ルドルフ・シュタイナー

「精神的な探求における真実の道と偽りの道 (GA243)

トーケイ、ディヴォン、1924年8月11日−22日

佐々木義之 訳

 

第十講 

地球外宇宙が人間の意識に及ぼす影響

 昨日は、精神世界への異常かつ病理的なアプローチについて、つまり、一方では、内的な理解の深化を通る道、夢の世界により深く貫き至る道について、他方では、実際には自然科学的な手法を戯画化した方法を用いて、夢遊病者や霊媒が外的に表現するものを探求しようとする道についてお話ししました。私は、私たちが本当に秘儀に参入する認識を獲得しようとするならば、これらふたつの道を意図的に追求しなければならない、ということを指摘しました。今日は、この問題をさらに綿密に検討するとともに、人間の意識やその存在全体が左右されるところのあの宇宙的な影響を探求する、ということを提案したいと思います。

 人間に及ぼす影響の中では、地球の影響を除けば、太陽と月の影響が卓越している、ということは容易に分かります。一般に、人々はこのことに対してそれほど注意を払っていませんが、今日では、太陽の放射がなければ地上には何も存在し得ない、ということは科学者にとってさえ明らかな事実です。

 太陽の力は植物の生命を地球から魔法のように出現させます。その力はすべての動物の生命と人間の肉体及びエーテル体にとって不可欠なものです。太陽の働きは、私たちがそのつもりになって探せば、いたるところに見いだされるでしょう。つまり、それらは、人間存在の高次の構成体にとって、決定的に重要なものなのです。ところが、月の影響に対してはそれほど注意が払われていません。そのような影響が今日まで生き残っているとしても、しばしば迷信という形においてであり、それらについての正確な認識はしばしばその影響についての迷信的な概念の存在によってねじ曲げられたものになっています。今日、科学の分野で働こうとするような人は、自分は迷信とは無縁であると感じていますから、月の影響が何らかの意義を有しているとは考えず、それについて真剣に考えてみようとも思いません。けれども、月の不思議な力が詩的なイマジネーションを刺激することに気づいている詩人たちや、月の光の下で熱い思いを交わす恋人たちだけではなく、それぞれ異なる仕方ですが、地球に対する月の影響についての予感を持つ賢者たちもたまにはいます。そして、これは非常に教示的である、ということを証明することができます。

 十九世紀中頃のドイツにシュライデンとグスタフ・テオドール・フェヒナーという二人の教授が生きていました。フェヒナーは人間と自然のより幅広い領域における神秘的な働きについての科学的な探求に傾倒していました。彼はある特定の地域における降雨量が月の満ち欠けに関係していることを示すデータと統計的な証拠を集め、降雨量は月の満ち欠けによって変化する、と結論づけました。彼は当時の科学理論に反する彼の立場を迷うことなく主張しました。彼の大学の同僚であり、著名な植物学者であるシュライデン教授の見解は異なっていました。彼は、フェヒナーの考えはばかげている、月のそのような影響について語るのはナンセンスである、と断言したのです。さて、二人の教授は結婚しており、当時彼らが住んでいた大学町の雰囲気はまだ家族的なものでした。当時は、布を洗濯するのにちょうどよいというので、主婦たちによって雨水が貯められる習慣がありました。月の影響を議論していたのは二人の教授だけではなく、彼らの妻たちもまた問題の核心に迫ろうとしていたのですが、ある日、フェヒナー教授が妻に言いました。シュライデン教授は降雨量が月の満ち欠けに影響されるということを信じようとしない。貴女にはある月周期に、シュライデン教授夫人には別の月周期に雨水を集めてもらいたい。シュライデン教授は月の満ち欠けがそのようなことに影響するということを信じていないのだから、これに異を唱えるはずがない、と。ところが、シュライデン教授夫人は、フェヒナー夫人に、彼女の夫の説によると降水量が多いはずのない月の周期を担当させることに乗り気ではなかったのです! 大学も家族もふたつに分かれていつもの論争は続きました。

 さて、このできごとには科学的な根拠があります。精神科学の方法によってこれらの影響について調べますと、単なる迷信の名残としてではなく、科学的な事実として太陽と月の強力な影響について語ることができるのが分かります。私たちはこのように述べることによって、通常の意識を有する現代人がこのテーマについて知ることができる事実上すべてのことを言い尽くしてしまいました。現代人はいわば地球、太陽、そして月の影響下で生きており、基本的には、その意識もまたそれらに依存しています。何故なら、既に指摘したように、星や太陽、そして月の目に見える外的な側面は決定的な要素ではないからです。月の領域には、太古の時代に人類の教師であったあの存在たちがかくまわれている、ということについては既に強調されました。太陽の領域にも非常に多くの精神的な存在たちがかくまわれています。ちょうど地球が人類の宇宙的な植民地であるように、すべての星は存在たちの植民地なのです。既に指摘したように、今日の人間はその誕生から死までの間、ほとんど地球、太陽、そして月の影響だけの下に生きています。私たちが今獲得しなければならないのは、人間が太陽と月の影響下に生きるときの精神的、魂的、そして物理的な条件についてのより正確な知識です。

