ルドルフ・シュタイナー

真相から見た宇宙の進化

Die Evolution vom Gesichtspunkte des Wahrhaftigen

 (GA132)

第2講 太陽期における地球の内的側面

ベルリン 1911年11月7日

佐々木義之 訳

 


 前回の講義から、私たちの「地球」の創造に先立つ3つの発達段階のそれぞれを記述するのはきわめて難しいことだ、ということがお分かりになったと思います。私たちは、それを行うためにはまず私たちの宇宙的な発達の中でも遠く離れた見知らぬ状態にまで至るのに必要な概念と思考を構築しなければならない、ということを見てきました。既に指摘しましたように、古「土星」期やそれに続く「地球」の惑星体現期に関するいかなる記述も―例えば、「神秘学概論」の中の記述などですが−網羅的なものではありません。私は、その本を書くに当たって、身近で手近なものから導き出された図式の衣装をその主題に着せることで満足しなければならなかったのですが、それは、その本が公衆にとって理解可能で、かつ、過度にショッキングにならないように意図されたものだったからです。「神秘学概論」の中で与えられた記述は、ただ不正確であるというのではなく、図式的にいえば、幻想あるいはマーヤの中に浸されているのです。真実に貫き至ろうとするのであれば、幻想の中を努力しつつ進まなければならないのです。例えば、古い「土星」は、私たちが地、水、あるいは空気として知っているあの諸要素からではなく、全く熱から成り立っている、と記述できるかも知れません−そして、これが正しいのはある限度の範囲内なのです。同様に、空間に言及するときにはいつも図式的な記述にならざるを得ないのですが、それは、前回の講義の中で見てきたように、古「土星」上には時間さえ存在しなかったからです。古「土星」上には、少なくとも私たちの言葉の意味での空間はありませんでした。しかし、一方では、その当時、初めて時間が存在するようになったのです。ですから、私たちが自分を古「土星」の文脈の中に置くときには、私たちは空間を持たない領域の中にいることになります。ですから、もし、私たちがこのことを思い描こうとするのであれば、それは像に過ぎないのだ、ということを明確にしておかなければなりません。
 このように、もし、私たちが古「土星」の「空間」の中に入ることができたとしても、そこにはガスとして記述できるほど濃厚な実質は見いだされなかったでしょう。そこにあるのは暖かさと冷たさだけだったでしょう。実際、空間の一部から出たり、別の部分に入ったりすることについて語ることはできなかったのです。そこにあるのは、より暖かい状態とより冷たい状態の間を動く、という感情だけです。超感覚的な能力を有する人でさえ、古「土星」の時代の中に身を置くと想像するときに経験するのは、空間を持たない暖かさが満ちたり引いたりする、という印象だけなのです。けれども、この印象は「土星」状態の外的な覆いに過ぎません。と申しますのも、神秘主義でいうところのこの火の暖かさは、その精神的な基盤において、私たちにその実体を現すのですが、既に見てきましたように、古「土星」上で実際に生起しているのは精神的な行為、できごとだからです。
 私たちは、古「土星」上で起っているのはどのような種類の精神的な行為なのか、ということについてのイメージを形成しようとしました。私たちがお話ししたのは、「意志の霊」、トローネが犠牲行為を遂行したということでした。このことは、私たちが「土星」上で生じたことを振り返るとき私たちが見るのはケルビームとトローネから流れ出す供儀である、ということを意味しています。トローネからケルビームへと供儀が流れ出すのですが、外から見たときには、これらの犠牲行為は熱として現れます。ですから、熱の状態とは供儀の外的、物理的な表現なのです。実際、全宇宙の中で、私たちが熱を知覚するときには、それがどこであれ、熱はその背後に立つものの外的な表現なのです。熱は幻想であり、熱の背後には、精神的な存在たちによる犠牲行為という現実があります。ですから、熱を正確に特徴づけたいのであれば、「宇宙の熱とは、宇宙的な供儀、宇宙的な犠牲行為の表現である」と言わなければなりません。
 私たちはまた、トローネたちがその犠牲行為をケルビームに捧げるときには、私たちが時間と呼ぶところのものが同時に生まれる、ということを見てきました。既に触れましたように、「時間」という現代の言葉は、私がこれから記述しようとしていることがらに、それほど適合してはいません。ここでいう時間は、私たちが今日感じるような「前に」や「後で」というような抽象性をまだ包含していません。時間は、「人格の霊」あるいは「時間霊」とも呼ばれる精神的な存在の外的な配列として始まったのです。これらの「時間霊」は、太古における時間の表現であり、トローネとケルビームの所産なのです。とはいえ、時間的側面を持った存在たちが古「土星」上で生まれたのは、犠牲行為という状況があったからです。
