;)(そんなに簡単に変容してたら、「役割としての悪」の意味もない・・)

 そして、こうした認識は何よりも地上に生きているうちにこそ(自由な意志から)獲得しなければならないと強調されます。この地上で準備しておかないと、霊界で目が見えるようになるための能力は獲得できない(つまり死んでからでは遅すぎる・・(^^;)、精神科学は「意識的」に霊界に入っていくための能力を与えてくれるものだとされます。この能力は、断じて先祖返り的「霊能力」賛美や、あいまいな陶酔型神秘主義で あってはならない・・霊的な世界に正しく参入するためには、この地上に降りてきて、自己意識的な本質を身につけることが不可欠だとされます。無意識の状態にとどまっている不死性は、まだ真の意味における不死性とは言えない、と。

 自分のなかに悪を見据えること、そして変容させること・・現実的にシンドイことは多いですけれど、この「悪の秘儀」、自由のテーマはこの現実のなかで「自己として」生きる勇気を与えてくるようです^_^ 

 

 

”食事と癌”10 水晶パワー


1998.12.25

 Itohさん ”食事と癌” 10 どうもありがとうございました。とても参考になりました。

 「精神科学と医学」第9講に出てくる珪酸プロセスと炭酸プロセスとも深く関わってくる部分ですね。「病気と治療」(108ページ以下)の説明も参考にして、ちょっと整理してみようとしたのですが・・

 癌腫はエーテル体の異常増殖、不規則な形成である、(このエーテル体の異常な働きを、アストラル体、自我がコントロールできなくなる)シリカ結晶化作用の規則正しい形成力が癌腫形成に対抗する・・このあたりは少しずつ理解に定着してきたのですが、

 シリカー水晶ー珪酸は霊的なもの(アストラル体、自我)を受け入れ、通過させる、逆に炭酸のなかに霊的なものが入っていくと固体化され、拘留される。内的ー霊的に働く自我組織の外的ー物質的相関物が珪酸、内的ー霊的に働くアストラル体の外的ー物質的相関物が炭酸・・自然界での珪酸プロセスは人体内の心臓より上の部分に向かう活動と対応し、自然界での炭酸プロセスは人体内の広義の消化プロセスと対応している、腸を通じての排泄は頭部と関連し、これが珪酸プロセスと関連し、尿形成は心臓組織と関わり合っていて、これが炭酸プロセスと関連する・・こうなると、だんだんややこしくなってきます(^^;;)

 「宇宙言語の協和音としての人間」第3講の、人間の上部は、物質的実質から成り立っているが、そこで働く力は霊的、逆に、人間の下部は、霊的実質から成り立っているが、そこで働く力は物質的、という説明とも関連してくるようで、そうすると、自我の力の運搬人であり、感覚器官つまり神経系に多く含まれるシリカというのは、霊的力を媒介する物質的実質ということでつじつまは合いそうですね。腫瘍はこのシリカプロセスが感覚器以外のところで過剰に働くことによって形成される・・ 

>                         腫瘍は代謝領域に

> 場所を間違えて感覚器が形成されたものだというシュタイナーの表現は

> ここでも裏付けされています。腫瘍形成は”自我組織分野におけるシリ

> カプロセス制御の失敗”なのです。腫瘍は別の生きた異質なからだであ

> るとも言えます。

 リンゴがとくにシリカプロセスに良いとは知りませんでしたが、小さい頃からなぜかリンゴだけは毎日必ずと言っていいほど食べていました(^^)多少胃のあたりの調子が悪くても、たいていリンゴを食べるだけで楽になったりするので、今でも欠かせません。(最近はハーブのサラダドレッシングに良質のグレープシードオイルなど使うようにしていますが、これはとても美味しいし皮膚の調子も良いようです。)

