yucca 覚え書き

シュタイナーをめぐって 5

1999.2.24-1999.6.24


●エーテル状態の金属?

●人智学的臓器観へ

●心臓は自我の臓器

●赤い火星に白いスピカ、復活祭

●聖霊降臨祭、うつろわぬIchの祭

●キリストの光輝

●宇宙言語の協和音、天球の音楽

●花の色は・・

●夏至・聖ヨハネの祝日

●パラケルスス「聖ヨハネ草について」

 

 

 

エーテル状態の金属?


1999.2.24

 

 微量金属に関連して思うことを少しだけ・・。

 シュタイナーが「秘儀の歴史」(西川隆範訳 国書刊行会)で金属について説明していたことですが、金属は地中に含まれているだけではなく、非常に希薄な状態で人間の属する宇宙空間のなかに存在しており、一見金属がないようにみえるところでも金属は力を発していて、人間は肉体をとおしてではなく、エーテル体をとおしてその金属の力と接触している、つまり、鉛、水銀、錫、銀、金といった金属は、外的な検査では人体からは検出されないが、これらの金属は宇宙空間に非常に希薄に広がった状態で人間のエーテル体に作用しているというのです(177頁以下)。

 つまりエーテル状態の金属、と言っていいのか、地上の強度を持った金属に比べて生命的な金属、とでもいうのか、硬くていかにも物質的な金属にもそういう希薄な精妙な状態があり、そもそも金属の根源は宇宙である(それぞれが惑星に対応する)、いうのはとても印象的です。ホメオパシーの力動希釈、white birchさんおっしゃるタマフリ的希釈は、まさに金属の生命化、霊化、ともいえるのではないか、と思ったりします。それが人間の生命体ーエーテル体に作用する・・。金属に限らず、物質についてのシュタイナーの説明は、物質の霊的起源を解明するというものなので、感覚的には私のように科学常識のない人間のほうが受け容れやすいのかもしれません・・

 ともあれ、ホメオパシーというのは、悪人正機ならぬ毒物正機、のようなところがあって妙に親近感があったりします(^^;

 日比野さんのおっしゃるように、金属のこの生命化プロセスとも言うべきものが植物に見られる、というのは目からうろこです。農業と医学の深い関連をまたま実感させられます。 

>現在のところ、金属を活性化することが

>できるのは植物だけですね

>植物のもっている、このちからというのは

>いまだに解明されていませんね

 植物が金属を活性化している!シュタイナーの言う「植物に含まれる金属質のもの」というのが今ひとつぴんとこなかったのですが、なるほどです。

 ちょうど、「宇宙言語の協和音としての人間」第7講に、宇宙・惑星からやってきた諸力が植物を通じて地中にもたらされ、それを地の元素霊グノームたちが受け取って鉱石へと運んでいく、というくだりがあるのですが、まさに、植物は宇宙の秘密、生きた金属の秘密を地中へと伝えているわけですね・・。グノームだのウンディーネだの出てくると、現代科学からはますます無視されそうですが、表現、用語はともかく、自然界の神秘を謙虚に見つめる姿勢があれば、こういうシュタイナーの視点も単なるメルヘンとして片づけられるものではないと思うのですが、むつかしいところですね。

 

 

 

人智学的臓器観へ


1999.3.2

 臓器移植に関連して思うことを少し。

 新聞の地方版に市立病院の院長のエッセイが連載されていて、「心臓は筋肉の塊にすぎないが、脳は”こころ”を宿している端倪すべからざる臓器だ」という一文があったのですが、現在ごく一般的な「科学的」見解というのは、多かれ少なかれこういうものでしょう。人間の心的ー精神活動はすべて物質的臓器としての脳に還元され、「こころを宿している」脳はともかく、基本的に臓器は「あげたりもらったり」できる「もの」である・・。

 まだ詳しく調べてはおりませんが、少なくともアントロ医学的には、臓器は交換可能な部品のようなものではないのは確かです。そもそも物質として現れているものであってもすべては本来、目に見えない、計測不可能な力、作用に浸透されているというのがアントロサイエンスの基本ですから、人間の物質体ー肉体も、エーテル体(生命体)、アストラル体(魂体)、自我といった目に見えない力の組織に貫かれ、浸透されています。そもそも物質的に顕現しているものはすべて原因ではなく、結果であり、通常の感覚には筋肉の塊にしか見えない臓器も、目に見えない(通常の感覚には知覚できず、通常計測不可能な)働きの最終的な結果として、物質的素材を付与されて現れていると考えられるのです。シュタイナーの「精神科学と医学」にしてもこの立場から講義されていることはまちがいありません。

 シュタイナーの「オカルト生理学」での説明は、「体と意識をつなぐ四つの臓器」(ヴァルター・ホルツアッペル/石井・三浦・吉澤訳 耕文舎叢書)にも引用されていますが、それによると、

「目に見えない力の組織と目に見える臓器との関係は、物質世界の目に見える素材が目に見えない力の場に順応し、引き寄せられ、目に見えない力の流れのなかへ運び込まれるという関係である、と考えることができます。そのような力の場のなかに物質素材が運び込まれることによって、臓器は目に見える肉体的臓器となるのです。」

