ルドルフ・シュタイナー

ゲーテの自然科学論序説〜並びに、精神科学(人智学)の基礎〜

(GA1)

第16章

思索家、そして研究者としてのゲーテ

佐々木義之訳


1.ゲーテと現代科学

 もし、真実を認識しているという感覚があるとき、正直に話す義務があるという感情が生じなかったとしたら、以下のページは決して書かれることはなかったでしょう。現在の自然科学の方向性を見れば、その分野の専門家たちによってそれがどのように評価されるかについて疑問の余地はありません。これらのページは、「内情に通じた」人たちによって、遥か昔に解決された問題を蒸し返そうとする学者じみた試みとして記述されることでしょう。その件について言うべきことを持っている人たちの軽蔑的な意見について考えるとき、あまり抗弁したいとは思わない、と認めざるを得ません。とはいえ、そのような反論を予想して尻込みするわけにはいきません。と申しますのも、私自身がそのような反論をしようと思えばできるからです。それは、それらがいかに有効でないかを私は知っている、ということでもあります。現代科学の意味で「科学的に」考えることは、本当はそれほど難しいことではありません。その点で、どちらかというと注目に値するケースとして、最近、エドゥアルト・フォン・ハルトマンの「無意識の哲学」が出版されました。強健なこの本の著者はその不完全さを最後まで否認することでしょう。しかし、私たちがそこで出会う思考の質は事の真相に迫るものです。より深い洞察への必要を感じているすべての人たちの上にそれが強い印象を残したのはそのためです。けれども、概してそれに反対している、より皮相的な自然科学者たちにとって、それは苛立たしいものであることが判明しました。その攻撃がそれほど成功していなかったとき、ある匿名の著者が「哲学並びに降下理論から見た無意識(1872年)」を出版しました。その著者は現代の自然科学の観点からそれに反対するために使えそうなあらゆる主張を持ち出して、新しい哲学を強く批判したのです。その本は大騒ぎとなり、学者たちはすっかり満足しました。彼らはその著者もその主張も彼ら自身のものであると断言したのです。ところが、その後、彼らが大いに落胆したことには、その著者は他ならぬハルトマン自身であることが判明したのです。
 これによって、あるひとつのことの確かな証明が提供されました。つまり、真剣に努力する人々が最新の傾向にまだ同調できないと感じるとき、それは、彼らが科学的な探求に無知であったり、素人であったりするからではなく、それらの傾向は間違った道を辿っていると考えているからである、ということの証明が提供されたのです。哲学にとっては、意識的に現代科学の立場を取ることは難しいことではありません。ハルトマンは、見ることにやぶさかでない人にそれを示したのです。私がこのことに触れたのは、私が述べたことに対して提起される可能性がある反論そのものを私が定式化することは容易である、という私の以前のコメントを裏づけるためです。
 現在では、ものごとの本質に関して真剣な哲学的考察を行う人は誰であれ、学者じみている、と考えられる傾向があります。単に世界観を持っているだけで、機械論的な(あるいは、もっとましな言い方をすれば、実証主義的な)確信を持っている私たちの同世代人から、少し理想主義的な傾向があると見られるのです。この意見は、これらの実証主義的な考え方の持ち主たちが「物質の本質」、「認識の限界」、「原子の性質」等々について語るのを聞き、彼らの無知がいかに絶望的であるかが分かるとき、容易に理解できるものになります。そのような話によって、基礎的な科学的事象に対する彼らの素人的なアプローチを研究する機会が十二分に提供されるのです。
 私たちは、現代の自然科学により、技術の分野において達成された力強く見事な成果にも関わらず、これらのことすべてを認める勇気を持たなければなりません。そのような技術的な成果は、自然を理解したい、という真の願いとは関係がありません。それは私たちが評価し始めることすらできないような未来にとって意義のある発明を行いながら、深い「科学的な」あこがれに欠けている私たちの同時代人たちの中に見てきたことです。その力を技術的に用いるという目的をもって自然の過程を観察することと、それらの本質をより深く理解するという目的をもってそれらの過程を研究することは全く異なっています。真の科学は、探求する精神が「いかなる外的な目的もなしに」それ「自身」の必要を満足させることを求めるときにだけ存在します。
 言葉の最も高次の意味で、真の科学とは、客観的なアイデアを扱うものであり、「理想主義以外のものではあり得ません。」何故なら、それは結局のところ精神的な必要に根ざすものだからです。自然は解決を要求する問題を私たちの中に目覚めさせますが、自分ではその答えを与えることができません。自然が、私たちの認識への能力を通して、より高次の領域に直面するとき、そのような新しいチャレンジが生じます。このより高次の特質を有していない存在にとって、そのような疑問は生じることさえないでしょう。ですから、答えはこのより高次の本性そのものを通してのみ得ることができます。基本的に、科学的な疑問とは、問いを発する存在が自分で折り合いをつけるべき問題なのです。その精神が、それらの問題によって、それ自身の領域を超えたところへと導かれることはありません。そうではなく、その精神が安らぎ、生きて織りなす領域とは、アイデアと思考の世界なのです。言葉の最も高次の意味で、科学的な活動とは、考えることの中で生じた疑問を思考の中で思いついた答えを通して取り扱う、ということを意味しています。結局のところ、あらゆる科学的な試みは、このより高次の使命に仕える、という機能を持っているのです。
 科学的な観察について考えてみてください。それはそれ自体がアイデアの性質を有する自然法則の理解へと私たちを導く、と思われています。現象の背後で支配する法則を探そうとする衝動は精神から生じます。そして、精神的な存在だけがこの衝動を感じることでしょう。観察について言えば、私たちはそれで本当は何を達成しようとしているのでしょうか?実際、感覚的な観察によって、精神が作り出した疑問に答えを見つけることができるのでしょうか?それは全く無理です。結局のところ、もし、精神が本当にそれで満足するのであれば、どうして二度目の観察が最初の観察よりもさらに大きな満足を私たちに与えるのでしょうか。つまり、一度の観察で十分なのではないでしょうか。本当は、その観察が二度目であるかどうかが問題なのではなく、むしろ、それは観察のための理想的な基盤を見つけるかどうかの問題であり、観察が理想的な説明を与えるにはどうすればよいか?ということが問題なのです。それを可能とするために、私はどのように「考え」たらよいのか?私たちが感覚の世界に出会うとき、私たちのところにやってくる疑問とはそのようなものです。私は私の精神の奥底から感覚の世界には欠けていると思われるものを引っ張り出してこなければなりません。私は、感覚的な領域に出会うとき、私の魂がそれに向けて奮闘するところのより高次の本質を私自身で創造しなければなりません。それを私のために行ってくれるものは他には何もありません。科学的な結果は精神からしかやって来ることができません。そのため、それらは「アイデア」でなければならず、それが生じるのはそれ自身の必然性からである、ということに議論の余地はありません。あらゆる科学の理想的な性格がそれによって裏づけられます。
