ルドルフ・シュタイナー

真相から見た宇宙の進化

Die Evolution vom Gesichtspunkte des Wahrhaftigen

 (GA132)

第4講 月期における地球の内的側面

ベルリン 1911年11月21日

佐々木義之 訳 


ルドルフ・シュタイナー
真相から見た宇宙の進化
Die Evolution vom Gesichtspunkte des Wahrhaftigen

第4講 月期における地球の内的側面
ベルリン 1911年11月21日

佐々木義之 訳

 私たちは、私たちの世界観における困難な側面について、ある程度ですが、 外的、感覚的な世界の顕現の背後に横たわる精神的な現実を見ることを学ぶところまで追求してきました。とはいえ、私たちは、感覚的な世界の中で私たちが見るものの背後には精神的なものに特 徴的な形態が実際に立っているという本当の事実は外的に見ただけではよく分からないものである、ということを私たちの魂の生活の中で経験します。けれども、私たちは、そのような外観の背後 には、精神的な活動、精神的な性質や特徴が本当に立っているのだ、ということを認識するようになりました。例えば、私たちは、今や、私たちの通常の生活において、暖かさ、熱、あるいは火の性質として現れるものは犠牲の精神的な表現である、ということを知っています。そして、私たちが空気として出会うもの―それが精神的なものであるということは、私たちの概念の中では、ほとんど明らかになりません―の中には、私たちがある特定の宇宙的な存在によって与えられる徳と呼ぶところのものが認められます。水の中に認められるのは、私たちが諦め、拒絶と呼ぶところのものです。
 以前の世界観―これには簡単に触れるだけにします―においては、当然のことながら、外的、物質的なものの内にある精神的なものの存在は、もっとすみやかに直感され、認識されました。このことの証拠は、私たちが日常的に使うスピリット(エキス)という言葉―今日、私たちはそれをスピリチュアルなものに関して特別な仕方で用います―が特別に揮発性の高い物質を表しているということにも見られるでしょう。私は「スピリット」というよりも、むしろ「ス ピリチュアル(精神的なもの)」と言います。けれども、外的な世界においては、人々は「スピリチュアル」という言葉を必ずしも真に精神的な現実あるいは感覚を超えたものには適用しません。 皆さんの何人かは、かつてミュンヘン精神主義者協会に宛てられた手紙が、誰も精神主義者協会とは何かを知らなかったために、「スピリット」つまりアルコール飲料協会本部に届けられたことがあったのをご存じですね。
 本題に戻りますと、今日は、地球惑星の進化が古「太陽」から古「月」にまで進展したときに生じたその発達における重要な移行について見ていくことにしましょう。そうすることで、私たちは別の種類の精神的な発達について考察することになるでしょう。
 私たちは、前回の講義で取り上げた点―拒絶という行為―から始めなければなりません。前回、私たちは、精神的な存在たちがこの拒絶、あるいは「差し控える」という行為の中で、犠牲―私たちはこの犠牲を、意志あるいは意志実質を捧げること、として認識しました― を受け取る機会を諦めるのを見てきました。ある存在たちがその意志実質を捧げたいと望み、一方で、より高次の存在たちが、その差し控えるという行為によって、この意志を受け取るのを拒むところを見るとき、私たちは、この意志実質は―それをこの存在たちはより高次の精神的な存在たちに捧げたいと望みましたが―それを許されず、それを捧げたいと望んだ存在たちとともに留まらざるを得なかったのだ、という概念へと容易に上昇することができるでしょう。ですから、宇宙的な文脈の中には、犠牲を捧げる準備、自分たちの最奥の存在の中に安んじているものを献身的に捧げる準備ができているにもかかわらず、それを許されず、そのために、自分たちの内にそれを留めなければならない存在たちがいるのです。あるいは、別の言い方をすれば、これらの存在たちは、 その犠牲が拒絶されたことで、もし犠牲を捧げることが許されていたとしたら生じたであろう、より高次の存在たちとのある種の結びつきを確立することができませんでした。聖書の中で、カインがアベルに立ち向かう場面は、この「拒絶された犠牲」の意味のいくらかを、強調された仕方ではありますが、擬人化し、歴史的に象徴するものとなっています。カインもまたその犠牲を神に捧げたかったのですが、その犠牲は神の喜ぶところとはならず、神はそれを受け取ろうとはしません。 一方、アベルの犠牲は神によって受け取られました。私たちがここで注意を向けたいのは、その犠牲が拒絶されたことを知ったときのカインの内的な経験です。このできごとに対する最高度の理解 へと私たちが至るためには、通常の生活の中においてのみ意味を持つ考えをここでお話ししている、より高次の領域に持ち込むべきではない、ということをはっきりさせておかなければなりません。犠牲の拒絶は欠陥や悪行によって生じたのだ、と言うならば、それは間違いでしょう。