ルドルフ・シュタイナー

ゲーテの自然科学論序説〜並びに、精神科学(人智学)の基礎〜

(GA1)

第18章

ゲーテの「散文の中の韻」における世界観

佐々木義之訳


 私たちは観察する精神に対して自然が自由に提供するもので満足することはありません。自然はその創造における大いなる多様性を作り出すために、さしあたり観察者には隠されているような推進力を使用する、と私たちは感じます。自然自身がその最終的な言葉を語ることはありません。私たちの経験は自然が何を創造することができるかを明らかにしますが、その創造がどのようにして生じるかを明らかにはしません。自然の推進力を明らかにする手段は人間の精神そのものの中に存在しているのです。自然が創造を生じさせるその仕方に光を投げかけるところのアイデアがそこで生じるのです。外的世界の現象が隠しているものは人間存在の内に現れます。私たちが自然法則と考えるものは自然につけ加えられるものとして考え出されるのではありません。そうではなく、それは自然そのものを内的に構成するものなのです。精神というのは自然がそこでその創造の秘密を明らかにする劇場に過ぎません。私たちが「観察」するのは事物のひとつの側面に過ぎません。他の側面はそのとき私たちの精神の内部に湧き上がって来るものです。同一のものが私たちの外側から、そして、内側から私たちに語りかけてきます。完全な現実に私たちが気づくのは、外なる世界の言葉を私たちの内的な存在の言葉に結びつけるときだけです。あらゆる時代を通して、真の哲学者たちは事物の本質的な性質―その伝達のための器官として精神が提供されるとき、それらの事物そのものが表現するところのもの―をはっきりと示すことだけを望んできました。
 私たちが私たちの内的な存在に自然について語らせようとするとき、自然はその推進力によって成し遂げられたはずのものを十分には達成できていない、ということが分かります。内的な方向では、経験が包含しているものをより完全な形で見ることになるのです。私たちは、自然はその創造における目標を達成していない、ということを見出し、その意図をより完全な形で表現する必要を感じます。こうして、私たちは自然が意図したけれどもある一定の地点までしか成し遂げられなかったものを表現する形態を創造します。そのような形態が芸術作品、すなわち自然がより不完全に表現するものをより完全な形で提示する人間の創造行為です。
 哲学者たちと芸術家たちとは共通の目標を持っています。つまり、彼らは彼らが自然をして彼らの上に自らを刻印づけるようにさせるときに彼らが見る完成度を描写しようとします。とはいえ、この目標を達成するための彼らの方法は異なります。哲学者たちが自然のプロセスに向かうとき、彼らの中に「ひとつの思考あるいはアイデア」が点灯し、そして、それを彼らは表現します。他方、芸術家たちの中にはそのプロセスの像が生じるのですが、それは外的な世界の中で観察し得るよりももっと完全に自らを表現しています。哲学者たちと芸術家たちとは彼らの観察を別様に展開するのです。芸術家たちは哲学者たちに自らを現すときのような自然の推進力を知る必要がありません。彼らがある事物やできごとを知覚するとき、直ちにひとつのイメージが彼らの心に生じるのですが、その中では、自然法則が外的な世界の中の対応する事物やできごとにおけるよりももっと完全に表現されているのです。思考の形式を取った法則が彼らの心の中に入っていく必要はありません。とはいえ、認識と芸術とは内的に関連しています。それらが示すのは外的な世界の中では十分に実現されることがなかった自然の「可能性」なのです。
もし、これらの推進力が真の芸術家の心の中で、事物の完全な像としてだけではなく、思考としても表現されるに至るとすれば、哲学と芸術に共通した創造的な源泉が特別な明晰性をもって私たちの眼前に現れることになるでしょう。ゲーテはそのような芸術家でした。彼は、彼の芸術作品の中で、そして、彼の思考の中で、同じ秘儀を私たちに開示します。彼は彼の詩の中で形を取るものを思考として彼の科学や芸術に関する随筆や彼の「散文の中の韻」の中で記述します。これらの随筆や詩は深い満足を与えますが、それは人がそれらの中に一人の個人の中で実現した芸術と認識の調和を見るからです。それぞれの思考との関連で生じるゲーテの感情の中には何か上昇させるようなものがあります。そこで語っているのは、彼がアイデアとして表現するものをイメージとして見ることができるような人なのです。その感情はこのような思考の力を強化します。「一人の」個人における最も気高い努力に発するあらゆるものは内的に結びつけられていなければなりません。ゲーテの叡智は、真の芸術に対応する種類の哲学とは何か?という問いに答えるものです。ここで私は、真の芸術家の精神に担われたこの哲学に関する首尾一貫した素描を試みたいと思っています。

