ルドルフ・シュタイナー

真相から見た宇宙の進化

Die Evolution vom Gesichtspunkte des Wahrhaftigen

 (GA132)

第5講 地球期における地球の内的側面

ベルリン 1911年12月5日

佐々木義之 訳 


 今回の連続講義の中で、これまで私たちが私たちの魂の前に置いてきたのは、私たちがマーヤあるいは大いなる幻想と呼ぶあらゆるものの背後には精神的なものが立っている、ということを示す一連の観察結果でした。今日は、もう一度、私たち自身に問いかけてみましょう。私たちは、私たちを取り巻くすべてのものの背後には精神的なものが認められる、ということを、私たちの物理的な身体を通してもたらされるような私たちの感覚や宇宙についての理解という観点から、どうすれば知るようになるのか?と。

 これまでの探求の過程で、世界の直接的、外的な現象はさておき、真の現実についての特徴に貫き至るように努めることによって、私たちは精神的なものを特徴づけることができました。そして、その特徴を、喜んで犠牲を捧げること、与える徳、そして、諦め、あるいは拒絶―それらは私たちが私たち自身の魂の中をのぞき込んだときにだけ知るようになる特徴です―と見なしました。実際、その特徴は私たち自身の魂の文脈においてのみ理解し、受け取ることができるようなものなのです。言い換えれば、もし、幻想世界の背後で、現実的かつ真実なるものを体現していると考えられる、あの特徴を理解したいのであれば―そして、それらをその真の本性において理解したいと望むのであれば―私たちは次のように言わなければなりません。真の存在や実在から成るこの現実の世界は現実的で生きた特徴あるいは性質を含んでいる。しかし、それは私たちが私たち自身の魂の中で知覚することができる特徴とだけ比べられるようなものである、と。例えば、もし、外的には熱として自らを現しているものを特徴づけたいのであれば−それを、捧げられる犠牲、世界の中に流れ出す犠牲、というようなその真の本性との関連で特徴づけようとするのであれば−私たちは、熱の要素を精神的なものにまで辿るとともに、外的な存在性のヴェールを取り払い、それによって、外的な世界の中のこの特徴は私たち自身の精神的な本性と同じものであることが分かる、ということを示さなければなりません。

 私たちは、観察を続ける前に、もう一つ別の考えについて考察しなければなりません。それは、私たちが幻想の世界の中に見いだすあらゆるものは本当に一種の無の中に消え去るのか?ということについてです。感覚知覚と外的理解の世界には、いわゆる真実あるいは現実であるところのものに対応するものは何もないのでしょうか?

 次のような比較をしてみてもよいでしょう。私たちは、ちょうど水塊の中には流れの内的な力―あるいは、正に大海そのもの―が隠されているように、真実あるいは現実の世界はさし当たり隠されている、と言うかも知れません。ですから、マーヤの世界は水の表面の波の働きと比べられるかも知れません。それは、何かが実際に大海の底からわき上がって来て、表面にさざ波を生じさせる、ということを私たちに示します。ですから、それは正しい比較であり、それはまた、この何かとは水の実質であり、水の力による一定の配列である、ということをも私たちに示します。けれども、あれこれの比較を行うことが重要なのではありません。私たちはさらに、広大なマーヤの領域内には「本当に」存在しているものはあるのか?と問わなければなりません。

 今日、私はこれまでの講義で行ってきたようにして話を進めて行きたいと思います。ここでは、私たちの魂の経験を出発点として、私たちが私たちの魂の前に置こうとしているものへと徐々に近づいていくことにしましょう。「土星」、「太陽」、そして「月」存在としての進化を精神的に辿った後、私たちは今や「地球」存在へとやって来ました。ですから、前回までに比べると、より親しみのある―より一般的とさえ言えるかも知れません―魂の経験から始めることになります。前回は、魂生活の隠れた深み、すなわち、精神科学がアストラル体と呼ぶものの中に生じるところのものを見てきました。そこでは、あこがれがざわめくのを感じるとともに、ある存在の内部で―この場合には、人間ですが―あこがれがいかに作用するかを見てきました。私たちはまた、魂生活におけるそのようなあこがれが、いかに像の世界においてのみ和らげられ得るか、ということも見てきました。私たちは像の世界を魂生活における内的な動きとして理解するようになりました。そして、それによって、個々の魂の小宇宙から、創造する世界の大宇宙―私たちはそれを運動霊に帰属させました―へと続く道を見いだしたのです。

