ルドルフ・シュタイナー

ゲーテの自然科学論序説〜並びに、精神科学(人智学)の基礎〜

(GA1)

第10章

ゲーテのアイデアという光の下での認識と行為

佐々木義之訳


1.方法論

 私たちは科学的な思考を通して達成されるアイデアの世界と、媒介されることなく「与えられる」経験との間の関係を確立してきました。私たちはプロセスの初めと終わり、つまり、アイデアに欠けた経験とアイデアに満ちた現実の概念化について知るようになりましたが、これら二つの間に横たわっているのが人間の活動です。私たちの使命は初めであるものから終わりであるものを活発に展開することです。それを「いかにして」行うかというのが私たちの方法論です。もちろん、科学的なプロセスの初めと終わりの関係を私たちがどのように考えるか、ということについては特別な方法が求められます。その方法は何に基づけばよいのでしょうか?科学的な思考は私たちが直接与えられるものとして記述した現実の影のような形態を一歩一歩克服し、アイデアの輝く明晰性へと上昇させなければなりません。言い換えれば、私たちの方法は、あらゆる事実について、それはいかにしてアイデアの統合された世界に貢献するか?と繰り返し問いかけることにあります。その場所は世界についての私の概念的なイメージの中のどこにあるのでしょうか?
 私がそれを理解し、事物が私のアイデアにどのように関連しているかに気づくとき、私の認識に対する必要は満足されます。ひとつだけ不満足の源泉になり得るものが残っていますが、それは私の概念に結びつくことを否定するような事物が現れるときです。私はそれについて次のように言わなければならないようなものによって生じる知的な不満足を克服する必要を感じます。つまり、私はそれが存在していることを理解する、そして、私がそれに出会うとき、それは疑問符であるかのように私に相対するが、私はそのもののために私のアイデアと調和する場所をどこにも見つけられない、私の概念体系をどんなにひねくり回しても、それが私の中に生じさせる疑問は解決されないままである、と。
これは私たちが対象について考察するとき、私たちが何を必要としているのかを示唆しています。私が最初にそれにアプローチするとき、その対象は孤立したものとして私に相対します。私の思考世界はそれについての概念が横たわる地点に向けて苦労しながら進みます。私は、最初は孤立した現象として私に相対するものが私の概念体系に必須の部分として現れるまで安心することができません。そして、その対象の孤立状態は解消され、より大きな文脈の中で再び現れます。それは今や他のすべての対象についての統合された思考によって照らされます。すなわち、今やそれは全体に貢献し、私はこのより大きな調和の中でその意味を十分に理解します。このすべては私たちが経験の対象に思慮深くアプローチするとき、いつでも私たちの中で生じることです。すべての科学的なプロセスはある現象がこのようにしてアイデアの世界の調和の中に組み込まれる地点に気づくようになることに基づいているのです。
これについて誤解しないようにしましょう。それは、あたかもアイデアの世界は閉ざされており、あらゆる新しいものは私たちが既に有している古い概念の意味で理解されなければならないかのようであって、あらゆる現象は既に存在している概念に基づいて説明できなければならない、という意味ではないのです。私たちのアイデアの世界が広がるにつれて、私たちはまだ誰にも考えられていないような地点にやってくるでしょう。実際、科学の歴史的な発展は正に新しいアイデアの出現に基づいています。それらのひとつひとつが、何千もの糸によって、他のすべての可能な思考へと結びつけられます。これらの結びつきのそれぞれが独自の形態を取ります。いずれの場合も、結びつきは異なっています。「そして、科学的な方法とは正にこのこと、つまり、ある特定の現象についての概念をアイデアの世界の他の部分との結びつきにおいて示すことなのです。」このプロセスは概念の演繹(あるいは証明)と呼ばれます。いかなる種類の科学的な思考も、諸概念の間の結びつきを見出すこと、ある概念を他の概念から生じさせることだけから成立っているのです。科学的な方法はこの概念間の行き来を含んでいます。
 読者の皆さんは私が単に理解可能な世界と感覚世界の間の調和という語りつくされた物語の別のバージョンを記述しているだけではないかと思うかもしれません。その教義によれば、もし、このようにして概念の間を行ったり来たりすることが私たちを現実についての正確なイメージへと導くのだと信じるならば、客観的な世界と私たちの概念の間には調和が存在していると仮定しなければならなくなります。けれども、それは個々の対象と概念の間の関係についての間違った見方なのです。私がある特定の対象あるいは現象に最初に直面するとき、私は、それが「何」であるかについて、何のアイデアも持っていません。私がそれに貫き至り、その概念が私にとって明確になった後ではじめて、私は私が「何」を見ているのかを知るのです。このことは、特定の対象とその概念とは二つの「異なる」ものである、ということを示唆するものではありません。そうではなく、それらは同じものです。ある特定の対象において私に自らを提示するものは、その概念そのものに他なりません。私がその対象を孤立したもの、現実のその他の部分から切り離されたものとして見るのは、私がまだそれをその本質において知覚しておらず、それがまだありのままの姿で私に自らを提示していないという理由によります。このように考えることにより、私たちは、個別の対象は思考体系の中で特別な内容を示す、という科学的な方法の特質をさらに特徴づけたことになります。それはアイデアの世界の全体性に根ざしており、この全体性との関連でのみ理解され得ることです。
 こうして、あらゆる対象物は必然的に二重の使命を私たちの思考に提示します。私たちは第一に、対応する思考の輪郭をしっかりと確立し、第二に、その思考からアイデアの世界全体につながる糸を打ち立てなければなりません。現実は個々の詳細における明晰さと、総体における深みを要求します。一方は知性の仕事であり、他方は理性の仕事です。知性は現実の個々の側面のために思考形態を創造します。それらをより正確に記述すればするほど、それは輪郭をより鮮明に描き出し、その仕事はより忠実に行われることになります。そして、理性は、アイデアの世界と調和して、それらの思考にそれらの場所を割り当てます。このことはもちろん、知性によって創造された思考内容の内に統一性が既に存在しているということ、つまり、知性は私たちの思考内容のすべてを人工的に分離したままにするけれども、ひとつの生命がそれらに浸透している、ということを前提としています。理性は明晰性を失うことなくその分離を克服します。知性が私たちを現実から引き離す一方、理性が私たちをそれに引き戻すのです。このことは図式的に表現することができます。


                

 すべての部分が全体的な構成の中で結びつけられています。つまり、同じ原則がすべての部分の中で働いています。知性は個々の形態を分離しますが、それは私たちが、与えられた外的な世界の中で(実線で示されるように)、それらに別々に出会うからです。そして、理性は(破線で示される)それらの統一性を認識します。
 二つの経験−1)太陽が照りつけている、2)暖かい石−を仮定するとき、私たちの知性はそれらを分離したままにしますが、それはそれらが「二つの」現象として自らを提示するからです。一つは原因、他方はその結果と考えられます。そこに理性がやってきて間仕切りを取り去り、「二重性の中に統一性」を見ます。知性によって創り出された全ての概念―原因と結果、実質と特性、体と魂、アイデアと現実、神と世界、等々―は統一的な現実を人工的に分離したままにするやり方に過ぎません。他方、理性の役割は知性の明晰性を神秘的な仕方で曖昧なものにしたり、創造された内容を帳消しにしたりすることではなく、多様性の中に内的な統一性を求めることです。こうして、私たちは知性によって遠ざけられた統一的な現実へと引き戻されます。より正確に言うならば、「概念」とは知性の産物であり、「アイデア」とは理性の創造物です。ここで、科学の道は概念を通してアイデアへと導く、ということが分かります。
 このような考えは知るということに関する主観的な要素と客観的な要素の間の明確な違いを提示します。私たちの現実が分割されているのは純粋に主観的なことであり、私たちの知性によって創り出されている、ということは明らかです。私は同一の客観的統一体を他の人たちとは異なる個別の思考へと分割することができます。しかし、理性は、その結びつきを通して、私たちがそこから出発した客観的な統一体を復元することができます。