  私たちが外的な世界に直面するとき、私たちの中に生じる思考内容は真正なものです。私たちは私たち自身が作り出す洞察以外のいかなる認識も求めることができません。事物を説明すると思われるような何か別のものをそれらの背後に探し求める人たちは、事物の本質的な性質に関するあらゆる疑念は私たちの知覚に思考を浸透させようとする私たち人間の必要からのみ生じ得る、ということに気づいていません。事物が私たちに語りかけ、そして、私たちがそれらを観察するとき、私たちの内的な本性が語りかけます。この語りかけの両側面は同一の主要存在から生じます。私たちに求められるのは、それらの相互理解を生じさせる、ということです。認識とは正にそのようなものなのです。人間本来の必要を理解する人たちはそれを、そして、それだけを求めます。そのような理解を欠いている人たちにとって、外的な世界の事物は見知らぬものに留まります。そのような人々が事物そのものの内的な存在から語りかけられるその本質的な性質を聞くことはありません。その結果、彼らは、それは事物の背後に隠されている、と想像するのです。彼らは知覚可能な世界の背後にある別の外的な世界を信じるのですが、単にそれらを観察する限り、事物は外的なものに留まります。私たちがそれらについて熟考するとき、それらはもはや私たちの外にあるのではなく、私たちとそれらの内的な側面とは一体化しているのです。私たちにとって、客観的、外的な知覚と、主観的、内的な思考世界の間の対比が存在するのは、これらの世界は相互に帰属している、ということに私たちが気づき損ねるときだけです。私たちの内的な世界は自然の内的な存在なのです。
 異なる人々は事物を異なって眺める、という事実によってこれらの考えが反駁されることはありません。人々は異なって組織されており、したがって、ある色が異なる人々によっても正確に同じ方法で見られるかどうかを知ることはできない、という理由によってそれが反駁されることもありません。私たちが何らかの事物について正確に同じ判断を形成するかどうかが問題なのではなく、私たちの内的な存在の言語が事物の本質的な特性を表現する言語であるかどうかが問題なのです。個別の判断は個別の組織や観察の観点によって様々ですが、すべての判断は同じ要素から生じ、事物の本質的な特性へと導きます。それは思考の様々なニュアンスの中で表現されるかも知れませんが、それでも、それは事物の特性であることに変わりありません。人間は自然がそれを通してその秘密を打ち明けるところの乗り物であり、世界の最奥の本質は主観的な個性の中で明らかにされるのです。

世界の内にある私たち自身を全体性の中にあるかのように感じるとき、すなわち、調和する満足が私たちに純粋で自由な喜びを与えるとき、もし、宇宙が自意識的であったならば、それはその目標を達成した喜びに沸き、それ自身の生成と存在の頂点に驚嘆するでしょう。(R.シュタイナーによる注:ゲーテの随筆「ヴィンケルマン」より)

 宇宙の目標と存在の真の本性は、外的世界の産物の中にではなく、人間精神の内部に生きているもの、そして、それから生じるものの中に見出すことができます。ですから、ゲーテにとって、装置や客観的な実験によって自然の内的な存在へと貫き至ろうとする科学者たちの試みは、次に示すように、間違いなのです。

我々が我々の健全な感覚を用いる限り、我々自身が、考え得る最良の、最も正確な科学装置なのです。現代物理学における最大の不幸は、いわば、人間がその実験から引き離されたことにあります。つまり、物理学は人工的な装置によっては検出されないようないかなるものの中にも自然を認めることを拒否するとともに、自然が成し遂げ得ることを制限したり、証明したりするためにさえそれを用いるのです・・・その他の方法では自らを現せないようなものでも我々の中では表現に至るほど高いレベルで我々人間は存在しています。音楽家の耳に比べて、弦やその様々な区分が何ほどのものでしょうか?実際、我々は次のように問うでしょう。我々がそれらをある程度消化できるためには、我々はまずそれらを手なずけ、変容させなければならないことからして、人間と比べれば、自然そのものの基本的な現象とは何ほどのものなのか?と。(散文の中の韻)