 ですから、今日は、よく知られた魂の経験、そして、それは古代ギリシャ人に示唆され、よく知られていたと同時に、今日でもその真実性においてきわめて意味深いものですが、そのような経験を私たちの出発点にしたいと思います。この経験は次のような言葉によって暗示されるでしょう。すべての哲学は、つまり、ある種の人間の知へと向かうすべての努力は、驚きから生じる。実際、この言い方は正当なものです。多少なりとも、ものを考え、何らかの学びに近づこうとするとき、自分の魂の中で生じるプロセスに注意を払う人であれば誰であれ、認識への健全なる道はその起源を、驚き、あるいは、何かに驚くことに有している、ということを既に見いだしているでしょう。驚きと不思議―すべての学びの過程はそこから生じます―は、あらゆる単調で、空虚で、無味乾燥なものを高揚させ、それに生命を吹き込みます。と申しますのも、私たちの魂の中に生じた知識で驚きから生じなかった知識とはどういう種類のものでしょうか?それは空虚と学者趣味に浸かった知識に違いありません。驚きから生じて、謎を解く中で経験する無上の喜びへと導く魂の過程だけが―それは驚きを越えたところへと上昇します―つまり、驚きに始まる魂の過程だけが、学びを高貴なものにし、それを内的に生き生きとしたものにします。皆さんは、実際、これらの内的な感情に満たされていない知識がいかに無味乾燥なものかを感じ取るようにしなければなりません。真の健全な知識は、驚きと、謎を解く喜びという文脈から生じます。他の種類の知識は外側から獲得され、あれこれの基盤の上に適用されます。しかし、これらふたつの感情に包み込まれていない知識は、それがいかに真剣なものであれ、本当には人間の魂からわき上がって来るものではありません。知識の中の生きた要素が醸し出す雰囲気によって生じる知識の「アロマ(芳香)」はすべてこれらふたつのことがら―驚き、そして、不思議を解く喜び―から生じるのです。

 しかし、驚きそのものの起源とはどのような種類のものでしょうか?驚き、すなわち、外なるものへの驚嘆が魂の中に生じるのは何故でしょうか?驚きや驚愕が生じるのは、私たちが何らかの存在、事物、あるいは事実の前に立ち、それによって不思議な喜びを感じるからです。この不可思議さが驚きや驚異に導く最初の要素です。けれども、私たちは、私たちにとって不思議なものすべてについて驚きや驚愕を感じるわけではありません。私たちが何らかの不可思議なものに対する驚きを体験するのは、同時に、私たちがそれと関係していると感じられるときだけなのです。この感情は次のように言うことによって表現することができるでしょう。この物、あるいは存在の中には、まだ自分の一部にはなっていないけれども、自分の一部になるかも知れない何かがある、と。私たちが驚きや驚愕をもって何かを受け取るとき、私たちはそれを不思議であると同時に、私たちに関係している、と感じているのです。

 「(不可思議なものに対する)驚き」という言葉は、「(雷に打たれたような)驚愕」という言葉と関係があります。知覚可能な関係を見いだすことができないような驚きという現象に、何かが付け加えられるのです。けれども、それは単にその人の間違いかも知れません−少なくとも、責任はその人にあるはずです。そして、その人物は、もし、彼または彼女が、その「不可思議な」何かは、彼または彼女に関係している「はずだ」と結論づけないかぎり、拒絶や反論の精神をもって、その物、あるいはできごとにアプローチすることはないでしょう。と申しますのも、唯物論的な、あるいは純粋に知的な概念に基づいて行動する人たちは、例えば、他の人たちがひとつの驚きであると認識しているものを、それが嘘あるいは不真実であるという直接的な証拠がないにもかかわらず、何故、否定するのでしょうか?今日では、哲学者でさえ、人間の目の前に広がっている世界の現象に基づいたのでは、ナザレのイエスの中に受肉したキリストは死者の中から甦らなかった、と証明することは決してできない、ということを認めざるを得ないでしょう。この主張に対する反論は可能ですが、それらがどのような反論であれ、論理的な意味では、持ちこたえられません。今日の啓蒙主義的な哲学者たちは既にそれを認めています。と申しますのも、唯物主義の側から持ち出され得る反論、例えば、今まで、キリストが死者の中から甦ったようにして甦った人を見た者はいない、というような反論は、論理的には、魚しか見たことがない者は、鳥は存在しないと結論づけなければならない、という主張と同じレベルにあるからです。ある種の存在がいるということに基づいて、別の存在がいないということを導き出すのは、論理的に首尾一貫した方法によっては、不可能なのです。同様に、物理的な世界の中で人間が経験することに基づいたのでは、ゴルゴダのできごと―それは「驚き」として記述されなければなりません―について、何も導き出すことができません。とはいえ、もし、皆さんが誰かに「奇跡」として記述されなければならないようなことについて語り、その人物が「私には理解できない」と言ったとしても、この人物は私たちが驚きの概念について話したことに対して反対しているのではありません。何故なら、その人物は、彼または彼女にとって同じように真実であるようなあらゆる知識へと向かうときには、それと同じ出発点に立つ、ということを示しているからです。その人物は皆さんの記述が彼または彼女自身の内部でこだますることを求めているのです。ある意味で、その人は、自分に伝えられることを精神的あるいは概念的に自分のものにしたいのですが、それが可能であるとは信じられず、自分に関係があることであるとも考えられないために、その受け入れを拒否するのです。私たちは自分自身の「驚き」の概念に到達することができますが、驚きや驚愕が生じるためには―すべての古ギリシャ哲学の観点から言えば―人間が何か不可思議なものに直面し、それと同時に、何か関係があるもの、よく知っているものがそこにある、と認識できなければならない、ということを認めなければならないでしょう。