 夢の状態がそれらの間に横たわるところの意識のふたつの極−覚醒意識と空虚な眠りの意識、つまり夢のない眠りの意識−について考えてみましょう。アストラル体と自我から肉体とエーテル体が引き離された状態にある眠っている人間を観察するならば、彼が眠りに落ちてから目覚めるまでの間、肉体とエーテル体から引き上げられた太陽の影響がアストラル体と自我の中に注意深く保持されているのが分かります。

 私たちは、起きてから眠るまでの間、太陽を外的に経験し、雨によってその影響が全く覆われているときにもそれを意識しています。それは私たちが周囲の事物を反射された太陽光のお陰で知覚できるからです。私たちは目覚めているときの生活全体を通して、外から事物を照らし出す太陽の影響に曝されているのです。私たちが眠りの状態に移行するやいなや、太陽は私たちの自我とアストラル体の中で輝き始めます。私たちは私たちの精神の目でそれを知覚します。眠ってから起きるまでの間、太陽は私たちの内部にあります。皆さんご存じのように、ある種の鉱物は光を照射されてそれを吸収した後、暗い部屋の中に放置されるとき、周りを照らすようになります。精神的に見ると、人間の自我とアストラル体は同様の形式にしたがっています。それは覚醒状態では、ある程度外的な太陽光に圧倒されていますが、眠ってから起きるまでの間は、今や太陽光が浸透していることによって、輝きを発し、照らし始めるのです。

 要するに、起きている間、人間は外的な太陽の力の影響下に生きているのですが、眠っている間は、目覚めの瞬間に至るまで、今や彼自身の内に担っている太陽の力の影響下にあるのです。私たちは、眠っている間、太陽を私たちの内に有しており、肉体とエーテル体だけが後ろに残されるのですが、それらは私たちの内に保存された太陽の光によって外から、精神的な世界から照らされるのです。事実、私たちは保存された太陽光を外から私たちの皮膚に振り向け、あるいはそれを感覚器官に同化させることによって、私たちの有機体に活気や生き生きとした成長力を供給しているのです。

 ですから、実際、眠っている間、アストラル体と自我は肉体とエーテル体の外にあり、人間はまず最初に彼の皮膚を照らし、そして、太陽の光を目と耳を通して神経系に振り向けるのです。

 眠りの現象とはこのようなものです。太陽は人間の自我とアストラル体から輝きだし、皮膚を照らし、感覚の扉を通って人間存在へと貫き至るのです。

 そして、月の力は、それが新月であるか満月であるかによらず−と申しますのも、その影響は、月の相によって変化するとはいえ、いつでも存在しているからですが−人間の肉体とエーテル体に外から侵入してきます。ですから、眠っている間は、自我とアストラル体からやって来るところの太陽による肉体とエーテル体への働きかけとともに、肉体とエーテル体に対する月の働きが見られるのです。

 眠りの状態は、宇宙との関係で、このように特徴づけられます。眠っている間、人間の内的な生活は太陽と、その外的な生活は月と関係づけられています。と申しますのも、アストラル体と自我は外にあるとはいえ、それらは実際には彼の内的な存在であるからです。

Schlafen 眠り

rot 赤色

Sonnenwirkungen vom Ich und Astralleib

自我とアストラル体からの太陽の働き

Mondenwirkungen vom aussen auf den physischen Leib und Aeterkeib

肉体とエーテル体への外からの月の働き

 

Wachen 覚醒

gelb 黄色

Sonnenwirkungen von aussen auf physischen Leib und Aetherleib

肉体とエーテル体への外からの太陽の働き

gelb 黄色

gruen 緑色

innnerlich Mondenwirkungen auf Ich und Astralleib

自我とアストラル体への内的な月の働き

 目覚めの生活においては状況は逆になります。私たちが起きているときには、月の影響が私たちの内的な存在全体に浸透する一方、太陽の影響は外から私たちの中に侵入します。ですから、目覚めの生活においては、太陽の影響は直接私たちの肉体とエーテル体に流れ込み、私たちの内なる自我とアストラル体は蓄えられた月の力に左右されているのです。