 シリカー石英の結晶化と蜂の巣の形成力との親和性、器の形というのも単に偶然ではなく、力があり、意味があるということを確認するのは、ほんとうにワクワクするような驚きです。以前、ピラミッドパワーとか、六角形、六芒星のヒランヤ・パワーなど話題になりましたが、こういう「パワー・グッズ」流行現象は、いろいろと問題があるにせよ、形のもつ不思議な力に対するなにがしかの感性が残っていることの現われとも言えるのでしょう。蜂蜜の瓶も六角形だと何だかうれしくなります。

 蜂蜜にはよく1歳未満の乳児には与えないように、抵抗力がないから、と表示しているものがありますが、これは「抵抗力がない」からというよりも、形成力のもとである母乳で育っている乳児はまさに形成力のかたまり(^^;)で、そこに形成力の強い蜂蜜が加わると形成力過多になってしまうので排出する、と考えたほうがよさそうな気がしますが、どうなのでしょう。おとなでさえ、「一日二回茶さじ半分より多くはいけない」ということであればなおさら・・

> シリカを含む化合物で、クリソライト(貴かんらん石)は視覚プロセス

> に、オニックスは聴覚プロセスに、ジャスパーは臭覚プロセスに働きか

> け、肝硬変など慢性の肝臓疾患にはクオーツ、偏頭痛や慢性の化膿など

> 代謝が行き過ぎたり荒々しくなって起こる場合にもクオーツが使われる

> ということです。

 このあたりは以前大慌てでご紹介した「宝石と人体」と関連するようですが、オニックス(縞碼碯)、ジャスパー、クォーツ・・鉱物学的にもみなシリカー石英の兄弟みたいなものなのですね。とても興味深いです。

 

 

 

アポロン的、ディオニュソス的


1999.1.11

 

white birchさんwrote:

>ところで、今日ちょっとオイリュトミったのですが、先生は面白いことを言って

>いました。ドイツとか欧米人は”Ich”が堅く胸にあるので、オイリュトミーし

>ててもなかなか空間ができてこないのに、日本人は比較的肉体の周辺に空間が

>容易に出来やすい。空間に広がっていくことは日本人は得意なのだと思われる

>が中心の自己が失われやすい、広がりと中心を両方忘れないようにと説明され

>ました。その時、日本人は自己中心化しないで、やり霊的にもグループ帰属し

>やすいのではないかと思いました。もう一つその場の説明でわからなかった

>こと。後ろに後退することの方が力強く印象的に見えるが”Ich”が保たれ、

>ディオニソス的である。他方、前に進むことは胸が空っぽになり彼方の空間に

>広がっていきアポロン的であるが、胸の中心の”Ich”を見失うとカルト教団

>になるので注意しましょうと。このディオニソス的とアポロン的というのが

>僕にはよくわからなかったのですが、シュタイナーはどんな意味を持たせていた

>のですか。

 ドイツとか欧米人は”Ich”が堅く胸にある、日本人は比較的肉体の周辺に空間容易に出来やすい、空間に広がっていくことは日本人は得意なのだ、という点、納得です。日本人が一般に場の空気、といったものを感じ取ることに長けている、ということと関連しているようですね。

 ディオニソス的とアポロン的ですが、もともと、ロマン派の神話学者たちが対立概念として用い、これをニーチェが「悲劇の誕生」で取り上げてより有名になったようです。陶酔的、熱狂的、激情的、衝動的な芸術衝動をディオニュソス的、調和ある統一、端正な秩序を目指す主知主義的なそれをアポロン的、と辞書などにも書かれていますが、「おんがくよもやまばなし」で私が使ったのは、厳密にニーチェ的というのでも神秘学的な意味というのでもなくごくおおざっぱに、暗く激しいディオニュソス的、明澄で調和的なアポロン的、といった程度の意味です・・(^^)

