ルドルフ・シュタイナー

「精神的な探求における真実の道と偽りの道 (GA243)

佐々木義之 訳


第二講

三つの世界とそれが映し出すイメージ

 

もし、私たちが精神的な探求についての理解を発展させたいと望むならば、私たちはまず第一に、人間の魂が経験することができる様々な意識状態についてのはっきりとした考えを有していなければなりません。今日、地上における通常の生活において、人間ははっきりと規定される意識を享受していますが、この意識は、彼が目覚めと眠りの間に明確な区別を経験する、という事実によって特徴づけられます。それは時間的には一致しないとはいえ、およそ太陽が地球の周りを一周すると想像した場合の長さ、つまり地球がその軸上で一回転する長さに対応しています。とはいえ、現時点では、この対応はある程度遮断されています。生活システムが秩序立っていたそれほど遠くない過去を振り返ってみるならば、人々はおよそ日の出から日の入りまで働き、日の入りから日の出まで眠っていた、ということが分かります。

 今日、この秩序だったあり方は部分的に損なわれています。実際、私はその生活習慣を逆転させていた人々を知っているのですが、彼らは昼間眠り、夜起きていました。私はよくその理由を尋ねたのですが、その多くが詩人や作家であった当の人々は次のように答えたものです。それは仕方がないです、そういったことは文学的な執筆活動とは切り離せないものですから、と。とはいえ、私が夜、彼らに出合ったとき、彼らが詩を書いているのを見たことは一度もありません!

さて、私が強調したいのは、今日の意識にとって最も重要なのは、私たちが昼間あるいはそれに対応する時間帯に起き、暗い間に相当する時間帯に眠る、ということです。多くの事柄がこの意識形態に結びついているのですが、中でも私たちが感覚知覚に特別の価値を置くということ、つまりそれらが私たちにとっては第一義的な現実になる、ということがそれに結びついています。とはいえ、感覚知覚から目を思考に転じるときには、私たちはそれを感覚知覚という現実を欠いたそのかすかな反映として眺めます。

今日、私たちは椅子をひとつの現実とみなします。皆さんはそれを床の上に置くことができますし、それが立てる音を聞くこともできます。皆さんはその上に座ることができるのも知っています。けれども、椅子という思考は現実的なものとはみなされません。思考が頭の中に位置していると信じて、それをばんと叩いたとしても、皆さんには何も聞こえません。皆さんは椅子という思考の上に座ることができるとも信じていませんが、そのように信じることは現時点での人間の構成からすると正しいことなのです。このホールの中に単に椅子という思考だけが備えつけてあったとすれば、皆さんはあまりうれしくないでしょう!

 そして、その他の多くのことがこのように太陽の軌道周期に関係した意識を経験することと結びついているのです。その生活パターンが秘儀によって、例えば、昨日お話ししたカルディアの秘儀によって秩序づけられ、方向づけられていた人々にとっては状況は異なっていました。それらの人々は今日の意識とは非常に異なった意識レベルで生活していたのです。

 少し卑近な例によってこの違いを描き出してみましょう。私たちの暦によると、一年には365日が割り当てられています。とはいえ、これは全く正確というわけではありません。もし、私たちが一世紀の間、一年を365日で数え続けるとすれば、私たちはそのうち太陽の歩調から逸脱してしまいます。私たちは太陽の位置に追いつけなくなるのです。そこで、私たちは四年ごとに一日を挟みこみます。こうして、私たちは比較的長期間にわたっておよその一致を取り戻します。

 非常に古い時代、カルディア人たちはこの問題にどのように対処していたのでしょうか?彼らは長い間、私たちの方法に似た計算方法を用いていたのですが、彼らはその方法に別のやり方で到達しました。彼らは一年に360日を割り当てていたのですが、そのため、六年おきにまるまる一ヶ月を挟みこまなければなりませんでした。一方、私たちは四年ごとに一日をつけ加えて、閏年として計算します。ですから、彼らの場合、それぞれが一二ヶ月からなる六年間の後、一三ヶ月からなる年がそれに続いたのです。

 現代の学者たちはこの事実を記録し、確認しました。しかし、彼らはこの年代的な違いが人間の意識に関する奥深い変化に結びついていることに気づきません。四年ごとに余分な一日を置く代わりに、六年おきに一ヶ月を挟みこんだこれらのカルディア人たちは私たちとは全く異なる世界観を有していたのです。彼らは昼と夜の違いを私たちと同じようには経験しませんでした。昨日触れましたように、彼らの昼間の経験は私たちの経験のように明確で生き生きとしたものではありませんでした。もし、私たちのように現在の意識を持った誰かがこのホールの中に入ってきて周囲を見回したとすれば、もちろん彼はここにいる聴衆を、何人かは近くに一緒にいて、別の人々は遠く離れている等々の違いはあっても、明確に規定された輪郭を持つ人々として見ることでしょう。