 精神科学ー人智学的に人間の死とは、肉体ー物質体からエーテル体、アストラル体、自我が切り離されることであり、眠りと死との違いはエーテル体が肉体から分離するかどうか、という点でしょう。脳死状態でまだ臓器は「使える」(!)状態、というのは、エーテル体ー生命体がまだ完全に分離しきっていない状態と考えられるのではないでしょうか。エーテル体が完全に分離すれば、残された肉体は文字通り亡骸であり、崩壊するばかりですが・・。エーテル体が完全に分離するまでにかかる時間は個人差があるようですが、死後すぐに埋葬したりしないのは、このエーテル体が完全に分離しないままの肉体に手荒なことをして、魂にショックを与えないための配慮が、通夜という形式となって残っているのではないかと思います。死んだあとの体、といっても完全にエーテル体の分離した臓器は使い物にならない以上、臓器そのものは半分生きた状態で提供しなければならない、ということは、移植が成功した場合ドナーと移植を受けたひとの少なくともエーテル体は共有されるのか、等々、私は人智学のお医者さんでないので、厳密なところはわかりませんが、ほかの治療は考えられない、臓器移植こそ医学の進歩、医学の未来に光、という短絡だけはやめてほしいです。なぜ観点を変えたり他の治療の可能性を模索したりせずにひとつの方向だけに集中するのか、もともと天邪鬼的なところが多い私にはほとんど理解不能ですが・・。

 シュタイナーも強調するように、生まれる前、生きている間、死後、このすべてを通して人間というものを精神科学的にとらえない限り、人間観としては不十分なのだと思います。提供者の「自己犠牲」の精神を貶めることはできないにしても、です。私も臓器提供に関してまず思い出したのがZUSHI さんがおっしゃった自ら火に飛び込んで友人の糧になったうさぎの話です。新聞に載っていた街頭インタビューを読んでもドナーの勇気に感動した、自分はまだ少し抵抗がある、あるいは、自分がドナーになることは抵抗がないが、自分の家族がドナーになる場合は同意できないかもしれない、といったものがほとんど。自己犠牲の精神に感動し、できれば自らもひとのために捧げられるものは捧げたい・・。供犠の気分自体は、この世万能主義、物質主義とは反対の思いから発しているとは思うのですが、もう少し人体観、生命観そのものが問い直され、深められる必要があると思うのです。(これには人智学的ー精神科学的なアプローチが不可欠なわけですが)

 医学的技術をはじめ、科学的技術だけが突出して進展して、世界観、人間観はばらばらに分断され、素朴な心情で「利他」に希望をつなぐにせよ、殺伐とした現世主義、唯物主義、となるにせよ、いずれにせよ、ほとんどの場合現状の医学、科学の「権威」に無力なまま、結果的に自然観、肉体観そのものは唯物論的なものにとどまるしかない・・。

 ドナーが足りない足りないと繰り返し、ドナーになるかどうか、という点ばかりが問題にされ、レシピエントになるかどうか、という点は無視されるのは、最初から臓器移植の件数を増やすための方向付けが行われているようで疑問です。

 専門分化がますますはなはだしくなり、自ら認識する可能性はなく、その都度の支配的傾向、「権威」に従うしかない、という「認識」に対する無力感とせっかちに結果だけを求める傾向が結びつく・・(-_-)こういうときは特にシュタイナーの次の言葉がずしんときます。

鷲のごとく大胆に

勇気をもって宇宙の謎を問え。

だが、答えを待つときは

落胆せず、子羊のごとき忍耐を持て。

「瞑想と祈りの言葉」(西川隆範編訳)より

 臓器は地中の金属を知覚している、という講義を今読んでいるところですが、人智学的な臓器観についてはもう少し調べてみたいと思います。

 

 

 

 

心臓は自我の臓器


1999.3.4

 

 前回触れた「体と意識をつなぐ四つの臓器」でも、心臓の章で、自我との関わりの問題を含む三つの問題が取り上げられていました(85頁以下)。

 まず拒絶反応の問題、さらに、取り除かれた元の臓器に見られたのと同じ病的変化が、移植された健康な臓器にも現れることが少なくない、つまり臓器の病的変化の再発という問題、そして、移植心臓を持つ人々に現れる人格変化の問題、つまり心臓の移植後に見いだされる固有の自我の欠損という問題です。以上の問題はそれぞれ、エーテル体、アストラル体、自我に関わるということですね・・。

 「人格変化が生じるのは心臓移植の場合に限られており、他の臓器移植の場合には生じないことからも分かるように、心臓は自我の臓器なのです。」

 

  

臓器とエレメント、客観的同情など


1999.3.4

 

 肉体の原因としてエーテル体を、エーテル体の原因としてアストラル体をとらえる・・この「上位にある人間の構成要素はつねに、すぐその下にある人間構成要素に働きかける」という原則ですが、ちょうど読んでいた「体と意識をつなぐ4つの臓器」にこの原則は、治療教育を含む教育一般だけでなく、親と子の関係、医師や看護婦の患者に対する関わり、ひいては人間関係全般に有効である、という興味深い箇所がありました。またまた受け売りになりますが;^_^)