これらの領域においては、私たちが通常の生活において知っているような罪や贖いに言及することはまだできないのです。そうではなく、私たちは犠牲を拒絶したより高次の存在たちの観点からこれらの存在たちを見なければなりません。言い換えれば、より高次の存在たちは、単に犠牲の受け取りを差し控え、それを譲り渡したに過ぎないのです。私たちが先週特徴づけた魂の雰囲気の中には、欠陥 や失敗を示すようなものは何もありません。むしろ、諦めや拒絶の行為はあらゆる偉大で意味深いものを包含しています。とはいえ、私たちは、犠牲を差し出そうとしたあの存在たちの中に―たとえそれが極めてかすかな反対であったとしても―彼らの犠牲を拒否したあの存在たちに対する何か反対のようなものを始める雰囲気が、確かに生じるのを感じ取ることができます。ですから、この反対の雰囲気が、例えば、カインの場合のように、後の時代になって私たちの前に提示されるとき、それは増幅されたやり方で提示されることになります。カインの中に見いだされる雰囲気と同じ 雰囲気を、「太陽」から「月」への移行期に発展したあの存在たちの中に私たちが見いだすことはないでしょう。この存在たちの間に反対の雰囲気が生じるといっても、それは異なる程度においてなのです。ここでもまた、私たちが信頼できる仕方でこの雰囲気を知るようになることができるのは、前回の講義でもそうしたように、私たち自身の魂の中をのぞき込み、私たちが自分に、私たちは、私たちの魂の中の、どこにそのような雰囲気を見いだすことができるのか、そして、どのような魂の状態がそのような雰囲気、つまり、その犠牲の捧げものが拒絶された者たちの中に醸し出されたに違いない雰囲気を私たちに気づかせてくれるのか、と問うときだけです。
 私たちの中のあるこの雰囲気は―そして、ここで私たちは地上的な人間の生にますます近づいてきました―、実際、その不確かさにおいて、そして、同時に、その苦しみあるいは苦痛において、どの魂にもなじみのあるものなのですが、それについては次の木曜日の公開講演「魂生活の隠れた深み」(GA61)の中で十分に取り上げるつもりです。どの魂にもなじみがあるこの雰囲気あるいは態度は、魂生活の隠れた深みを支配し、恐らく、その雰囲気があまり苦し みを生じさせないときには、その表面に向かって押し上げてきます。けれども、私たち人間はしばしばこの雰囲気の周りを巡っているだけです。私たちのより高次の意識の中では、私たちはそれをそれと気づくことなく担っているのです。私たちは、「あこがれを知っている者だけが私の苦しみを知る」というある詩人(ゲーテ「ウィルヘルム・マイスター」)の言葉を思い出すかも知れません。これらの言葉は、漠としているけれどもしつこい魂の苦痛、同時に苦しみの感情を伴う苦痛をよく捉えています。これは魂の雰囲気としてのあこがれを意味しています。それは、単に魂があれこれのことを熱望したり、それらに向かって苦闘したりするときだけではなく、人間の魂の中に−魂の雰囲気として―絶えず生きているようなあこがれです。
 私たちが古「土星」と「太陽」の進化期において精神的に生じたことがらの中に身を置こうとするのであれば、私たちは私たちの眼差しを魂の特別な状態、つまり、人間の魂がより高次の努力に向けて舵を取り、苦闘し始めるときに現れる魂の状態に向けなければなりません。私たちは、第2講の中で、諦めや犠牲の本性を、私たち自身の魂の生活からそれを描くことによって明らかにしようとしました。私たちは、「喜んで与えること」あるいは「自分自身の自我を 進んで諦めること」とでも呼べるようなものへと滴り落ち、そして、それから生じるのが見られるような叡智から人間が何を達成できるかを見てきました。私たちは、以前の状態から発展してきた地球の状況に近づけば近づくほど、今日の人間でもまだ経験できるような魂の状態に似た状態にますます出会うようになります。けれども、私たちは、私たちの魂生活の全体は、私たちの魂が地上的な体の中に挿入されていることで、その表面の下深くに流れる隠れた魂生活の上にある最上層のように横たわっている、ということを明確にしておかなければなりません。隠れた魂の生活がある、ということに気づかない人がいるでしょうか?人生は、そのような魂の生活が存在している、と いうことを十分に教えてくれます。
 この隠れた魂の生活について何らかのことを明らかにするために、一人の子供が―7才か8才、あるいは、別の年代の子供としましょう―あれこれのことを経験する、と仮定してみましょう。例えば、実際にはしていない何らかのことで責められ、ひとつの道理を経験するかも知れません−子供たちはしばしばこのようなことがらに対して特別に敏感です。しかし、それをしたということでその子を責めることによって事を納めるのが、その子を取り巻く人間たちにとっては都合のよいことでした。実際、子供たちはこのような仕方で道理に苦しめられることに対して本当に敏感です。けれども、人生とは、この経験がこの若い生命の中に深く食い込んだ後、年を経るにしたがってさらなる層がその魂の経験に付け加えられ、その子は、少なくとも日常生活の意味では、そのことを忘れてしまう、というようなものです。