 シュタイナーがディオニュソス的秘儀、アポロン的秘儀、という「用語」を実際に用いて秘儀の説明をしている講義や著作は、今ちょっと思い出せないのですが、高橋巌さんの『神秘学講義』(角川選書)の第4章、「秘儀とその行法ーーアポロン的とディオニュソス的」では、外なる世界に向かって存在の意味を探求する道をアポロン的秘儀、自分の内面への道を無意識の世界の奥底までにまで降りていこうとするのをディオニュソス的秘儀、としてシュタイナーの行法が具体的に解説されています。これと関連して、精神科学の方法について根本的なことが述べられているのは先月佐々木さんに訳出してくださった「魂の変容 第3講、神秘主義とは何か」だと思います。ここでは外へと向かう道が多元論、内へとむかう道が一元論としての(ヨーロッパ中世の)神秘主義、として捉えられ、精神科学の道は第三の道で、それを正しく歩んでいけばその途上で両者の影の部分を克服できると説明されていたようです・・オイリュトミーで言われたことと考え合わせると、精神科学とは自己の内面に目を向けずひたすら彼方の空間に広がっていくのでもなく、外界を無視してただただ自己の内面に沈潜するエゴイズムでもない、(アポロンとディオニュソスを統合する)第三の道であるといえそうです。と言ってしまうと図式的にすぎるかもしれませんが・・(^^;;)日々の生活、行ないのなかでほんの少しずつではあってもその道へと歩み入り、その成果を織り込んでいけたらと思う今日この頃です。

 実際にオイリュトミー講座などには行っておりませんが、とくに昨年公演を見て以来あの流れるような動きが印象に残り、力の抜き方入れ方、呼吸の感じなど日常の動作にも勝手に(じゃだめか;^_^)参考にさせていただいてます。楽器演奏などとくにオイリュトミー体験は良い影響をもたらしてくれるのではないかと思います・・

 

 

 

ワーグナー、ニーチェ、シュタイナー


1999.1.12

 

 ニーチェとワーグナーですが、個人的面識はあったようです。かねてからワーグナーに心酔していた若きバイエルン国王ルートヴィヒ(ヴィスコンティの映画でも有名)は、借金に追われてウィーンを夜逃げしたワーグナーを経済的にバックアップし、しかも単なるパトロンにとどまらず、「共同事業者」として芸術理念の実現に協力しようとしたようですが、このルートヴィヒの経済的庇護のもと、ワーグナーは1866年頃からスイスのルツェルン郊外で(弟子のビューローから奪った^^;)コジマと牧歌的生活を始めます、1868年ライプツィヒで若きニーチェと初めて会い、当時バーゼルにいたニーチェは、その後しばしばワーグナー家を訪れ(3年間に23回だそうです)親交を深めたようです。

 1871年にワーグナーがバイロイトに移ってからは疎遠になり、1872年出版の「悲劇の誕生」の序言はワーグナーに捧げられたとはいえ、後年ニーチェはワーグナー賛美のため述べたことすべてを撤回し、痛烈に批判するようになります。(このへんのいきさつは、ニーチェをちゃんと読んでないのでよくわかりませんが・・)

 ワーグナーは1813年生まれ、ニーチェが1844年、ルートヴィヒが1845年生まれでこのふたりはほとんど同い年ですが、こういう若く鋭敏な精神の青年たち、それにやはり年の離れた人妻のコジマ(1837生)をも虜にしたワーグナーおぢさん、そのひととなりも含めた「総合芸術」、やはり吸引力のあるものだったことは確かなのでしょう(^^;)私自身は曲の魅力は認めるものの、この手の誇大妄想的なタイプのひとは苦手ですが・・

 さて、シュタイナーとニーチェですが、シュタイナーは30代のころ、ニーチェ著作集の最初の編集者であるフリッツ・ケーゲルと共にニーチェ文庫に出入りしてかなり自由に資料を閲覧できる立場にあり、1895年34歳のときに著者『ニーチェーー同時代との闘争者』を出版します。(翻訳は樋口純明さんで人智学出版から出ていましたが、現在絶版かもしれません)訳者あとがきなど参考にさせていただくと、シュタイナーはニーチェを深く理解し、感性的飛躍に満ちた筆致の奔放さに感動しながらも、ニーチェのいう「ディオニュソス的人間が、因習や『彼岸の意志』の下僕でないことは確かだが、しかし彼は自分自身の本能の下僕である」として、『自由の哲学』の立場から、本能に支配される盲目的自由を