 ご存じ人間の四つの構成要素、物質体(肉体)、エーテル体、アストラル体、自我はそれぞれ四つのエレメント(四大元素、地、水、風、火)に対応していますが、これはつまり、人体組織の物質的プロセスは地(土)エレメントのなかで生じ、エーテル体は水エレメントのなかで、アストラル体は空気あるいは風エレメントのなかで、自我は熱(火)エレメントのなかで働くということ、そしてこの四つの構成要素とエレメントとの共働が、各臓器にそれぞれ異なるアクセント(強勢)をもたらす、とされます。4つの主要臓器では、肝臓では水エレメント、肺では土エレメント、腎臓では空気エレメント、そして心臓では火のエレメントが優勢となっている・・。

 たとえば肝臓で水エレメントが優勢ということは、肝臓はエーテル的形成力の根本的な基礎であり、また肝臓は代謝のための主要臓器なので、代謝のよりどころである「意志」の臓器と言える・・つまり肝臓の(水のように)流れるプロセスに停滞が生じると、意志も手足の動作も停滞していく・・。

 それで、上の原則にしたがって、こういう肝プロセスに起因する障害への治療手段は、(肝臓はエーテル体と関連しているので)アストラル体からエーテル体へと働きかけるべきである・・。

 たとえば両親や教育者たちが自分のアストラル体によって子どものエーテル体に治療的に働きかけることが有効ということになります。アストラル体をエーテル体に向ける、つまり生命プロセスに介入するために望ましい心的状態というのは、「客観的同情」だとされます。これはシュタイナーの「治療教育講座」に基づいてこう説明されています。 

 それはどのような同情でしょうか?客観的な同情です。心を乱すことも感傷的になることもなく、主観的な共感や反感でもない、深い理解に根ざした客観的同情です。感情的な領域にとどまっている主観的な同情は感傷でしか ありません。それは何の役にも立ちません。それどころか一種の侮蔑さえ含んでいます。だからこそそのような同情は、障害を持つ人々から拒絶されるのです。「同情なんかしないでほしい!」と。ーー人間学的理解に基づいている客観的同情は、教育者の内に、ある心的状態を生み出します。看護されている人々へと流れ込んで治癒的作用する、心的状態を生み出します。 

 人間学的理解に基づく治療行為の作用を直接的に体験することは、確かに容易なことではありません。しかしいまだ深い理解に到っていない場合で あっても、治療に向けられた心的努力が誠実なものであれば、それはそれだけですでに、そのような直接的作用を生じさせ得るのだと思える出来事に必ずや出会わせてくれるはずです。[…]

(「体と意識をつなぐ四つの臓器」31ー32頁)

 本書は主に人智学的治療教育を学ぶ人を対象としているので「教育者」がよく出てきますが、これはたしかに人間関係全般に適用できることでしょう。

 世の中、感傷的主観的同情と無責任な好奇心に満ちとるなあとつくづく思ったりしますが、私などはものごころついてから、主観的同情へのアンチが強いくせに(理解なしのただただ「かわいそう・・」には猛反発してました)客観的同情があるとも言い難い困った人間ですが、努力だけは誠実にしていきたいと思ってます。(なんだか政治家のセリフみたいですねえ^^;)

 

(中略)

 

 物質そのもののことをもっとも理解していないのが唯物論だ、という認識が浸透しない限り、あらゆるところに矛盾ばかりが累積していくでしょうね。とはいえ、行為への心的努力がほんとうに誠実なものであれば、必ずやその直接的作用を感じさせてくれるような出来事に導いてくれるだろう、というのは希望の灯ともいえる言葉ですよね。未来への謙虚さとともに勇気を与えられます・・

 

 

赤い火星に白いスピカ、復活祭


1999.4.1

 

 このところ、日没後の東の空にまず目立つのがアルクトゥールス、次いで、南寄りの乙女座スピカの近くに火星が昇ってきますが、(反対側の西の空では宵の明星金星がプレアデス星団の近くで輝いてます・・)夕べはほぼ満月、空は少し霞んでいるようなのに月の光はやはり強く、スピカの白い光はあまり目立たなかったようです。でも古えより軍神マルスと呼ばれる火星の赤い輝きと白い乙女さながらのスピカが並んでいるのはとても印象的です。

 いろいろときな臭いできごとの多い今日この頃、「軍神」はありがたくないですね。高村光太郎に、どの節も「火星が出ている」で始まるちょっと理屈っぽい詩があったのを思い出したりします。

 復活祭も近いことだし、あらためてキリスト衝動のことを考えさせられます。神秘学的には、キリストは生きている間に肉体を完全に霊化できたので、その霊化した体(ファントム)により死後復活できたのだと言います。化学薬品を飲みすぎると逆ファントムというのか、マイナスのファントムというのか、そういうものが体内に形成されてしまう、といった意味のことをシュタイナーは講演のどれかで言ってたようですが、コワイ話です・・「薔薇十字会の神智学」では、人間は遠い未来、心臓を手足のように随意に動かすことができるようになるだろう、だから心臓の筋肉は現在も随意筋(横紋筋)なのだ、とも言われています。アストラル体の支配もままならないのに、気の遠くなるような話ですが、人間の自我が完全に霊化されるとき、自我が完全にキリスト意識に貫かれるとき(?)自我の物質的顕れである血液も霊化され、自我の臓器心臓も変容するのでしょう・・と、だんだんとほうもない話になってきました(^^;