 現実の統合されたイメージ(図1)は、それを理解するために分解することができます。私はある方法でそれを分解する(図2)かも知れませんが、別の人は別の方法で分解するでしょう(図3)。私たちの理性はそれを結びつけ、同一の統合されたイメージに戻します。このことは、現実は同じはずであるにもかかわらず、何故、人間はそれについてあれほど多くの異なる概念や様々な観点を有しているか、ということの理由を理解するための助けとなります。「その違いは私たちの知的なアプローチの違いによるのです。」このことは様々な科学的観点の発達の上に光を投げかけ、哲学的観点における多様性の起源を理解する助けとなりますが、それらの内のいずれをも真実として認定する必要はありません。
 人間の概念の多様性を考えるとき、問題は単にその概念が正しいか間違っているかということではありません。私たちはいつもある特定の思索家の知的世界がいかにして世界調和の中から生じてくるかということを理解しようとします。つまり、私たちは、たまたま私たちの意見とは一致しない意見を、間違いであるとして糾弾するのではなく、むしろ理解しようとするのです。科学的観点における相違は各人が異なる経験の領域を持っているという事実に関連しています。私たちはそれぞれ、全体としての現実のほんの一部だけに出会いますが、各人の知性が処理するのはその一部であり、そのわずかな部分がアイデアへの道を仲介するのです。ですから、私たち全員が同じアイデアを認識していたとしても、それはいつも異なる領域においてなのです。「最終的な結果」だけが「同じ」である可能性があるのであって、そこに導く道は異なっているかもしれません。私たちの認識を構成する個別の判断や概念が一致する必要はないのです。
 とはいえ、重要なのは、それらの判断や概念が、最終的には、アイデアが流れる川の中で私たちを泳がせるようにする、ということです。全てが語られ、そして、為されたとき、全ての人間がこの流れの中で出会うのですが、それは活動的な思考が彼らをその隔てられた観点を越えた地点へと連れていくときです。もちろん、限定的な経験や非生産的な心は「一方的で」不完全な観点へと導きます。しかし、最も限定的な経験であっても最終的には私たちをアイデアの世界へと導いていくはずです。何故なら、私たちがこの領域へと上昇するのは、私たちの経験の広さによってではなく、私たちの人間としての生来の能力によってだからです。限定的な経験の結果として生じるのはアイデアの領域についての一方的な「表現」であるに過ぎません。それは私たちの内に輝く光を生じさせるための私たちの手段を限定的なものにしますが、この光が私たちの内に生じることを完全に妨げるものではありません。私たちの科学的な、あるいは一般的な観点が網羅的なものであるかどうかはそれらの精神的な深さとは全く関係がないのです。
 ゲーテに戻りますと、彼の多くの叙述はこの章の中で記述された考えから導かれる、ということが理解されるようになるでしょう。そして、私はこれが著者と解説者の間の唯一の正しい関係であると考えている、ということをつけ加えておきたいと思います。ゲーテは「もし、私が私自身や外の世界に対する私の関係を知っているならば、私はそれを真実と呼ぶ。そして、誰もが自分自身の真実を有することができるとはいえ、それでもやはりそれはいつも同じものなのだ(散文の中の韻)」と書いています。これはこれまでの考察に基づいてはじめて理解できます。