厳しく批判しているようです。 また『わが生涯の歩み』のなかではニーチェの悲劇について、ニーチェは19世紀後半の自然科学主義に非常に影響されたがために、霊的精神的世界内容を拒絶して、自然科学的物質的世界内容に魂を奪われ、そのため自然科学的世界内容を精神的な方法によって創ろうとする矛盾に陥った、言っています。またゲーテと対照しつつ、

「ゲーテのエネルギッシュな現実感覚は、自然の本質や変化に向けられていたのだ。ゲーテは自然のうちにとどまることを望んでいた。彼は植物や動物や人間の形態の純然たる観察の外へは、けっして踏み出そうとしなかった。しかし彼は心を用いて観察に励むことによって、至る所でガイスト(霊、精神)に出くわした。彼は物質のうちに存在している霊を見つけたのだ。しかし自身のうちに棲みつき存在している霊を直観するところまではいかなかった。彼は「ガイストに適った」自然認識法を拵えたのである。こうしてゲーテは現実性を失わぬよう、純然たる霊の認識の手前で立ち止まったのだ。

ニーチェは精神を神話の形態で直観することから始めた。アポロンとディオニュソスが彼の体得した精神の形姿である。人間の精神史の過程はニーチェにとって、アポロンとディオニュソスの協力ないしは闘争の歴史のように思えたのだ。しかし彼は実際の霊的存在の直観へは向かわなかった。彼は神話の精神(霊)から出発して自然へ向かったのだ。アポロンはニーチェの心の内に、自然科学に則った物質性の表現として現われた。ディオニュソスは自然力のような働きをした。しかしニーチェの心の内でアポロンの美しさは陰りを帯び、ディオニュソスの世界衝動[Weltemotion]は、合自然法則性によって麻痺していたのだ。 

ゲーテは精神を自然的現実の内に見出した。ニーチェは神話に表わされた霊を、彼が生きていた自然空間のなかに見失ってしまった。」

 外なる自然ののなかにも、自身の内部にも真正な霊を見出すこと・・これが精神科学の目指すところなのでしょう。

 

 

ワーグナーとナチズム、民族主義を超えて


1999.1.14

 

 ワーグナー楽劇の理念自体は、シュタイナーも認めるように、神秘学的にも価値あるものだと思います。これが偏狭な民族主義やファナティックなナチズムに結びついてしまうのは、理念をこの人間の世界のなかで実現化するときの個々人の魂が偏見やエゴイズムから自由でないからなのかもしれません。実際のところワーグナーそのひとの「反ユダヤ性」は確かで、(これは貧困のどん底で飢餓線上をさまよったというパリ滞在時代に、「ユダヤ系金融資本」の権勢に社会悪の根源を見るプルードンなどの著作に摂したことがきっかけだなどとも言われます)「音楽におけるユダヤ性」という論文を匿名で発表した(1850)事実もあるようです。個々人が自らの偏見や本能から自由であることがいかに困難であるか、考えさせられます・・

 特定の民族への反感も、過激な民族主義も、結局は人間を、そして人間関係を、物質的な「血と地」の結びつきに還元してしまう見方に捕らわれているのでしょう。とは言え、お題目のように抽象的なコスモポリタニズムを唱えるのも空疎なことですし、やはり「生きた」精神科学的宇宙論的人間理解が不可欠ではないかと思います。血と地に本能的に囚われるのではなく、血と地の霊的ー精神的意味を理解した上で、逆にこれを未来に向けて霊化すること、意識の光と、血と地から自由な愛の熱で・・これがキリスト衝動の意味ではないかと思うのです。