 

聖霊降臨祭、うつろわぬIchの祭


1999.5.15

 

 今年の聖霊降臨祭[Pfingsten](復活祭の祝日後の第七日曜日)は5月23日となるようです。 

「使徒行伝」2・1−21 

 五十日が満ちたとき、彼らは共同の敬虔のうちに聖霊降臨祭のはじまりを待ち受けた。そのとき、突然、霊の高みから力強い風の突進のような音が響き、彼らが集まっていた家全体を満たした。そして、彼らが見ていると、炎のような舌が現れ、それは分散して、彼らひとりひとりの上に静止した。そして、彼らはみな聖霊に満たされ、見知らぬ国語で話し始めた。霊が吹き込んだことを、おのおのは話した。 […]

(*エミール・ボックら人智学者によるドイツ語訳からの西川隆範さんによる訳)               

 いわばみなが「聖霊イタコ」(?)となったわけですね・・(^^;)

 また、シュタイナーの1969年ベルリンでの連続講演のなかに「聖霊降臨祭、うつろわぬ自我の徴(しるし)」[Das Pfingstfest, ein Merkzeichen fuer die Unvergaenglichkeitunseres Ich](GA169 "Weltwesen und Ichheit" の第1講 1969年6月6日)と題されたものがあるのですが、この講義では、三つの重要な祭、降誕祭(クリスマス)、復活祭、聖霊降臨祭の持つ意味はそれぞれ非常に異なっている、としてそれぞれの違いが説明されています。クリスマスはいわば人間のエーテル体と、復活祭はアストラル体と、聖霊降臨祭は自我と関係しているというのです。

 三つの祭に関する内容はざっと以下のようなものです。

人間のエーテル体は、地球のエレメント(四大元素)的自然と結びついています。睡眠中、人間の自我とアストラル体は霊的世界に帰りますが、エーテル体は霊的なものとして物質体に結びついたままです(これによって生命が維持されます)。

クリスマスの頃、冬の外的自然は凍り付き、眠っているように見えますが、地球(大地)の霊はこの時期にこそ目覚め、活発になります。大地が冬の氷に覆われているとき、地中ではエレメント的なものが生き生きと活動します、このエレメント的、自然元素的なものは、人間のエーテル体と密接に関係しているのです。人間は自らのエーテル体を通じて自然のエレメント的なものと関わりを持つことができるのです。

ですからクリスマスは何よりもまして、人間がエーテル体を有している、ということを思い起こさせる祭です・・。

ナザレのイエス誕生を祝うクリスマスは、いわばきわめて民衆的で、子どもにも、子どものように素朴な心の人々にも親しみやすい感情世界と結びついています、クリスマスにはとても好もしいもの、きわめて一般的に人のこころに語りかけてくるものがあるのです。

人間はまたアストラル体を持っています。アストラル的なものは霊的なものですが、物質的に死をもたらすものです。人間は生きている間にアストラル体を形成することにより、つまりそのなかに霊的なものを受け入れざるを得ないことにより、自らのうちに死の萌芽を取り込んでいるのです。死と生は外的にのみ関わり合っているのではなく、きわめて内的に関わり合っているのです。

人間はアストラル的なものにより、眠りに入るたびに物質体から離れ、霊界へと赴きます、ナザレのイエスを通じて自ら死を経験したあの霊的ー神的存在が降ってきた霊界へと赴くのです。

復活祭を通して、何か限りなく崇高なもの、何か途方もなく大いなるものが、魂を貫いていくように感じられます。神的な存在が降って人間の肉体に宿り、死を通過していった、という大いなる理念へと導かれるのです。死の謎、そして死のさなかにあって魂の永遠の生が護られている、といった崇高な事柄が魂に浮かんできます。復活祭は人間のアストラル的本性すべてと関わっているのです・・。

私たちはエーテル体とアストラル体のほかに、霊的なものとして自我[Ich]を有しています。自我は私たちを個的な[individuell]本質をもたらすものです。自我は数々の受肉を経ていきます、私たちは自我のなかで、新しい受肉の準備のためにその都度死から新たに甦ります。

私たちのエーテル体がある意味で、自然のエレメント的な力と結びつく誕生に関わるものを体現し、アストラル体が高次の霊的なものと関わる、死をもたらすものを象徴するとすれば、私たちの自我は、霊的なもののなかでの私たちの絶えざる甦り、霊的なもののなかでの再生、自然でもなく、星界でもない、すべてを貫くものである全体的霊界のなかでの再生を現しているのです。

クリスマスをエーテル体と、復活祭をアストラル体と関係づけることができるように、聖霊降臨祭を自我と関係づけることができます。聖霊降臨祭は、私たちに私たちの自我のうつろわぬことを示す祭です、私たちの自我のうつろわぬ世界の徴(しるし)であると同時に、私たち人間は単に一般的な自然生のなかで生きていくのみならず、単に死を通過していくのみならず、私たち人間は不死の、繰り返し復活する個的な存在である、ということの徴である祭なのです。