 カルディアの秘儀からインスピレーションを受けていた人々の間ではそうではありませんでした。当時、彼らは、例えば、座っている人物を今日私たちがその人を見るようには見ませんでした。と申しますのも、当時、そのようなことはまれであり、その人は彼の一部であるオーラの雲に包まれていたからです。私たちが私たちの世俗的なやり方で、明確に規定された輪郭をもって椅子に座っている個々の人とその人々全体をそこにいる人の数を数えることができるほどにはっきりと見るのに対して、古いカルディア人たちは通路の右と左に続くそれぞれの椅子の列が流れる霧のかたまりに似た一種のオーラの雲に包まれていたのを見たはずです。ここにも雲が、あそこにも雲が、そして少し暗い領域があり、それらの暗い領域が人間を示していたことでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Erde:地球 - dunkel blau暗い青

Schnee,Euphrat:雪、ユーフラテス - weiss白

Luft:空気 - gruen:緑

Rohr:管 - lila:淡紫

 gelb:黄色

 rot:赤色

 hell blau:明るい青

 この種の視覚経験はカルディア時代の初期にはまだ知られていたはずですが、後の時代においてはそうではありませんでした。古いカルディア人たちは昼間はこの漠としたイメージの暗い領域だけを見ていたことでしょう。彼らは夜にも、それと非常に似た何かを、眠っている状態においてさえ、見ていたはずです。何故なら、彼らの眠りは私たちの眠りほど深いものではなかったからです。それはどちらかというと夢に似たものでした。今日では、もし誰かが眠っていて、皆さん全員がここに座っているとしても、彼は皆さんのことを全く何も見ないでしょう。古い時代には、このような深い眠りは知られていませんでした。人々は右や左に続くオーラの雲の視覚的な形態を、その中にある光の点としての個々人とともに見たことでしょう。ですから、当時、昼と夜における状態の知覚に関して、今日ほど顕著な違いはなかったのです。この理由から、彼らは昼間には日の光があり、夜にはそれがない、という違いに気づいていませんでした。彼らは昼間、太陽をすばらしいオーラに包まれた光り輝く球として見ました。

 彼らは自分で次のように思い描いていました。下方には地球が、地上の至るところに水、そしてもっと高いところには雪がある。それはユーフラテス川の源と考えられる。このすべての上に空気が、そして高みには、最も美しいオーラに包まれて東から西へと旅する太陽がある、と。そして、彼らは、今日で言えば何か漏斗に似たものの存在を想像しました。つまり、夕方になると太陽はこの漏斗の中に降り、朝再び現れ出たのです。

 とはいえ、彼らは本当にこの漏斗の中にある太陽を見たのです。夕方、太陽はおよそ次のように見えました。つまり、光り輝く緑がかった青い中心が赤みがかった黄色の後光に包まれているように見えたのです。彼らが太陽に関して抱いていたイメージとはこのようなものでした。朝になると、太陽は輝く中心が後光に包まれて漏斗の中から現れました。それは天蓋を横切って旅し、より深い色合いを帯びて西の水平線から漏斗の中に潜り込み、漏斗を越えて放射する後光を示した後、視界から消えました。彼らにとってその太陽は暗く、黒かったために、彼らは漏斗あるいは穴のような空間について語りました。彼らは物事を見たとおりに、正確に記述したのです。

そしてまた、当時、彼らに深い印象を与えたのは、彼らが彼らの子供時代の最初の6年か7年を振り返り、その時代には、いかに彼らがその受肉以前に間違いなくその中に住んでいたところのあの神的な要素にまだ包まれていたかを、そして、7才から14才の間に精神的な卵の中から現れ始め、ついには彼らが20才になったとき、いかにその過程が最終的に完成するかを知覚したときです。彼らが彼ら自身、地上の存在であると本当に感じたのはただこの年齢に達したときだけでした。そしてそのとき、彼らはよりはっきりと昼と夜の間の違いに気づいたのです。

 彼らは自分の中で六から七年ごとに起こる発達上の周期的な変化を観察しましたが、これは月の相に一致していました。二十八日周期の月の相は、彼ら自身の六から七年という生活経験の期間に対応していたのです。そして、彼らは一ヶ月という月の相が人間の生活においては二十八年(四×七年)という期間に相当すると感じていました。彼らはこのことを七年ごとに一ヶ月を挿入することによって暦の中に表現したのです。要するに、彼らの数え方は月に基づいていたのであって、太陽にではありませんでした。

 さらに言えば、彼らは外的な自然を、今日、私たちがそうするようにはっきりと規定されたもの、精神を欠いたものとして見たのではありません。彼らが昼と夜の両方に観察した自然は精神的なオーラに浸透されていたのです。今日、私たちは明確な昼の意識を有していますが、夜には何も見えません。このことは私たちが昼と夜の交代を生じさせるところの太陽に重きを置くことに表現されています。

