ルドルフ・シュタイナー

「精神的な探求における真実の道と偽りの道 (GA243)

佐々木義之 訳


 

 第一講

自然とは大いなる幻想である。「汝自身を知れ」

 

この連続講義では、超感覚的な世界の認識へと導く道について話すように求められていますが、そのような認識と今日の輝かしい成功に導いたところの何年にもわたる忍耐強く勤勉な探求の果実である現象世界についての認識とは相補的なものです。と申しますのも、現実を理解できる人とは、自然科学や歴史科学によって私たちの知識のストックに近年になってつけ加えられた顕著な発見を精神世界から導かれた洞察によって補強することができる人だけだからです。

 私たちが直面する外的世界とはいたるところ精神的であるとともに物質的なものであるに違いありません。つまり、あらゆる物質現象の背後には、真の主人公である精神的な作用力が見出されるはずです。精神的なものは真空中で存在することはできません。何故なら、それは絶えず活動するとともに何らかの時と場所で物質的なものに活発に浸透するものだからです。

 この連続講義では、私たちが住んでいるこの世界を、一方ではその物理的な環境についての考察を通して、また他方では精神的なものの知覚を通して、いかにその全体性において知り得るか、ということについて議論することを提案します。それによって、そのような認識を達成するための真の方法と偽りの方法について示したいと思います。

 この連続講義の実際の主題に触れる前に、それらから何を期待できるのか、私が思い描いている目的とは何かについて皆さんが何らかの考えを持つことができるように、明日、その導入部分を手短にお話しするつもりです。この連続講義はまず第一に私たちが、そもそも何故私たちは精神的な探求を手がけなければならないのか?何故私たちは思考し、感じ、実践する人間として、現象世界をそのまま受け入れるようになっていないのか?一体何故私たちは精神世界についての認識を達成するように努力するのか?という疑問を深く心に留めることに関係しているのです。この関連で、古くからの概念、つまり、人間が思考し、あこがれをもち始めた初期の時代から受け継がれ、今日でもなお私たちが世界の根底を探求するときに見出される諺に言及したいと思います。これらの古い、そして時代遅れの概念を基礎として用いるつもりは決してありませんが、そのような機会が生じたときにはいつでもそれらに対する注意を促したいと思うのです。

 何千年の時を越えて東方からこだましてくるのは、私たちが私たちの感覚によって知覚する世界はマーヤ、大いなる幻想である、という諺です。そして、人間がその発達の過程を通していつも感じてきたように、世界がマーヤであるとすれば、もしそうであるならば、彼が究極的な真実を見出すためには、彼は「大いなる幻想」を克服しなければなりません。しかし、何故、人間はこの感覚印象の世界をマーヤとして眺めてきたのでしょうか?何故、正に人間が今日よりも精神に近いところにいた太古の時代において、科学、宗教、芸術、そして実際生活の育成のために捧げられた秘儀の中心、つまり、純粋に外的な世界の中で大いなる幻想であったところのものに対置して、人間の認識と活動の源泉である真実と現実への道を指し示すことをその目的とする秘儀の中心が生じたのでしょうか?太古の聖なる秘儀の場所で彼らの弟子を訓練し、幻想から真実へと導こうとしたあの著名な聖人たちをどのように説明すればよいのでしょうか?この疑問に答えられるのは、より冷静に、より客観的な角度から人間を考察するときだけです。

 「汝自身を知れ!」とは、過去の時代から私たちのところにやって来る別の古い諺です。これらふたつの、つまり「世界はマーヤである。」という東方の諺、そして「汝自身を知れ!」という古代ギリシャの諺が融合したことによって初めて、後の人類の間で、精神的な認識を目指す探求が開始されました。とはいえ、結局のところ、太古の秘儀の場所における真実と現実を目指す探求もまた、世界は幻想であり、人間は自己認識を達成しなければならない、というこの二重の概念の中にその起源を有していたのです。

