yucca 覚え書き

シュタイナーをめぐって 6

1999.8.5-1999.9.20


●ゴルゴタの秘蹟の意味など

●ゴルゴタの秘蹟と皆既日食

●プレアデスの土星、生命的自然学など

●日月地の小宇宙としての心臓・脳・肺

●シュタイナー「女性問題」について:

「永遠に人間的なるもの、われらを高みに引きゆく」その1

「永遠に人間的なるもの、われらを高みに引きゆく」その2

 

 

ゴルゴタの秘蹟の意味など


1999.8.5

 

 神秘学的宇宙進化論の壮大な時空のなかで展開する、人間の歴史、そのなかで、キリスト存在がどういう意味を持つのか、そしてとりわけ、十字架上でのキリスト・イエスの死と復活、つまりゴルゴタの秘蹟についてのシュタイナーの講義からは、まさに愛と認識と力が伝わってくるようです。実にさまざまな角度から、途方もなく広汎で深いその意味について説明されます。とても、ここでコンパクトに要約することはできませんが、いずれによ、精神科学的宇宙進化論にとって、このゴルゴタの秘蹟、キリスト事件は気の遠くなるような歴史の流れのなかでただ一回の、全宇宙的に最大の意味を持つできごと、と位置づけられるのは確かです。

 そしてこのキリストの流れ、というか、このキリスト衝動の流れ、人類の精神的=霊的進化・育成にとって決して欠くことのできないとされるこの衝動の根本的、本質的意味に反するもの、逸脱させるものに対しては、イエスの魂は激しい怒り、熱い意志に貫かれた毅然とした拒否の姿勢として発せられたのではないでしょうか。imaiさんが、命を懸けても譲れない一線があるのでは、と書いていらっしゃいましたが、個人を超えた人類の代表、しかもまさに人間の魂と肉体に降った神的存在としてのキリストにとっての一線は、宇宙進化論上最大の意味を持つゴルゴタの秘蹟の成就を妨げるもの、キリスト衝動の本質的な意味をゆがめるものに対してひかれたのではないかと思います。

 ゴルゴタの秘蹟は、最大の自由からの最大の愛の供犠であったと言われます、人間となった神キリストは、人類に自らをひとつの理想として示したのでしょう。外からの強制でも、カルマによるものでもなく、最大限の自由からキリストの愛の行為・・人類の進化の過程で、古代の霊視的意識が消えて行くとともに、ひとりひとりの人間が自らの意識魂を発達させ、つまり意識的に世界のなかに身を置くことで「自由な人間的人格」を獲得していかなければならないとされますが、これと関連してシュタイナーは言います、人間はキリストの力を無意識的に自分に作用させるだけでなく、自己意識を備えた存在として、キリストの本質を、キリストと宇宙全体のつながりの意味を認識しなければなりません、そうすることによってのみ、人間が実際にひとりの私(自我)"Ich"として活動することが可能になるのです、と(GA107『精神科学的人間学』など)。どんなに美しい犠牲とされるものであれ、それが意識的な自由に根ざしていないなら、自由を与えられ、自己を意識するようになった人間にとっての理想とはならないのではないかと思うのです。

 「認識」の重視は、思弁的、「単なる知識」の集積と誤解されることもありますが、シュタイナーのひとつひとつの講義を味わっていると、認識行為そのものが芸術的であり得ること、ノヴァーリス的な「学そのもののポエジー化」が体現されているように思えることが多いです。もちろんシュタイナーの活動の成果、応用の結果を見れば、単なる抽象的思弁でないことは一目瞭然でしょうが・・。

 具体的にイエスの怒りについてシュタイナーが述べた部分を探そうとしたのですが、見つからず、ちょっと話がずれたかもしれません(^^;;)(去年あたり同じような部分を引用したような記憶もあります)

 シュタイナーのキリスト論は、精神科学的認識にとっては不可欠のものですが、とにかく途方もないもので、とても単純には捉えきれないのですが、これからもずっと注目していきたいと思っています。とりあえずこのへんで。

 

 

ゴルゴタの秘蹟と皆既日食


1999.8.9

 

