ルドルフ・シュタイナー

ゲーテの自然科学論序説〜並びに、精神科学(人智学)の基礎〜

(GA1)

第2章

ゲーテの変容についての概念の起源

佐々木義之訳



 有機的形態論に関するゲーテの考察について、その発達の歴史を辿るとき、確かに、詩人の若き日に―つまり、彼がワイマールに来る前の時代に―何を帰せばよいのか、と不思議に思うかも知れません。「外的な自然とは一体何なのかについて、いかなる概念も私にはなく、まして、そのいわゆる三つの世界についての知識などほとんどなかった」というように、ゲーテ自身が、その時代における彼の科学についての知識を高く評価してはいませんでした。この陳述からすると、ゲーテの科学的な考察が始まったのはワイマールに着いた後[1775年、彼が26歳のとき]からと一般には考えられます。とはいえ、彼の観点の全体的な精神を説明しないままにしておきたくないのであれば、もっと過去にまで遡る必要があるように思われます。彼の探求を以下に述べるような方向で導いた強力な衝動は既にその最初期の時代にその姿を現していました。
 ゲーテがライプツィヒ大学に入学したとき、そこでのすべての科学的な試みは、18世紀を通して特徴的であった精神、そして、その精神は科学全体を二つの極に分離し、誰もそれを統合する必要を感じていなかったのですが、そのような精神にまだ支配されていました。一方には、完全に抽象の領域に浸されたクリスチャン・ヴォルフの哲学があり、他方には、際限なく続く詳細事項の外的な記述の中に自らを失い、探求すべき世界の中で、より高次の原則を見出す努力をしないままでいた科学の様々な分野があったのです。ヴォルフの哲学は、抽象的な概念の領域から直接的な現実の世界、個別存在の世界へと続く道を見出せないままでいました。もっとも明白なことがらが徹底した完璧さをもって処理されました。人が学んだのは、「もの」とは矛盾を含んでいないような何かである、実質には限定されたものと限定されないものがある、等々というようなことがらです。けれども、それらの生命や働きを理解しようと試みる探求者がこれらの一般的なことがらをそれらのもの自体に適用しようとするとき、直ちに全く立ち往生することになりました。つまり、彼らは、その中に住み、理解しようとしている世界にそれらの概念を適用することができなかったのです。その代わりに、私たちの周囲にある実際的なものは、ほとんど何の原則も含んでいないような仕方で、つまり、純粋に、外見と外的な特徴にしたがって記述されていました。すべての生きた内容に欠け、直近の現実の中にきわめて忠実に没頭することのない原則の科学と、原則や理想的な意味に欠ける科学とが並び立っていたのです。これらは仲介されることなく対峙しており、それらのどちらも他方に実りをもたらすことがありませんでした。ゲーテの健全な特質にとって、そのどちらもその一面性において受け入れ難いものだったのですが、彼はそれらに立ち向かうことによって、後に彼を自然の生産的な理解、すなわち、そこではアイデアと経験とが完全な相互作用の中で、互いに互いを賦活させつつひとつの全体となるような理解なのですが、そのような理解へと導くことになる観点を発達させました。
 ですから、ゲーテはまず、それらの両極端には全く理解できないような概念、つまり「生命の概念」を発達させたのです。生きた存在は、その外観において観察されるとき、そのメンバーや器官として私たちの前に現れる個的なものの総体として自らを現します。これらのメンバーを―それらの形、相対的な位置、大きさ、等々において―記述することは、上に述べた科学の第二の学派によって精力的に実行されるような種類の探求の目的です。とはいえ、無機的な物体が機械的に組み立てられているようなものであれば、このような仕方で記述することもできます。有機体を考察するとき、主として心に留めておくべきなのは、その外観は内的な原則によって支配されている、あらゆる器官の中には全体が働いているということである、ということは全く忘れ去られていました。その外観、その構成要素の空間的な配置は、その生命が破壊された後でも検証することができます。何故なら、それはしばらく存在し続けるからです。けれども、私たちの前にある死んだ有機体は、本当はもう有機体ではありません。すべての個的なものの中に浸透していた原則は失われてしまったのです。以前には、ゲーテは、より高次の観点を得るという可能性と必要性のために、生命を破壊することによってそれを探求する、というアプローチに直面していました。それは既に、1770年7月14日の日付がある手紙の中に見られます。当時、彼はストラスブールにいて、蝶について次のように書いています。

哀れな生き物は網の中でバタバタしながら、そのもっとも美しい色を撒き散らしている。そして、無傷で捕らえられれば、硬直し、生命なく、ピン留めされる。死体は生き物全体ではない、何か別のものがそれに属している―ひとつの重要なもの、そして、この場合、実際、その他あらゆるものの場合にも、それが主たるものなのだ、つまり、その生命が・・・

次のファウストからの言葉も同様の観点から生じてきます。

生きることの始まりを探求し、記述するために
その各部分から精神を追い出そうというのか
彼の手のひらの上にはすべての断片
ないものなど何もない、精神とのつながりを除いては
         (ファウスト、1936−1939行)