 とアントロ調になりましたが(^^;)ワーグナー芸術の精神ー理念をキリスト衝動で貫くことにより、ワーグナーそのひとの魂の限界をも変容させ、未来への可能性も開かれるのではないか、そういう「ワーグナー受容」であれば受容にとどまらず新たな創造ではないか、と夢想したりします・・

 

 

民族主義からキリスト・インパルスへ


1999.1.19

 

 先日少し話題になったナチズムと民族主義、芸術の問題はとても重く深いものでけっして単純に語ることはできないでしょうが、ちょうどおりよく(^^;)『ヴァーグナー家の人々 30年代バイロイトとナチズム』(清水多吉 中公新書 1980)が文庫化されて発行されたのを読み、あらためていろいろと考えさせられました。前にも少し言いましたように、民族主義の問題はシュタイナーのいうキリスト衝動(インパルス)の理解にも関係してくる問題ですので、この本を参考にしながら少しずつ覚え書きふうにまとめてみたいと思います。

 『ヴァーグナー家の人々』の著者清水多吉氏は主にフランクフルト学派のホルクハイマーやアドルノ、ベンヤミン等の研究者で1930年代の文化、精神史に単なる政治主義的批判にとどまらない視点からアプローチされているようです。この本にはとくに30年代の「バイロイト王国」のナチズムとの関係を中心に、この時代バイロイトに関わったさまざまな芸術家たちもいきいきと描かれています。フルトヴェングラー、トスカニーニ、ヒンデミット、ワルター、R・シュトラウス・・この狂熱と激動の時代がよりリアルに感じられるようになったような気がします、ただし、21世紀を目前に、厳しい問いかけと痛みめいた重苦しさをともなって。

 晩年のシュタイナーは、まさに近づいてくるナチズムの軍靴の響きを聴きながら、病をものともせず超人的なスケジュールをたんたんとこなし生ききった観があります。シュタイナーとヒットラーを中心に少し年代順に整理してみますと、

 1922年の大晦日の深夜、スイスドルナハの第一ゲーテアヌム火災。12時の鐘が鳴り終わったとき、炎は大ドームを突き抜け天に向かって燃え上がった・・放火によるものだったと言われます。1923年5月、ヒットラー青年がバイロイトのワーグナー家を訪れる、ワーグナー楽劇から政治論まで熱っぽく語る青年ヒットラー、ホーエンツォレルン・ビスマルク帝国的伝統的教養のなかで生きてきた老コジマはそれほど心動かされず、温厚な長男ジークフリートは胡散臭さを感じて反発するが、娘婿のチェンバレン、ジークフリートの妻ヴィニフレッドはヒットラーの話に引き込まれる・・チェンバレンとヴィニフレッドはドイツ人ではなくイギリス人ですが以後この二人、とりわけヴィニフレッドを中心にバイロイトは次第にナチスと関係を深めていきます。この1923年の11月、かねてより共和国中央政府と対立してきたバイエルン州右派政府に武力行使させようとして、ミュンヘンでヒットラーが武装蜂起、いったんナチス党と組んでいた州政府が土壇場で中央政府と和解し、ヒットラーは逮捕される。1923年のクリスマス、ゲーテアヌムでは一般人智学協会の定礎式が行なわれる。翌24年ヒットラー裁判が始まりヒットラーは以後12カ月投獄される。獄中のヒットラーに差し入れを続けたのはヴィニフレッドであり、ヒットラーも獄中でワーグナーのレコードを聴き続けた・・一方シュタイナーは1924年夏にかけて『治療教育講座』『農業講座』。第二ゲーテアヌムの外側の模型を完成、その他講演多数、病気のため中断・・病床で『わが生涯の歩み』『人智学指導原則』執筆。1925年3月、シュタイナーの死・・この年の8月、出獄したヒットラーはひそかにワーグナーの墓に出向く・・

