ルドルフ・シュタイナー

「精神的な探求における真実の道と偽りの道 (GA243)

トーケイ、ディヴォン、1924年8月11日−22日

佐々木義之 訳

 

第十一講 

精神的な探求と精神的な探求の理解とは

どのような関係にあるか?

 

 今回の講義の中で私が触れたよりもさらに多くのことがらをつけ加えることはもちろん可能なのですが、今日はこのテーマ全体を総括することによって、それらを結論づけるように努力することにしましょう。

 今回の講義全体を通して私たちが取ったアプローチが投げかける重要な問題とは、人智学あるいは人智学として提示されるような精神的な探求に対する態度とはどのようなものであり得るか?ということです。今日、別の世界に関する人智学的な記述を感じ取り、それを完全に自分で検証することを可能にするような精神的な訓練や実践に直ちに取りかかることができる人はほとんどいないと思われます。では、そのとき、人智学が教えるところのものを理解するという点に関しては、どのような立場があるのでしょうか? この問題は、人智学を取り上げなければならないという衝動、あるいは憧れさえをも感じるような人々の心のすぐ近くに横たわっているのですが、いつも間違った光の下に眺められ、正に、私がこの連続講義の中で擁護してきたような正しい手続きが把握され得ないために、誤解される可能性が高い問題となっているのです。

 人々は次のように問うかも知れません。私が自分でそれをのぞき見ることができないとすれば、精神世界についてのこれらの記述は一体何の役に立つのか?と。そこで、今日は、ざっとした分析の中で、この問題に触れてみたいと思います。

 自分で精神世界を探求できない限り、人智学の教えやその理解に対する正しい洞察を獲得することはできない、と言うならば、それは真実ではありません。特に、現代においては、別の世界に関する事実を実際に発見するということがそれらの事実を理解するということから区別される、というのが本質的なことなのです。今日、私たちが知っているような人間について、彼は実際には別の世界に属しているのであって、彼の経験は別の世界から導き出されるのだ、ということを思い起こすならば、この区別は皆さんにとって明らかなものになるでしょう。今日のように構成された人間にあっては、その一連の知識とその日常的な意識は彼が毎日の経験を通過する中で獲得されます。この意識は私たちの探求の出発点なのですが、それは、人間が目覚めて生活をしている間、ある限定された分野について、つまり、感覚知覚によって近づくことができるとともに、人間がその進化の過程で発達させてきたところの知性という手段によって把握し、説明することができるような世界の側面について、彼に一定の見通しを与えることができるだけなのです。

 人間は、その理解力によって、既に指摘したような漠としてはっきりしない仕方で、夢の中に、つまり現象世界の背後に隠された世界の中に貫き至ります。彼は、その魂的な生活の中で、彼が死と再生の間に通過する世界との接触を持つのですが、ただ、それは夢のない眠りの中においてであり、そこでの彼は、精神的な闇に取り囲まれ、通常は思い起こすことができない生活を送っているのです。

 人間は三つの意識状態−覚醒、夢、そして深い眠り−を知っています。しかし、彼はこの三重の意識によって近づくことができる世界の中でのみ生きているのではありません。と申しますのも、彼はその王国に多くの邸宅を持つ存在だからです。彼の肉体は、そのエーテル体が住む世界とは異なる世界に住んでおり、エーテル体はまたアストラル体とは異なる世界に、そして、その両方ともが自我とは異なる世界に住んでいるのです。

 そして、この三重の意識−はっきりとした覚醒意識、夢の意識、そして眠りの意識(意識が存在しないと言いたいかも知れませんが、それは減退した意識としてしか記述することはできません)は、今日見られるような自我に属しています。そして、この自我は内側を見るときにも三つの意識状態を有しています。それが外側を見るときには、目覚めの(昼の)意識、夢の意識、そして眠りの意識があるのですが、内側を見るときには、まず、はっきりとした知的な意識があります。次に、感覚意識、すなわち感覚生活があるのですが、これは通常、想像されているよりもはるかに不透明で夢のようなものです。そして、最後に、漠とした黄昏のような意志の意識があり、これは深い眠りの状態に似ています。通常の意識によっては、眠りの起源を説明できない以上に、意志の起源を説明することはできません。人間が意志の行為を遂行するときには、明確ではっきりとした思考が伴っています。さらにこの思考にはより不確かな感情が被せられています。感情に浸透された思考は四肢へと降りて行くのですが、その過程を通常の意識によって経験することはできないのです。私が昨日と一昨日お話しした種類の探求に対して意志が提示する図とは次のようなものです。つまり、思考が頭の中で何かを意志し、それが感情を通して体全体に移されることによって、人間が彼の体全体で意志する間、微妙で繊細かつ親密な燃焼過程に近い何かが生じる、というような図です。