2.教条的な方法と内在的な方法

 科学的な判断は二つの概念、もしくは一つの知覚と一つの概念を結びつけることによってなされます。「原因なしに結果なし」というのは前者の種類の判断であり、「チューリップは植物である」というのは後者の例です。日常生活では、ある知覚を別の知覚に結びつける−例えば、「バラは赤い」というようなこともあります。私たちが判断するときにはいつでも何らかの根拠に基づいて行います。ここで判断のための根拠を眺める二つの方法があります。
 第一の学派の考え方は、判断が真実であるための客観的な根拠はその判断に貢献した概念や知覚によって提供される証拠を超越したところにある、というものです。この観点では「判断が真実であるかどうかの根拠はその判断へと導いた主観的な根拠とは必ずしも一致しません。」この観点によると、「論理的な」根拠を「客観的な」根拠と混同すべきではありません。この学派の考え方は私たちの洞察の客観的な基礎に至る道を示唆する一方、私たちの認識する心に起因すると考えられる方法はその目的にとって十分なものではない、ということになります。私の主張の根底にある客観的な現実は私の見知らぬ世界の中にある、というのです。その主張そのものが、その「形式的な」根拠(内的な首尾一貫性、公理による支持、等々)とともに、私の認識の内部にある唯一の側面です。
 この種の観点に基づく科学は、それがいかなる種類のものであれ、教条的です。顕現に基づく神学的な哲学は教条的な科学の例ですが、それは現代科学も同様です。ちょうど「顕現というドグマ」があるように、「経験というドグマ」もまたあるのです。顕現というドグマが伝えるのは、人間の視界からは完全に遠ざけられたことがらについての真実です。人間は出来合いの信仰条項が処方された世界について知ることはありません。私たちは私たちの信仰がよって立つところの基盤を決して見出すことができず、何かが「何故」真実なのかをそもそも知ることができません。達成可能なのは「信仰」であり、「認識」ではないのです。けれども、単に観察し、記述し、その変化を体系化する一方、直接的な経験においては「まだ与えられていないような」条件へと上昇することが決してないような実験的な科学の主張もまた、それが純粋な経験に自らを限定するべきであると主張する限りにおいて、ドグマです。この場合も、真実は対象への洞察を通して達成されるのではなく、外側から私たちの上に押しつけられます。私は何が起こっているかを、そして、そこに何があるかを見て、それを記録します。何故それがそうなっているかの理由はその対象の内部にあると考えられます。私は結果を見るのであって、決して原因を見ません。かつて、科学は「顕現」のドグマに支配されていました。今は、「経験」のドグマに支配されています。過去には、顕現された真実の原因について考えることはおこがましいことであると考えられました。今日では、事実が表現する以上のいかなるものも知ることはできないと考えられています。「何故」事実はこのような仕方で語り、別の仕方ではないのかという問いかけは経験の視界を越えたところにあり、したがって、それに答えることはできない、と考えられているのです。
 何故その陳述が真実であるかを、判断の真実性についての認識を超越したところで推し量ることに意味はない、ということを私たちは示してきました。私たちは、ものごとの本質がアイデアとして私たちの中に生じる地点にまで突き進むとき、そのアイデアは完全に自立的、自己充足的、自己完結的であり、さらなる外的な説明を要しないものである、ということを理解します。すなわち、その中に安んずることができるようになるのです。私たちは、それに必要な能力が私たちに与えられるならば、アイデアはそれ自身の中にそのすべての構成要素を含んでいる、その中には私たちが求め得るすべてがある、ということを認識することができます。存在の全ての基盤はアイデアの中に現れ、その中にいかなる留保もなく自らを注ぎ込んでいるので、私たちはそこから先を探す必要がないのです。私たちがアイデアの中に見出すのは私たちが事物の中に探し求めているものの「像」ではなく、それ自体なのです。私たちのアイデアの世界の各部分が私たちの判断の中に流れている分だけ、それら自体の内容によってその結果がもたらされるのであって、何か外的な理由によってもたらされるのではありません。私たちの思考の中には、私たちの主張に対する具体的な基盤が直接存在しており、それらの形式的な基盤が存在しているのではないのです。
 ですから、すべてのアイデアを越えたところに、思考自体を含めて、すべての事物を支える絶対的な現実がある、という観点を私たちは拒絶します。その世界観によって、到達可能な世界の中に存在の基盤を見出すことは全くできません。その観点にとって、存在の究極的な原因は私たちに現れるような仕方では世界の中に入ってきていません。それはむしろ自ら閉じた存在、現在の世界からはかけ離れた存在なのです。「現実主義」と呼ぶことができるこの観点は二つの形態をとります。つまり、世界を基礎づける現実的な存在の多様性を前提とする(ライプニッツ、ヘルベルト)か、あるいは、統一的な現実を仮定する(ショーペンハウアー)かです。いずれにしても、この「現実」がアイデアと同じものであるかどうかを知ることはできません。その性質そのものが基本的に異なっているとみなされているのです。
 現象の本質的な特徴に関する問題が私たちの意識の中に充分に入ってくるやいなや、現実主義者であることは不可能になります。と申しますのも、世界の「本質的な特徴」について問いかける目的とは何なのでしょうか?それは、私がものごとを見るというところにまで、そして、内なる声が、結局のところ、それは本当に私が目にしている以上のものなのだ、ということを私に告げるところにまで本当に来ている、ということです。けれども、実際には、私がその事物を見ているときにも、そのより偉大な現実は既に私の中に現れようと活発に試みているのです。もし、私が説明を探し求めるとしたら、それは私の中で活動するアイデアの世界が周囲の世界についての私の説明を要求しているからに過ぎません。その内部にアイデアが生じないような存在は、ものごとをより深く説明するように動機づけられることはないでしょう。そのような存在は感覚に現れるもので十分満足するでしょう。世界を説明しようとする意欲が生じるのは、私たちの思考にとって入手可能なアイデアの内容を外観の世界へと統合し、概念的な仕方であらゆる事物に貫き至るように―つまり、私たちが「見たり、聞いたりするようなことがらを理解することがらへと変える」ように―促されるときです。
 もし、これらのことがらをこれ以上なく深刻に考えてみるならば、私たちが記述したような現実主義を信奉することはできなくなります。アイデアではない何らかの現実を通して世界を説明しようとする試みはいかなるものであれ自己矛盾であり、第一そのような発想がどうやって追随者を獲得するのかを理解することは困難です。知覚可能な現実を、何か思考とは根本的に異なるものを通してはもちろん、思考そのものの中に見出されないような何かを通して説明する必要はありませんが、また、できることでもありません。ひとつには、私たちには完全に見知らぬものである何か、私たちには隠されてさえいるようなものの観点から世界を説明するように私たちを動機づけるものとは一体何なのでしょうか?私たちがこの隠された因子に出会うと仮定しても、一体どこで、どのような形態で?と問わなければならないでしょう。それは思考の中に見出すことはできません。思考の中でないとするならば、私たちはそれを何か外的な、あるいは内的な知覚の中に見出すと期待すべきなのでしょうか?けれども、知覚世界を説明するに当たって同じ性質のものをもってすることがどのような意味で役立つというのでしょうか?
 私たちに残されているのは第三の可能性―私たちは、思考することはできないけれども、それでも非常に現実的な世界に思考や知覚以外の方法で到達できる、という仮定―です。この過程は私たちを直ちに神秘主義へと導きます。私たちは今これに関わる必要はありません。何故なら、私たちにとって興味があるのは、思考と存在、「アイデアと現実」の関係についてだけだからです。神秘主義の認識論について書くのは神秘主義者にまかせましょう。後期のシェリングの観点は、私たちの理性は世界内容とは「何か」を展開することができるだけであって、そもそもそれが「存在する」という事実に至ることは決してできない、というものでした。私たちには、これ以上馬鹿げたことはないように見えます。ある事物の「存在」は私たちにとってそれが「何」であるかの前提条件であり、それが「存在すること」を最初に確立していなければ、ある事物の「何であるか」を達成する方法はないはずです。私たちの理性によれば、ある事物が存在しているという事実は私がその意味を把握しているという事実そのものの一部です。シェリングは、世界の意味を解明することはその存在を確信していなくても可能である、と考えました。このことと、存在について知ることができるのは「より高次の経験」を通してのみであるという彼の確信は、自省的な思考にとって、考えも及ばないことのように見えます。シェリングはゲーテにあれほどの衝撃を与えた彼の初期の観点をその晩年にはもはや理解できなかった、と考えざるを得ません。
 アイデアの世界にとって接近可能な存在形態よりもさらに高次の存在形態を仮定することは許されません。人々がさらに別の現実を探し求めるのは、アイデアという存在が知覚された現実よりもはるかに高貴で十全たるものであるということを彼らが把握できないからに過ぎない、ということはよくあることです。もし、私たちがアイデアに満足できないとすれば、それは私たちがそれらを内容がなく、いかなる具体的な現実性にも欠けた心の作り話であると考えているからです。実際、それは私たちがアイデアの積極的な性質を把握できていないからです。それらを単に抽象的なものであると考え、それらの十全性、完全性、健全性についてのいかなる経験も有していないのです。教養と自己発現を通して、より高次の観点へと自らを高め、そこから、目で見ることができず、手で触ることもできず、ただ理性のみが包含することができる存在の具体的な「現実性」を理解できるようになる必要があります。
 言い換えれば、私たちは「理想主義」を確立しようとしているのです。しかし、それは同時に「現実主義」でもあります。このことが意味しているのは、思考はアイデアを通して現実を理解しようと願っている、ということです。この願いは「現実の本質とは何か?」という問いに隠されています。この問いに対する答えは科学的なプロセスの最後にのみ現れてきます。現実主義者は真の現実を仮定し、そこから彼らの経験の世界を導き出すのですが、私たちはそのようなことはしません。私たちは、世界を説明するために私たちが有している唯一の手段はアイデアである、という事実に充分に気づいている点で現実主義者から区別されます。現実主義者たちが持っているのもこの手段だけなのですが、彼らはそのことに気づいていません。現実主義者たちは自分たちの世界をアイデアから導き出しながら、別の現実からそれを導き出していると信じているのです。モナドというライプニッツの世界はアイデアの世界そのものです。しかし、ライプニッツはアイデアの世界よりもさらに基本的な現実を手に入れたと信じていました。すべての現実主義者は同様の間違いを犯します。彼らは現実を考え出しますが、アイデアの領域に留まっていることに全く気づいていないのです。
 私たちはこのような現実主義を拒絶します。何故なら、それは、実際にはアイデアがその世界形成の基礎であるという事実に関して、思い違いをしているからです。私たちが同じ確かさをもって拒絶するのは、我々は我々の意識を超越できない、何故なら、我々はアイデアの世界から逃れることができず、したがって、我々の観念のすべてが、そして、全世界そのものが主観的な幻想、我々の意識が見る夢なのだから(フィヒテ)、と信じている偽りの理想主義です。そのような理想主義者たちが理解し損なっているのは、我々はアイデアの世界を超えていくことはできないけれども、それら自体が客観的な現実であり、その現実の基礎はそれ自体の中にあるのであって、主観的なものの中にではない、ということです。彼らが忘れているのは、我々は思考の普遍的な性質からは逃れられない、けれども、正に理性的な思考が我々を客観性のただ中に連れていくのだ、ということです。「現実主義者が理解し損なっているのは、客観的なものとはアイデアのことである、ということであり、理想主義者が理解し損なっているのは、アイデアとは客観的なものである、ということです。」
 私たちはまた、アイデアを通して現実を説明しようとするすべての試みは弁解の余地のない哲学的な推論である、と主張する経験論者たちについて考える必要があります。彼らが強く主張するのは、我々は我々の感覚を通して直接アクセスできるものだけに限定するべきである、ということです。この観点に対する私たちの答えは単純であって、その要件はその性質上「方法論的」かつ「形式的」なものでしかあり得ない、というものです。もし、私たちが所与のもののところで立ち止まらなければならないとしたら、それが意味し得るのはたったひとつ−私たちは私たちに出会うべくしてやってくるものを自分のものにしなければならない、ということです。けれども、私たちに出会うべくしてやってくる「何か」は「この」観点によってあらかじめ決定づけられることはできません。何故なら、その「何か」はまず所与のものそのものの中に見出されなければならないからです。純粋な経験について主張し、同時に感覚的な世界の範囲内にとどまることを要求するにはどうすればよいかを考えるのは困難です。何故なら、アイデアもまた、所与のものである、という基準を満たすことができるからです。
 実証主義は、「何か」とは与えられるものであり、したがって、理想主義的な探求の結果と容易に両立し得る、という問題に答えを出さないままにしておくように強いられます。この場合、経験主義の要求は私たちのものと一致します。私たちはあらゆる観点を「それらが正当化される限りにおいて」統合します。私たちの観点は世界の根幹をアイデアの中に見出すがゆえに理想主義であり、アイデアを具体的な現実として取り扱うがゆえに現実主義です。そして、それは、先験的な構成概念によってというよりは、むしろ所与のものとしてのアイデアの内容に向けて邁進する限りにおいて、実証主義あるいは経験主義です。私たちの経験的な方法は現実へと貫き至るとともに、究極的には、理想的な結果の中に満足を見出します。私たちの観点によれば、何らかの与えられるもの、知られているものに基づいて、それを基礎づけ、決定づけるところの与えられない何かの存在を結論づけることは許されません。私たちは各要素の中の一つでも与えられないようないかなる結論も拒絶します。結論を引き出すということは、与えられる要素から同様に与えられる別の要素へと論理的に移行する、ということに他なりません。結局、私たちはaをcによってbに結びつけるのですが、これらのいずれもが与えられなければなりません。
 フォルケルトは、思考は所与のもの以外の現実を仮定し、それを超越することを私たちに強いる、と言いますが、私たちは、私たちが直接与えられるものにつけ加えたいと思っているものは既に私たちの思考の中で活動している、と言います。私たちが拒絶するのは、与えられないもの、あるいは、何か仮定されたもの(ヴォルフ、ヘルベルト)を通して所与のものを説明することから成るすべての形而上学です。私たちにとって、結論とは単に形式的な行為に過ぎません。すなわち、それは新しい何かへと導くのではなく、実際に存在している諸要素を結びつけることなのです。

