ルドルフ・シュタイナー

ゲーテの自然科学論序説〜並びに、精神科学(人智学)の基礎〜

(GA1)

第9章

ゲーテの認識論

佐々木義之訳


 私たちはこれまでの章で、ゲーテの科学的世界観は決して完全に一体的なものとして定式化されたり、一つの原則から発達したりしたのではない、という事実を指摘してきました。あれこれの考えがいかにして彼の思考方法という光の中で現れるかを示す個々の表現だけが私たちの前にあるのです。それは彼の科学的な著作についても、彼の「散文の中の韻」や彼の友人たちに宛てた手紙の中で彼が与えた簡単な示唆についても言えることです。彼の世界観の芸術的な定式化は最終的には彼の詩集の中に見出されますが、それらもまた彼の基本的な考えに対する実に様々な手掛かりを与えてくれます。私たちは、ゲーテはその基本的な原則を決して一貫性のある総体としては表現しなかった、ということを率直に認めるとしても、彼の世界観は厳密に科学的な仕方で定式化し得る理想の中心から湧き出してはいない、という主張を正当化するつもりは全くありません。

 私たちの前にあることがらをはっきりさせましょう。ゲーテのあらゆる創造に浸透しつつ、それらを生き生きとさせ、内的に推進する原則として彼の精神の中で働いていたものは、そのようなものとして現われることはあり得なかったのです。それは彼の作品すべてに浸透していたために、同時に、独立した実体として、彼の意識の中に現れることは不可能でした。もし、それが現われていたとしたら、実際にはいつもそうだったように活発に働く代わりに、何か完成されたもの、静止したものとして、彼の心の前に現われていたことでしょう。ゲーテを解説する者としては、この原則の様々な活動や現れをその絶えざる流れの中で追求し、それによってその理想的な輪郭を統一性のある総体として描き出す、ということがその仕事になります。私たちがゲーテの顕教的な作品をその真の光の下に見ることができるのは、この原則の科学的な意味を明解かつ正確に定式化することに成功し、科学的な一貫性をもってその様々な側面を発達させるときだけです。何故なら、私たちはそのときそれらが共通の中心点から展開してくるのを見ることができるからです。

 この章では認識についてのゲーテの理論、つまり認識論を扱うことになりますが、この科学とゲーテとの関係を考察する前に、不幸なことにカント以来続いてきたその使命に関するある種の混乱について簡単に触れておかなければなりません。

 カントが信じていたのは、彼以前の哲学が迷路に陥っていたのは、ものごとの本質的な特質を認識するに当たって、そもそもそのような認識が可能かどうかをまず問うことなくそれを追及していたからである、ということです。彼は、彼以前のあらゆる哲学することにおける根本的な病理は思考家が私たち人間の認識能力を検証する以前に対象の本質について考えていたという事実の中にある、と見ていました。そこで、彼はこの根本的な哲学的問題の検証に乗り出し、それによって新しい思想の潮流を作り出しました。カントに基礎を置くそれ以後の哲学はこの問題において語られて来なかった認識力に焦点を当ててきました。そして、今日の哲学界において、その解決に向けたアプローチが今までになかった程になされています。けれども、その結果、認識論−それは今日の科学の中心的な問題です−とは、「認識はいかにして可能か?」という問題に対する包括的な答え以上のものではない、と思われるようになりました。ゲーテに当てはめてみますと、その問題は「認識の可能性についてゲーテはどのように考えていたのか?」ということになるでしょう。

 けれども、より綿密に検証してみますと、この問題に対する答えは認識論への出発点にはなり得ない、ということが分かります。何故なら、もし、私が、何らかのものはいかにして可能になるか、と問うのであれば、私はそのものの本質を既に検証していなければならないからです。一方、カントとその追随者たちによって全く受け入れがたいと考えられた認識−彼らはそれが可能かどうかを問いました−についての概念はどうなるでしょうか?もし、それが透徹した批判に耐えられないとしたらどうでしょうか?もし、私たちの認識のプロセスが、それに関するカントの定義とは全く異なる何かであったとしたらどうでしょうか?そのとき、彼のこの分野における仕事のすべては価値のないものとなるでしょう。カントは普通に受け入れられていたような、知るということについての概念を当然のものとして、それから、その可能性を調べたのです。この概念によると、知るということは、私たちの意識の外にそれ自体として存在する現実についての記述です。けれども、私たちは、知るということがどういうことなのかを理解する前に、知ることができるかどうかを決定することはできません。したがって、いかなる認識論にとっても、「知るということはどういうことか?」という問題が主要な関心事となります。ですから、私たちの使命は、知るということについて、ゲーテがどのように考えていたかを示す、ということになります。

 何らかの判断を下すこと、あるいは、ある事実又は一連の事実を認識すること―それはカントにとっては認識と呼べるような何かです―は、ゲーテの意味では、まだ知るということではありません。そうでなければ、彼は、(芸術の最高の形としての)型は認識における最も深い根底に存在している、したがって、それは単なる自然の模倣、すなわち、芸術家が自然の対象物に向き合い、その形や色を最高の正確さで忠実かつ熱心に模倣し、それらから少しでも遠ざかることを注意深く避けるような模倣とは区別される、とは言わなかったはずです。この直接感覚に与えられる世界から距離を置くことは純粋に知ることについてのゲーテの観点に特徴的なものです。直接与えられるものとは経験のことです。私たちが知るとき、直接的に与えられるものの像を創り出すのですが、それは感覚―あらゆる経験を仲介するもの―が与えることができるよりもかなり多くのものを含んでいます。ゲーテの意味で自然を把握するためには、その直接的な事実関係に拘泥すべきではありません。自然は、認識のプロセスを通して、一見したときに現れるよりも何か本質的により高次のものとして現われるに違いありません。