私たちが暖かさの背後に立つものを本当に理解しようとするとき―古「土星」は暖かさから構成されていた、と言うとき−、私たちは単に外的、物理的な概念だけを適用すべきではありません。私たちが暖かいという言葉を使うとき、それは物理的な概念である、ということを思い出していただきたいのですが、ここではそうではなく、「魂の」生活―魂の道徳的な生活、叡智に満ちた生活−から導かれる概念を適用すべきなのです。自分が所有するもの、自分が持っているもの、自分自身であるところのものさえ、喜んで捧げるということが何を意味しているかを想像することができない人は誰であれ、暖かさとは何かを知ることができません。必要なのは、魂の観点から、自分自身の存在を捧げるということ、自分自身を意識的に諦めるということが何を意味しているかについての理解に至る、ということです。言い換えれば、自分の最良のものを世界の治癒のために与えるということ、自分の最良のものを自分のために取っておくのではなく、全宇宙という祭壇の前に捧げようとすることについて想像することができなければならないのです。もし、私たちがこれらのことすべてを生きた概念として、私たちの魂に浸透するひとつの感情として把握するならば、それは私たちを熱の顕現の背後に立つものについての理解へと少しずつ導いていくことができるでしょう。
 現代生活においては犠牲の概念が何に結びついているか、ということを想像してみてください−つまり、意識的に犠牲を捧げる人が自分の意志に反してそうすることは考え難いことである、ということを。もし、誰かが自分の意志に反して犠牲を捧げるとすれば、そのような圧力を感じていたからに違いありません。強制があったに違いないのです。けれども、それはここでいうところの供儀が意味しているものでは全然ありません。ここでは、供儀は、それを捧げる存在から当然のこととして流れ出るのです。もし、誰かが、何らかの外的な強制や、何かを成し遂げるという期待なしに―もし、誰かが内的に促されるのを感じて―犠牲を捧げるとしたら、その人は内的な熱と至福を経験するでしょう。私たちが内的な熱と幸福で輝くのを感じるとき、それが表現しているのは、「犠牲を捧げ、そして、暖かさに浸透されるのを感じる人が幸福で輝くのだ」と言うことによってのみ記述することができるような何かです。私たちは、いかに犠牲の輝きが世界における外的な熱という幻想の中で私たちに近づくかを自分で経験することができます。世界の中で、暖かさがあるところにはどこでも、その基盤としての魂的、霊的な現実がある、ということを把握する人だけが、暖かさとは何かを本当に理解するのです。暖かさとは、犠牲の喜びを通して存在し、活動するようになる何かです。暖かさをこのような方法で経験することができる人であれば誰でも、物理的な暖かさという現象、つまり幻想の背後に存在し、隠されている現実へと至ります。
 さて、もし、私たちが古「土星」存在から古「太陽」存在へと突き進もうとするのであれば、私たちの現在の太陽ではなく、古い「太陽」の実質についてのイメージを創造するための概念に向けて、その基礎づけを行わなければなりません。この場合にも、私が「神秘学概論」の中で提示したのはその外的な表現に過ぎませんでした。古「太陽」は、空気と光を熱につけ加えることによって、その熱を高めたのですが、ちょうど私たちが「意志の霊」によってもたらされた犠牲の輝きを知覚するためには熱を越えたところを探求しなければならなかったように、今や―もし、私たちが古「太陽」上で熱につけ加えられた空気と光を理解したのであれば―私たちは、空気と光の本質として、何か道徳的なものを探さなければなりません。私たちが古「太陽」上における空気と光についての考え、表現、感情に至ることができるのは、私たちが、魂的、霊的な方法で、私たち自身の内部で経験することができるものを探求するときだけです。
 この感情は次のような方法で魂の経験として記述することができます。皆さんが真の犠牲行為を観察すると想像してみてください。つまり、前回の講義の中で記述したように、トローネがケルビームにその供儀を捧げるというイメージが皆さんを深く感動させ、そのため、そのイメージが皆さんの魂を無上の喜びによって生き生きとさせる、と想像してみてください。もし、皆さんが、そのような犠牲を捧げる存在を観察するならば、あるいは、皆さんの魂を目覚めさせ、生き生きとさせるようなこの種の像について想像するならば、皆さんの魂は何を感じるでしょうか?もし、皆さんが生命に満ちた感情を持っているとしたならば―もし、皆さんが、犠牲行為の中で感じる喜びを前にして、無関心で立っていることができないのであれば―皆さんはこの犠牲行為を目の当たりにして、深い目覚めを経験せざるを得ないでしょう。皆さんは、犠牲から生じる無情の喜びを見守るということは最も美しい行いであり、そもそも魂の中で生じ得る最も美しい経験である、と皆さんの魂の中で感じざるを得ません!