多分そのようなことは二度と再び生じないでしょう。けれども、その若者が15才か16才のとき、例えば学校で、新たな道理を経験すると仮定してみましょう。すると、今や、そうでなければ波打つ魂の奥深くに眠っていたはずのものが起き出すのです。問題の若者は、彼または彼女が子供のときに経験したことの思い出が作用しているのだということも知らず、実際、全然別の考えや概念を形成するかも知れませんが、もし、以前のできごとが起こっていなかったとしたら―例えば、それがひとりの若い男であったならば―彼はただ家に帰り、いくらか涙を流し、そして、多分いくらか不満を言うかも知れませんが、 それでも、彼はそれから立ち直るでしょう。ところが、以前のできごとが正に生じていたために― ここで私は、何が起きているかについて、その若者が知っている必要はない、ということを特に強 調したいのですが―、ちょうど、静かに見える海面下で波が打ち寄せるように、その以前のできごとがその魂の生活の表面下で働きかけるのです。そして、そうでなければ単なる涙と不平、そして侮辱で終わったはずのものが、今やひとりの学生の自殺というという結果をもたらします!こうして、魂生活の隠された深みは、最も深いレベルから表面へと上昇し、その役割を果たすことにな ります。そして、これらの深みで支配する最も重要な力とは―それは、その本来の姿で上方へと押し進むとき、最も意義深いものになるのですが、それにもかかわらず、私たちはそれについて無意識のままに留まります−あこがれなのです。私たちはこの力が外的な世界の中で有しているいくつ かの名前を知っていますが、それらは漠として比喩的なものです。何故なら、それらの名前は複雑な関連を表現するものであり、意識の中にまでは全く入ってこないからです。
 よく知られた現象を取り上げてみましょう―町に住んでいる人たちはそれにあまり影響されませんが、それでも、他の人たちの中にそれを認めるかも知れません―つまり、私 が言いたいのは「ホームシック」と呼ばれる感情のことです。もし、皆さんがホームシックとは本当は何なのかを探求するとしたら、皆さんには、それが基本的にはそれぞれの人間によって異なるものである、ということが分かるでしょう。ある人にとってはあれこれであり、別の人にとっ ては何か別のものです。ある人は、家で聴いた親しみのある物語にあこがれますが、本当は家を恋しがっているのかも知れません―個々人の中に生きているのは、とりとめのないあこがれであり、 方向性のない望みです。別の人は故郷の山や−あるいは、さざ波を見るときには―よく遊んだ川に あこがれます。これらすべての異なる性質は、魂の中で、しばしば無意識に働いていますが、「ホ ームシック」という言葉で括ることができるかも知れません。そして、それは何千もの異なった仕方で演じられますが、それでも、一種のあこがれとして最もよく記述されるような何かを表現しています。さらに漠としているのが切望ですが、それは多分、人生において最も人を苦しめるものとして生じます。人はその関連に気づきませんが、それでもそれはあこがれなのです。とはいえ、 このあこがれとは何なのでしょうか?私たちは、犠牲を捧げることを望みながらそれを諦めなければならなかった存在たちの雰囲気にそれを関連づけることによって、それが一種の意志であることを示唆しました。そして、私たちがこのあこがれを検証するときにはいつでも、それはある種の意 志である、ということが分かります。けれども、それはどういうタイプの意志なのでしょうか?それは成就され得ない意志あるいは意図なのです。と申しますのも、もし、それが成就されたならば、それはあこがれであることをやめるからです。それは実現され得ない意志なのです−私たちはあ こがれをこのように定義しなければなりません。
 ですから、私たちは、その犠牲が拒絶されたあの存在たちの雰囲気について、次のようにすれば、いくらか特徴づけられるかも知れません。私たちが、私たちの魂の深みにおいて、あこがれとして感じ取ることができるものは、私たちが今お話ししているあの太古の時代から受け継がれてきたものとして、私たちの中に留まっているものです。ちょうど、私たちが別の性質を、別の太古の発達段階からの遺産として受け取るように、私たちが古「月」の進化段階から 受け取るのは、魂の深みに見いだされるあらゆる形態のあこがれ、あらゆる形態の成就され得ない意志、阻止された意志なのです。この発達期の間に捧げられた犠牲が差し戻されることによって、 抑制され、阻止された意志を持つ存在たちが創造されたのです。彼らは、この意志を抑制し、それ を自分自身で保持しなければならなかったために、非常に特別な状況に置かれました。そして、ここでもまた、もし、これらのことがらを感じ取り、経験したいのであれば、人は自分自身の魂の状態の中に身を置かなければなりません−と申しますのも、単なる思考はこれらの状態に貫き至るためにはあまり十分ではないからです。