 人間は、秘儀に参入する意識を発達させるとき、熱の影響にさらされるところのこの意志の生活を経験することができるようになるのですが、それは通常の意識には隠されたままに留まります。これは意識下に横たわるものがいかに秘儀に参入する意識レベルにまで上昇させられるかを示すひとつの例です。

 昨日触れた本の情報がますます公のものとなるとき、人々は、人間によって遂行される意志の行為が秘儀に参入する意識の中で熟考されるとき、それはろうそくの光、あるいは暖かさを与える光の点火をも見ているような印象を与える、ということに気づくことになるでしょう。私たちは、ちょうど、この場合には、外的な現象についての明確な像を有しているように、意志の中に沈殿したものとしての思考を見ることができるようになっているでしょう。そのとき、私たちは、思考が感情を発達させる、感情から−それは人間の中で下降する方向に向かいますが−暖かさの感情、人間の中の炎が発する、と言います。そして、この炎が意志するとき、それは段階を追って点火されることになります。私たちはこの通常の意識を次のような図式で示すことができます。

 「内的」 「外的」

 明晰な思考 目覚めた昼の意識

 感情生活  夢の意識

 意志の意識 眠りの意識

 さて、それにもかかわらず、精神的な世界を探求するためには、私たちは、必然的に、私たちの意識を私たちが意識的に理解しようとする世界に向けなければなりません。とはいえ、もし、私たちの探求の果実を正直に伝えようとするならば、口頭で伝えられる考えは、それとは別の意識形態を持つ言語によって表現されなければならないのです。

 多分、皆さんには、これは二重の過程である、ということがお分かりでしょう。私たちは、まず第一に、例えば、私が昨日説明したような人間の器官の世界を探求します。私たちは、人間が、その人生の経過を通して、精神世界に近づくとき、彼の中に突然現れる力を利用して問題の現象を探求します。私たちがそのとき見いだすのは、その理解の範囲内で現れる事実です。そして、世の中には、これらの事実に気づき、それを世界に伝える人たちがいるのですが、そのような人たちによって世界に伝達されるそれらの事実は、もし、私たちが必要な客観性をもってそれらを見るならば、通常の意識によって理解することが可能なのです。人間進化の過程においては、いつの時代にも、精神世界に関連した事実の探求に自らを捧げ、その探求の成果を他の人々に伝える少数の人たちがいたのです。

 さて、今日、あるひとつの要素がそのような知識の受容に不利に働いています。それはつまり、一般に、人々は、ある社会環境の中で、そして、彼らがただ事実の世界、感覚の世界、そして感覚の世界から導かれる論理的な情報だけを信じるようになるまでに彼らの習慣的な反応を条件づけるような教育システムの下で成長する、ということです。この習慣はあまりに強く、根深いために、人々の間には、「大学には、教えることに加えて現象世界のある実際の側面について研究する、あるいは、教育の分野で他の研究者が見いだしたことを確かめるような教育学部の卒業生がいる」と言う傾向があるほどです。誰もが彼らの発見を受け入れ、自分でその事実を探求しないときでさえ、それを信じているのです。この際限のない馬鹿正直さは特に現代科学のために取っておかれています。人々は、洞察を有している人にとっては、単に問題が多いというだけではなく、全くのうそであるところのものを信じているのです。この状況は何世紀にもわたる教育の結果として現れてきました。この教育の形態はそれ以前の世紀に生きた人間にとっては見知らぬものであった、ということを指摘したいと思います。彼らはまだ彼らの意志と感情に適合していた精神的な世界に対する古い洞察のいくらかをまだ保持しており、その中に参加していたために、精神的な事実を探求する人たちを信じる傾向の方がはるかに大きかったのです。今日の人々はそのような知識とは無縁です。彼らは、大陸においてはより理論的なものとして、イギリスとアメリカにおいてはより実践的なものとして今やしっかりと確立された観点に慣れ親しんでいるのです。