 ジョン・ステュアート・ミルの学派は、私たちが経験に関してできることは様々な事物をグループ分けし、それらを抽象的な概念として保持することだけだ、と考えています。けれども、それは真に知ることではありません。何故なら、ミルの抽象的な概念は、直接的な経験という特質のすべてとともに、感覚に自らを現わすものを単に要約しているに過ぎないからです。真に知るということは、与えられた感覚知覚可能な世界の直接的な形態はまだその本質的な形態ではなく、知るというプロセスの中でのみそれは自らを私たちに現わす、ということを認めるものでなければなりません。知るということが私たちに与えるのは、感覚的な経験は与えないけれども現実であるところのものであるに違いありません。ミルが言っているのは、真の知るということではありません。何故なら、それは、私たちの目や耳が私たちにもたらすものをそのままにしておく感覚による経験を洗練したものに過ぎないからです。それは、以前の、あるいは、より最近の形而上学者たちが好んでするように、経験の領域を越えてファンタジーの世界に自分を見失うことではありません。私たちはその代わり、感覚に与えられるものとしての経験から私たちの理性を満足させる経験の形へと前進しなければなりません。

 今や、新しい問い、仲介されない経験と知の過程で生じる経験像との間の関係とはいかなるものか?という問いが生じます。私たちはこの問いに対して、まず私たちとしての答えを出し、そして、それがゲーテの世界観からも導かれることを示したいと思います。

 最初、世界は空間と時間の中における多様性として私たちの前に自らを現わします。私たちは空間と時間の中にある個々のものを別々に、つまり、ここにはこの色が、あそこにはこの形が、今この音が、今あの雑音が、等々というように知覚します。まず無機的な世界からの例を取り上げ、私たちが感覚を用いて知覚するものと認識プロセスを通して生じるものとの間の違いを大いなる正確さをもって区別してみましょう。私たちは石がガラス板めがけて飛んで来て、それを打ち破り、最後に地面の上に落ちるのを見ます。私たちは、直接的な経験としてここで与えられるのは何か?と問います。それは、石によって次々に占められる場所からやってくる一連の視覚的な知覚、ガラスが砕け散るときの一連の音の知覚、飛び散るガラスの破片、等々です。私たちは、もし、自分を欺くつもりがないのならば、私たちの直接的な経験に提示されるのはこの雑多な知覚の寄せ集め以上のものではない、と言わざるを得ないでしょう。

 直接的な知覚(感覚による経験)に関する同様の厳格な制限については、フォルケルトによるカントの認識論に関する優れた論文の中に見ることができます。これは現代哲学が生みだした最高のもののひとつです。しかし、フォルケルトが何故、個別的な知覚表象を心的な像と見なし、それによって、最初から客観的な認識の可能性を排除したのかを理解するのは不可能です。直接的な経験を心的な像の総体と見なすのは間違いなく先入観によるものです。もし、私の前に何らかの物体があるとすると、私はその形や色を見、ある種の硬さやその他のものを知覚します。最初、私の感覚に与えられるこのイメージの寄せ集めが私にとって何か外的なものなのか、あるいは単なる内的な表象なのかは私には分かりません。最初、石の温かさが太陽光で暖められた結果なのかどうか―よく考えてみなければ―ほとんど分からないように、私に与えられる世界と、心象を形成する私の能力との間の関係がどのようなものなのかは分かりません。フォルケルトは彼の認識論を始めるに当たって、「我々は様々な種類の多様な心象を有している」という命題を立てました。私たちには多様性が付与されている、というのは正しいとしても、私たちはこの多様性が心象から成っていることをどうやって知るのでしょうか?フォルケルトが最初、直接的な経験によって私たちに何が与えられるかを確かめなければならない、と主張した後、経験の世界は心象の世界である、という与えられることができないような何かを仮定するとき、実際、彼は全く許容できないようなことを行っているのです。私たちがそのような憶測を行う瞬間、私たちは今特徴づけたような認識論的に不正な質問をせざるを得なくなります。もし、私たちの知覚が心象であるならば、私たちの認識の全てが心象であることになり、ある心象はそれが表していると考えられる対象といかにして一致し得るのか?という問いが生じることになります。

 とはいえ、何らかの真の科学がそもそもこの問題に取り組むということがあったでしょうか?数学について考えてみましょう。3直線が交わることによってできる形つまり三角形があります。3つの角α、β、γは一定の関係、つまり、合わせて180°あるいは直角2つ分になるという関係を維持しています。これは数学の命題です。知覚されているのは角α、β、γです。

上記の認識論的な判断には、思索的な考察に基づいて到達します。この判断は3つの知覚像の関係を確立します。三角形という心象の背後に何らかの対象物を考えることが問題になることはありません。すべての科学についても同様です。それらはひとつの心象から別の心象へと糸を紡ぎ出し、直接的な知覚という観点から見ると混沌であるところのものに秩序をもたらします。しかし、与えられたものの他にはいかなるものも考察の対象として入ってくることはありません。心象とその対象物との一致に真実があるのではなく、むしろ、2つ(あるいはそれ以上)のものの間にある関係の表現が真実なのです。

