ルドルフ・シュタイナー

真相から見た宇宙の進化

Die Evolution vom Gesichtspunkte des Wahrhaftigen

 (GA132)

第3講 太陽期における地球の内的側面と月期への移行

ベルリン 1911年11月14日

佐々木義之 訳 


 私がこれまで2回の講義の中で指摘しようとしたのは、私たちの宇宙におけるあらゆる物質的な現象の背後には何か精神的なものが横たわっている、ということでした。熱や流れる空気の現象の背後に見いだされる精神的な現実を特徴づけようとしたのです。私は、そのような特徴を皆さんに伝えるために、私たちの進化発展における遙かなる過去にまで遡らなければなりませんでした。私たちはまた、物質的な宇宙の根幹をなす精神的な文脈を記述するため、私たち自身の魂の生活をのぞき見ました。いずれにしても、何かを特徴づけようとするときには、それに用いるアイデアはどこか別の場所から取ってこなければなりません。言葉だけでは不十分です。明確なアイデアそのものが必要なのです。
 私たちが言及しなければならない精神的な文脈は、現時点で人類が経験するものから、つまり、今日の人間が知ることができるものから遙かに隔たったところに横たわっている、ということを私たちは見てきました。ですから、この文脈を理解する ためには、私たちは、滅多に見いだされることのない状況、一般に、私たち自身の魂や精神の生活においては理解されることのない文脈を呼び出さなければなりません。私たちは、外的、物理的な火や熱の顕現からは遠く離れた、熱や火の状態の最も深い性質を探求しなければならない、ということを見てきました。確かに、私たちが犠牲―それも、特定の存在による犠牲、すなわち、「地球」の進化における古「土星」状態の間に私たちが出会った存在であり、そして、当時、その犠牲をケルビームに捧げた存在であるところのトローネによる犠牲−を宇宙における火と熱のあらゆる状態の本質と同一視するととき、それは今日の人間にはおとぎ話のように聞こえるに違いありません。けれども、本当の意味で語るならば、それが宇宙進化におけるその時点で生じたとき、熱あるいは火の状態で外的、幻視的に私たちの前に現れるあらゆるものは、犠牲から構成されている、と言わなければならないのです。
 同様に、私たちが流れる空気あるいはガスと呼ぶところのあらゆるものの背後には、何か非常に遙かなるもの、つまり、私たちが与える徳、精神的な存在たちが彼ら自身の存在を献身的に注ぎ出すこと、と呼んだものが横たわっている、ということを私たちは前回、指摘しました。あらゆる風のひと吹き、あらゆる空気の流れの中に存在しているのはこれなのです。外的、物理的なものとして知覚されるものは、実際には、幻想、マーヤに過ぎません。私たちは、幻想から精神的な現実へと進んだときにだけ、正しい考えを持つことができるのです。火や熱や空気は、人が見る鏡に映った人間のイメージの中に人間が存在していないのと同様、現実的なものとしては存在していません。つまり、鏡に映った像が、人間との関係で言えば、本質的には幻影であるのと同様、火や熱や空気は幻影であり、ちょうど現実の人間が鏡の中のイメージと関係しているように、その背後にある真実が現実なのです。真実という現実の中に私たちが探し求めるのは火や空気ではなく、犠牲であり与える徳なのです。
 私たちは、与える徳が犠牲に付け加えられるのを見たとき、古い「土星」の生活から「太陽」の生活へと上昇しました。私たちの地球による第二の体現の中に私たちが見いだすのは、私たちの発達における本当の状況へと私たちを一歩近づけるような何かです。そして、ここで私たちは、もう一度、幻想の世界に対抗する真の現実の領域に属する概念を導入しなければなりません。それは、私たちが私たちの進化発達における実際の状況を取り上げる前に、ある特定の概念を獲得しなければならない、ということです。
 次のようにして、この概念に近づいてみましょう。人間が外的な生活の中で何かを行い、あるいは何かを達成するとき、一般にその結果は彼または彼女の意志衝動からもたらされます。人間が何をするにしても、それが単なる手の動きであれ、偉大な行為であれ、その活動の背後には意志衝動があります。ある人物に何かをさせたり、何かを達成させたりするように導くあらゆるものは、そこから放射して来ます。そ して、強力で力に満ちた行い、例えば、治癒や恵みをもたらす行いは、強い意志衝動から来る、そして、あまり重要でない行いはより弱い衝動から来る、と言われるかも知れません。一般に、私たちは、行いの程度は意志衝動の強さにかかっている、と考えがちです。けれども、もし、私たちが私たちの意志を強化すれば、私たちは世界の中で何か重要なことを達成するだろう、と言うならば、それはある程度正しいに過ぎません。ある地点を越えれば、もはやそうではないのです。驚いたことに、人間が遂行し得るある一定の行い、特に、精神的な世界に関連した行いは、私たちの意志衝動の強化に依存していないのです。もちろん、私たちが住んでいる物理的な世界においては、行いの程度は確かに意志衝動の強化に依存しています。つまり、より多くのことを達成しようとすれば、より多くの努力が必要となります。けれども、精神的な世界においてはそうではなく、むしろ、その反対なのです。精神的な世界において最も偉大な行いを達成し、最も偉大な結果をもたらすためには、前向きな意志衝動の強化が必要なのではなく、むしろ、ある種の身を引くこと、諦めが必要なのです。私たちは、最も些 細な純粋に精神的なことがらに関しても、この仮定に則って前進することができます。私たちは、私たちの切なる望みを働かせたり、それに没頭したりすることによってではなく、私たちの意志を抑え、望みを抑制し、それらを満足させることを諦めることによって、一定の精神的な成果を達成するのです。