 ものごとに対するひとつの見方を否定したままで満足するようなゲーテではなかったので、彼はますます自分自身の観点を発達させようとしました。そして、私たちが手に入れることができる1769年から1775年までの間の彼の考えを示唆するものの中に、彼の後の作品の種子となるものを見て取ることができます。その存在の各部分は他の部分を賦活し、その存在の中ではひとつの原則があらゆる個的なものの中に浸透している、そのような存在についての考えを彼は発達させていたのだ、ということが次の文章から分かります。彼はファウストの中で次のように語ります。

全体の中ですべてが織りなしている、
ひとつひとつが他のものの中に働き、生きて・・・
                 (447−448行)

そしてまた、ザティロス(第4幕)の中で語ります。

無から原初が生じ、
光の力が闇を貫いて鳴り響く、
存在の深みで炎が点火したのだ。
願望に担われた創造の喜び、
それらの要素は世界の中へと注がれる、
渦巻く相手を互いに貪るように、
すべてに浸透し、すべてが浸透される。

 ゲーテはこの存在を、時間の中で絶えざる変化を免れないけれども、これらの変化のすべてを通して、いつでもただひとつの存在として自らを現し、変化のただ中にあって永続し、安定したものとして自らを主張する何かである、と考えていました。ザティロスには、この根源のものについて、さらに次のような記述があります。

そして、上下左右に揺れながらやって来たのは
すべてでありひとつである永遠なるもの、
いつまでも変化し、どこまでも続くもの。

 この文章と、変容についての研究の導入部分として1807年にゲーテが書いた次の文章とを比較してみてください。

けれども、もし、私たちがすべての形態を、とりわけ有機的な形態を観察するならば、永続的なるもの、完成され、静止しているものなど何もない、すべては絶え間なく揺れ動いているのだ、ということが分かります。

 この流れと対照的なものとして、今やゲーテはアイデア、あるいは「何か単にしばらくの間、経験の中にしっかりと保持されているようなもの」を「一定のもの」として仮定します。ザティロスの一節から、ゲーテの認識論的なアイデアの基礎は既に彼がワイマールに来る前に敷かれていた、ということに全く明確に気づくことができます。
 けれども、気をつけなければならないのは、この生きた存在についてのアイデアは個別の有機体―宇宙全体はそのような生きた存在であると考えられます―には適用されていなかった、ということです。もちろん、この概念は、ゲーテがライプツィヒから帰還した後[1768-1769年]、フォン・クレッテンベルグ嬢とともに行った錬金術的な研究、そして、テオフラストゥス・パラケルススを読んだことにその起源を有しています。当時、何らかの種類の実験によって、宇宙全体に浸透する原則を明らかにする、つまり、何らかの実質を通してそれが現れるようにする、という試みがなされました。けれども、この種の「神秘的なるもの」と境を接するような世界の見方は、ゲーテの発達過程における一時的なエピソードを構成しているに過ぎず、すぐに、より健全で客観的な考え方へと道を譲っています。とはいえ、宇宙全体をひとつの大いなる有機体として見る観点は、ファウストやザティロスの一説の中に示されているように、1780年頃までゲーテの考えの中で不可欠なものとして残りました。そのことは後で彼の随筆「自然」との関連で見ていきたいと思います。普遍的な有機体に浸透する生命原則としての地球の精神については、ファウストの次の箇所でも記述されているのが分かります。

生命の潮の中で、行動の嵐の中で、
あちらこちらと私は波打つ、
永遠に織りなせ!
誕生と墓場、
永遠の海、
変化に満ちた闘い、
輝く生命。
            (501−507行)

 ゲーテはこうしてある観点を発達させる一方で、ストラスブールにおいて、彼自身の世界観に真っ向から反対する世界観を確立しようとしていた本―ホルバックの「自然の体系」―に出合います。それまでのゲーテは、生きているものを個的なものの機械的な寄せ集め「であるかのように」記述しようとする傾向を、単に批判していればよかったのですが、彼は今や、ホルバックにおいて、生きた有機体を実際に機械的なものであると「見なす」哲学者に出会ったのです。以前には、単に生命の根幹を認識できないことから生じていたものが、ホルバックにおいて、生命を否定するドグマへと導かれていました。彼は彼の自叙伝「詩と真実」の中で次のように書いています。

物質は、永遠の昔から存在し、運動の中にあったかのように考えられていた。そして、今や、何のさらなる骨折りもなく、その運動によって、右や左に、そして、あらゆる方向に、際限のない存在という現象を生じさせることになっていた。もし、その著者が、私たちの目の前で、彼の活動する物質から本当に世界を作り出していたのであれば、私たちはそれで満足していたことだろう。しかし、彼は私たち以上に自然について知っていたとは言えないのかも知れない。何故なら、彼は、2、3の一般的な概念へと突き進むやいなや、自然よりもより高次のもの、あるいは、自然の中のより高次の自然のように見えるものを、物質、つまり、より重い要素―確かに、活動してはいるけれども、方向性も形もないもの―へと変換するために、すぐにそれらの概念から離れ、それでかなりのことを達成したと考えているからである。

 ゲーテはこれらすべての中に何も見出せなかったのですが、「動きの中にある物質」に関しては、それに反対したことで、彼自身の自然についての概念がますます明確な形を取ることになりました。これらのことは、1780年頃に書かれた彼の随筆「自然」の中で、首尾一貫した全体として提示されているのが分かります。それまでただ散見されるだけだった自然についてのゲーテの思考のすべてがそこにまとめられていることから、この随筆は特別な重要性を帯びることになります。私たちはそこで、絶えざる変化を蒙りながら、それでも同じものとして留まる存在についてのアイデアに出会います。