 もし、私たちが人間として事物の本質的な特性を知りたいと思うのであれば、私たち自身の心を通してそれらに語らせなければなりません。私たちは、それらの本質的な特性について、私たち自身の内的な存在の精神的な経験から取られたものについてのみ語ることができます。世界についての結論を引き出すことができるのは私たち自身からだけです。私たちは擬人法で考えなければなりません。私たちが何か非常に単純な事象―例えば、二つの物体が衝突するときのような―について語るとき、私たちは擬人化します。ある物体が別の物体に衝突すると結論づけることでさえ擬人法なのです。もし、私たちができごとの単なる観察を越えて行きたいのであれば、私たち自身の体が別の物体を動かすときのその経験にそれを結びつけなければなりません。あらゆる物理的な説明は隠された擬人法です。私たちは自然を説明することによってそれを擬人化します。つまり、人間の内的な経験がそれに投影されるのです。
とはいえ、これらの主観的な経験は事物の本質的な内的特性です。ですから、私たちは、客観的な真実、あるいは「物自体」を認識しない、と主張することはできません。何故なら、私たちに可能なのはそれらの主観的な表現を形成することだけだからです。(→に続く)

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(注:ゲーテの観点はカントの哲学と鋭く対立しています。私たちの内的な心象世界は人間精神の法則に支配されており、したがって、外部からそれにもたらされるあらゆるものは主観的な反映としてのみそこに存在し得る、というのがカントの仮定です。この観点にしたがえば、私たちは、物自体を知覚するのではなく、むしろ、それらの事物がどのように私たちに影響するか、そして、私たちがそれらの影響を私たちの知性と理性の法則にしたがってどのように結びつけるか、ということから結果として生じるイメージのみを知覚します。カントやカント主義者たちは、事物の本質存在は私たちの理性を通して語る、ということに思い至りません。したがってカント哲学はゲーテにとって何の意味も持ち得ません。彼がカントの原則の何某かを得たとき、彼はそれらにそれらの提唱者の教えの中に含まれていたものとは全く異なる意味づけを行いました。
ワイマールにおけるゲーテ文庫の開始とともに初めて光を当てられることになったある覚書によって明らかになったのは、ゲーテが彼自身の観点とカントの観点との間のこの対照性について非常によく認識していた、ということです。ゲーテにとって、カントの基本的な間違いは、彼が「『主観的な』認識能力そのものをひとつの『対象』と見做し、そして、『主観』と『客観』が出会う地点を実に鋭く、しかし、間違ってというわけではなく、区別する」ところにあります。主観と客観が出会うのは、外的な世界についての表現を私たちの内的な存在が語るものに結びつけるときなのですが、それらは事物の統合された存在となります。そのとき、主観と客観の対立はこの統合された現実へと解消されるのです。
私は本書第11章の冒頭でこれについて示しました。ところで、カール・フォルレンダーは私がそこで書いたことを「カント研究」の初版の中で攻撃しています。彼によれば、カントとゲーテの対立についての私の観点は「どう見ても非常に一方的で、ゲーテ自身の明確な意見に矛盾しています。これはカントの超越的な方法についての(私の)完全なる誤解(によるもの)です。」フォルレンダーは、ゲーテがその中に生きていた世界観について、何のアイデアも持っていません。彼と議論しても何にもならないのですが、それは私たちが異なる言葉を喋っているからです。彼は私が言うべきことを何でも理解し損ねるという事実は、彼の思考がいかに明確であるかを示しています。例えば、私はゲーテの次のような意見にコメントしました。

私たちが周囲の対象に気づくやいなや、私たちは私たち自身との関連でそれらに注意を払います。そして、それが正当であるのは、私たちがそれらを好きか嫌いか、私たちがそれらに惹かれるか否か、それらが有益か有害かに私たちの運命全体がかかっているからです。事物を眺めたり、それらを評価したりするこの全く自然な方法は、それらが必要であるのと同じくらい安易なものであるように見えます・・・私たちが、私たちの能動的な認識の追求において、自然の対象物を「あるがままに」、そして、それら自身の相互関係において観察しようとするとき、私たちははるかに困難な仕事を引き受けたことになります。つまり、私たちはそのとき、喜ばせるものをではなく、存在するものを探求し、調査するのです。(「対象と主観との間を仲介するものとしての実験」)