 石と窓ガラスの例に戻りましょう。私たちは、石がそこを通って移動するところの個々の場所からやってくる視覚的な知覚を結びつけます。この結合によって曲線(放物線)が与えられ、放物線の法則が得られ、さらに進むと、ガラスの物質としての特徴が知覚され、そして、石は原因であり、ガラスが割れたのはその結果であり、というようなことが分かります。すなわち、私たちは与えられたものに概念を浸透させ、それによって、それを理解するようになるのです。この働きの全ては私たちの意識の中で生じますが、それによって、知覚されたものの多様性は概念の統一体へと集約されます。知覚的なイメージのアイデア的な相互関係は、感覚を通して与えられるのではなく、むしろ、私たちの心により、独立して把握されるのです。感覚知覚能力だけを付与された存在にとっては、この過程全体は生じ得ないものです。外的な世界は、そのような存在にとって、私たちが最初に(直接的に)直面するものとして特徴づけたように、構造を持たない知覚的な混沌のままに留まるでしょう。

 ですから、人間の意識とはいくつかの知覚的なイメージがそれらのアイデア上の相互関係において現れる場所であり、そこでは後者が前者の概念的な対応物としてそれらの前にさらされます。この概念的(法則的)な相互関係がその実質的な側面において生じるのは私たちの意識の中においてであるという事実は、それがその意義という点で主観的なものであることを意味してはいません。逆に、その意味あるいは内容は、ちょうどその概念的な形態が私たちの意識から生じてくるのと同様、確かに客観的な世界から生じてきます。それは知覚的なイメージを必然的、客観的に補足するものなのです。私たちがこの必然的な補足物をつけ加えるように強いられるのは、正に、私たちの感覚による知覚が不完全であり、それ自体では未完成であることによります。もし、直接与えられるものがそれ自体で満足すべきものであり、あらゆる点で私たちに問題を生じさせないのであれば、私たちがそれを超えていく必要は決してなかったことでしょう。けれども、知覚的なイメージは、ひとつのものが別のものに続き、それがその結果として生じるのを見ることができる、というような仕方で生じることは決してありません。それらはむしろ感覚的な知覚をもってしては近づくことができないような何か別のものの結果として生じます。概念的な理解がそれらと出会い、感覚には隠されたままに留まる現実の側面を把握することになるのです。もし、感覚的な経験がそれ自体で完結した何かを私たちに提供したとすれば、知るというプロセスは本当に無用なものであったことでしょう。感覚的に知覚可能な事実を結びつけたり、秩序づけたり、あるいはグループ化したりすることは、そもそもいかなる客観的な価値も持っていなかったことでしょう。認識活動が意味を持つのは、感覚に与えられる構造を完全なものとは見なさず、それは単に全体の半分に過ぎない、それはそれ自身の内に何かもっとより高次の秩序―とはいえ、それはもはや感覚にとって直接知覚することができないような何かです―を有している、と私たちが見なすときだけです。人間の精神が活動的になり、今や、そのより高次の要素を知覚します。ですから、思考を現実の本質に何かをつけ加えるものとして考えるべきではありません。それは目や耳と同様、知覚器官以上のものでも以下のものでもありません。ちょうど、目が色を知覚し、耳が音を聞くように、思考はアイデアを知覚するのです。ですから、アイデア主義な探求の原則と経験主義的な探求の原則とは完全に両立します。アイデアとは、主観的な思考の内容ではなく、探求の結果なのです。現実が私たちに出会うのは、私たちが開かれた感覚を持ってそれに近づくときです。それは私たちに偽りの姿で自らを提示し、私たちはそれをその真の形態であるとは見なしません。私たちが後者に至ることができるのは、私たちの思考を働かせるときだけです。知るということは、私たちが感覚的な経験という半分の現実に対して思考を通して知覚するところのものをつけ加えるということ、そして、それによって、私たちの現実についての像が完全なものになるということを意味しています。

 すべては私たちがアイデアと感覚知覚可能な現実との間の関係をどのように考えるかにかかっています。後者は私たちの感覚が私たちにもたらす知覚の総体を意味しています。今、最も広まっている観点は、概念とは単に私たちの意識が外的な現実に関するデータを自分のものにするための手段に過ぎない、というものです。現実の本質は物自体の中にのみ存在しており、たとえ私たちが実際にその主たる本質に至ることができたとしても、私たちに残されるのはただその概念的な表現だけであり、決してその本質自体ではない、と考えられているのです。ですから、この観点は二つの完全に別の世界、つまり、客観的な外的世界―それはその内部にその本質的な特質、その存在の基礎を担っています―と主観的なアイデアという内的な世界―それは外的世界の概念的な複製物であると考えられています―を仮定します。この内的世界は、外的世界にとって全く関心のない出来事であり、それによって求められることもなく、単に認識を行う人間にとってのみ存在しているのです。この基本的な観点の認識論的な理想はこれら二つの世界の調和を達成するということでしょう。その追随者としては、私たちの時代の主流となっている科学だけではなく、カント、ショーペンハウアー、そして、新カント主義の哲学が含まれますが、シェリング哲学の最終局面も同様です。これらの思想的な潮流はすべて、主観を超越した領域に世界の本質を求めますが、彼らの観点からして、主観的でアイデア的な世界―したがって、それは彼らにとっては単なる心的な表象の世界に過ぎません―は現実自体にとっては何の意味もなく、単に人間の意識にとってのみ意味があると認めざるを得ない、という点で一致しています。

 既に示したように、この観点は概念(アイデア)と知覚の完全な一致という仮定へと導きます。知覚の中に見出されるものは、その概念的な対応物の中では、単にアイデア上の形態において模造されるはずのものです。それらの本質に関しては、両方の世界が完全に一致していなければならないでしょう。時空の現実的な状態は、知覚された空間的な広がり、形、色等々の代わりに、対応する心象が存在するはずであるという点を除けば、アイデアの中で正確に繰り返されることになります。例えば、もし、私が三角形を目にするならば、その輪郭、大きさ、線分の傾き等々を私の思考の中で追って行き、その概念的な写像を自分で創り出さなければならないでしょう。第2の三角形に向かうときにも、外的あるいは内的な感覚世界におけるあらゆる対象物に関しても、同様にしなければならないでしょう。ですから、世界についての私のアイデア像の中には、各対象物がその正確な位置と特徴を伴って再び見出されるはずです。