 意志を捧げることができた存在は、ある意味で、その犠牲が生じた相手の存在とひとつに結ばれることになります。私たちはそれについても―つまり、私たちが犠牲を捧げる存在の中に、いかに私たちが生きて、自分自身を織りなすかということ、すなわち、その存在がいることによって、いかに私たちが充足感と幸福を感じるかということについても―人生の中で感じ 取ることができます。ここで私たちがお話ししているのは宇宙的な存在を含むより高次の存在たちへの犠牲です。彼らに犠牲を捧げる存在たちは全くの喜びの中で上方を見やるのですが、正にそのために、阻止された意志として、あこがれとしてその存在たちによって差し戻されたものは、その犠牲を完遂することがされたとしたらそうでなったであろうものとは、内的な雰囲気において ―内的な魂の内容において―決して同じものではあり得ません。と申しますのも、もし、犠牲を捧 げる存在たちがその犠牲行為を許されていたとしたら、それはその別の存在の一部になっていたはずだからです。ですから、比較という方法で語るとすれば、もし、地球やその他の惑星存在たちが太陽への供儀を許されていたとしたら、それらは太陽とひとつに結ばれていたであろう、と言うことができるでしょう。けれども、もし、それらが太陽への供儀を許されず、それらが捧げたはずのものを保持せざるを得なかったとしたら、それらは離れたままになり、その犠牲を自分たちの中 へと引き戻すことになったはずなのです。
 もし、私たちが今お話ししたことを一言で把握するとすれば、私たちは、宇宙という総体の中に何か新しいものが入って来ている、ということに気づきます。それは何か別の方法で表現することはできないものだ、ということをはっきりと理解してください。つまり、自分の中に生きているものすべてを、別の存在に捧げようとする存在たち、宇宙的な存在に自分を捧げようとする存在たちは、その供儀が受け入れられなかったとき、その犠牲を自分自身の内に担うように導かれるのです。皆さんはここで、私たちが「エゴ(自我)」あるいは「自我性」と呼ぶよ うな何か、そして、それは後に「エゴイズム」としてあらゆる形態において現れるのですが、そのような何かがきらめくのを感じないでしょうか?こうして、私たちは進化の中に流れ込んだものが、あの存在たちの内部で、遺産として生き続けるのを感じ取ることができます。私たちは、あこがれの内部に、たとえそれが最も弱められた形においてであるとはいえ、エゴイズムが稲妻のように光るのを、そしてまた、あこがれが宇宙進化の中に忍び込んで来るのを見ます。こうして、私たちは、あこがれに身を任せる存在たち、つまり、自分のエゴイズムに屈服する存在たちが―もし、何か別のものが介入しなかったとしたら―いかに、ある意味で、一面性の中に突き落とされるかを、 自分たちの中だけに生きるようにさせられるかを、見ることになるのです。
 供儀を許された存在について想像してみましょう。この存在は別の存在の中に生きます−その中に永久に生きるのです。供儀を許されなかった存在はそれ自身の存在の中に生 きることができるだけです。ですから、そのような存在は、彼あるいは彼女が他の存在の中で―こ の場合、より高次の存在ですが―経験できたはずのものすべてから排除されるのです。そのときには、実際、その問題の存在たちは、進化の過程から排除され、一面性へと突き落とされ、消えてしまうことでしょう−もし、その一面性を取り除くために進化の過程に介入しようとするような何かが生じなかったとしたら。この「何か」とは、一面性への宣告と追放を阻止する新しい存在たちの介入です。ちょうど、「土星」上における意志存在や、「太陽」上における叡智存在の場合のように、「月」上では運動霊が現れて来るのが見られるのです。私たちは「動き」という言葉によって、空間中での動きをイメージするのではありません、そうではなく、より思考過程に関連した何かに言及するのです。「思考の動き」という表現は正にその人自身の思考の流れや流動性を表しており、その表現は誰でも知っていますが、この表現からだけでも、もし、動きを包括的に把握しようとするのであれば、動きは空間中における単なる位置の変化―それは動きのひとつの側面に過ぎません―以上の何かであるということを理解しなければならない、ということが分かります。もし、あるより高次の存在に対して、多数の人間たちが自らを捧げるならば、それらの人間たちは― そのとき、その存在はその人間たちの中にあるすべてを表現することになりますが、それは、その存在が犠牲として差し出されたものすべてを受け入れているからです―そのひとつの存在の中に生き、その中で充足します。しかし、もし、彼らの犠牲が拒絶されたとすれば、これらの人間たちは 彼ら自身の中で生きざるを得ず、決して充足することができなくなります。そうなったとき、運動 霊がやって来て、そうでなければ自分自身に頼らなければならなかったはずの存在たちを、他のすべての存在との関係へと導くのです。運動霊を単に位置の変化を生じさせる存在として考えるべきではありません。そうではなく、彼らは、ある存在を絶えず別の存在との新しい関係に導くような何かを生じさせる存在なのです。