 私のコメントは、「これはいかにゲーテの世界観がカントのそれの正反対であるかを示すものです。カントによれば、事物をありのままに見る観点は絶対にあり得ず、いかにそれらが私たちとの関係で「現われる」か、という観点があるだけなのです。ゲーテはこの観点を事物に対するアプローチとしては劣ったものであると見ていました。」というものでした。フォルレンダーは次のように応じました。

ゲーテによるこれらの言葉は、単に心地よいものと真実であるものとの間の些細な違いを導入的な仕方で表現しようとしたものに過ぎない。研究者は「何が『喜ばせるか』ではなく、何が『存在するか』」を探求すべきである。シュタイナーのような(事物へのこの第二の、実際、「非常に」劣った対処法がカントのやり方であると敢えて言う)人たちには、まずカントの教義についての基本的な概念―例えば、「判断力批判」の第3節のような文章の中で記述されている主観的な感覚と客観的な感覚との間の違い―を明確にするように、とアドバイスしたい。

 今、私の見解を述べることによって明確にしておきたいのは、私は事物へのこの対処法がカントの方法であると言ったことは全くない、ということです。むしろ、私が申し上げたのは、ゲーテの見方によれば、主観と客観の間の関係についてのカントの理解は事物本来の性質を知ろうとするときの私たちが有するそれらとの関係に対応していない、ということです。カント的な定義は人間の認識能力には対応しておらず、私たちが快と不快の意味で事物を眺めるときの私たちとそれらとの関係に対応している、というのがゲーテの見方でした。フォルレンダーのように発言を誤解することに長けた人は、彼らの哲学的な教育に関して、他の人にアドバイスする前にいかに文章を正しく読むかを学んでおいた方がよいかも知れません。ゲーテが言ったことを探してきて、それらを年代順に並べることは誰にでもできますが、ゲーテの世界観の精神においてそれらを説明することはフォルレンダーにはできない、ということは確かです。)


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 (→から続く)主観的な人間の真実以外、いかなる真実も問題にはなり得ません。真実とは主観的な経験を客観的な現象の相互関係に投影したものなのです。主観的な経験は完全に個別の特徴を担うことさえあります。それでも、それらは事物の内的な性質を表現しています。人は自分の中で経験したものだけを事物の中に持ち込めるわけですから、ある意味で、それぞれの人は、彼あるいは彼女の個人的な経験にしたがって、何か異なったものを事物の中に持ち込むことになります。何らかの出来事についての私の説明は、同様の内的な経験をしていない人にとっては、完全に理解可能というものではありません。重要なのは、すべての人が事物について同じ考えを持つということではなく、事物について考えるときには、皆が真実の要素の中に生きる、ということです。ですから、私たちは別の人の考えそのものについてあれこれ考察し、それらを受け入れたり拒絶したりすべきではなく、その人の個性が現われたものとしてそれらを見るべきなのです。「反論したり主張したりする人は、誰もがすべての言語を理解できるわけではない、という事実について、たまにはよく考えてみるべきなのです。」(「散文の中の韻」)普遍的な真実を提供することは哲学にはできません。そうではなく、それが記述するのは、正に哲学者たちがそれを通して外的な現象を説明してきたところの内的な経験なのです。