 11日のヨーロッパを中心とする皆既日食の日が近づいてきました。ちょうどキリストのことが話題に上りましたが、ゴルゴタの秘蹟の成就の日、つまり十字架上でのキリストの死に際して、正午から3時ごろまで太陽が光を失い、全地が暗くなったとの記述がマタイ、マルコ、ルカ各福音書に見られます。

 ゲーテアヌム建築に携わった労働者たちのための講義集のひとつにも(GA353)、「キリストの死に際して、太陽が3時間暗くなったのはなぜですか」という質問があり、シュタイナーの答えは印象深いものでした。(血液は肉体における自我の顕れ、そして太陽ー心臓という対応も人智学ではよく指摘されることですが)太陽のなかに生きているものが血液に流れ込んでいるのだけれども、

 人間が死ぬとき、死の二ヶ月くらい前から、そのひとの血は生気を失い始める、キリストの死が近づくにつれて、外界の太陽が光を失っていく・・キリストの魂の無意識は自分の死にゆく時期としてこの日食の時を選んだ、という言い方もされていますが、まさに太陽神霊キリストの死と皆既日食という自然現象がみごとに一致していた、ということになります。

 11日の皆既日食、まさに21世紀の始まりを前にして、日月の重なりと他の星々でグランド・クロス、大いなる十字架が天空に形成される、というのはとても暗示的ですね。ゴルゴタの秘蹟や、キリスト衝動に思いを馳せるのにふさわしい時期という気がします。

 占星術的には今回のグランド・クロス、牡牛、獅子、蠍、水瓶の四つの不動宮にかかる十字で、黙示録のクロス、と呼ばれたりするようですが(ただ、占星術上の星座宮と天文学上の星座は一致していません)、黙示録の獣、といえば、シュタイナーの「エジプトの神話と伝説」などでは、アトランティス時代の人間の集合自我は四種類あり、それぞれ牡牛、獅子、鷲、人間と呼ばれていたそうです。

 アトランティス時代のエーテル的な四種の集合自我から、ずっと後になって旧約の時代、アブラハムの時代になると、民族的・部族的な集合自我となりますが、まだひとりひとりの人間に個的自我は浸透せず、個的自我はまだ集合自我から分離していなかったと言われます。預言者と言われる人々のみが、かなりの度合いまで個的自我を成熟させていたということです。キリスト・イエスの使命は、個別な自我に確かな自分を感じることができるような事柄を人々に提供することだったといいます。キリスト以降、人間は血の結びつきに基づいた集合魂・集合自我から独立して、個としての自我、自己意識を備えた人間となっていく可能性を得るわけです。

 集合自我から、個的自我へ、そして血族的な愛から、独立した自我による自由の衝動に貫かれた愛へ・・「ヨハネ福音書講義」(高橋巌訳 春秋社)の第4講はこの点からキリスト教の秘密が語られています。

ーー「キリストを見よ。その姿からあふれる力で、みずからを満たせ。彼のようになろうとせよ。彼の後に従おうとせよ。そうすれば、もはや掟を必要とはしないで、心の底から自由となった自我が善きこと、正しいことを行うであろう。」

キリストは自由の衝動の送り主なのです。ですから善きことが、掟のゆえにではなく、心の内に生きる愛の衝動となって、行われるようになるのです。

(「ヨハネ福音書講義」93〜94頁)

 太古の4つの集合自我を象徴する星座宮にかかる十字架、獅子宮に日食の日月を戴く十字架・・今回のグランド・クロス日食は、まさに自由と愛の衝動をひとりひとりに刻印づけようとしているようにも思われます。

 牡牛、獅子、鷲、人間の4つには、ルカ、マルコ、ヨハネ、マタイの4福音史家(エヴァンゲリスト)があてはめられたりもするようですが、これも興味深いですね。

 

 

プレアデスの土星、生命的自然学など


1999.8.22

 

 こちらでは朝夕ようやく少し涼しくなってきました・・大雨などで今年はいなくなってしまったのかと思ったツクツクボウシの合唱が、早朝の裏山から聞こえるようになり、ほっと一息です。

 このところ、宵の南の空では、火星が蠍座のアンタレス(アンチーアレス、火星に対抗するもの)に日一日と接近し、暗い紅の輝きを競っているようです。東隣にはきらびやかに広がる射手座、そして天頂には白鳥座、煌めく十字!