 私たちは今、この広く支持されている観点の結果は事実と一致するのか?と問います。全く一致しません。三角形という私の単一の概念は、あらゆる個々の知覚された三角形を包含しています。すなわち、私がそれを何度意識に上らせたとしても、それはいつも同じものに留まります。三角形という私の様々な心象はすべて同一です。私は三角形というたったひとつの概念を有しています。

 現実には、あらゆる個別の事物は十分に定義づけられた「これ」として、同様によく定義づけられ、完全に現実的な「あれら」に対置されて自らを提示します。厳密にひとつの統一体であるところの概念がこの多様性と出会います。その中には、いかなる個別のものも、いかなる部分も存在しません。それは増殖せず、何度写し取られたとしても同じものに留まります。

 さて、ここで、概念の同一性の実際の源泉は何か?という疑問が生じます。その心象としての表れでないことは確かです。と申しますのも、バークレーが、木についての私の現在の心象は、私が目を閉じたまま1分経った後に私が有することになるはずの心象とは何の関係もない、そして、もし、何人かの人たちが同じ対象についての心象を形成したとしても、それらはやはりお互いに何の関係もないだろう、と主張するとき、彼は完全に正当化されるからです。このように、同一性はただ心象の意味の中に存在することができるだけです。それらの同一性を裏づけるのはそれらの意味、あるいは本質的な内容(概念的な側面)なのです。

 こうして、概念あるいはアイデアに対してあらゆる独立した意味を否定する観点は崩れ去ります。この観点が特に主張するのは、概念的な統一性そのものは(それ自体の)内容を全く欠いている―それが生じるのは経験の対象となるものの中の何らかの特別なものを省略することによってのみである―ということです。共通の要素は強調され、私たちの知性に組み込まれますが、その理由は、最小限の一般的な用語を使って―つまり、最少エネルギー消費の原則にしたがって―客観的な現実の多様性を包含することにより、その簡便な把握を達成するためです。ショーペンハウアーはこの観点を現代科学の哲学と分かち合っています。その最も粗野で、したがって、最も一面的な帰結が、リチャード・アベナリウスの小冊子「エネルギー消費最少の原則にしたがって世界を考える哲学」の中で表現されています。けれども、この観点は、単に概念の内容に関してだけではなく、知覚内容に関しても、完全な誤解の上に成り立っています。

 この問題を明らかにするために、個別性のある知覚を普遍性のある概念に対置させる基本的な洞察に立ち戻りましょう。

 私たちは、個別性を実際に区別しているものは何か?と自分に問わなければなりません。私たちはそれを概念的に規定することができるでしょうか?私たちは、概念的な統一性はあれこれの個別的な知覚的多様性にブレークダウンすることができる、と言うことができるのでしょうか?それは確かに不可能です。概念自体は個別性とは何の関係もありません。したがって、その個別性はそのようなものとしての概念にとっては接近不可能な要素から成立っていなければなりません。知覚と概念の間の中間段階については知られていませんから、(今日ではほとんど真剣に取り上げられることのないカントが言うところの想像上の神秘的な図式を導入するつもりがないのであれば)個別のもののこれらの要素は知覚自体に属していなければなりません。それらの個別性の理由は概念から導かれるのではなく、知覚そのものの中に求められなければなりません。ある対象の個別性を構成するものは概念的に把握され得るのではなく、ただ知覚されることができるだけなのです。知覚された現実の総体を概念自体から導き出そうと試みるあらゆる哲学の避けがたい挫折の理由はここにあります。世界全体を人間の意識から導き出そうとしたフィヒテの古典的な失敗もまたここにあります。

 実際に、知覚を概念から区別しているのは、本質的には概念化されることができず、ただ経験されなければならない正にこの要素なのです。こうして、概念と知覚は、二つの異なる世界の両側面として、とはいえ、その本質的な特徴においては同一のものとして並置されています。そして、既に示してきたように、知覚は概念を要求することから、その本質はその個別性にあるのではなく、その概念的な普遍性にある、ということになります。とはいえ、その表現に関しては、この普遍性はまず主観の中に見出されなければなりません。何故なら、それは対象からは導き出され得ない一方、主観が対象を調べるとき、それは実際、主観によって見出され得るものだからです。

 概念はその内容を感覚的な経験から引き出すことができません。その理由は、それが正に経験に特徴的なもの、つまり、その個別性をそれ自身の中に取り込まないからです。あらゆる個別的なものは概念にとっては見知らぬものです。したがって、概念はそれ自身の内容を提供しなければならないのです。

 よく言われるのは、経験の対象は個別的で生き生きとした知覚であるのに対して、概念は、内容に満ちた知覚と比較して、抽象的で、貧しく、空虚で、微々たるものである、ということです。これらの多様で感覚的な個別性という豊かさはそれらの数の中に求められますが、それは空間の無限性のゆえに、確かに偉大なものであり得ます。しかし、だからといって、概念がより不十分に定義されるというわけではありません。何故なら、そこでは、数は質によって置き換えられるからです。そして、ちょうど量が概念の中に見出されないように、知覚はダイナミックな質的特徴に欠けています。概念は知覚と同様、個的なものであり、その内容は同じように豊かなのです。ただ違いは、知覚の本質を把握するためには、感覚を開くということ以外、つまり、外的な世界に対する純粋に受動的な関係以外には何も要求されないのに対して、世界のアイデア的な重要性は、そもそもそれが現れるべきであるならば、私たち自身の自発的な精神活動を通して生じなければならない、というところにあります。概念は生き生きとした知覚の敵であるというのは考えのない、月並みな言い方です。概念は知覚の本質存在であり、それを実際に動かす活動原則なのです。すなわち、それはそれ自身の内容を知覚内容につけ加えながら、後者を排除することはありません。何故なら、それはそのようなものとしての知覚上の内容には関係していないからです。しかし、それにも関わらず、それは知覚の敵であると考えられているのです!概念が知覚の敵となるのは、間違った哲学が感覚世界の豊かさのすべてをアイデアから紡ぎだそうとするときだけです。そのような哲学は、生きた自然の代わりに空虚な言葉の体系だけを生み出すでしょう。