3.科学の体系

 十分に発達した科学はゲーテの思考方法という光の下でどのような形態を取るでしょうか?私たちはまず、科学の全体的な「内容」は与えられる―一部は感覚的な世界から外的に与えられ、一部は内側から、アイデアの世界から与えられる―という事実について明確にしておかなければなりません。私たちのあらゆる科学的な活動は、この与えられるものの全体的な内容がその中で自らを提示するところの個別の形態を克服し、満足すべき形態をそれに付与する、ということを含んでいます。このことが必要なのは、与えられるものの内的な統一性は、私たちが最初にそれに出会うとき、私たちには隠されており、ただその表面だけが私たちに現れる、ということによります。これらの統合する関係を確立する方法は、私たちが活動する現象領域によって、異なっています。
 様々な仕方で関連する多様な感覚的要素を扱う領域についてまず考えてみましょう。私たちが私たちの思考を用いてこれらの要素を深く考え始めるにしたがって、それらの相互関係が明らかになってきます。あれこれの要素がある特別な仕方で別の要素によってある程度条件づけられているのが分かるでしょう。あるものを決定づける条件は別のものを考えるときに明らかになります。つまり、私たちはある現象を別の現象から導き出します。例えば、暖められた石という現象は暖める太陽光線の影響として導かれ得るでしょう。したがって、後者は原因であることが分かります。ある事物の中に知覚されるものはそれが別の知覚可能なものから導かれるときに説明されることになります。私たちはいかに理想的な法則がこの領域の中に現れるかを見ます。それらは感覚的な事象を包含し、それらを超えたところに立っています。それらは、あるものが別のものによって決定づけられている限りにおいて、その合法則的な反応を決定づけているのです。
 ここでの私たちの使命は、一連の現象の必然的な繋がりが明らかになり、それによってそれらが完全に合法則的な総体として機能するのを見る、というような仕方でそれらをまとめることです。このようにして説明することが可能な領域は「無機的な自然」です。けれども、私たちの経験によれば、時間または空間の中で最も近い位置にあるものは、いつでもその内的な性質の意味で最も近いものである、というような仕方で私たちの前に現れるわけではありません。私たちは時空間の中で最も近い位置にあるものから概念的に最も近いものへと進んでいかなければなりません。概念的な領域の中で直近の位置にある現象を探さなければなりません。お互いに補完し、支え合う一連の事実を集めるように努めなければならないのです。そのようにして、私たちは相互作用する感覚知覚可能な要素のグループへと至ります。関連する要因に続く現象が私たちの眼前で一種の透明な仕方で展開します。ゲーテにしたがって、私たちはそのような現象を元型的な現象、あるいは根源的な事実と呼びましょう。「この元型的な現象は客観的な自然法則と同じものです。」
 一方、私たちが記述している諸々の関連は、例えば、私たちが水平に投げられた石に影響する諸要因:第一に慣性力、第二に地球の重力、第三に空気抵抗、について考えるときのように、心的に確立することができます。そして、これらの要因から石の軌道を導き出すことができます。逆に、個別の要因を物理的に集積し、結果として生じる現象を待つこともできます。これは私たちが実験するときに行っていることです。自然現象が私たちを当惑させるのは私たちがその影響(あるいは現れ)を知っていてもその原因(あるいは必要条件)を知らないからです。一方、実験によって生じた現象が明確なのはその原因となる要因を私たち自身が集めてきたことによります。「科学的な研究の道とはこのようなものです−私たちは、実際に何が関係しているのかを見るという経験から始め、何故そうなっているのかを実際に観察を通して決定することへと進み、そして、(そこにある合法則的な関連が)実際にどのようにして自らを表現するかを見るための実験というクライマックスに至るのです。」
 残念ながら、これらの観点を支持するゲーテの随筆は失われているようです。それは彼の随筆「主観と客観の仲介者としての実験」の後に続くはずのものでした。私たちはこの随筆からはじめて、私たちが手に入れることができる唯一の情報源―ゲーテとシラーの往復書簡―から失われた随筆の推定される内容を再構築してみようと思います。
 随筆「主観と客観の仲介者としての実験」はゲーテが自らの光学に関する探究を正当化するために行った研究から生じたものです。その後、その随筆は詩人が新たな活力をもってその研究を再開し、シラーとともに自然科学的な手法の基本原則に関する完全で科学的な調査を開始した1798年までそのままになっていました。1798年1月10日に、ゲーテはその随筆をシラーに送ってコメントを求め、1月13日には、その中で提示された観点を新しい随筆の中で拡張したい旨を友人宛に書き送っています。彼はその仕事を続け、1月17日には、科学的な方法の特徴のひとつを概説する短い随筆をシラーに送りました。この随筆は彼の作品カタログには載っていません。それは科学的な方法論に関するゲーテの基本的な観点を十分に評価する上で確かに非常に貴重なものであったでしょう。けれども、1798年1月19日のシラーの詳細な手紙の中にその考えが示されているのを見出すことができます。この手紙が示していることがらはゲーテの「散文の中の韻」によって確認され、補足されます。(後に、シュタイナーによってつけ加えられた脚注:ゲーテ全集34巻XXXVIIIページの序論の中で、私は、経験、実験、そして科学的な知識に関するゲーテの考えを最もよくサポートするその随筆は不幸にして失われてしまっているように見える、と述べています。しかし、それは失われておらず、ここで述べるような形でゲーテアーカイブへの道を辿りました。その随筆は1798年1月15日付で、17日にシラーに送られました。それは随筆「主観と客観の仲介者としての実験」の続編です。私はその随筆の中で表明されている考えを書簡から取ってくるとともに、今、手に入るのと正確に同じ仕方で序論のXXXIXページに示しました。内容という意味では、その随筆は私がそこで書いたことに何もつけ加えません。実際、彼の他の著作に関する私の研究を通して得られたゲーテの認識に関する方法や様式に対する洞察があらゆる点で確認されます。R.シュタイナー)
 ゲーテは科学的な探求における三つの方法を区別します。さらに言えば、これらは現象に対する三つの異なるアプローチによるものです。第一の方法は「通常の経験主義」です。それは経験される現象あるいは直接的な事実を越えて行くことなく、個別の顕現に没頭します。もし、通常の経験主義が何らかの結果をもたらすべきものであるならば、それはその活動をそれが出会う現象の詳細な記述、つまり、在庫目録を作ることに限定しなければなりません。経験論者の観点から言えば、科学とは個別の事実を記述したものの総体に他ならないでしょう。
 経験主義に対して、合理主義は次の段階を代表しています。それは「科学的な現象」を確立しようとします。単なる現象の記述に自らを限定するのではなく、原因を見つけたり、仮説を立てたりしながらそれらを説明しようとするのです。この段階では、現象から出発して、それらの原因や関連性についての原因を知性によって引き出すことへと進みます。ゲーテはこれらの立場のいずれもが一方的なものであると考えました。通常の経験主義は粗野で非科学的ですが、それはそれが決して偶然の出来事の単なる記述から逃れられないためです。他方、合理主義は現象世界の原因や関連性を読み解こうとしますが、それらはその内部には含まれてはいません。通常の経験主義は事実の世界という十全たるものから自由な思考へと上昇することができず、合理主義は足下の確かな事実という基盤としての現象を見失い、甘い考えと主観的な幻想に陥っているのです。
 ゲーテは観察から結論へと突進する熱情を強く非難します。彼の「散文の中の韻」の中では以下のように述べられています。

観察から直ちに結論へと飛びつき、そして、それらを同等に扱うというのは良くないことであるが、しばしば見られることだ・・・理論とは現象を排除し、イメージや概念、ときには単なる言葉をもってそれに代えようとする性急な知性による拙速の産物である、というのはよくあることだ。それがその場しのぎに過ぎないことが疑われ、また、明らかにそれと見てとれることもある。熱情や党派主義はその場しのぎが大好きなのではないか?いや、確かにそうだ、彼らはそれらをとても必要としているのだから。

 ゲーテは因果的な論理づけを乱用することに対して特に厳格です。合理主義はその野放図な想像力をもって事実がそれを保証しないところで因果律を追い求めます。彼は「散文の中の韻」で、「最も本質的で最も重要な概念―「原因」と「結果」の概念―は無数の、際限なく繰り返される間違いへと導くような仕方で用いられている」と述べています。人は特に単純な関連への偏愛により、厳密に直線的な仕方で次から次へと続く原因と結果の連鎖における結びつきのような現象を考えがちです。けれども、実際には、以前の事象によって条件づけられるいかなる現象も同時にその他の多くの影響を受けています。このような場合、自然の「長さ」については考慮されていますが、その「幅」についてはそうではありません。ゲーテによれば、いずれの道も―つまり、通常の経験主義の道も合理主義の道も―より高次の科学的な方法への途上にある「中間的な」段階であって、超越されるべき段階であるに過ぎません。
 合理的な経験主義によってそれは達成されますが、それが扱うのは客観的な自然法則と同じものであるところの「純粋な現象」です。通常の経験主義、つまり、仲介されない経験によって与えられるのは関連のない個別の事実、外的な現われの寄せ集めに過ぎません。それらは科学的な過程の結論としてではなく、その最初の経験として与えられます。科学が私たちに要求するのは、関連性を追求し、個々の事実を相互に関連したものとして眺める、ということです。この意味で、概念化する必要性と与えられた事実の間には隔たりがあるように見えます。
 認識する精神にとっては関係性だけが存在していますが、自然の中にあるのは分離だけです。精神は種(あるいは型)を求めますが、自然が創り出すのは個別だけです。結びつける精神の力は内容を欠いており、したがって、それ自身、どんな具体的なものも把握することはできませんが、一方、自然の対象物が分離しているのはそれらの本質的な問題ではなく、それらの空間における表現である、という事実について良く考えてみるとき、私たちはこの矛盾から逃れることができます。事実、私たちが個別のものの本質に至るとき、私たちの注意は種、あるいは型へと引きつけられます。自然の対象物は分離したものとして現われます。したがって、私たちが必要としているのはそれらの「内的な」結びつきを私たちに示すような精神の統合する力です。そして、理性の統一性はそれ自体では空虚であるため、それを満たすための自然の対象物を必要としているのです。こうして、「第三の段階」において、現象と精神的な能力が出会い、「ひとつ」になります。そのとき初めて精神が満足させられるのです。
 もうひとつ別の探求の領域がありますが、そこでは、個々の事実は別の不連続の事実の結果として現われるわけではありません。したがって、別の同様の事実の助けを借りてそれを理解することはできません。そこでは、一連の感覚知覚可能な要素が統合的な原則の直接的な表現として現われます。もし、私たちがいずれにしても個別の事実を理解したいのであれば、私たちはこの原則へと貫き至る必要があります。私たちはその現象を外的な影響の結果として説明することはできません。それは内から外に向けて展開されなければなりません。以前には決定的な役割を果たしていたものが、今や単なるひとつの影響、あるいは刺激となります。以前に議論した(無機的な)領域においては、もし、ある事実を他の事実の影響として見ること―つまり、外的な条件からそれを演繹すること―ができるならば、私はいかなるものであっても理解することができました。けれども、今や、私は異なる問いかけをするように強いられます。私が外的な影響を知っていたとしても、やはりその現象がどのように反応するかについては何も確かなことは分かりません。その反応は外的な影響を受ける現象の中心的な原則から演繹されなければなりません。私はこの外的な影響が何を及ぼすかについて語ることはできませんが、その現象の内的な原則はある一定の外的な影響に対してある一定の仕方で反応する、ということだけは言うことができます。生じることはどんなことであれ「内的な」法則性の結果なのです。私の探求が見出すべきものとは自らを内から外へと形成するものです。「型」とはこの領域におけるあらゆる現象の根底をなす自己構築的な原則であり、私は個々のものの中にそれを探さなければなりません。今、私たちは有機的な自然の領域にいます。私たちが無機的な自然との関係で元型的な現象と呼ぶものは有機的な自然における「型」なのです。型とは有機体の「一般的なイメージ」、あるいはアイデア―動物における動物性―のことです。
 第4章で議論した主なポイントを繰り返してきましたが、それは型についての私たちの考察にとってそれらが重要だからです。しかし、倫理的、歴史的な科学においては、より狭い意味でのアイデアが関係してきます。科学としての倫理や歴史はそれらが探求する現実であるところのアイデアによって導かれます。それぞれの科学の使命は、元型、型、あるいは歴史の場合、指導的なアイデアに到達するまで与えられた素材を吟味する、ということです。