 大陸には、これらのことがらについての詳細な理論が存在する一方、イギリスとアメリカには、彼らにとってそれを克服するのが決して楽ではないようなそれらに対する本能的な感情が存在しています。何世紀も経過する間に、人類は現象世界に関連する科学的な観点に慣らされ、例えば、天文学、植物学、動物学、医学等を、有名校や学習センターで教えられるような形で受け入れるようになったのです。例えば、化学者が彼の実験室で何らかの研究に取りかかるとき、人々はそこでどのような技術が使われているのかをほとんど理解していません。その仕事は喝采をもって迎えられ、彼らは躊躇なく「ここには真実がある、信仰に訴えかける必要のない知識がある」と断言するのですが、実際、彼らが知識と称しているところのものは信仰なのです。

 現象世界を探求し、論理という道具によって現象世界の法則を確かめるために採用される方法の中には、ひとつとして精神世界についてのほんのわずかの情報さえも提供するものはありません。しかし、精神世界全体をそれなしで済ますことができる人もほとんどいません。そうできるという人は自分に正直なのではなく、そう思いこんでいるだけです。人類は精神世界について何かを知るという差し迫った必要を感じているのです。人々は、現在知られているような精神世界について彼らに何ごとかを語る人たちをまだ無視していますが、歴史的な伝統や聖書の教え、東洋の聖典についての話しを聞く準備はできています。彼らがこれらの伝統的な書物に興味を持つのは、それ以外には、精神世界との何らかの関係をもつという彼らの必要性を満足できないからです。そして、人々は、聖書や東洋の聖典が個々の秘儀参入者によってのみ探求されてきたという事実にも関わらず、それらの聖典は別の種類の見方を反映しており、現象世界の知識、科学的な知識とは関係がなく、信仰に依存し、信仰に訴えかけるものである、と主張します。こうして、科学と信仰の間には厳格な仕分けの線が引かれ、人々は科学を現象世界に、信仰を精神世界に関連づけるのです。

 大陸の福音派教会の神学者たち−福音派や自然科学者の二元論を認めず、古い伝統を保持するローマカトリック教会の神学者ではありません−の間に存在しているのは、知識には明確な境界線があり、信仰が問題になるのはその向こう側である、ということを示すための無数の理論です。それ以外の可能性はない、と彼らは確信しているのです。

 イギリスではそれほどまで悪夢に悩まされるということはありません。しかし、それは理論化することがそれほど一般的ではないからです。そこでは、科学が語るべきことには耳を傾け、信仰の中では−私は、信心家ぶって、とまで言うつもりはありません−敬虔に生きることによって、これらふたつの領域を厳密に切り離しておく、というのが伝統的な態度になっているのです。

 過去のある時代においては、俗人と学者がこの観点を採用していました。ニュートンは重力理論、つまり、正にその本性によって、いかなる精神的な見方の可能性も排除するところの空間概念に関する理論の基礎を打ち立てました。もし、世界がニュートンによって記述された通りのものであったとすれば、それは精神を欠くものであったでしょう。しかし、それを認める勇気を持ち合わせている人は誰もいません。神的−精神的な存在がニュートン的な世界の中で生き、活動し、その中に存在する、ということを想像することなど誰にもできないのです。

 けれども、精神を排除する空間と時間の概念は、この考えを信奉する人たちによってだけ最終的に受け入れられたのではなく、研究活動に独自で取り組む人たちによっても受け入れられることになります。ニュートン自身が後者のよい例です。と申しますのも、彼は精神的なものを排除する世界観の基礎を据えただけではなく、同時に、黙示録に関する自身の解説の中で、精神的なものを完全に受け入れているからです。

 現象世界の知識と精神世界の知識との間の結びつきは断ち切られてしまいました。今日、理論家たちはこの二元論のしっかりとした証拠探しに乗りだしています。そして、理論を信用しない人たちの思考と感情にこの考えを植え付けることによって、最終的に彼らを条件づけるためのあらゆる努力がなされているのです。

 他方、人間の知性、理解し、考えるための力、思考能力は、今日、もし、彼がそれらに対する意識的なコントロールを保持しているとすれば、理論によっては秘儀に参入する科学の教えを探求することはできないにしても、理論によってそれを把握することができる地点にまで達しています。

 本質的なのは、次のような観点が広く受け入れられる、ということです。つまり、精神世界への探求は以前の受肉からの力を現在の地上生において呼び出すことができる人たちによって引き受けられなければならない、何故なら、精神的な探求を行うために必要な力はそのような力から導かれるからであるが、この探求の結果はますます多くの人々によって受け入れられ、理解可能な考えの中に取り込まれることになるだろう、さらに言えば、精神的な探求の結果が他の人々の健全な理解力によって受け取られるとき、この理解力のお陰で、これらの人々が、精神世界について、本当の経験をするための道が準備されることになる、というような観点がです。と申しますのも、しばしば述べてきましたように、精神世界に参入するための最も健全な道とは、まずそれについて書かれているものを読む、あるいは、それについて語られることを自分のものにする、ということだからです。