 現代の自然科学は、正にその本質から、認識はアイデアによって特徴づけられる、ということを信じることができません。それはアイデアを、最初の、最も原初的な創造作用としてではなく、むしろ、物質的なプロセスの最終的な「産物」として眺めます。これらの物質的なプロセスは、感覚を通して観察することができる世界に属しているけれども、より深く理解されるならば、自らをアイデアの中へと解消する世界である、ということに科学は気づいていないのです。観察されるべきプロセスとは次のようなものです。私たちは機械論的な法則にしたがって現われる事実、熱、光、磁気、電気、最後に生命プロセスやその他ものが現われるのを私たちの感覚を通して知覚します。それは生命という最高のレベルにおいて、人間の脳に担われた概念、あるいはアイデアの形成へと上昇する、ということが分かります。私たちは私たち自身の自我がこの思考の領域から現われるのを見ます。これは物理的、化学的、そして有機的なものにまでずっと続く一連のできごとを通して仲介される複雑なプロセスの最高の産物であるように見えます。しかし、私たちのアイデアの世界―それは自我の本質です―を調べてみるならば、このプロセスの単なる最終的な産物「以上」のものが見出されます。この思考世界の個々の側面は私たちが単に観察するだけのプロセスの各部分とは全く異なる仕方で関連している、ということが分かるのです。ある考えが私たちの中に生じ、それによって別の考えが呼び出されるとき、それら二つの考えの間の関係は、例えば、私が一片の布の染色とその原因となる化学染料との間に観察する関係とは非常に異なる性質のものです。
 脳内の神経プロセスにおける一連の段階はその源泉を代謝系の中に有しており、私の思考を支えているのは正にその代謝系である、というのは全く当然のことです。けれども、ある思考が別の思考に「続く」理由はその代謝系の中には見出されないでしょう。これを見出すことができるのはただ思考そのものの間の論理的な関係性の中においてのみです。このように、思考の領域では、有機的な必然性だけではなく、「より高次の、理想的な性質」の必然性が支配していますが、精神はそのアイデアの世界の中に見出されるのと同じ必然性を宇宙における他の場所にも求めます。この必然性が私たちに生じるのは、私たちが単に「観察する」だけではなく、「考える」からなのです。言い換えれば、観察を通してだけではなく、考えることを通してものごとを理解するときにはいつでも、それらはもはや単にそれらの事実関係を通して私たちに現れるのではなく、内的かつ理想的な必然性によっても関連づけられることになります。
 このことに意義を唱えるために、もし、この世界の事物が、その本性から、そのような理解を許さないものであるとしたら、思考を通して感覚的な世界を理解しようとすることに意味はないのではないか、と問うことはできません。この問いが可能となるのは、私たちがものごとの核心に到達し損ねるときだけです。アイデアの世界は私たちの内部で生命へと流出し、私たちが感覚を通して知覚する対象に出会い、そして、尋ねます。私と私が直面する世界との関係とはどのようなものなのか?私にとってその世界とは何なのか?私は移ろう現実の上にそびえる私の理想的な必然性とともにここにあり、私の内には私自身を説明するための力があるが、どうすれば私が私の外で出会うものを説明できるのだろうか?と。
 ここで私たちは、繰り返し持ちだされてきた重要な問い、例えば、それをあらゆる哲学的な思考の中軸として記述したフリードリッヒ・テオドール・ヴィッシャー(1807-1887)のような人によって持ちだされてきた問いに対するひとつの答えを見出します。それは精神と自然との間の関係についての問いです。互いに分離しているように見えるこれらふたつの形態の間の関係とはどのようなものなのでしょうか?それが正しい仕方で問いかけられるならば、その問いに答えるのは人が考えるほど難しいことではありません。結局、それは何を意味しているのでしょうか?その問いは精神と自然の両方を超えた優位な立場から理解しようとする第三者によって問いかけられるようなものではありません。そうではなく、それが問いかけられるのは、それらふたつの存在の内のひとつ、精神そのものによってです。精神がそれ自身と自然との間の関係を見出そうとしているのです。これは、私はどうすれば私が出会う自然との関係を確立できるのか、と問うのと同じです。私はどうすれば私の中に生きている要求と一致する仕方でこの関係を表現することができるのか?私はアイデアの中に生きているが、どのような種類のアイデアが自然に対応し、私が自然として思い描くものをどうすればアイデアとして表現できるのか?これはまるで間違った問いかけをすることによってしばしば満足のいく答えへと続く道を塞いでいるようなものです。しかし、正しい問いは半分の答えです。
 精神はいたるところで単に観察によって与えられる一連の事実を超越する道を追求し、「事物のアイデア」へと貫き至ろうとしています。科学は思考が始まるところから始まります。一連の事実として私たちの感覚に現れるものは科学の結果によって理想的な必然性として表現されます。それらの結果は上記の過程の最終的な産物として現われるだけですが、私たちは実際にそれらを全宇宙におけるあらゆるものの基盤として考えなければなりません。それらが私たちの観察においてどこに現れるかはどうでもよいことです。何故なら、それらの意義はそれらがどこで観察されるかには依存しないからです。それらの理想的な必然性は掛け値なしに全宇宙に広がっているのです。
 私たちはどこからでも始めることができます。もし、私たちが精神的な力を十分に有しているなら、最終的には「アイデア」へと至ることでしょう。現代物理学がこのことに気づき損ねる限り、それはあらゆる間違いの連続へと導かれることになります。例として、そのような間違いのひとつを指摘してみましょう。
 物理学者たちによって「物体に共通した特徴」のひとつとして典型的に記述されるものの定義、つまり「慣性」の法則について考えてみましょう。通常、それは次のように記述されます。外的な原因の結果としてそうなる場合を除き、いかなる物体もその現状における動的な状態を変えることはできない。この定義によれば、不活性な物体の概念は感覚の世界から抽出されたものである、という印象を受けます。そして、ジョン・スチュワート・ミル(彼はこの問題について探求することは決してありませんでしたが、ある人為的な理論を証明するために、あらゆるものをひっくり返してしまいました)であれば、とりあえずそのように説明することをためらわないでしょう。しかし、それは正しくありません。
 不活性な物体の概念は純粋に概念的な構築を通して生じます。空間中に広がる何かを「物体」と呼ぶとき、私は、外的な影響によって変化を受ける物体と、それら自身の自発的な力によって動く物体とについて考えることができます。ですから、もし、私が外的な原因がなければ変化できない「物体」についての私の定義に合致する何かを外的な世界の中に見つけるならば、私はそれを「不活性なもの」、つまり、慣性の法則に従うものと呼びます。私の概念は感覚の世界から抽出されたものではなく、ひとつのアイデアから自立的に構築されたものであり、このアイデアの助けによってのみ私は感覚の世界の中で自分を方向づけることができます。したがって、その定義は次のように記述されなければなりません。その動きの状態を自ら変化させることができない物体は不活性である、と。一度この定義に合致する物体を見つけるやいなや、私は不活性な物体に適用されるあらゆることがらをその物体に適用することができます。