かつて、物理学者たちは我々が元型と呼んだところのものを理解するに至ったが、彼らに間違いはなく、哲学者たちも同様である。彼らは彼らの科学の最前線に到達し、経験的な高みに至ったということ、そして、そこからは経験のあらゆる段階を見降ろし、概観することができるということ、そして、たとえ理論の領域にまで入っていかないにしても、そこからはそれを望むことができるということを確信するようになった。哲学者たちもまた間違いがないが、それは彼らが物理学者たちの結論を取り上げ、それを彼ら自身の仕事の出発点に据えるからである。(色彩論)

 哲学者たちの仕事が本当に始まるのはここからです。彼らは元型的な現象を取り上げ、それらを満足のいく内的な関連へともたらします。私たちは今、ゲーテの観点から、形而上学に取って替わるべきもの、すなわち、アイデアによって導かれる観察、元型的な現象の結合と導出を見ます。ゲーテはこのような仕方で経験的な科学と哲学の関係について繰り返し、そして、彼のヘーゲルへの手紙の中では特別な明晰さをもって語ります。彼は「年代記」の中で自然科学の図式について何度も語っています。もし、これが見つかっていたとしたら、彼がいかに個別の元型的な現象の間の関連について考えていたかが、そして、いかに合法的な順番でそれらを整理していたかが分かったことでしょう。
 私たちは様々な種類の影響についての彼のリストを見ることによって、これがどのようなものであったかを自分で理解することができます。

偶発的{ぐうはつてき}な
機械的な
物理的な
化学的な
有機的な
心霊的な
倫理的な
宗教的な
天才から生じるような

この階層的なリストは私たちが元型的な現象を秩序づけるための助けになります。

 

4.認識の限界と仮説の形成について

今日では、認識の限界についてよく語られます。存在する現実を説明するための私たちの能力はある程度のところまでしか到達できず、私たちはそこで立ち止まらなければならない、と言われます。私たちは、この問題は正しく問いかけられない限り正しく答えられない、と考えます。正しい問いかけをすることで、間違いの大軍から逃れることができる、というのはよくあることです。
もし、私たちが、説明すべき対象は所与のものである、という事実について考えてみるならば、所与のもの自体が私たちを制限することはあり得ない、ということが明確になるでしょう。それは説明や理解を要求する以前に、与えられた現実という世界の内部で、私たちに対して自らを開示しなければなりません。所与のものの領域の外に留まるものであれば、それが何であれ、説明を要求することはありません。何らかの限界が生じるのは、与えられた現実に直面するとき、私たちがそれを検証するための手段を欠いているときだけです。
 説明する必要が生じるのは、私たちの思考が私たちに提示するものの水平線上に、私たちがそれによって与えられたものを規定したいと願う方法―私たちがそれに与えたいと願う説明―が現われるからに他なりません。私たちにとって、説明―つまり、説明されるべきものの本質―が未知であるということが説明を要求するのではないのです。そのようなことは全くなく、私たちの心にそれが現われるということがそれを要求するのです。説明を要求する事物と私たちの説明手段の両方が入手可能なのです。私たちに必要なのは両方の結びつきを確立するということです。説明とは未知のものを求めることではなく、二つの既知のものの関連を明確にすることです。私たちが既に知っているのではない何かの意味で与えられたものを説明する、ということは決して起こり得ません。これは、基本的には、説明には限界がない、ということを意味しています。
 とはいえ、知識には限界があるという理論を正当化するように見えるものが確かにあります。何らかの外的な現実が存在するということに気づきながらも、私たちの観察の範囲からは取り除かれている、ということがあるかも知れません。私たちはその痕跡、その影響を感じ取り、その存在を推定します。その意味では、私たちは認識の限界について語ることができます。けれども、この場合、達成できないのは、それは説明の原則を提供することになる、というような種類のものではありません。むしろ、それは何か知覚可能なものではあるけれども、まだ知覚されていないようなものです。私の知覚にとってのそのような障害は認識に対する根本的な限界を構成するものではなく、偶発的、外的なものであり、克服可能なものです。今日は疑うだけの何かが、明日は完全な経験になっているかも知れません。けれども、ひとつの原則にとっては、通常は空間的あるいは時間的なものである外的な障害は何もありません。それは私に内的に与えられます。私がそれを自分で観察しない限り、私の他の事物についての認識を通しては、その存在を推定することはできません。
 ここで仮説理論が問題になってきます。仮説とは、その仮定が真実であるかどうかを直接にではなく、ただその結果を通してのみ知る、ということです。私たちは、直接的には経験できないような基本的要因を前提にするときにのみ、説明される一連の顕現を見ることになります。そのような仮説は原則の推定にまで拡張できるでしょうか?それは明らかに不可能です。何故なら、内的な原則を経験することなく推定するというのは矛盾だからです。仮説によって仮定できるのは、私がまだ知覚していないものであって、もし、外的な障害が取り除かれたならば知覚することになるものだけです。「仮説は確かに知覚されない何かを仮定することができますが、可能性としては知覚できるものでなければなりません。」ですから、私たちはあらゆる仮説を、将来の経験を通して、検証できなければなりません。仮説が正当化されるのは、それが仮説的であることを越えていく可能性があるときだけです。「中心的な科学的原則」に関する仮説に価値はありません。ある事物が既に知られた具体的原則を通して説明され得ないとき、それは説明不可能であり、説明を求めることもありません。

 