 人間の心を介して何かがその本質的な存在を開示する場合に完全な現実が現われるのは外的な客観性と内的な主観性が合流するときだけです。現実を認識するようになるのは一方的な観察を通してでも、一方的な思考を通してでもありません。現実というのは何か出来合いのものとして客観的な世界の中に存在しているのではなく、人間の精神によって、その事物との結びつきの中で、もたらされるのです。客観的な事物は現実のひとつの側面に過ぎません。ゲーテは感覚的な経験だけをもてはやす人たちに答えて言います。「経験とは半分の経験に過ぎません・・・あらゆる事実であるものは既に理論なのです。」(「散文の中の韻」)言い換えれば、理想的な要素が人間の心中に現れるのはそれが何らかの事実であるものを観察するときなのです。
この世界観―それはアイデアの中で事物の本質的な性質を認識し、認識を事物の存在への生き込みとして思い描きます―は「神秘主義」ではありませんが、神秘主義と共通したひとつの特徴を持っていることは確かです。つまり、客観的な真実を何か外的な世界の中に存在するものとしてではなく、人間存在の内部で実際に把握され得るものとしてそれは眺めます。反対の世界観は現象の背後にある事物の基盤を人間的な経験を越えた領域へと移します。そのような観点は宗教的な顕現として受け入れられるその基盤への盲目的な「信仰」に身を委ねるか、知的な仮定を行い、彼方の領域にあるその現実の特徴について理論化するしかありません。
 神秘主義者もゲーテの世界観を擁護する人たちも、正に何らかの「別世界」を仮定することを拒否するように、そのような領域への信仰を拒否します。つまり、彼らは人間の中で表現される真に精神的なものを擁護するのです。ゲーテはジャコビ宛に「神は『形而上学』をもって『あなた』を罰し、あなたの生身を矢で射りましたが、彼は物理学をもって私を祝福しました・・・私は汎神論者(スピノザ)の神への崇拝をますます強く支持しています・・・そして、あなたが宗教であると考えているものすべてをあなたの義務としてあなたに委ねます・・・あなたが、神は『信じる』ことができるだけだ、と言うなら、私は、『見ること』の中で多くを貯える、とあなたに言うでしょう。」と書き送っています。ゲーテは自らを表現するような事物の本質存在を彼のアイデアの世界の中に「見」ようとしました。神秘主義者たちもまた彼ら自身の内的存在に沈潜することによって事物の本質的な性質を知ろうとするのですが、より高次の認識を達成するのに適していないとして彼らが拒絶するのは正にアイデアの―それ自体が明確で透明な―世界なのです。神秘主義者たちは存在の根源的な基盤を見るための彼らのアイデアに対する能力を発達させることに信を置かず、彼らの存在のその他の内的な力に集中します。一般に、神秘主義者たちは不明確な感覚や感情の中で事物の存在を把握するものだと考えています。しかし、感情や感覚は主観的な人間の性質に限定され、アイデアの中でのみ自らを表現する事物については何も語りません。
 神秘主義者たちは理性の人々と比べてその「深み」を誇りにしている、という事実にも関わらず、神秘主義は世界観としては表面的なものなのです。彼らは感情の性質について何も知りません。もし、知っていたら、彼らはそれを世界存在の表現として見ることはなかったでしょう。そして、彼らはアイデアの性質について何も知りません。もし、知っていたら、彼らはそれを浅薄で合理主義的なものとして見ることはなかったでしょう。彼らはアイデアを持っている人たちがその中で経験していることについて実際、何も知らないのです。とはいえ、多くの人にとって、アイデアは言葉以上のものではありません。彼らにはそれらの無限の十全性を把握することができないのです。彼らが彼ら自身の空虚でアイデアに欠けた言葉を空疎なものとして経験するのは驚くべきことではありません。
 


