ルドルフ・シュタイナー

ゲーテの自然科学論序説~並びに、精神科学(人智学)の基礎~

(GA1)

第13章

ゲーテの地質学上の基本原則

佐々木義之訳


 ゲーテを見つけることが全くできないところで彼を探す、ということがよくあります。ゲーテの地質学的な探求の評価においては特にそうでした。他のどの場所にも増して、ここでは彼が書いたあらゆるものを背景へと退かせ、彼の意図が前面に出てくるようにする必要があるでしょう。彼は、「人間の仕事を見ると、そして、自然の仕事もそうですが、私たちが特別な注意を払うに値するのはその意図です(散文の中の韻)。」という、そして、「我々がそこから働くときの精神こそが最高のものなのだ(ウィルヘルム・マイスターの修業時代)。」という彼自身の格言にしたがって評価されるべきです。見習う価値があるのは彼が成し遂げたものというよりも、彼がそれを達成するためにどのように働いたかということ、つまり、それは彼の方法論であって、彼の個々の理論ではありません。ゲーテが成し遂げた個別のことがらは彼の時代の個々の手段に依存しており、今では時代遅れとなっています。ゲーテの方法論は彼の精神の偉大さから生じたものであり、たとえその間に科学的な機器が完成されたものとなり、経験の幅が拡がったとしても、それが有効であることに変わりありません。
 ゲーテが地質学へと導かれたのは彼の公的な任務の一側面となっていたイルメナウ鉱山との関わりを通してでした。カール・アウグスト大公が権力の座に着き、長く見捨てられていた鉱山に専心するようになりました。専門家たちまずはその衰退の原因をつきとめようとしました。その後、あらゆる手段をもって、その再開が図られました。ゲーテはカール・アウグストの補佐役として精力的に仕事に着手し、自分で情報を集めるため、しばしばイルメナウ鉱山に入りました。1776年5月以降、彼は何度もそこで見かけられるようになりました。
 これらの「実際的な」関心事のただ中で、彼はそこで観察することができたものへと貫き至る自然法則をよりよく理解するという科学的な必要性をも感じていました。彼の心の中でますます明確に形づくられていた自然に関する包括的な観点により、彼は眼前に広がっているものに対する彼自身の説明を見出すように強いられたのです(彼の随筆「自然」参照)。
 ゲーテの特質が特別なものであることに私たちは初めから気づかされます。彼の関心事は多くの研究者たちのそれとは異なっているのです。他の人たちにとって、最大の関心事は個別のことがらを知るということです。そして、アイデアの大建造物、ひとつのシステムへの関心は、それが個別のことがらを観察するために彼らの役に立つ限りにおいて存在しています。ところが、ゲーテにとって、個別のことがらは単に彼が存在についての包括的な概念に向けて進むときのひとつの通過点に過ぎません。彼の随筆「自然」には、「彼女(自然)は多くの子供たちの中に生きている、そして、彼女は、母親はどこに?」とあります。そして、彼の「ファウスト」の中に見出されるのは、単に直接存在するものではなく-例えば、「すべての種子、すべての活動的な力を見ようとする」彼のあこがれについてファウストが語るときのように-それのより深い基盤を理解しようとするところの同様の苦闘です。ですから、彼が地表や地下で観察するものは、世界生成の謎へと貫き至るためのもうひとつの手段なのです。1789年12月28日付けの手紙で公妃ルイーズに「自然の働きはいつでも神によって新たに語られた言葉のようです」と書き送ったことによって、彼のあらゆる探求が生き生きとしたものになります。彼にとって、感覚的な経験はその中に創造の言葉を読み取ることができる精神となるのです。1784年8月22日に、ゲーテはこの趣旨で、フォン・シュタイン夫人宛に「『偉大で美しい記述』はいつでも解読できますが、人々が彼らの瑣末な考えや限界を無限の存在に移そうと努力するときに限って判読不能になるのです」と書き送っています。「ウィルヘルム・マイスター」の中で表現された「もし、私がこれらの裂け目やクレバスを私が解読すべき文字として扱うとしたら―もし、私がそれらを言葉に変換し、それらを読むことを学んだとしたら―どうでしょうか?」という言葉にも同様の傾向が見出されます。
 こうして、私たちは詩人が1770年代終盤に始まったこの記述の解読に向けて休みなく働くのを見ることになります。彼は観察された別々の事物の間に必然的な内的関連を見ることを可能にするような観点を発達させることに努めました。彼の手法は、「発展させ、展開することであり、組み立て、秩序づけることではありませんでした。」花崗岩、斑岩等々を眺めて、それらを外的な特徴にしたがってアレンジするだけでは彼には不十分だったのです。彼はあらゆる鉱物形成の根底に横たわる法則を追求しました。例えば、どのようにして花崗岩はここで、斑岩はそこで形成されるのかを理解するためにだけ彼はそれを必要としたはずです。彼はまず区別した後、統合する側面を探しました。1784年6月12日、彼はシュタイン夫人宛に「私が自分で紡ぎ出した単純な糸がこれらすべての地下宮殿のすばらしい案内役となり、乱れがあるところでさえ、私にひとつの概観を与えてくれます」と書き送っています。彼が探していたのは、それにしたがってある鉱物はここで、別の鉱物はそこで産み出されるような様々な条件下で顕現するところの共通の原理でした。彼は、彼の経験に照らして最終的と言えるようなものは何もなく、唯一変わることのない要素とはあらゆるものの根底に横たわる「原理」である、と考えていました。その結果、彼はいつもある種の鉱物から別の鉱物への「移行」の中に没頭していましたが、それは、自然がその存在におけるひとつの特殊な側面だけを現し、「場合によっては行き止まりになっている」ような明確に形成された産物においてではなく、それらの移行において、意図、あるいは生成的な傾向をはるかに容易に認識することができるからです。