 けれども、人間がこの問題に取り組むとすれば、人生そのものを通して、つまり思考を通してだけではなく、意志を通して、そして私たちが人間として直接関わることができる現実への十分な参加を通してだけです。世界中の人間が自分に次のように言うことができるのは、十全なる意識をもってしてではなく、明確な理解をもってしてでもなく、ただ深い感情をもってそうすることができるだけなのです。「外的な世界とは、それを見たり聞いたりすることはできるが、おまえはそれになることができない、そのようなものなのだ」、と。

 この感情は深いところから来るものです。「おまえがおまえの五官で感じることはできるけれども、それになることはできない外的な世界とはそのようなものなのだ」という言葉が示唆するところのものをよく考えてみなければなりません。植物を見ると、最初に緑の芽が春に出て、夏には花が咲き、秋に向かって熟し、実を結びます。私たちは植物が生長し、衰え、枯れるのを、つまり、その一生が一年の間に繰り返されるのを見ます。私たちはまた、多くの植物がその幹を構成するある一定の物質をいかに土壌から吸収するかを見ます。私たちは昨日の夕方ここに来る道すがら多くの非常に古い植物を見ましたが、それらの植物は、その一生が一年間に限られるのではなく、より長い期間へと拡張され、それによってその茎の上に新しい成長点を産み出すことができるように、このような硬化させる物質を多量に吸収したのです。そして、これらの植物がいかに生長し、衰え、枯れるかを観察するのは人間なのです。

 そしてまた、人が動物を観察するとき、彼はそのはかなさに気づきます。それは鉱物界についても同じです。彼は雄大な山々の連なりの中で鉱物が堆積するのを観察します。そして、彼が身につけた科学的な知識によって、それらもまたはかないものであることに気づきます。そして、彼が最終的によりどころとするのは、例えば、プトレマイオスやコペルニクスの体系のような概念、あるいは古代の秘儀やより最近の秘儀から借りてきた何らかの概念です。そして、彼は次のように結論づけます。私が星々の驚異の中に見るあらゆるもの、複雑で驚くべき軌道上にある太陽や月から私に光を投げかけるあらゆるもの、これらすべてもまたはかないものである、と。けれども、そのはかなさとは別に、自然の領域はその他の属性も有しています。それらは、もし人間が自分自身を知るべきものであるとすれば、彼はすべてのはかないもの、つまり植物、鉱物、太陽、月、そして星星と彼とが同様に構成されていると仮定すべきではない、ということができるような種類のものです。

そして、人間は次のような結論に至ります。私は私の中に、私が私の周りに見たり聞いたりするいかなるものとも異なるある性質を有している。私は私自身の存在を理解するようにならなければならない。何故なら、私は私という存在を私が見たり聞いたりするいかなるものの中にも見出すことができないのだから、と。

 人間はあらゆる古代の秘儀の中で、彼ら自身の存在の現実性を見出したいというこの衝動を感じる一方で、空間と時間の一時的な現象は大いなる幻想の表現であると感じられていました。そして、だからこそ、人間の内的な存在の理解に至るために、彼らは感覚知覚を越えて見出されるものに眼差しを向けたのです。

 そして、彼らはそこで精神世界を経験しました。精神世界への正しい道をいかにして見出すかがこの連続講義の主題となります。人間は現象世界を探求したときに採用した過程と同じ過程を辿ろうとするだろう、ということは容易に想像できます。彼は感覚的な知覚方法を単純に精神世界の探求へと移すかもしれません。けれども、もし現象世界の探求が幻覚に満ちているのが普通であるとすれば、現象世界を探求するための方法を精神世界にも適用するとすれば、幻覚の可能性は減少するのではなく増加することになるでしょう。そして、これは実際に起こることです。その結果、私たちはそれだけよけいに幻覚の犠牲になります。

 そしてまた、もし私たちがはっきりしない期待、漠とした熱狂、魂の暗い片隅からわき上がる説明のつかない予感や精神的なものについての夢のような幻想を心に抱くとすれば、それは私たちには永遠に見知らぬものに留まるでしょう。私たちは憶測の世界に留まり、信仰にあずかることはあっても、本当の知識を持つことはありません。もし、私たちが単純にこの道を採用することで満足するならば、精神的なものをよりよく知るのではなく、ますますそれが分からなくなります。こうして人間は二重にさまようことになるのです。