 夕べ、というか今朝方、よく晴れてとても見事な星空でした。3時前くらい、例によって東向きのヴェランダから眺めてましたら、ほぼ真上にひときわ大きな金色の木星、そして赤みがかった土星、白くぼわっとしたプレアデス星団、と下っていき、反対側からゆるやかに降りてくるペルセウス座の線につながる曲線が描かれ、プレアデスを中心とする綺麗な首飾りのようにも見えます・・。そのすぐ北には御者座、五角形の宝冠にきらきらと輝くカペラ、プレアデスの下には赤いアルデバラン・・。そしてこの時期、午前3時ともなると、もう東の地平線にはオリオン座が雄大に横たわって昇ってくるのですね・・。明け方にはシリウスにもお目にかかれるのでしょうけれど。

 このところ、シュタイナー晩年のいわゆるアルバイター講義集など拾い読みしていたのですが、その1924年5月の講義に、星に関する古代の叡智の話がありました。錬金術・占星術関係では、太陽ー金、月ー銀、水星ー水銀、金星ー銅、木星ー錫、土星ー鉛の対応はポピュラーですが、この講義でも、古代のバビロニアやアッシリアなどでは、各惑星と金属の関係、そして人体に対する影響がよく知られていて、それに基づいて治療がなされていたということが、現在の鉱物はかつて植物であり、その前は動物であった(!)という精神科学的進化論の観点から説明されています。

彼ら(古代のひとびと)は、土星がプレアデス星団と呼ばれる星座にある時期に、人間の頭がもっとも自由になるということを知っていました(GA353)

 現在、土星は見たところ、プレアデスにかなり近い位置にありますが、もっともプレアデスに近づくのはこの9月のようです・・

鉛の作用は人間を独立させ、自分のうちに生きる外界の感受に自我として対峙することを可能にします(「秘儀の歴史」180頁)

  また、太陽が獅子座にあるとき、太陽は心臓にもっとも強い影響を及ぼす、というのもありました。

 さらにGA353でのシュタイナーの説明によると:こういう太古の叡智は、キリスト教成立当時にはまだ南ヨーロッパに混乱したかたちとはいえ残っていたが、徐々に失われていった。ただ、ヨーロッパで太古の叡智が根絶やしにされた時期にも、その叡智の一部はビザンティン帝国のコンスタンティノープル(イスタンブール!)に羊皮紙の巻物のかたちで保管されていたが、それが帝国の滅亡後、持ち出されて再びヨーロッパにもたらされ、高値で売買された・・。

 パラケルススやヘルモントといったひとたちも、こういった巻物から得るところが大いにあった。けれども、コペルニクスのような地位と学識ある人物は、こんな巻物売りのようないかがわしい(^^;)人物には近づかなかった、その結果、古代の叡智は公に継承されることなく、現代の私たちが有しているような科学が成立した・・。

 惑星と金属に関わるこうした叡智はギリシアのエレウシスの秘儀と深く関連しているいようです。

{今日}物理学と化学においては、わたしたちは自然について、解剖学者と同じことをします。解剖学者は解剖室で死体を切り刻み、死体によって生体を規定します。同様に、私たちは、化学、物理学において、生きている自然を切断します。しかし、ギリシアの弟子には、それらとは別の自然学が教えられました。生命的な自然学です。その自然学では今日の鉛は鉛の死骸のように見られました。鉛が生きていた時代へと戻らねばなりません。そこでは、人間と宇宙との神秘的な関連、人間と周囲の地上に存在するものとの神秘的な関係が明らかになりました。

(「秘儀の歴史」186頁) 

 こういう生命的自然学で科学を貫くことが未来に向けて必至と思われます。生命的自然観・宇宙観に基づくアントロ的アストロロジー、アルケミー・・そして、太古の叡智を本能的にではなく、現代にふさわしいかたちで(現代の意識的・科学的精神を否定することなく)いわば「新たな革袋に」復活させる、という精神科学的試みの可能性に期待したいところです・・。生命化された自然学へ、そして、生命を吹き込まれた哲学へ・・。

 何だかごちゃごちゃ書きましたが、日蝕をともなうグランドクロスや、イスタンブールでの地震など、いろいろと示唆的なことばかりの今日この頃です・・

 