 さて、ここで、以上の概念と、前回、私たちが私たちの魂の前に置いたあれらの概念との間に橋を架けることを試みてみましょう。

 前回お示ししたのは、喜んで犠牲を捧げようとする存在たちがいるということ、そして、ある存在たちがこれらの捧げものの受け取りを拒み、その犠牲がそれらを捧げた存在たちに戻ってくることによって、いかにある一定の前進が進化の中にもたらされるか、ということでした。私たちは、差し戻される犠牲の中に、古「月」進化期における重要な要素のひとつを認めました。実際、ある存在たちがより高次の存在たちに犠牲を捧げ、そして、後者がそれを差し戻したということが、古「月」進化期における最も重要な側面のひとつなのです。こうして、月存在たちの犠牲の煙がより高次の存在たちに向かって立ち上りますが、その存在たちは犠牲を受け取ろうとはせず、そのため、その煙は、実質として、犠牲を捧げようとした存在たちの中に導かれ、戻されました。「月」存在たちに関して最も特徴的なのは、彼らがより高次の存在たちの元へと送り届けようとしたものが犠牲の実質として彼ら自身の中へと突き返されるのを感じたという点である、ということもまた私たちは見てきました。

 そうですね、確かに、私たちが見てきたのは、より高次の存在たちの一部になろうとしたけれども、そうすることができなかった実質は、正にそれを送り出した存在たちの中に取り残されるということ、そして、そのことによって、拒絶された犠牲を差し出したこれらの存在たちの中に、あこがれへと向かう能力が生じたということでした。実際、私たちが私たちの魂の中であこがれとして経験するものすべての中には、古い「月」の上で生じたものの遺産―その犠牲が受け入れられなかったことを知った存在たちの遺産−が今なお存在しているのです。古い「月」の発達期と、その精神的な雰囲気を精神的な観点から理解するとすれば、それは、当時、犠牲を捧げようとしたけれども、より高次の存在たちがその受け取りを差し控えたために、それが受け入れられなかったことを知った存在たちがいた、という事実によって特徴づけられるでしょう。古い「月」の特徴的な雰囲気の背後にあるのは、他に類を見ないような憂鬱な状況、つまり、拒絶された犠牲なのです。そして、カインもまた彼の犠牲が受け取られなかったのを見たのですが、地球における人類進化の出発点を指し示すこのカインの拒絶された犠牲は、カインの魂を捉えた古い「月」進化の基本原則の繰り返しであるかのように現れます。ちょうど、古い「月」状態における存在たちの場合のように、そのような拒絶とは、あこがれを生み出す悲しみや痛みを私たちの中に生じさせるような何かなのです。

 私たちは、前回、古い「月」上に運動霊が入ってきたことによって、犠牲と、それが受け取られなかったことで存在たちの中に生じたあこがれとの間にバランスあるいは矯正が生じた、ということを見てきました。少なくとも、犠牲が拒絶された存在たちの中に生じたあこがれがある程度満足させられる可能性が創出されたのです。最も生き生きとした方法で次のように想像してください。

 犠牲を捧げられるべきより高次の存在たちがいますが、彼らはその犠牲の実質を送り返します。犠牲行為を行おうとした存在たちの中にあこがれが生じ、彼らは今や次のように感じます。「もし、私が犠牲を与えることができていたとしたら、私の中の最良のものがあれらの存在たちの中で生きることになっただろう。実際、私自身があれらの存在たちの中に生きていたことだろう。けれども、私はこれらの存在たちによって排除された。私はここに、そして、より高次の存在たちは向こうに立っている!」けれども、今や、運動霊によって(私たちはこのことをほとんど文字通り理解しなければなりません)、これらの存在たちは、そして、その中では拒絶された犠牲から来るあこがれが、より高次の存在たちに向かって煌めいているのですが、多くの異なった側面から、より高次の存在たちに近づくことができるような地点へともたらされます。そして、拒絶された犠牲を捧げた存在たちを取り巻く、より高次の存在たちから受け取る豊かな印象によって、拒絶された捧げものとしてこれらの存在たちの中に留まっているものに均衡と補償がもたらされます。こうして、犠牲を捧げようとした存在たちとそれを拒絶したより高次の存在たちとの間にひとつの関係が創り出されます。そして、それらの新たな関係によって、捧げものが差し戻されたために満たされることがなかったものが、あたかも犠牲が受け取られたかのように、補償されるのです。

 もし、私たちが、より高次の存在たちを象徴的に太陽として視覚化し、そして、より劣った存在たちが、ある一点にひとつの惑星として集まるものとして視覚化するならば、ここで意味していることを明確にすることができます。より劣った惑星の存在たちがその犠牲をより高次の惑星、つまり太陽に捧げることを欲すると仮定してみましょう。けれども、太陽はそれを差し戻し、犠牲の実質はそれを捧げた存在たちとともに留まらなければなりません。これらの存在たちは、その孤独と隔離の中であこがれに満たされます。そして、運動霊が彼らをより高次の存在たちの周りを巡る周回へともたらします。今や、犠牲を自分自身の中に保持する存在たちにとっては、より高次の存在たちに向けて直接、犠牲実質の流れを送り出す代わりに、その実質を彼らの周りを巡る動きへともたらし、それによって、その犠牲をより高次の本質を有する存在たちとの関係へともたらすことが可能になりました。それはちょうど、深いあこがれが、ひとつの大いなる達成によってではなく、一連の部分的な満足を経験することによってなだめられるようなものです。その人の魂全体が、そのような一連の部分的な満足によって、動きへともたらされるのです。私たちは前回このことを非常に正確に記述しました。私たちは、より高次の存在たちと内的に結ばれていると感じられない存在に、外から来る印象がひとつの代替物として生じるのを見てきました。これらの代替物としての満足は、そのような存在がいかに部分的な充足を達成するかということを私たちに示しているのです。