 私たちはここでも、魂の対応する雰囲気を考察することによって、宇宙進化のこの段階で達成されたものについての考えを形成することができます。あこがれが停止させられ、行き詰まったとき、そして、いかなる種類の変化も経験することができなくなったとき、それがいかに苦痛に満ちたものであるかを知らない人がいるでしょうか?人はそれによって耐え難い状態、私たちが退屈と呼ぶところの状態に陥ります。私たちは通常、退屈というものを表面的な人々にのみ帰属させますが、それにはあらゆる段階があります。偉大で高貴な本性の中にも、外的な世界の中では満足させることができないようなあこがれとして、それらの本性自身の本質が表現するところのものが生きているのですが、退屈の中には、そのような本性に影響を及ぼすようなレベルの退屈もあるのです。そして、このあこがれを満足させる方法として変化以上に良いものがあるでしょうか?それは、このあこがれを感じる存在たちが絶えず新しい存在たちとの関係を求め続けていることからも分かります。あこがれの耐え難い苦しみは、絶えず変化する新しい存在たちの 集団との関係によってしばしば克服へともたらされます。
 こうして、私たちは、「地球」がその「月」の相状態を通過する間、運動霊 が、そうでなければ荒廃状態に陥ったはずのあこがれに満たされた存在たち−と申しますのも、退 屈とは一種の荒廃であるからですが−の生活の中に、変化、動き、新しい存在たちや状況との絶えず更新される関係をもたらすところを見ことになります。ある場所から別の場所への空間中での移動というのは、私たちがお話ししている動きに関する幅広いスペクトルの内のひとつの側面に過ぎません。私たちが別の種類の動きを経験するのは、朝起きたとき、魂の中にある一定の思考内容を自分の中だけに留めず、誰か別の人に話すときです。こうして、私たちは、多様性、変化、そして、私たちが経験するものの中における動きを通して、私たちのあこがれの中にある一面性を克服し ます。外的な空間中に存在しているのは変化に対するある特殊な能力に過ぎません。
 太陽に面している惑星について考えてみましょう。もし、その惑星が、太陽 との関係で、いつも同じ位置にあるとしたら、もし、それが全く動かないとしたら、それは一面性の中に固定されてしまうでしょう。その惑星はいつも同じ面を太陽に向けることになります。しか し、そのとき、運動霊がやって来て、その惑星が太陽の周りを回転するように導き、その位置に変化をもたらします。位置の変化は、変化の一種に過ぎません。そして、運動霊が宇宙における位置の変化を生じさせるとき、彼らは動きという一般的な現象の中の特別な例を生じさせているのです。
 運動霊が動きと変化を宇宙に導入したことで、何か別のものがそれとともに やって来ました。私たちが進化の中に、つまり、運動霊、人格霊、叡智霊、意志霊等々の形で進化する全宇宙の多様性の中に、見てきたのは、空気や気体の精神的な基礎を形成するように放射する叡智に向かって流れる与える徳の形態の中には物質性もまた存在している、ということでした。これは、今やあこがれへと変容した意志とともに流れ、そして、これらの存在の中で、人間が「像」 として知っているところのものになります―それはまだ思考としては知られていません。これは私たちが夢を見るときに持つイメージによって最もよく視覚化することができます。流動的で過ぎ去る夢の像は、その中に意志があこがれとして生きている存在、運動霊によって他の存在との関連へともたらされる存在、そのような存在の中で生じるもののイメージを、呼び起こすことができます。ある存在が別の存在の前に立たされるとき、前者が後者に完全に帰依することは不可能ですが、それはその存在の中に自分自身の自我性が生きているからです。けれども、その問題の存在は別の存在の過ぎ去る像―夢の像のようにその中に生きている像です―を受け取ることができます。こうして、イメージの潮流とでも呼べるようなものが魂の中に生じます。言い換えれば、この進化期の間に、像の意識(形象意識)が存在するようになったのです。そして、私たち人間は、現在の 地上的な自我意識なしにこの進化期を通過したことから、私たちは、私たち自身を、今日、私たちの自我を通して私たちが達成するところのものを欠いていたものとして想像しなければなりません。当時、私たちは統合的な宇宙の中に存在し、織り込まれていたのですが、一方で、私たちのあこがれの経験に比較できるような何かが私たちの中に生きていたのです。
 ある意味で、苦しみとは―地球上に現れる苦しみの条件を度外視すれば―詩人が述べているように「あこがれを知る者だけが私の苦しみを知る」というようなものに他ならない、と想像することができるでしょう。魂の表現としての苦しみや痛みが私たちの本性の中に、そして、私たちの進化に結びついた他の存在たちの本性の中に入り込んで来たのは、「月」の進化期 においてでした。それ以降は、そうでなければ空虚であったはずの内的な自我が―それはあこがれに苛まれる内的な自我です―治癒的な慰めに満たされることになったのですが、それは運動霊の活動を通してこれらの本性たちの中に注ぎ込まれた像の意識の形でなされました。もし、このことが 生じなかったとしたら、これらの「月」存在たちは―それは「月」の本性たちです―その魂の中に あこがれ以外のものは何も存在しない空虚な存在となったことでしょう。けれども、像という慰め が、その孤独と空虚の中に滴り落ち、多様性で満たし、存在たちを追放と非難から解放するのです。