 私たちはここで示された方法によってのみ、経験に基づく認識を実際に構成するものについての満足のいく説明に至ることができます。もし、概念が私たちの感覚知覚に何か新しいものをつけ加えるのでないとすれば、何故、概念的な理解へと進まなければならないかを説明することはできないでしょう。純粋に経験的な認識は私たちの知覚の前に置かれた何百万もの個別のものを越えて、一歩も進むことはできないでしょう。純粋に経験的な認識が首尾一貫したものであるためには、それ自身の内容を否定しなければならないでしょう。と申しますのも、何故、私たちは私たちの知覚の中に既に存在しているものを概念的に再創造しなければならないというのでしょうか?これらの考察の光の下では、首尾一貫した実証主義はすべての科学的な働きを直ちに停止し、ランダムな生起にのみ依拠しなければならなくなるでしょう。実際にはそうなっていませんから、それはそれが理論的に拒絶していることがらを実行していることになります。事実、唯物主義も写実主義も暗に私たちの主張を認めているのです。それらが実際に行っていることがらが正当化されるのは私たちの観点からのみであって、それら自身の根本的な理論とは明らかに矛盾しています。

 私たちの立場からすれば、科学的な認識の必然性と感覚的な経験を越えていく必要性は矛盾なく説明することができます。感覚的な世界は、さしあたり、そして、直接的に与えられたものとして、私たちの前に現れます。それは巨大な謎のように私たちに相対しますが、それは私たちがこの世界そのものの中にそれを突き動かし、形作り、活発にさせるものを見出せないからに過ぎません。今、理性が入り込んできて、その考察の対象となるアイデアの世界をもって、謎への解答を構成する支配原則を感覚の世界に向かって掲げます。これらの原則は感覚の世界そのものと同様に客観的なものです。それらが感覚には現れず、理性にのみ現れるという事実はそれらの内容とは関係がありません。もし、思考する存在がいなかったとすれば、これらの原則は決して現れなかったことでしょう。けれども、そのことで、それらが現象世界の本質であるという事実から貶められることは決してありません。

 こうして私たちは、ロック、カント、後期のシェリング、ショーペンハウアー、フォルケルト、新カント主義、そして、現代科学の超越論的な世界観に対抗して、真に意識内在的な世界観を掲げます。彼らが現実についての主要な原則を、私たちの意識を超えた、見知らぬ領域の中に求めるのに対して、意識内在的な哲学はそれらの原則を理性に現れるものの内に求めます。超越論的な世界観は概念的な認識を世界の像と見なします。意識内在的な見方はそれを世界が最高の形態で現れたものとして見ます。前者が生み出すことができるのはせいぜい思考と実際の存在との関係とはいかなるものか?という問いに基づく認識についての形式的な理論です。後者はその認識論の最初に、知るとは何か?という問いを置きます。前者は、思考と存在との間には本質的な違いがあるという偏見から始めます。後者は、私たちに思考についての確かさを与える唯一のものの探求へと偏見なしに入っていきます。そして、それは、思考の外側にはいかなる存在も見出すことができないということを知っています。

 私たちの認識論的な考察の総括は次のような結果に至ります。私たちは私たちの思考を動かす前に、私たちの感覚に与えられるままの全く不確定で直接的な現実の形態―単に見たまま、聞いたまま、等々のもの―から始めなければならない。重要な点は、感覚によって私たちにもたらされるものと私たちの思考がそれにもたらすものとを区別する、ということです。感覚は事物の間に何らかの特別な関係があること―例えば、これが原因で、あれが結果であるというようなこと―を私たちに伝えたりはしません。感覚にとっては、すべてのことがらが世界の成り立ちにとって同等の重要性を有しています。考えに欠けた観察は、一粒の種は路上の砂粒よりもさらに高い複雑さのレベルにある、ということを示しません。感覚に関する限り、それらが似たようなものに見えるならば、それらはいずれも同じように重要なのです。このレベルの観察においては、ナポレオンがどこか田舎の農夫以上の世界史的な重要性を有することはありません。

