ルドルフ・シュタイナー

ゲーテの自然科学論序説~並びに、精神科学(人智学)の基礎~

(GA1)

第15章

感覚的な知覚の主観性について

佐々木義之訳


 私がこの解説を書こうとしているのは、単に、ゲーテの作品集には彼の色彩論が適切な序論とともに含まれなければならない、という理由からではありません。そうではなく、それは明晰性に対する私自身のより深い必要性から来ています。私自身も数学や物理学を研究することから始めましたが、自然に関する私たちの現代的な観点に含まれる無数の矛盾が、それらの方法論的な基礎の批判的な検証に取りかかるよう、私に強要したのです。以前の私の研究は厳密に経験論的な認識の方向に私を導きました。しかし、それらの無数の矛盾への私の気づきが、厳格で科学的な認識論を要求したのです。私の経験論的な出発点はヘーゲルの純粋に概念的な体系に立ち戻ることから私を守りました。私が、私の認識論的な研究の助けによって、最終的に見出したのは、現代の自然科学における多くの間違いの源泉は単純な感覚知覚に帰せられる間違った機能である、ということです。今日の科学はあらゆる感覚的な特質(音、色、熱等々)を主観に帰し、それらの主観を超えた特質に対応する唯一のものは物質の動きである、と仮定します。もちろん、そのような動きの過程-この「自然の領域」に存在する唯一のものであると主張されるもの-はもはや知覚することができません。それらは主観的な特質から推測されることになります。
 しかし、この結論について注意深く考えてみるならば、その矛盾が明らかになります。動きの概念は、さしあたり感覚的な世界から借りてきたものです-つまり、私たちがそれに出会うのは感覚的な特質を有する事物の中においてのみです。私たちは感覚的な対象物を通してでなければ、動きの経験を有することはありません。もし、私たちがこの推論を感覚的に知覚不可能な実体(不連続な物質の要素、あるいは原子がそのようなものであると推定されますが)にまで拡張するとすれば、私たちは実際、この概念を拡張することによって、感覚を通して知られることになる特徴を非常に異なった(知覚不可能な)存在形態に移し替えている、ということに気づかなければなりません。空虚な原子についての概念の中にとりあえず実際的な意味を見出そうと試みるとき、私たちは同様の矛盾に直面します。それがどんなに昇華されたものであったとしても、それに感覚的な特質を付与するという以外の選択肢はないのです。ある科学者は原子を突き通すことができないもの、あるいは力として記述し、別の科学者はそれを空間中における拡張性等々―いずれにしても、感覚的な領域から借りてきた何らかの特徴-を有するものとして記述します。そして、これらの特徴がなかったとすれば、私たちの概念は全く意味がないものであったでしょう。
 ここにあるのは首尾一貫していないものです。私たちは、知覚的な世界の真ん中に沿って線を引き、一方の側を客観的、他方を主観的であると宣言します。私たちが首尾一貫しているためには、もし、原子がそもそも存在しているとすれば、それらは単に物質の粒子であり、物質的な特徴を有している、それらが私たちに感知できない唯一の理由はそれらの微小なサイズがそれらを私たちの感覚にはかからないものにしているからである、と言わなければならないでしょう。
 これによって、原子の動きを何か客観的なものとして音や色のような主観的な性質に対置する可能性が除かれます。動きと、例えば赤という知覚との関係では、完全に感覚の領域の内部にあるふたつのできごとが見出されるだけである、ということもまたこれによって保証されます。
 その結果、この作家には、エーテルの動き、原子の位置等々は感覚的な知覚そのものと同じ範疇に属している、ということもまた明らかになります。感覚的な知覚を主観的なものとして特徴づけるのは単に曖昧な思考の結果に過ぎません。もし、私たちが、感覚的な特質は主観的である、と主張するのであれば、それはエーテルの動きによるものである、と言わなければならないでしょう。もし、私たちがエーテルの動きを知覚できないとすれば、それは原則のせいではなく、単に私たちの感覚が十分繊細に組織されていないからにすぎません。けれども、それは単に外的な状況による、偶発的なものに過ぎません。人間が感覚器官をますます洗練させることによって、いつかエーテルを知覚することが可能になる、ということは大いにあり得ることです。もし、人々が、遥かな未来において、感覚の主観性というドグマを最終的に受け入れているとすれば、ちょうど今日の人々が色や音などを主観的なものであると宣言するように、彼らはエーテルの動きもまたそうであると宣言しなければならないでしょう。お分かりのように、この物理学的な理論はあり得ない矛盾へと導きます。
