ルドルフ・シュタイナー

ゲーテの自然科学論序説~並びに、精神科学(人智学)の基礎~

(GA1)

第12章

ゲーテと数学

佐々木義之訳


 科学にとってのゲーテの意義を公平に評価しようとするときの大きな障害のひとつは彼と数学との関わりに関する偏見です。これは二重の偏見です。第一に、ゲーテは数学的な科学の敵であり、人類の認識にとってのその重要性を大いに過小評価していた、と信じられています。第二に、詩人は数学的な背景を欠いており、その不能さゆえに自然科学の物理的な側面に対するいかなる種類の数学的なアプローチも避けていた、と主張されています。
 私たちは、最初の点に対して、ゲーテは数学的な科学に対するはっきりとした称賛を繰り返し表明しており、彼がそれを低く評価していたと言うのはほとんど意味がない、ということを強調しなければなりません。実際、彼はすべての自然科学が数学の持つ厳密な特徴をもって遂行されるのがより好ましいと思ったはずです。

私たちが数学から学ばなければならないのは、あるものが以前のものからどのように続いているかを絶えず把握しながら、ものごとをその正しい順序で入念に配置する、ということです。そのようにして、私たちは、たとえ計算を用いないときでも、あたかも最も厳密な幾何学者にそれを説明しなければならないかのように、私たちの仕事に取りかかります・・・私は数学の反対者、敵と呼ばれてきましたが、一方で、私以上にそれを高く評価することができる者は誰もいませんでした。

 ゲーテの特質に対してなにがしかの洞察を有する人にとって、第二の非難を真剣に取り上げるのはほとんど不可能です。ゲーテが繰り返し懸念を声にしていたのは、使命を帯びていながらその使命が自分たちの能力の範囲内にあるかどうかを決して考えることのない問題の多い人たちの仕事についてです!私たちは、ゲーテ自身がこの教訓を破った、彼は数学者としての彼自身の限界を考慮することなく彼の科学的な観点を発達させた、と信じるべきなのでしょうか?ゲーテは、真実に続く道は無数にあり、私たちはそれぞれの個的な能力に最も適した道を進むことができる、ということを知っていました。

私たちはそれぞれ私たち自身のやり方で考えなければなりません。何故なら、私たちはいつも私たちの人生の助けになるような何らかの真実であるもの、あるいは一種の真実をその途上で見出すからです。主要なことは、流されるのではなく、自制心を保つということ・・・私たちは誰も私たちの個的な能力や技能の範囲内で仕事をすることで完全であることはできません。しかし、私たちがこの不可欠の節度から逸脱するとき、最も繊細な特質が曇らされ、無効にされます。(散文の中の韻)

 ゲーテは何かを成し遂げようとしてその知識を超えた分野に関わったはずだ、と主張するのは馬鹿げたことです。数学の使命とその自然科学への貢献とがどこから始まるかを決定する、というのが主要な点であり、ゲーテはそれに対してきわめて慎重な注意を払いました。彼の創造力の境界を規定するということで彼の正確さを超えていたのは彼の天才としての深みぐらいのものでした。ゲーテの科学的な思考についての唯一のコメントが、彼は論理的な心的能力を欠いていた、ということであるような人たちのために、私たちは特にそのことを指摘したいと思います。数学の科学としての「特質」に関する深い理解は、ゲーテが彼自身の自然科学の方法と数学の方法との間に区別をつけたその仕方によって明らかとなります。彼は数学的な確実性の源泉を正確に知っており、数学の法則と他の自然科学の法則との間の関連について明確な概念を形成していました。
 ひとつの科学が認識にとって何らかの価値を持ち得るためには、まずは現実における特定の領域に対する洞察を提供しなければなりません。それは世界の特定の側面を発達させなければなりません。それが「どのように」なされるかは、それぞれの科学の精神によります。自然科学により計算を用いることなく達成され得るもの、あるいは達成され得ないものを決定するために、ゲーテは数学の精神を知っていなければならなかったはずです。これは本当に重要な点です。そして、ゲーテはその点をとても強調していました。彼が数学の本質を理解していたことはこれからも明らかです。
 数学の本質についてもう少し詳しく考えてみましょう。数学が取り扱うのは大きさです。つまり、量を決定するということです。しかし、大きさはそれ自体では存在しません。人間の経験におけるどの領域を探しても「単に」大きさであるものは存在しません。事物におけるあらゆる特徴の中には、何らかの数で記述され得るものがあります。数学は量的な要素に関わりますから、その対象は決して完成された現象ではなく、測定されたり、数えられたりできるような側面になります。それはそのような操作にかかり得るあらゆるものを現象から分離します。そして、抽象の世界全体を手に入れた後、それに働きかけることへと進みます。
 ですから、数学は、事物というよりも、事物を測定に適うものにするところのその側面を取り扱います。そして、それが認めなければならないのは、それは現実の「一側面」に過ぎず、そのコントロールが及ばない他の多くの側面がある、ということです。数学的な判断は、現実の対象物を完全には包含せず、私たちが完全な現実からその「ひとつの」側面として自ら概念的に分離するところの抽象性という知的な領域の中でのみ有効なのです。数学は事物の大きさと量を抽出します。それは大きさや数の間の理想的な関係を確立し、それによって、純粋な思考の領域へと上昇します。現実の対象物は、それが定量化される程度に応じて、数学的な真実が適用されるのを許容するのです。
 しかし、数学的な判断は自然をその全体性において包含し得る、と信じるならば、それは大いなる誤りでしょう。自然は単に量であるばかりではなく、質でもあります。ところが、数学は自らを量に限定するのです。数学的な処理と質的な処理とは共に働かなければなりません。それぞれが一方の側から現象に接近しながら、その中で出会うのです。ゲーテは次のように述べて、この関係を表現しました。

数学は、弁証法と同様、私たちのより高次の能力のための器官です。その実践は、修辞法と同様、芸術です。いずれの場合にも、形態が唯一の判断基準であり、内容は問題になりません・・・数学が何ポンドあるいは何ギニーのどちらを加えるのか、修辞法が真実あるいは虚偽(のどちら)を擁護するのかは、それらにとって全くどうでもよいことなのです。(散文の中の韻)

 そして、ゲーテはその「色彩論の概要」の中で次のように述べています。「数学―最も素晴らしい人間の能力のひとつ―が、『ひとつの特別な側面』から、非常によく物理学に貢献したことを誰が否定できるでしょうか?」ゲーテはこのことを認めていたので、数学的な素養がない心でも-もし、その心が自らをその量的な側面に限定するならば-物理学における問題を取り扱うことは可能であると見ていました。