 ですから、目覚めて生活している間、私たちの肉体とエーテル体の中には太陽の力が外から流れ込み、私たちの内的な存在には蓄えられた月の力が浸透します。眠っている間は太陽が、起きている間は月がアストラル体と自我に居住し、起きている間は太陽が、眠っている間は月が肉体とエーテル体に居住しているのです。

 徹夜をしたり、眠りを犠牲にして次の日の二日酔いを招いたとしても、これらの影響はやはり存在しています。と申しますのも、人間が自然の法則をあえて無視したとしても、自然の慣性力、宇宙的な継続性のお陰で、ことは自然の成り行きに従うからです。

 人間が昼間眠り、夜起きていたとしても、月の影響は、夜の目覚めの生活において、やはり彼の自我とアストラル体の中で活動しています。そして、太陽の影響もまた彼の中に流れ込むのですが、彼がそれを経験するのは、通常は街灯から投げかけられる光や、野宿して星を見上げるときのその弱い光を経験するであろうようにしてです。とはいえ、人間が眠っている間に蓄える太陽の力や、起きている間に彼の内的な存在に浸透する月の力は至るところに存在しています。肉体とエーテル体に関してはその立場が逆転します。

 人間は生まれてから死ぬまでの通常の意識をこのようなものごとのあり方に負っているのです。さて、人間がより高次の意識形態を達成するとき、状況がどのように変化するかを考察してみましょう。と申しますのも、秘儀に参入した人の太陽と月に対する関係は徐々に変化するのですが、この宇宙に対する関係の変化を通して、人間は精神世界への道を見いだすことになるからです。

 通常の意識状態にある人間について、その世界に対する関係、太陽や月に対する関係を記述する必要はないでしょう。人間が昼の意識や夜の意識の中でどのように生きているかを思い起こせば、誰にでもそれが分かります。人間が、通常は混乱した夢の意識との関係で、内的な魂の力を強化し始める瞬間、つまり、この夢の意識をして現実を理解するための道具に変化させることに成功する瞬間、彼は、起きている間は集積された月の力が自我の中に存在している、ということに気づくようになります。人間が、秘儀に参入する認識を通して、実際に夢を現実に変化させる瞬間、彼は彼の中にいる第二の存在を感じ、この第二の存在の中には月領域の力が生きているということを知るのです。

 人間は、秘儀に参入する意識の初期の段階において、自分の中には月の力が存在しており、その力は第一の人間の中に収められた第二の人間をその中でいつも発達させようとしている、ということに気づくようになるのですが、そこでひとつの衝突が起こります。目覚めの意識においてではなく、眠っている間に、今お話ししているこの第二の人間の中で、月の力が内的に活性化し始め、この内的な力によって第二の人間が自然へと解き放たれるとき、つまり、彼が月の存在によって夜に解き放たれ、眠りの受動的な状態の中で意識に目覚め始めるとき、第一の人間、つまり通常の人間の中に隠された第二の人間が月の光の中で第一の人間を連れて辺りをさまよい始めるのです。これが眠りながら歩く人の特徴である夢遊病的な状態の起源です。

 月が外を照らすとき、魔術的な力、つまり自然の力とは種類が異なる変則的な力との接触を持つ第二の人間を目覚めさせることが可能になるのです。彼は辺りをさまよい始め、減退した意識状態の中で眠りながら歩く人として、通常の意識とは異質の仕方で振る舞います。彼は、通常であればそうするであろうように、ベッドに横たわるのではなく、辺りをさまよい、屋根に登ったりするのですが、彼が探し求めているのは、実際には彼の肉体の外側で経験すべき領域なのです。

 このことが、意識的かつ内的な経験になり、正常な道筋へと導かれるとき、私たちは秘儀に参入する意識への最初の一歩を踏み出すことになります。けれども、この場合、私たちが接触するのは実際の外的な月の影響ではありません。第二の人間が意識を発達させるのを可能にするのは、私たちの存在の中にある月の力です。私たちはこの第二の人間がさまよい出るのを何としてでも阻止しなければなりません。それが亡霊のようにさまよい出て、間違った道に沿ってうろつく危険性はいつでも存在しています。第二の人間はコントロールされていなければならないのです。

 この遍歴する可能性のある第二の人間が体の内に留まり、肉体と関連する正常で当たり前の意識に結びついた状態で秘儀に参入する意識を獲得するためには、内的な安定と自己自制が不可欠です。私たちは、この第二の人間が創り出したもの、強化された内的な月の本性が創りだしたものが私たちから自らを解き放つのを阻止するように、絶えず努力しなければなりません。第二の人間は、新陳代謝、蠕動運動、胃やその他の器官に関係するあらゆるものに強く引きつけられ、それらに重くのしかかります。