 古代カルディア人たちの秘儀の叡智においては太陽ではなく月が強調されたのですが、それは月の相が成熟に向けての彼ら自身の成長を忠実に反映していたからです。彼らは彼ら自身をそれぞれの段階ごとに−子供として、若者として、そして大人として−異なった仕方で構成されていると感じていましたが、今日、私たちはもはやこのことを経験しません。振り返ってみると、最初の七年とその次の七年の間にそれほどの違いがあったとは思われません。今日、子供たちはあまりにも賢こく、彼らとうまくやっていくのはほとんど不可能なほどです!彼らに太刀打ちするためには特別な教育方法が工夫されなければならないでしょう。彼らは大人と同じくらい賢く、そして、どの年齢層の人も等しく賢いように見えます。

 古代カルディア人たちはそうではありませんでした。当時、子供たちはまだ精神世界に結びつけられていました。彼らは成長してもこのことを忘れず、オーラの卵の中から現れ出た後で初めて地上的な存在になったのだ、ということを知っていたのです。ですから、彼らの計算は太陽にではなく月に、つまり彼らが天上に観察したところの七つの周期で計算した四つの相に基づいていました。こうして、彼らは月の相にしたがって、七年ごとに一ヶ月を余計に登録したのです。

 文明史におけるこの外的なしるしは、つまり私たちが四年ごとに一日を追加的に挿入するのに対して、カルディア人たちは七年ごとに一ヶ月を追加的に挿入したという事実は、彼らの昼の意識が夜の意識からはっきりと分けられていなかったのに対して、彼らが相前後する人生の諸期間を通しての意識状態の大きな違いを経験していた、ということを示しているのです。

今日、私たちは朝目覚めたとき、眠い目をこすりながら、「私は眠った」と言います。古代カルディア人たちは二十一才あるいは二十二才になったとき、自分は目覚めた、と感じたのです。そのとき彼らは世界をはっきりと見るようになり、「私はこの瞬間までずっと眠っていた」と言いました。その覚醒意識は彼らが五十才になるまで保持され、彼らが年老いたとしても以前の状態に立ち戻るのではなく、より十全で明確な視界を発達させると信じられていました。そのため、二十才になった後に獲得した意識を保持しながら、今や眠りの領域に入るとはいえ、高度に超感覚的な能力を有する老人たちが聖人として尊敬されたのです。

 こうして、古代カルディア人たちは三つの意識状態に通じていました。私たちは二つの意識状態を経験しますが、それに加えて私たちが夢の状態として特徴づけるところの三番目の状態があります。つまり、目覚め、眠り、そして夢の意識です。カルディア人はこれら三つの意識を毎日経験したのではありません。彼は減退した意識状態を二十才になるまで経験し、そして意識的に目覚めた状態を五十才になるまで経験したのです。そして、彼に関して次のように言えるような状態、つまり彼は彼の地上的な意識を精神世界へと持ち込もうとしている、彼は他の人間よりもはるかに多くのことを知り、より賢くなる段階に達したのだ、と言えるような状態がありました。

 年を重ねた人は聖人として尊敬されていたのです。今日、彼らは老いぼれていると考えられます。この大変な違いは人間存在の正に根幹に関わっているのです。私たちはこのことについて全く明確でなければなりません。何故なら、それは人間存在にとって途方もなく重要なことだからです。私たちは単にたったひとつの意識状態を通して世界を探求するのではありません。私たちが世界を知るようになるのは、例えば、古代カルディアの子供たちに共通していた意識形態を理解するときだけです。それは私たち自身の夢の状態に似たものであったとはいえ、より活動的で、その人物を行動へと駆り立てることができました。それは今日では病理的な状態と考えられるであろうようなものです。当時は、今日あまりにも散文的であたりまえのものと思われているこの覚醒意識は知られていませんでした。私は散文的という言葉をわざと使っているのですが、それは人間の物理的な側面だけに注目し、それだけしか存在していないかのように表現するのは散文的だからです。もちろん、このことは容易に認められるようなことではないかもしれません。しかし、本当にそうなのです。古代カルディアにおいては、人間は物理的な実体としてだけではなく、私が記述したようなオーラを付与されたものとして感知されていました。そして、聖人たちは物理的なものを超えて人間の魂をのぞき見ていたのです。

 それは今日ではかき消されている第三の意識状態であり、夢のない眠りに比肩されるようなものです。もし、私たちがその状況を歴史的に眺めるとすれば、私たち自身の意識とは非常に異なった意識に出会うのが分かります。そして、時代を遡れば遡るほどその違いは大きくなります。比較してみますと、私たちの通常の意識はそれほど自慢できるほどのものではありません。私たちは誰かが夢のない眠りの中で経験しているであろうことを全く重視していませんが、それは普通、その人がそれについて語るべきものをほとんど有していないからです。今日では、夢のない眠りの中で経験したことについてなにがしかのことを語ることができる人はとても、とても少ないのです。夢の生活はファンタジーであり、単に脳が勝手に作り出したものである、唯一頼りにすることができるのは目覚めた意識状態である、と言われます。