クリスマスは地球の出来事と直接関係しています、つまり冬至、地球が最も深い闇に覆われる時期と直接結びついています。私たちはいわばクリスマスとともに地球の法則性に従います、夜が最も長く、昼が最も短くなるとき、ひとは自分の中にひきこもり、地中に生きている霊的なものを求めます。クリスマスはいわば地球の霊と結び付けられた祭なのです。私たちは地球人として地球に属していること、地球の子らとともに自らも地球の子となるために、霊が高みから降って地上的な姿をとらねばならなかったこと、クリスマスとともにこのことが繰り返し思い起こされます。

復活祭は太陽と月の関係に結びついています、復活祭は、3月21日(春分)に続く満月後の最初の日曜日、つまり月に対する太陽の位置関係から定められるのです。このように、クリスマスは地球的なものに、復活祭は宇宙的なものに結び付けられています。いわば、クリスマスには地の最も聖なるものが、復活祭には天の最も聖なるものが思い起こされるのです。

聖霊降臨祭に結びつくのはさらに星々の上にあるものです。それは遍く霊的な宇宙の火です、ひとつひとつに分かれ、火の舌となって使徒たちの上に降った宇宙の火、単に天的でもなければ単に地上的でもなく、宇宙的でもなければ単に地球的でもない火、すべてを貫く火、しかも同時にひとつひとつに分かれ、人間ひとりひとりのところに行く火なのです!

聖霊降臨祭は宇宙全体に結びついています、クリスマスが地球に、復活祭が星界に結びついているように、聖霊降臨祭は人間に、全宇宙からの霊的生命の火花を受け取る人間に直接結びついているのです。私たちは、神人が地上に降ることで全人類にもたらされたものが、聖霊降臨祭の火の舌となってひとりひとりの人間にに準備されているのを見ます。人間、世界、星々のうちにあるものが火の舌に現れているのを見ます。

霊的(精神的)なものを探求するひとにとって、聖霊降臨祭はこのようにとりわけ深い内容を持っています、繰り返し新たに霊的なものを探求するよう促す内容です。

霊的(精神的)世界を自らのうちで燃え上がらせ、いわば聖霊降臨祭を真に内的に祝い、これを内的に真摯にうけいれようとする良き意志があれば、私たちは唯物主義を超えていくでしょう・・ 

 日本ではあまり聖霊降臨祭については知られていないようですが、炎のような「火の舌」となって、降臨する聖霊、復活し変容したルシファーとも言われる聖霊のことも印象深く、来週の聖霊降臨祭を味わってみたいと思っています。

 

 

キリストの光輝


1999.5.17

 

 shining ones・・・。「エーテル界へのキリストの出現」というのを思い出します・・。

キリスト教徒たちを迫害していたサウロ(パウロ)にダマスクスで出現したキリストの光輝・・その前段階として、バガヴァッド・ギーターのクリシュナとして現れたとも言います。かつてのヘブライの秘儀をはじめ、数々の古代の秘儀の叡智に通暁していたサウロは、キリスト存在は宇宙にのみ在るのであって、地上にはいない、と確信していて、なぜ至高の神的存在がわざわざ地上の肉体にくだり、十字架にかけられて恥辱的な死を体験しなければならないのか、それまではわからなかったといいます。イエスなんて哀れな男にすぎない、メシアとはふとどきな・・「お前がメシアなら今すぐその十字架から降りてみよ」と嘲ったひとびとに近い心境だったと言えるのかもしれません。

 ダマスクスでの体験で、サウロはイエスが誰だったのか悟ったといいます、地球のオーラのなかで光輝くキリスト存在を観て、至高の太陽存在が地上にくだったことがわかった、と。       キリストは霊的な火、(感覚的な火ではなく)霊化された火のなかに出現すると言います、キリストの光輝とは霊化された火、火の舌=聖霊・・?

 パウロの回心とは、叡智のみではなく「宇宙的な至上の愛の行為」の意味を悟った、とも言えるのではないかと思います。サウロからパウロへ、叡智の宇宙から愛の宇宙へ・・

 現在でもエーテル的視力を持ち始めたひとは、地球に結びついているキリストを観る可能性がある、と言われます。

 ただそのとき外的な教義による強制などはもちろん無意味で、自由な意志・認識からキリストに結びつこうとすること、が肝心のようです。

 

 

宇宙言語の協和音、天球の音楽


1999.6.2

 

 「神秘学(オカルト)の記号と象徴」(GA101)第1講にちょうど天球の音楽のことがありました。人間が超感覚的認識において進歩すると、明澄な、光輝に満たされた空間、叡智の顕現である空間を内的に観るだけでなく、宇宙空間にみなぎる天球の音楽を聞き取ることを学ぶと言います。

 「まさしく空間が鳴り響くのですが、これは物質的な音ではありません、これは霊的な音、空気中では生きるのではなく、ずっと高次の精妙な実質、アーカーシャ実質の中に生きる音なのです。空間は絶え間なくこのような音楽に満たされています、そしてこの天球の中にある種の基調音があるのです。」

 さらに、

太陽はある霊的な中心点の回りを運動しており、従って諸惑星の軌道は太陽の軌道を軸とする螺旋を描く、各惑星がその軌道を運行する速度は、お互いに全く一定の調和した比例関係にあり、この音響としての比例関係が聞く者にとって、ひとつのシンフォニーへと構成される、これがピタゴラス学徒によって天球の音楽とみなされていた・・。この共鳴、この音楽は、宇宙的な出来事の模像であり、頭をひねって考案されたものではない・・。各惑星の速度は、次のような関係になっているそうです;  