すべては新しく、それにもかかわらず、いつでも古い・・・彼女[自然]は永遠に自らを変容させ、彼女の内には一瞬たりとも立ち止まるものはない、[けれども]彼女の法則は不変である。

 後で見ていくように、ゲーテはここで既に示唆されているような考え、つまり、植物形態の際限のない多様性の中のひとつの原型的な植物というものを追求していました。

彼女[自然]の働きのひとつひとつがそれ自身の存在を有しており、そのそれぞれの表現は最も孤立した概念を有しているが、それでも、すべてが「ひとつ」を構成している。

 実際、例外に関する彼の後の立場―つまり、例外を単に不完全な形成と見なすのではなく、自然法則の現われであるとして説明する立場―でさえ、既に、「最も不自然なものでさえ自然であり、例外はまれである」というようにきわめて明確に表現されているのです。
 私たちはゲーテが既にワイマール以前にも、有機体についての明確な概念を発達させていた、ということを見てきました。と申しますのも、「自然」は彼のワイマール到着のずっと後に書かれたとはいえ、そこに含まれているのは概して彼の初期の観点だからです。とはいえ、彼はその概念を自然現象の個別の秩序、すなわち個々の生物にはまだ適用していませんでした。それを行うためには、生きた自然という現実の世界に直接接近する必要があったのです。ゲーテは人間の心をよぎる反映されたものとしての自然による刺激を受けていませんでした。ライプツィヒで行われた枢密顧問官ルードヴィッヒとの植物学についての会話やストラスブールで行われた医者仲間との夕食会での会話もより深い影響を与えることはありませんでした。若きゲーテはその科学的な探求の中で正にファウストのようにして現れます。直接的で新たな自然の眺めを奪われたファウストはそれへのあこがれを次のように表現しています。

ああ、高い山の上で
あなたの月のやさしい光の中で
洞窟や木々の間をさまようことができさえしたら
夕暮れ時に曲がりくねった・・・
            (392−395行)

 この思いは、ゲーテがワイマールに到着して、「部屋と都会の空気が、田舎と森と庭にとって代わられたとき」に満たされたように見えます。
 詩人が植物の研究に乗り出すことになった直接の動機は、彼がカール・アウグスト公から賜った庭の植栽に関わったことであった、ということが分かります。彼がその庭を受け取ったのは1776年4月21日だったのですが、彼の日記(カイルにより編纂されたもの)には、それ以降、しばしば彼がこの庭で仕事をしたことが記されており、それは彼のお気に入りの時間のひとつになっていました。チューリンゲンの森によってこの種の活動の場はさらに追加されたのですが、より下等な有機体に関する現象を知る機会をそこで持つことになりました。彼が特に興味を持ったのはコケや地衣類でした。1777年10月31日、彼はフォン・シュタイン夫人に、繁殖させることができるよう、できるだけ根と湿り気がついたままのあらゆる種類のコケを依頼しました。ゲーテが当時、既にこれらの下等な生物の世界に関わっていたこと、それにもかかわらず、後に高等植物の組織に関する法則を導き出した、という事実はきわめて意義深いことであると考えなければなりません。以上の状況から、その事実は、多くの評論家がそうしてきたように、彼がより未発達な有機体の重要性を過小評価していたことにではなく、十分に意識的な意図をもっていた、ということに帰せられると考えられます。
 それ以後、詩人が植物の世界を離れることは決してありませんでした。彼が当初からリンネの著作を取り上げていたことはほぼ間違いありません。彼がそれらに通じていたことが分かるのは、フォン・シュタイン夫人に宛てた1782年の手紙からです。
 植物についての知識に体系的な概観をもたらそうとしたのはリンネです。彼が目指したのは、あらゆる有機体がその内部で特定の場所を占めるような明確な系統的法則、それらをいつでも容易に特定できるような、実際、その無限の多様性の中で方向づけを行うための方法となるような系統的法則を見つける、ということでした。そのためには、植物が相互に関連する度合いを検証し、それに応じてグループ分けする必要がありました。主要な点は、いかなる植物であってもその体系の中で同定し、容易に分類するということでしたから、特にある植物を別の植物から区別するための特徴に注意が払われなければなりませんでした。混乱が生じないように、主としてこれらの区別を行うための特徴が追及されたのです。こうして、リンネと彼の門下生たちは、外的な特徴―大きさ、数、個々の器官の位置―を特徴的なものと見なしました。
 植物は確かに系統的に秩序づけられましたが、一連の無機物もまた同様の方法で整理することができるような仕方、つまり、植物の内的な本性から捉えられるのではなく、それらの外観から捉えられるような特徴によって秩序づけられたのです。それらが秩序づけられたその仕方は、必然的な内的結びつきに欠けた表面的なもののように見えます。ゲーテは生きた有機体についての特別な概念を有していたので、このような仕方で植物を見ることで満足することはありませんでした。何故なら、それは植物の根本的な特質へのいかなる探求も含んでいなかったからです。ゲーテは「ある自然存在を植物にしているものとは何か?」と自問せざるを得なかったのです。さらに言えば、彼は、それが何であれ、すべての植物において同様に生じなければならない、ということを認めざるを得ませんでした。そして、それでも個々の実体は無限に多様化しており、それは説明を要するものとしてそこにあったのです。この一体性はいかにしてそのように多様な形態の中で自らを現すのか?ゲーテがリンネの著作を読んだときに生じた疑問とはそのようなものであったに違いありません。と申しますのも、彼自身が「彼、リンネが無理に引き離そうとしたものは、私自身の最奥の衝動にしたがえば、ただ一体性に向けて苦闘しているだけのように見える」(「わが植物研究の歴史」)と述べているからです。
 ゲーテがルソーの植物学上の研究に出会ったのは、彼が最初にリンネを知ったのとほぼ同時期でした。1782年6月16日に彼はカール・アウグストに次のように書き送っています。