2.元型的な現象

 私たちは、感覚的な知覚が存在するときにはいつでも生じるはずの一連の事象全体を、たとえ感覚器官の周辺にある神経末端から脳に至るまでずっと追っていくことができたとしても、それでもなお、機械的、化学的、有機的な(時空間の)プロセスが終わり、私たちが感覚的な知覚と呼ぶところの何か―つまり、熱、光、音、等々の感覚―が始まる地点にまでは至ることができないでしょう。原因となる動きからその効果、つまり知覚への移行地点はどこにも見出されないのです。これらの側面の間の関係を原因と結果として記述することはできるのでしょうか?
 ものごとを客観的に見てみましょう。私たちの意識の中に特定の感覚が生じると仮定します。それは私たちの注意をそれがそこに起源を有するところの対象に引きつける、というような仕方で生じます。私が赤という知覚を有するとき、私の赤という心象内容は直ちに特別な空間座標―すなわち、空間あるいは表面―に結びつけられ、そして、私はその知覚をそこに帰属させます。そのようなことが起こらない唯一のケースは、目に対する突然の圧力に対応した光の知覚のように、感覚器官そのものが外的な影響に対してそれ自身の仕方で応答するときです。私たちはそのような事例に関わる必要はありません。何故なら、それらは通常の知覚に特徴的なものではなく、そのような例外はこの知覚の本質について私たちに何も示さないからです。
 もし、私が特別な場所に結びついた赤という知覚を持つならば、私の注意はさしあたり外的な世界にあるその知覚の源泉としての何らかの対象に向けられるでしょう。私は私がその赤い色に関連づけるものの中で生じる空間的−時間的な経過について問いかけ、そして、機械的、化学的、あるいはその他のプロセスが私の問いかけに対する答えとして提示される、ということが明らかになるでしょう。私は私のために赤という色を事物から私の感覚器官に至るまでの途上で仲介するプロセスの探求へと進むことができます。ここでもまた、私が見出すことができるのは動きのプロセス、電流、化学変化といった媒体だけです。たとえ私がその伝達を感覚器官から対応する脳の中心部へとさらに探求できたとしても、結果は変わらないでしょう。この経過全体を通して伝達される「何か」とは赤という知覚です。この知覚が刺激から知覚へと続く道に沿ってたまたま横たわっているものの中で「どのように」自らを提示するかは、もちろんその横たわっているものの特性に依存します。知覚は、たとえそのようなものとして明確にというわけでは全くないにしても、最初の刺激から脳に至るまでのどの場所にも存在していますが、たまたまその場所にある対象の特性に対応した仕方で存在しているのです。
 これによって、物理学や生理学を理論的に基礎づけるもの全体に光を当てるのに適した真実が明らかになります。私が私の意識に知覚として入り込むプロセスに含まれる何かを調べることによって知ることになるものとは何でしょうか?私が本当に知ることができるのは、その特定のものが知覚から進み出てくる働きにどのように対応するか、ということだけです。言い換えれば、時空間世界におけるその特定の対象の中で、知覚がどのように「自らを表現するか」ということだけです。時空間的なプロセスとは、決して私の内部の知覚を創り出す「原因」ではなく、時空間中に存在する事物の中で知覚が及ぼすところの「効果」なのです。刺激から知覚器官に至る道に沿って、いくらでも事物を並べることができるかも知れませんが、それぞれがそれ自体の特性によって決定づけられ、同時に制限される、というような仕方で対応することでしょう。こうして、「知覚自体」がそれぞれのプロセスの中で自らを表現するものとなるのです。
 音の伝達には長さ方向の空気の振動が、光の伝達には仮想的なエーテルの振動が含まれます。これらの形態は、単にそれらの特別な知覚が正にその特性から希薄化と濃縮化、言い換えれば、振動することしかできない媒体の中で顕現するその仕方であるに過ぎません。知覚そのものがその媒体中に見出されることはありません。それは「それがそこには存在し得ない」からです。そのようなプロセスが知覚の客観的な特性を体現していると言うことはできません。それらはむしろその特性がその中に顕現するところのひとつの形態なのです。
 さて、それらの媒介するプロセスの特徴とはどのようなものか?と問うてみましょう。私たちの感覚を通すことなく、それらを探求する方法はあるのでしょうか?感覚そのものを除く何らかのものを用いて私の感覚を探求することは本当にできるのでしょうか?周辺にある神経末端や脳の渦巻きは感覚的な知覚とは異なる何かなのでしょうか?これらすべては主観的であると同時に客観的―もちろん、それらが区別できるとすればですが―なものです。そのことに対して、今はもう少し正確なアプローチができるようになりました。私たちが知覚を刺激から感覚器官にまで追っていくとき、私たちは実際にはある知覚から別の知覚へと継続する移行を探求しているのです。赤という知覚がさしあたりそのプロセス全体を開始させる原因となったのですが、それは私たちにその刺激を指し示します。私たちがそこを見るやいなや私たちは赤に関連するその他の知覚を見出します。それらは動きのプロセスであり、今度はそれらが刺激と感覚器官の間にある別の動きとして現われる、という具合です。けれども、これらすべては感知された知覚でもあります。そのすべては他ならぬ感覚として―そもそもそれらが感覚的な観察にかかり得る限りにおいてですが―自らを現すところのものが変容したものなのです。「感覚の世界とは変容した知覚の集合体に他なりません。」
 便宜上、私たちの表現方法はこれらの結論とは完全には調和し得ないようなものとなりました。私たちは、刺激と感覚器官との間のギャップに自らをはめ込むそれぞれの「もの」はその特性に応じた感覚を引き起こす、と言いました。もちろん、厳密に言えば、「もの」とはその外観を構成するプロセスの総体です。
 さて、人々は、これらの結論は現在進行中の世界過程からあらゆる永続性の感覚を排除するものである、と主張するかもしれません。私たちの主張は、ヘラクレイトスと同様、唯一の世界的な原理とは事物の絶えざる流れであり、そこには永続的なものは何もない、というものです。確かに、すべての現象の背後には「物自体」が、つまり、この変化する世界の背後には「永続的な物質」があるに違いありません。ですから、私たちは「永続的な物質」、あるいは「変化における永続性」の問題に対して、別の見方をしなければなりません。
 私の目が赤い表面に向かうとき、私の意識の中には赤の感覚が現われます。私たちはその感覚の始まり、中間、そして終わりを区別することができます。この移ろいゆく感覚とは対照的に、私たちは持続的、客観的なプロセス、時間の中でも同じく客観的に限定されたプロセス、つまり、始まり、中間、そして終わりを持つプロセスを見出そうとします。けれども、このプロセスが生じるのは、始まりも終わりもなく、破壊不能で永続的な物質的基盤との関連においてである、と考えられています。この物質はこれらの変動するプロセスの中で真に永続的な要素であると考えられているのです。
 このような結論が有効なのは、時間の概念が正しく感覚に適用されるときでしょう。けれども、恐らく私たちは感覚そのものの本質あるいはその内容とその表現とを明確に区別する必要があります。私の知覚にとってそれらはもちろん同じものです。何故なら、その本質がなければ、そもそも私にその感覚が現われることはないはずだからです。今、この本質という観点から見て、それがある特定の瞬間に私の意識の中に入り、次の瞬間にそこから離れるかどうかで何か違いがあるでしょうか?感覚の本質(その客観的な存在)はそのようなことすべてから独立しています。そのとき、もし、何かが(編注:永続的な物質が)その本質的な性質と何ら関係がないとすれば、それは知覚の存在にとって基本的なものである、と主張することに何か意味があるでしょうか?
 始まりと終わりがあるプロセスとの関係で時間の概念を適用することもまた正しくありません。もし、何かが新しい特徴を獲得し、それがしばらくの間様々な仕方で発展し、そして、消え去るとしたら、その特徴の「内容」、あるいは特質もまたこの場合にはその本質と見なさなければならないはずです。この本質的な特徴は、それ自体、始まり、持続、そして終わりの概念とは全く何の関係もありません。私たちが「本質的な」と言うときには、実際に何かをそれがそれであるところのものにする何か、あるいは、それがそれ自身を提示する仕方について語っています。重要なことは、時間の中のある特定の瞬間に何かが現われるという事実ではなく、実際に現れるものとは「何か」ということです。この「何か」を通して自らを表現するあらゆる個別の特徴こそが世界の本質的な存在を構成しているのです。今、この「何か」が、様々な条件下で、多様極まりない形態を取って現われます。これらすべての形態は相互に関連しています。つまり、それらはお互いのお互いに対する条件を創り出しているのです。こうして、それらの関係の特質は「時空間」中における分離のひとつとなります。
 「物質」の概念は非常に間違って導かれた時間の概念により生じました。一般には、もし、私たちがつかの間のできごとの総体を、様々な個別の形態は変化するにしても、時間の中で継続する永遠不変の現実の中につなぎ留めなかったとしたら、世界は存在を欠く単なる幻想の中へと蒸発してしまうだろう、と信じられています。しかし、時間は変化がその中で生じるための入れ物ではありません。時間は事物より「前」に、あるいは、それらの「外」に存在しているのではありません。それはできごとが―それらに固有の性質によって―逐次的な相互関係を形成するという事実の明らかな表現なのです。
 感覚知覚可能な事実a1、b1、c1、d1、e1の複合体、そして、内的な必然性によってそれに依存する別の複合体a2、b2、c2、d2、e2があると想像してみましょう。第2の複合体の特性は、それを最初の複合体から概念的に導き出すことによって理解することが可能です。ここまで私たちはこれらの複合体を―時間や空間とは無関係に―それらの本質にしたがって記述してきました。ここで、両方の複合体が実際に現れると想像してみましょう。もし、a2−e2が現われるとすれば、a1−e1も現われなければなりませんが、それは、それらの必然的な関連性が明らかなような仕方によってです。これは、現象a1−e1がまず存在し、現象a2−e2を準備するのですが、後者が現われることができるのはその後です。このことから、時間が生じるのは何らかの「存在」が「外的に現われる」ときだけである、ということが分かります。