 ある人が、内的、精神的な方法を通して、世界の中で何かを達成しようとしている、と仮定してみましょう。その人は、まず自分の意志や望みを抑制することを学ばなければなりません。そして、物理的な世界の中では、よく食べ、栄養が行き届き、それによってよりエネルギッシュになると、より強くなるのに対して、精神的な世界 の中で何か意義のあることを達成できるのは―これは記述であって、アドバイスではありません―、断食を行い、意志や望みを抑制するための、あるいは諦めるための何かを行うときなのです。最も偉大で精神的な努力に向けた準備には必ず意志、望み、そして意志衝動を捨てることが含まれています。私たちは、意志することが少なければ少ないほど、人生が私たちの上に降りかかるのに任せる、あれこれのことを望むのではなく、むしろカルマが私たちの前にそれを投げかけるままにものごとを受け取る、とますます言うことができるようになります。つまり、私たちは、カルマとその結果を受 け入れることができればできるほど、つまり、私たちが人生において、そうでなければ達成したいと思ったはずのあらゆることを諦め、静かに振る舞えば振る舞うほど、ますます強くなるのです。このことが正しいのは、例えば、思考活動に関してです。
 あこがれに満たされ、とりわけ、良い食べ物や飲み物を好む教師や教育者の例では、その教師が生徒に向けて語る言葉はあまり多くのことを達成できない、それは生徒の一方の耳から入り、片方の耳からすぐに出ていく、ということが明らかになるでしょう。そのような教師は、それは生徒の責任だ、と信じるかも知れませんが、いつもそうであるとは限りません。人生におけるより高次の意味を理解し、慎みをもって生き、生命を維持するのに必要なだけ食べ、とりわけ、運命が与えることがらを意識的に受け入れるような教育者は自分の言葉が大きな力を有していることに徐々に気づくようになるでしょう。そのような教師を一目見るだけでも大きな効果がありま す。実際、その教師が生徒を見る必要さえないでしょう。そのような教師は生徒の近くに居さえすればよく、勇気づけるような考えを持ちさえすればよいのです。その考えが言葉で表現される必要はありません、そんなことをしなくても生徒には伝わります。すべ ては、そうでなかったとしたら強く望まれるようなことがらに関して、人が行使する諦めと断念の程度にかかっているのです。
 諦めの道は精神的な活動における正しい方法であり、より高次の世界の中で精神的な結果へと導きます。この点に関して、私たちは多くの幻想に出会います―そして、たとえ諦めの幻想が外的には真の諦めに似ているように見えたとしても、幻想が正しい結果に導くことはありません。通常の生活において、禁欲主義、すなわち自ら課す苦しみと言われているものを皆さんはご存じですね。多くの場合、そのような自ら課す苦悩は、自己陶酔、あるいは自己満足のため、何かより大きな欲望、あるいはどこか別の源泉から来る欲望を成就するために人が選択するものである可能性があります。そのような場合、自己否定は効果的ではないのですが、それは、精神的なものに根ざした諦めを伴っているときにだけ自己否定に意味があるからです。私たちは創造的な諦め、創造的な断念の概念を理解しなければなりません。諦め、あるいは創造的な断念―それを私たちは魂の中で実際に経験することができます―を日常的な生活からは遙かにかけ離れた考えとして認識することがきわめて重要です。そのとき初めて、私たちは、人類の進歩において、一歩先に進むことができるのです。と申しますのも、「太陽」の発達段階から「月」の発達段階に移行する進化の過程において、そのようなことが生じたからです。そのとき、何か諦めに似たことがらが、より高次の世界の存在たちの領域において生じたのですが、彼らはあの「地球」の発達過程に結びついた存在たちでした。このことを理解するために、私たちは、もう一度、古い 「太陽」における発達について考えてみる必要があるでしょう。けれども、その前に、私たちが既に知っているけれども現在に至るまである意味で謎めいて見えたような何かに注意を向けてみましょう。
 私たちが繰り返し指摘してきたのは、発達の過程で後に取り残された存在にまで遡ることができるような、発達における先行者たちについてでした。私たちは、実際、ルシファー的な存在たちが地上の人間の中に介入しているのを知っています。そして、度々指摘してきましたように、これらのルシファー的な存在たちは、古い「月」の発達期に達成できたはずの発達段階に到達することができなかったために、地球進化期において、私たちのアストラル体に侵入することができるようになったのです。この文脈の中で、私たちはしばしばちょっとした比較を行ってきましたが、それは、ひとつの学級を繰り返すのは生徒だけではなく、偉大な宇宙進化の過程においても、宇宙的な存在たちがひとつの発達段階を全うすることができず、後になって、他の存在たちの発達段階に介入することがある、ということでした。そのようにして、ルシフ ァー的な存在たちは古い「月」の発達期において後に取り残され、「地球」上で人間たちに介入しているのです。