 精神世界と現象世界に対して同じ探求の道を追求することに関しては、現象世界が幻想であることに気づくとしても、もし普通の精神主義者がときとしてそうするように、精神世界に対して現象世界に対するのと同じ方法で接近しようとすれば、ますます大きな幻想に陥ることになります。

 他方、別の道にしたがって接近することもできます。この場合には、はっきりと明瞭な線に沿ってではなく、勝手な思いこみや漠とした熱狂によって精神世界を探求するのですが、当然のことながら精神世界は閉じられた本のままです。はっきりしない憶測や感情的な熱狂の道をどんなに熱心に追求しても、精神世界のことはますます分からなくなるのです。まず第一に幻想が増幅され、第二に無知が増幅されるからです。これらふたつの偽の道に対して、私たちは正しい道を見出さなければなりません。

私が述べたような意味での大いなる幻想についての知識を真の自己認識で置き換えるのは、いかにほとんど不可能なほど困難なことであるかを、さらに言えば、たとえ精神的なものを理解するための真正で本物の道に向けて準備するつもりではあっても、幻想に陥っている状態ではそのような真の自分についての漠とした感情のすべてを克服し、現実の明確な知覚に至るのはいかに不可能なことであるかを心に留めておかなければなりません。このことが何を意味しているかを偏見なく眺めてみましょう。唯物論者はダーウィン、ハクスレー、スペンサー、あるいはその他の人々による最近の科学上の発見に対して精神世界についての洞察を有している人が感じるほどの深い賞賛と尊敬の念を感じることは決してないでしょう。つまり、これらの人々やジョルダーノ・ブルーノ以降のその他の人々は、古代の神秘家たちがマーヤの世界と考えたところのものについての洞察を得るために惜しみない努力をしたのです。とはいえ、ダーウィン、ハクスレー、スペンサー、コペルニクス、ガリレオやその他の人々によって持ち出される理論を受け入れる必要はありません。彼らのしたいように宇宙を理論づけさせておきましょう。彼らの議論に引き込まれる必要はないのです。けれども、私たちはこれらの人々が示した人間、動物、そして植物の中に見出される特定の器官や鉱物界に関する何らかの特別な問題についての詳細で事実に即した探求への途方もない衝動を認めないわけにはいきません。彼らの刺激的な探求の結果、腺組織、神経、脳、肺、肝臓等々について、近年いかに多くのことが知られるようになったかをひとつ考えてみて下さい。彼らは最高度の尊敬と賞賛に値します。とはいえ、実生活において、この知識は私たちをただある一定の地点にまで連れて行くに過ぎません。これがどういうことかを示すために三つの例を上げてみましょう。

 私たちは人間の最初の卵細胞が胎児へといかに徐々に発達していくかを、いかに様々の器官が段階を追って展開するかを、そしていかに周辺部の小さな器官から複雑な心臓や循環システムが構築されるかをどこまでも詳細に追っていくことができます。このすべてを示すことができます。私たちは植物の有機的な発達を根から花、そして種へと追っていくことができ、そしてこの事実に基づいた情報から全宇宙に適用される宇宙理論を構築することもできるのです。