 別の経験も生じ得ます。それは完全に身を任せるという態度です。実際、もし、犠牲が、魂の中に、完全な献身をもってそれを見つめたい、というあこがれを生じさせないとしたら、そして、自己犠牲の雰囲気をもたらさないとしたら、皆さんは一片の木でなければならないでしょう。そのように自らを諦める無我について考えてみてください。それは行為の中で変容された自己犠牲です。そして、能動的で意識的な自己犠牲について熟考することにより、自分を譲り渡すということ、自らをなくすということ、自己を忘れるということ、に対する親和性を作り出すことができます。もし、そのような雰囲気、あるいは、少なくともそれについての示唆もしくは残響を作り出すことができないとしたら、犠牲についてのより綿密な理解へと本当に至る、ということは決してないでしょう。
 実際、私たちは、淡々と自己を諦める、というこの雰囲気を魂の中に注ぎ込むならば、より高次の認識形態が私たちに与えることができるものへと至ることができるかも知れません。自己犠牲の精神を創造することができない人は、より高次の認識を達成することもできません。この自己犠牲という態度の正反対のものとは何でしょうか?それは自己意志、自分自身の意志を主張する、ということです。自分が思索するものの中に自らを無くすこと、そして、自らの意志で自分の中にあるものを主張すること、これらが魂の生活におけるふたつの極です。これらは大いなる対極です。もし、皆さんが真の認識を達成し、皆さん自身を叡智で満たしたいとすれば、この自己意志は致命的なものとなります。日常生活においては、自己意志は偏見として知られています−そして、偏見はより高次の洞察を絶えず破壊します。
 実際、自己犠牲への能力として私がここで記述しているところのものを思考の中で強化する必要があるのですが、それは、自己犠牲の強化された感覚によってのみ、人はより高次の世界に向けて歩を進めることができるからです。より高次の世界においては、自分を捨てる能力−少なくともその魂的な雰囲気を経験できなければなりません。もし、私たちが科学的な知識や日常的な思考だけでやっていくならば、より高次の認識を達成することは決してできない、ということを強調しておきたいと思います。通常の科学や日常的な思考が働くのは、通常の人間的な意志、すなわち、私たちが受け継ぎ、あるいは涵養してきた経験、感情、そして、考えにおいて自己意志が創り出してきたあらゆるものを通してである、ということを私たちは明確にしておかなければなりません。私たちはここで間違った方向に導かれる可能性があるのですが、実際、この領域では、錯覚することが非常に多いのです。人々がやって来て、例えば、次のように言うかも知れません。精神科学が提示する知識のあれこれの側面を受け入れるべきであると言われても、私は、私が既に考えたことと一致しないものは何ひとつ受け入れるつもりはない、証明されないものを受け入れるつもりはないのだ、と。確かに、証拠なしに何かを受け入れるべきではありません。しかし、私たちが私たちに提示されたものの中から私たちが既に知っているものだけを受け取るとしたら、私たちは一歩も前に進むことができないでしょう!超感覚的な能力を持ちたいと願う人であれば誰であれ、自分は自分が既に証明したものだけを受け入れることにしよう、などとは決して言わないでしょう。超感覚的な能力を持ちたいと願う人はあらゆる自己の追求から自由でなければならず、宇宙から自分たちのところへやって来るものはすべて、ただ「恩恵」という言葉で記述されることができるだけだ、ということをあらかじめ知っていなければなりません。そのような人々は、照らし出す恩恵からあらゆるものがやって来ることを見通しています。では、人はどのようにして超感覚的な認識を達成するのでしょうか?それは私たちが既に知っているあらゆるものを脇にやることによってのみ可能となります。私たちは、通常、私には私自身の判断がある、と考えています。けれども、通常の判断は皆さんの先達が既に考えたこと、皆さんの願望を刺激するもの、あるいはその他のものを単に新しくすることからやって来るに過ぎません。決して自分自身で判断するかどうかが問題なのではありません。自分自身の判断を行使していると最も主張する人たちが、いかに自分自身の偏見に隷属的に結びつけられているかに最も気づいていない人たちなのです。もし、私たちがより高次の認識を達成したいのであれば、これらのことすべてから脱却していなければなりません。魂は空虚でなければならず、空間もなく、時間もなく、対象もなく、事象もない、隠された、秘密の世界から受け取ることができるものを静かに待つことができなければなりません。私たちは、顕現あるいは悟り−つまり、照らし出すものとして私たちに提供されるあらゆるもの−に出会うための雰囲気が私たちの中に醸成されることを待つことなしでも、より高次の認識を獲得できる、と決して信じるべきではありません。私たちに近づいてくるあらゆるもの、他でもない恩恵として、私たちのところに「来るべきもの」として、私たちに何かを与えるところのあらゆるものを私たちが待っていられるのは、ただこのような雰囲気の中においてのみです。