 古代カルディア人たちにとって、このような態度は与り知らぬものでした。前向きな行動へと誘う新鮮で生き生きとした夢の生活に連なる子供の意識は彼らがまだ天国に住んでいる状態にあり、彼らが口にするのは神から出た言葉である、という状態にあることを示していると考えられたのです。人々が彼らの言うことに耳を傾けたのは、彼らが精神世界からの豊かな情報をもたらしていたからです。

 時の経過の中で、彼らは地球存在としての意識状態に達しましたが、彼らのオーラの中ではまだ魂の存在、精神的な存在でした。見者や聖者が享受したのはこのような意識状態だったのです。人々は、彼らの言うことに耳を傾けるとき、それが精神世界からの伝言であるということを確信していました。

 そして、秘儀においてますます高みへと上昇した人たちについては、彼らが五十才になったとき、純粋に太陽的な要素を超越し、精神世界に参入したのだ、つまり彼らは「太陽の英雄」から「父たち」になり、人間の精神的な故郷との交わりを持つようになったのだ、と言われました。

 以上のことを皆さんにお話ししたのは、歴史的な観点から、人間がいかにしてこれらの様々の意識状態に与るようになったかを示したかったからです。

 意識状態についての探求を続けるにあたって、今日の人間が有しているような夢のない眠りについてはしばらくおいて、皆さんがいつものように、私は十分に意識的だ、私の周りにあるものを見たり、他の人が私に話しかけるのを聞いたり、彼らと会話を交わしたりする、と言うときのような通常の目覚めている状態について検証してみましょう。

それに続いて、皆さんがよくご存じの第二の状態、皆さんが、自分は眠っている、と想像するときの状態を取り上げましょう。皆さんがその状態で見る夢は、しばしば皆さんをあまりにも驚かせ、あるいはすばらしく自由にさせるようなものであるために、もし皆さんが通常の健全な状態にあるとすれば、皆さんは、これは普通の日常生活の一部ではない、自然な想像力の働きによって創り出された万華鏡のような効果がありとあらゆる仕方で人間の意識の中に無理矢理押し入ってきたものだ、と言わざるを得ないようなものです。散文的なタイプの人はほとんど夢に注意を払わず、迷信的な人はそれを外的な仕方で説明しようとするでしょう。迷信を信じることもなく、またそんなことは当たり前だとも思わない詩的な才能に恵まれた人は、まだこの万華鏡のような夢の生活についての意識を有しています。と申しますのも、腐敗していない人間本性の深みから現れてくるのは迷信的な人々によってそれに帰せられるような重要性ではなく、ちょうど山が隆起して、長い年月を経て再び消えていくように、経験が本能的な生活から霧や雲のように生じることを示すような何かであるからです。ただ、夢の生活においてはこのすべてが速やかに生じるのに対して、宇宙における夢の像はゆっくりと組み立てられ、ゆっくりと消えていくという違いがあるだけです。

 夢には別の特徴があります。周囲がヘビだらけ、体にもヘビが巻きついている夢を見ることがあります。例えば、コカインの常習者はこのようなヘビについての夢の経験を誇張された形で持つかも知れません。この悪徳の犠牲者は起きているときでさえ、その体のいたるところからヘビが這い出すのを感じます。

 私たちは、私たち自身の生活を観察するとき、そのような夢が何らかの内的な障害を示しているのに気づきます。ヘビの夢は何らかの消化に関する障害を示しています。腸の蠕動運動がのたうつヘビとして夢の中で象徴的に示されるのです。

 また、散歩に出かけて、白い杭−上部が損傷した白い杭あるいは石柱が立っている場所に出る夢を見るかもしれません。彼は夢の中でこの上部の損傷に不安を感じます。彼は自分の歯が痛んでいるのに気づいて目覚めるのです!彼は無意識の内に彼の歯の一本に指をやりたい衝動に駆られます。(これは今日の人間についての話です。太古の時代には人間はそのようなことから超越していました。)今日の標準的な人間は歯医者に行って悪い歯を詰めてもらおうと決心します。

 このことはどのように説明すればよいでしょうか?何らかの有機的な障害を示す痛む歯に関連したこの経験の全体はひとつの像によって象徴化されます。歯は何らかの損傷あるいは腐食の兆候を示す白い杭になりました。夢の像の中で、私たちは私たちの有機体の中に実際に存在する何かに気づくのです。