 私たちの天文学者や宇宙物理学者たちは既にそうしています。彼らは、自律的な発生が可能な星雲系が段階を追ってより明確な形態を取ることによって、いかに世界がそこから現れるかを示す宇宙理論を打ち立てました。しかし、このすべての理論立てにもかかわらず、私たちは人間の本質的な存在に対して、つまり「汝自身を知れ」という定言に対していかに応えるか、という問題に結局は再び直面することになります。もし、私たちが、ただ鉱物、植物、動物、人間の腺組織や循環系に関する知識に限定されるところの自分だけを知っているとすれば、私たちは人間が誕生に際して入り、死に際して離れる世界だけを知っていることになります。しかし、結局のところ、人間は、自分は一時的な世界に限定されてはいない、と感じているのです。ですから、外的世界についての知識がこれほどの壮大さと完成度をもって産み出すすべてのものを前にして、彼はその存在の奥底から、このすべては誕生から死までの間に限って肯定することができる、と答えざるを得ません。しかし、皆さんは本質的な自分、皆さんの真の本質を知っているでしょうか?その諸器官をもってしては単に大いなる幻想の世界だけしか理解できないところの人間は、人間や自然についての知識が道徳的、宗教的なものとの関わりを持つ瞬間、沈黙せざるを得ないのです。「汝自身を知れ、汝いずこより来たりて、いずこへと去るか、汝の最奥の存在において知るために」という定言、この認識の問題に対しては、宗教との関連が持ち出される瞬間、この限定的な理解度をもってしては答えることができないのです。

 弟子が秘儀の学院に入るにあたって確信させられたのは、宗教が問題になるときには、感覚的な観察を通していかに多くのことを学ぼうとも、その情報は人間の本性に関する大いなる謎に対し、いかなる答えも与えはしない、ということでした。

 さらに言えば、私たちは、人間の頭部の構造について、人間の腕や手の特徴的な動きについて、彼の立ち居振る舞いについていかに正確な知識を持っていたとしても、あるいは動物や植物の形態に関しては、感覚的な観察を通してそれらを知ることができるだけであることから、それほど敏感に反応することはできないとはいえ、それらの情報に対して芸術的な表現を与えようとする瞬間、再び答えることのできない問題に直面することになるのです。

 これまで人間は世界についての彼らの知識をいかに芸術を通して表現してきたのでしょうか?彼らはそのインスピレーションを秘儀の教えに負ってきたのです。自然やその様々の側面に関する彼らの知識はその時々の理解の水準に関係していましたが、同時にそれは精神的な洞察によって豊かなものにされてきました。

 それは古代ギリシャを振り返ってみるだけで分かります。今日、彫刻家や画家はモデルを使って仕事をします。少なくとも最近まではそうでした。彼はコピーあるいは模倣に取りかかります。ギリシャの芸術家たちもそうした、と言われていますが、そうではありません。彼はむしろ精神的な人間の形態を自分の内に感じ取ったのです。彫刻において、もし彼が腕の動きを表現したいと思ったとすれば、彼は、外的な世界は精神的な内容によって満たされており、あらゆる物質的な対象物は精神から創造されたのだ、ということを知っており、彼の作品の中で精神を再構築しようと努めました。

 ルネッサンスの時代に至ってさえ画家はモデルを使いませんでした。それは単に刺激を与えるためにだけ奉仕しました。彼は何が腕や手を動かすのかを先験的に知っていたのです。彼が示す動きの表現にこのことが見て取れます。単に外的なものやマーヤの世界を皮相的に表現しても私たちの理解を前進させることはありません。私たちはそうすることによって深く人間を見るのではなく、単に外的なもののみに関わり、そしてそのことによって人間の外にいる傍観者のままに留まります。

 芸術の観点から言えば、もし私たちがマーヤの世界を超越することに失敗するならば、私たちは人間本性に関する恐るべき問題に直面し、私たちにはいかなる答えも与えられないでしょう。

 そしてここでも、古い秘儀に参入しようとする弟子に対し、その参入に際して、もしお前がマーヤの世界の中に留まるならば、お前は人間やその他のいかなる自然領域の本質的な存在にも貫き至ることはできない、お前は芸術家になることはできないのだ、ということが明らかにされました。芸術の領域においては、「汝自身を知れ」という明確な定言を弟子に思い起こさせ、その後で精神的な知識の必要性を感じ始めさせる必要がある、ということが知られていたのです。