 ですから、時間は見かけ上の世界に属しており、事物の存在、あるいはその本質とは関係がありません。そのような存在はアイデアとしてのみ理解できます。自分自身の思考の中で見かけ上のものをその本質的な存在にまで辿っていくことができない人たちだけが、時間を事実に先立つものとして考えるのです。けれども、彼らはそのとき、ある種の存在を、つまり、あらゆる変化を通して持続し、破壊することができない物質という概念の中に彼らが見出すような存在を必要とします。こうして、彼らは、時間に浸透せず、変動によっても変化せずに持続する何かを作り出します。けれども、これによって強調されるのは、時間に拘束された事実の外観からその本質的かつ永遠の存在へと貫き至ることが彼らにはできない、ということだけです。私に言えるのは、その本質は他の何らかのものの本質と関連しており、その結果として生じる関係が時間的に連続したものとして現われる、ということだけです。事物の本質は破壊することができません。それは時間を超越し、実際、時間を決定づけているのです。
 ですから、ここに見られるのは、めったに理解されることのない二つのもの、すなわち、顕現あるいは表出と、存在あるいは本質的な特性です。ここでの説明が理解されるとき、事物の本質の非破壊性を証明しようなどとは考えないでしょう。何故なら、破壊は時間の概念を示唆しますが、それは事物の本質的な特性とは何の関係もないからです。ですから、「我々に自らを提示するような感覚知覚可能な世界とは、その根底に実質的な基盤を持たない変容する知覚の寄せ集めである」と言うことができます。
 ここで述べられたことによって、知覚の主観的な性質について語ることはできない、ということもまた示されました。私たちが何かを知覚するとき、私たちはその過程を刺激から中心的な器官まで追っていくことができますが、まだ知覚されていないものの客観性から主観的な知覚への飛翔を観察できる地点はどこにも見当たりません。このことは、感覚知覚可能な世界は主観的である、という考えを否定するものです。知覚世界はそれ自身に根ざすものであり、さしあたり、主観にも客観にも関係していないのです。
 これらの考察は、その古さと同じくらい不正確な物質についての形而上学的な概念と同様、物理学の基礎としての物質の概念にのみふさわしいものです。物質を現象の根底に横たわる実際の現実として見ることと、それを現象あるいは表出として理解することとは全く別のことがらです。私たちの考察は最初の見方にのみ向けられたものであり、後の見方には関係がありません。もし、私が物質を単に空間を占めているところの何かとして考えるとすれば、それは私にとって他のすべての現象以上の現実性を持つことのない現象のことを言っているにすぎません。物質のこの特徴を心に留めておくだけのことです。あらゆる科学の対象となるのは、知覚を通して−つまり、広がり、動き、休止、力、光、熱、色、音、電気、等々として−私たちに自らを提示する世界です。
 もし、知覚された世界が、その感覚的な外観によってその本質が完全に表現される、というようなものであったとすれば―言い換えれば、もし、私たちに現れるあらゆるものがその内的な本質の完全で阻害されていない表出であったとすれば―私たちは科学というものを全く必要としなかったでしょう。何故なら、理解する、ということは正に知覚という行為の中で生じるものだからです。確かに、本質的な存在と現象的な外観との間にいかなる相違もなく、それらが完全に一致しているということがあったかも知れませんが、そのようにはなっていないのです。
 要素Aが現実世界の中で要素Bに関係している、と想像してみましょう。私たちの考察にしたがえば、両方とも現象であり、それ以上のものではありません。そして、それらの間の関係はまたひとつの現象として現われます。私たちはそれをCと呼ぶことにしましょう。私たちが現実の世界において確認することができるのは、A、B、及びCの間の関係ですが、知覚可能な世界には、ちょうどA、B、及びCのような要素が他にも無数にあります。第4の要素Dを無作為に取り上げてみましょう。それが加えられるやいなや、他のすべてがその存在によって変化させられます。Cを与えるAとBの代わりに、Dの存在はさらに別の現象Eをその出現へと導くでしょう。
 ここで主要な点は、私たちがひとつの現象に向かうときにはいつでもそれが無数の条件によって変化させられているのを見る、ということです。それを理解するためには、これらの関連すべてを探求しなければなりません。あるものは近く、またあるものは離れた、あらゆる種類の関連があります。もし、現象Eが私に現れるのであれば、その他の多かれ少なかれ関連した現象が役割を果たさなければなりません。そのいくつかはその現象が存在するために不可欠なものです。つまり、それ以外のものがなくても、そのような現象のあるものが生じるのが妨げられるということはないかも知れませんが、それでも、それらはそれが生じる特定の仕方に影響を及ぼす可能性があります。したがって、私たちが区別しなければならないのは現象の必然的な条件、及び偶然の条件です。必然的な条件に基づく影響を通してのみ生じる現象は「主要な」現象、そして、その他の現象は「派生的な」現象と呼ぶことができます。それらの条件を知ることで主要な現象の理解へと導かれるとしても、その他の条件を含めることによって、派生的な現象もまた理解することができます。このように、必然的な条件のみに依存する現象を見出すことにより現象世界についての深い理解を得る、というのが科学の使命であり、それらの必然的な関連の概念的な表現が「自然法則」なのです。
 私たちがある特定の分野の現象にアプローチするときにはいつでも、まずそれらを記述し、記録するとともに、どの要素が必然的な関連を有しているかを確定しなければなりません。それらの要素とは元型的な現象です。そのとき、私たちは、より遠隔的な方法でそれらの要素に関連づけられる条件を見出し、それらが元の現象をどのように変化させるかを発見しなければなりません。
 科学は、あらゆる現象は導かれたものであり、したがって、さしあたりそれを理解することはできない、というような仕方で現象世界を見ます。科学は、現象間の相互関係を理解するために、元型的な現象を指導的なもの、派生的な現象をそれらから続くものとして見ます。科学が現象間の関係を確立し、それによってそれらを理解可能なものにする程度に応じて、科学的なシステムは自然のシステムとは異なってきます。科学は、現象世界に何ら貢献する必要はなく、ただその隠された関連性を発見しさえすればよいのです。知性はこの仕事に限定して用いられるべきです。知性やあらゆる科学的な努力がその正当な領域を越えていくのは、それらが知覚可能なものを説明するために知覚不可能なものに頼るときです。
 ゲーテの色彩論を理解するには、これらの概念の絶対的な正しさを理解していなければなりません。現象の特質―暖かさ、光、等々―をその外観上の本質以外のものであると推測するほどゲーテの考え方から遠いものはないでしょう。要するに、彼は思考の使命について適切な認識を持っていたのです。ゲーテによれば、光は知覚として与えられました。光と色の間の結びつきを説明しようとする彼の試みを可能にしたのは、思索ではなく、色が生じる前に光が出会うべき必然的な条件を探すことによって、つまり、「元型的な現象」を通してだけでした。
ニュートンもまた色は光との関係で生じると見ていましたが、さらに進んで、どうすれば色は光から生じるのか?と推測するに至りました。そうすることは彼の推論的な思考方法に根ざしたものであり、現象の中に自ら沈潜し、それ自体の使命を正しく理解していたゲーテの思考にではありませんでした。「光は色のついた光から成る」というニュートンの仮説はゲーテには不当な推論の産物のように見えました。彼は、光と色の「関連」について語ることが正当化されるのは一定の条件が与えられたときだけであり、光そのものについて推論的な概念を導入しながら語ることは正しくない、と感じていたのです。「光は私たちが知っているものの中で最も単純で、最も細かく分割され、最も均一化された存在である。それは本質的に複合体ではない。」という彼の言葉はここから来ていました。光の「複合」について語られる現象の論述はすべて知性によるものです。しかし、知性本来の領域は現象間の「相互作用」の論述に限られます。このことは、ゲーテがプリズムを通して光を見たとき、何故、ニュートンの理論を受け入れることが「できなかった」のかを、より深く明らかにするものです。プリズムは色の出現にとって「第一の条件」であるはずでした。けれども、別の要素、つまり闇の存在はそれが生じるためのもっと基本的な条件であることが証明されたのです。プリズムは第二の条件であるに過ぎませんでした。
 私は、これにより、色彩に関するゲーテの仕事を理解したいと思っている読者にとってのあらゆる障害が取り除かれるものと信じます。もし、人々が、これら二つの理論の違いには相矛盾する説明が含まれており、単にその相違の有効性が検証されればよい、と繰り返し考えてこなかったとすれば、ゲーテの色彩論の偉大な科学的価値はずっと以前に認識されていたことでしょう。この問題に関して、現代物理学の観点を受け入れ続けている人たちは、知覚を知性による推論を通してその根底に横たわる原因にまで辿っていく必要がある、という基本的に間違った考えに捕らわれているのです。しかし、現象を説明する方法とは、理解することによって確立された文脈の中でそれらを「観察する」ことである、ということを理解する瞬間、人はゲーテの色彩論を「原理的に」受け入れざるを得なくなります。何故なら、それは私たちの思考と自然との間の関係についての正しい観点から出発しているからです。ニュートンにはこの観点がありませんでした。
 もちろん、私はゲーテの色彩論におけるすべての側面を擁護するつもりはありません。しかし、私が本当に擁護したいのはその「原理」です。とはいえ、彼の時代には知られていなかった色彩現象を導き出すためにゲーテの原理をここで使う、というのも私の使命ではあり得ません。いつの日か、ゲーテの理論に沿った色彩論を完全に最新の研究に基づいて書くための時間と方法に恵まれたならば、その仕事に取りかかるかも知れません。それは私の人生における最も価値ある仕事のひとつになるでしょう。この序論では、ゲーテの色彩論における彼の「思考方法」を科学的に正当化することに終始しなければなりません。次の節では、その内的な構造を明らかにするつもりです。