土星の速度=木星の速度の2・5倍

木星の速度=火星の速度の5倍

火星の速度=太陽、水星、金星の速度の2倍

太陽の速度=月の速度の12倍

 こうした天体の運動が、霊的な耳に天球の音楽として聴き取られ、さらに、諸惑星のそれぞれ異なる運動速度の比例関係により、宇宙空間全体に響きわたる天球のハーモニーの基調音が生じる・・。

 電波望遠鏡で変換された宇宙の音楽にも、こうした天球の音楽の軌跡が刻印されているのでしょうね。

 

花の色は・・


1999.6.4

 

 植物の葉の緑色は、他の惑星の働きを受けていない太陽それ自身の宇宙的力の作用によるもので、赤い花には火星、白と黄色の花には木星、青い花には土星の働きが(太陽の力に加えて)関与しているといいます。本来宇宙的な要素は根のなかにあり、花のなかにあるのはほとんど地球的な要素であって、ただ花の色の非常に微細な濃淡のなかにのみ、宇宙的な要素が含まれているというのです。つまり、根と花の色は、それに含まれる宇宙的要素、惑星的要素によって深い関わりがあるということになります。

 太陽の花、向日葵も色からすると木星の花、だそうです。

 「四大元素霊」とかの用語はとうてい現代科学には受け入れられないものでしょうけれど、「宇宙言語の協和音としての人間」の説明と考え合わせると、惑星ー根ー花の色は土の(地)の精グノームと関係しているようですね。惑星と金属の対応も、「秘儀の歴史」などによると地中の金属の故郷は惑星領域であるということですから、植物の秘密はますます深まるようです・・。

 精神科学ー人智学的探求の気の遠くなるような深さ、と同時に広さは、人間のいわゆる内的世界(魂・精神)の探求と外的自然の根底にある精神的霊的作用、自然の秘密の探求、という両面があって、両方が生き生きと(裏返ったりしながら(^^;)統合されて、壮大な人間ー宇宙論につながっていくところなのでしょう、とつくづく感じる今日この頃です・・

 

 

夏至・聖ヨハネの祝日


1999.6.3

 

 6月24日は聖ヨハネの祝日[Johannni]で、もともと夏至と重なっていたようです。聖ヨハネは、ヨハネ福音書のヨハネではなく、ヨルダン川でイエスに洗礼を施した洗礼者ヨハネ(バプテスマのヨハネ)のほうです。洗礼者ヨハネをめぐる覚え書きなど少し・・。

 シュタイナーによれば、この洗礼によってイエスにキリスト存在(太陽神霊)が降り、ゴルゴタの秘蹟までの3年間、キリスト・イエスとして活動します。

 ヨハネはラクダの毛でできた衣を着て、皮の帯を腰にしめていた。かたい果実と野生の蜂蜜が彼の食物であった。そして、彼は「私のあとに、私よりも力強い者が来る。私は彼の前に身をかがめて、靴の紐を解くにも足らない。私はおまえたちに水で洗礼をした。彼は、しかし、聖霊と火でおまえたちを洗礼するであろう」といった。

 そのころ、つぎのようなことが起こった。イエスがガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川で、ヨハネから洗礼を受けた。イエスが水から上がるとき、突然、天空が裂け、霊が鳩の姿で下ったのを彼は見た。そして、天から声が響いた。「おまえは私の愛する子である。おまえのなかに私は私を開示しよう」

(マルコ福音書第一章)

 洗礼者ヨハネの殉教については、「マタイ伝」14章と「マルコ伝」6章にあります:

ガリラヤのヘロデ王は異母兄の妻ヘロデアを後妻に迎え、それを非難したヨハネを獄につなぎます。王の誕生日の祝宴の席で、王妃ヘロデアの娘は踊りを舞い、王から何なりと褒美を与えると言われ、母にそそのかされるままに「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せていただきとうございます」と所望します。客の手前拒否できなかった王の命令で、衛兵は牢のなかでヨハネの首をはね、盆に載せて持ってきます・・。

 このヘロデアーサロメ母娘と洗礼者ヨハネの題材は、マラルメの詩やモローの絵画、オスカー・ワイルドの戯曲、(ワイルドの戯曲に基づいた)R・シュトラウスの楽劇、などなど、前世紀末にずいぶん人気があったようですが、それはともかく、シュタイナーによれば、預言者エリヤー洗礼者ヨハネーラファエローノヴァーリス、という転生が確認されると言います。(マルコ福音書には「彼(ヨハネ)はエリヤだ」と言う人もいれば・・」という記述があります)

 後に来るものを用意するという使命を持っていたヘブライ民族の預言者エリヤ、次いでキリスト衝動の理解を準備するために洗礼者ヨハネとして生まれ、そして、キリスト衝動として全時代にわたって作用すべきものとギリシア精神とを絵画のなかで結びつけるために、ルネサンスの画家ラファエロとして生まれ、そしてまたノヴァーリスとして受肉した・・。

ノヴァーリスのなかには、現在、精神科学=霊学を通して与えられるものがすべて独特な形で生きていました。アストラル体のエーテル体と肉体に対する関係、目覚めと眠りについて、精神科学以外には、ラファエロの再生たるノヴァーリスほど適切な表現を与えた者はいません。