 感覚的な知覚は主観的なものである、という観点は「生理学的な考察」によっても支持されます。生理学が私たちに告げるのは、感覚は私たちの体の外にある機械的な過程が感覚器官の中の神経末端に伝えられ、そこから中心の神経系に伝えられ、そこで最終的に知覚を引き起こすことによって生じる、ということです。この理論の矛盾点については、この本の別の箇所(第17章)で記述しています。この過程で唯一主観的であると呼べる側面は脳実質の内部における動きの形態です。私たちがその仮定を主観の中で探求するとき、どこまで行っても、やはり機械的な領域の中に留まります。そして、知覚が脳の中に見出される、ということは決してないでしょう。
 ですから、知覚の主観性と客観性について明確にするには、「哲学的な」考察に頼る以外、私たちに選択の余地はありません。そのような考察は次のような考えに導きます。
 知覚に関して、「主観的」というのは正確には何を意味しているのでしょうか?ひとつの概念としての「主観的」ということを正確に分析しない限り、私たちはどこにも行きつくことはできないでしょう。主観性が決定づけられ得るのは、もちろんそれ自身によってだけです。主体によって決定づけられることが証明されないようないかなるものも主観的であると呼ぶことはできません。私たちは今、人間的な主体に属するものとして記述できるものとは何か?と問わなければなりません。それは、内的あるいは外的な知覚を通して、人が個人的に経験することができるものだけです。私たちは、外的な知覚を通して、私たちの体的な構成を探求することができ、内的な知覚を通して、私たちの思考、感情、そして意志を理解することができます。外的な知覚の場合、私たちは何を主体的なものとして分類するのでしょうか?多分、人によって多少異なる感覚器官と脳を含む私たちの体的な構成全体です。私たちがこのようにして見出すのは、私たちの知覚を仲介するような実質の特別な配置と機能です。この場合、主観的な側面に含まれるのは、知覚が、私の知覚、と呼ばれ得るまでに辿るべき道筋だけです。私たちの組織が知覚を伝達し、それらの道筋が主観的なのです。しかし、知覚そのものはそうではありません。
 では、内的な経験について考えてみましょう。私がある知覚を私自身のものとして記述するとき、私は内的に何を経験しているのでしょうか?私は私が思考を通してその知覚と私の個体性とを結びつけ、私の意識がその知覚を包含する方向で拡張するのを観察します。けれども、その知覚の「内容」を産み出すことに関する意識は私にはありません。私は私自身との結びつきを確立するのであって、その知覚の特質はそれ自身に根ざす要素なのです。
 私たちがどこから出発するにしても、つまり、それが内からであれ外からであれ、ここには知覚の主観的な特徴がある、と言うことができる地点には決して到達することができないのです。主観性の概念を知覚の内容に適用することはできません。
 これらの考察は、知覚された世界の領域を道義的に「越えて」行くような自然についてのいかなる理論も不可能である、と考えるよう私に強いるとともに、感覚的な世界を自然科学の唯一の対象として思い描くように私を導いたものです。次に、私は私たちが自然法則と呼ぶものをこの感覚の世界の相互依存性の中に探さなければなりませんでした。
 これによって、私はゲーテの色彩論の根底に横たわる科学的な方法についての観点へと導かれました。これらの考察に同意する人たちは、今日の普通の科学者の目とは非常に異なる目をもってこの色彩論を読むことでしょう。本当は、それはゲーテの仮説とニュートンのそれとの間の衝突の問題ではなく、現代の理論物理学を容認できるかどうかの問題なのだ、ということが彼らには分かるでしょう。もし、それが受け入れられないのであれば、いずれも色彩論に関するそれの観点とはなりません。この後の章では、読者の皆さんは私たちが物理学の理論的な基礎として見るものに精通するようになるでしょう。これはゲーテの作品を正しい光の下で眺めるための基礎を提供するはずです。