ルソーの仕事の中には、植物学についてのすばらしい手紙類がありますが、その中で彼はこの科学をひとりの夫人に最高に明瞭かつ魅力的な仕方で説明しています。それは本当に教え方の模範となっており、「エミール」の補足にもなっています。ですから、私は今、この機会を利用して、私の友人である美しいご夫人たちに美しい花の世界をお勧めしたいと思います。

 ルソーの植物学上の研究はゲーテに深い印象を与えずにはおきませんでした。植物の本性に対応して生じてくる命名法の強調、観察の独創性、いかなる実利的な考察からも距離を置く植物そのものへの熟考−ルソーの仕事が有するこれらすべての側面はゲーテに強く訴えかけたのです。二人に共通していたのは、彼らが植物研究に取りかかったのは、何か特別な科学的目的があったからではなく、むしろ純粋に人間的な動機からであった、ということでもあります。同じ興味が同じ課題へと彼らを引きつけたのです。
 次にゲーテが植物界について徹底的な観察を行ったのは1784年のことでした。ルースヴュルムと呼ばれるウィルヘルム・フライヘール・フォン・グライヒェンは、「植物界からの最近の便り」、「植物、花、昆虫、及びその他の注目すべき事物との関連で、顕微鏡を用いてなされた代表的な発見」という探求を取り扱う二つの仕事をちょうど出版していたところでしたが、それらはゲーテの興味を強く引くところとなりました。それらの著作はいずれも植物の受精過程を取り扱っていました。花粉、雄しべ、雌しべが注意深く調べられ、それらの内部で生じるプロセスが美しく設えられたプレートに描写されました。今度はゲーテがそれらの調査を追試します。1785年4月2日、彼はF.H.ジャコビに「私は種の問題について、私の経験が許す限りにおいて、よく考えてみました」と書き送っています。これらの探求すべてにおいて、彼は細かなことがらには興味がありませんでした。つまり、彼の努力が目指していたのは、植物の本質的な特質を探究する、ということでした。1785年4月8日、彼はメルクに「植物学における満足のいく発見と組み合わせを見つけた」と報告しています。「組み合わせ」という表現は、彼の意図が植物界におけるプロセスの思考像を構築することにあった、ということをも示しています。彼の植物学の研究は明確な目標に向かって急速に接近していました。
 当然のことながら、この関連で私たちが心に留めておかなければならないのは、ゲーテは既に1784年に顎間骨を発見しており、それによって彼は自然が有機体を形成する仕方についての秘密に近づくための重要な一歩を踏み出していた、ということですが、そのことについては後で詳細に議論する予定です。私たちはまた、ハーダーの「人間性の歴史に関する哲学の考察」は1784年に完成し、当時ゲーテとハーダーとは自然に関することがらに関してしばしば会話していた、ということを心に留めておかなければなりません。そこで、フォン・シュタイン夫人は1784年5月1日に、クネーベルに次のように報告しています。

ハーダーの新しい作品は、私たちが最初は植物や動物だった可能性を示唆しています・・・今、ゲーテはこれらについて非常に深く思索しているのですが、彼の心に浮かんだあらゆることがらはとても興味深いものとなっています。

 これは、当時、最大の科学的な問題であったところのものに対するゲーテの関心の特質を示しています。したがって、彼の植物の特質に関する思索と1785年春における彼の「組み合わせ」は全く包括的なもののように見えます。その年の春、彼はその疑問や問題を急いで解くためにベルヴェデールに赴きました。そして、5月15日にはフォン・シュタイン夫人にそれを伝えています。

自然という本が私にとっていかに読みごたえのあるものになっているか、とてもお伝えすることができそうもないほどです。お手紙をお書きするたびにずっと解明しようとしてきた私の努力が役に立ちました。今や全く突然、それが効果をあげ始めており、私の静かな喜びは表現しようもないほどです。