 客観的な世界の本質的な内容を自分自身の存在の中に求める人たちは「道徳的な世界秩序」の本質もまた人間の性質そのものの中にのみ見出します。人間の経験という現実の背後に超越的な現実があると信じる人たちは倫理の源泉もまたそこに求めなければなりません。何故なら、言葉のより高次の意味において、倫理的であるものは事物の本質的な性質にのみ由来するものだからです。超越的な世界を信じる人たちが甘んじて受けるべき倫理的な戒律を仮定するのはこの理由によります。そのような戒律は顕現として彼らのところにやって来るか、カントの至上命令の場合のように、それらが実際に彼らの意識の中に入って来るかです。それが「物自体」の超越的な世界から私たちの意識にどうやって入って来るかについて、私たちは何も聞かされません。それは単にそこにあり、私たちはそれを甘んじて受けなければならないのです。純粋に感覚的な観察に固執する経験主義的な哲学者は倫理を単に人間的な衝動と本能の効果と見なします。これらを研究することによって倫理的な行為を決定づける規範に至ると思われているのです。
ゲーテは道徳を人間的なアイデアの世界から生じるものとして見ます。私たちがそれを通して私たち自身の方向づけを行うところの、それ自体が明晰なアイデアだけが道徳的な行為を導くことができるのであって、客観的な規範や単なる衝動がそれを導くのではありません。私たちは、倫理という客観的な規範には従わなければならない、というような義務感からそれらに従うのでもなく、衝動や本能に駆られて強制されるのでもありません。私たちはむしろ愛からそれらに仕えるのです。子供を愛するように私たちはそれらを愛します。私たちはそれらが実現するのを見たいと思い、それらの代わりに介入しますが、それはそれらが私たち自身の存在の一部だからです。ゲーテ的な道徳においては、「アイデア」が行為への導き手であり、「愛」が推進力なのです。彼にとって義務とは「私たちが私たち自身に行うように命じることを愛すること」(「散文の中の韻」)を意味しているのです。
ゲーテ的な倫理の意味では、行為とは「自由な」活動です。私たちは私たち自身のアイデアにのみ依存しており、私たち自身以外の誰からもひどい目に合うことはありません。私は「精神的な道としての先験的な思考」(=「自由の哲学」)の中で、私たちがそれぞれ私たち自身に従うような道徳的な世界秩序は人間の行為を混乱と無秩序へと導くだけだ、という浅薄な主張に反論しました。この主張をする人たちは、人間は本質的に似た者同士であり、本質的に異なり、不調和へと導くような道徳的な考えを持つことは決してない、という事実を見落としています。
(R.シュタイナーによる注:ひとつの物語が示すのは、今日の職業的な哲学者たちの間では、倫理的な観点や内的な自由についての倫理、あるいは個人主義一般に対する理解がいかに少ないかということです。1892年に、私は雑誌「未来」(第5号)の中で倫理の厳密に個人主義的な観点を支持する意見を述べました。キールのフェルディナンド・テニースは、冊子「『倫理的な文化』とその随行者、『未来』そして『現在』のニーチェ馬鹿」(ベルリン、1893年)の中で応じました。彼が提示したのは哲学的な形式を取った俗物的な道徳の主要な原則以外のものではありませんでしたが、私について、「私はハデスへの途上でフリードリッヒ・ニーチェよりもましなヘルメスを見つけていたはずだ」と述べています。本当に滑稽だと思ったのは、テニースが私を非難するためにゲーテの「散文の中の韻」をいくつか提示していることです。彼は、もし、私にヘルメスがいたとすれば、それはニーチェではなくゲーテだったはずだ、ということについて何の考えも持っていないのです。私は既に本書の第10章5節で、内的な自由についての倫理とゲーテの倫理の間には結びつきがある、ということを示しています。この取るに足らない冊子が職業的な哲学者の間で蔓延るゲーテの世界観への誤解という兆候を示していなかったとすれば、私がこれについて触れることはなかったでしょう。)


 ゲーテの観点から見て、もし、人間が自然の働きと完全に調和した仕方で創造する能力を持っていなかったとすれば、芸術―それは自然そのものよりももっと完全に自然の意味を表現する創造行為です―というものは存在し得なかったでしょう。芸術作品とは、より高次の完成度にある自然の対象物であり、芸術とは自然の継続です。「人間が自然の頂点にあるからこそ、私たちは私たち自身を完成された自然として見ますが、同様に、それはそれ自身で別の頂点を形成しなければなりません。私たちは私自身を完璧さと美徳で完全に満たすことによってその目標に向けて上昇していくのです。つまり、私たちは、節度、秩序、調和、そして、意図を召喚し、最終的には、『私たち自身を芸術作品の制作へと上昇させ』ます。」(ゲーテ、「ヴィンケルマン」)ゲーテは、イタリアでギリシャの作品群を見た後、「これらの高貴な芸術作品は、同時に最も崇高な自然の作品であり、真の自然法則に従って、人間により生み出されたものである。」と書いています。(ゲーテ、「イタリア紀行」)単に経験的で感覚的な現実としては、これらの芸術作品は美しい肖像なのですが、より深く見ることができる人たちは、「そうでなければ決して自らを現さなかったはずの隠れた自然法則の顕現として」(「散文の中の韻」)それらを見るのです。
 芸術作品が作られるのは、芸術家が自然から取り出す材料によってではなく、芸術家の内面からそれに持ち込まれるものによってです。最高の芸術作品は、それは自然から取った内容に基づいている、ということを忘れさせます。そして、それに対する私たちの興味が目覚めさせられるのは、芸術家がそれから作ったものによってのみです。芸術家は自然のままに形成しますが、自然そのものがそうするように形成するのではありません。
 これらの文章はゲーテの「散文の中の韻」の中で明らかにされているような芸術についての彼の主要な考えを表現しているように私には見えます。