 今日の認識論はこの程度にまでしか進歩していないのです。事実上すべての認識論者たちが、知覚の最初の段階で、当初は不確かで定まらない表現として私たちに相対するものを心象であると直ちに指定するという間違いを犯しているという事実は、これらの真実が決して徹底的に考え抜かれてこなかったということを示しています。しかし、それは正に今私たちが獲得したばかりの洞察を無作法に踏みにじることに他なりません。私たちが純粋な感覚知覚の段階に留まる限り、私たちは、落下する石が、それが落ちた地面の穴の原因であることを知らないのと同じくらい、それがひとつの心象であることを知る由もないのです。私たちが前者の判断に至ることができるのは注意深い考察を通してのみであって、私たちに与えられる世界が単なる心象に過ぎない―それが真実であると仮定すればですが―という洞察に至ることができるのは、よく考えてみることを通してのみなのです。私の感覚は、それがもたらすものが実際の存在なのか、あるいは単なる心象に過ぎないのかについて、何の手がかりも私に与えません。感覚の世界は瞬間的に―あたかもピストルから発射されたかのように―私たちに突進してきます。もし、私たちがそれを純粋なままにしておきたいのであれば、私たちはそれにいかなる質的な特徴も付与することを控えなければなりません。私たちに言えるのはひとつだけ、それが私たちに相対している、私たちに与えられているということだけです。それはこの感覚的な世界そのものについて何も述べません。私たちは、このように前進することによってのみ、与えられたものの偏見のない評価への干渉を避けることができます。私たちが、与えられたものに対して、最初から特別な特徴づけを行うならば、この偏見からの自由は失われます。例えば、もし、私たちが、与えられたものは心象である、と言うならば、私たちの探求全体がこの前提の上に基礎づけられることになるでしょう。私たちはそのとき、認識に関する偏見のない理論を提供するのではなく、むしろ、感覚に与えられるものは心象であるという前提に基づいて、知るとは何か?という問いに答えることになるでしょう。フォルケルトの認識論の根本的な間違いはここにあります。最初、彼は、すべての認識論は偏見から自由でなければならない、という厳密な要求を打ち立てます。けれども、次に彼は、我々は多様な心象を有している、という主張へと進みます。こうして、彼の認識論は、もし、与えられたものが多様な心象であると仮定するならば、いかにして知ることが可能となるか?という問いに対するひとつの回答に過ぎなくなります。

 私たちのアプローチは全く異なっています。私たちは与えられたものをそのまま、つまり、多様なもの―あれこれのものであって、もし、私たちがそれとともに流されるままになるとすれば、自らを私たちに現すようになるもの―として受け取ります。このようにして、私たちは、対象自身に語らせることによって、客観的な認識を獲得する見通しを得ます。私たちに自らを提示する現象が私たちに必要なものすべてを明らかにする、ということを私たちが望むことができるのは、その宣言が私たちの判断力に自由に接近することを妨げるいかなる妨害的な偏見も許さないときです。と申しますのも、たとえ現実が私たちにとって永遠に謎のままに留まるとしても、そのような真実を知ることが意味を持つのは、それが実際の事物との関連で得られるときだけだからです。一方、私たちの意識は世界の事物に関していかなる明晰性にも至ることができないような仕方で構成されている、という主張は全く無意味です。事物の特質を把握するために私たちの精神的な能力は十分なものであるかということ、これが、私たちがこれらの物自体との関係で自ら確かめてみるべきことです。私が最も完成された心的能力を持っていたとしても、もし、事物が自分たちについて何も開示しないのであれば、私の才能は何の役にも立ちません。そして、逆に、たとえ私が私の力はわずかなものであると知っていたとしても、そのこと自体が、それらは事物について知るには十分でない、と私に告げるわけではありません。

 私たちはまた、上で特徴づけられたような形で直接与えられるものは私たちを不満足のままにしておく、ということを理解しています。それは解決されるべき問題、謎を提示します。それは私たちに言います。私はここにいる。しかし、私は私の真の形態においてお前の前に現れることはない、と。私たちがこの外からの声を聞くとき、つまり、私たちが直面しているのは半分の現実、ひとつの実体ではあるけれども、そのより良い側面は私たちには隠されたままに留まっている、ということへのますます増大する気づきをもってそれを聞くとき、私たちの内部から自らを告知するのは、私たちがそれを通して反対側の現実についての認識を達成し、与えられた半分を補足することによって、全体を生み出すことができるような器官の活動です。私たちは、私たちが見たり聞いたりしないものは、私たちの思考を通して補足されなければならない、ということに気づきます。知覚によって提示される謎を解くために、私たちの思考が呼び出されるのです。

 私たちがこの関係を理解するのは、何故、私たちは知覚可能な現実では満足できず、思考を通して達成可能な現実に満足するのか、ということを探求するときだけです。感覚的な現実は何らかの完成されたものとして私たちに相対します。それは単にそこにあり、それがそのようにしてそこにあることに私たちは何の貢献もしていません。ですから、私たちは、私たちが生み出したのではない―実際、その生成に際して、私たちがそこにいることさえなかったような―何か見知らぬものに直面していると感じます。私たちは、既に存在している実体の前に立ちます。とはいえ、何かを十分に理解するためには、私たちはそれがどのようにしてそのようになったのかを知り、眼前にある事物へと導く歩みに従う必要があります。私たちの思考の場合にはそうではありません。思考の構成体は、私が自分でその生成に参加しない限り、自らを私に提示することはありません。すなわち、それが私の知覚の領域に入ってくるのは、知覚不可能性の暗い深淵から私が自分でそれを引き上げるときだけです。思考は、感覚知覚がそうであるように、完成された実体として私の中に現れるのではありません。逆に、私がそれを完成された構成体としてしっかりと保持するとき、私がそれを自分でこの形態へともたらしたのだ、という事実に気づくことになります。私の前にあるものは見知らぬ実体として私の前に現れるのではなく、その内部にいつも私が立っているほど密接に私に結びつけられているようなプロセスの完成形として現れるのです。