 そのような認識はどのようにして自らを現すのでしょうか?私たちのところへとやって来るはずのものは、私たちが十分に準備できたとき、どのようにして現れるのでしょうか?それは、精神的な世界から私たちに出会うためにやって来る贈り物によって、祝福される、という感情として自らを現すのです。もし、私たちの人生において、そのようにして私たちの前に立つところのもの、恵みに満ち、私たちをその認識で満たしながら私たちの前に立つもの―それが何らかの存在であれ、何か別のものであれ―を記述したいのであれば、それを表現する仕方はただ次のようなものだけです。つまり、私たちは、恵みを与えるものとして、贈り物をするものとして、私たちに何かを与えるものとして、私たちのところへとやって来るものを経験する、と。ある存在の主な特徴が、付与し、与え、提供する―恵みを注ぎ出し、降り注ぐ―能力で構成されているとき、そのような存在の本性を把握するには、トローネのケルビームに対する犠牲のイメージを自分のものとする必要があるのです!ある存在が、トローネによるケルビームへの供儀の意味を理解している人のところにやって来る、と想像してください。それは、トローネの犠牲を理解する能力を、与えるという能力、自らの贈り物を自らの周りに恵みとして注ぎ出すという能力に変化させることができる存在です。私たちが薔薇を見て喜びに満たされ、そうすることで、私たちが「美しい」ものとして眺める何かによって祝福される、という感情を経験していると想像してください。そして、また別の存在について想像していただきたいのですが、それは、ケルビームに対するトローネの犠牲の意義を理解し、それが有しているものを周囲のものに捧げる存在であり、与える精神の中で、与えられるものすべてを世界の中へと注ぎ出す存在です。もし、私たちが、そのような存在について想像するならば、それは、「神秘学概論」の中でも記述したように、土星存在期の間に知られるようになったあの存在たちに、太陽存在期の間に、つけ加えられたあの叡智の霊たちなのです。
 さて、もし、太陽存在期に現れ、土星存在期を通して既に存在していた霊たちにつけ加えられたこれらの叡智霊たちの特徴とはどのようなものか、と問われるならば、私は次のように答えなければならないでしょう。これらの霊たちは、そのはっきりとした特徴として、与えるという、授けるという、恩恵を行使するという、徳を有している、と。もし、私がこれらの存在たちについての定義を見いだそうとするならば、彼らは叡智の霊、大いなる譲与者、宇宙における偉大な与える者たちである!と言わなければならないでしょう。ちょうどトローネを偉大な犠牲者と呼んだように、叡智霊については、彼らは偉大な与える者たちであり、宇宙がそれから織りなされ、生かされている正にその贈り物を授ける者たちである、と言わなければならないでしょう。何故なら、彼らは、彼ら自身を宇宙の中に注ぎだし、最初に秩序を創り出したからです。
 「太陽」上における叡智霊の影響とはそのようなものです。つまり、彼らは彼ら自身の存在をその周囲に向けて与えるのです。けれども、もし、私たちが外的な観察に顕れるものを、より高次の感覚知覚によって見たいのであれば、「太陽」上では何が起こるか?と問うかも知れません。私たちが「太陽」を見るとき、私たちが観察するのは「神秘学概論」の中で記述されたところのものです。熱に加えて、「太陽」は空気と光からも構成されています。けれども、単に、「太陽」は熱だけではなく、空気と光からも構成されている、と言うならば、例えば景色について、遠くに灰色の雲が見える、と言うようなものです。もし画家であったならば、この印象を得たとき、灰色の雲を描くかも知れません。しかし、もっと近づいてみるならば、灰色の雲というよりも、むしろ虫の大群のようなものを見いだすかも知れません。実際、灰色の雲のように見えたものは、無数の生きた存在たちだったのです。私たちが遠く離れたところから古「太陽」存在について考えるとき、私たちはそれと同じような状況にあります。遠くから見ると、古「太陽」は空気と光からなる天体のように見えます。けれども、もっと近くからそれを見るならば、私たちはもはや空気と光からなる天体を見るのではありません。そうではなく、叡智の霊による授与という大いなる徳が現れてくるのです。空気を単にその外的で物理的な性質にしたがって記述する人は決して空気の真の本質を見いだしません。これらの性質は単なる幻想(マーヤ)であり、外的な顕現に過ぎません。宇宙においては、空気があるところには必ず、贈り物を授与するという叡智の霊の行為がその背後にあります。織りなし、働き続ける空気は、大宇宙の霊による授与という徳を顕しているのです。空気の真の本質を見る人だけが、私はここに空気の要素を知覚する、しかし、実際には、叡智の霊たちが贈り物を周りに与えている、何かが叡智の霊からその周囲へと流れ出しているのだ、と言います。