 けれども、捧げられるように意図された犠牲は、より高次の存在たちの中では、より低次の存在たちの中に留まったときに取る形態とは異なる形態を取ったであろう、ということは否定できません。と申しますのも、実際には、その意図された存在形態にとっての必要条件はより高次の存在たちの中にあるからです。ここでもまた、私たちはこれを図象的に想像することができます。もし、ある惑星の実質全体が「太陽」の中に流れ込んでいたとすれば、そして、「太陽」がそれを拒絶しなかったとしたら、この惑星存在たちは、「太陽」存在として、「太陽」がその実質をその惑星に差し戻していたとしたら見いだしていたはずの条件とは異なる存在条件を見いだしていたはずです。私たちが犠牲の内容と呼ぶべきものの疎外―それはこの犠牲実質のその起源からの疎外です―はその拒絶を通して生じるのです。

 次のことについてよく考えてみてください。存在たちが喜んで犠牲として捧げようとしたもの、つまり、その真の目的が達成されるのはそれが捧げものとして差し出されるときだけであると彼らが感じるようなもの、それを彼らは彼ら自身の内に保持せざるを得ません。もし、皆さんがそのような存在たちの経験を甦らせることができるならば、私たちが、「宇宙存在たちのある部分が自らの本質的な意味から、そして、偉大な宇宙の目的から排除されたできごと」と呼ぶところのものを経験するはずです。存在たちは―もし、絵画的に語るとすれば―実際には別の場所でその目的を達成できたはずの何かを彼ら自身の内に保持します。その結果、拒絶された犠牲の煙が排除されたこと―そのような犠牲の実質の排除―によって、その犠牲実質はそれ以外の宇宙進化の過程から排除されるのです。

 もし、皆さんが、表現されていることを、単に皆さんの知性によってではなく―と申しますのも、知性はそのようなことがらに関しては機能しないからですが―皆さんの感情で把握するならば、皆さんは、普遍的な宇宙のプロセスから引き離される、ということがどういうことなのかを経験するでしょう。犠牲を拒絶した存在たちにとっては、何かを彼ら自身から遠ざけた、ということに過ぎません。けれども別の存在たち、その中に犠牲の実質が留まる存在たちにとっては、それは自分自身の起源からの疎外という刻印を担っているような何かです。そのとき、そこにいるのはその実質が自分自身の起源から疎外されたことを示しているような存在たちです。もし、このことを注意深く理解するならば―もし、それ自身の起源からの疎外がその中に潜んでいるような何かについてのこの考えを注意深く魂の前に置くならば―それは死についての考えである、ということが分かります。宇宙における死とは、その犠牲が拒絶されたために、それを自分自身の内に保持せざるを得なかった存在たちの内部で生じたものに他なりません。こうして、私たちは、私たちが進化における第3の段階で見いだした諦めと拒絶から、より高次の存在たちによって拒絶されたもの、すなわち死へと進んで来ました。そして、死の真の意味とは、本来の場所に居るのではなく、本来の場所から排除された状態にある、ということに他なりません。

 死が人生において具体的に発生するときにも同じ原則が当てはまります。幻想の世界に取り残される死体を見ますと、それは、死に際して、自我、アストラル体、そしてエーテル体から引き離され、それによって、肉体としての唯一の真の意義をそれに付与したものから疎外されることになった実質だけから構成されているのが分かります。と申しますのも、人間の肉体は、エーテル体、アストラル体、そして自我なしには意味がないものだからです。死の瞬間に、肉体はその意味を失うのです。それはその意味の源泉から疎外されます。人が死ぬとき、もはや感覚では知覚できないものが、大宇宙の中で、自らを私たちに開示します。より高次の領域における宇宙的な存在たちが、犠牲として彼らにもたらされようとしたものを投げ返したために、この犠牲の実質は死を免れないものとなりました。と申しますのも、死とは宇宙的な実質あるいは宇宙的な存在がその真の目的から除外される、ということだからです。

 こうして、私たちは私たちが宇宙における第4の要素と呼ぶところのものへとやって来ました。もし、火がその純粋な意味において犠牲であるとすれば−そして、火あるいは熱が生じるところではどこでも、その背後には犠牲が横たわっています;もし、私たちが、私たちの地球の周りに空気として広がっているものの背後に、贈り物を与えること、あるいは徳の付与を見いだすとすれば;もし、私たちが、流れる水、すなわち流体の要素を精神的な諦めあるいは拒絶として特徴づけるとすれば、土の要素については、死を担うものとして、拒絶を通してその意味から疎外されたものとして特徴づけなければなりません。もし、土の要素がなかったとしたら、死は存在していなかったでしょう。ここには、いかに流体から固体が生じるかを具体的な形態において示す何かがあります。そして、それはまた、ある意味で精神的な過程を反映しています。例えば、池に氷が張り、それによって水が固体になると想像してみてください。水の氷への変換が生じるのは、実際、水に水としての意味を与えているものから水を引き離すものによってです。この過程の中には、固体になる、ということの精神的な表現―土になるということの精神的な表現−があります。と申しますのも、4大元素としての特徴に関して言えば、氷は実際には土だからです。つまり、液体であるとろこのものだけが水なのです。自らの目的と意味から引き離されること、それは私たちが死と呼ぶものであり、死は土の要素の中で自らを開示するのです。