 あるいはまた、不安で落ち着かない気持ちで窒息しそうな部屋の中にいる生々しい夢を見ることがあります。そして突然−今まで気づかなかったのですが−部屋の隅にあるストーブが非常に熱くなっているのが目に入ります。部屋は暑くなりすぎていたのです。私たちは今や、夢の中でなぜ息ができなかったのかを知ります−部屋があまりにも暑かったのです。私たちは動悸と速い脈拍で目覚めるのですが、夢の中で外的な形で象徴化されたのは異常な脈拍だったのです。何らかの有機的な障害があり、私たちはそれに気づくのですが、昼間のように直接的な仕方で気づくのではありません。私たちは象徴的な像を通してそれに気づくのです。あるいはまた、私たちは外から太陽が照りつけている夢を見るかもしれません。日差しは私たちのじゃまをし、通常であれば私たちは日光を歓迎するはずなのに不安になります。目が覚めて隣家が火事になっているのに気づきます。外的な出来事はそのまま表現されるのではなく、象徴的な形態の衣をまとうのです。

 このように私たちは、自然で創造的なイマジネーションが夢の中で働いているのを、つまり外的な事象が夢の中に反映されているのを見ます。けれども私たちはこのことにこだわる必要はありません。夢はいわば生命を獲得し、それ自身の内的な意味と本質的な現実性を帯びることができるのです。私たちは外的世界のいかなる事物にも関連づけることができない何かを夢に見るかもしれません。この点に段階を追って近づくとき、私たちは、全く異なる世界が夢の中に示されている、と言います。すなわち、私たちは、悪魔的であったり、美しく妖精のようであったりする全く別のものに出会うのです。夢の像の中に現れるのは現象世界だけではありません。そうではなく、全体として異なる世界が私たちの中に侵入してくるのです。人間は感覚によって知覚可能な形態において超感覚的な世界を夢に見ます。

 このように、今日、人間の意識は通常の覚醒した生活に並行して夢の生活を有しています。実際、夢への傾向こそが私たちを詩人にするのです。夢を見ることができない人々はいつでもあまりよい詩人ではありません。と申しますのも、詩人あるいは芸術家であるためには、夢における自然な素材を目覚めの生活における想像的なファンタジーへと翻訳できなければならないからです。

 例えば、外的な対象物からその象徴的な表現を引き出すような夢、窓から部屋に差し込む日差しが隣家の火事を象徴化しているような夢を見る人であれば誰でも、次の日に創作活動をしたいような思いに駆られることでしょう。彼は潜在的な音楽家です。心臓の動悸を加熱したストーブとして経験する人は次の日にモデルの描写や建築デザインに向かいたいような気にさせられるでしょう。彼は潜在的な建築家、彫刻家、あるいは画家なのです。

 これらの事柄はお互いに関連しています。つまり、通常の意識においては、それらは私がお話ししたような仕方で関連しあっています。けれども、私たちはさらに先に進むことができます。「より高次の世界の認識」や「神秘学概論」に書きましたように、この通常の意識はある種の精神的な訓練−これについては後でお話ししますが−に取りかかることで発達させることができます。つまり、ある明確な概念や言語上の関連に心を集中することによって、私たちの思考、感情、そして意志の内的な生活全体に新しい生命と活力が与えられるのです。これらの訓練を通して、思考は事実上、はっきりと見ることができる現実に、感情は生きた実体となります。

 そのとき、現代における秘儀参入の第一段階が始まります−私たちは私たちの夢を目覚めの生活へと持ち込むのです。しかし、この点で容易に誤解が生じます。私たちは昼間見る夢に全く自然に耽るような人が見る夢をほとんど重視しませんが、その昼間の夢にもかかわらず、感情や思考を他の人よりもより生き生きと活力あるものにしたことによって、十全なる意識を保持したまま夢を見続けることができるようになった人は秘儀参入者になるための最初のステップを踏み出したのです。この段階に到達した人には次のようなことが起こります。彼は敏感な人であり、目覚めの生活においては他の人と同様にまじめで感覚が鋭いために、彼の仲間の人間に関して、一方では普通の意識に現れるようなものとして、つまり、鼻の形や目の色、髪がきちんとしているかどうか等々を見るのですが、他方では、彼らの周囲に何か別のもの、何か真実であるものを夢に見はじめます。つまり、彼は彼らのオーラ、彼らの関係についての内的な意味を夢に見るのです。それは彼の精神の目を持って見るということです。彼は、十分に目覚めた意識において、意味のある夢、現実に合致した夢を見るようになります。彼が朝目覚めるときにも彼の夢は終わることがなく、一日中続き、眠りの中で変化させられるとはいえ、意味に満ちてます。彼は人間の魂の真の性質、彼らの行動の精神的な源泉を見ます。彼はそうでなければ単なる名残あるいは通常の夢であるところのものに関連した活動の中に生きるのですが、それでもこれらの夢は精神的な現実なのです。