5.倫理的、歴史的な科学

 私たちは、認識とは何か?という問いに答えることで、世界に対する私たちの関係についての何らかの明晰性に至りました。この問題を取り扱う中で私たちが発達させてきた観点は人間の行為の価値と重要性にも確かに光を当てます。私たちが私たちの人間としての役割をどのように考えるかによって、私たちが世界の中で成し遂げることがらにどのような意味があるかが決定づけられることになるでしょう。
 私たちの最初の仕事は、人間の活動の本質を調べる、ということになります。人間の行為がもたらす影響は宇宙的なプロセスにおけるその他の出来事による影響とどのように比べられるでしょうか?二つのこと、つまり自然の産物と人間の創造―例えば、結晶と車輪―について考えてみましょう。どちらの対象物も概念として表現され得る法則の結果として私たちの前に現れます。唯一の違いは、結晶はそれを規定する自然法則の「直接の」産物であると考えるべきであるのに対して、車輪の場合、概念(法則)と対象物の間に人間が介入している点です。自然の対象物が有する現実性の根底にあると考えられるものが、人間の活動を通して、現実の中に導入されるのです。
 私たちは知るという行為を通して感覚的な経験を決定づけている原則を経験します。すなわち、私たちの思考が現実の内部に既に存在しているアイデアの世界を明らかにするのです。私たちは、絶えず産物を生じさせていますが、もし、私たちの思考がなければそれら自身の内に永久に隠されたままに留まるであろう主体を呼び出すことによって、世界のプロセスを完成させるのです。とはいえ、私たちがまだ実現していないアイデアの世界を現実へと導入することによってこのプロセスを補足するのは、私たちの活動を通してです。私たちはアイデアがすべての存在の基礎、それを決定づける条件であり、自然の意図であることに気づきました。私たちが世界プロセスの傾向、創造の意図を私たちの自然環境の中に含まれる兆候の中で把握できるようになる地点にまで私たちを導くのは私たちの認識です。私たちはそれを行った後、私たちの行為の中で、その意図の実現に向けて個人として働くように促されます。ですから、私たちの行為はその種の生産性の直接的な成就として現われるのです。つまり、それらは世界の根底から直接流れ出すものなのです。
 そして、それにもかかわらず、私たちの行為とあの自然の活動とはいかに異なっていることでしょうか!自然の産物はそれらを支配しているように見える理想的な法則性を決してそれら自身の内に担ってはいません。それらはより高次の何か―人間の思考―との出会いを求めています。そして、支配する原則が「この思考」の前に現れるのです。人間の活動においては、アイデアが活動的な対象物の内に(つまり、人間の中に)直接宿っており、その点で異なっています。そして、もし、より高次の存在がそれに出会うとすれば、この存在は私たちの活動の中に私たち自身がそこに置いたものだけを見出すことができるでしょう。すなわち、完全なる人間の行為とは私たち自身が意図したものの結果であり、他のものではありません。
 ある自然の産物が他の産物に影響を及ぼすのを見るとき、私たちはひとつの効果を見ます。その効果は概念として表現し得る法則によって決定づけられます。けれども、それを何らかの法則に結びつけるだけでは、その効果を理解するには不十分です。私たちは第二の知覚可能な事物―それもまた私たちは完全に概念へと帰着させることができなければなりません―を必要とします。地面に穴があいているのを観察するならば、私たちはそれを作った物体を探します。こうして私たちは、ある現象の原因が別の外的な知覚として現われるときに活動している主体に関する概念―つまり、「力」という概念―へと導かれます。私たちが力に出会うのは、あるアイデアがまずひとつの知覚対象の中に現れ、そして、その形態において、別の対象に影響を及ぼすときだけです。
 これとは対照的に、そのような媒体が抜け落ち、直接アイデアが感覚の世界に近づく例があります。そのような状況では、アイデアそのものが原因をなす主体として現われます。私たちが「意志」について語るのはここにおいてです。「意志とは、力として捉えられるアイデアそのものなのです。」意志を独立した主体として語ることは全く容認できません。人間が行為を遂行するときに意志がアイデアにつけ加えられる、と言うことはできません。そのように語る人がいるとすれば誰であれ、関係する概念についての明確な理解に至っていません。人間の個性とは、もし、それを満たすアイデアの世界を度外視するならば、結局のところ、何なのでしょうか?もちろん、それは活動的な存在です。それを別様に―死んだ、惰性的な自然の産物のように―考えるならば、生命のない石のレベルにそれを置くことになります。とはいえ、この活動的な存在性は抽象的なものであり、具体的な現実ではありません。それは掴むことができず、実体のないものです。もし、私たちがそれを掴み、それに内容を与えようとしても、私たちは活動に携わるアイデアの世界へと立ち戻るだけです。エドゥアルト・フォン・ハルトマンはこの抽象性をアイデアに次ぐ第二の世界を構成する要素とします。けれども、それは顕現した形態におけるアイデア以外のものではありません。アイデアを欠く意志は「無」です。このことはアイデアについては言えません。何故なら、活動はその要素の一つであり、一方、アイデアはそれ自身で自立した存在だからです。
 さて、今まで述べてきたことから必然的に生じてくるような人間の活動における別の特徴について考えてみましょう。私たちが自然の出来事を説明するとき、私たちはそれをその条件にまで辿っていきます。つまり、与えられた産物の「制作者」を見つけようとします。私が一つの効果を観察するとき、その原因を探すだけでは不十分です。これら二つの知覚だけでは説明を求める私の必要を満足させません。むしろ、私は「この」特別な効果を有する「この」特別な原因が従っている法則に立ち返らなければならなりません。ここでは決定する法則性そのものが活動を担っており、産物を形成する原因となる主体が登場します。この顕現する実体の場合、私たちはその根底に横たわる決定要因をさらにそれを超えて探す必要はありません。私たちが芸術作品として体現されたアイデアを認識するとき、私たちはその作品を理解するのであって、アイデア(原因)と効果(作品)の間の法則的な関連を超えるものを探す必要はありません。私たちが政治的な指導者の行動を理解するのは、私たちがそれらの背後にある意図(アイデア)を知るときであって、それ以上のことを調べる必要はありません。「こうして、私たちは自然のプロセスと人間の行為とを区別します。自然のプロセスにおいては、法則は表現された存在へと至るものの背後にあって、その根底に横たわる決定要因である一方、人間の行為においては、存在そのものが法則となり、ひたすらそれ自体によって決定づけられます。」したがって、あらゆる自然のプロセスにおいて、私たちは決定づけるものと決定づけられるものとを区別することができます。決定づけられるものは必然的に決定づける要因の後に続きます。ところが、人間の行為はそれら自体によってのみ決定づけられます。それが行動の「自由」です。自然の意図(そして、それらは表現されたものの背後にあってそれらを決定づけています)が人間の中に入るとき、それらは隠された原因によって決定づけられるのではなく、表現されたものとして自らを開示するのです。すべての自然のプロセスがアイデアの表現であるとすれば、人間の活動は行為の中のアイデアそのものなのです。
 私たちは、私たちの認識論の中で、私たちの意識は単に世界の根幹に関するイメージを形成するための手段ではなく、この基本的な法則性自体が私たちの思考の中でその最も主要な形態において自らを開示しているのだ、と結論づけました。ですから、人間の行為の中にもこの主要な法則性が無条件に活動しているのが分かります。私たちは私たちの行為に目的と方向性を付与するために世界の導き手を必要としません。世界の導き手はその力を放棄し、人間の手にすべてを委ねました。つまり、彼は独立した存在性を放棄し、その仕事を続けることを私たちの使命として割り当てたのです。私たちはこの世界にあって、自然を観察し、何かより深いもの―隠された法則と意図―がそこに示唆されているのを認めます。私たちの思考が私たちに気づかせるようにしたそれらの意図は私たちの精神的な所有物となります。私たちは今や世界の根底へと貫き至り、それらの意図の実現に向けた活動に取りかかります。
 ですから、ここで提示された哲学は真の「自由の哲学」なのです。人間活動の領域において、それは自然の必然性も外的な創造主あるいは世界の指導者の影響も認めません。何故なら、いずれの場合にも人間は自由ではあり得ないからです。もし、自然の必然性が、他の存在の場合にはそうであるように、私たちの中で機能していたならば、私たちは強制の下で活動していたことでしょう。そのような活動を理解するために、私たちはそれらを規定する外的な要素を探さなければならず、自由は問題外だったでしょう。もちろん、私たちはこの範疇に入る無数の人間活動があるという事実を排除するものではありませんが、ここではそれらについては考えません。人間は自然の存在である程度に応じて、自然のプロセスを支配する自然法則の意味でも理解することができるでしょう。けれども、厳密に自然法則の観点から人間存在を考えるとしても、認識する存在あるいは真に倫理的な存在としての私たちの活動を説明することにはなりません。私たちが自然のできごとの領域を実際に乗り越えて行くのはこの点においてです。ここで立証したことが当てはまるのは私たちの最も高次の可能性についてであり、それは現実的というよりはむしろ理想的なものです。人が生きる途上には、自然存在であることから今お話ししたような存在に向けての私たちの進化が含まれています。すべての自然法則から自分たちを解放し、私たち自身の法則を自分たちに付与することが私たちの使命なのです。
 私たちはまた他の世界から人間の運命を導くものをも拒絶しなければなりません。私たちがそのような指導による存在性を担うやいなや、私たちはもはや真の自由について語ることはできなくなります。そのような力は人間の活動を決定づけながら方向づけるので、人間は方向づけられたようにせざるを得なくなります。こうして、私たちは私たちが自分で設定した理想としての私たちの行為の動機づけではなく、あの力による戒律としての動機づけを経験することになります。そこでの私たちの行為は自由というよりも、決定づけられたものとなります。私たちは外的な強制から自由ではなく、それに依存している−より高次の力による意図のための単なる媒体−としか感じられないでしょう。
 私たちが見てきたような教条主義は、私たちの主観的な意識の外にあって、それにとっては接近不可能な主体を求めることによって、何かが真実であることの理由を見出すよう努めることを含んでいます。一方、私たちの観点がひとつの判断の真実性を確認するのは、私たちの意識の中に含まれ、その判断へと流れ込む概念の中にその理由が存在しているからです。私たちのアイデアの守備範囲を超えたところに世界の基盤を考える人たちは、私たちが何かを真実であると認める理由はその真実性のための客観的な理由とは異なるものである、と信じていなければなりません。こうして真実はドグマとして思い描かれることになります。倫理の領域における戒律は科学の領域におけるドグマと同じものです。自分の行いを戒律の上に基礎づける人たちは彼らが定式化したのではない法則にしたがって活動します。つまり、彼らは彼らの行いのために外的に処方された規範を求め、「義務」から行動するのです。義務について語ることに意味があるのはこの文脈においてのみです。私たちが外的なものとして動機を経験するとき、私たちは「必然性」に屈服し、義務から行動しながらそれに従うのです。
 人間の本性が道徳的な成熟に達したところでは、私たちの認識論はこの種の行為の正当性を認めることができません。私たちはアイデアの世界の無限の完成度を認めます。つまり、私たちは、私たちの行いのための衝動は私たちの中にあるこの世界から輝き出してくるということ、したがって、唯一の倫理的な行いとは私たちの内部にあるそれらに対応するアイデアから直接輝き出してくるものであるということを知っています。この観点によると、私たちが行為を遂行するのはそれを実現するための内的な必要性を感じるからに他なりません。私たちは外的な力ではなく、私たち自身の意欲が私たちを動機づけるからこそ行動するのです。私たちがその概念を形成するやいなや、私たちの行為の対象が私たちを内的に満たし、それによって、私たちはそれを遂行するように活発に努めます。私たちの行為にとっての唯一の動機づけはアイデアを実現しようとする衝動、目的を達成するための意欲でなければなりません。私たちを行動へと駆り立てるものであれば何であれ、まず私たちの中でアイデアとしてその生命を展開しなければなりません。そして、私たちは義務や盲目的な本能からではなく、私たちの行為が向けられている「対象への愛」から行動します。その対象は、私たちがそれについて思い描くとき、その本性にしたがって、私たちの中に行為への意欲を呼び起こします。
 これが、そして、これだけが自由な行いです。もし、対象への興味を超えた別の動機があるとしたら、私たちは行為のためだけにではなく、「何か別のこと」を達成するために活動していることになります。そのときの行為は何か私たちが本当には欲していないもの、「私たちの意志に反する」行為でしょう。私たちがエゴイスティックに行動するときには、これが当てはまります。そのとき、私たちは行為そのものに興味はなく、それが私たちにもたらすものへの必要を感じているのです。けれども、そのとき、私たちはある種の強制を感じるのですが、それは私たちが望む利益を得るためにはその行為を遂行しなければならないからです。行為そのものへの必要性は感じられず、もし、利益がもたらされないのであれば、私たちはそれを行うこともないでしょう。しかし、そのためだけに遂行される行為でなければ自由な行為ではありません。「エゴイスティックな行為は自由ではありません。」行為自体の客観的な満足以外の理由から為される私たちの行為はいずれにしても不自由です。私たちが「それ自体のために」行為を遂行するとき、私たちは「愛」から行動します。「私たちの活動への愛、つまり、客観的な世界への献身によって導かれるときにのみ、私たちは真に自由なのです。」もし、そのような無私の献身ができないのであれば、私たちは決して私たちの行為における自由を経験することはないでしょう。もし、人間の活動が私たち自身のアイデアの実現以外のものでないとしたら、もちろんそれらのアイデアは私たち自身の内に存在していなければなりません。私たちは内的に生産的でなければなりません。結局のところ、私たちの心の中で形成されるアイデアを除いて、私たちを動機で満たすものが他にあるでしょうか?そのアイデアがより明確に、より鮮明に輪郭づけられていればいるほど、それはより多くの実りをもたらすでしょう。私たちはひとつのアイデアとして十全に形成されたそれらの行為の実現に向けて力強く駆り立てられます。漠然と考えられた不明確な理想は行為への動機として適当ではありません。もし、それらが生き生きとして明確なものでなかったとしたら、どうして私たちの熱情に火をつけることができるでしょう?ですから、私たちの行為への動機はいつでも個人的な意図として生じなければなりません。人間が行うあらゆる実り多きことがらは個人的な衝動に発するものです。すべてに適用される普遍的な「道徳法則」や倫理的な規範は全く無価値です。もし、カントの言うところにしたがって、道徳性が法則として誰もが受け入れることができるものからのみ成り立っているとしたら、私たちのそれに対する答えは、もし、誰もがすべてに適うことだけを行うべきであるならば、前向きな活動は止み、偉大さは失われるであろう、というものです。そうではなく、行為は漠とした一般的な倫理規範によってではなく、最も個人的な理想によって導かれなければなりません。誰もがそれを望むことができるものなど存在しません。望みは人によって、それぞれの天命にしたがって、様々に異なります。「カントにおける倫理的な自由」(ベルリン、1882年)という随筆の中で、J.クライエンビュールは次のように述べています。