 表面的には、これらの存在たちには何か欠陥があったはずだ、世界進化における弱者に違いない、そうでなければ、どうして達成できたはずのことを達成できなかったのか?と安易に考えがちです。そのような考えが私たちに起こるかも知れません。けれども、別様に考えることもできます。もし、「月」上において、ルシファー的 な存在たちが取り残されなかったとしたら、人間は決して自由に到達することができなかったはずだ、決定を行うための独立した能力を発達させることは決してできなかったであろう、と。一方では、私たちは私たちのアストラル体の中に欲望、衝動、熱情を有していますが、それがいつも私たちを一定の高みから駆り立て、私たちの存在のより低い部分へと引きずり下ろそうとするのは、ルシファー的な存在たちに依るものです。け れども、他方では、私たちが、私たちのアストラル体の中にあるルシファー的な存在たちの力を通して、善からさまよい出て、悪になる能力を持たなかったとしたら、私たちは自由に行動することも、私たちが自由意志、あるいは選択の自由と呼ぶところのものを有することもできなかったでしょう。ですから、私たちは私たちの自由をルシファ ー的な存在たちに負っている、と言わなければなりません。ルシファー的な存在たちは人間を正道からはずれさせるためにだけ存在している、という一面的な観点では不十分なのです。むしろ、私たちは、ルシファー的な存在たちの背後にある残りの部分を何か善きものとして、それなしには私たちは言葉の真の意味において人間としての価値を達成できなかったであろうような何かとして見なければなりません。
 とはいえ、私たちがルシファー的な存在たちの、そしてアーリマン的な存在たちの背後にある残りの部分と呼ぶところのものの根幹には、何かより深いものが横たわっています。私たちは既に古「土星」上でそれに出会いましたが、それに気づくのはきわめて困難であり、そのため、いかなる言語においても、それを特徴づけるための言葉を見いだすのは非常に難しくなっています。とはいえ、もし、私たちが今日記述したような諦め、あるいは断念の概念を考慮することによって、古「太陽」の現実へと歩を進めるならば、私たちはそれを非常に明確に特徴づけることができます。と申しますのも、存在たちが後に取り残されることとその影響の根幹は、より高次の存在たちの側での諦め、あるいは拒絶の中に横たわっているからです。
 そのとき私たちは古「太陽」上で次のようなことがらが生じるのを見ます。私 たちは、トローネ―意志の霊―がケルビームに供儀を捧げた、と言いました。前回、見てきましたように、彼らはこの供儀を「土星」期の間だけではなく、「太陽」期の間に も捧げ続けます。トローネ、つまり、意志の霊は、「太陽」期においてもまた、ケルビー ムに供儀を捧げるのです。熱あるいは火の状態としてこの世界に存在するあらゆるものの実際の本質はこの供儀の中にある、ということもまた私たちは見てきました。さて、 もし、私たちがアーカーシャ年代記を遡って見てみるならば、私たちは、「太陽」期の間に何か別のことが生じた、ということに気づくことができます。トローネたちは犠牲を 捧げ、その犠牲の行いを維持し続けます。私たちは犠牲を捧げるトローネを見ます。私たちはまた、多くのケルビームたち―彼らに向かって犠牲が上昇していきます―が犠牲から彼ら自身の中に流れ込む熱を受け取るのを見ます。けれども、同時に、多くのケルビームたちが別のことを行うのです。つまり、彼らは犠牲を拒絶し、それに与りません。私たちは、このことに気づくことによって、前回の講義の中で私たちの魂の中に入ってくることを許したイメージを完全にすることができます。
 この像の中には犠牲を捧げるトローネ、そして、犠牲を受け取るケルビームが見られますが、そこにはまた、犠牲を受け取るのではなく、犠牲として彼らに向かって突き進んでくるものを反射するケルビームも見られるのです。このことをアーカーシャ年代記の中で辿っていくのは途方もなく興味深いことです。つまり、私たちは、古 「太陽」期の間に、大天使によって「太陽」の最外殻から光の形で反射される供儀の煙が立ち上るのを見るのですが、それは与えるという徳が叡智霊から犠牲の熱の中へと流れ込むことによります。しかし、私たちはまた何か別のものをも見ます。それは、あたかも古い「太陽」の広がりの内部で何か全く別のもの、つまり、大天使によって光として反射されることもなく、ケルビームによって受け取られることもなく、そのために 逆流する供儀の煙が存在しているかのようなのですが、それによって、「太陽」の広がりの中には、上昇する犠牲と下降する犠牲であるところの供儀の煙、すなわち、受け取られる犠牲と拒絶され、戻される犠牲が存在することになります。この実際の精神的な雲のイメージによる「太陽」の広がりの中における自らとの出会いというものは、前回、私たちが外と内と呼んだものの間にも見いだされます。私たちはそれを「太陽」上のふたつの次元の間にある別々の層として見いだします。こうして、私たちは、中央には犠牲を捧げるトローネを、高みには供儀を受け取るケルビームを、そして、その供儀を受け取るのではなく、それを方向転換させて元に戻すあのケルビームたちを見いだします。この方向転換させて戻すことを通して環状の雲が生じ、そして、その周りには反射された光の塊が見られるようになります。