 もし、私たちがそれらの考えを受け入れるならば、それらは内的に生き生きとしたものになり、私たちは、理解する、ということだけではなく、カルマ的な発達にしたがって、超感覚的に見る、ということをも達成することになります。これとの関連で、私たちはカルマの考え方を深刻に受け止めなければなりません。今日の人間はカルマに関心を持っていませんから、ちょうど実験室で硫黄を分析するように、いわゆる超常現象と言われるものの起源を実験室的な手法によって分析できると信じていたり、通常ではない認識形態を示す人を、硫黄と同様に、実験室的な試験に供しなければならないと信じているのです。

 けれども鉱物としての硫黄はカルマを有していません。人体に関連した硫黄だけがカルマを有しているのです。何故なら、カルマに左右されるのは人間だけだからです。実験室において人間のカルマの一部を試験することが、もし、その探求が何らかの価値を持つべきであるならば、必要な前提条件となるであろう、と仮定することは私たちにはできないのです。

 私たちが精神科学を必要とするのはこの理由によります。他の人の手助けによって精神世界の知識を獲得することを私たちに可能にするようなカルマ的な条件を探求することがまず第一に必要になるかも知れません。私の著書「神智学」の最近の版では、その最後のところでこのことが明確に説明されています。今日の人類にはこの考えを受け入れる準備ができていませんが、それは彼らが無能であるからではなく、保守的であるからなのです。けれども、それは途方もなく重要な考えなのです。

 私たちは直ちに精神世界の探求に取りかかる必要はない、しかし、他方で、もし、カルマ的な必然性がないところでカルマの実験をしたり、私たちが理解しない技を使う霊媒たちを使って実験するというような望ましくないやり方を採用せず、この世に適した意識状態であるところの日常意識を頼りにするならば、私たちは秘儀に参入する科学が伝えるものについての完全な理解に至るであろう、ということに気づくこと、それが本質的なことなのです。もし、とりあえず自分自身で精神的な世界を経験できないならば、それを理解することはできないだろう、と想像するならば、それはとんでもない間違いです。「自分でそれを経験できないならば、精神世界が何の役に立つのか?」と言うとすれば、それは今日よく犯される別の間違いを助長することになります。それは最も大きな、最も危険な、最も明らかな間違いを犯すことであり、人智学協会のような運動に携わる人たちは、そのことをはっきりと意識しているべきです。

 この物理平面上における人間の存在は別の世界における存在と結びついています。このことは、偏見のない見方に対しては、次のような事実、つまり、人間の経験とは、その経験全体という光の中で見たときには、人生における最も決定的な問題との関係で、ある意味では、それらが密接に関連しているにもかかわらず、お互いに無関係のように見えるために、通常の日常意識によっては理解されないという事実によって説明することができます。

 ですから、ここでは簡単な説明しかできませんが、まず最初に、人間の物理世界への参入と退出、つまり、誕生と死についてお話ししたいと思います。

 私たちの地上における人生の中で最も重大なできごとである誕生と死は通常の意識にとっては別々の現象のように見えます。私たちは、誕生に先立つものすべて、つまり、人間の受肉に関係するものすべてを私たちの地上における人生の始まりに関係づけ、死をその終わりに関係づけます。それらは引き離されているようにも見えます。しかし、精神的な探求を行う人にはそれらがますます接近するのが分かるのです。と申しますのも、もし、私たちが月の秘儀へと導く道を辿り、昨日お話しした仕方で夜を昼の中に召還するならば、私たちは、いかに肉体とエーテル体が誕生の過程の中でますます成長し、繁栄するようになるかを、つまり、いかにそれらが芽の状態から段々と人間の形を取るようになるかを、そして、いかに地上に生きる間、それらの活力が、35才になるまでは、ますます増加するとともに、その後は段々と減少し、衰退が始まるかを知覚するからです。もちろん、この過程を外的に観察することはできませんが、昨日お話しした月の道を辿る人は、肉体とエーテル体が細胞状態から成長し、発達するとともに胎児の形態を取る一方、人智学ではアストラル体と自我と呼ばれる別の生命形態が衰退と死の力に曝される、ということを知覚するのです。