 現代の地質学が鉱物種の間でそのような移行があることを何も知らない点を指摘することでゲーテの間違いが証明される、と考えるのは間違いです。ゲーテは決して花崗岩が実際に何か別のものに移行すると主張したのではありません。一度花崗岩になってしまえば、それで終了し、完成された産物となり、何か別のものになるための内的な形成力はもはやありません。そうではなく、ゲーテは今日の地質学が欠いている何か―花崗岩が花崗岩になる前の、それを形成する「アイデア」、あるいは原則―を探していたのです。そして、それはあらゆる生成の根底に横たわるアイデアと同じものです。ゲーテがある鉱物から別の鉱物への移行を論じるとき、彼は「実際の」移行ではなく、あるときは「この」形態を取って花崗岩になり、次には「別の」可能性を表現して粘板岩になるというように、様々な仕方で自らを表現する客観的なアイデアを意味していました。ゲーテの観点は具体的なアイデア主義であり、何らかの粗野な変成理論ではありませんでした。
 けれども、この鉱物形成の原則がその中に横たわるものすべてを十分に表現するのは総体としての地球内部においてのみです。したがって、ゲーテにとって主要なことは地球の形成です。そこでは、個別のものは各々の場所を見出さなければなりません。彼は、それぞれの鉱物形成がいかにして全体としての地球の内部にその場所を見出すか、ということに興味を持ちます。彼が個別のものに興味を持つのは全体の一部としての個別に対してのみです。結局のところ、ゲーテにとって正しいと思われる鉱物学上の地質体系とは、地球のプロセスを模したものであり、何故、事物があれこれの特別な場所で生じるかを示すものです。彼にとって決定的な要素は、「どこで」、そして、「いかにして」ある種の岩石の形成が行われるか、ということです。ゲーテは他の点ではヴェルナーの仕事に対して大いなる敬意を払っていましたが、鉱物の分類に関しては、それらがどのようにして生じるかを私たちに告げるそれらの成り立ちにしたがってというよりも、むしろ偶然に生じる外的な特徴にしたがってそれを行う点で彼を非難しました。「完全なる体系づけは科学者によってではなく、自然そのものによってなされる。」
 ゲーテは総体としての自然をひとつの偉大で調和的な王国と見なしていた、ということを私たちは思い出さなければなりません。彼は、自然におけるあらゆる事物はある単一の傾向によって活発にされる、と主張しました。彼によれば、もし、事物が似ているとすれば、それはそれらが同じ法則にしたがっているからである、ということでなければなりません。彼は、地質学的な現象には無機的な力以外の要素が働いている、ということを認めることができませんでした。何故なら、それらは本質的に無機的なものに他ならないからです。「ゲーテが地質学に関連して最初に行ったのは、無機的な法則の活動をその科学へと拡張する、ということでした。」この原則は彼がボヘミアの山々やポツオリにあるセラピス寺で観察された現象を理解するのに役立ちました。地球の死せる地殻はその他の物理現象の中で働いているのが見られるような法則と同じ法則にしたがって生じた、と考えることによって、彼はそれに原則を導入しようとしていたのです。
 ゲーテはジェームズ・ハットン(1726-1797)やエリー・ド・ボーモン(1798-1874)の地質理論に内的に反発していました。彼があらゆる自然の秩序に違反していると考えていたそれらの理論をどうすることができたでしょうか?地殻の隆起や沈降理論のようなものはゲーテの「平穏な性質」と矛盾する、というような言い方は陳腐です。そうではなく、それが矛盾していたのは「統合された」自然法則についての彼の感覚とでした。彼はそれらを自然に対応するひとつの観点へと適合させることができなかったのです。彼は既に(1782年)、この感覚を通して、数十年後に至るまでプロの地質学者たちによって認められることのなかった観点、つまり、化石になった動物や植物はそれらが埋められている石と何らかの関係を有している、という観点に至っていました。ヴォルテールは、それらの石について、まだ自然の「遊び心のある産物」として語っていたのですが、それは彼が自然法則の一貫性についての概念を欠いていたからです。
 ゲーテによると、何らかの特別な場所に見出されるものは、その環境との単純で自然な結びつきを見出すことができるときにのみ理解できます。同様の原則はまた氷河期についての実り多いアイデア(「地質学的な問題とそれらを解明する試み」)へとゲーテを導きました。彼は、広い地域に分布する花崗岩の塊についての単純で自然な説明を追求するに当たり、それらは遠く離れた山々の雑然とした隆起によってそこに放り投げられた、という説明は拒絶されなければならない、何故なら、それは既に存在し、よく知られた自然法則の「例外」―実際、その放棄の結果―として自然の事実を説明するからである、と感じました。彼はその代わり、かつて北ドイツ全体が千フィートの深さの水の塊で覆われており、その大部分は凍っていた、そして、その氷が解けたとき、その花崗岩の区画が後に残された、と考えました。この説明は私たちが自分で経験することができる公知の自然法則に基づくものでした。地質学に対するゲーテの貢献は自然法則の首尾一貫した働きについてのこの認識です。彼がカマーベルクをどのように説明したかは、カールスバッドの鉱泉についての彼の説明が正しいかどうかは問題ではありません。「私は意見を押しつけようとしているのではなく、誰でも選択すれば使うことができる道具としての方法を提供しようとしているのです。」(ゲーテからヘーゲルへ、1820年10月7日)