3.自然科学の体系

 今、私たちの探求は、思考の使命を知覚の秩序づけに限定することによって、さしあたり私たちがあれほど強く擁護した概念とアイデアの自律性そのものに対して問題を投げかけているかのように見えるかも知れません。そうではないということは、考察をさらに進めることによって示されるでしょう。結局のところ、思考が知覚と知覚の間の関係を確立する目的とは何なのでしょうか?
 知覚a及び知覚bについて想像してみましょう。さしあたり、それらは概念を欠く実体として私たちに与えられます。私の感覚に提供される性質を概念的な思考を通してその他のものに変化させることはできません。もし、私が感覚的な経験によって与えられるものに知覚を通してアクセスできなかったとしたら、それを構築すべきいかなる概念的な性質もまた見出すことはできません。例えば、私がどんなに「赤」という性質を概念的に記述したとしても、色盲の人にそれを伝える方法はありません。「感覚知覚には決して概念の中に入って来ることのない側面−そもそも認識の対象となるためには経験されなければならない何か−があるのです。」
 では、私たちが感覚的な知覚に付加する概念の役割とは何でしょうか?明らかに、それは、何か全く新しいもの、それ自身に立脚しながら、その感覚的な知覚に属するとはいえ、その知覚自体の中には決して現われることのない何らかのものに貢献するものでなければなりません。さて、この新しい「何か」とは概念が感覚的な知覚にもたらすものであって、正に私たちの説明への必要を満たすものである、ということは確かです。私たちが感覚世界における何らかの要素について理解することができるのは、それについての概念を持つときだけです。感覚的な現実が私たちに提供するものが何であれ、私たちはいつでもそれを指し示すことができます。そして、それを知覚する能力を持つ人であれば誰であれ、それが何であるかを正確に知っていることでしょう。概念は、感覚の世界では知覚され得ない何かを私たちに語らせます。このことから明らかになるのは、もし、感覚的な性質において知覚の本質が十全に表現されるならば、概念は何も新しいことをつけ加えることはできないだろう、ということです。このように、感覚的な知覚とは、不完全なもの、ひとつの側面―見られるだけの側面―から構成されるものです。概念を通してはじめて私たちは私たちが見ているものが何かを理解します。
 今、私たちは前節で「方法論的に」発展させたものの「内容」の重要性について定式化することができます。感覚世界における何かが「何」であるかは、私たちがそれを概念的に理解するとき、はじめて明らかになります。私たちには、私たちが観察するものの内容を表現することができませんが、それはその内容全体が「いかに」現われるかにおいて、つまり、それが現われるその「形態」において与えられるからです。
 こうして、世界は概念を通してはじめてその十全たる内容を達成します。しかし、私たちが見出したのは、概念は個々の現象を越えて事物の関係性を指し示す、ということです。感覚的な現実の別々に孤立したものとしての現われは「ひとつの統合された全体」として概念に提示されます。こうして、私たちの科学的な方法論はそれ自体が「一元論的な自然科学」という究極の目的へと導かれるものとなります。しかし、この一元論は、ある統一性を仮定するとともに、単に「具体的な」存在という個別の事実を包含する、というような抽象的なものではありません。むしろ、それは、感覚的な存在の見かけ上の多様性がアイデアという領域の中でいかにひとつの統一体として自らを現すかを段階的に示していく、というような具体的な一元論なのです。そのような多様性は統合された世界の本質がその中で自らを表現するところのひとつの形態に過ぎません。感覚はこの統合された内容を理解できないため、多様性に固執します。つまり、感覚は生来の多元論者なのです。しかし、思考は多様性を克服し、統合された世界原則にまで遡る道を徐々に辿ります。
 自然界における差別化は、概念(アイデア)が感覚世界の中に顕現する個別の「方法」によって説明されます。感覚知覚可能な実体が完全に概念の外にある存在性のみを獲得するとき―言い換えれば、もし、概念がその変容を決定づけるところのひとつの「法則」としてのみ支配しているとき―私たちはその実体を「無機的」と呼びます。そのような実体に何が生じたとしても、それは別の実体の影響にまで遡ることができます。そして、その二つがどのように相互作用するかは、外的な法則によって説明することができます。私たちはこの領域において現象と法則とを扱っているのですが、もし、それらが主要なものであるならば、それらは「元型的な現象」と呼ぶことができるでしょう。この場合、理解すべき概念は知覚された多様性の外に横たわっています。
 しかし、感覚知覚可能な統一体はそれ自身を越えたところをも指し示します。私たちがそれを理解しようとするとき、それは知覚可能なものを超越した決定的な要素を探すように私たちに強います。そのとき、私たちが概念として理解するところのものは感覚知覚可能な統一体として現われます。これら二つのもの―概念と知覚されたもの―は同じではありませんが、その概念はその「外に」ひとつの法則として存在するのではなく、感覚的な多様性の「内に」ひとつの原理として現われるのです。私たちは現象の根底に概念を見出しますが、それは現象に浸透しており、もはや感覚知覚可能なものではありません。これは私たちが「型」と呼ぶところのものです。私たちは今や「有機的な」科学の領域内にいます。
 しかし、ここでも概念は、「型」としてのみ現われ、まだ概念としてそれ自体の形態において現われるのではありません。型がちょうどそのようなものとして―つまり、固有の原理として―現われるのではなく、その概念的な形態において現われるところでは、それは「意識」として現われます。低いレベルでは存在としてのみそこにあったものが、今、最終的に自らを現すのです。つまり、概念そのものが今や知覚可能なものとなりました。これが認識する人間の領域です。
 「自然法則」、「型」、そして「概念」はアイデアの三つの形態です。自然法則は多様性の上位に立つ抽象性であり、無機的な科学を支配しています。ここでは、アイデアと感覚的な現実性とは完全に分離しています。型はそれらをひとつの存在へと結びつけます。精神は活動的な存在になりますが、それはまだそのようなものとして活動しているのでも、そのようなものとして存在しているのでもありません。それがその実際の存在において観察されるためには、感覚知覚可能な形態において知覚されなければなりません。これは私たちが有機的な自然において見出すところのものです。概念は知覚可能な形態において存在しています。人間の意識においては、概念そのものが知覚できるものとなります。観察とアイデアが一致するのです。つまり、私たちは実際にアイデアを知覚するようになるのですが、これはまた、より低いレベルの自然の内的な原理を私たちに見えるようにするものでもあります。人間の意識とは、より低いレベルにおいては単に存在している−しかし、顕現していない−ものの十分に顕現した現実を知覚できるようにするものです。