(「世界史の秘密」水声社P.128)

 聖母子像には、よく洗礼者ヨハネも牧童の姿で登場しますが、ラファエロの絵画にも、洗礼者ヨハネがよく描かれています。牧童の姿もあり、青年の姿(美形(^o^)!)もあり・・KAZEがよく紹介している中井章子さんの『ノヴァーリスと自然神秘思想』ですが、この「観相学」の章で、中井さん自身が、観相学者ラファターが描写する画家ラファエロの肖像と、ノヴァーリスの肖像がよく似ていて驚かされる、と書かれていました。

 やはりノヴァーリスの研究者で『鏡の中のロマン主義』の著者今泉文子さんが、以前朝日新聞に連載されていたエッセイで、ドイツに住んでいたころ、ある昼下がり、ちょうどモロー描く"L'Apparition"(円光を放って空中に浮かぶヨハネの首を見て驚愕するサロメが描かれている)そのままに、かのひと(ノヴァーリス)の顔が浮かび上がるヴィジョンを観た、といったことを書かれていた(ちょっと記憶があやふやですが)のですが、なんだかいろいろなところで、ヨハネーラファエローノヴァーリスの組み合わせが出てきて不思議でした。

 セントジョンズワート(西洋オトギリソウ Hypericum)といえば文字通り「聖ヨハネの草」ですが、ちょうど今頃の夏至の時期に開花し、切り傷や打ち身に用いられた、というのも象徴的です。洗礼者ヨハネを追うスパイが、ヨハネのいる宿に捕吏の目印のためにこの花を挿したところ、奇跡がおきて各家の窓々にこの花が咲いて追手の目をくらましたという伝説があるそうです。

 NHKライブラリー『漢方・生薬の謎をさぐる』(難波恒雄)などによりますと、日本原産のオトギリソウも民間の傷薬として有名で、名前の由来として、鷹飼いの兄弟がいて、鷹傷にとても良い薬草のことを、兄は秘密にしていたのに弟がライバルの鷹匠にその秘密をもらしてしまい、怒った兄が弟を切り殺した、そのために弟切草と呼ばれた、という伝説があり、なんだか東西ともに流血のイメージですが、実際この草の黄色い花を押しつぶすと、赤い蛍光色を放ち、赤い血の色に変わるそうです。

 

 

パラケルスス「聖ヨハネ草について」


1999.6.24

 

 聖ヨハネの日の今日は朝からすごいどしゃ降りで、まさに「水の洗礼」の日(!?)冬至=イエス生誕と夏至=洗礼者ヨハネ生誕の対のことなど、あらためて考えさせられます。

 きのうのメイルで聖ヨハネ草=西洋オトギリソウのことを少し書きましたが、教文社「キリスト教神秘主義著作集」のうち、パラケルススの入っている第16巻(近代の自然神秘思想)、パラケルスス「聖ヨハネ草について」(岡部雄三訳)から少しご紹介します・・。この「聖ヨハネ草について」は、初期の代表作『自然の事物について』と『本草学』からの抄訳だということです。

 まず「聖ヨハネ草」に付けられた註によれば、

学名ヒュペリクム・ペルフォラートゥム[Hypericum perforatum]、山野に自生する多年草で、葉は単葉対生、夏から秋にかけて五弁の黄色い可憐な花を咲かせ、茎の高さはほぼ一メートルに達する。聖ヨハネの名が冠せられているのは、イエス・キリストより半年早く生まれた洗礼者ヨハネの生誕日を祝う聖ヨハネ祭、つまりは夏至の祭り(六月二四日)で重要な役割を担う野草のひとつだからである。また、パラケルススが用いる「ペルフォラータ」というラテン語名は、字義的には「孔のあいた」という意味であり、葉面上に数多く分布する細かい透明な油点(日本に自生する種は黒色を呈する場合が多い)が孔に見えるところから付けられたものである。この薬草がもつ悪霊除けの効能を恐れた悪魔が悔しまぎれに針で開けた穴の跡、とい伝承がアルプスやチロル地方に残っている。また、葉上の油点や根にある赤い点は、洗礼者ヨハネ斬首の際の血しぶきとも、十字架上のキリストの血の滴りの跡とも伝承されている。(中略)

パラケルススは以上のような医薬の伝統と民間伝承をふまえつつもこれに関する言及を一切控え、彼独自の自然研究から得た知識を傾けて聖ヨハネ草の特徴と薬効について詳述する。彼にとって、医者として自然を研究し万象のなかに宿る神秘的エネルギーを発見し、これを有効に利用することは、神の創造の秘密を明らかにする行為であるにとどまらず、宇宙の再創造、神の国建設に直結する信仰上の営為にほかならなかったのである。

 本文から少し抜き書きします:(ペルフォラータ、ヒュペリコンはすべて「ヨハネ草」のこと)