 私たちは、幻想(マーヤ)の世界の中に、何か現実的なものがあるのか、その内部に何か現実に対応するものがあるのか、という問いから始めました。今私たちが私たちの魂の前に置いた概念を注意深く考えてみてください。最初に私が皆さんに申し上げたのは、今回の講義で取り上げる概念はかなり込み入ったものになる、ということでした。ですから、私たちはそれらを単に知的に受け止めるのではなく、それを瞑想しなければなりません。そうしたときに初めて、それらは私たちにとって明らかなものとなるでしょう。この死の概念、すなわち土に関連するものについての概念を取り上げてみましょう。それは実に注目すべき側面を示しています。私たちが取り扱ったすべての他の概念については、私たちの周囲に広がるマーヤの世界の中にはいかなる現実性も見いだされず、真実なるものはただ根本的に精神的なものの中においてのみ見いだされる、と言わなければなりません。けれども、私たちがここで確認したのは、マーヤの領域において、何かが死として自らを特徴づける、ということでした。それは、それが正にその目的から引き離されたものであり、本当は精神的な領域の中に存在すべきものであった、ということによります。つまり、何かが切り離され、このマーヤの中に閉じこめられたのです。それは本当はそこにあるべきでものではなかったのです。マーヤと幻想の広大な領域のすべてを通して見いだされるのは偽りと幻想だけです。しかし、私たちは、マーヤの中で何かが真実に対応しているということ、つまり、何か真実であるところのものが、精神的なものの中でそれに意味を与えるものから切り離される瞬間、破壊と死を被るようになる、ということを見いだします。ここには正に大いなる真実と言えるようなものがあります。つまり、死は「マーヤの世界の中で、ただひとつ、その現実性において自らを現している」のです。他のすべての表現に関しては、それに対応する現実へと辿らなければなりません。マーヤの中に生じる他のすべての表現の背後には、現実であるところのものが横たわっているのです。ただ、死に関してだけは、それが現実的なものとして見いだされるのは、マーヤの中においてなのです。つまり、マーヤの領域全体を通して、死だけが現実なのです。

 ですから、もし、私たちが、普遍的なマーヤの中の至るところに広がっているものから偉大な宇宙の原則へと向かうならば、精神科学にとって最も重要で最も適切な帰結とは次のような命題であるということ、つまり、私たちのマーヤの世界において、何か現実的なものとして存在しているのは死だけである、ということが分かります。

 ここで私が言おうとしていることは別の面からアプローチすることもできます。例えば、私たちの周囲を取り囲んでいる別の領域に属する存在たちについて考えてみることができます。次のように問うことができるでしょう。例えば、鉱物は死ぬのか?と。鉱物が死ぬ、と言うのは、神秘学者にとっては意味をなしません。と申しますのも、それは、切り取られた爪は死んだ、と言うのと同じだからです。爪は、それ自身の存在に対して、それ自身が、それ自身で正当性を有しているものではありません。それは私たちの一部であり、私たちが爪を切るとき、私たちはそれを私たちから切り離し、それが私たちと共にしていた生命から引き離します。それが死ぬのは私たち自身が死ぬときだけです。それと同じ意味で、精神科学にとって、鉱物は死にません。と申しますのも、鉱物は、ちょうど、爪が私たちの有機体の構成要素であるように、より大きな有機体の構成要素に過ぎないからです。そして、鉱物が破壊されたように見えるとしても、それは、ちょうど爪の一部が切り取られて私たちの有機体から切り離されるように、単に大いなる有機体から引き離されているに過ぎないのです。鉱物の破壊は死ではありません。と申しますのも、鉱物は、それ自身が、それ自身で生きているのではなく、むしろ、それをひとつの構成要素とするより大きな有機体の内に生きているからです。

 もし、皆さんが、植物の本性についての私の講義を思い出されるならば、植物自体もまた独立した存在ではない、ということが分かるでしょう。植物もまた地球有機体の構成要素なのですが、それは必ずしも鉱物がより大きな有機体の一部であるような仕方においてそうなっているのではありません。精神科学的な観点から言えば、個々の植物の生について語ることには意味がなく、むしろ、地球有機体について語るべきなのですが、それは、植物がこの有機体の至るところでその一部になっているからです。植物の死に関しては、指の爪を切るときの状況に似ています。指の爪が死んだ、と言うことはできません。植物についても同様です。何故なら、彼らは、地球全体に等しいより大きな有機体に属しているからです。地球はひとつの有機体です。それは春になると眠りにつき、その器官としての植物を太陽に向けて送り出します。秋には、再び目覚めて、植物を自らの中に精神的に取り戻しますが、それはその種子をその存在の内部に受け入れることによってそうするのです。植物を個別のものとして見るのは無意味です。それは、たとえ個々の植物が枯れたとしても、総体としての地球有機体が死んだわけではないからです。同様に、私たちの髪が白くなっても、私たちは死にません。たとえ私たちが私たちの白い髪を、少なくとも何らかの自然な方法によっては、黒くすることができないとしても、私たちが死ぬことはありません。もちろん、私たちは植物とは異なる立場にあります。しかし、地球は白い髪を黒い髪に戻すことができる人間に喩えることができるでしょう。地球自体が死ぬことはありません。私たちが、しおれる植物の中に見るのは地球の表面で生じている過程です。彼らはしおれますが、それでも、植物が真の意味で死ぬと言うことはできません。