 以後、時代は加速度的にナチズムに浸透されていきます。1929年10月末、アメリカに端を発した経済恐慌がまたたくまに世界中に拡がる・・政治危機と経済危機・・経済恐慌前には国会選挙における得票率2.6パーセントだったナチス党が恐慌後の30年には18.3パーセントにはね上がり、翌々年32年7月には得票率37.4パーセントで第一党にのし上がる・・1930年に93歳でコジマ・ワーグナー死去、その後わずか4カ月で長男のジークフリートも61歳で死去。遺言状に従ってジークフリートの妻ヴィニフレッド(33歳)がバイロイト祝祭劇場に対して支配権を獲得、以後バイロイトの女王として君臨する。そして1933年3月、ナチス第三帝国成立・・

 少し補足しますと、1923年11月のミュンヘン暴動で右派政府軍と組み損なって逮捕されたヒットラーが、獄中で口述筆記したのが有名な『わが闘争』[Mein Kampf]1925年2月27日、シュタイナーの死のひと月前、(2月27日は何とシュタイナーの誕生日!?)ヒットラーの出獄を待って新たにナチ党が構成され、『わが闘争』もこの年に出版されます。

 

 

 

「Ich」の内なるキリスト その1


1999.2.10

 

  少し前からシュタイナー全集(GA)220番、「生きた自然認識」(1923年1月の連続講義)に少しずつ目を通しています。通常自我と訳される“Ich”ー「私」とキリスト存在についてはいろいろな講義で語られていますが、このGA220の第1講は、重要なポイントがわりにわかりやすく興味深くまとめられているように思いましたので、少しご紹介したいと思います。

 人間存在は、物質体、エーテル体、アストラル体、自我(Ich)から成り立っているというのは、神秘学ー人智学の基本ですが、シュタイナー自身もしばしば言うように、ともすると死んだタームによるお題目になってしまいがちです(^^;)。これら各部分相互の関係も人間の進化にともなって変化しますが、この第1講では、エーテル体とアストラルー魂的なものとの関係から、歴史的な流れにも沿いながらキリスト衝動が説明されています。

 古代のひとたちは、現代人よりもエーテル体ー生命力体と霊的ー魂的なものとの結びつきが非常に強かったと言います。つまり魂がエーテル体からじゅうぶん独立していなかったのです。これはヨーロッパの紀元後4世紀くらいまでの人間にあてはまります。この時代の人々は、まだエーテル体に強く結びついたため、いわゆる太古の霊視的意識の名残がありました。この太古の霊視的意識は、エーテル体ー生命力体によって遺伝的に受け継がれてきたもので、天空の太陽を見ても、現代人のように物質的なものだけを知覚するのではなく、物理的存在としての太陽に結びついている霊的な存在、つまり太陽霊(ゾネンガイストSonnengeist)であるキリスト存在そのものを観ることができたようです。

 この太陽霊キリストの自我が、ヨハネの洗礼以後イエスに受肉し、さらにゴルゴタの秘蹟(十字架上の死、キリスト・イエスの血が大地に流れる)、死と復活の秘儀により、太陽霊キリストが完全に地球と結びつきます。ゴルゴタの秘蹟以降、キリスト存在は地球に降(くだ)り地球の霊となっている、つまりキリストは今や(太陽上ではなく)地球上にいるのです(!)

 けれども、4世紀頃までのひとたちの魂は、まだエーテル体と強く結びつき太古の霊視の名残があったので、(すでにキリストは地球上にいるにも関わらず)太陽を仰ぎ見るとき、まだ「いわば残像のように」キリスト存在を観ていました。これはシュタイナーによれば、ヨーロッパ南部、北アフリカ、小アジアといった地域の多くのひとびとに当てはまるといいます。(日本も含めて多くの古代太陽祭祀や日神崇拝、大日如来といったものなども起源的にはこれに含められるのではないかと思われます)つまりまだ外部の宇宙に神的ー霊的なものを観ていたので、人間の内部をのぞきこんで自らのうちに霊的なものを求める欲求がなかったのです。