 人間の中で、秘儀に参入する意識が夜明けを迎えていることを示す最初の経験とは、彼が取るべきふたつの道の内のひとつ−発達へと導く道、夢の世界の意識的な認識へと導く道にしたがっている、ということです。

 そして、もし彼が−そして、これは、既に指摘したように、必要なステップなのですが−今、(夢の状態の中で)意識的になるならば、彼は、外は昼間であるにも関わらず、自分の中に夜を担っている、ということに気づきます。何か内的な夜のようなものが昼の間に彼の中で目覚めるのです。

 この秘儀に参入する意識が目覚めるとき、外的な目と外的な事物の認識にとって昼間は昼間なのですが、この昼の間に、きらめく月の精神的な光が辺りに浸透し、照らし始めます。そして、精神が輝き始めるのです。

 私たちはこのようにして、人間は内的な努力によって昼の意識の中に夜の意識を持ち込む、ということを悟ります。このことがしっかりとした意識の中で、ちょうど他の活動が昼の間に意識的に遂行されるように、生じるとき、つまり、この寝ずの番をする人間が夜の月の活動を昼間の目覚めた経験へともたらすことができるとき、彼は正しい道を歩んでいます。もし、彼が、十分に意識的でないままに、何かが自分の中に入り込むのを許し、それによって夜の経験が、それら自体の内的な惰性から、昼の意識の中に生じるようにするならば、彼は、結局は霊媒主義につながる間違った道の上にいる自分を見いだします。

 ですから、本質的なのは、私たちは十分に意識的であるとともに、経験を十分にコントロールしていなければならない、という点です。現象や経験そのものよりも、私たちがそれらにどのように反応するかが決定的な要素なのです。もし、通常の夢遊病者が、屋根のてっぺんに登っているときに、十分な意識を発達させることができたとすれば、彼は、その瞬間、秘儀に参入するとはどういうことなのかを経験するでしょう。私たちが彼に向かって目を覚ますように叫ぶとき、彼は地面の上に落ちてくるのですが、それは彼がこの意識を発達させるのに失敗しているからです。もし、彼が、落ちてくるかわりに、十分に目覚めた意識を発達させ、この状態を維持することができたとすれば、彼はそのとき秘儀参入者になっていることでしょう。秘儀に参入する意識がやるべきこととは、夢遊病者の中で病理的に発達させられるものを健全な、あらゆる面で健全な道筋に沿って発達させる、ということなのです。

 このように、精神世界においては、真実と偽りとの差がいかに紙一重であるかがお分かりでしょう。物理世界においては、真実と偽りとを区別するのは難しくありません。それは常識に訴えたり経験を積むことができるからです。精神世界に参入するやいなや、この区別をつけるのが極端に難しくなります。それは自制と内的な気づきに左右されます。さらに言えば、人間が昼間に夜を目覚めさせるとき、月の光はその外的な放射の性格を徐々に失います。その経験はどちらかというと外的なものではなくなり、内的な居心地のよさ、というような一般的な感じをもたらします。けれども、私たちは何か別のものも意識するようになります。すばらしく輝く水星の光がこの精神的な夜の空を照らすのです。水星という惑星が、昼の中へと誘われたこの夜の中に本当に昇るのです。とはいえ、それは水星の物理的な側面ではありません。何故なら、そこで私たちは何か生きたものの存在に気づくからです。私たちには水星の居住者である生きた精神的存在たちをすぐに意識することはできませんが、水星が私たちの前に現れるその仕方から、私たちは、自分は精神的な世界と関係しているのだ、という一般的な印象を持つのです。

 精神的な月の光が、私たちの内で、生命を与える普遍的な賦活力、私たちがその一翼を担うところの賦活力になるとき、水星という精神的な惑星が昼の意識の中へと誘われた夜の意識の中に徐々に昇ってくるのです。水星はきらめく黄昏の中から現れてくるのですが、そこから浮かび上がってくるのは私たちが水星の神的な存在と呼ぶところの存在です。私たちは彼を絶対的に必要としているのですが、その理由は、もし、彼がいなかったとすれば、混乱が始まるからです。まず第一に、私たちはこの存在を、つまり私たちが水星に属していると確信している存在を精神的な世界の中に見いださなければなりません。私たちはこの神的な存在(水星)を意識することを通して、私たちの中で目覚めさせられる「第二の人間」を意のままにコントロールすることができるようになるのです。私たちはもはや夢遊病者のようにつまずきながらあてどもない道を行くのではなく、神の使者である水星の導きの手によって、精神世界へと続くはっきりと規定された道に沿って導かれることができるようになります。