 この少し前には、彼は簡単な植物学の論文を書いてクネーベルをこの科学に引き込もうとさえしていたのです。(R.シュタイナーによる注:1785年4月2日付けのクネーベル宛の手紙には「もし、既に植物学についての課題が書けてさえいたら、喜んで貴方にお送りしたところなのですが」とあります。)彼は植物学に強く惹かれていたので、1785年6月20日に始まり、その年の夏をそこで過ごすことになるカールスバッドへの旅は植物探査旅行となりました。彼に随行したのはクネーベルです。イエナの近くで彼らは17歳のディートリッヒに出会ったのですが、その標本箱は彼がちょうど植物採集の帰りであることを示していました。この興味深い旅行については、ゲーテの「わが植物研究の歴史」と、ディートリッヒの原稿にもとづいてブレスラウのコーンが書いた報告書からもっと詳しく知ることができます。カールスバッドでは植物学についての会話がしばしば楽しいひとときを提供することになったのです。旅から帰ったゲーテは植物学の研究に大いに力を注ぎました。リンネの「植物学」の助けを借りて、彼がきのこ類、コケ類、地衣類、藻類の観察を行ったことは、フォン・シュタイン夫人への手紙から分かります。彼にとってリンネがより役に立つようになったのは、彼が多くのことを考え、観察した後でのことに過ぎません。つまり、彼はリンネを通して多くの詳細なことがらについての情報を見出したのですが、そのことが彼の「組み合わせ」を前進させるために役立ったのです。彼は1785年9月9日付の手紙でフォン・シュタイン夫人に次のように報告しています。

私はリンネを読み続けていますが、他の本が手元にないので仕方がありません。私にとって本を最後まで読むというのは簡単なことではなく、一冊の本を意識的に読むというのは最もよい方法ですから、もっとしばしばやるべきことでしょう。この本は読むというより要約するようにできていますから、私にはとても役立ってくれています。と申しますのも、私はその重要な点のほとんどを自分で考えてみたからです。

 この研究の過程を通して、「個々の植物の無限の多様性として現れるものは、結局のところ、たったひとつの基本的な形態である」ということがますます明確になってきました。すなわち、この基本的な形態そのものがますます知覚可能なものになってきたのです。さらに彼は「この基本的な形態の内部に横たわっているのは、それによって統一性から多様性が生み出されるところの無限に変化する能力である」ということに気づきました。1786年7月9日、彼はフォン・シュタイン夫人に「それはいわば、自然がいつもそれとともに単に戯れながら、そして、その遊びの中でその多様な生命を生み出しているところの形態に気づくようになる、ということです。」と書き送っています。
 今や彼が必要としていたのは、この持続する一定の要素、いわば自然がそれとともに戯れるところのこの元型的な形態を取り上げ、それを詳細に把握することができるような像へと発展させる、ということでした。これを行うために、彼は植物形態における真に一定で持続する要素から変化するもの、移ろい易いものを分離する機会を必要としていました。ゲーテの探求は、この種の観察を行うにはまだあまりにも視界が狭かったのです。彼は同一種の植物を異なる状況や影響の下で観察しなければならなかったでしょう。何故なら、そのときだけ移ろい易い要素が本当に可視化されるようになるからです。それは異なる種の植物においてはそれほど顕著ではありません。このすべては、9月3日にカールスバッドから旅立ったイタリア旅行によって叶えられました。
アルプスの植物相によって、彼は多くの観察の機会を与えられました。ここで彼が見つけたのは、彼が初めて見る植物ばかりではなく、既に知っていたものもあったのですが、それらは「変化していた」のです。

低地では、葉柄や茎はより強く、より厚みがあります。芽はより密集しており、葉はより広くなっています。山の高いところでは、葉柄や茎はより繊細なものとなり、芽は互いにより離れるようになり、そのため、節と節の間にはより広い空間ができています。そして、葉は槍の先のような形態を取るようになります。これは柳やリンドウにおいて見られますが、それらは別の種ではないと私は確信しています。バルヒェンゼー(バイエルン)でも、イグサは低地のものより長く、細くなっているのが見られます。(「イタリア紀行」、1786年9月8日)