 この像を生き生きとした方法で想像してください。この古「太陽」の広がり、 この古「太陽」の塊は、宇宙的な球のように存在していますが、その向こうには何も想像することができません。そのため、私たちが考えることができるのは大天使までの広がりしか持っていない空間です。その中心では、受け入れられた供儀と拒絶された供儀との間の出会いから、輪が形成されると想像してください。これらの受け入れられた供儀と拒絶された供儀から、古「太陽」の内部で、何か「太陽」実質全体の分化、多様性とでも呼べるようなものが生じます。もし、私たちが、古い「太陽」を外的な像 になぞらえたいのであれば、それは私たちの現在の土星、つまり、環に取り巻かれた天体と比べることができるだけです。集積する犠牲の塊は中心部へと引き寄せられ、外側に取り残されるものは環の形を取るように命じられます。こうして、「太陽」実質 は停止させられた犠牲の潜在力という力を通してふたつの部分に分割されます。
 犠牲を拒むケルビームが生じさせるものとは何でしょうか?ここで私たちはきわめて困難な課題へと近づいてきました。皆さんは、長い瞑想の過程を経た後で初めて、私たちがこれから考察しようとしている概念を把握できるようになるでしょう。 ここで提示されようとしている概念は皆さんが長い間思索した後で初めてその下に横たわる現実を見いだすことになるようなものなのです。私たちが言うところの諦めは、時間の創造、そして、それは古「土星」上で生じたことを私たちは知っていますが、その時間の創造に結びつけられなければなりません。私たちは、時間の霊、アルカイとともに古「土星」上で最初に時間が生じたということ、古「土星」以前の時間について 語ることには意味がないということを見てきました。さて、この過程の中で繰り返しが生じるのですが、とはいえ、その時点から時間は続いている、と言うことはそれでも可能なのです。継続、存続という概念は「時間」という言葉に包含されています。私たちが「時間は継続的である」と言うとき、それは、私たちがアーカーシャ記録の中で「太 陽」や「土星」について語られることを検証するとき、時間は「土星」期の間に創造さ れ、「太陽」上にも存在しているのを見いだす、ということを意味しています。さて、も し、「土星」と「太陽」に関するすべての条件がこれまで二回の講義の中で特徴づけたような仕方で続いていたとしたら、「時間」は進化の過程の中で生じたあらゆるものの構成要素のひとつとなっていたことでしょう。私たちは進化におけるあらゆるできごとから時間の要素を取り除くことができなかったでしょう。私たちが見てきたのは、時間の霊が古「土星」上で創造され、時間があらゆるものの中に埋め込まれた、ということです。ですから、それ以後の進化について私たちが思い描き、想像するあらゆることがらは時間の文脈の中で捉えられなければなりません。もし、生じたことがらが、私たちが提示してきたこと―犠牲を捧げることや与える徳―からのみ構成されているとしたら、このすべては時間を前提とするものでなければなりません。時間に左右されることなしに存在するものは何もなかったでしょう。存在するようになるあらゆるもの、消 え去るあらゆるもの―したがって、時間に関係するあらゆるもの―つまり、すべては時間に左右されることになったはずなのです。
 犠牲を拒絶し、それとともに犠牲の煙の中に存在していたものを拒絶したあれらのケルビームがそれらを拒絶したのは、それによって、彼らがこの犠牲の煙の中に含まれる性質に拘束されることから脱するためでした。さて、犠牲の煙の中に含まれる性質の中には、とりわけ時間と、そして、それとともに、生じたり、消え去ったり する経過があります。ですから、犠牲の拒絶全体の中に横たわっているものとは、時間の条件を超えて成長するケルビームの能力なのです。これらのケルビームは時間を超えて前進します−彼らはもはや時間に左右されません。こうして、古「太陽」進化の諸条件は分割され、ある条件は犠牲や与える徳として「土星」から直接継続する線上で時間に左右されるものに留まり、一方、他の条件は犠牲を拒絶したケルビームの指導の下で自らを時間から引き離しますが、そのことによって、生じたり、消え去った りする過程を被ることのない永遠、永久が存在するようになります。これは特筆すべきことです。つまり、私たちは古「太陽」進化の中で時間と永遠が分離した地点へと至ったのです。古「太陽」進化期の間のケルビームによる断念によって、その進化期の間に生じたある条件の結果として、永遠が生じたのです。
 ちょうど、私たちが私たち自身の魂の中をのぞき見るとき、人間が拒絶と諦めを引き受けるときには、ある種の効果が魂の中に生じるのが見られたように、今や、ある種の神的、精神的な存在たちが犠牲と与える徳の遺産を拒絶したことによって、永遠と不死が古「太陽」上で生じるのが見られます。ちょうど、「土星」上で時間が存 在するようになったのを見たように、今や、私たちは、ある種の状況を通して、「太陽」進化の局面から時間が引き剥がされるのを見るのです。既に申し上げましたように―もちろん、このことには注意していただきたいのですが―、永遠は「土星」期の間に既に準備されており、それが始まったのは、実際には「太陽」期の間ではありません。けれども、そのことを概念の形で表現できるほど明確に見ることができるのは「太陽」期においてのみなのです。私たちの概念と言葉は、何かそのようなことが古「土星」とその進化にとっても存在していた、ということを十分に特徴づけることができるほど正確ではないので、永遠の時間からの分離を「土星」上で知覚するのはほとんど不可能なのです。
 私たちは今や、諦め―古「太陽」期の間における神々による拒絶―と不死の達成の両方の意味を知るようになりました。このことのさらなる結果とは何でしょうか?