 さて、第二の意識が最初の意識につけ加えられます。目覚めて見る夢は日常生活における通常の知覚よりも高次の知覚形態を取るようになります。十分に目覚めた意識状態において、日常生活の現実に、より高次の現実が付け加えられたのです。通常の夢においては、何か現実的なものが失われています。つまり、ファンタジーに担われた現実の断片のみが私たちに与えられます。けれども、私がお話ししたような目覚めた夢においては、個々の人間の形態、植物や動物等あらゆるものが明示されてそこにあり、人間の行いは十全なる意味を持ったものとして見られます。このすべてが日常的な現実に何かをつけ加え、それを豊かなものにするのです。

 通常の意識による知覚に第二の意識がつけ加えられます。人は異なった光の中で世界を見始めるのですが、このことは私たちが動物の世界を見るときに最も衝撃的に示されます。それは今やあまりにも異なったものとして現れるために、私たちは実際、以前には一体何を見ていたのだろう、といぶかるほどです。私たちはそれまで動物界の一部、その外的な側面だけを見ていたのです。さて、ひとつの全体としての新しい世界がつけ加えられます。それぞれの動物の種、ライオンや虎、そしてありとあらゆる種の中には何か人間に近いものが横たわっているのですが、これを人間との比較で示すのは困難です。次のように考えてみてください。

 皆さんが、両手の指全部に一定の長さのひもを結びつけ、そのそれぞれのひもの端に様々の色の模様がつけられたボールを固定することによって皆さんの体を延長すると想像してみましょう。皆さんには今や10本のひもが結びつけられています。さて、ボールがあらゆる方向に動くように指を使ってひもを操作してください。今度は足の指で同じことをしてみましょう。次は空中に跳び上がったり、足の指を上手に使ってすばらしい形が生み出されるようにしてください。このようにして、それぞれの指は先端についたカラーボールで長くなりました。それぞれの足の指も同じです。

 このすべてが皆さんの人間としての形態の一部であり、その全体が魂によるコントロールの下にあると想像してください。それぞれのボールは別々の実体ですが、このすべてを探求する瞬間、皆さんはそれがひとつの全体を構成している、という印象を持ちます。これらのボールや糸のすべては皆さんの指や足の指と違って皆さんの一部ではありませんが、そのすべてが単一の全体を形成し、皆さんはそれをコントロールしています。皆さんは、今お話ししたような方法でボールと糸を操りはじめるとき、上方にあるライオンの魂とそれに結びつけられたボールのような個々のライオンが全体としてひとつの統一体を形成しているのを見ます。もし、皆さんが以前は20個のボールがそこにあるのを見ていたとすれば、それらはそれら自身にとってひとつの世界を表していました。そこに活動の主体である人間を加えます。すると新しい状況が生まれます。

 皆さんの知覚様式についても同じことが言えます。皆さんは個々のライオンがそれぞれ独立して動き回っているのを見ますが、それらは独立した単位としてそこにあるボールです。次に、皆さんは自意識を付与されたライオンの魂、すなわち精神世界においては人間に似たものに見えるライオンの魂と、一見したところ動き回るボールのようにつり下げられた個々のライオンを見ます。自意識を持ったライオンの魂はこれらの個々のライオンとして表現されているのです。

 こうして皆さんは動物世界におけるあらゆる生き物のより高次の形態を知覚します。動物はその成り立ちの中に人間に近い何かを、つまり人間の魂とは異なる領域に属する魂的な性質を有しています。皆さんは皆さんの人生において、どこに行くにしても自意識を有する魂の生活を断固として担っています。皆さんには皆さんの自我を誰かれなく押しつける自由があるのです。個々のライオンにはそれがありません。ところが、このお互いに対立する自我の領域に接して別の領域が存在しています。精神世界では、ライオンの魂たちは全く同じことをしているのです。彼らにとって個々のライオンは糸の先についた多くの踊るボールにすぎません。そのため、私たちが新しく獲得した意識を持って動物界の真の本性を見るとき、ちょっとしたショックを受けることになります。

 私たちは新たな世界に参入し、自分に次のように言います。私たちもまたこの別の世界に属している。しかし、私たちはそれを地上に引きずりおろしている、と。動物はそれ自身の中のなにがしかを、つまり集合魂あるいは種の魂を後に残してきています。地上で見ることができるのは四つ足だけです。私たちは動物が精神世界に残してきたものを地上に引きずりおろし、その結果、動物とは異なる形態を獲得しています。私たちの中に生きているものもまたこの高次の世界に属しているのですが、人間としての私たちはそれを地上に引きずりおろしているのです。

 こうして、私たちは別の世界を知るようになりますが、それは動物たちを媒介として知ることになります。けれども、そのためにはさらなる意識形態が必要です。つまり、私たちは私たちの夢の意識を目覚めの生活へともたらさなければなりません。それによって、私たちは動物界の内的な成り立ちに対する洞察を獲得することができるのです。