 こうして、私たちは、今や、古「太陽」は空気からなっている、と言うときには、本当は何について語っていたのかを知ります。私たちは、今や、外的には空気として現れるものは、実際には、叡智の霊たちが彼ら自身の存在をその周囲へと流れ出させている活動である、ということを知るのです。ところが、この時点で、超感覚的な視覚の前に、古「太陽」上での顕著なできごとが現れて来ます。このことを理解するためには、与えるという徳についてのもっと正確な考えを魂の生活の中から創造することができなければならない、ということをはっきりさせておく必要があります。私たちがこれまで記述してきたような、供儀の雰囲気の中での知覚や考えを私たちに浸透させることができるときに持つことができるような感情を、もう一度創り出してみましょう。そのようにして浸透させられた考えは、私たちにいつも特別な感情を起こさせます。それは科学的な考えのようなものではありません。それに非常によく似た経験は、芸術の領域において見いだされるかも知れません。その領域においては、ひとつの独立した実体を世界に提示するために、色や形態が世界の中へと流れ出すその流れ出し方をマスターした考えが必要になります。
 そのような贈り物を与える能力を持った存在を特徴づけるとすれば、この贈り物に結びつけられるのは生産性、創造性である、と言うことができるかも知れません。と申しますのも、与えるという行為そのものが創造的な活動だからです。そのように考え、その考えが世界に治癒をもたらすと感じ、そして、それを芸術作品の形で提示する人であれば、それが誰であれ、与えるという徳のもたらす果実を正しく理解しています。芸術家の心の中にある創造的な考えについて、そして、その考えがいかに物質の中に顕現するかについて、考えてみてください。つまり、この考えとは、正に空気の精神的な存在なのです。空気があるところには創造的な活動がある、ということです。そして、この生きた創造行為が「太陽」上にあったことにより、空気と創造的な活動とは関連している、ということを事実として見て取ることができるのです。
 時間の霊が古「土星」上で誕生したことを思い出してみるならば、「太陽」上にも時間が存在していた―と申しますのも、時間は「土星」から「太陽」へとやって来ていたからです―ということも分かります。そこにも時間は存在していたのです。原型的な与えるという行為が存在していたことで、古「土星」上では生じ得なかったひとつの可能性が古「太陽」上には存在していました。もし、時間が存在していなかったとしたら、与えるということはどうなっていただろうか、と考えてみてください。つまり、与えるということは、与えることと受け取ることの両方から成り立っていますから、授与ということはあり得なかったことでしょう。受け取るということなしに、与えるということは考えられません。ですから、与えるということは与えることと受け取ることのふたつの行為から成り立っているのです。そうでなければ、与えることには何の目的もなくなってしまいます。「太陽」上では、与えるということは、受け取るということに対して、非常に特別な関係にありました。「太陽」上には既に時間が存在していますから、古「太陽」の周囲へと送り出される贈り物は時間の中に保存されるのです。叡智の霊たちがその贈り物を注ぎ出すとき、それらは時間の中に存在する状態に留まります。そのとき、それを受け取ることができる何かがやって来なければなりません。叡智の霊たちによる活動との関係で、受容ということが時間の流れにおける後の地点において起こります。叡智の霊たちが与えるのは以前の瞬間においてであり、その与えるということに受け取るという形で必然的に結びついていることがらが生じるのは後の時点においてなのです。
 このことについての正確な像を得るためには、もう一度、私たち自身の魂の経験を考察しなければなりません。皆さんが何かを理解しようとして、あるいは、何らかの考えを形成しようとして大変な努力をすると想像してみてください。皆さんは、今や、あれこれの考えを創造しました。次の日、皆さんは、前の日に皆さんの思考の中で創造したあらゆるものを再び心の中にもたらすために、皆さんの心の中を空にします。皆さんはこのようにして、昨日形成したものを今日受け取るのです。古「太陽」上でも状況は同じです。つまり、以前の時点において与えられたものは保存されたままとなり、そして、後の瞬間になって受け取られるのです。しかし、この受け取るということにはどのような意義があるのでしょうか?