 同様の観察が繰り返し行われました。海の側のベニスでは、砂交じりの土の古い塩だけが、さらに言えば、塩気のある空気だけが与えられるような特徴を示す様々な植物に出会いました。彼がそこで見つけたのは「私たちが知っている無垢のフキタンポポではあるが、鋭い武器で武装し、皮のような葉と、同じく鞘や茎も皮のようになった、つまり、すべてが厚く、太くなった」(同、1786年10月8日)植物でした。
 ゲーテは植物の外的な特徴、すなわちその外観に属するあらゆるものの不定性、絶えず変化する特質に出会っていました。このことから、彼は、植物の本質はこれらの特徴に「ではなく」、より深いレベルで探さなければならない、と結論づけたのです。
 ダーウィンが類や種の外的な形態の一定性についての疑問を提示したときも同様の観察に基づいていました。しかし、二人の思索家が到達した結論は全く異なるものでした。ダーウィンは、実際、有機体の本質はそのような外的な特徴に限定されると信じており、その可変性から見て、植物の生命には何ら一定のものはないと結論づけたのに対して、ゲーテはさらに深く追求し、もし、外的な特徴が一定でないのであれば、一定であるところのものは、そのような変化する外面性の下に横たわる何か別のものの中に探さなければならない、と結論づけたのです。この「何か別のもの」の概念を発展させることがゲーテの目的になったのに対して、ダーウィンの努力は有機体の多様性の原因を詳細に探求し、説明することに向けられました。両方のアプローチが必要であり、互いに補い合うものとなります。有機的な科学におけるゲーテの偉大さは彼がダーウィンの先駆者であったことによる、と単純に信じるのは全くの間違いです。ゲーテのアプローチはもっとはるかに広範なものだったのです。それは二つの側面を含んでいます。ひとつは元型―すなわち、有機体の中に現われる法則性、及び動物の中に現れる動物存在、すなわち、それ自身から展開する生命、様々な外的形態(種、類)において、その内部に横たわる可能性を通して、自ら発展する力と能力を有する生命であり、もうひとつは有機体と無機的な自然との相互作用、並びに、有機体同士の相互作用(適合と存在に向けた苦闘)です。ダーウィンは有機的な科学における後者の側面だけを発展させました。ですから、ダーウィンの理論はゲーテの基本的なアイデアを進化させたものである―それは実際には、それらのアイデアのひとつの側面を発達させたものに過ぎません−と言うことはできません。それは、生きた有機体の世界が一定の仕方で展開する原因となる諸事実のみを見るのであって、それらの事実に決定的な影響を及ぼすものとされる「何か」を見ることはありません。このひとつの側面だけを追求しても有機体に関する完全な理論へと導かれることは決してありません。そのような理論は、本質的に、ゲーテの精神において追求されなければなりません。このひとつの側面は、彼の理論の別の側面を通して補足され、深化させられなければならないのです。
 ものごとをより明確にするために単純な比較をしてみましょう。鉛を取り上げ、それを液体になるまで加熱した後、水に注ぐとしましょう。鉛は連続する二つの段階を通過することになります。つまり、それは二つの状態、最初は高温によって生じる状態、二番目に低温によって生じる状態を通過します。二つの段階がどのような形態を取るかは、単に熱と冷たさの性質だけによるのではなく、全く本質的に、鉛の性質自体にも依存します。異なる実質は、同じ影響に曝されても、非常に異なる変化を示すでしょう。同様に、有機体もその環境からの影響を受けますが、それらの影響を受けるときに彼らが取る状態は異なります。そして、彼らは、正に彼らの性質にしたがって、つまり、彼らを有機体として成り立たせている本質的な存在にしたがってそうするのです。そして、私たちがゲーテのアイデアの中に見出すのはこの本質的な存在なのです。それについて、つまり、彼らの本質的な性質であるところのものについて理解するときにのみ、私たちは、何故、有機体がある特定の影響に対して一定の仕方で反応するのか、何故、別の仕方では反応しないのか、ということを理解することができます。そのとき初めて、有機体が表現する形態の多様性、そして、それに関連するそれらの適合と生存競争を支配する法則についての正しい観点を形成することができるのです。(R.シュタイナーによる注:この観点は現代の進化論に疑問を投げかけるものではなく、その主張を制限しようとするものでもない、ということを明確にしておかなければなりません。逆に、それはそのような主張にとってしっかりとした根拠を打ち立てるものです。)
 元型的な植物についてのアイデアはゲーテの心の中でますます明確ではっきりとした形を取っていました。見知らぬ植物相のただ中で移動したパドヴァの植物園では、「多分、ひとつのものからすべての植物形態を発展させられるだろう、という考えがますます生き生きとしたものになって」きました(イタリア紀行、1786年9月27日)。11月17日に、クネーベルに次のように書き送っています。

結局、こうして私の若干の植物学は私に大いなる喜びを与えてくれます。より幸福で、より妨害を受けることの少ない植物相がくつろいでいるこのような土地では特にそうなのです。私は既に一般的なものへと向かう傾向を持つかなり喜ばしい観察、貴方もまたそれを心地よいと思われるような観察を行いました。

1787年2月19日に、彼はローマで、「新しく美しい関係性―自然、その膨大さ、筆舌に尽くしがたい豊かさが、いかに単純なものから多様性を発達させるかということ―を見出す」途上にある、と書いています。5月25日に、彼は、彼が間もなく元型的な植物についての準備を整えるはずだ、ということについて知っておいてほしいとハーダーに頼みます。4月17日には、彼はパレルモで元型的な植物について次のように書いています。

確かに、そのようなものがあるはずだ!もし、そうでなければ、もし、それらすべてが同じ型にしたがって形成されないとすれば、私はどうしてあれこれの形態が植物であると認識することができるだろうか?(イタリア紀行)

彼が心に抱いていたのは、植物を組織し、植物を植物にしている形成的な原則−それを通して自然の中の特定の対象が私たちの中に「これは植物である」という思考を引き起こすところの形成的な原則の複合体、つまり、元型的な植物でした。したがって、それは何か理想的なもの、つまり、思考においてのみ把握できるとはいえ、形態を取ることができるもの、特定の形態、大きさ、色、器官の数、等々を取るようなものです。この外的な現象は何ら固定されたものではなく、無限の多様性を経験することができ、そのすべてがあの形成的な原則の複合体と調和しながら、必然的にそれから生じるものです。私たちがこれらの形成的な原則―植物のこの元型的な像―を把握するということは、自然がそれに基づいてあらゆる個々の植物を基礎づけるところの正に根幹、彼女がそこから植物を導き出し、それを通してそれが存在するようになるのを許すところの根幹をアイデアとして把握するということです。実際、人は、この法則性にしたがえば、植物の本質的な性質から必然的に生じるような植物形態を作り出すことさえできるでしょう。そして、もし、必要な条件が生じれば、それは存在することができるでしょう。
 こうして、ゲーテは自然がその形成する働きの中で達成するものを思考において再現しようとします。1787年5月17日に、彼はハーダーに次のように書き送っています。