 ですから、もし、精神世界への真の道を見いだしたいのであれば、私たちはまず、私たちを導き、方向づけするのに役立つある明確な経験を通過しなければなりません。通常の神秘家は内側を見ます。彼は内省を通して、神や宇宙、天使や悪魔が調合された感情の発酵体を生じさせますが、その内省が行き着く先はせいぜい通常の夢の状態です。そこでは、それらが性的な局面からやって来たのか、あるいは知的な局面からやって来たのかを告げることはできません。その経験は一般に混乱し、漠としたものです。これは夢を照らし出すことのない漠然とした雲のような神秘主義であり、秘儀に参入した人だけが理解できることから、混乱をより深刻なものにする神秘主義です。

 そのような経験は、シエナのカトリーヌやその他の人々によって記述されたように、非常な驚きと詩情に満ちているのですが、それを理解することができるのは秘儀に参入した人だけなのです。何故なら、経験されたものが何かを本当に知っているのは彼だけだからです。ですから、もし、私たちが、計算をしたり、幾何学を研究したりするときと同じような、明晰ではっきりとした意識をもって秘儀に参入することを求めるならば、つまり、もし、これらのことがらに十全なる意識をもって貫き至るならば、私たちは正しい道の上にいるのです。私たちは、内的な月の夜を外的な昼の中に招き入れることを実現することによってのみ、真の精神世界を発見することができるのです。ちょうど、月や水星が外的な空間の中に昇ってくるのは現実であり、夢のような幻想ではない、ということを否定できないように、私たちが十全なる意識をもって精神的な世界に入っていくとともに、ちょうどこの地上で人間に出会うように、精神的な存在たちにそこで出会うとき、それもまた同様に現実的な世界なのであり、幻想ではないのだ、ということが分かるのです。私たちが精神世界の本性を意識することなく精神的なものを求めるとすれば、私たちは必ず間違った道筋に沿っています。もし、私たちが、地上に留まりながら、霊媒やその顕現に関する実験に満足し、精神的なものとの直接的な接触を持たないとすれば、私たちは間違った道の上にいいます。精神的な世界の中で意識を目覚めさせることなく、例えば表面的な神秘主義のように、つまずきながら手探りで進み、成果だけを求めるようなあらゆる活動は、間違った道の上にいます。精神的な世界に貫き至るに際して、直ちにこの世界を精神的な現実として経験するところのあらゆるものは、正しい道の上にいます。

 ですから、月領域に関する内的で生きた認識は秘儀参入への道のひとつの出発点なのです。そして、私たちは次のように言うことができるでしょう。太陽と月の関係において、普通は眠りの中で経験されるところの人間の通常の経験を、秘儀参入者は今や目覚めた生活の中で経験する、と。人間は月の影響を、それがまるで彼にとって外的なものであるかのように意識するようになります。彼は夜を昼の中に招き入れます。そして、私たちの精神の目には、私たちが夜空を見上げるときに通常見られるような星が散りばめられた夜空ではなく、まず水星という惑星が昇ってくるのが見られます。そして、もし、私の本「より高次の世界の認識」に書かれている指示にしたがって、真のイマジネーションを発達させることに成功していたとすれば、そのイマジネーションの世界が、私たちが目覚めて生活している間、ひとつの現実としてこの月領域の中に現れてきます。

 水星の影響が及ぶ領域に私たちが参入するとき、これらのイマジネーションは水星存在たちに移行します。私たちは今や、現実に欠けた単なるビジョンを経験するのではなく、イマジネーションとしてのビジョンを知覚するのですが、これらのイマジネーションはそれぞれ対応する存在たちに移行するのです。ですから、もし、私たちが秘儀に参入する道に沿って十分に前進していないとすれば、私たちは大天使についてのビジョンを持つかも知れませんが、それはビジョンのままに留まるのです。そのビジョンが実際に大天使との接触を持ち、真の大天使がそのビジョンの中に現れるのは私たちがもっと進歩した段階に達している場合だけです。それより前の段階においては、私たちが私たちの内に月の光を経験したとしても、必ずしも大天使がそこにいるとは限らなかったのです。しかし、今や、大天使は現実のものとなりました。こうして、私たちは、私たちの視覚世界が実際に私たちが精神を知覚するところの世界へと移行する中で、水星の影響を意識するようになるのです。私はこのことをいつも強調しなければならないのですが、これが正しい仕方で達成されるのは私たちが完全に意識的であるときだけなのです。