 

 

日月地の小宇宙としての心臓・脳・肺


1999.9.21

 

 「オカルト生理学を読む 第二講」で書かれていた心臓の大循環と小循環のことに関連して、「新しい建築様式への道」(上松祐二訳 相模書房)で言われていたことを思い出しましたので、少し。かなり記憶が薄れていますが、「新しい建築様式への道」はいわば、建築芸術のなかに、精神科学的に観た人体の秘密、宇宙的な原身体の生成の秘密を注ぎ込もうとする衝動について語られていたのではなかったか、と思ったりします・・ 

[topos:3924]

>シュタイナーは心臓から脳に行って心臓に戻ってくる経路を小循環、心臓から

>内臓に行って心臓の戻ってくるのを大循環として話を進めている。そしてそこでは

>二つの”消化”が為されていると説明している。一つは感覚器官・脳を通して知覚

>された内容・表象を消化して小循環へともたらす経路ともう一つは胃腸などから飲

>食物を吸収する栄養器官から消化されて大循環にもたらす経路とをあげている。

 第四講「真の美的形式法則」(1914年7月5日)では、太陽、月、地球という三つの天体の霊的な相互作用について語られ、これらの相互作用が心臓を中心とする人体内での循環に対応することが説明されています(訳書172頁以下)。

 上から月、地球、太陽が図示され、そして太陽を表す円を十字で四分割して、図式を助けに(^^)説明されていますが、こうして宇宙と人体との照応が語られていくプロセスは、読んでいてほんとうにわくわくします・・。

 ただ、こうした宇宙的相互作用は人体の循環にそのまま対応しているのではなく、「アーリマンとルチフェルと呼び慣わされているもの」がこれに加わり、これに圧迫し、無秩序をもたらしている、と言われているのも印象的でした。つまり、宇宙的なものが人体内に反映されている、アーリマンとルチフェルにより多少歪められたかたちではあるが・・ということのようです。とは言えここから、小宇宙しての人間が何であるかを大宇宙から読み取ることができる、とされています。

すなわち人間における心臓は太陽に対する小宇宙であり、肺臓は地球に対する、つまり諸力のこのヒエラルキアに対する小宇宙であり、そして脳は月に対する小宇宙であるということを。

 ただ、ここでは、左心室を出て肉体を貫流し、一方では脳に、他方では他の全身に流れ、静脈血として帰ってくるものが大循環、右心室を通り、肺を通り、いわゆる左心房に戻ってくるものが小循環と呼ばれているようですが。

 太陽・月・地球=日月地と日本神話の関係、藤井さんが書いて下さった三種の神器との関係など興味は尽きませんが、アーリマンとルチフェルが常にかかわってくるにせよ、本来、人体はまさに宇宙の神殿なのですね・・。

>さて、小循環、大循環からもたらされてものは血液において合流するのであるが、

>外界からと内界からの情報が風船の内側と外側で一つの緊張を生んでいる37ページ

>の図が面白い。シュタイナーはこれがそのまま”自我の図であるとしている。大循

>環に関わる臓器では脾臓が正しく評価されていないという。ここでは錬金術的惑星

>との対比がなされている。脾臓は土星に、肝臓は木星に、胆汁は火星に対応されて

>いるという。漢方などに見られる五行説でも類似のことが言われるが、ちょっと異

>なる。木火土金水は肝心脾肺腎の対比となっており、火は心臓に、水は腎臓に、金

>が肺臓に対応しており、第4講86ページの図とも異なっている。これはちょっと

>したら、西洋人と東洋人は霊的構造が違うということを聞いたことがあり、若干の

>差があるのかもしれないがどうであろうか。yuccaさんが肺は硬化と関係あると書い

>ておられたようであるが、気を吸うのは宇宙の”金”を吸うことで金属の堅さが出

>てくると考えるとつじつまが合いそうだが、浅はかな類推は慎むべきか。腎臓が水

>電解質のバランスを取ることから、腎が水と対応した方がいいようにも思うが、ど

>うでしょう。

 五行説の五行、木火土金水は、西洋でのいわゆる四大元素(エレメント)、地(土)・水・火・風(空気)、そういう元素的なものと対応するのではないかと何となく思ってたのですが(東洋では水・土的なものに対する感覚がより繊細なので、風がなくて金や木があるのではないか、とか)木ー木星、金ー金星、土ー土星・・といった惑星的なものとの対応も考えられるということでしょうか。