 私たちが生命の奥深くに隠された場所を暴くとき−これについては昨日、具体的な記述を行いました−私たちは肉体とエーテル体の誕生、そして、アストラル体と自我の死を意識するようになるのです。私たちは死が生命に織りなされ、人生の冬がその春と提携させられるのを知覚するのです。

 そして、ここでも、私たちが秘儀に参入する意識をもって人間を観察するとき、私たちは、人間の体が衰退する一方で、35才を境に、自我とアストラル体が芽吹き始める、ということを意識するようになります。この芽吹く生命は肉体とエーテル体の中に存在する死の力によって遅延させられますが、にもかかわらず、はっきりとした再生が本当に生じるのです。そして、そのようにして、私たちは、精神的な探求という手段によって、生命の中には死が存在し、死の中には生命が存在している、ということに気づき始めます。こうして、私たちは、誕生の時点で死んでいくのが見られるところのものをそれらがその十全たる意義と偉大さにおいて現れる地上以前の生活にまで辿っていくための準備をするのです。

 また、私たちは、衰退していく肉体とエーテル体の中に、アストラル体と自我が徐々に芽生えてくる(と申しますのも、それらは肉体とエーテル体の中に捕らえられているからですが)のを知覚し、それらが、死の瞬間に、肉体とエーテル体から精神世界へと解き放たれるのを追っていく準備をします。このように、誕生と死はお互いに相関しているにもかかわらず、通常の意識には別々のできごとのように見える、ということが分かります。

 精神的な探求によって明らかにされるこれらの情報のすべては、今日の講義の最初に示したように、通常の意識によって把握することができるのですが、同時に、通常の意識には実証的あるいは科学的な証拠を要求するのを諦めさせる準備ができていなければなりません。

 かつて、次のように主張した男がいました。ちょうど石が地面に落ちるように、椅子を持ち上げて離せばそれもまた地面に落ちる。何故なら、すべては重力に曝されているのだから。したがって、もし、地球が支えられていなかったとすれば、それも必然的に落下するだろう、と。彼が気づきそこなっていたのは、物が地面に落ちるのは地球の引力に引きつけられているからであって、地球自体は、お互いに支え合い、引きつけ合っている星のように、自由に空間中を動いている、ということです。

 現代の科学者のように証明が感覚的な証拠によって支えられていることを要求する人は、地球は、もし、しっかりとピンで留められていなければ、落下するに違いない、と信じているこの男に似ています。人智学的な真実はお互いを支え合う星のようなものです。全体的な構図を見る準備ができていなければなりません。そして、もし、それが可能であったとすれば、人々は誕生と死の相互関係というような人智学的な考えを本当に把握し始めることでしょう。

 話しをもう少し進めて、現代科学の原則にしっかりと基づいている一方で、人智学的な考えにも注意を払うとともに、受容的であるにもかかわらず、人間全体を考慮に入れることは学んでおらず、昨日お話しした仕方で、個々の器官だけを考慮する人の場合を取り上げてみましょう。

 秘儀に参入する過程の中で獲得されたその器官についての知識を通して、私たちは誕生と死だけではなく、何か全く異なるものをも意識するようになるのです。この器官についての光の下では、誕生と死はその通常の重要性を失います。と申しますのも、死ぬのは人間全体であって、彼の個々の器官ではないからです。例えば、彼の肺は死ぬことができません。今日の科学がぼんやりと気づいているのは、人間全体が死んだとしても、彼の個々の器官はある程度賦活されることができる、ということです。人間が埋葬されようと、火葬されようと、彼の個々の器官が死ぬということはないのです。それぞれの器官はそれぞれが関係づけられているところのあの宇宙領域へと向かう道を辿ります。人間が地下に埋められたとしても、それぞれの器官はそれぞれの場合に応じて水、空気、あるいは熱を通って、宇宙への道を見いだします。実際には、それらは解消されるのですが、消え去るのではありません。消え去るのは全体的な人間だけなのです。