 そしてさらに、もし、私たちが私たちの瞑想をさらに追求するとともに、私たちの内的な存在をますます強化し、活性化させるならば、私たちは水星の影響に金星の影響が加えられる領域に至ります。そして、金星の影響との接触を持つとき、つまり、金星がこの昼へと招き入れられた内的な夜の中に昇るとき、イマジネーション的な光景、すなわち真の視界を現す像の中に現れた存在たちが視界から失われ、私たちは空になった意識をもって精神的な世界に直面することになります。そこには精神的な存在たちがいる、ということを私たちは知っています。私たちは精神的な存在たちが住む金星領域に到達したのです。私たちは太陽領域が近づいてくるのを待ち受けます。今までのプロセス全体が再び太陽を経験するための準備だったのです。このすべてが生じるのは、私たちが目覚めた昼の意識を保持しながら外から太陽の影響を受けているときです。私たちは既に述べられた道を月から水星、そして金星へと辿ります。そして、視界が失われ、私たちはさらに押し進みます。それは地球から月、水星、金星、そして、ついには太陽へと続く道だったのです。私たちは太陽の内的な存在へと参入し、再び太陽を、今度は精神的に眺めます。それは見たところとらえどころがなく、はっきりとしてはいませんが、私たちは、私たちがそれを精神的に知覚している、ということを知っています。私たちは太陽の内的な存在をじっと見ているのです。

 乱暴な比較ですが、それは次のように言うのと似ているでしょう。遠くに何かあるので近寄ってみる。最初はじっとしている物体だと思ったが、取り上げてみると私の手に噛みつく。そこで、それはじっとした物体ではなく、本物の犬であることが分かる。私はそれが内的な存在によって所有されているのに気づく、と。

 この乱暴な比較によって、皆さんは、これらの経験が現実に根ざしているという事実に注意を払うかも知れません。私たちは、地球から出発して、月の影響を通過し、水星、金星を通って、太陽を眺める段階へと至ります。そこで、私たちは、それは生きた精神的な存在である、その中には精神的な存在が生きている、ということに気づきます。

 これがまず第一に辿ることができる道です。秘儀参入者が進歩するときには、この道のどの段階においても十分な意識を保持していなければならない、そのとき、彼は正しい道の上にいる、そして、もし、人間が、どのような方法であれ彼の体を離れ、意識を失い、そして、彼の眼前で精神的な現実となった宇宙へと参入するならば、彼は間違った道の上にいる、ということが十分に明らかになります。私たちは、内的で精神的な知覚に向かう真の道と偽りの道との間の違いを内的に意識しなければなりません。

 私は昨日、いかに様々の心霊的あるいは秘教的な団体が、時代の要請にしたがって、自然科学的な手法を戯画化した方法により、外的な現象を通して精神的な世界を探求しようと試みているかを示しました。誤解しないでいただきたいのですが、私はこれらの方法をけなしているのではありません。と申しますのも、私は人間が、外的な現象の観察を通して、精神的な世界の真の本性を科学的に認識することをいかに熱烈に望んでいるかを痛いほど知っているからです。私が指摘したいのは、いかにこれらの道が必ず間違いへと導くかということ、そして、真の道の本性とはいかなるものでなければならないかということです。私たちは科学の時代に生きており、これからも生きていかなければなりませんから、自然科学の直接的な方法によって精神的な世界を探求したいと考える人たち、その他の純粋に精神的な道は信頼に足るものではないと考える人たちがいるであろう、ということはよく理解できます。そして、彼らは、一方では、通常の世界があり、その中で生きる人々、社会生活が要求するものを満たし、この社会生活との関係で考え、行動する人々がいるという結論に達します。そこには何も特別なものはありません。それは受け入れられる生き方です。科学的な探求の分野では外的な現象、すなわち熱、光、電気、磁気等々が問題になります。

 他方、人生においては、普通ではない状況が生じます。人間は自動筆記を行い、催眠術や誘導の影響下で様々の行為を遂行します。彼らはこの方法で通常の世界の中に見知らぬ世界が現れるのではないかと疑い、これらの外的な兆候や普通でない現象を説明しようとします。通常のニュースは無線で伝えられる一方、彼らは、どのようにしてニューヨークにいる人の考えや経験がテレパシーによってヨーロッパに住むその人と魂的に親和性のある友人に伝えられるかを説明しようとします。この種の現象に関しては無数の例を引き合いに出し、自然科学の統計的な方法によって研究することができるでしょうが、この道はいかなるゴールにも、最終的な理解にも導きません。何故なら、精神世界そのものの中に求められるべき人間の方向づけ、必要とされる精神的な方向づけを欠いているからです。これらの現象のすべては、それらがどれほどすばらしくても、外的な世界における雑多な現象の寄せ集めのように見えます。私たちはそれらについての認識や理解に到達することはできません。それらを記録し、途方もないものであるとみなし、精神世界についての仮説を打ち立てるのですが、それは無意味なのです。何故なら、それらの現象自体がその源泉を精神世界の中に有しており、それらがその真の本性を簡単に漏らすことはないからです。私たちがいかに霊媒や科学的な事実に取り組んだとしても、精神的な世界はいつでも私たちとともにあるにもかかわらず、その真の本質が明かされることはありません。