 キリスト教を排し、古代の異教を復活させようとしたことから「背教者ユリアヌス」として有名なローマのユリアヌス帝(332ー363)は、まさに時期的にも古代の霊視の最後の名残ともいうべき人物で、すでに非常に皮相なものになっていたエレウシスの秘儀に傾倒し、至高の太陽霊キリストがなぜわざわざ地上に降るのかわからず、パレスティナのゴルゴタの出来事にしても、他の通常の歴史上の事件に比べさほど重要であるとも思えなかったようです。

 紀元4世紀(333年)以後、魂的なものは徐々にエーテル体から切り離され、徐々に独立性を獲得していきます。ただ、エーテル体から独立はしたものの、まだ数世紀の間は、魂はまだそれ自体として内的にじゅうぶんな強さを持っていなかったといいます。(つまり個としての働きがまだあまり強くないということのようです)

 エーテル体の支えを失った魂は自分が外部に置き去りにされたように感じます。エーテル体から切り離されたために、天を仰いでも、もはや太陽霊の残像すら見ることはできず、内部には空虚しか感じられないまだあまりにも弱い魂です。この時期(4世紀以降15世紀まで)にキリストに関するさまざまな歴史的伝承が生まれたのは、霊視から切り離され内的にまだ弱い魂にとっては、書き留められたあるいは口伝えの伝承によるしかキリストへの道が見出せなくなったからだといいます。以前のように外部の太陽につまり空間のなかにキリスト霊を観るのではなく、時の流れのなかで、ゴルゴタの秘蹟以降地球と結びついたキリスト霊を求めるには、魂がじゅうぶん内的な強さを得ていなければならず、これは15世紀頃になってはじめて可能になりました。

 

 

 

「Ich」の内なるキリスト その2


1999.2.10

 

 15世紀、まさにルネサンス期ですが、ここに至ってはじめて人間の魂はじゅうぶん内的認識に耐える強さを獲得し、ここで「抽象思考」が生まれます。コペルニクスの宇宙論は、エーテル体から独立した魂が体験したものだといいます。外的ー機械的認識、物理的認識はこうして生まれたわけです。古代にはエーテル体の助けにより、魂は外部に物質的太陽とともに霊太陽を観ることができました、4世紀以降は、内部の私(Ich)である自我ーを見つめ、この自我を感じ、この私ー自我の背後にキリストを感じ取ることができるほどに、魂が内的に強められなければなりませんでした。15世紀になって魂の内的な強化と同時に、数学的ー機械論的宇宙観が成立したわけです。

 数学的ー機械論的宇宙観はそれだけを押し進めれば死んだ抽象となりますが、人間の魂の進化にとっては一度通らざるを得ないものと言えます。人間が自らの内部をみて私(Ich)を感じ、私という感情、自我感情を抱けるのは、(エーテル体から解放された)独立した魂にしてはじめて可能なのです。以前は外部の宇宙をみていた人間は、今や自らの内を見つめなければならない、人間が自らのうちに観るのは最初はこの「私」、暗い自我感情ですが、人間はさらに、この内部の「私」の背後にキリストを、以前はかなたの太陽の背後に観ていたキリストを見出すようにならなければならない、というわけです。

(かつて)光のなかに体験していたもの、日の出から日没まで体験していたもの、つまりキリスト、人間の智を照らす者であるキリストが、今や「私」自身の内から輝き出す、と感じることができるところまで、キリストのなかに「私」自身の強固な支えを見出すことができるところまで、人間は到達しなければなりません。したがってこう言うことができるのです、かつてひとははるかに太陽を見て、キリストに貫かれた[durchchristet]光を見出した、今やひとは自らのうちに自己を感じ、キリストに貫かれた私(自我ーIch)を認識することを学ぶ、と。

 外なる空間的な太陽霊としてのキリストから、内なる時間的なキリストへ、かつて太陽とともに輝いていたキリストから、人間の内面という道を通って再び内なる太陽として見出され、今や私ー自我の担い手であるキリストへ・・