 原型的な与えるということと同様、受け取るということもまた古「太陽」上における行いあるいはできごとだったのです。受け取るということが与えることと異なっているのは時間的な意味においてだけです。受け取るということが起こるのは後になってからです。与えるということは叡智の霊から生じますが、では、誰が受け取るのでしょうか?誰かが受け取るということが生じるためには、まず受け取る者が存在していなければなりません。「土星」上でのトローネによるケルビームへの犠牲が時間の霊の誕生へと導いたのと同様に、「太陽」上における叡智の霊による宇宙的な授与が始まったことで、私たちが大天使あるいはアークアンゲロイと呼ぶあの霊たちが生じたのです。大天使とは古「太陽」上で受け取る者たちのことです。けれども、彼らは非常に特別な仕方で受け取ります。と申しますのも、大天使たちは、叡智の霊から受け取るものを自分たちのために保持するのではなく、ちょうど鏡が、受け取った像を反射するように、それを反射するのです。こうして、「太陽」上の大天使たちは、以前の時点において与えられたものを受け取るという使命を持っているのですが、そのため、それは保持され、大天使によって後の時間の中へと再び反射されるのです。ですから、「太陽」上には、与えるという以前の行為と、受け取るという以後の行為が存在していますが、ここで言うところの受け取るとは、以前の時点において与えられたものを投げ返す、反射するということです。
 地球を現在あるがままにではなく、以前の時代に起こったことが再び現在へと流れ込んで来ていると想像してみてください。私たちは実際そのようなことが起こっていることを知っています。私たちが生きているのは第5後アトランティス時代ですが、第3後アトランティス時代である古エジプト−カルディア時代に起こったできごとは今の時代にまで流れ込んで来ているのです。第3の時代に生じたことは再び出現し、反射されるのです。これは古「太陽」発達期に生じた、与えることと受け取ることの再現です。このように、私たちは叡智の霊を古「太陽」期における与える者、そして、大天使を受け取る者と見なすことができます。このことから特筆すべきことがらが生じてくるのですが、それを正確に思い描くには、与えられるべき何かがその中心から放射してくるような内的に閉じられた天体を想像するしかありません。中心から周辺へと何かが放射され、そして、そこから再び反射されて中心点へと戻って来るのです。大天使たちは、自分たちが受け取ったものを、その天体の外表面の内から再び反射しています。外側から何かかが来ると想像する必要はありません。私たちは中心から外に向かって動く何かを想像しなければならないのですが、それは叡智の霊からやってくるものです。それはあらゆる方向へと放射され、それを反射し、返す大天使たちによって受け取られます。空間中へと反射し、返されるものとは何でしょうか?再び反射されるところの叡智の霊による贈り物とは何なのでしょう?再びその源泉へと向けられる放射する叡智とは何なのでしょうか?それは「光」なのです。大天使たちは光の創造者でもあるのです。光とは外的な幻想の中に現れるようなものでは全くありません。光が生じるところではどこでも、叡智の霊による贈り物が私たちに向けて反射されているのです。光があるあらゆる場所にそれが居ると考えなければならないような存在とは、大天使たちのことなのです。ですから、私たちは、溢れる光線の内部には大天使たちが隠れている、と言わなければなりません。私たちの元に来る溢れる光線の背後には大天使たちが隠れているのです。光を流出する大天使たちの能力は、叡智の霊たちが彼らに向けて放射するところの与えるという徳から生じます。
 こうして、私たちは古「太陽」の像に至ります。想像してみてください。中心では、叡智の霊たちが、古「土星」から受け継がれてきた遺産−トローネによるケルビームへの犠牲行為−についての思索の中に沈んでいます。この犠牲の行いについて思索することによって、叡智の霊たちは彼ら自身の内実−与えるという徳の形を取った流れる叡智−を放射するように促されます。この徳は、時間に浸透されているために、送り出された後、再び反射されるのですが、そのため、私たちの前にあるのは、その源泉、中心へと反射し、返される徳によって内的に照らし出された天体です。と申しますのも、私たちが想像しなければならないのは、古「太陽」は外に向かってではなく、内に向かって輝いている、ということだからです。そして、このことによって何か新しいことが生じるのですが、私たちはそれを次のように記述することができます。叡智の霊が「太陽」の中心で、犠牲を捧げるトローネについて思索し、彼ら自身の存在をそのはるかな周囲へと放射すると想像してください。そして、彼らが放射したものは、その天体の表面から、光の形で戻ってきて、再び彼らによって受け取られます。あらゆるものがますます照らし出されるようになるのですが、彼らに反射し、返されるものから彼らが受け取るものとは何でしょうか?大宇宙への贈り物として捧げられたのは彼ら自身の存在、彼らの最奥の存在です。今やそれが反射されて戻ってくるのです。彼ら自身の存在が外から彼らのところへと戻ってきます。彼らは大宇宙全体にばらまかれた彼ら自身の内的存在が光として、つまり、彼ら自身の存在の反映として、反射され、戻ってくるのを見るのです。