 私たちがそのような言葉を真剣に受け止めるとき、私たちは、私たちの地球 が「月」の相状態にあったときに発達したものの根底に精神的なものとして横たわっているものと、そして、今や私たちの意識の奥深くに、「地球」としての相状態の下に層を成して横たわっているものの両方を把握することができます。しかし、それは、魂のあまりにも奥深くに横たわってい るために―そして、これについては、明後日の公開講演(GA61)で、分かりやすくお示しする つもりです―ちょうど、海の底を押し寄せる水が海面に波を生じさせるように、私たちに気づかれることなく活動を始め、そして、意識の中へと現れて来ます。私たちの通常の自我意識の表層下には、表面へと押し寄せる可能性がある魂に深く根ざした生活があるのです。そして、この魂の生活 が表に現れて来たとき、それは何を語るのでしょうか?私たちがこの魂の無意識的な生活の宇宙的な根拠をひとたび理解するならば、私たちは、魂の奥底から生じるように感じられる私たちの魂の 生活とは、「月」の発達期に設定されはしたけれども、正に「地球」期になって初めて、私たちに 浸透したものを打破するものである、と言うことができるようになります。そして、私たちが 「月」の本性と私たちの「地球」の本性との相互作用を把握するとき、私たちは、古い「月」から「地球」の存在状態へと精神的にもたらされたものとは何かを、本当に説明することができるようになるのです。
 覚えておいていただきたいのは、今お話ししましたように、荒廃を緩和するためには、絶えず像が浮かび上がってくる必要があった、ということです。そうすれば、皆さんは 非常に重要で意義深い概念に至るでしょう。つまり、渇望と空虚の苦しみの中であこがれる魂は、 次から次へと生じる一連の像によって満足させられ、このあこがれを調和の中に保つ、という概念に至るでしょう。そして、いくつかの像が生じ、しばらくは留まるのですが、その後、魂の奥底で再び古いあこがれが目覚め、運動霊が新しい像を呼び起こします。そうすると、新鮮な像がまたしばらく存在するようになるのですが、結局はさらに別の像へのあこがれが新しく生じてきます。こ の魂の生活の側面について、私たちが言うべき重要なことは、絶えず新しい像を求める像によってあこがれが満足させられたとしても、この際限なく続く流れに終わりはない、ということです。こ の過程に介入する唯一の方法とは、この際限なく続く像の流れの中に何かが参入する、ということですが、それは像以外のものによって、すなわち、現実によって、あこがれを購うことができる何かです。言い換えれば、私たちの「地球」が惑星的に体現した相状態、そして、そこでは運動霊の 活動によって導かれる像があこがれを満足させるのですが、そのような相状態は、「地球」として 惑星的に体現した相状態、つまり、「救済」の相と呼ばれるべき状態によって置き換えられなければならなりません。
 実際、これから見ていきますように、ちょうど「地球」以前の体現である 「月」存在が「あこがれの惑星」と呼ばれ得るように、そして、それは無限に続き、決して終わることのない経過を通してのみ満たされ得るあこがれですが、「地球」は「贖いの惑星」と呼ぶことができるでしょう。私たちがこの人生を通して地上的な意識の中で生きるとき―そして、その意識 は、既に見てきましたように、ゴルゴダの秘儀による贖いの行為を私たちの前にもたらします―贖いへのあこがれを絶えず生じさせるものが私たちの魂の奥底から生じてきます。それはまるで、意識の表面には通常の意識の波があり、その下、私たちの魂の生活という海の底には、魂の岩盤があこがれの形を取って生きているかのようです。そして、このあこがれは、それを満足させてくれる宇宙的な存在への―それは無限に続く像の連なりによってただ単に慰めるのではなく、それを最終的に満足させてくれる存在です―供儀を遂行しようと飽くことなく熱望しているかのようです。
 私たちは、地上に生きる人間として、これらの雰囲気を実際に感じ取ることができます。そしてこれらの雰囲気は人が経験することができる最良のものです。実際、これらの地上に生きる人間の中で、今日、このあこがれを感じる人たちが−とりわけ、私たちの時代において−私たちの精神科学的な運動に参加して来ているのです。外的な世界においては、私たちは私たちの通常の表面的な意識を満足させるあらゆるものを認識することを学びます。しかし、私たちの無意識から脈打って来るのは、外的な事情によっては決して満足させられることがなく、人生の中心的な根拠を切望する何かです。けれども、私たちがこの中心的な基盤を獲得することができるのは、単に人生における特別なことがらだけではなく、その全体に関与する普遍的な科学を手に入れ たときだけです。今日、魂の奥深くで生じるものは―それはより高次の意識へともたらされることを求めます―世界の中に生きる普遍的なものと交わるようにさせられなければなりません。もし、 この接触がなされないならば、何らかの達成不可能なものへのあこがれが魂の奥底から生じてくるでしょう。