もっと言えば、私が植物の発生と組織化の秘密にきわめて近づいているということを貴方に打ち明けなければなりません。そして、それは考え得る最も単純なことです。元型的な植物は世の中で最も途方もない生き物であり、そのために自然そのものが私をうらやむことでしょう。この型とそれへの鍵をもってすれば、人は首尾一貫した植物を際限なく作り出すことができるでしょう。言い換えれば、たとえそれらが存在していないとしても、存在する可能性があり、画家や詩人の単なる思いつきではなく、内的な真実と必然性を有しているのです。同様の法則を生きとし生けるものすべてに適用することができるでしょう。(同)

 この時点で、ゲーテの観点とダーウィンのそれとのさらなる違いが明白になりますが、後者が通常どのように表現されているかを考えるとき、それは特に明白になります。(R.シュタイナーによる注:私たちはここで、経験的な事実に基づいて結論づける科学者たちが持ち出す進化論についてそれほど言及しているわけではなく、むしろ、ダーウィン主義の下に横たわる理論的な基礎あるいは原則−特に、ヘッケルに率いられたイエナ学派によって提示されるようなものですが−に言及しているのです。ダーウィン主義的な理論は、この第一級の知性において、その一面性にもかかわらず、その最も首尾一貫した表現へと至りました。)この観点が想定しているのは、外的な影響は有機体の性質に対して機械的な原因として働き、そのようにしてそれを変化させる、ということです。ゲーテにとって、個別の変化は元型的な有機体の様々な表現です。そして、その元型的な有機体はその内部に多様な形態を取る可能性を有しており、いつの場合にも、その周囲の状況に最も適した形態を取ることになります。これらの外的な状況は内的な形成力が特定の仕方で現れるための外的な誘引に過ぎません。植物の中で、これらの力だけが本質的な原則、創造的な要素なのです。したがって、ゲーテは1787年9月6日に、それらを植物世界における「ひとつであり、すべてであるもの」と呼んだのです。
 さて、私たちがこの元型的な植物そのものを考察するとき、次のように言うことができます。生きているものとは、いずれにしてもそれ自体から様々な状態を生じさせるところの自立した総体である、と。すべての生きた実体は、その構成部分の感覚的に知覚可能な特徴、あるいは、それによって以前の段階が後の段階を決定づけるような何らかの種類の機械的な因果関係によっては決定づけられない、と思われるような相互作用を、その構成要素の空間的な配置においても、その時間的に遷移する段階においても現します。それらの相互作用は、むしろ、その構成要素やその段階よりも上位に立つところのより高次の原則によって支配されているのです。ある一定の段階が最初に生じ、別の段階が最後に生じるというのは総体的であるものの本質的な特徴であり、継続する中間段階もまた総体という考え方の中で決定されます。つまり、初めに来るものは最後に来るものに依存し、逆もまた真なのです。要するに、生きた有機体においては、あるものからあるものへの「展開」、ある段階から別の段階への遷移があるのであって、何か特別なものが完成し、完了した状態で存在するのではありません−そうではなく、絶えざる生成があるのです。
 植物の中で、このように各々の構成体が総体によって個別に決定されるのは、その器官のすべてが同一の基本的な形態にしたがって構築されているからです。1787年5月17日に、彼はこの考えをハーダーに次のように伝えています。

私は、私たちが通常葉と呼ぶところの植物の器官は真のプロテウス(著者注:いかなる形態を取ることもできるギリシャの神)を有しており、それはすべての形態の中に自らを隠すこともでき、現すこともできます。後にも先にも、植物は葉に過ぎず、それは未来の種子と不可分に結びついていて、その結びつきは、片方を他方なしには考えられないほどです。

 動物においては、すべての個体を支配する、より高次の原則は、その器官を動かし、それらをその必要にしたがって用いるところのものとして、具体的に、私たちのところにやってくるのに対して、植物はまだそのような手に取るように分かる生命の原則を欠いています。その生命の原則はより不明確な事実、つまり、そのすべての器官が同じ形成する型にしたがって構築され―実際、植物全体が可能性としてその各々の部分の中に存在しており、適当な条件下では、それがそれらの部分から産み出される―という事実の中に現れるに過ぎません。ゲーテにとってそのことが明確になったのは、顧問官ライフェンシュタインとローマで散歩していたときに、彼があちこちで小枝を折って、もし、それらが地面に突き刺さったならば、一本の植物にまで育つだろう、と言ったときです。ですから、一本の植物とは、時間の経過とともに、同一のアイデアにしたがってすべてが構築されるような特定の器官、そして、それらの器官は互いに関連しており、各々の器官は全体と関連しているのですが、そのような器官を発達させる存在なのです。各々の植物は、植物たちから構成される調和した総体です。(R.シュタイナーによる注:正にこれらの個体がいかに全体と関係しているかについては、この序論の中の様々な箇所で議論されることになるでしょう。生きた部分的実体から構成される全体という概念を現代の動物学から借りれば、昆虫の群れの例を取り上げることができるでしょう。これは一種の生きた存在たちの共同体、独立した個体から構成される個体、より高次の種類の個体です。)ゲーテにはそのことが明らかにななりましたが、唯一残された課題は、展開する植物の様々な発達段階を詳細に記述することが可能になるような個別の観察を行う、ということでした。
 そのために必要な下地は既にできていました。私たちが見てきたように、ゲーテは既に1785年の春には、種子に関する研究を行っていました。1787年5月17日に、彼はイタリアから、胚が隠されるポイントを非常に明確に、かつ疑いもなく発見した、とハーダーに報告しています。これは植物の生における最初の段階に当たります。けれども、すべての葉の形成における統一性もまた間もなく明らかになりました。無数の例がありましたが、とりわけ新鮮なフェンネルにおいて、上方の葉と下方の葉が同じ器官であるにもかかわらず、強力に分化しているのを見出しました。3月25日(1787年)に、彼はハーダーに、子葉についての彼の研究はあまりにも昇華され過ぎており、先に進めるのは困難である、ということを知っておいてほしいと頼んでいます。花弁、雄しべ、雌しべもまた変化した葉である、ということを認めるためには、わずかな一歩しか残っていませんでした。英国人の植物学者ヒルの研究は、当時、より一般的に知られるようになっていましたが、それは花の特定の器官の別の器官への変化を取り扱うものでした。その関連で、それはゲーテのための道ならしとなりました。