 動物もまた、私たちが死ぬような仕方で死ぬとは言えません。と申しますのも、個々の動物は真の意味では存在していないからです−その動物の集合魂が超感覚的な世界の内部に存在しています。真に動物であるところのもの、つまり、その真の存在は、アストラル平面上において、集合魂としてのみ存在しているのです。個々の動物は、その集合魂から濃縮されて出てきます。そして、その動物が死ぬと、それは集合魂の構成要素として取り置かれ、そして、別の動物に置き換えられるのです。

 ですから、私たちが、鉱物、植物、動物界において、死として出会うところのものは、単に見かけ上のもの、死の幻想に過ぎません。現実には、人間だけが死ぬのです。それは人間が個別性を発達させ、肉体の中に下降するまでになっているからです。人は、その肉体の中で、地上的な存在性を担うことによって、現実的なものであろうとしているのです。死に意味があるのは、地上に存在している間の人間にとってだけなのです。

 このことを把握すると、「人間だけが実際に死を経験することができる」と言わなければなりません。さらに言えば、精神科学的な探求から学ぶことができるように、人間だけが、本当に死を克服することができるのです。死に対する真の勝利が可能なのは、私たちにとってだけです。と申しますのも、他のすべての存在たちにとっては、死は見かけ上のものに過ぎないからです−それは本当には存在していません。もし、私たちが、人間性を越えて、より高次のヒエラルキア存在たちにまで上昇するならば、より高次の存在たちは、人間的な意味においては、死を知らない、ということが分かるでしょう。真の死、すなわち物理的な領域における死を経験することができるのは、物理平面上における存在性から何かを引き出してこなければならないような存在たちだけなのです。人間は、物理的な文脈の中で、自我意識を達成しなければなりませんが、それは死なしには見つけることができないものです。人間より下のランクに位置する存在たちにとっても、上に位置する存在たちにとっても、死について語ることに意味はありません。他方、私たちが「キリスト存在」と呼ぶ存在の地上における最も重要な行いが無効になることはありません。実際、「キリスト存在」に関しては、ゴルゴダの秘蹟―死に対する生の勝利―が、あらゆるできごとの中で最も重要なできごとであったのを私たちは見てきました。そして、死に対するこの勝利はどこで遂行されたのでしょうか?それはより高次の世界の中で行われ得るものでしょうか?そうではありません!と申しますのも、私たちが鉱物、植物、そして動物の領域の中で言及したような、より低次の存在たちに関しては、死について語ることができませんが、それは、これらの存在たちが真に存在しているのは、感覚の世界を越えた、より高次の世界の中だからです。そして、より高次の存在たちについて語ることができるのは、死ではなく、変容、メタモルフォーゼ、そして、再編についてだけです。私たちが死と呼ぶところの生への切り込みが生じるのは、人間状態に関してだけなのです。そして、人間が死を経験できるのは、物理的な文脈の中においてだけです。もし、全く物理平面の中に入って行かなかったとしたら、人間は決して死を知らなかったでしょう。と申しますのも、物理平面に入って行かない存在は、死について何も知ることはないからです。他の世界の中に、死と呼べるようなものは何もありません−そこにあるのは変容とメタモルフォーゼだけです。もし、「キリスト」が死を通過しようとするのであれば、物理平面に下る以外にはなかったでしょう!何故なら、彼が死を経験できるのは、物理平面においてだけだからです。

 こうして、私たちは、人間の歴史的な発展において、より高次の世界の現実が、マーヤの中で、驚くべき仕方で働いているのを見ます。私たちが歴史的なできごとについて正しく思考しているのであれば、確かにそれは物理的な領域の中で起こっているけれども、その源泉は精神的な世界の中にある、ということに気づくはずです。このことはあらゆる歴史的なできごとについて言えます−ひとつのできごとを除けば!と申しますのも、ゴルゴダのできごとに関しては、それは物理平面上で生じたが、それに対応する何かがより高次の世界の中に存在している、とは言えないからです。確かに、「キリスト」自身はより高次の世界に属し、そして、物理平面へと下って来ました。けれども、他のすべての歴史的なできごとに関して存在しているような元型は、ゴルゴダで成し遂げられたことがらに関しては存在していないのです。ゴルゴダの秘儀は物理的な領域の中でのみ生じ得たできごとだったのです。