 この意味で、精神科学は魂の奥底に生きているあこがれへのひとつの回答です。そして、世界の中で生起していることの序章は以前の時代にあった、ということを考えますと、今日生きている人々が、彼または彼女の魂の中にあるあこがれの力を精神科学によって和らげようとしていることは―特に、そのような魂の力が意識的な気づきを越えたところにあり、そのようなあこがれが脅威となるように、人を消耗させようとしているときには―私たちにとって驚くべきことではありません。もし、そのような人物が、この精神的な叡智が存在せず、したがって、それを手に入れることができなかった以前の時代に生きていたとすれば、彼または彼女は―彼らが正 に「偉大な精神」であるが故に―精神的な叡智に対する絶えざるあこがれに苛まれ、そして、人生の意味を把握する可能性から疎外されて来たはずなのです。他方、今日では、像へのあこがれを和らげ、絶望を沈黙させ、それを退治するような何かがその魂の中に滴り落ちています。以前には、 この一連の像の行進が止むのを待ち望み、そして、その像がますます大群となって居座れば居座る ほど、それをさらに待ち望む、ということしかできませんでした。
 ハインリッヒ・フォン・クライストが友人に宛てて次のように書き送っているのを見ますと、魂のあこがれの中に香油のように自らを注ぎ出すこの精神科学をまだ手に入れることができなかった時代に生きていた人の言葉で、いかにそれが表現されているかを聞き取ること ができます。

この地球の上で幸せになりたいって?そんなことを言うやつがいたら、ほとんど、恥を知れ!とでも言いたい。すべてが死で終わるところで、そんな目的に向かって努力するな んて、いかにも先が読めない、ご立派な人間がすることだ。我々は出会い、三度の春をお互いに愛し合い、そして、永久にお互いから逃げ出す。愛がないのに、その努力にどんな価値があるというのか。ああ、何か愛以上の、幸せ以上の、名声以上の、xyz以上の、何か我々の魂が夢想さえしないようなものはないのか!
世界のてっぺんにいるのは悪い精神ではあり得ない。それは何か不可解なものに過ぎない。我々だって、子供が泣いているとき、笑わないか?この無限の広がりについて少し考えてみたまえ!無数の時間領域、それぞれがひとつの生命、それぞれが我々のこの世界のように、顕現した存在なのだ!ああ、静止した瞬間よ、教えてくれ、これは夢なのか?我々が夜、仰向けになって見る二枚の菩提樹の葉の間には、その先見性において、我々の思考が捉え、言葉が表現することができるよりもずっと豊かな見通しが広がっているではないか。よし、何か善い行いをしよう、そして、それをしながら死のう!我々は既に無数の死のひとつを死に、そして、未来にもまた死ななければならない。まるで、ひとつの部屋から別の部屋に行くようなものだ。ほら見てごらん、僕には世界が大も小もなく一緒くたに箱詰めにされているように見える。

 これらの言葉で表現されたあこがれは、この人物を促し、その友人に宛てたこの手紙を書かせました。けれども、この精神―クライスト―は、現代の魂が精力的な理解力をもって精神科学に近づくような仕方では、まだそのあこがれに対する充足を見いだすことができません でした。と申しますのも、この精神は、百年前に、まず友人のヘンリエッテ・ヴォーゲルを、次に 彼自身を撃ってその涯を閉じたのですが、今は、一世紀前に彼の亡骸が最初に葬られたヴァンシー河岸にある寂しい墓の下に眠っているからです。
 クライストが表現したことがらについてここでお話しすることができるというのは、特筆すべき天啓です―カルマの行為と言ってもいいでしょう。それは、差し止められた犠 牲への意志があこがれへと変化させられたことについて、今まで私たちがお話ししようとしてきた ことがらを―運動霊によるあこがれの緩和、その最終的な充足に向けた衝動、そして、それが「贖いの惑星」上で達成されるであろうということを―最もよく記述しているのです。この焦点の定まらないあこがれを最も気高い言葉で表現へともたらし、そして、この切なる望みを、それが体現し得る最も悲劇的な行いへと注ぎだした魂を思い出させることがらについて、今日、正に私たちがお話ししていることは特筆すべきカルマの解消なのです。それに気づこうとしさえすれば、この男の精神は、それが私たちの前に立つときの全体性において、本当に魂の奥深くに生き、私たちを地上的な存在性以外の存在性へと連れ戻すものの生きた体現である、ということに気づかないことなどあるでしょうか?クライストが最も意義深い仕方で私たちのために記述してくれているのは、自分を越えたところに横たわっているものを探し求めるように人間に強いるものについて人間が経験で きるもの−それは、もし、彼が彼自身の生命の糸を未成熟なまま断ち切らなかったとしたら、後になって理解することになったはずのものです−についてではないでしょうか?正に皆さんが「個人と人類の精神的な導き」の最初のページに書いてあるのを見いだされることを、彼は経験したので はないでしょうか?