 この第二の世界は魂の世界、あるいは物理的な世界と区別するために魂界またはアストラル界と名づけることができるかも知れません。私たちは別の意識形態を通してこのアストラル界を知るようになります。私たちは私たちが日常的に存在する世界とは異なる世界への洞察を別の意識を通して獲得しなければならないのです。

 魂の生活をもっとさらに強化し、活性化することも可能です。つまり、先に触れた本に記述されているように、集中や瞑想を行うだけでなく、強化された魂の内容を再び排除するように努力することもできるのです。魂の生活を強化し、思考と感情を強めるという最も骨の折れる努力の末に、私たちはそれを再び変化させ、最終的に無に帰すことができる地点にまで至ります。そのとき、私たちは「空になった意識」の状態と呼ばれる状態に帰着します。

 さて、普通、「空になった意識」の状態は眠りを誘起します。このことは実験で確かめられます。まず、被験者からすべての視覚的な印象を取り除き、彼を闇の中に置いてください。次に、すべての聴覚的な印象を取り除き、彼が沈黙に包まれるようにしてください。そして、他のすべての感覚印象を奪うように努めてください。そうすれば、彼は徐々に眠りに落ちてしまうでしょう。

 このことは、もし私たちがあらかじめ私たちの思考や感情を強化していれば、起こり得ないことです。私たちの意識を意志の働きによって空にしていたとすれば、そのような場合にも起きたままでいることが可能なのです。そのとき、現象世界はもはや存在していないでしょう。私たちの通常の思考や記憶は忘れ去られます。空になった意識を有している私たちの中には真の精神世界が直ちに侵入してきます。ちょうど私たちの通常の意識が感覚世界の色や音、熱で満たされるように、精神世界がこの空になった意識を満たします。私たちは、私たちの意識を意識的に空にするときにだけ、精神世界に取り巻かれることになるのです。

 ここでもまた、新しい意識とその精神世界との関係を特別に生き生きと理解するために役立つ何かが外的な自然の中にあります。ちょうど動物界を普通とは異なる仕方で知覚することによって通常の意識よりも一段高い意識に気づいたように、私たちは今や、それとは全く異なった仕方で構成されている植物界の中で、この新しいレベルの意識を認識することができるのです。

 通常の意識には植物界はどのように見えるでしょうか?私たちは青々とした牧場のあちこちに鉱物的な地球の中から花々が咲きでているのを見ます。私たちは青色や金色、赤や白の花々、そして生き生きとした緑の中に、つまり私たちの目の前に絨毯のように広がる植物界の美しさの中に喜びを感じます。地球が花と植物に彩られたこの光り輝く衣に包まれるのを見て、私たちは心を躍らせ、喜びに満たされるのです。

 そして、目を上方に向ければ、まぶしく輝く太陽、いつもの透き通った昼間の空や曇った空があります。私たちは天と地球の間に、つまり、花々に彩られた野原を見下ろすこと、そして空を見上げることとの間に何らかの関係がある、ということに気づいていません。昼間、私たちの前に広がるこの花のカーペットを見て強烈な喜びを感じた後、夏の一日が終わって夜の帳が下りるのを待つと仮定してみましょう。私たちは目を天蓋に向け、星々が空いっぱいに広がる様々の輝く星座として配列されているのを見ます。そして今、新しい歓喜が上方から私たちの魂を捕らえます。

 このように私たちは昼間、地上を覆う植物を私たちの心を内的な喜びと歓喜で満たすものとして見下ろすことができます。そして夜空を見上げれば、昼間にはあれほど青く見えた空に今や光り輝く星々がちりばめられているのが見られます。私たちは私たちの魂に現れる美しい空を見て内的な喜びを感じます。これが私たちの通常の意識による反応です。

 もし、私たちが空になってはいるけれども目覚めたままにとどまり、精神に浸透された意識を完成するならば、昼間植物に覆われた地球を探求し、夜にはきらめく星々を見上げるとき、私たちは自分に次のように言うことができます。確かに、昼間、花々がちりばめられた地球の豊かな彩りが私を喜ばせ、魅惑した。けれども、私は本当のところ何を見たのだろうか?と。そして、私たちは無数の天の星々を見上げます。空になった覚醒意識には、つまりすべての地球的な内容を除去された意識には、星々は単に輝いたりきらめいたりする以上のものであり、実に様々の形態をとります。何故なら、あのより高次の領域には、すばらしい真髄の世界、すなわち壮大で力強く崇高な動きと流れがいたるところに存在しているからです。この光景を前にして、私たちは感謝に満ちた尊敬と、尊敬に満ちた感謝の中で頭をたれ、その崇高さを認識します。私たちは秘儀参入に至る中間段階にさしかかったのです。私たちは植物の起源がより高次の領域に横たわっていることを知っています。私たちがこれまで個々の星々のひらめきと輝き以上のものではないと考えていたところのもの、それこそが真の植物存在であり、私たちは今初めてそれを見るのですが、今まではすみれそのものではなく、ただ朝露の中にあるすみれの花の上の一滴の露を見ていたかのようです。私たちはひとつの星の中にひとつの輝く露を見ますが、実際には、動き、流れる力強い世界がその背後に横たわっているのです。私たちは今や、植物界とは本当は何なのかを知ります。それは地上にではなく、壮大で力強く、崇高なあの大宇宙の中に見いだされるべきものです。そして昼間、私たちが彩り豊かな花のカーペットの中に見ていたものはより高次の世界が反射したイメージなのです。