 ですから、死が意味を持っているのは全体的な人間に関してだけです。動物においては器官は死にますが、人間においてはそれらは宇宙へと解消されるのです。それらは急速に解消されます。埋葬はよりゆっくりとした過程であり、火葬はより速い過程です。私たちは個々の器官が無限へと向かう道、それぞれがそれ自身の領域へと向かう道を辿るのを追っていくことができます。それらは無限の中に失われるのではなく、昨日お話ししたような力強い宇宙的な存在形態を取って還っていくのです。こうして私たちは、秘儀に参入する意識をもってその器官を観察するとき、死に際してそれらの器官に一体何が降りかかるのかを、つまり、いかにそれらの器官がそれぞれが属する宇宙領域へと流れ出していくのかを見ます。心臓は肺とは異なる道を、肝臓は肺や心臓とは異なる道を辿ります。それらは宇宙全体にばらまかれるのです。そして、宇宙人間が現れます。つまり、私たちは彼を宇宙に組み込まれた真の姿において見るのです。そして、この宇宙人間の視覚の中で、私たちは例えば引き続く受肉の源泉とは何かについて意識するようになります。私たちは、以前の地上生が現在の人生にカルマ的に戻ってくることを再び、明確に、はっきりと意識することができるようになるためにこの視覚を必要としているのですが、その視覚はその起源を人間全体の中にではなく、いくつかの器官の知覚の中に有しているのです。

 月の道を通って精神世界に接近した人たち、神秘家や神智学者たちはきわめて不思議な現象−かつて地上に生きていた人間の魂、神、そして精神−を知覚したのですが、彼らには、それが一体何者なのかを理解したり、決めたりすることも、そこにいるのがアラヌス・アプ・インスリスなのか、ダンテなのか、あるいはブルネットー・ラティーニなのかをはっきりさせることもできませんでした。それらの実体はときとして最もグロテスクな名で呼ばれました。つまり、彼らには、そのとき接触している受肉が彼ら自身のものであったのか、それとも別の人々のものであったのか、あるいは、それらが何者であったのかを決めることができなかったのです。

 ですから、精神世界は昼の中に招き入れられた月意識の領域と関連しているのですが、金星衝動の流入によってこの視界が失われ、私たちは、今や、精神世界をその全体性において眺めることになります。しかし、それは本来そうあるべきであるような明確に規定された世界ではありません。私たちが全体としての人間の世界的な状況、宇宙存在としての人間の立場に最初に気づき始めるのはこの領域においてなのです。

 けれども、この関連で、私たちは悲劇的な現実に気づかざるを得ません。と申しますのも、もし、人間がこの地上ではそのように見えるところの完璧に物理的な人間でさえあったならば、彼はきわめて有徳かつ素直、そして高貴な存在であったはずだからです! ちょうど、通常の意識をもってしては、死について探求することがほとんどできない−死についてはいつでも既に示唆したような意味で理解することができます−ように、私たちは、通常の意識という手段によっては、何故、人間は正直そうな顔をして−彼らが正直そうな顔をしていることは否定できません−悪いことができるのかを知ることはほとんどできないのです。悪人になることができるのは全体としての人間ではありません。現在のような彼の外皮、皮膚は高貴で善良なものなのですが、人間はその個々の器官を通して悪人になるのです。つまり、悪の可能性は彼の器官に存在しているのです。

 こうして私たちはそれらの器官とそれに対応する宇宙領域との関係、あるいは悪への強迫観念がどの領域にその起源を有しているのかを理解するようになります。つまり、基本的には、ほんのわずかでも悪が現れるところには必ず強迫観念が根底にあるのです。

 こうして、私たちの人間全体に関する知識によって、まず、誕生と死が明らかなものとなり、次に、彼の有機体についての知識によって、彼の宇宙に対する関係が健康や病気すなわち悪において明らかになります。

 そして、私たちが、人間の器官学を通して、宇宙人間を眺めることができるとき、私たちはゴルゴダの秘儀を経験したあの存在を初めて精神的に知覚することができるようになるのです。と申しますのも、キリストが太陽からやってきたのは宇宙人間としてだったからです。その瞬間に至るまで、彼は地上の人間であったのではなく、宇宙的な形態をとって地球に接近したのです。もし、まず最初に、宇宙人間をその真の姿において理解する準備が私たちにできていないとしたら、どうしてそれを認識することができるでしょうか! キリスト教が発展していくことができるのは、正にこの宇宙人間についての理解からなの

です。

 こうして、いかに真の道が精神世界に向けて、つまり、誕生と死、人間有機体の宇宙に対する関係、悪の認識やキリスト、すなわち宇宙人間についての知識へと導くかが分かります。このすべてが理解できるようになるのは、それらが様々の側面でお互いに支え合っているのが示される、というような仕方で提示されるときです。そして、精神世界への道を見いだすための最良の方法とは、理解すること、そして、理解したものを瞑想することです。瞑想のためのその他の原則は付随的な役割を果たします。今日の人間にとっては、これが精神世界への正しい道なのです。他方、意識の正常な道筋を維持し、利用することに失敗するその他のあらゆる方法、霊媒術、夢遊病、催眠術等々のトランス状態を用いるあらゆる試み、意識によっては理解できない世界事象についての現代自然科学を戯画化したものであるところの方法によるあらゆる探求−これらすべては偽りの道です。何故なら、それらは真の精神世界には導かないからです。