 「神秘学概論」によりますと(とはいえ、その中の記述はある意味でマーヤのヴェールがかけられています)、「月」進化期が「太陽」期に続く―「太陽」期の終わ りには、すべての存在条件が一種の黄昏、宇宙的なカオスの中に沈められ、そして、これらが再び「月」として現れます―ということが分かります。私たちは犠牲の出現を再び熱として見ることができるのですが、「太陽」上で熱に留まるものも「月」上では外 的な熱として現れます。以前に与える徳であったものはガスあるいは空気として再び出現します。諦め、犠牲の拒絶もまた継続します。私たちが諦めと呼んだところのものは古「月」上で生じるあらゆるものの中に存在しています。それは本当にそうなのです。つまり、私たちは、私たちが「太陽」上で諦めとして経験することができたところのものを、「太陽」からやって来て、古い「月」上に存在するあらゆるものの中に存 在する力としても、そして、何か外的な世界の中に存在していると考えられるものとは異なるものとしても考えなければなりません。犠牲として存在していたものは、マーヤの中では、熱として現れ、与える徳であったものはガスあるいは空気として現れ、諦めとして存在していたものは液体あるいは水として現れます。水は外的にはマーヤであり、もし、拒絶と諦めの中にその精神的な基礎を有していなかったとしたら存在していなかったでしょう。世界の中で、水があるところには必ず神的な拒絶があるのです!
 ちょうど、熱が幻想であり、その背後には犠牲が存在しているように、ちょう ど、ガスあるいは空気が幻想であり、その背後には与える徳が存在しているように、物質としての水は外的な現実としては単なる物質的な幻想であり、真に存在しているもの、すなわち、ある存在たちが別の存在たちから受け取ることができたはずのものの拒絶の反映なのです。水は諦めがその現象の下に横たわっているときに世界の中を流れることができるだけだ、と言うことができるでしょう。さて、私たちが知っているの は、「太陽」から「月」への移行に際して、空気の状態が水の状態に濃縮した、ということです。水が最初に存在するようになったのは「月」上であり、「太陽」期の間には水はありませんでした。私たちが古「太陽」進化期の間に集積する雲の塊の中に見たものが圧縮されるにしたがって水となり、「月」進化期の間に「月」の海として現れたのです。
 私たちがこのことを考慮するとき、ここで提示される疑問を解くことができま す。水は諦めから生じます。実際には、水は諦めそのものなのです。こうして、私たちは、水とは本当は何なのかという疑問に対して、非常に特別なタイプの精神的概念を獲得します。けれども、私たちは次のように問いかけることもできます。ケルビームがこの諦め
を達成しなかったとしたら生じたであろう状態と、彼らが彼らに提供されたものから自由になったときに生じた状態との間には相違があるのではないのか?と。この違いは何らかの方法で表現されるでしょうか?はい、それは表現されます。それは、あの諦めの結果が「月」の状態の間に生じた、という事実によって現されます。
 もし、この諦めが生じていなかったとしたら、もし、拒絶するケルビームが彼 らにもたらされる犠牲を受け取っていたとしたら、彼らは―図式的に言えば―彼ら自身の実質の中に犠牲の煙を有することになったでしょう。つまり、犠牲の受容は犠牲の煙の中に表現されることになったでしょう。これらのケルビームがあれこれの行為を遂行すると
仮定してみましょう。その時、その行為は、外的に表現すれば、自己変容する空気の雲を通して現れたことでしょう。捧げられる実質を受け取ることによってケルビームが行ったであろうことは、空気の外的な形態の中に表現されることになったでしょう。けれども、彼らは捧げられる実質を拒絶し、そのことによって、死ぬ運命から退き、不死の中に入っていきました。一時的なものから退き、継続するものへと入っていったのです。犠牲の実質はまだそこにあるのですが、そうでなければそれを吸収したであろう力から、いわば解放されるのです。捧げられる実質はもはやケルビームの傾向や衝動に従う必要がありません。何故なら、それはこれらのケルビームによって解放され、差し戻されたからです。
 そのとき、この犠牲の実質に関して何が起こるでしょうか?別の存在たちが独立できるようになるのです。これらの存在たちはケルビームの近くに見いだされますが、もし、ケルビームが犠牲の実質を受け取っていたら、彼らはその指導の下にあったことでしょう。けれども、その実質はもはやケルビームの内部にはなく、独立したものとなっています。そのことによって、諦めとは正反対のことが起こる可能性が生じるのです。つまり、別の存在が、その注ぎ出された犠牲の実質を彼ら自身へと引き寄せ、その内部で活動するようになるのです。これらは後に取り残された存在たちです。ですから、後に取り残されたものたちの存在はケルビームによる拒絶行為の結果なのです。後に取り残された存在たちを生み出したのはケルビーム自身です。彼らはそのようにして「後に取り残される」可能性を生じさせました。ケルビームによる犠牲の拒絶を通して、それを諦めず、自分自身の欲望や望みに身をまかせながら、それらを表現へともたらす他の存在たちが、供儀とその実質を自分のものにする可能性、そして、他の存在たちと並んで独立した存在になる可能性を得たのです。
