ルドルフ・シュタイナー

ゲーテの自然科学論序説〜並びに、精神科学(人智学)の基礎〜

(GA1)

第5章

ゲーテの形態論についての結語

佐々木義之訳


 ゲーテの変容理論に関する以上の考察の最後に当たり、言及する必要があると感じられた観点を振り返るとき、思想界の様々な学派を代表する著名な人物たちの多くは私の観点とは反対の観点を分かち合っていると認めざるを得ません。彼らのゲーテに対する立場は私には明白であり、私たちの偉大な思想家であり詩人を描出するという私の試みに対する彼らの評価も完全に予見可能です。ゲーテの科学的な試みに対する意見は二つの正反対の陣営に分かれています。
 ヘッケル教授に率いられた現代の一元論者たちはゲーテをダーウィン主義の予言者と見ています。つまり、有機的な世界に関しては、彼らと同様の、つまり、無機的な自然の中に働くのと同じ法則によってそれは支配されている、という考えを有しているものと見ています。ただ、ゲーテに欠けていたのは自然淘汰の理論であり、それによってダーウィンは一元論的な世界観のための「基礎」を与え、進化論を科学的な確信のレベルにまで引き上げたのだ、と彼らは言うでしょう。
 この観点に対抗する別の観点は、ゲーテの元型についてのアイデアを一般的な概念、あるいは、プラトン哲学の意味でのアイデアに過ぎない、と見ます。ですから、彼らは、ゲーテの生来の汎神論が進化論を連想させる様々な主張を彼にさせたのであって、究極の「機械論的な基礎」にまで貫き至る必要性を彼は全く感じていなかった、したがって、現代的な意味での進化論をゲーテに帰すことはできない、と主張します。
 ゲーテの観点に関して、いかなる独断的な立場も取ることなく、純粋にゲーテ自身の特質とその精神全体に基づいてそれを説明しようとする私の試みは、これら二つの立場のいずれもが―それらのゲーテに対する評価への貢献がいかに重要であったとしても―自然についての彼の観点を全体として正しく説明しているとは決して言えない、ということを明らかにしました。
 最初の観点について言えば、ゲーテは、有機的な自然を説明する試みにおいて、有機的な世界と無機的な世界の間には越え難い障壁があるとする二元論的な論法に反対した、と主張する点で確かに正しいと言えます。しかし、ゲーテが有機的な自然は理解可能であると主張するとき、それは、その形態と現象が機械論的に説明できるという理由からでは決してありません。むしろ、それらがその中に存在するところのより高次の文脈は、私たちの認識にとって、実際に近づくことができるものである、ということに気づいたからこそ、彼はそのように主張したのです。事実、彼は宇宙を一元論的な仕方で、つまり、そこから人間が排除されることは決してないようなひとつの分かち難い統一体として思い描いていましたが、彼がこの統一体の「内部に」それら自身の法則に従う段階にあるものを見分けることができると見ていたのは、正にその理由からだったのです。ゲーテは、若い頃でさえ、この統一性を「画一的なもの」として思い描くような傾向、有機的な世界が―実際、自然の中でより高次の段階で現われるものであれば何であれ―無機的な世界の中で働く法則によって支配されていると考える傾向を拒絶していました。この拒絶は後に、有機的な自然を理解する手段としての先験的な知覚による判断の正当性を仮定し、無機的な自然を理解する推論的な知性からそれを区別することへと彼を導きました。ゲーテは世界をそれ自身の説明原則を持つそれぞれの環からなる環と考えていました。現代の一元論者たちは、たったひとつの環―無機的な法則に支配される環―だけを認めます。
 第二の観点は、ゲーテにおいて私たちが扱っているものは現代の一元論とは何か異なるものである、ということを認めます。しかし、この観点を代表する人たちは、科学が無機的な自然を説明するのと同じ方法で有機的な自然を説明しなければならないと信じており、そのため、ゲーテのような観点を前に恐れをなし、彼の探求をより綿密に見ることには何の意味もないと考えているのです。
  したがって、ゲーテによる高次の原則は、どちらの陣営からも、決して「完全に」有効なものとは考えられていません。そして、これらの原則こそが彼の探求における傑出した要素となっているものなのです。ゲーテの探求におけるいくつかの「細部」を訂正する必要があることが判明したとしても、その深遠さを十分に認識している人たちにとって、それらの原則の重要性が失われることはありません。ですから、ゲーテの観点を解説しようとする人に義務としてかかってくるのは、ゲーテ的な自然の見方において「中心的な」ものに対する注意を引くということであって、何か特別な科学の領域における彼の発見の詳細に関して、批判的な評価にとらわれることではありません。
  私は、そのような使命を果たそうとしてきた中で、私にとって最も残念な誤解、すなわち純粋な経験論者たちからの誤解を受ける可能性に直面することになりました。私が言っているのは、その相互関係を事実として示し得る有機体(自らを経験的に提示する物質)のあらゆる側面を探究し、今日、有機的な世界の基本的な原則に関して公に問いかけているような人たちです。それらと私が提示するものとは関係がなく、彼らに反対することもあり得ません。逆に、私の希望の一部は経験論者たちの上に打ち立てられます。と申しますのも、正にすべての道が彼らには開かれているからです。彼らはゲーテの主張のいくつかを正すことができる人たちです。何故なら、実際的な面では、彼はときとして判断を誤っているからです。この点では、天才といえどもその時代の限界を克服することはできません。
 とはいえ、彼は原則の領域においては基本的な観点に到達しており、その観点の有機的な科学に対する重要性は、ガリレオの基本法則の機械論に対する重要性と同じです。
 私はこの事実を確かなものにするという仕事を自分に課しました。私の言葉に確信が持てない人たちにも、少なくとも、私が意図していた問題―それは、ゲーテの科学的な著作を彼の特質全体から説明し、私にとって示唆的であると思われる確信に表現を与えるということでした―の解決に向けて真摯な意図をもって努力した、ということを認めていただければと思います。
  そのような仕方でゲーテの詩を説明しようとする試みが、幸いにも成功裏に始められたという事実自体が、彼の作品のすべてを同様のアプローチにより探求し直すためのチャレンジとなります。遅かれ早かれ、そのようなことが起こることは間違いありません。そして、私の後を引き継ぐ人たちが私以上の成功を収めるならば、私にとってこの上ない喜びとなるでしょう。若くして苦闘する思想家や探究者、特に、その観点が、単に幅広いだけではなく、「中心的な」洞察へと直接貫き至るような人々が、私の考察に注意を払い、私が提示しようとしたものをより完全な仕方で提示するために、大挙して後に続いてくれますように。