図1.花びらから雄しべへの変化

 植物存在を組織する力が実際に存在するようになるとき、それらは空間的な形成過程を取ります。今や、求められているのは、これらの形態を前後に結びつける生きた概念でした。
 1790年に(「植物の変容」の中で)定式化された変容についてのゲーテの研究を検証すれば、ゲーテにとってこの概念は交代する拡張と収縮の概念であった、ということが分かります。種子においては、植物の形成は最も強く収縮あるいは濃縮されています。葉で起こっているのは形成力の最初の発現と拡張です。種子において一点に圧縮されたものは、今や葉において外に向かい、空間の中へと到達します。蕾の中では、力は再び萼の軸を中心に集まります。花冠は次の拡張の結果です。雄しべと雌しべは次の収縮によって生じ、果実は第三の、そして最後の拡張を通して生じます。そして、植物の生命力全体(その活力原則)は再び最も強力に収縮した状態である種子の中に隠されます。さて、私たちはゲーテの変容についての考えを、1790年の随筆の中で、その最終形に至るまで、ずっと追っていくことができます。しかし、拡張と収縮についての彼の概念に関しては、それはそれほど容易ではありません。とはいえ、この考え(ついでに言えば、それはゲーテの精神に深く根ざしていました)は、イタリアにおいて、既に彼の植物形成についての概念の中にも織り込まれていた、と考えても間違いはないでしょう。拡張と収縮についての概念は形成力にしたがって決定されるような多かれ少なかれ空間的な展開を含んでおり、直接目に見えるような形で提示されるので、私たちがその自然な形成にしたがって植物を描けば、その概念は非常に容易に生じてくる、ということは確かでしょう。ゲーテはローマで潅木のようなカーネーションを見つけたのですが、その中で彼は特別な明晰さをもって変容を知覚することができました。

このすばらしい形態を保存する方法を見つけられなかったので、私はその正確な描写を試みました。そして、それによって、私は変容についての基本的な概念に対する洞察を深めたのです。

 彼はそのような描写をしばしば行い、それによって、当の概念に導かれたのかも知れません。
 1787年9月、再度ローマに滞在していたゲーテは友人のモーリッツにその問題について、つまり、そのような描写を通して、それがいかに生きた活力あるものになるかが分かった、ということについて解説しています。何かが議論されると、それらは必ず書き留められました。この(「イタリア紀行」の中の)文章やその他のゲーテの言葉から、変容についての彼の研究における最初の―少なくとも金言的な―定式化もまた、既にイタリアで行われていた、と思われます。彼は続けます、「私はこうして―つまり、モーリッツに提示することによって―初めて、私の考えのいくつかを紙に書き留めることができました」と。こうして、その仕事が今の形で書かれたのは1789年末から1790年初めにかけてであった、ということに疑いはありませんが、この原稿の中で、どれほどが単なる論説であって、当時どれほど書き加えられたかを決めるのは困難なままに留まります。次の謝肉祭の書籍フェアに向けた本の告示はいくつかの同様の考えを含んでいたかも知れません。そして、それは1789年秋には、ゲーテがその考えを取り上げ、それらの出版に向けて準備をするための誘引になったかも知れません。11月20日に、ゲーテは、植物学についての彼の考えを書き留めるように駆り立てられていた、と大公宛てに書き送っています。彼は早くも12月18日には、イエナの植物学者バッチに読んでもらうために原稿を送付し、20日には、それについてバッチと自分で議論するためにそこに赴き、22日には、バッチがそれを好意的に受け取った、とクネーベルに報告しています。帰宅した彼は再度推敲し、もう一度原稿をバッチに送付したのですが、彼は1790年1月19日にそれを送り返したのです。その原稿とその印刷版がその後辿った運命については、ゲーテ自身によって長々と記述されています。彼の変容についての概念とその特徴の大いなる重要性については、この後の第4章「有機的形態論に関するゲーテの著作の本質と重要性」で取り扱われる予定です。


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