 この関連で、皆さんには、昨日触れた私とベークマン博士の研究を思い起こしていただきたいと思います。今、これらの現象を正確に記述しようとする試みがなされています。夢の内的な生活に光を投げかけようとする別の探求の道については既にお話ししましたが、ちょうどそれと同じく、この探求方法も精神的な洞察なしには成り立ちません。その探求は、探求すべき現象が精神世界そのものにおけるそれらの対応物に直接関係づけられる、というような仕方でなされます。

 けれども、これらの現象は私たちが、ちょうど今お話ししたような仕方で、外的な世界において出会うところの個々の奇跡的なできごととは関係がありません。それらが属している領域とは、医学や解剖学、生理学の訓練を受け、人間の器官−肺、肝臓、あるいはその他の器官−の外的な形態についての知覚がこれらの器官のイマジネーション的な理解に向けて変容を遂げ、徐々に人間の有機体をイマジネーションにおいて見ることができるようになり始めた人によって知覚されるところの領域です。

 ですから、このことが可能になるのは、自然における通常の外的な現象ではなく、異常な現象と同じ仕方で働くところの人間の器官について私たちが研究することができるときなのです。つまり、それが可能になるのは、私たちが当初の人間的、科学的、解剖学的な認識を人間の有機体へと精神的に貫き至るものに変容させる立場にあるときなのです。以前に私がお話しした方法では、私たちは人間存在全体を出発点とします。私たちが精神的な解剖学を通して直接知覚し、理解するところの個々の人間の器官から出発する道は、自然科学を戯画化したものである統計的な手法によって外的な現象を理解しようとする偽りのアプローチとは対照的に、真の結果へと導くことができる道なのです。このことからお分かりのように、これらのことがらを議論することができるようになるためには、この道筋に沿って訓練を受けてきた臨床家の協力が必要だったのです。さらに言えば、この観点から解剖学を見る人は、このような方法で人間の器官を精神的に理解するとき、目の前のゴールについていかなる疑いも心に抱くべきではない、ということがお分かりでしょう。そして今、精神的な知覚の前に、以前に述べたような内的な人間ではなく、もちろんまだ漠然とはしていますが、力強く、巨大な姿をした外的で宇宙的な人間−全体として知覚されるのではなく、彼の器官の内的で精神的な知覚を通して現れるような人間が明らかになります。単なる物理的な人間ではなく、宇宙的な人間が出現するのは、これらの器官が精神的に眺められるからです。ちょうど、以前に、夜の世界−月の領域−が昼に招き入れられたように、今や私たちがこの存在−それは完全な人間ではなく、個々の器官から構成されている存在なのですが−の中に招き入れるのは土星領域の衝動なのです。

 ちょうど、以前の段階において、月の領域が通常の目覚めた意識の中に招き寄せられたように、今や土星の領域が科学的な意識の中に招き寄せられるのです。私たちは土星の力があらゆる器官の中で特別な仕方で働いているのに気づくようになります。その働きは肝臓の中では特に強く、肺の中では比較的弱く、頭部においては最も弱くなっています。

 こうして、私たちは、いたるところで土星の影響を探す、という私たちに課せられた目標を意識するようになります。ちょうど、私たちが、以前の段階において、瞑想を実行することによって精神的に前進したように、今や、土星の探求、すなわち、個々の器官の内的で精神的な構造の探求と同化することによって、私たちは木星領域へと貫き至り、あらゆる器官は、実際、神的−精神的な存在の地上における対応物である、ということに気づくようになるのです。

 人間は、彼の内に、神的−精神的な存在のイメージを彼の器官として担っています。宇宙全体は、最初、土星領域の中に巨大な存在として出現したのですが、巨大な宇宙的存在としての人間全体が、何世代にもわたる神々の内的−有機的な共同作業の総体として現れるのが見られるのです。

 私たちはここでも、精神的な経験をする過程で私たちを支え、保持することができる力によって活性化されたように、十全たる意識の中でこの道を追求しなければなりません。私たちは、これらすべての影響はまず第一に胎児の段階に現れるが、その出現は一時的なものである、ということを心に留めなければなりません。それらの存在に気づくのは実際には容易なことなのですが、もし、私たちが本質的な危険に屈するならば、つまり、この領域で生じるあらゆるものが私たちの意識から直ちに消え失せ、そのため、私たちはそれについてじっくりと考える立場には決してない、という本質的な危険に屈するならば、それらを記述すること、それらの明確な印象を保持すること、それらを心的なイメージへと形づくることはできません。