 フォン・クライストの「ペンテシリア」(アマゾンの女王ペンテシリアとアキレスの血みどろの戦いについてのギリシャの伝承に基づいて書かれた凄惨な悲劇)について考えてみてください。ペンテシリアの中には、彼女自身の地上的な意識をもって推し量ることができるよりも、いかに遙かに多くのものがあることでしょうか!もし、彼女の魂は彼女が―それは偉大な魂です―彼女の地上的な意識をもって包含することができるよりもはるかに無限の広がりを持っている、ということを私たちが仮定しないならば、彼女をその特殊性において理解することは全く不可能でしょう。ですから、その無意識をドラマの中に芸術的な仕方で引き込む状況が劇中で生じなければなりません。こうして、一連のできごと―クライストがアキレスのために設定するようなできごと―が、より高次の意識で検分される可能性は阻止されなければなりません。そうでなければ、私たちはその悲劇の重大さを経験することができないでしょう。ペンテシリアは、アキレスによって囚われの身となるのですが、アキレスの方が彼女の囚人である、と思い込まされます。「彼女の」アキレス、という言い方がなされるのはそのためです。意識的な気づきの中に生きているものは、無意識の中へと投げ入れられなければなりません。
 そして、ハイルブロンのカティーの中で表現されているような状況においては、特に、カティーと、シュトラールのヴェッターとの間の特筆すべき関係−そして、それは十全たる意識の中で遂行されますが、人間には気づかれることなくその間を行き来する力が潜む魂の奥深いレベルにおいて遂行されます−においては、この低次の意識はどのような役割を果たすのでしょうか?私たちは、この状況を目の当たりにするとき、世の中の重力や引力といった通常の力の内部に横たわるものの精神的な本性を感じ取ります。世界の力の内部に横たわるものを感じ取るのです。例えば、私たちは、カティーがその愛する人の前に立つ場面で、何が意識下に生きているかを、そして、それが、外的な世界の中に生きているもの、諸惑星の引きつける力として無味乾燥に言及されるものと、どのように関連しているのかを見ます。一世紀前には、透徹し、苦闘する魂でさえ、この意識の深いレベルにまで潜入することができませんでした。今日では、それが可能になっ ています。
 悲劇「ホンブルグの王子」(1810年に書かれたクライストの最後で偉大な作品)もまた、今日では、一世紀前とは異なる仕方で私たちに感銘を与えます。私は、人間が達成するあらゆることがらを理性に帰属させようとする現代の抽象的な思索家たちが、ホンブルグの王子のような人物、すなわち、彼のすべての偉大な行い、最終的な勝利へと導いたあれらの行いさえも一種の夢の状態で成し遂げた人物を、どのように説明するのかを知りたいものだと思います。 実際、クライストは、王子はその意識的な気づきから勝利を達成し得たのでも、より高次の意識という意味ではとりわけ秀でた人物でもなかった、ということを―と申しますのも、彼は後に、死に直面して、めそめそ泣いたからですが―はっきりと示しています。王子が力を発揮できたのは、 彼の魂の奥深くに生きていたものを途方もない意志の努力によって引っ張り出してきたとき―そのときだけ―だったのです。
 人類にとって、「月」の意識からの遺産として残ったものは、何か抽象的な科学によっては引き出してくることができないようなものです。それは、多くの側面を持つ繊細な概念、緩やかな輪郭を持った精神的なことがらを把握することができる概念―つまり、精神科学によってもたらされるような概念です―から導かれなければならないような何かです。最も偉大な諸 概念は、中間的で通常の諸概念に自らを結びつけます。
 こうして、私たちが私たちの今日の魂の中で経験する状態は宇宙と宇宙の総体とに結びつけられているということを精神的な科学は示す、ということが私たちには分かるのです。私たちはまた、私たちが魂の中で経験できることだけが事物の精神的な根拠についての概念を形成することができる、ということを理解します。さらに、私たちは、私たちの時代においては、 私たちの時代に先立つ時代があこがれたけれども、私たちの時代においてのみ与えられることができるものを達成することができるようになった、ということを理解するようになります。こうして、以前の時代の人間たちに対する、つまり、その心があこがれたものへと続く道を見いだすことができなかった人間たち―世界は彼らにそれを与えることができませんでした―に対する一種の賞賛 が生じます。私たちが、すべての人生はひとつの総体であるということ、そして、今日の人間は人類が既にはるか昔に必要としていたような―彼らの運命は本当にそのことを私たちに示しています ―精神的な運動に彼または彼女の人生を捧げることができるということ、を思い出すとき、確かに、そのような人物たちに対するある種の賞賛が生じて来ます。
 ですから、私たちは精神科学を人類のあこがれに対する救済を担うものとして指し示すことができるかも知れません。荒れ狂うと同時に悲惨に満ちた人間たちが長い間探し求めてきたものを精神科学は今や与えることができる、ということを私たちが思い出すのに適した日には、と申しますのも、これらのあこがれに満ちた人物たちのひとりが悲劇的な死を遂げてから一 世紀経つからですが、とりわけそうすることができるかも知れません。私たちがこのような考えを―多分、人智学的な考えも―胸に抱くことができるのは、ドイツの最も偉大な詩人のひとりが亡くなって百年経ったこの記念の日においてかも知れません。


■シュタイナー研究室に戻る

■神秘学遊戯団ホームページに戻る