 精神的な探求により見いだされたものを人間が感覚的に意識するとき、すなわち、器官に関する知識を通して宇宙人間が返ってくるということ、秘教的な探求と洞察に明かされるもののすべてが秘儀に参入する意識に受け入れられ、彼の意識生活の重要な部分になるならば、ある程度、この宇宙人間の帰還はキリストの理解へと導くことができるということを人間が意識するとき、感情を通して、神が地上的なものの中に現れるのです。そして、そこに芸術の本分があります。

 芸術は人間が今お話ししたような道に沿って精神的な世界から受け取るところのものを感情を通して半意識的に体現します。ですから、いつの時代でも、精神的なものに物質的な形態をまとわせてきたのは、そのカルマによってそうすることが運命づけられた人々だったのです。

 私たちの自然主義的な芸術は精神的なアプローチを捨て去りました。芸術の歴史における絶頂期においては、精神が感覚的な形態の中に示されるか、あるいは、むしろ物質的なものが精神の領域に引き上げられました。ラファエロが高く評価されるのは、他の画家たちよりもはるかに高度に、精神的なものに感覚的な表象という衣を着せることができたからです。

 さて、芸術の歴史の中には、より造形的、写実的な芸術への傾向を持つ一般的な動きが存在していました。今日、私たちはもう一度、造形芸術に新しい命を吹き込まなければなりません。それは、何年も昔に当初の衝動の直接性が失われてしまった、という理由によります。

 何世紀にもわたって「音楽」への衝動が増大し、広がってきています。したがって、造形芸術は多かれ少なかれ音楽的な性格を持つようになっています。言語芸術における音楽的な要素を含めて、音楽は未来の芸術であることを運命づけられているのです。

 ドルナッハの第一ゲーテアヌムは音楽的に構想されましたが、そのため、その建築、彫刻、及び絵画はほとんど理解されませんでした。同じ理由により、第二ゲーテアヌムもまたほとんど理解されないでしょう。と申しますのも、絵画、彫刻、そして建築には、人間の未来の進化と調和して、音楽の要素が導入されなければならないからです。

 人間進化における最高の地点として私が言及したキリストという存在の到来、精神的に生きたものであるところの存在の到来は、ルネッサンスあるいはルネッサンスに先立つ時代の絵画の中にすばらしい描写を見いだしましたが、未来においては、音楽を通して表現されなければならないでしょう。

 キリスト衝動に音楽的な表現を与えようとする衝動は既に存在しています。それはリヒアルト・ワーグナーの中で予見され、最終的に「パーシファル」が創造される原因となりました。けれども、「パーシファル」においては、キリスト衝動の現象世界への導入、そして、そこでは、最も純粋なキリスト精神に表現を与えることが追求されたのですが、その導入においては、ドーブ等の登場に見られるように、象徴的な示唆が与えられているに過ぎません。聖餐式もまた象徴的に示されました。「パーシファル」の音楽では、宇宙と地上におけるキリスト衝動の真の意義が表現できていないのです。

 音楽はこのキリスト衝動を音楽的に、つまり、精神によって内的に浸透された調べの中で表現することができます。もし、音楽が精神科学によって霊感を吹き込まれるのにまかせるとすれば、キリスト衝動を表現する道を見いだすことになるでしょう。と申しますのも、いかにキリスト衝動が調べの中で、交響曲的に、宇宙と地上において目覚めさせられるかが、音楽によって、純粋に芸術的に、そして先験的に明らかにされることになるからです。そのためには、隠された感情の深みに貫き至るところの音楽的な経験を内的に豊かなものにすることによって、正に、長三音階の領域についての私たちの経験を深めることができるようになる必要があります。もし、私たちが長三度の領域を人間の内的な存在の内部に完全に包み込まれた何かとして経験するならば、そして、そのとき、完全五度の領域が「包み込む」性格を有しているのを感じ、それによって、私たちが五度の構成の中へと成長して行くならば、私たちは人間的なものと宇宙的なものとの境界に達することになります。そこでは、宇宙的なものが人間的なものの領域の中へと鳴り響くとともに、あこがれに燃え上がる人間的なものが宇宙的なものへと殺到することを希求しています。そして、そのとき、長三度と完全五度の領域の間で演じられる秘儀の中で、宇宙的なものへと到達する何か人間の内的な存在のようなものを音楽的に経験することが可能になるのです。