 正にこれが、私の知覚という水平線上に現れるものが何であれ、もし、私がそれを理解すべきであるならば、それに関して私が完遂しなければならないことです。何も私にとって獏としたものに留まってはなりません。何も完結したものとして私に相対すべきではありません。私は自分でそれを完成へと追っていかなければなりません。私たちが通常、経験と呼ぶところの現実の直接的な形態が私たちにそれを科学的に探求するようにさせる理由はそこにあります。私たちが私たちの思考を動きへともたらすとき、私たちは、私たちに与えられたものを決定づけるところの当初は隠されていた要因を発見します。私たちは生み出されたものから、それを生み出すことへと、私たち自身を引き上げるのです。すなわち、私たちは、思考が透けて見えるのと同じような仕方で、感覚的に知覚できるものが透けて見える段階へと至るのです。こうして、私たちの認識への内的な要求が満たされることになります。何かについての私たちの科学的な理解が完全なものとなるのは、私たちの思考が感覚的に知覚できるものに十分に、そして完全に浸透したときだけです。世界のプロセスが私たちによって完全に浸透されたものとして現れるのは、そのプロセスが私たち自身の活動であるときだけです。思考は私たちがその中に立つプロセスの帰結として現れます。その中に私たち自身を完全に置くことができる、私たち自身を完全に沈めることができる唯一のプロセスとは考えることです。科学的な観察にとって、経験された現実は、純粋な思考自体がそうであるのと同様に、展開する思考プロセスから生じるというような仕方で現れなければなりません。

 事物の本質的な特性を探究するということは、私たちの思考世界の中心から進み出るということ、そして、私たちの魂の前に私たちの外的な経験と同じであるように見える思考の構成体が生じてくるまで私たちの外へと向かう道に取り組む、ということを意味しています。私たちが事物や世界の本質的な特性について語るとき、それが意味しているのは、その現実性を思考として、アイデアとして理解する、ということ以外のものではあり得ません。私たちはアイデアにおいて、事物の原則、すなわち、そこからあらゆるそれ以外のものが導き出されるべきものを知るようになるのです。哲学者たちが絶対かつ永遠なる存在と呼ぶところのもの、世界の根源であって、宗教が神と呼ぶところのもの、私たちはそれを―ここで提示された認識論に基づいて―アイデアと呼びます。世界の中で、直接アイデアとしては現れてこないものも、結局はそれから進み出てくると認められることでしょう。表面的な考察にとっては、アイデアとは関係がないように見えるものも、より深い考えによって、それから導かれます。アイデアから導かれるもの以外のいかなる存在形態も私たちを満足させることはありません。いかなるものもその外部に孤立したままにしておかれるべきではなく、すべてがアイデアによって包含されるところのより大きな全体の一部にならなければなりません。とはいえ、アイデアはそれ自身を越えて行くことを要求しません。それはそれ自身の上にしっかりと基礎づけられ、打ち立てられた本質的な存在です。その理由はアイデアが私たちの意識の中に直接存在しているという事実の中にあるのではありません。それはアイデア自体の中にあるのです。もし、アイデアがそれ自身の存在を提示しているのではないとしたら、ちょうどその他の現実の部分がそうであるように、私たちに説明を要求しているように見えることでしょう。

 このことは上で述べられたこと―アイデアは私たちを満足させる形態において現れる、何故なら、私たちはそれが存在するようになることに積極的に関与しているのだからということ―と矛盾しているように見えます。けれども、それは私たちの意識という組織から出てくるのではありません。もし、アイデアがそれ自身の基礎の上に打ち立てられるのではないとしたら、私たちはそもそもそのような(満足という)意識を持つことができなかったでしょう。もし、何かがそれ自身の内に、そこからそれが湧き出してくるところの中心点を持たず、それ自身の外にそれを持っていたとしたら、それがそれ自身を私に提示するとき、私は私自身、それに満足していると宣言することはできません。私はその中心を見つけるためにそれを越えて行かなければなりません。私が、今お前はその中心に立っている、お前はここに留まることができる、という意識を達成することができるのは、私がそれ自身を越えたところを指し示すのではない何かに出会ったときだけです。私がある事物の内部に立っているという私の意識は、その客観的な特質、それがそれ自身の原則を包含しているという事実の結果に過ぎません。そのアイデアを保持することによって、私たちは世界の中心に入っていくことができます。私たちがここで把握するのは、すべてがそこから湧き出てくる源泉です。私たちはこの原則とひとつになりますが、それによって、そのアイデア―最も客観的であるところのもの―は、同時に、私たちにとって最も主観的なものとして現れるのです。

 事実、感覚知覚可能な現実が私たちにとってそのような謎である理由は、正に私たちがその内部にその中心を見出さないからです。それがそのような謎であることを止めるのは、それが私たちの内部で開示される思考の世界と同じような中心を有しているということに私たちが気づくときです。

 そのような中心はひとつの統合されたものでなければなりません。実際、それは、他のすべての事物がそれらの源泉を説明するためにそれを指し示す、というような種類のものでなければなりません。もし、世界に複数の中心―世界がそれを通して知られるようになる複数の原則―があったとして、もし、ひとつの現実の領域がこの世界原則を、別の領域があの世界原則を指し示すとすれば、私たちがひとつのそのような領域にいるのを見出すやいなや、私たちはその中心だけに振り向けられることでしょう。さらに別の中心について調べてみるということにはならないはずです。ひとつの領域は別の領域について何も知ることはないでしょう。それらはお互いに存在していないのと同じです。ですから、ひとつ以上の世界について語ることは全く無意味です。様々な種類の意識があり、それぞれがアイデアについてのそれ自身のイメージを有している、という事実が、アイデアは世界のどこにおいても、いかなるタイプの意識においても、ひとつの同じものであると、いう事実を変えることは全くありません。世界についてのアイデアの内容はそれ自身の基礎に上にあり、それ自身の内部で完成し、完結したものとなっています。私たちはそれを生み出したりせず、それを理解しようとするだけです。私たちの思考はそれを生み出すのではなく、それを知覚するのです。思考とは生み出すのではなく、理解する器官なのです。