 

経絡でいう肝心脾肺腎はそのまま臓器としての肝臓、心臓などには対応しない、

とどこかで読んだのですが、

シュタイナーのいう臓器も霊視的事実(?)に基づく説明なので、

解剖学的説明とは一致しないところもあるのではないかと思います。

 シュタイナーでは、四つのエレメントとの対応では心臓ー火、肺ー土、肝臓ー水、腎臓ー空気、惑星との対応では、心臓ー太陽、肺ー地球、肝臓ー木星、腎臓ー金星、胆汁ー火星、脾臓ー土星、脳ー月ですが、上記の「新しい建築様式への道」だと、肺は地球、「オカルト生理学」だと、肺は水星、となっているようですね・・一対一対応していない、というのか、対応関係は複雑で観点が異なると、関係も異なってくるのか・・水星、対応する金属は水銀ですが、この水星=水銀(ヘルメス・メルクリウス)、惑星的のひとつでもあり、硫黄、水銀、塩、という三プロセスのうちの調停作用をするものでもあり、なかなかクセモノのようですね・・(^^;;)(占星術のマークでも、月と太陽と十字が組み合わされています・・)

 物質的臓器に、エーテル的なもの、アストラル的(惑星的)なもの、そしてそれらの相互作用が、さまざまな位相で、反映し、作用しているのでしょうけれど、そして、それを読み解いていくのが精神科学的ーオカルト生理学なのでしょうけれど、ほんとうに、この人体という神殿には、ありとあらゆる宇宙の謎が凝縮されているようですね・・

 

 

 シュタイナー「女性問題」について:

「永遠に人間的なるもの、われらを高みに引きゆく」その1


1999.9.20

 

 シュタイナーの神智学協会時代の公開講義のなかに、「女性問題」を扱ったものがあるのですが、

当時の状況との関連、ユング理論や、女性学との関連からもなかなか興味深いものではないかと思いますので、ご紹介します・・私自身は、もともと性差よりも個人差、で片づけてしまうところがありますし(^^;)だいたい予想したような結論とも言えるのですが、議論の展開、構成など、さすが、という感じがあります。この講義で扱われている内容は、精神科学的「両性の理解」の前提となるものなのでしょう。

 全集版GA54(文庫版TB683)から、1906年11月17日、ハンブルクでの講演です。

 佐々木さんが訳してくださった「魂の変容」でも扱われていましたが、(以前white birchさんもソロヴィヨフとの関連を指摘されていたようですが・・)この講義でも最後に、ゲーテの『ファウスト』、例の最終場面の「神秘の合唱」の詩句を引いて結ばれています。

 手元の中公文庫によると、 

なべて移ろいゆくものは

比喩にほかならず。

足らわざることも、

ここにて高き果実となりぬ。

名状しがたきもの、

ここにて成しとげられたり。

永遠の女性、

われらを高みに引きゆく

(手塚富雄訳)

 

 もう少し直訳的に意味をとりますと、

 

   移ろうものはすべて        Alles Vergaengliche

   比喩に過ぎない Ist nur ein Gleichnis;

   到達し得えぬことが Das Unzugaengliche

   ここにて起こり Hier wird's Ereignis;

   描き出し得ぬことが Das Unbeschreibliche

   ここに成し遂げられた Hier ist's getan;

   永遠に女性的なものが Das Ewig-Weibliche

   われらを高みに引き上げる Zieht uns hinan. 