 精神科学はその証拠を提供することになるでしょう。例えば、次の三千年にわたって、ダマスカスにおけるできごとの新しい例が多数見られるようになるでしょう。これについてはしばしば言及してきましたが、パウロがダマスカスで見たように、人間は、アストラル平面上で、エーテル形姿の「キリスト」を見る能力を発達させるでしょう。より高次の能力を通してキリストを知覚するこの経験は、次の三千年期を通してますます発達しますが、私たちの二〇世紀において始まるでしょう。今の時代以降、これらの能力は徐々に現れ、次の三千年期を通して、多数の人々によって身につけられることになります。それは、多くの人々が、「より高次の世界を覗き見ることによって」、「キリスト」はひとつの現実であるということ―彼は生きているということ―を知るようになる、ということです。彼らは彼を知るようになるのですが、それは「彼が今生きている」からです。彼らは、いかに今彼が生きているかを知るようになるのではなく、むしろ、正にパウロがそうであったように、彼は死に、そして復活した、ということを確信するようになります。けれども、このことの基礎はより高次の世界にではなく、物理平面上に見いだされなければなりません。

 もし、今日、いかにして「キリスト」自身の発達が成し遂げられるのかということ、そして、それとともに、いかにしてある種の人間の能力もまた発展するのかということを理解するならば―もし、そのことを精神科学によって理解するならば―人間が死の門を通って行くときにも、彼がダマスカスでのできごとに与るのを妨げるものは何もありません−何故なら、今や、死は人間の世界に最初に輝き込む「キリスト」の顕現として現れるからです。今日、肉体の中に居ながらにして、このできごとに備える人たちは、死と新生の間の生活においてもそれを経験することができます。けれども、それに備えない人たち、今回の受肉において、それを全く理解しない人たちは、死と新生の間の生活においても、「キリスト」に関して、今既に生じ、次の三千年を通して生じ続けることがらについて、何も知ることができません。彼らは再び受肉するまで待たなければならないでしょう。彼らは、再び地上に戻るとき、それに対するさらなる準備をしなければなりません。ゴルゴダにおける死とその死から生じたもの−それは「キリスト」の実質全体が地上で展開するために必要でした−を理解することができるのは、肉体の中に居る間だけなのです。私たちのより高次の生活にとって唯一重要な事実は、肉体の内にある間に把握されなければなりません。一旦肉体の中で理解されたならば、それはより高次の世界の中でさらに働き続け、ますます育成されるでしょう。けれども、それはまず肉体の中で理解されなければなりません。ゴルゴダの秘儀は、より高次の世界の中では決して起こり得ず、より高次の世界の中に元形を有してもいません。それは、物理的な世界の中に完全に限定されるところの死を包括するできごとなのです。したがって、それが理解できるのは物理的な文脈の中おいてだけです。地上にいる人間の使命のひとつとは、彼または彼女のどれかの受肉において、この理解を達成するということなのです。

 ですから、私たちはここで、直接的な現実、直接的な真実を示すような重要な何かを、物理平面上に見いだした、と言わなければなりません。物理平面上にあって現実的であるものとは何でしょうか?物理平面上にあって、あまりにも現実であるため、立ち止まって、「ここには真実がある!」と言うようなものとは何でしょうか?それは人間の世界の中にある死であって、他の自然の領域における死ではありません。地球進化の過程の中で生じる歴史的なできごとを理解するためには、それらのできごとから精神的な元形へと上昇しなければなりません。けれども、ゴルゴダのできごとに関してはそうではありません。ゴルゴダの秘儀に関しては、直ちに、そして直接、現実の世界に属するところの何かがそこにあるのです。

 今お話ししたことの別の面もまた明らかになります。それは途方もなく興味深いものです。今日では、ゴルゴダでのできごとは真実ではないとされ、外的な歴史に関しては、このできごとを歴史的な事実と認めるのは不可能である、と人々が言うのを聞くのは非常に重要なことです。大きな歴史的事実の中で、ゴルゴダの秘儀ほど外的、歴史的に確認できる方法で証明することが困難なものはほとんどありません。これに比べれば、外的な世界における人間の進歩にとって重要なソクラテス、プラトン、あるいはその他のギリシャ人たちの存在についての歴史上の議論をすることがいかに容易なことかを考えてみてください。にもかかわらず、「ナザレのイエスが実際に生きていた」ということは歴史を根拠にして主張することはできないと―それはある程度正当なことですが―多くの人は言います。けれども、それに関する否定的な歴史的証拠も存在していません。いずれにしても、他の歴史的事実を取り扱うような仕方で、ゴルゴダの秘儀という事実を取り扱うことはできない、というのは確かなことです。

 この外的、物理的な平面上で生じたできごとが、すべての超感覚的な領域における事実と同じ特徴、つまり、いかなる外的な方法によっても証明され得ない、という特徴を有しているのは正に特筆すべきことです。そして、超感覚的な世界を否定する人たちの多くが、同時に、このできごとを―それは超感覚的なできごとでは全くありませんが―把握する能力を欠く人たちでもあるのです。そのできごとが現実であることはそれが与える影響によって確かめられる、ということは事実ですが、その人々は、その現実のできごと自体が歴史的な意味で実際には起こらなかったとしても、それらの影響は生じ得るだろう、と推測するのです。彼らはその影響を社会学的な状況の結果として説明しますが、宇宙的な創造の過程を知っている者にとっては、「キリスト教」の影響はその背後に立つ力なしでも生じ得た、と考えるのは、ちょうど、畑に種を植えなくてもキャベツは育つ、と言うのと同じくらい賢い考えなのです。