 けれども、皆さんは、全く唯物的な彫刻家もいるではないか、と反論されるかも知れません。いずれにしても、彼らは単なる素人ではなく、自分たちがが何をしようとしているのかを知っていました。彼らはまた、どうすればモデルから秘密を引き出すことができるのか、そして、どうすれば彼らの人物像や題材にその秘密を付与することができるのかを知っていたのです。それは本当にそうなのですが、彼らはどこから彼らの認識を導き出してきたのでしょうか?この能力が芸術家自身からやって来るのではない、ということに人々は気づき損ねます。彼らは自分たちより前の芸術家たちにそれを負っていたのですが、その芸術家たちもまた、その先駆者たちからそれを受け継ぎました。彼らは伝統に基づいて働いたのです。けれども、彼らはこのことを認めたがりません。何でも自分でやったと主張したいのです。彼らは古い巨匠たちがいかにそれらを模倣し、制作したかを知っていました。しかし、最も初期の古い巨匠たちは彼らの秘密を秘儀の精神的な洞察から学んだのです。ラファエロやミケランジェロは、まだ秘儀に頼ることができた人たちからそれを学びました。

 けれども、真の芸術は精神から創造されなければなりません。他に方法はありません。私たちが人間の問題に触れるやいなや、大いなる幻想の知覚は人生の諸問題、人間の運命についての問に対する答えにはならないのです。もし、私たちが芸術と芸術的な創造の源泉へと遡るべきであるならば、私たちは精神世界への洞察を再発見しなければなりません。

 さて、第三の例ですが、植物学者や動物学者は入手可能なあらゆる植物の形態についてのすばらしく詳細な知識を得ることができます。生化学者は植物体の中で起きている過程を記述することができ、新陳代謝系の中でいかに食物が消化され、血管によって栄養管の壁の中へと吸収され、さらに血液によって神経系へと運ばれるかを述べることもできます。優秀な解剖学者、生理学者、生物学者、あるいは地質学者はマーヤの世界の広い範囲をカバーすることができるのです。しかし、もし彼がその知識を治療や医療の目的に使おうとするならば、もし彼が人間の外的な構成から、あるいは内的な構成からでさえ、彼の本質的な存在へと押し進もうとするならば、それは不可能です。

 皆さんは次のように応えるかも知れません。けれども、唯物論者であり、精神世界には何の興味も持たない医者もたくさんいる。彼らは自然科学の方法にしたがって患者を処置し、そしてそれでも結果を出しているではないか、と。

 それは確かですが、彼らに治療ができるのは、彼らもまた古い世界観に基づく伝統の上に立っているからなのです。古い治療法は秘儀から導き出されました。そして、それらはすべて顕著な特徴を有していました。皆さんが古い処方箋を見るならば、それが大変に複雑なものであることが分かるでしょう。それを処方し、伝統によって規定された特定の目的のためにそれを用いる人にはかなりのことが要求されます。もし、皆さんが昔の医者のところに行って、そのような処方箋はどのようにして作られるのですかと訊ねたとすれば、彼は、まず私は化学実験を行います、そしてその物質があれこれの方法で振る舞うかどうかを確かめ、それからそれを患者に適用し、その結果を書き留めるのです、とは決して答えなかったでしょう。彼にはそのようなことは思いもよらぬことだったでしょう。人々は以前の時代にはどのような状況が卓越的であったかについて、いかなる考えも持ち合わせていません。彼は次のように答えたでしょう。私は秘儀の教えに基づいて設置された実験室(と呼べるかどうか分かりませんが)に住んでいます。そして私が処方を思いついたとき、私はそれを神に負っているのです、と。彼の立場はこの点について、つまり、彼が彼の実験室の中に醸し出された雰囲気全体を通して精神世界と密接に交流しているという点について、全く明確なものでした。彼にとって精神的な存在がそこに居るということは私たちにとって人間がそこに居るのと同じくらい間違いのないことだったのです。彼は精神的な存在の影響を通して、より高い存在の次元を達成しており、それ以外の方法で可能であったであろうよりも多くのことを達成することができる、ということを知っていました。そして、彼は自然認識からではなく、神の口述にしたがって、そのこみ入った処方箋の作成へと進んだのです。秘儀の学院では、人間を理解するためには、マーヤの世界と自分とを同一視するのではなく、神的な世界の真実へと押し進まなければならない、ということが知られていたのです。