 「永遠の女性」というのは原文では、Das Ewig-Weiblicheで、「女性 」Weib ではなく、「女性的なもの」といういくらか抽象性を持った表現になっています。

 さて、この「女性問題」という講義ですが、シュタイナーはまず、神智学=精神科学というのは、

実際的・現実的な人生に関わらない空中楼閣のようなものではありません、と強調して、「女性問題」のような、いわば非常にアクチュアルな日常的な問題に対しても積極的に関わっていく姿勢を打ち出しています。(当時、神智学というのは実際的なことには関わらない、とみなされ、その点を批判する立場、逆に称揚する立場両方があったようです)

 19世紀後半の傾向として、解剖学的ー生理学的観点から女性の劣等性を裏付けようとする試みがあり、それに基づいて、女性がたとえば医者などの知的な職業に就くことや、大学に入学することを拒否しようとした例などが紹介されます。

 これと関連して、女性が男性より能力的に劣っているのは、女性の脳は平均的に男性の脳より小さいからだとして、精神の大きさは脳の大きさによると主張した学者がいて、その学者の死後、彼の脳を調べると、平均的な女性の脳よりはるかに小さいことがわかり、精神の大きさは脳の大きさによるという自説を実証した;^_^)などとユーモラスに語られています。

 そして、これらの「理論」の誤りは、女性たちが、多大な努力のみならず包括的な能力によって、男性より不利な状況を克服し、実際にさまざまな職業(法律家、医師、文献学者など)を勝ち取るという「実践」によって証明された、と。

 ただ、こうした外的状況のみではなく、「女性問題」の本質をあらゆる方向から検討しなければならない、として、さらに話は進められます・・

 シュタイナーの若い頃からの友人にローザ・マイレーダー(作家、女性解放運動家)がいましたが、シュタイナーはここで、彼女のエッセイ『女性性批判』(1905)に基づき、いろいろな識者たちが、心理学的な側面から「女性の特徴」としていろいろ述べていることを紹介します。

 ロムブローソ(精神医学者)は女性の特質として、献身の情、依存心をあげ、ジョージ・イーグルトン(イギリスの女性作家)は、男性を大きな子どもとみなす支配欲、ウィルヒョウ(病理解剖学者)は、柔和さ、平静さ、ハヴェロック・エリスは、かんしゃくもち、自発性、無鉄砲、メビウス(生理学者)は保守性を、反対にヒッペルは革新性を女性の特質とする・・これらかなり一般的な見解に対して、ニーチェは、女は主に理知を持ち、男は感情と情熱を持つ(『人間的な、あまりに人間的な』)、と言う・・

 これらの「女性の特徴」は肯定的否定的いずれもさまざまで、しばしば矛盾し、確定し難い、としています。

 以上、自然研究的、心理学的な諸説がありますが、文化史的な観点からは、一般によく言われるような「男性は本来創造する者であり、女性はむしろ協力者、模倣する者である」ということは、必ずしもあてはまらないということが語られます・・女性が男性的な活動をしていた時代があったし、また現代でもそういう民族がいる・・

 要するに、男と女、男性と女性という発想だけでなく、人間社会において性差よりも重要なもの、性差に左右されないものが存在しうることを認めるべきだ、目の前にあるものしか見ようとしない唯物論的世界観、人間観では、男女の生理学的差異ばかりが強調され、性差よりも大きくて切実なものが見落とされてしまう、性差に関連したものを超える「個性、個人」(インディヴィジュアリテート、Individualitaet)の存在が見落とされてしまう、とされています。

 要するに、性差より個人差、ということですが、人間をこのように観ていくことが、精神=霊に基づく世界観の課題だとされます。

(その2に続く)

 

 

 シュタイナー「女性問題」について:

「永遠に人間的なるもの、われらを高みに引きゆく」その2


1999.9.20

 

 もっとも、「女性問題」は単純に一般化できるものではなく、現在(シュタイナーの講演当時)の社会状況では社会階層によって女性解放の意味合いも異なるとも言っています。

 そして、政治的文化的関連で男性と同等の権利を女性に、といった方向の女性問題は、唯物論的世界観が主流となった19世紀後半の産物である、つまり、歴史的に見て、過去の時代、女性は社会的影響力において男性に劣っていたわけではない、とされます。つまり、文化のプロセスに大きな影響を与えるために、選挙権を持つこと、議会で主張すること、大学で研究すること、などが不可欠となったのは、19世紀後半の特徴であって、それ以前はそういう権利がないために女性は影響力がなかった、などと考えるのは近視眼的だとも言われています。良くも悪くも、唯物論的科学万能ではなかった以前の時代においては、法学や医学、自然科学は主流ではなく、男性にしても、哲学的、宗教的教養の高みに至るために、選挙権や大学が不可欠であったということはない、と。