 今や、内と外とがふたつの極として私たちの前に立ち現れます。前と後とが自ら変容し、内と外とになります。空間が生まれるのです!叡智の霊によって与えられた授与するという徳の贈り物から、古「太陽」上で空間が生じます。それ以前には、空間とは、単に寓意的な意味しか持つことができないものでした。けれども、古「太陽」上には今や実際の空間があるとはいえ、それは2次元的なものに過ぎず、上下も、左右もなく、ただ内と外があるだけです。実際には、これらふたつの極は、古「土星」期の終わりには既に現れていたのですが、古「太陽」上での空間の創造に際して、その過程が繰り返されるのです。
 そして、もし、私たちがこれらのできごとのすべてを想像し直そうとするならば−ちょうど、以前、犠牲を捧げるトローネが時間霊を生じさせたことを私たちの魂の前にもたらしたように−光からなる天体を思い描いてはなりません。と申しますのも、光はまだ外に向かって放射するのではなく、単に内に向かって放たれる反射として存在していたからです。私たちはむしろ内的な空間としての天体を想像しなければなりません。その中心では、「土星」の像の繰り返し、つまり、ケルビームの前に跪く霊として存在するトローネ―ケルビームは自分自身の存在を捧げるあの翼を持つ存在たちです―そして、それらに加えて、犠牲の思索の中に浸る叡智の霊が生じます。今、想像することができるのは、犠牲(トローネの犠牲の火)の中に横たわるきらめきが叡智の霊の犠牲へと自ら変容する、ということですが、その犠牲の物質的な表現は、犠牲行為の間、捧げる煙として生じる空気です。ですから、次のように想像するならば、私たちは完全な像を得ることができます。

・ ケルビームの前に跪き、犠牲を捧げるトローネ、
・ 「太陽」の中心では、トローネの犠牲の印象を前にして祈りを捧げる叡智霊の合唱、
・ 彼らの献身は犠牲の煙のメージとなり、あらゆる方向に広がり、外へと流れだし、周辺で雲へと濃縮する、
・ 大天使が煙の雲から生じる、
・ 周辺からは、犠牲の煙という贈り物が光の形を取って反射し、返される、
・ 「太陽」の内部を照らし出す光、
・ 叡智霊の贈り物が返戻(へんれい)され、それによって、「太陽」の領域が創造される。

この領域は燃える熱と犠牲の煙という外に向かって注ぎ出される贈り物から成立っています。外縁には光の創造者である大天使がいて、「太陽」上で以前に生じていたものを反射しています。時間がかかりましたが、最終的には、犠牲の煙が光として返戻されることになりました。大天使は何を保持していたのでしょうか?彼らは以前に生じていたものを保持していたのですが、それは叡智霊の贈り物です。彼らはそれを受け取り、そして、その後、反射し、戻したのですが、とはいえ、以前には時間として存在していたところのものを、彼らは空間として返したのです。時間を空間として反射し、戻すことによって、大天使たちは彼ら自身がアルカイから受け取っていたものを返したのです。こうして、彼らは原初の天使たちとなります。と申しますのも、彼らは以前から存在していたものを後の時代にもたらしたからです。大天使とは原初(アルカイ)の御使いたちなのです!
 真の秘儀の知識からこのような「言葉」が再び現れてくるということ、そして、この「言葉」が太古の伝統の中で生じ、パウロの弟子であるディオニシウス・アレオパギータの学院を通して私たちのところにまで伝えられた、ということを思い出してみるのはすばらしいことです。この言葉はあまりにも深く刻みつけられたために、私たちがそれを再び、書かれたものとは別に、見いだすとき、最初に生じたもの―最初の意味―が再び生じてくる、というのはすばらしいことです。それは私たちを大いなる尊敬の念で満たします。私たちは秘儀の叡智に参入するための古い聖なる秘密の学院に結びつけられているように感じます。それはこの太古の伝統が私たちの中に流れ込んでいるかのようなのですが、それは、たとえ、私たちが私たち自身の責任で、その古い伝統とは別に、この知識を獲得しているとはいえ、私たちがそれを理解することによって把握しているからです。私たちに伝えられてきた古い表現形式の雰囲気について何かを経験することができる人たちは、たとえそれらの伝統に気づいていないとしても、人間精神の内にある時間霊の影響の下に置かれている、と感じます。人類の進化全体に結びつけられているというすばらしい感情、これらのことがらにおける確かさの感情がここから生じるのです。
 大天使たちは原型的な原初の思い出を保持しています。あれこれの惑星上に存在していたものであれば何であれ、後の時代に繰り返されるのですが、後で現れるときには、いつも何か別のものがつけ加えられます。ですから、ある意味で、私たちは、私たち自身の「地球」上に見いだすものの中においても、「太陽」の存在に出会うことになるのです。
 このイマジネーションの全体、私たちが発達させることができるこの感情全体が私たちに与えるのは、犠牲を捧げるトローネの像、その供儀を受け取るケルビームの像、その供儀から放射するきらめきの像、空気のように拡散する供儀の煙の像、そして、原初に生じたものを後の時代のために保存する大天使から反射する光の像です。この感情が私たちの中に目覚めさせるのは、これらの創造に関連したあらゆるものについての理解なのです。