もし、自由が実際に「私の」自由であるならば、つまり、もし、ある道徳的な行為が「私のもの」であるならば、そして、もし、善や正義が「私」を通して―「この」特別な個人の行為を通して―実現されるのであれば、あらゆる並列する状況や要求を顧慮しない一般的な法則、あらゆる行為に先立って、それを導く動機が普遍的な人間本性の抽象的な規範に合致するかどうか、そして、それが私の中に生きて働くとき、振る舞いの一般的な標準になり得るかどうかについて、私が検証する一般的な法則で私が満足することはあり得ない・・・このような仕方で一般的に受容可能なものに適応することは、あらゆる個人の自由、通常的で偏狭なものを越えて行く進歩、そして、意義深く、顕著で、そして、画期的ないかなる倫理的成果をも不可能にしてしまうだろう。

 このことはいかなる倫理体系にとっても答えるべき問いに光を当てます。通常、それらは倫理が人間の活動を方向づけるための規範の集合であるかのように取り組まれます。この観点からすると、倫理は自然科学の―実際、現実を扱うすべての科学の―対極に置かれます。科学が存在するものの法則を示そうと努めるのに対して、倫理は存在すべきものの法則を私たちに教える、と考えられているのです。倫理はあらゆる人間的な理想、「善とは何か?」という問いに対する詳細な答えを包含する行動規範であると期待されているのです。
 その種の科学は不可能です。この問いに対する普遍的な答えはありません。倫理的な行いとは個々人の内に生じるものの産物です。それはいつも個別の場合に生じるのであって、一般的に生じるのではありません。人が行うべきこと、あるいは行うべきでないことについての一般的な法則はありません。人は様々な国の法律をそのような仕方で見るべきではありません。つまり、それらもまた個別的な意図の表現以上のものではないのです。ある人が道徳的であると感じたものが国全体に移されて「その土地の法律」になったのです。すべての民にいつの時代にも通用するように企図された普遍的な自然法則はひとつの怪物です。法哲学や道徳の概念は国によって、あるいは人によってさえも移り変わります。結局のところ、決めるのはいつでも個人です。ですから、このような仕方で倫理について語ることはできないのです。
 とはいえ、倫理という科学が答えることができる他の問いがあります。それらの問いにはついでの折に触れてきましたが、具体的には、人間の活動と自然の事象の違い、意志と自由の特性、等々です。これらはすべてひとつの問い、つまり、人間はどの程度本質的に倫理的であるか?という問いに集約されます。これは簡単に言えば人間の道徳的な本性への洞察に関する問いです。その問いは、人間は何を為すべきなのか?ではなく、むしろ、人間がその内的な本性にしたがうときには何を為すか?というものです。
 すべての科学をあらゆる存在するものについての科学と何が存在しなければならないかについての科学という二つの領域に隔てていた壁がこうして取り払われます。「あらゆる科学と同様、倫理とは何が存在するかについての科学なのです。」この意味で、すべての科学に共通するもの、つまり、それらは所与のものから進み出て、それを決定づける条件へと発展する、ということがあります。とはいえ、人間の活動についての科学は存在し得ません。何故なら、そのような活動は不定で、生産的で、創造的なものだからです。法学は科学ではなく、ひとつの国家の個別性に適う法的な慣習についての「記録の集成」です。
 個人としての人間は、自分自身に属しているだけではなく、二つのより大きな全体に属しています。まず、国家の一員として、個々人は社会的な慣習によって結びつけられ、共通の文化、言語を有し、観点を共有しています。しかし、個人としては、私たちは歴史の市民でもあり、人類進化の偉大なプロセスに参画しています。この偉大な全体に対する二重の忠義は私たちの自由な人間活動を制限しているように見えます。私たちの活動は個人の産物であるだけではなく、私たちが私たちの国家と共有しているものによっても条件づけられているように見えます。私たちの個人性は国家的な性格によって根こそぎにされているように見えるのです。では、もし、私の行為が私の個人的な性質の表現としてだけではなく、大部分が私の国籍の表現としても説明することができるとしたら、私は自由なのでしょうか?私がある一定の仕方で振舞うのは、たまたま自然が私をこの特定の国家共同体の一員にしたからなのでしょうか?人類史の中での私の位置についても同じことが言えます。私は私の時代の子供として、私が生まれてきた文化的な時代の影響を受けることになります。
 けれども、もし、私たちが知識と行為の両方を有する存在であるとしての私たち自身を眺めるならば、その矛盾は自ずと解消します。認識能力は、私たちが私たちの国民としてのアイデンティティーの特徴を理解し、私たちの仲間の市民がどこへ向かおうとしているのかが分かるようにしてくれます。私たちを決定づけているように見える要素こそが、正に私たちが超越し、十全たる意識をもって私たち自身の中に取り込むべき要素なのです。そうすれば、それらは私たちの中で個別的なものとなり、自由な行為における個人的な特徴を獲得します。私が私の位置をその中に占めるところの歴史的な進化についてもそれは言えます。私が私の時代の支配的な考えや道徳的な力への洞察を獲得するとき、それらはもはや私を決定づけるのではなく、個人的な動機となります。
 私たちは私たちの時代や文化に活発に貫き至ることによって、私たちがそれらに導かれるのではなく、私たち自身が導くようになる必要があります。私たちは私たちの国家の特徴によって盲目的に導かれるのではなく、それを理解することによって、私たちの国家精神において「意識的に」働くことができるようにならなければなりません。私たちは文化的な発展に押し流されるのではなく、むしろ、私たちの時代の考えを自分のものとすべきなのです。そのためには、まず私たちがその中に生きる文化を理解しなければなりません。そして、私たちは自由の中で私たちの時代の使命を果たし、適切な文脈の中で私たちの努力を傾注することになるでしょう。私たちが人文科学(歴史、文化的かつ文学的な歴史、等々)を必要としているのはここにおいてです。人文科学において、私たちは人類が達成したもの―文化、文学、芸術、等々が成し遂げたもの―を見ます。そこでは、精神が精神的なことがらを把握します。人文科学の目的は、偶然が私たちを個人としてどこに据えたのかを私たちに認識させる、ということであるべきです。私たちは何が達成され、何を成し遂げる必要があるのかを認識しなければなりません。人文科学は私たちが世界の働きに参加するための正しい場所を見つけるのを助けてくれます。私たちは文化的な世界を認識し、それにしたがって私たちの貢献を決定しなければなりません。
 グスタフ・フレイタグは彼の著書「ドイツの過去のイメージ」(ライプチヒ、1859年)第1巻の中で次のように言っています。