 この話をさらに進めれば、福音書の著作に携わった一人一人の個人にとっても、ゴルゴダの秘儀という歴史的なできごとを歴史的な証拠に基づく歴史的な事実として証明する可能性はなかったのだ−何故なら、それは外的な観察によって知覚可能な痕跡を残すことなく生じたからですが−と言うことができます。皆さんは、ヨハネ福音書の著者―彼は直接的な目撃者です―を除く福音書の著者たちが、どうやってこれらのできごとを確信するようになったのかをご存じでしょうか?彼らにとっては、伝承と、秘儀についての書物以上のものはなかったので、歴史的な出典によって説得された、ということではありません。この状況に関しては、私の「秘儀的な事実としてのキリスト教」の中で概説されていますが、彼らが「キリストイエス」の実在を確信したのは、星の配列を通してだったのです。と申しますのも、彼らはまだ、大宇宙と小宇宙の関係について非常によく知っていましたから、彼らが有していた知識―今日でもそれを持つことができます―によると、星の配置を通して、世界史における重要な時点を計算することができたからです。彼らは、「星座がこのような配置であるとき、「キリスト」と言われる「存在」が「地上」に生きたはずだ」と言うことができました。マタイ、マルコ、そしてルカ福音書の著者たちが歴史的なできごとについての確信を得たのはこのようにしてだったのです。彼らは、福音書の内容については超感覚的な能力によって獲得しましたが、あれこれのことが地上で起こったはずだという確信は、宇宙における星座の配置から引き出したのです。これについての知識がある人は福音書の著者たちを信じることができるはずです。福音書の歴史性についての反論は不正確なものである、ということを証明するのは割に合わない仕事です。私たちは、人智学者として、全く異なる基礎―精神科学への洞察を通して得られる基礎―の上に立っている、ということを明確にしておかなければなりません。

 これに関連して、今回の連続講義を通して私が確立しようとしたことがらに対する注意を促しておきたいと思います。それは、人智学が語る現実を、それら自体が、そしてそれら自体で、正しい反論によって傷つけ、だめにしようとしても、それは不可能である、ということです。人間というものは、自分たちの知識にしたがって、いくらでも正しいことを言うことができますが、それによって精神科学が否定されることはありません。私は、「いかにして神智学の基礎を見いだすか」という講義の中で、比喩を引きながら次のように言いました。小さな少年が家族のために朝食用のロールパンを買いに村に通っていました。さて、その村では、ロールパン1個が2クロイツァーしていたのですが、その少年はいつも10クロイツァーもらっていました。その少年はパン屋からたくさんのパンを持ち帰っていましたが―ここで注意しなければならないのは、彼は大数学者ではなかったということです―それについてそれ以上のことは考えていませんでした。それから、その家族に養子がやって来ました。彼は最初の少年の代わりに、パン屋にパンを買いにいくように言われたのですが、その養子はよい数学者だったので、自分に次のように言い聞かせました。「10クロイツァー持ってロールパンを買いに行く。パンはひとつ2クロイツァーで、10÷2は5だから、家に持って帰るのは5個のはずだ。」ところが、家に帰ってみると、6個のパンを持ち帰っているのが分かりました。そこで彼は自分に言いました。「これはおかしい!10クロイツァーでそんなに買えるはずがない。計算は正しいはずだから、明日は5個持って帰ることになるだろう。」次の日も彼は10クロイツァーで6個のパンを持って帰りました。計算は正しかったのですが、それは現実には対応していなかったのです。と申しますのも、実際の現実は異なっており、その村では、10クロイツァー分のパンを買う人は誰でも、おまけにもう1個のパンをもらうので、5個ではなく、6個のパンを受け取る、という習慣になっていたからです。その少年の計算は正しかったのですが、現実には対応していなかったのです。

 このように、精神科学に対する最も批判的に考え抜かれた反論は、「正しい」かも知れませんが、全く異なる原則の上に立っていることがある現実とは何の関係もない可能性もあります。この顕著な例は、数学的に正しいことがらと実際に真実であることがらとの間の違いを理論的にと言ってもよいほど示しています。

 以上のように、私たちの努力によって、マーヤの世界は現実へと導かれ、帰っていく、ということが示されました。この過程が私たちに示したのは、火とは犠牲であり、空気の要素とは流れ、与える徳であり、あらゆる流体はあきらめと拒絶の結果である、ということでした。私たちは今日、この3つの真実に4つ目の真実を付け加えました。それは、土あるいは固体の要素の本性とは、死であり、ある実質の宇宙的な目的からの分離である、ということでした。この分離状態が始まったとき、死そのものが、マーヤあるいは幻想の世界の中に、ひとつの現実的なものとして入ってきたのです。神々自身は、何らかの仕方で物理的な世界に下降し、マーヤあるいは幻想の世界であるその物理的な世界の中で、死をその真の本性において理解しない限り、決してそれについて知ることはなかったでしょう。

 以上が、これまで私たちが議論してきた概念に付け加えたいと思ったことです。ここでもまた、これらの概念―それは、後で見ていただくことになりますが、マルコ福音書に書かれていることを根本的に理解するには、とても必要な概念です―について、何らかの明晰さを獲得することができるのは、規則正しい瞑想を通してそれらの概念を繰り返し私たちの魂に作用させることによってだけです。と申しますのも、マルコ福音書を理解することができるのは、最も意義深い宇宙的な概念の中に礎石を置くときだけだからです。


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