 こうして、「太陽」進化から「月」への移行に際して、そして、ケルビームが 不死になるとともに、他の存在たちが、彼ら自身の実質の中で、ケルビームの継続する発達から自分自身を分離する可能性、実際、不死なる存在から自分自身を完全に引き離す可能性が生じたのです。後に取り残されることのより深い理由を見いだせば、これらの存在を後に引き留めた責任は―もし、原因の究極的な要因について語りたいのであれば―それらの存在たち自身にはない、ということもまた理解できます。これは私たちが把握しなければならない最も重要な点です。もし、ケルビームが犠牲を受け取っていたら、ルシファー的な存在たちが後に取り残される可能性はなかったのです。何故なら、彼らがこの犠牲実質の中に体現するようになる機会はなかったはずだからです。諦めこそ、存在たちがこのようにして独立するための前提条件だったのです。賢明なる宇宙の導きは神々自身がその反対者たちの存在を呼び出すように命じます。もし、神々が自分自身から自由にならなかったとしたら、存在たちが彼らに反対することは不可能だったでしょう。あるいは、もっと簡単に表現すれば、神々は、もし、彼らが、「土星」から「太陽」への移行の後も、それまでと同様に創造行為を続けていたとしたら、自分自身の主体性から行動する自由な存在たちは決して存在しなかっただろう、ということを見通していた、と言うことができるでしょう。神々は、自由 な存在が創造されるためには、敵対者たちが全宇宙の中で彼らに反抗し、それによって、彼らが、時間に左右されるあらゆるものの中で、抵抗に遭遇する可能性が与えられなければならない、ということに気づいていたのです。彼らは、すべてを支配する者が彼ら自身だけであったとしたら、そのような反対を見いだすことは決してできないだろ う、ということを知っていました。もし、神々がすべての犠牲を受け入れていたとした ら、ものごとは彼らにとって非常に容易なものとなったはずだ―何故なら、そのときには、すべての進化は彼らの思い通りになっていたはずだからですが―ということを彼らは認めざるを得ないだろう、と私たちは想像することができます。けれども、彼らはそ うしないことに決めました。彼らは彼らから自由な存在たち、彼らに反抗することができる存在たちを望んだのです。そのため、神々は、犠牲のすべてを受け取ることはせず、それによって、存在たちが、神々自身の諦めを通して、そして、その他の存在たち自身がその犠牲を受け取るという事実を通して、彼らの反対者になるように定めたのです。
 ですから、お分かりのように、悪の起源はいわゆる悪の存在たちの中にではなく、いわゆる善なる存在たちの中に、つまり、その拒絶によって、世界の中に悪をもたらすことができる存在たちを通して悪が生じる可能性を初めて与えた存在たちの中に探さなければなりません。さて、誰かが次のように反論することは十分考えられます―そして、皆さんには、この考えを皆さんの魂の中にきわめて正確に作用させるようにしていただきたいと思います―、つまり、誰かが「今まで私は神についてもっとましな意見を持っていた、神々は必ずしも悪を創造しなくても人間の自由のための舞台をセットすることができるはずだと考えていた、一体どうしてこれらの神々は悪なしに人間の自由を世界の中にもたらすことができなかったのか?」と反論するかも知れません。皆さんに思い出していただきたいのですが、世界があまりにも複雑すぎると考えたスペインの王様は、もし、神様が世界の創造を自分に任せてくれていたら、もっとずっと簡単にしていたのに、と言いました。人間たちは、その弱さの故に、世界はもっとシンプルにできたはずだ、と考えるでしょう。しかし、賢明な神様たちは世界の創造を人間たちには任せませんでした。
 精神科学の観点から見ると、この状況をもっとずっと正確に特徴づけることができます。何かの台を必要としている人に、誰かが、柱を立ててれば、その上に物を置く支えになるよ、と示唆すると仮定してみましょう。そのように言われた人は、「し かし、別の方法もあるだろう!どうして別のやり方でやらないのだ?」と言うかも知れません。あるいはまた、別の誰かは、建設中に三角定規を使いながら、「どうしてこの三角定規には三つの角しかないのだ?多分、神様は三つの角を持たない三角定規を作れたはずだ!」と言うかも知れません。けれども、神様は悪や苦の可能性なしに自由を創造できたはずだ、と言うのは、三角定規は三つの角を持つべきではない、と言うのと同じくらいナンセンスなのです。ちょうど三つの角が三角形に属しているように、自由は精神的な存在たちの側からなされた諦めによってもたらされた悪の可能性に属しているのです。私がお話ししてきたことはすべて神の諦めに属しています。と申しますのも、神々は、犠牲を受け取ることを諦めることによって不死のレベルに上昇した後、悪を導いて善に戻すために、不死から進化を創造したからです。それは正にこの諦めという手段を用いてなされました。神々は、それだけが自由の可能性を与えることができる悪を回避しませんでした。もし、神々が悪を抑え込んでいたとしたら、世界は貧弱で単調なものになったことでしょう。神々は、自由のために、悪が世界の中に入り込むのを許さなければならず、それによって、悪を善へと導くのに必要な力をも獲得しなければなりませんでした。そして、この能力は拒絶と諦めの結果としてのみやって来ることができるような何かだったのです。