 さて、コペルニクス的転回として一般に科学史上最大級の事件として記述されるこのコペルニクスの宇宙論ですが、ものの本によると、コペルニクスの意図するところに従えば「地動説」というよ「太陽中心説」と言ったほうがよい、とか、当時のネオ・プラトニズムの影響があるとか、書いてありますが、シュタイナーも、コペルニクスが太陽を宇宙の中心に据えたのは、かつて人類が太陽を宇宙の中心点としてキリストとともに感じ取っていた、という「感情」がまだコペルニクスのなかに生きていたからだと言います。もちろん、コペルニクスの太陽は霊的な宇宙ではなく物理的な宇宙の中心ですが。コペルニクス自身、単にこの太陽系に対して数学的座標系を生みだし、太陽をこの座標系の中心に据えることを意図していたのではなく、人々がもはや太陽のなかにキリストを知覚することができなくなったために失われたものを、太陽に取り戻そうとしたのだ、と。

 シュタイナーは、コペルニクス以降のケプラー、ニュートンにも、まだこう言った「感情」が見出され、ガリレイでさえその生涯を見るとまだ後の時代のような思考装置的人間は見出せないと言います、この時代全体として紛れもない最初の自然研究者といえるのはライプニッツくらいだ、と。(魔術に没頭していたニュートンの話とか、薔薇十字団を追っかけていた(?)デカルトの話とか、工作舎系の本などではわりにポピュラーですが、ルネサンスからバロック時代に興味は尽きません)

 ともあれ、この時代になって魂は、多くの数学的ー機械論的表象で自らを満たすことができるようになり、4世紀当時のように内的に空虚な弱い魂ではなくなります。私ー自我の内部に内的な光を、つまりもはや単なる私ではなく、魂を支える存在と呼ぶべきものを見出すことができるようになるのです。

 20世紀の今「キリストへの欠乏感、急迫」はとくに強まっているのに、それに対して麻痺している人々にとって、それは魂の無意識の底に沈み込んでしまっているとシュタイナーは言います。キリストの必要性に気づかない、急迫が意識化されない・・おそらくそのままでは理由のわからない焦り、不安だけが高じていくということでしょうこれを満たすために霊的ー精神的認識しかない。意識の底に沈んでいるものを意識化し、自らの「Ich」のなかに、「Ich」の背後にキリストを見出す力を奮い起こさなければならない、かつて太陽の前にキリストが見出されたように・・

 この講義の最後にシュタイナーは、太陽霊キリストを魂的ー霊的に真の姿で観ることができたのは、古インド文化期のみで、ギリシアーラテン時代にはすでに黄昏だった、20世紀の今、私たちは黎明を感ずるべき時代に生きている、と言います、真の、人間の力によって獲得されたキリスト認識の黎明の時代です。

キリストが「私はこの地球の時の終わりまで(世の終わりまで)いつもあなたがたとともにある」(マタイ28ー20)と言った意味を理解する時代が到来しなければなりません。なぜならキリストは死者ではなく生きているからです。キリストは単に福音書を通してのみ語っているのではありません、キリストは霊の眼(Geistesauge)にも語りかけるのです、霊の眼が人間の存在の秘密に対して再び開かれるときに。キリストは来る日も来る日も存在し語り顕現しているのです。

 この点で、シュタイナーの言うような単なる(形骸化した)キリスト伝承ではなく「生きたキリスト」に基づく精神科学的キリスト認識にとっては、通常のカトリック、プロテスタント、東方教会、といった分類はあまり意味を持ちません。かつて言われなかったこと、まだ人々がキリストが告げることを理解できる状態になく、それに耐えられなかったために告げられなかったこと、精神科学においてはそれが語られるからです。シュタイナーは言います、光明を求める私たちの思考、感ずる私たちの心、全身で意志する私たちに対して 来る日も来る日も霊界からのキリストの啓示は語られている、と。つまりキリストはいつも「私たちのもとにいる」のです。


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