国家的な力によるあらゆる偉大な創造物―伝統的な宗教、慣習、法律、そして政府―は、もはや個人的な人間が達成したものと見なすことはできない。それらはより高次の生命の有機的な創造物であり、どの瞬間を取ってみても個人を通してのみ目に見えるようになるもの、どの瞬間を取ってみても個々の精神をひとつの偉大な全体へと統合しているものである・・・したがって、それについては神秘的になることなく民族魂について語ることができる・・・しかし、個人の意志とは異なり、国家の生命は意識的には働かない。歴史の中で自由で理性的であるものは個人によって代表される。国家的な力は原初の力の暗い強制とともに飽くことなく働いているのだ。

 もし、フライタグが国家の生命を検証していたとしたら、彼はそれがその個人たちの行為の総体へと自らを解消するのを見たことでしょう。彼らは無意識的であるものを彼らの意識へと上昇させることによってこの暗い強制を克服します。彼は正に彼が民族魂と呼び、暗い強制として記述するものがいかに意志という個人的な衝動―人間の自由な行為―から生じるかを見たはずです。
 とはいえ、私たちは個人的な人間の国家の中での働きにおけるさらに別の側面について考えてみなければなりません。個々人は精神的な可能性、力の総体を表しており、それらはその活動を展開する可能性を求めています。ですから、個人としての私たちは私たちの働きが国家有機体の中に有意義に組み込まれ得る場所をそれぞれ見出さなければなりません。私たちが私たちの場所を見出すかどうかを偶然にまかせるわけにはいきません。国家の憲法の目的は各人が適当な活動場所を見つけるのを保証するということです。国家とは国家有機体がその中に生きる形態のことです。
 人類学と政治学の使命は、どうすれば人々が国の中で個人としての能力を発揮することができるかを見出す、ということです。憲法はその国の最奥の存在から生じなければなりません。最良の憲法とはその国の特徴を明確な形式において表現するものであるはずです。政治的な指導者たちは憲法を国民に強制することはできません。彼らは彼らの国の性格を最も深いところにまで検証し、適切な憲法を通して潜在的な傾向に通じるチャンネルをつけなければなりません。ある国の大部分がそれ自身の性格とは対立する方向へと引っ張られる、ということが起こり得ます。ゲーテによると、そのとき国家の指導者たちはその国によって自らが導かれるように強いられるのであって、大多数の一時的な要求によって導かれるのではありません。そのとき彼らは、国家に対して、国家の最奥の特質を代表すべきなのです(散文の中の韻)。
 ここで歴史的な探求の方法について一言つけ加えておくべきでしょう。歴史学は、歴史的なできごとの原因は個々人の個人的な意図、計画、等々の中に見出される、ということをいつでも心に留めておかなければなりません。歴史的なできごとをその根底に横たわる計画にしたがって説明するのはいつでも間違いです。一定の個人たちの目標、彼らが取った道筋、等々について、いつも問わなければなりません。歴史学はいつでも人間的な性質、人間的な意志、人間的な傾向に基づいていなければならないのです。
 私たちは今、ゲーテ自身の言葉によって、倫理的な科学について述べられてきたことを実のあるものにすることができます。

理性の世界は偉大かつ不死の個として考えられるべきものであり、止むことなく必要なことがらを行い、そうすることによって、偶然のできごとさえ使いこなす。(散文の中の韻)

 私たちがこれを理解できるのは、私たちが記述してきたような個々人と歴史的な進展との間の関係という意味においてのみです。彼が次のように言うとき、ゲーテは歴史における個々人の積極的な活動に言及しているのです。

いかなる種類のものであれ、絶対的な行為は破産へと導く・・・私たちは誰も、その能力と技術の限界内で活動する限り、完璧ではありえない・・・(その国民や時代の指導的な考えへと自らを高める必要性に関しては)我々一人一人が我々の時代に働きかけるために、我々が有するどの器官が使用可能であり、かつ使用すべきかを我々自身に問いかけようではないか・・・我々は我々自身がどこに立っており、他の人間たちがどこへ行きたがっているのかを知る必要がある・・・(私たちの義務に関する観点が確認されるのは)「義務」とは、人が自らに行うように命令したものを愛するときのことである。(散文の中の韻)

 私たちは認識し活動する存在としての個人の独立性を一貫して確立してきました。私たちはいかに私たちのアイデアが世界の根底と一致するかを示し、私たちが行うあらゆることがらは私たち自身の個別性からのみ輝き出すことができる、ということを認めてきました。私たちは存在の核心を個人的な人間の内部に求めます。誰も別の人間に教条的な真実を明かすことはできず、誰も別の人間に行動を強制することはできません。私たちは個人として、私たち自身に立脚しています。個人としての私たちが何者であるにせよ、他の人たちの力によってではなく、自分自身の力によってそれにならなくてはなりません。私たちは、私たち自身の幸せの源泉を含め、あらゆるものを私たち自身から産み出さなければなりません。私たちは、私たちを導く力、方向性や私たちの存在の内実を決定づけ、私たちに依存を強いる力は問題になり得ない、ということを見てきました。もし、私が幸せを見出すべきであるならば、それを生じさせることができるのは私だけです。何らかの永遠の力が私の行動規範を前もって処方することはあり得ません。また、そのような力は私の中に満足の感情を目覚めさせる能力を事物に付与することもありません−私はそれを自分で行わなければなりません。私にとって満足や不満足が存在するのは、まず私がそれらの感情を私自身の中に目覚めさせる力を対象物に帰属させていたときだけです。私たちに満足を与えたり、何も与えなかったりするものを外から決定するような創造主がいたとすれば、私たちを鎖に繋いで引き回すことになっていたでしょう。
 あらゆる楽観主義や悲観主義はこうして反駁されます。楽観主義者は、世界は完全で人に最大限の満足を与える源泉である、と考えます。もし、私がそれを真実と仮定するならば、私はまず達成され、そしてそれによって満足させられるべき必要を「私の中に」発達させていなければならないでしょう。私が世界の対象物から要求するものを、私が引き起こさなければならないでしょう。一方、悲観論者たちは、世界とはいつも私たちを不満足のままにしておくものであり、幸福は不可能である、と信じています。もし、自然が私たちに外から幸福を許諾するものであったとしたら、人間とは何と哀れな生き物であったことでしょう。地上の力は、私たちがまず私たちを引き上げ、そして私たちを幸福にする魔法の力をそれに貸与していなかったとしたら、私たちに満足を与えることはない、という事実を考えてみるとき、私たちを満足させ損なう存在や厳しい世の中についてのあらゆる不平は終息するに違いありません。幸福とは、私たちが事物から私たち自身で創り出すもの、私たち自身の創造行為から生じるべきものなのです。これだけが自由な存在に値するものです。