 諦めは、偉大な宇宙の神秘を写し出すために、いつも像やイマジネーションとして存在しています。今日、私たちは、太古の発達段階に言及するとともに、犠牲や与える徳の概念に諦めの概念を付け加えることによって、マーヤや幻想に対峙する真の現実に至るためのさらなる一歩を踏み出しました。宗教はそのような像や概念を私たちに提供します。ですから、聖書的な宗教においてもまた、私たちは犠牲や諦め、あるいは犠牲の拒否といった概念に近づくことができるのです。例えば、アブラハムの物語では、自分の息子を「神」に犠牲として捧げようとするのですが、「神」は 父祖の犠牲を受け取るのを差し控えます。もし、私たちがこの「差し控える」という概念 を私たちの魂の中に取り入れるならば、私たちが既に述べた瞑想のイメージもまた私たちの元にやって来ます。かつて私は、アブラハムの犠牲が受け入れられ、イサクが犠牲になっていたら、という仮定について示唆しました。もし、「神」がこの犠牲を受け 取っていたとしたら、イサクに発する古代ヘブライ民族の全体が地球から取り去られていたことでしょう。「神」は、ヘブライ民族の領域を諦めることによって、つまり、自分 の影響が及ぶ範囲からそれを締め出し、それが自分の外にあるようにすることによって、アブラハムに由来するすべてを贈り物として与えたのです。もし、「神」がアブラハムの犠牲を受け入れていたとしたら、「神」は古代ヘブライ民族が活動していた領域全体を自分自身の中に取り込んでいたことでしょう。と申しますのも、犠牲になったイサ クは「神」と共にいることになったでしょうから。しかし、「神」はそれを放棄し、それ によって、この進化の流れ全体が地球上に発散するに任せたのです。太古の父祖によって提供された犠牲の意味深い像を通して、すべての諦めや犠牲の概念が私たちの中に呼び起こされます。
 私たちはまた、より高次の存在による諦めあるいは犠牲のもうひとつ別の例を地球の歴史の中に見いだすことができます。私たちは、ここでもまた、既に前回触れたことに、つまり、レオナルドダビンチの絵、「最後の晩餐」に言及することになり ます。「地球」と「キリスト」双方の本質的な意味を同時に私たちの目の前にすることになる場面を思い描いてください。その絵の持つ完全な意味の中に貫き至るようにしてみましょう。そして、「もし、私が死の供儀を避けたいと欲したならば、天使の大群を 呼び出すことができないということがあろうか?」(マタイ二六章五三節)という福音書 の中の言葉を思い出してみましょう。諦めと拒絶によって、「キリスト」は発動できたは ずのこの明確で安易な解決法を拒否したのです。キリストイエスが私たちの前にもたらす拒絶の最も偉大な例が生じたのは、彼を裏切るイスカリオテのユダが彼の領域に入って来ることを許したときです。もし、私たちがキリストイエスの中に見ることができ るはずのものを本当に見るべきであるならば、私たちは彼の中に、犠牲を諦めなければならなかったあの存在たち、その本性自体が諦めであるところのあの存在たちのひとつの反映を見なければなりません。「キリスト」は、ちょうど神々自身が、古「太 陽」期の間に、彼ら自身の反対者たちをその拒絶行為を通して呼び出したように、もし、ユダが彼の反対者として行動することを許さなかったとしたら生じたであろうことを拒 否したのです。こうして、私たちは、このできごと―宇宙の力に対する反対者たちの出現―が「地球」上において絵画的に繰り返されるのを見ます。私たちは十二人の真ん中にいる「キリスト」が、裏切り者としてそこに立つユダとともにいるのを見ます。人 類にとって計りがたい価値をもつものが進化の過程に入ってくるために、「キリスト」自身が彼の反対者を彼自身に対立する位置に置かなければならなかったのです。
 この絵が私たちに深い印象を与えるのは、「最後の晩餐」を見つめることが、力強い、宇宙的な瞬間を私たちに思い出させるからです。「私とともにその手を皿に浸した者が私を裏切る」(マタイ二十六章二十三節)という「キリスト」の言葉を私た ちの前に掲げるとき、私たちは神々自身によって神々に反対する位置に置かれた神々に対する反対者たちの地上的な反映を見ます。これはいつも言っていることですが、火星の住人が地球に降りてきたとすれば見ることになるあらゆるものは、たとえ彼らがそれを十分に理解できなかったとしても、多かれ少なかれ、興味深いものであるはずです。けれども、そのような火星人たちがこのレオナルドダビンチの手になる絵を見たならば、宇宙的な観点から見て、地球にとってばかりではなく、火星にも密接に関連した、そして、実際には、太陽系全体に関連した何かを見いだすことになるでしょう。そして、それによって、「地球」の意義が認識されることでしょう。「最後の晩餐」の中 に地上的な図式において示されているのは全宇宙にとって意味があることなのです。つまり、ある種の力が不死の神的な力に対抗する者としてそれに対立する位置に置かれた、ということが示されているのです。そして、死を克服し、地上における不死の勝利を具体的に示した「キリスト」が証しているのは、神々が時間にとらわれた存在たちから自らを区別し、時間に対する勝利を達成したとき、つまり、不死になったときに生じた意義深い宇宙的な瞬間なのです。私たちがレオナルドダビンチによる「最後の晩餐」を見るとき、このすべては私たちの心の中で感じられるかも知れません。