 そして、もし、私たちが、そのとき、七度の不協和音を、そして、それは、人間が様々な精神的な領域に向けて旅をするとき、大宇宙の中で経験するところの感覚的なものを表現しているのですが、その不協和音を解き放ち、宇宙的な生命を響かせることに成功するならば、つまり、もし、私たちが七度の不協和音を死滅するにまかせ、その死滅を通して、それらにある種の確かさを獲得させることに成功するならば、それらは、死滅する調べの中で、音楽的な耳にとっては何か音楽の大空に似たものの中へと最終的に調和させられることになるのです。

 ですから、もし、私たちが、既に「長調」によって「短調」をかすかに示唆した後、七度の不協和音が死滅しつつある緊張の中で、つまり、この不協和音の全体性への自発的な再創造の中で、七度の不協和音から、あるいは、これらの消滅しつつある不協和音が調和に近づきつつあるところから、短調の雰囲気の中で、五度の領域に移行する方法を見いだすならば、そして、その地点から五度の領域に短三度の領域を混合させるならば、私たちは、それによって、受肉についての、そして、もっと言えば、キリストの受肉についての音楽的な経験を呼び覚ますことになるでしょう。

 私たちは、一見したところ八度音階によって支えられていることによって、宇宙的な感情にとっては単に見かけ上不協和音であるに過ぎない七度の領域、私たちが「大空」へと形成するところの七度の領域に向けて手探りで歩み出るのですが、もし、私たちが、そのとき、それを感情で把握した後、既にお示しした仕方で私たちの歩みの跡を辿るとともに、いかに、私たちが、短三度和音の胎児的な形態の中に、受肉を音楽的に表現する可能性があるかを見いだすならば、この領域において、私たちが長三度への私たちの歩みの跡を辿るとき、キリストへの「ハレルヤ」がこの音楽的な構成の中から純粋な音楽として鳴り響くことができるようになります。

 人間は、そのとき、その調べの構成の中で、超感覚的なものについての直接的な認識を魔法のように出現させ、それを音楽的に表現することでしょう。

 キリスト衝動は音楽の中に見いだすことができます。そして、ベートーベンの中に見られるような交響曲的なものの不協和音に近いものへの解消は、音楽における宇宙的なものによる支配への回帰によって救い出されることが可能になります。ブルックナーは、伝統的な枠組みという狭い範囲においてですが、これを試みました。しかし、彼の死後に発表された交響曲は彼がこの限界から逃れられなかったということを示しています。私たちは、その偉大さを賞賛する一方で、真の音楽的な要素に接近することへの躊躇、そして、私たちが既にお話ししたような仕方で出現させるところの、つまり、純粋音楽の領域に歩みを進め、そこで、調べを通して、ひとつの世界を魔法のように出現させるところの本質、すなわち、根本的な精神を見いだすときに初めて経験することができるこれらの要素を十分に実現することに失敗しているのを見いだすのです。

 もし、人類が退廃へと沈み込んでいかないとすれば、私がお話しした音楽的な進歩がいつの日か達成される、ということに疑いはありません。そして、最終的には−それは完全に人類にかかっています−キリスト衝動の真の本性が外的に明らかにされることになります。

 このことに皆さんの注意を促したのは、皆さんに、人智学は人生のあらゆる側面に浸透することを求めている、ということに気づいていただきたかったからです。もし、人間が、彼の方で、人智学的な経験と探求への真の道を見いだすならば、これは達成されることができるでしょう。いつの日か、音楽の領域が人智学の教えの中にこだまし、キリストの謎が音楽を通して解決される、ということさえ起こることでしょう。

 以上述べたことによって、私が思い描いていた目的を示すとともに、今回の連続講義では単に示すことができただけのものを結論づけることができたならばと思います。

 しかし、付け加えさせていただきたいのは、人智学的な真実についての何らかの認識が皆さんの魂の中に呼び起こされるとともに、これらの真実が成長し、増大し、ますます広い人間生活の分野を豊かなものにするようになれば、ということです。

 人智学が達成しようとしているはるかな目的にとって、この連続講義がささやかな貢献となりますように。

(第十一講・了)


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