 外的な世界についてあらゆる知識を有しているとはいえ、今日の人間は秘儀から導き出された知識を有していた昔の人々に比べて神的な世界の真実からよりかけ離れたところにいます。再びそこに戻る道が見出されなければなりません。

 三番目の例から明らかなのは、私たちが治療法を追求するとき、たとえ可能な限り幅広い自然についての知識(つまり、マーヤの世界についての知識ですが)を有していたとしても、私たちは再び人間の生と運命についての未解決の問題に直面することになる、ということです。私たちがいくらマーヤの立場、大いなる幻想の立場から人間を理解しようとしても、あるいは治療の目的のために要求される「汝自身を知れ」の立場から理解しようとしても、私たちは私たちの理解において一歩も先に進めないでしょう。

 ですから、私たちはこれらの例に照らして次のように言うことができます。マーヤの世界と「汝自身を知れ」の間にあるギャップに橋を架けようとする人が、あるいは宗教的な感情を持って、あるいは創造的な芸術家として、あるいは治療家や医師として人間にアプローチするとき、もし彼の唯一の出発点が幻想の世界であるとすれば、彼はその瞬間に自分が無の前に立っていることに気づくであろう、と。彼は、マーヤ、すなわち大いなる幻想についての知識であるところの外的な自然についての知識を超越する知識の形態を見出さない限り、無力なのです。

 さて、秘儀の精神から世界の包括的な認識に至ることを求める方法と今日それが試みられているところの方法とを比較してみることにしましょう。そのことによって、この包括的な認識へと導く道との関係で、私たちは私たちの方向性を見出す位置に立つことになります。

 数千年前、世界とその神的な基盤あるいは本質については、今日、権威ある人々がそれについて語る方法とは非常に異なった方法で語られました。近東の秘儀において崇高で壮大な知識が栄えたあの数千年前の時代を振り返ってみましょう。その知識の特徴を簡潔に記述することにより、その本性をより綿密にのぞき見てみたいと思います。

 古代カルディアにおいては、次のようなことが教えられていました。人間の魂の力がその最大限の可能性を引き出されるのは、彼が眠りの生活(彼の意識がぼんやりとしたものになり、周囲の世界が忘却のかなたにあるとき)と目覚めているときの生活(彼が明確な視力をもって周囲の世界を意識しているとき)との素晴らしい対比に精神の目を向けるときである、と。数千年前には、これらの交互に入れ替わる眠りの状態と目覚めの状態は今日とは異なった仕方で経験されていました。眠りは今ほど無意識的なものではなく、目覚めているときの生活は今ほど十分に意識的ではありませんでした。人は眠っている間、力強く、絶えず変化するイメージ、世界の生きた流れや動きを意識していました。彼は神的な基盤、宇宙の本質に通じていたのです。

 眠っている間に意識がかすむのは人間が進化した結果です。数千年前には、起きているときの生活は今日そうであるように明確ではっきりしたものではありませんでした。対象ははっきりと規定された輪郭を持っておらず、ぼんやりとしていました。それらは精神的な特質を様々な形で放射していました。現在のような眠りの生活から目覚めの生活への不意の移行は存在しませんでした。当時の人間たちは、まだこれらふたつの状態を識別することができたのです。そして、彼らが目覚めている間の生活環境は「アプシュー」と呼ばれました。眠っている間に経験される生きた流れと動き、つまり目覚めの生活において鉱物、植物、そして動物の間の明確な区別を曇らせる領域は「ティアマート」と呼ばれました。さて、カルディアにおける秘儀の学院では、人間が眠っている間、ティアマートの流れと動きにあずかるとき、彼は鉱物や植物、動物たちのただ中で意識的な生活を送っているときよりも真実や現実のより近くにいる、ということが教えられました。ティアマートはアプシューに比べて世界の基盤のより近くにあり、人間の世界とより密接に関連していたのです。アプシューはもっと離れたところにありました。ティアマートはより人間に近いところにある何かを表現していたのです。けれども、時がたつにしたがって、ティアマートは変化を被りました。そして、秘儀の学院で学ぶ弟子たちにこのことが知らされました。ティアマートの生きた流れと動きの中から悪魔のような形をしたもの、人間の頭に馬の体をもったものや天使の頭に獅子の体をもったものが現れ出たのです。 それらはティアマートが織りなすものの中から生じ、人間に敵対するようになりました。