 どうか、素朴で単純な感受性を持って「最後の晩餐」を見る人は、今日私たちがお話ししたようなことは理解しない、などと言わないでください。そのような人がこ れらのことがらを知る必要はないのです。と申しますのも、人間の魂の神秘的な深みとは、人間の魂の中で感じられることがらは知的に知る必要はない、というようなものだからです。花は、それによって自分が育つ法則を知っているでしょうか?いいえ、そんなことに関係なく、それは育つのです。花が自然法則に対していかなる必要性を有しているというのでしょうか?そして、もし、私たちが、神とその反対者が私たちの目の前で繰り広げているものを見るとき、つまり、表現することができる最も高貴なでき ごと、不死と死の差別化が私たちの前へともたらされるとき、私たちの目の前に存在するものの圧倒的な重要性が感じられるとすれば、人間の魂は、理性に対して―つまり、知性に対して―いかなる必要性を有しているというのでしょうか?それを知的に知る必要はありません。人が世界の意味そのものを写し出すこの絵の前に立つとき、むしろ、その経験が、不思議な力によって、その魂の中へと貫き至るのです。その絵を描くために、画家が神秘家である必要もありません。そうでなかったとしても、レオナルドの魂の中には、正にこの最も高く、最も意義深いものを表現へともたらすことができる力が存在していたのです。偉大な芸術作品がそれほどまでに力強い効果を有しているのはそのためです。つまり、それはそれらが宇宙的な秩序の意味に密接に結びついているからなのです。以前の時代には、芸術家たちは、それと知ることもなく、ぼんやりとした意識の中で、宇宙的な秩序の意義に結びつけられていました。けれども、将来においては、もし、精神科学が、新しい知の形として、芸術に対する新しい基礎をもたらさなかったとしたら、芸術は存続していくことができないでしょう。
 無意識の芸術は過去のものとなりました。精神科学によって息を吹き込まれるのを自らに許す芸術はその発達の初期段階に立っています。過去の芸術家は、彼らの芸術の根底に立つものを知っている必要はありませんでした。しかし、未来の芸術家はそれを知っていなければならず、それも、もう一度不死を描き出すことができる力−それは魂の内容全体から何かを提示することができる力です−によって、それを知らなければならないでしょう。精神科学を知的な科学に、図式や範例で表現される知的な科学にしようとする人は誰であれ、それを理解していませんが、私たちがここで展開したあらゆる概念―犠牲、与える徳、そして拒絶のような概念−によって、言葉のひとつひとつについて、その言葉から湧き出てこようとしているもの、その考え方そのものを―その絵の多様性から流れ出て来るものを経験しながら―経験するような人、そのような人は誰であれ、精神科学を理解している人です。
 もし、人が、世界の発達は抽象的な概念の中で成し遂げられる、と信じているならば、図式を提示することもできるでしょう。けれども、もし、犠牲、与える徳、そ して、諦めのような生きた概念を提示しようとするのであれば、図式はもはや十分ではありません。これら三つの言葉は、いくつかの文字の向こうにあるものをあまり考えさえしなければ、図式的に提示されることもできます。けれども、もし、私たちがこれらの概念―犠牲、与える徳、そして、拒絶―についてよく考えてみようとするのであれば、私たちは前回私たちが記述したような絵を、つまり、犠牲を捧げるトローネ、ケルビームに供儀を送る者たち、犠牲の煙をまき散らす者たち、大天使から反射される光を受け取る者たちの絵やその他の絵を自分で描かなければなりません。
 そして、私たちは、次回の講義で「月」存在の考察へと進むとき、いかにその絵がより豊かになるかを見ることになります。私たちは、いかに集まる雲の塊が液体となり、「月」の塊としてさざ波を立てるかということを、そしていかにセラフィー ムの魅了する光をそれに付け加えなければならないかということを見ることになるでしょう。そのとき、私たちは十全なる理解に達しようと努めなければなりません。これについては、次のように言わせていただきたいのですが、未来において、人類は、外的な世界において、外的な世界のために、そうでなければアーカーシャ年代記の中に読むことができるものを表現へともたらすための可能性、芸術的な素材、そして、芸術的な手法を創り出すための方法を見いだすであろう、と。


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