 この環境、私が魂の状況としてここで描写した環境は、私たちが以前、物理的な表現を通して達成したところのものを、より精神的な観点から提示します。そして、私たちは今や、キリスト存在として「地球」上に現れた存在が生まれるのはこの環境からである、ということを理解します。キリスト存在が「地球」に何をもたらしたのかを私たちが理解することができるのは、宇宙の光として「太陽」体内部の実質に向けて反射される―そして、それはこの光によって浸透され、照らし出されます―そのような、与えるという慈悲を生じさせる徳についての概念を自分のものにするときだけなのです。もし、私たちが今述べたようなこのイメージを掲げ、それをイマジネーションへと変容させ、そして、この存在が地球へともたらし、そこで体現したのはこれである、と考えるならば、キリスト衝動という精神的な存在をより深く経験することができるでしょう。人間の魂の中に住むことができるぼんやりとした暗示が、この表現によって今記述されたことは「地球」上に再び住むことができるのだ、ということを感じ取るとき、私たちはその暗示を理解することができるようになるでしょう。
 私たちが「太陽」について今述べたことがらが、ある「存在」の魂の中に集積され、完全に濃縮され、そして、後になって再び前面に持ち出される、と想像してみてください。この「存在」は地上に現れ、原型的な行為と犠牲の煙が創り出したもの―つまり、光を生じさせる時間と与える徳―から、賦活する慈悲の精髄が受け継がれ、魂の熱と輝く光が宇宙から反射されるような仕方で働きを行いました。このすべてがたったひとつの「魂」の中に濃縮され、その「魂」がそれを「地球」存在に受け渡すと想像してください、そして、それを反射し、返すとともに、後に残る「地球」存在のためにそれを保持する意図を持った者たちがその「魂」の周りに集まる、と。中心には、犠牲から、犠牲を通して、与える「者」が、そして、この「存在」の周りには、それを受け取る意志を持った者たちがいます。ここで私たちが結びつけたのは、一方では、地上的な存在へと置き換えられた、犠牲であるところのものと、その犠牲に属するものであり、他方では、この犠牲を破壊する可能性です。と申しますのも、慈悲を生じさせるために人間に与えられる可能性があるものはすべて、拒否されるか、あるいは、受け取られるかのどちらかだからです。このすべてが直感的知覚(インテュイション)の中に体現される、と想像してみてください。そのとき、そこにあるのは、レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」の前に立つときに経験するものです。つまり、そこには、以前の時代に生じたものを後の時代へと伝えるために選ばれた「者」たちから反射し、返される全「太陽」であり、それは、犠牲を捧げる「存在」たち、与える徳の「存在」たち、魂を暖める喜びと光に満ちた荘厳さの「存在」たち―それは魂によって把握されます―とともにあります。このすべては、特に「地球」のために、同時に、それが裏切り者によって拒絶される可能性とともに、設えられました。
 「太陽存在」が「地球」上に再び現れたものとしての「地球の存在」は、このようにして経験することができます。外的、知性的な仕方ではなく、真に芸術的な方法でこれが感じられるならば、「地球」存在の精髄を反映するあの偉大な芸術作品の中に、真の推進力を経験することができるでしょう。そして、次にこの絵を見るときには、「キリスト」がいかに「太陽」の環境から育ってきたかということを知るとともに、私たちがしばしば語ってきたことをよりよく理解することにもなるでしょう。つまり、もし、ある精神が「火星」から「地球」にやってきて、彼が見るものすべてを理解できなかったとしても、その精神がレオナルドの「最後の晩餐」を自分に作用させるようにするならば、彼は「地球」の使命を理解できるだろう、ということを。火星の住人は、「太陽」存在が「地球」存在の内部に隠されているに違いない、ということを理解することができるでしょう。そして、私たちがこのことの重要性について語ることができるあらゆることが、彼には明らかとなるでしょう。その火星の住人は「地球」が意味あるものであることを理解し、「地球」にとって何が重要なのかを知ることでしょう。彼は自分に次のように言うかも知れません。「これは地上のどこかで起こり得ることであり、「地球」存在の片隅でのみ意味を持つことかも知れない。しかし、もし、この行い、中央の人物のそれを取り巻く人物たちとの関連における色彩から私に向かって流れてくる行いを本当に表現することができるなら、「叡智の霊」たちが「太陽」上で経験したところのものが、ここでは「私の記念にこれを行いなさい」という言葉の中にこだましているのを感じることができるだろう!」と。ここには以後における以前の保存があります。これらの言葉を理解することができるのは、私たちがちょうど学んできたように、全宇宙の文脈からそれらを把握するときだけです。私がここで指摘したかったのは、第一級の芸術行為がいかに宇宙の発達全体に関連しているか、ということでした。
 次回の講義では、「月」の精神的な「存在」の観点へと進むために、「太陽」の精神的な「存在」の観点から「キリスト存在」を理解する、ということが私たちの仕事になるでしょう。


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