4.ゲーテの色彩論の体系

 ゲーテが生きていたのは、それがそれ自身の中にその充足を見出すような絶対的な知識に向けて普遍的で力強い努力がなされていた時代、認識に対するあらゆるアプローチを探求し、最も重要な問いに対する答えを発見するために、より深い洞察を再び熱心に求めていた時代でした。東方の神智学、プラトンとアリストテレスの時代、そして、デカルトとスピノザの時代は同様の内的深化の時期でした。ゲーテは、カント、フィヒテ、シェリング、そしてヘーゲル抜きには考えられません。これらの人々はすべて奥深い観点―高みへと引き上げられた彼らの目―を共有していたのですが、ゲーテ自身の思索は身近な現実の出来事にその焦点が当てられていました。とはいえ、彼の注意深い眼差しの中にはその奥深さの幾ばくかが見られるのですが、彼がこのより奥深い洞察を行使したのはその自然観察においてでした。彼の自然観察はその時代の精神によって内的な生命の色合いを与えられました。そして、これは細部についての彼の観察に力を与えているものであり、より幅広い観点によって、それは絶えず生き生きとしたものとされます。ゲーテの科学では、いつでも中心的な重要性を有する問いに焦点が当てられるのです。
 私たちは、特に彼の色彩論においてこのことに気づきます。植物の変容に関する彼の随筆を別にすれば、これは唯一完全にまとめられた彼の科学的な業績です。そして、何と力強い自己充足的な体系が主題そのものの性質にしたがって考察されていることでしょうか!
その内的な構造について見ていきましょう。
 自然という存在に根ざしたものであれば何であれ、それが現われるための前提条件が存在します。つまり、それを可能にする原因―事物がその中で自らを開示するための器官−がなければなりません。永遠かつ不死の自然法則は、たとえそれを思い描く人間が存在していなかったとしても、いつでも権力の座に留まっていたはずです。しかし、それらが現われることはなかったでしょう。それらは存在としてそこにあったかも知れませんが、顕現することはなかったでしょう。知覚する目がなかったとしたら、光や色についても同じことが言えます。私たちはショーペンハウアーのように、色彩はその存在を目に負っている、と仮定することはできません。それでも私たちは色彩を知覚する可能性を目の中に見なければなりません。目は色を決定づけるのではなく、それが現われる原因となるのです。
 ここで色彩論が登場します。それは目を調べて、その性質を見つけなければなりません。ゲーテが「生理学的な」色彩論から仕事に取り掛かったのはそのためです。とはいえ、彼の考えはこの光学の領域で通常理解されているものとは非常に異なっています。彼は目の機能をその物理的な構造という意味で理解しようとはせず、その特徴と能力を理解するために、様々な条件下で目を観察するのです。ゲーテのプロセスはいつでも「観察」のプロセスです。例えば、目に対する光と闇の影響とは何か?それが明確なイメージに出会うときには何が起こるのか?等々です。知覚が生じるときには目の内部でどのようなプロセスが生じているのか、と問うことから始めるのではなく、むしろ、見るという「生きた」活動の中で実際に生じているものの根底に至ろうとするのです。これが彼の目的にとってさしあたり唯一重要な問いかけです。それ以外のものは、厳密に言えば、色の生理学的な理論に属しているのではなく、人間有機体の科学、あるいは一般的な生理学に属しています。ゲーテが目に興味を持つのは、それが見る限りにおいてであり、死んだ目を観察することで導かれるような視覚についてのいかなる説明にも興味が持たれることはありません。
 彼はここから、それを通して色彩現象が生じるところの客観的なプロセスへと進みます。ここで私たちが知っておかなければならないのは、ゲーテが客観的なプロセスについて考えるときには、仮説上の知覚不可能な物質的プロセスや動きに興味を持っていたのではなく、いつでも自らを知覚可能な世界に限定していた、ということです。彼の「物理的な色彩論」―それは彼の研究の二次的な部分です―は、色が目とは無関係に作り出されるときの関連する条件を探求しますが、それでも、その興味は実際の知覚のみに留まっています。彼がそこで見るのは、プリズムやレンズ等を通して色彩がどのように現われるか、ということです。彼は色彩が生じるのを追っていくことで、つまり、そのようなものとしての色が対象とは無関係に生じるのを観察することでとりあえずは満足します。
 「化学的色彩論」の中の独立した章においてはじめてゲーテは固定されたものとしての、あるいは対象に「付着した」ものとしての色彩へと進みます。「生理学的な」色彩論は、そもそも色彩はいかにして現われるのか、という疑問に答えますが、「物理的な」色彩論はそれらが現われるときの外的な条件を取り扱います。彼は今、いかにして対象の世界は「色づけられた」ものとして現われるのか、という疑問に答えます。こうして、ゲーテは、現象世界の特徴としての色を観察することから、この特徴をもって現われるような現象世界そのものの探求へと進み、最終的には、「色の感覚的−道徳的な影響」の中の一章において、色彩を有する物理的な世界と人間の魂の世界との間のより高次の関係の観察へと進みます。
 これはきわめて厳密な―つまり、条件としての主観から世界についての満足を世界の中で見出すような主観へと立ち返るような―科学の道です。主観から客観へと立ち返るこの道の中で、ヘーゲルの全体的な体系という構築物へと導いた時代の衝動が明らかになります。
 この意味で、「色彩論の概観」はゲーテの光学における主要な仕事と見られるべきものです。彼の二つの随筆、「光学への貢献」と「色彩論の要素」は序論的な研究と見ることができるでしょう。「ニュートンの理論を暴露する」は彼の仕事に対する反論的な捕捉に過ぎません。