 そして、力強い存在、イアが世界に出現しました。今日、音を聞く耳を持っている人は誰でも、いかにこのふたつの母音のつながりがあの力強い存在を指し示しているか、を感じることができます。つまり、これらの古い秘儀の教えによると、ティアマートの悪魔が強力になったとき、人間を助けるためにその側に立ったあの存在を指し示す、ということをです。イア(EA)あるいはイア(IA)は、後に−もし、「ソフ(Soph)」という接頭語を予期するとすれば、ソフ−イア(Soph−Ea)、ソフィア(Sophia)になりました。イアのおよその意味は抽象的な叡知、あらゆるものに浸透する叡知です。ソフは(大体においてですが)存在状態を示唆する小詞です。Sophia、Sophea、Sopheia、すなわちすべてのものに浸透する、どこにでも存在する叡知が、当時はマーダックとして知られており、後にミカエルと呼ばれるようになった彼女の息子を人間に使わしました。彼は天使の位階から権威を付与されていました。叡知であるイアの息子マーダックと同じ存在−マーダック-ミカエルです。

 秘儀の教えによると、マーダック-ミカエルが偉大で強力であったために、すべての悪魔的な存在、人間の頭を持つ馬や天使の頭を持つ獅子の形をしたもの−これらすべての波打ち、うごめく悪魔の形をしたものたちは強力なティアマートとして合体し、連合して彼に対抗しました。マーダック-ミカエルは充分に強力であったために、嵐に命じて世界中に風を吹き荒れさせました。ティアマートが体現していたものすべては生きた現実のように見えましたが、人々はそれをそのように体験したのであって、正しくそのように見えたのです。これらすべての悪魔たちは敵として、すなわちティアマート、夜から生まれたすべての悪魔的な力を体現する強力なドラゴンとして思い描かれました。そして、この怒りの火を吐くドラゴン存在がマーダックの前に進み出ました。ミカエルは初め、様々の武器でそれを打ちのめし、ついで彼の嵐のような力のすべてをその内臓へと送り込んだために、ティアマートはバラバラに砕けて飛び散りました。そして、そうすることによって、マーダック−ミカエルはその中から上なる天と下なる地を創造することができました。こうして天と地が生じたのです。

 秘儀の教えとはこのようなものでした。イアの長男、叡知がティアマートに打ち勝ち、その一部から上なる天を、別の一部から下なる地を作り出したのです。そして、もし皆さんが皆さんの目を星星に向けるならば、ああ、何ということでしょう、皆さんが見るのは、あのティアマートの恐ろしい深淵からマーダック−ミカエルが人類のために天に造り出したものの一部なのです。そして、もし皆さんが鉱物化された地球から植物が生え、鉱物が形成され始める下方を見るならば、そこにはイアの息子、叡知が人類のために再創造した別の部分が見出されます。

 こうして、古代カルディア人たちは世界の形成期を、つまり、無形から形が形成された時代を振り返りました。彼らは創造の工房を覗き見るとともに、生きた現実を知覚したのです。これらの夜の悪魔たち、これらすべての夜に出没するモンスターたち、すなわち織り成し波打つティアマート存在たちはマーダック−ミカエルによって上なる星星と下なる地球に変えられたのです。太古の人々がその古い魂の属性を通して彼らのところにやって来たすべてのものを表象したのはこのような形態において、つまりマーダック−ミカエルによって輝く星星に変えられたあらゆる悪魔たち、変化したティアマートの皮と組織として地球から生え出るあらゆるものにおいてでした。そのような情報を彼らは知識と考えたのです。