 さて、今日、魂の探求に従事する人たちは精神を顧慮することなど夢にも思っていません。彼らは自分たちのやり方、つまり、あれこれの人を実験室に呼んでテストしながら仕事をすることを好みます。けれども、精神的な現実は人間のレベルにまで引き下げられることはありません。このような方法でそれらを理解し、徐々に科学的な解釈に到達するつもりである、と公言する場合は特にそうなのです。

 昨日お話しした医学書に可能なのは、はるかな未来において十分に発達した科学になることができるところのものへの最初の基本的な導入を提供する、ということだけです。けれども、これらのことがらが今日の精神的な世界に存在し、地上にではなく、太陽上に生きる存在たちにとって自然なものである程度に応じて、それらは今お話しした仕方で地上的な意識の中にもたらされることができます。私たちは、実験室における実験手段や教科書の中に見られるような抽象的な解剖学によって精神的な洞察を発達させることができる、と想像すべきではありません。すべての精神的なことがらは人間自身によって直接経験されなければならない、というのが本質的な点なのです。何故そうなのでしょうか?

 私たちがこれらの現実を光の中にしっかりと保つことができるのは、それらが人間の共通の努力から生じる力によって、つまり、人間が地上における以前の受肉から導き出す力によって支えられ、保持されるときだけだからです。このことが起こるとき、土星と木星の領域の世界に私たちが火星の領域と呼ぶところのものが入ってきます。それらはインスピレーションを通して現れます。そして、私たちはインスピレーション意識をもって再び太陽へと戻るのです。

 これは今日の自然科学が要求するところのもうひとつの道、昨日お話しした秘儀参入者たちが避けたがる道です。彼らはこの道との接触へともたらされるとき、落ち着かなく感じるのですが、にもかかわらず、それは従うべき道なのです。

 この議論からお気づきと思いますが、月領域を通過する道は古い秘儀参入者たちには全く適したものだったのです。この月の道に関しては、H.P.ブラバツキーの中にすばらしい記述があります。もし、私たちが真実を作り話から区別することができるならば、「シークレットドクトリン」の中には多くの重要な真実を見いだすことができます。けれども、この道はH.P.ブラバツキーが密接に関係していた月のアストラル的な光の領域を通過する道です。そこでは気高い水星の使者が彼女の解釈を方向づけていました。私たちが彼女の論説を追っていくとき、いかに彼女が絶えず彼女のイマジネーションを正しい源泉へと向かわせていたか、ということに気づきます。ブラバツキーのすばらしいところは、最初に彼女がイマジネーションへと促されるのを感じるやいなや、それが直ちに実現するという点です。彼女は水星の使者によって秘密の図書館へと導かれます。考えが彼女の中で形を取ると、水星の使者が彼女をバチカンによって注意深く守られていた本へと導くのです。彼女はその本を読み、私たちは、もし、そうでなかったとしたら、バチカンによって何世紀もの間、用心深く守られてきたために、彼女にはアクセスできなかったであろうような様々な情報を彼女の著書の中に見いだします。この道は実際、よく通われた道であり、しっかりとした内的コントロールの下で達成されるあらゆるものとは注意深く区別されるべき道なのです。

 もうひとつの道は私がお話しした経過を辿るのですが、それはH.P.ブラバツキーがペストのように嫌った現代の自然科学の方法に依存しています。その道は、私がお話しした仕方で、つまり、カルマ的な記憶を呼び覚ますためというよりは、その記憶をしっかりと保持し、記述するために人間の力をカルマ的に発達させる、という点にその道はその力とそのよりどころを見いだす、ということを十分に意識した上で歩くべき道です。

 今日の科学は昨日この領域における私の協力者に言及したときにお話ししたような人間的な価値に浸透されていなければなりません。私たちが真の道と偽りの道の源泉を最もよく見いだすことができるのは定義を通してではなく、具体的な例を議論することによってなのです。この連続講義のまとめとして、明日は、私たちに残された短い時間の中で、このテーマに関するできるだけ多くの情報をつけ加えたいと思います。

 

(訳注)

 シュタイナーはシュライデン教授夫人とフェヒナー教授夫人の雨水競争の話がよほど気に入っていたらしく、あちこちの講義で取り上げています。何故シュライデン夫人が競争を嫌がったのかがよく分からなかったのですが、この講義でようやく分かりました。

 ご存じと思いますが、水星と金星は後世になって名前が取り違えられました。したがって、神秘学的に言うと、惑星は、地球−月−水星−金星−太陽の順に並んでいます。

(第十講・了)


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