 19世紀になって、文化と諸学が唯物論的になり、機械の時代となったために、すなわち文化が「男性文化」となったために、労働においても、知的な職業においても、過去の時代とは別のかたちで「女性問題」が浮上してきた、というわけです。

 だからと言って、もちろん過去へ帰ることが良しとされているのではありません・・。

 シュタイナーは、この「男性文化」の時代に、神智学運動の出発点としてブラヴァツキーという女性が出現したことは非常に意味深いことだ、と言います。包括的感覚と徹底した精神エネルギーと力で書かれた著作は(誤りも含まれているにせよ)比類のないもので、その全精神生活に及ぶ包括性において、他の追随を許さない・・。

 そして、ここから、おなじみの神智学的な人間の本性の説明がされます。物質体、エーテル体、アストラル体、自我、そして自我が働きかけることによって変容したアストラル体=霊我(マナス)、同じく変容したエーテル体=生命霊(ブッディ)、同じく変容した肉体=霊人(アートマン)。

 ここで、人間のエーテル体について、男性のエーテル体は女性的な特性を持ち、女性のエーテル体は男性的特性を持つという事実が指摘されます。つまり人間の魂は、磁石が二極から成るように、自らの物質体を男性的部分と女性的部分から組み立てる、あるときは一方を物質体として、また別のときにはそれをエーテル体として組み込む、したがって、一方は顕わな物質的部分、一方は隠された霊的な部分となる・・。

 つまり、完全な人間とは、(男性の場合)外的な男性性に、内部の女性的なすばらしい特性を結びつけることができた人間ということです。

 そして、唯物論が外的な文化となったこの時代、それぞれの男性が自らのうちに生きている女性性を見出して、一面的な男性文化を補完することが必要とされます。

 自我(Ich)によって低次の体から作りだされた人間の高次の本性は、性差を超えてゆくものです。物質的なものにとらわれている限り、このような理解は困難です、このように人間の本性を理解し、男女が人間本性の全体性からお互いを理解し合うことが、真の意味で女性問題の解決につながっていく、とされています。

ですから、神智学運動に端を発する精神的な文化が、男性的な文化が生まれた時代 に、まさにひとりの女性によって生み出されねばならなかったことは驚くにはあたり  ません。この神智学ないし精神科学の運動は、すぐれて実際的なものであることが明らかになるでしょうから。

神智学運動は、人類が自分自身のなかで性を超えていくように、性差を超越し、私的なものを超えた霊我とアートマンのところまで、純粋な人間にまで、人類が自らを引き上げるように導きます。

(略)

魂の深みから語ってきた人々のひとりが、「永遠に女性的なものがわれらを高みに引きゆく」と言ったように、自らのうちで人間のもう一方の面を女性として感じ、真に実践的な意味でこれを精神科学的に理解するひとたちは、女性的本性のなかの永遠に男性的なものについて語るでしょう、そしてこのとき、女性問題の真の理解と真の魂的解決が可能となります。と申しますのも、外に現れているな性質は、魂生活の外的特徴だからです。私たちの外的な文化のなかに見られるものは、人間が生み出したもの、機械へと、工業的なものへと、法律制度へと人間が衝動から造り替えたものにほかなりません。 魂が進化するように、外的な諸制度も進化します。けれども外的特徴に依存する時代は、男女の間に垣根を立てたがります。もはや外面的、物質的なものにとどまらず、性別を超えた内面の認識が外面的なものに与えられるような時代には、荒廃や禁欲的なもののなかに身を隠そうとしたり、あるいは性的(性別的)なものを否定しようとするのでもなく、性的(性別的)なものは、高貴なものとなり、美しくなり、性別を超えたもののなかで生きるようになるでしょう。このとき、女性問題に真の解決をもたらすものの理解が得られるでしょう、なぜならそれは同時に永遠の人類問題の解決をももたらすからです。日々の生活の事柄について言うとき、ひとはもはや、永遠に女性的なものが私たちを高みに引き上げる…、とは言わないでしょうし、永遠に男性的なものが私たちを高みに引き上げる…、とも言わないでしょう。理解とともに、深い精神的(霊的)理解とともに、こう言うことでしょう、永遠に人間的なもの(Das ewig Menschliche)が私たちを高みに引き上げる、と。

 


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