また、秘儀の祭司たちは彼らの弟子たちが示す魂の力を研究することによって未来を予想しました。そして、弟子たちが十分な魂の力を発達させたとき、彼らは、今日では子供たちが学校で最初に教えられるような基礎的な科目−地球は太陽の周りを回る、宇宙は星雲から形成される、というようなことを理解する位置に立ちました。当時、このような知識はしっかりと守られるべき秘密とされていたのです。他方、公然と教えられていたのは、今、私が皆さんに話したマーダック−ミカエルの行為等についてでした。今日、私たちの学校や大学では−そこでは秘密を守ることが要求されることもありません−、そして小学校においてさえ、コペルニクスの体系や宇宙物理学が教えられます。しかし、太古の時代においては、そのような課題にあえて取り組んだのは、あるいは取り組むことを許されたのはただ聖人たちだけであり、それも長い準備を経た後でだったのです。今日では学校の教科になり、どの小学生も知っているこのすべてを学ぶことができたのは、当時は秘儀参入者たちだけでした。

古いカルディアの時代からさらに時代を溯れば、人々は私がお話したようなこと、つまり、イアやマーダック−ミカエル、アプシューやティアマートについてだけを語りました。彼らはこれらの「風変わりな」秘儀の教師たちが星星や太陽の動きについて教えるあらゆることを毛嫌いしました。つまり、彼らは見えないものではなく、古い超感覚的な能力を通して明らかになったところの、個人化され象徴化された形態においてとはいえ、明確に見ることができるものだけを探求することを望んだのです。彼らは秘儀参入者であった古い教師たちやその弟子たちが獲得していた知識を拒絶しました。その後に、太古の叡智が東から徐々に広まり、重視される時代がやって来たのです。精神世界の存在たちによる顕現、例えばマーダック−ミカエルの行い等について多くの蓄積がなされましたが、同時に、図式的に表すことができるもの−太陽が中心にあり、惑星がその周りを円や楕円を描いて回転することなども重視されました。そして、時の経過の中で、精神世界、すなわち悪魔や神々の世界についての洞察が失われ、理知的な知識、すなわち今日私たちがあれほど誇りにし、私たちの時代が始まった頃にその絶頂に達した知識が育成されました。私たちは今や、ちょうど精神的なものが自明であった人々によって現象世界が拒絶されたように、精神的なものが拒絶される時代に生きているのです。私たちは、天文学者や天体物理学者、動物学者や植物学者が教えるところのものと並行して、再び精神的な洞察から導き出される精神的な現実についての知識が受け入れられる時代を見越す立場にあるべきです。その時代は今や差し迫ったものであり、もし、私たちが私たちの使命を成し遂げ、とりわけ、芸術の宗教的な源泉と芸術としての治療を再び見出すべきであるならば、そのための準備をしてそれを迎えなければなりません。

 太古の時代においては、精神的なものが人々の間で受け入れられ、物質的な世界が拒絶されましたが、逆に、物質的なものが育成され、精神的なものが抑圧される時代がそれに続きました。ちょうどそのようにして、今や私たちの外的な世界についての広範で包括的な知識が、そしてそれは十分尊敬に値するものなのですが、秘儀の教えについての新たな知識へと変容させられるべき時代が来なければなりません。今日の物質的な科学によって古代の壮大な精神性が、せいぜい私たちが発掘するいくつかの断片を残して、その構造から引き裂かれた今、私たちは再び精神性を見い出さなければなりません。ただし、私たちが過去の時代の歴史を詳しく検討するとき、私たちが光を当てるあらゆるものについての十分で明確な理解が必要です。宗教的な感情に染められた新しい創造的な芸術を通して、新しい治療芸術を通して、そして人間存在へと浸透する新たな精神の知識を通して、私たちは再び精神へと返る道を見つけなければならないのです。

世界の基盤と原則をその全体性において理解させ、偏狭な唯物主義者ではなく完全に統合された人間として仲間の幸福と啓蒙のために働く人間についての理解を私たちに与えることができるところの秘儀を、私たちが新たなものにすべく努力することができるように、という希望をもって、今日は、これら三つの例を皆さんにお示ししました。


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