5.ゲーテの空間概念

 物理学におけるゲーテの仕事を十分に理解するためには、彼の「空間」に関する概念を展開させる必要があります。この概念を理解するための必要条件はこれまでの節の中に内在する確信、すなわち、第一に、私たちの経験の中で別々のできごととして現われる現象は相互に内的に関連しているという確信です。実際、それらは全世界を包含する統一の絆によって結びつけられているのです。それらすべの中には「ひとつの」原理が生きています。第二に、私たちが別々の事物にアプローチし、それらの関連性を決定することでそれらを結びつけようとするときにはいつでも私たちが創造するところの概念的な統一性は、それらの事物にとって外的なものではなく、自然存在そのものの正に中心から導き出されるものである、という確信です。ひとつのプロセスとしての人間の認識は事物の外側で生じるのではありません。それは純粋に主観的で恣意的なものではありません。むしろ、自然法則として私たちの精神の中に生じるもの、私たちの魂の中に生きるようになるものこそ、正に宇宙の鼓動なのです。
 私たちの現在の目的のために、私たちの精神が経験の対象物の間に打ち立てるあらゆる関連の中でも最も外的なものを検証してみましょう。経験によって精神的な活動が喚起される最も単純な例を見てみることにします。現象世界における二つの単純な要素を想像してみましょう。ものごとをできるだけ簡単にするために、二つの光の点を想像します。心に大きな問題を突きつけるひどく複雑な現象をこれらの光の点がそれぞれ示しているかも知れない、という事実は完全に無視してください。それらの感覚的な特徴は無視して、二つの別々の―つまり、私たちの感覚が私たちに告げる限りにおいて、別々の―要素という単純な事実についてだけ考えてください。そこには二つの要素があり、それぞれが私たちの感覚に影響を及ぼしていますが、それだけの意味しかありません。このことはまた、これらの要素の内のひとつの存在がもうひとつの存在を排除しない、つまり、それらの両方が「ひとつの」知覚器官によって知覚され得る、とも言えるでしょう。
 もし、これらの要素の内のひとつの存在が何らかの仕方でもうひとつの存在に依存していると仮定するならば、私たちは非常に異なった問題に直面することになるでしょう。もし、Bの存在が、それはAの存在を排除するけれども、それにもかかわらずその存在はそれに依存している、というようなものであったとしたら、それらは「時間」の意味で結ばれていることが示唆されます。と申しますのも、もし、Bの存在がAに依存し、そして、Bの存在がAを排除するとしたら、AはBに先立つものでなければなりません。しかし、それは別の問題です。
 そのような関係を私たちの目的のために想像することはありません。私たちはこれらがお互いを排除せず、共存すると仮定します。それらの内的な本性によって要求されるあらゆる関係を無視することによって、二つの別々の実体としてのそれらの関係だけが残ります。私は一方から他方へと行くことができ、そして、二つの間には間違いなくその種の関連が存在しています。もし、私がひとつの事物から別の事物へと移行することができ、それぞれがその過程で全く変化しないままに留まるとしたら、それらの間には「空間」という意味での結びつきだけがあるはずです。その他のいかなる関係もそれらの質的な違いを含むものとなるでしょう。しかし、空間は、それらが「分離している」という事実を除いて、あらゆることに中立です。もし、私が、Aは上にあり、Bは下にある、と言うならば、AあるいはBが何であるかということは問題になりません。それらについての私の唯一の考えは、それらは私の感覚に提示される二つの別々の世界要素である、ということです。
 経験にアプローチするときの私たちの心は、あらゆる分離が克服され、全体の力が個別のものの中で明らかになるのを欲します。私たちは、世界を空間的に見るとき、この分離そのものを克服することだけを求めます。私たちは「最も普遍的な結びつき」を確立するように努力します。この空間的な関連が確立するものとは、AとBはそれぞれがそれら自身の世界なのではなく、それらは何か共通のものを持っている、ということです。これが空間的な並置が意味しているものです。もし、それぞれがそれ自身のためだけに存在していたとしたら、空間的な並置は存在しなかったでしょう。いかなる種類の関係も事物の間で形成されることはなかったでしょう。
 さて、このように別々の実体の間に外的な関係を打ち立てるということが私たちをどこに導くかを見てみましょう。そのような関係にある二つの要素について考える方法が「ひとつ」だけあります。AをBの「隣に」あるものとして考えることができるのです。感覚的な世界におけるさらに二つの要素―CとD―についても同じことができます。こうして、AとBの他に、CとDの間にも具体的な関係が確定します。今、個別の要素A、B、C、そしてDについては忘れ、二つのペアの間の関係だけを考えることができます。AとBを関連づけたのと同じようにしてこれらの個別の実体を関連づけることができる、ということは明らかです。ここでは単に具体的な関連が述べられているだけです。私はこれらの組みをa、bと呼ぶことができます。これをさらに次の段階に進めると、aとbの間の結びつきを見ることができます。けれども今、私はすべての個別性を見失ってしまいました。私がaを見るとき、お互いに関連したAとBを見ることはもはやありません。それはbについても同じです。いずれの場合にも、関係が確立された、という単純な事実だけが見出されます。aとbを区別することを可能にしたのは、それらがA、B、C、そしてDのことである、ということでした。もし、私がこの個別性の痕跡を捨て去り、aとbだけを関連づけるならば―つまり、特殊なものが関連づけられているということではなく、それらは関連性である、という事実だけがあるならば―私は全く一般的な方法で私が出発点とした空間的な関連性へと再び至りました。そこから先に行くことはできません。私は私が求めていたもの、「空間」についての内的な認識を達成したのです。
 「ここには三次元性の秘密が横たわっています。」最初の次元において、私は感覚的な世界の二つの具体的な要素を関連づけます。第2の次元において、私はそのような空間的な関連性の間に関連性を確立します。それは関連性の間の関連性です。具体的な現象は除かれ、残っているのは具体的な関連性だけです。今、私はこれらを空間的な関連性へともたらしますが、それはこれらの関連性の具体的な性質を完全に無視することを意味しています。私は私が別のものの中に見出したひとつの関連性と「正確に同じ」ものをこうして見出すのです。同じ実体間の関連性を確立した今、関連づける可能性が止みますが、それはすべての差異が消滅したためです。
 私は今、探求のための視点としてそこからはじめたもの―それは完全に外的な関連性です―へと、ただし、今回は感覚的な像としてのそれへと戻って来ました。私は上で述べた3回のプロセスを実行することにより、空間的な視点を取ることから空間そのものへと、つまり、私の出発点へと至ったのです。「空間が3次元でなければならないのはこの理由によります。」
 ここで私が空間に関して提示したことは私たちの一般的な観察方法の本当にひとつの特殊な例に過ぎません。私たちは共通の視点から具体的な対象物を観察します。こうして私たちは特殊なものの概念を得、次いで、これらの概念そのものを同じ視点から観察することによって、概念についての概念を得ます。つまり、もし、私たちがそれらを再び結びつけるならば、それらはひとつの理想的な統一体、それ自身との関連でのみ見られるような統一体へと融合するのです。
 次のような例を取り上げてみましょう。私は二人の人物A、Bと知り合いになります。私は友情という観点から彼らを観察します。この場合、私はこれら二人の友情について、ひとつの非常に明確な概念aを持つでしょう。次に、私は別の二人C、Dを同じ観点から眺めます。私は彼らの友情について、ひとつの異なる概念bを持つでしょう。さて、私はさらに進んで、友情に関するこれら二つの概念を並べて置きます。私が私の具体的な観察から抽象化を行うとき、私に残されるのは「友情という一般的な概念そのもの」です。けれども、この概念はまた、EとFの友情や、さらに、GとHの友情を同じ観点から観察することによっても達成されます。これらの場合にも、他の無数の場合と同様、一般的な友情の概念に至ることができます。これらすべての概念は本質的に同一であり、それらを同じ観点から眺めるとき、ひとつの統一性が見出されたことに気がつきます。
 ですから、「空間」とは、ものごとを眺めるひとつの方法であり、私たちの心が別々のものを統合する方法なのです。最初の次元は二つの感覚的な知覚(カントの言う感覚)の間の結びつきを確立します。第2の次元は二つの具体的な心象をお互いに関連づけ、そして、「抽象化」の領域へと入っていきます。第3の次元は二つの抽象的なものの間の理想的な統一を確立するだけです。ですから、空間の三つの次元が同じ重要性を有していると考えるのは正しくありません。最初の次元の性質は知覚された要素に依存します。けれども、きわめて特殊で最初のものとは異なる意味が他の二つにはあります。カントはここで間違いを犯しました。つまり、空間をそれ自体が概念的に規定され得るひとつの実体としてではなく、ひとつの統一体として考えたのです。
 ここまで私たちはひとつの関係性としての空間について語って来ました。今、問わなければならないのは、そこにあるのは並置という関係だけなのか、それとも、それぞれの事物には絶対的な位置というものがあるのか?ということです。私たちのこれまでの考察では、これらの問題には全く触れられて来ませんでした。「絶対的な位置」とか特別な「そこ」といったようなものがあるのかどうかを見てみることにしましょう。私は「そこ」によって実際に何を言おうとしているのでしょうか?私は問題の対象物の直近にある特定の対象物のことを言っているに過ぎません。「そこ」とは、指名された対象物の近くに、という意味です。このように、絶対的な位置は「空間的な関係性」にまで遡ることができますが、これによって私たちの探求が結論づけられます。
 今、私たちの調査によれば、空間とは何なのか?と直接問いかけてみましょう。それは、あらゆる事物が、それらの本質的な性質とは無関係に、完全に外的な仕方で、それらの分離状態を克服し、それによって、たとえ外的なものとはいえ、ひとつの統一へともたらされるように、それらに生来備わっている必然性なのです。ですから、空間とは世界を統一体として理解するためのひとつの方法なのです。「空間とはアイデアであり」、カントが信じていたような感覚器官による知覚ではありません。