これまでも折にふれて述べてきたことではあるが、万物の中に潜んでいるのは何か、神によって万物の中に隠し置かれたのは何かをシグナトゥム[つまり、万象の外形に刻まれている「しるし」]を手掛かりに見抜いていき、人間のために役立てていかなければならない。ペルフォラータにおいても、そのシグナトゥムを読み解くことが不可欠なのである。つまり、葉にある細かい孔、葉と花の形、葉柄、さらには葉脈をも読み取っていかなければならない。これらに関し、説明を加えておこう。葉上に見える穴に似た細かい孔は、身体の内側外側を問わず皮膚の孔口すべてに対しこの薬草が効くことを示しているまた、穴から外に排泄されるべきもの、つまり開口部からの排泄にかかわるすべての病気に対しても薬効があることを示している。

また、この草の花は、腐敗すると血のようになる。これはペルフォラータが創傷および創傷によって生じる病状すべてに効力がある、というしるしである。また、肉芽増殖を抑えるときにこの薬草を用いるべし、というしるしにもなっている。さらに、葉脈は、人間が内に抱くさまざまな妄想や人間のまわりをうろつく幽霊を追い払うのにペルフォラータが効くというしるしになっている。妄想によってスペクトラ[星辰の身体が死後一時的に出現した姿]が生まれ、そのために幽霊やお化けが見えたり幻聴が聞こえたりするのである。これらはすべて自然に起因する現象である。人間を自殺に駆り立てたり、正気を失わせ、狂乱と狂気に陥らせる類の病気が、それである。しかし、この草全体は、今述べたような病気が人間のなかに元来まったく存在しない、ということを示している。また、たとえ何かが身体にとりついたにしても、ヨハネ草がこれを追い払ってくれるのである。まさに、全人類に役立つ万能薬といえる。このような薬効以外にも、この草の味を虫がひどく嫌うため、この草が置いてある所には害虫が寄り付かないという効能がある。(中略)

 また、ペルフォラータは創傷によく効く薬草であるが、それにはこの薬草をそのまま用いるのではなく、これに適切な調合を加えなくてはならない。これについては後述する。外科医として心得ておいていただきたいのだが、調合によってこれほど創傷に劇的効果をあらわすものはドイツ国内はもとより他の国々でもこの薬草をおいて存在しない。その薬効がどれほど大きく、またどの程度まで使用されうるのか、とても筆だけでは伝えられない。事実、どのような処方であれ、副作用や合併症を併発させずにこのように完璧に創傷をなおす薬はペルフォラータあるのみである。創傷にこれ以上効果的な薬を見つけることは、世界広しといえども不可能であろうし、実際今日まで発見されていない。ヒュペリコンと比べれば、創傷治療を論じた書物など、すべて取るに足りない。その効能たるや、どのような薬剤師や医者の顔色をもなからしめるものがあるからである。医者たちは心ゆくまで自分の腕を吹聴しておればよい。そんなものは、がまの油売りの呼び込みの芸にも達しないのである。しかし、ペルフォラータの中にこそ、医薬の礎石が秘められている。適切な処方さえ加えれば、どのような自然のバルサムにも引けを取らない鎮痛作用をペルフォラータに付加することができる。本来ペルフォラータには自然のバルサムはないのだが、調合によって後述する処方が示すような効力を発揮するまでになるのである。医術を志す者は、各自このことを肝に命じて認識しておいていただきたい。またこの点に関し充分伝授を受けておいていただきたい。この章で述べたことは、ガレノス学派やアヴィケンナ学派、その他なまくらな医者が教える外科医術よりはるかに有益であることにまちがいないのである。

 先に述べた妄想症にペルフォラータを用いようとするならば、星辰の運行に合わせてこの草を採取していく必要がある。天体もまた、妄想の邪霊を追い払う力を振るえるようになるためである。つまり、天体の中でこれに対し最も影響力がある惑星は火星、木星、金星であり、月に関してはそれが天にかかっているあいだはふさわしくなく、月が顔を出す前がよい。午後や夕方は問題外であって、日の出時や夜明け前、つまり朝の曙光ないし暁暗のときがよい。また、他の美しい花のそばかそれらにたち混じって生えているペルフォラータが最良である。草の丈が高ければ高いほど良質であり、花の房が多ければ多いほど上物である。満開時に採取すること。(中略)実に、神は、どのような病気であれ、これを治療する薬を創造しておかれているのである。それぞれの病気にふさわしい薬を発見していかなければならないのであるから、医者たる者、ひたすら学び、求め、知識を獲得していく道をのみ歩むべし。

 ところどころに「パラケルスス節」が見えていますね(^^;)

 パラケルスス、ニーチェ、ユング、三者ともにスイスのバーゼルにゆかりが深い、というのもおもしろいと思いました。

 ちなみにこの『キリスト教神秘主義著作集第16巻 近代の自然神秘思想』の内容は以下のようなものです。

 

パラケルスス

 聖ヨハネ草について/磁石の力について/魔術について/神と人の合一について

                         岡部雄三訳

ヘルモント

 医術の日の出                  中井章子訳 

アンドレーエ

 科学の婚礼                   中井章子訳             

エーティンガー

 聖書とエンブレムの辞書             中井章子訳 

メスマー

 動物磁気発見のいきさつ/パリ科学アカデミーとの関係

                         本間邦雄訳 

エッカルツハウゼン

 自然の魔法の力                 中井章子訳

バーダー

 光の父としての稲妻               中井章子訳

シェリング 

 クララとの対話                 中井章子訳


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