 ちょうど、様々な目がすべて同じ対象を見るように、様々な種類の意識が同じ思考内容を考えます。それらは同じものを考えますが、異なる側面からそれにアプローチするのです。したがって、それはそれらにとって様々な変化形で現れます。けれども、これらの変化形は対象における違いに由来するのではなく、むしろ、視角の違いによります。人間の観点における相違は、ちょうど景色が二人の観察者の立ち位置の違いによって、異なって提示されるのと同じようにして説明することができます。もし、私たちがアイデアの世界に貫き至ることがそもそもできたとしたら、私たちはこの世界が誰にとっても共通であることをいずれは確信することができるでしょう。もちろん、それでも私たちがそれを非常に一面的な仕方で見る―例えば、私たちの観点からすればそれは最も好ましくない等々の光の下に現れる―というようなことはあり得るでしょう。

 私たちが完全に思考内容に欠けた感覚世界に直面するということは、恐らく決してないでしょう。私たちが純粋な感覚知覚に最も接近するのは、多分、まだ思考の痕跡すらない最初の幼少期においてです。私たちの通常の生活における経験は半分思考に浸透されています。つまり、それは既に、多かれ少なかれ、漠とした知覚から精神的な理解の明晰な光の中へと引き上げられたものとして現れます。科学は、この獏としたものを完全に克服し、経験の中には思考に浸透されていないものは何もないようにするという目標に向かって歩みを進めています。

 さて、認識論は他の科学のために何を成し遂げたのでしょうか?それはすべての科学の目的と使命を明確にしました。それはあらゆる個別の科学の重要性を私たちに示しました。私たちの認識論は他のすべての科学の特性と使命を決定づける科学なのです。それは、個々の科学が達成するのは世界存在の客観的な基礎である、ということを明らかにしました。諸科学は特定の概念に至り、認識論はこれらの概念の実際の使命に光を当てます。ゲーテの認識論にしたがって定式化された私たちの認識の理論は、この特徴的な結果を通して、現在の他のすべての認識論から分化します。それは、単に思考と存在の間に形式的な関係を打ち立てようとするのではなく、論理だけを通して認識論的な問題を解決しようとするのでもなく、積極的な結果に至ろうとします。それは私たちの思考内容とは何であるかを示し、それはそれが同時に客観的な世界内容であることを見出します。

 このことは認識論を人間にとって最も意義深い科学にします。それは私たちに人間としての役割を明らかにし、私たちが世界との関係でどのような立場にあるかを示し、それによって、それは私たちにとっての満足の源泉となります。それは私たちに私たちの真の天命を示します。私たちがその真実を自分のものとし、自分たちが引き上げられていると感じるとき、私たちの科学的な探求は新しい光の下に現れます。私たちが今初めて知ることになるのは、私たちは世界存在の最奥の核に最も直接的な仕方で結びつけられている、そして、この核は他のすべての存在にとっては隠されたままに留まるけれども、私たちによって発見される、世界精神は私たちの中で開示される、それは私たちの中にある、ということです。私たちは世界の過程が私たちの中で完成へともたらされることを理解します。世界の他の力たちが達成できないことを達成するために私たちは召喚されている、そして、それを達成することが創造の極致なのだ、ということを私たちは理解するのです。もし、宗教が、神は人間を神自身の姿に創造した、と教えるのであれば、私たちの認識論は、神は創造を一定の地点にまでしか進めなかった、ということを私たちに教えます。この地点で神は人間を存在へともたらしました。そして、私たちが私たちを知るようになり、私たちの周りを見回すようになるとともに、私たちは、その仕事を前に進めるという使命、原初の力が始めたものを完成へともたらすという使命を自分たちに課します。私たちは自分たちを世界の中に浸し、既に敷かれた基礎の上に何を打ち立てるべきなのかを知ります。つまり、私たちは原初の精神の意図を理解し、そして、それらを遂行することを学ぶのです。こうして、認識の理論はまた、人間の意義と天職の科学となります。そして、それは(「人間の天職」についての)この問題を、フィヒテが18世紀から19世紀への変わり目に行ったよりもはるかに明確な仕方で解決します。真正な認識の理論から導かれることができるのと同じくらい十分な満足をあの力強い心による本から得ることは決してできません。

 私たちの使命は、個々の存在に働きかけ、それによって、それがアイデアから現れてくるように、その個別性が十分に昇華され、私たち自身がその要素の中へと移されているように感じるようなそのアイデアへと融合させるようにする、ということです。私たちの精神にとっての使命は、与えられたすべての外的な現実がアイデアから進み出てくるかのようにその現実を見通すことができる能力を獲得する、というような仕方で自らを形成することです。私たちは、私たちのあらゆる経験の対象がアイデアとして私たちの世界像の一部として現れるまでそれを変容させることにおいて、飽くことのない働き手であるように努めなければなりません。

 私たちは今、ゲーテの世界観がその出発点とした地点へとやってきました。述べられてきたことを用いて、アイデアと、ゲーテによるその探求の中で実際の行いとして示された外的な現実との間の関係を想像してみましょう。ゲーテは、ここで正当化されたような仕方で、事物の中心へと貫き至りました。彼は彼自身、彼の内的な仕事の方法を生き生きとした発見的能力であると見ていました。それは、彼がそれについて悪い予感を持っていたところの知られざる法則(アイデア)を認めつつ、それを外的な世界に導入しようとするものでした(散文の中の韻)。ゲーテが私たちに、私たちの器官を教育せよ、と警告するとき(編注:「動物は彼らの器官に教育され、人間は彼らの器官を教育し、そして、自分のものとする(散文の中の韻)。」)、それが意味しているのは、私たちは私たちの感覚がもたらすものに単に屈服するのではなく、それらが事物を正しい光の下で示すように、それらを指導しなければならない、ということでもあるはずです。