6.ゲーテ、ニュートン、そして物理学者たち

 色彩の本質的な性質を観察することに対して、ゲーテはさしあたり芸術的な興味を持っていました。彼の先見的な天才が間もなく気づいたのは、絵画における色の使用は深い法則性に準拠している、ということです。絵画理論の範囲内に留まっている限り、その法則性の特質を発見することはできませんが、画家たちもまた彼に満足のいく答えを提示することはできませんでした。画家たちはどのように色を混合し、用いているかについて、実践的な方法で知っていましたが、自分たちが行っていることを概念化することができませんでした。イタリアに赴いたゲーテが見たのは、あの芸術における最も崇高な例だけではなく、最も壮大な自然の色彩でした。そして、彼の中に色彩の法則を理解したいという強い欲求が目覚めたのです。
 ゲーテは「色彩論の歴史」の中でその課題の歴史的な側面について詳しく説明しています。ここではその心理学的かつ実際的な側面に焦点を当てることにしましょう。ゲーテはイタリアから帰った直後に色の研究を開始しました。これは1790年と1791年に強化され、彼の死に至るまでの主要な関心事であり続けました。
 色の研究を始めたときのゲーテの世界観の状態を考察してみましょう。彼は既に有機的な実体の変容に関する彼の偉大な考えを発展させていました。顎間骨の発見によって、既にあらゆる自然存在の統一性が明らかになっていたのです。彼にとって個別のものはアイデアの特別な変化形として現われました。彼は、イタリアからの手紙の中で、植物が植物であるのは「植物というアイデア」をそれ自身の内に担っているからである、という考えを表明していました。そのアイデアは、彼にとって、精神的な内容に満たされた具体的な統一体であり、それぞれの植物の中で活動していました。それは物理的な目をもってしては見ることができませんが、精神の目をもってすれば理解することができるものです。それを見る者は「それぞれの」植物の中にそれを見ます。それは植物界全体を―この観点をさらに洗練させれば、すべての自然を―精神により理解することができる統一体にするところのものなのです。
 とはいえ、私たちの感覚が提供するような多様性を単にアイデアから構築することは誰にもできません。先見的な精神はアイデアを知ることができますが、「個別の形態」にアプローチすることができるのは、私たちが観察し、考察しながら、私たちの感覚を外なるものに向けるときだけです。私たちの感覚という現実の中で、何故、あるアイデアの変化形がひとつの形態を取り、別の形態を取らないのかという疑問に対する答えは、知的な考察によって見出すことはできません。つまり、現実の世界を「見る」必要があるのです。
 このゲーテに特有のものの見方は「経験主義的な理想主義」として最も良く記述することができるでしょう。それは次のように要約することができます。「感覚に生じる事物の多様性」を観察するとき、それらの事物が似通っている程度に応じて、それらの根底に「精神的な統一性」を見出すことができる。そして、それがそれらすべての類似性の源泉なのだ、と。
 こうして、ゲーテは、色彩知覚の多様性の背後にある精神的な統一性とは何か?と問うに至りました。私は「それぞれの」色の中に何を知覚するのでしょうか?すぐに明らかになったのは、「光」がそれぞれの色に必要な基礎となっている、光がなければ色もない、ということです。しかし、色彩は光が変化したものです。ですから、今度は、光を変化させ、それに特殊性を付与する要素を見つける必要がありました。彼には、この要素こそが光を欠く物質、あるいは活動的な闇―言い換えれば、光に対抗するもの―である、ということが分かりました。ですから、彼にとっては、それぞれの色は闇によって変化させられた光だったのです。
 ゲーテが光について語るとき、それは具体的な太陽光あるいは通常の「白色光」のことを意味していた、と考えるのは正しくありません。人々がこの考えから脱却できないこと、複雑な構成の太陽光をそのようなものとしての光の代表として見るということは、ゲーテの色彩論を理解する上で唯一の実際的な障害となっているものです。ゲーテが闇に対抗するものとして見るときの光とは、あらゆる色の知覚に共通した純粋に精神的な実体なのです。ゲーテはそのように明確に述べたことは決してありませんでしたが、ゲーテの色彩論全体は、それ以外にそれを理解する方法はない、というような仕方で提示されています。彼が太陽光を用いてその理論を実験的に検証したのは、確かに太陽光は太陽という天体の複雑なプロセスの産物ではあるけれども、その各部分がその内部に保持されているところのひとつの統一体として私たちに自らを提示する、という理由からです。色彩論のために太陽光を観察することによって得られるのは、単に現実を「近似する」ところのものだけです。それぞれの色の中には光と闇が目に見える現実として実際に含まれている、ということをゲーテの理論は示唆していると考えるべきではありません。私たちの目に映る現実は個別の色合いに過ぎません。色という感覚的な事実を二つの精神的な実体―光と光ではないもの―に分離することができるのは精神だけです。
 そこに含まれている外的な条件や物理的な過程は、今述べられたことによっていささかも影響されません。私に赤が現れるとき、エーテルの振動がそこにあるということに疑いはありません。とはいえ、既に示されたように、知覚の中に含まれる実際の物理的なできごとはその「本質的な特質」とは何の関係もありません。
 人は、すべての感覚は主観的であることが証明されている、私たちの脳内で起こっていることを除けば、感覚の背後には実際に波動プロセスが存在している、と主張するかも知れません。しかし、これでは、単に物理的なプロセスの根底に横たわるものの理論を除いて、いかなる「知覚に関する物理的な理論」についても語ることはできません。この証明は、aにいる誰かがbにいる私に電報を打つとき、私がこの手に受け取る電報はbに発するものである、と主張するのと同じです。電報の発信者はbにいて、aには存在しなかった紙の上に、aには存在しなかったインクを用いて書き、実際、aがどこなのか見当もつかない、言い換えれば、私の目の前にあるものはaに発したものでは全くない、ということが証明されるのです。しかし、それでも、bに発したこれらすべてのことがらは、電報の実際の「内容」、あるいは本質には全く関係がありません。つまり、私にとって重要なことがらがbを通って媒介されたというだけのことです。電報の意味を説明したいのであれば、私はbで起こったことを完全に無視しなければなりません。
 目についても同じことが言えます。理論は、目で知覚可能なものを包含するとともに、この領域の「内部」で相互関係を探求するものでなければなりません。時空間中での物質的な過程は、知覚の「生起」にとっては非常に重要かも知れませんが、それらの本質的な特質には無関係なのです。
 このことは、今日、光、熱、電気といった様々な自然現象のすべてがエーテル中での同様な波動プロセスによって生じるのかどうかについて、しばしば投げかけられる問いにも当てはまります。最近、ハインリッヒ・ヘルツ(1857-1894年)によって、空間中における電気的な効果は光の効果と同じ法則にしたがう、ということが証明されました。光を運ぶ波動は電気の根底にも横たわっている、ということがこれから推測されます。太陽光スペクトルの中にはただ「ひとつの」種類の振動が働いており、それらが接触する試薬が熱、光、あるいは化学的な作用に反応するかどうかによって、熱、光、あるいは化学的な効果を生じさせる、ということは既に認められていました。
 このようなことはすべて言うまでもないことです。もし、ここで問題になっている実体が媒介されている間、空間中で何が起こっているかを調べるならば、私たちは「同じ型の」動きを見出すことになるでしょう。単に動き「だけ」が可能な媒体中では、刺激に対するいかなる反応も動きを通したものになるに違いありません。それによって遂行されるいかなる媒介も動きの形でなされることでしょう。そして、もし、私がこの動きの形態を調べるとしたら、私は伝えられるものの特質ではなく、それが伝達されるその仕方だけを経験することになるでしょう。熱や光が動きであると主張するのは馬鹿げています。動きとは単に動く可能性のある物質が光に出会ったときの反応に過ぎません。ゲーテ自身、生存中に波動理論が誕生するのを見ていますが、その中には色彩の性質に関する彼自身の確信と合致しないものは何も見られませんでした。
 ゲーテは光と闇を感覚知覚可能な現実として考えていたのだ、という見方を私たちは捨てなければなりません。そうではなく、それらを「単なる」原則として、つまり、精神的な実体として考えるならば、私たちは全く新しい光の下に彼の色彩論を見ることになるでしょう。もし、ニュートンのように、光を単にすべての色の混合物として見るならば、私たちは具体的な実体としてのいかなる「光」の概念も見失ってしまいます。それは現実に対して何の対応物も持たない空虚な一般化物へと蒸発してしまいます。そのような抽象的な概念はゲーテには縁遠いものでした。彼によれば、あらゆる概念は「具体的な」内容を持っていなければなりません。しかし、彼にとって、「具体的な」というのは物理的なものに限定されてはいませんでした。
 実際、現代の物理学はいかなる光のための概念も有していません。特定の光あるいは色彩が一定の組み合わせにおいて「白」という感覚を引き起こすことをそれは認めます。しかし、この白を光と同じものと考えることはできません。事実、白は「混合色」でもあるのです。通常の物理学にとって闇がそうであるように、ゲーテの意味での光は見知らぬものです。ゲーテの色彩論の基本的な概念については「何も」知らない物理学者たちの概念によって触れられていない領域の中でそれは展開されます。ゲーテは彼らが終わるところから始めるのです。ですから、彼の理論を評価することは彼らにはできません。
 ゲーテのニュートンや現代物理学に対する関係についていつも言われることは、それらは全く異なるものであるという事実を完全に見落としている非常に表面的な問題の把握に基づいています。
 私たちは、もし、人が感覚の本性についての私たちの議論を正確に理解するならば、ここで示されたゲーテの色彩論の観点もまた共有するであろう、ということを確信しています。けれども、もし、私たちの基本的な理論を認めないのであれば、人は物理的な光学の観点を主張し、ゲーテの色彩論を完全に拒否しなければならなくなるでしょう。