 私たちは今や、真の形態や存在たちが動き、流れる大宇宙が地球の表面に反射している、ということを知っています。私たちは、鏡を覗き込むとき、私たち自身がそこに映し出されているのを見ますが、そこに反射しているのはただ私たちの外的な形態であり、私たちの魂ではない、ということを知っています。天は地球にそれほどはっきりと反射されるのではなく、黄色、緑、青、赤や白の植物の色として映し出されるのです。それらは反射された像、影のように微かな天の反映なのです。

 私たちは今やひとつの新しい世界を知りました。そのより高次の世界には「植物人間」、すなわち自意識を付与された存在が見いだされます。ですから、私たちは現象世界とアストラル界の他に、第三の世界、真の精神世界をつけ加えることができます。星々はこの宇宙的世界のしずくであり、植物はそれが反射したイメージです。その外見は現実を表現しているのではありません。すなわち、彼らはこの地球上におけるその表現において実体的なものではなく、そこからひとつひとつの星々がしずくのように輝き出しているところのあの超越的な世界の無限に多様な豊かさとの関係で言えば、単にそれが反射した像に過ぎないのです。

 そして、私たちは今や、人間としての私たちが、より高次の領域にある真の植物存在であるところのものを私たちの内に担っている、ということに気づきます。私たちは植物が精神の世界に残してきたもの、と申しますのも、植物存在はあの世界に滞在し、それが地球に送り込むイメージが地球によって地球の実質で満たされるに過ぎないからなのですが、それをこの鏡像の生活へと引きずり下ろしているのです。私たち人間は、私たちの魂的な本性を、そしてそれもまたあのより高次の世界に属しているのですが、この像の世界に持ち込みます。私たちは単なる像ではなく、ここ地球上において、魂を持った精神的な存在でもあるのです。私たちは地球上において三つの世界に参加しています。私たちは物理世界に住んでいますが、自意識を持った動物はそこには見いだされません。同時に私たちも住んでいるところのアストラル界に彼らの自意識は存在しているのです。私たちはこのアストラル界を物理世界の中に引きずり下ろします。私たちはまた第三の世界、真の植物存在が住む精神の世界にも住んでいるのですが、植物存在がその反射された像だけを地球に送り込んでいるのに対して、私たちは私たちの魂的生活の現実をそこに引きずり下ろしているのです。

Phys-:物質界

Mensch:人間

Tier:動物

Pflanze:植物

 ですから今や、私たちは次のように言うことができます。ここ地球上において、体と魂と精神を有している存在とは人間である。ここ地球上において、体と魂を持ってはいるけれども、その精神は物理世界に境を接する第二の世界にあるため、より現実性のない存在とは動物である。物理世界にはその体だけを有している存在、魂は第二の世界に、精神は第三の世界にあるために、地球の実質に満たされた単に反射した像であるところの体を持つ存在とは植物である、と。

 私たちは今や、自然における三つの世界を理解し、人間が彼の内にこれら三つの世界を有していることを知ります。私たちは、植物が星々に到達するものであることをある程度感じています。植物を見るとき、私たちは自分に次のように言います。ここには地球上にそれが反射した像、その真の現実性から引き離された像だけを表している存在がいる、と。私たちが夜、星々に眼差しを向ければ向けるほど、私たちはそのより高次の世界の中にその真の存在をますます見るようになります。地球から天を仰ぎ、宇宙が地球とひとつであることを知覚するとき、そのとき私たちは自然の世界をひとつの全体として見ているのです。

 そして、私たちは人間としての自分自身を振り返って次のように言います。我々は、植物においては天に至るあの要素を我々の地球的な存在性の中へと切り離した。我々は我々自身の中に、物理世界、アストラル界、そして精神世界を担っているのだ、と。

 客観的ではっきりとした知覚を発達させること、様々の領域を通過しながら精神の世界に至るまで自然を追求すること、人間に対する洞察をその精神的な本質に至るまで獲得すること、それが精神的な探求において踏み出すべき最初の一歩です。


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