ルドルフ・シュタイナー

「精神的な探求における真実の道と偽りの道 (GA243)

トーケイ、ディヴォン、1924年8月11日−22日

佐々木義之 訳


第三講

人間の意識状態に関係する鉱物世界の形態と実質

 

昨日試みたのは、精神的な訓練と瞑想を通してより高いレベルの意識を発達させるときの人間の魂の経験に関して、何らかのアイデアを示すことでした。同時に、通常の意識によく見られる不調和で混乱した夢の経験を目覚めの生活における完全に意識的で具体的な経験へと変化させることができる、ということも示しました。このようにして、通常の意識にある程度連なるところの意識レベルを達成することが可能になります。そのとき、私たちは、例えば、より高次の魂の世界、すなわちアストラル平面と関わりを持つ動物界をその全体性において知覚することになります。次に私が示そうとしたのは、私たちが、感覚印象を脱ぎ捨てた十全なる覚醒意識、つまり、この第二段階の意識レベルにおいて、星の世界に到達し、地球を覆う植物の真実をそこで初めて知るようになるとき、いかに植物界がその全体性の中で顕現するか、ということでした。そのとき私たちは、地球から生えだしているように見える植物とは、星の世界のただ中から、植物の上の露のように輝き出すあの壮大さと偉大さを映すイメージである、ということに気づきます。実際、天空とそこにあるものすべては、私たちが、感覚印象を脱ぎ捨てたこのより高次の意識をもってそれを理解するとき、実質的な現実性、形態、色、そして音さえをも担うようになるのです。私たちは、そのとき、地球を振り返り、植物界が実際には宇宙存在のイメージ、宇宙的な行為を映すイメージである、ということを知覚します。

 皆さんが、一方では星の世界を、他方では植物界を観察するときに出会う特別な現象に注意を払っていただきたいと思います。私はこれらの事柄を、まったく内的な経験の観点から、正確にそれらが起こるとおりに、つまり、それらが直接的かつ精神的な経験や探求によって明らかになるとおりに記述するつもりです。私の話しを裏付けるいかなる文献やその他の伝統も存在しないでしょう。しかし、私がお話しした方法で精神的なものを探求する人であれば誰でも知っているような特別な現象について、まず最初に指摘したいと思います。

 次のような像を思い描いてみて下さい。私たちの上方には星の世界が、下方には地球があります。私たちは探求を開始する地点を私たちの観察地点と呼びます。私たちが第二段階の意識、つまり、すでにお話ししたような仕方で星の世界と植物界を見る意識に達しているとすれば、宇宙には元型が存在しており、その元型が、鏡に写るイメージのようにではなく、生きた植物の形で地球に映し出されているのだ、ということを確かめることができます。これらの植物は生命のない非現実的で漠としたイメージとして現れるのではなく、地球によって創造された具体的な反射像として現れるのです。宇宙にある植物存在が地球という鏡から萌え出ることができるために、地球は鏡としての働きをもってそこになければならないのだと感じられます。

 固い地球がなければ植物も存在し得ないでしょう。そして、ちょうど鏡が光を遮る抵抗として働く−と申しますのも、もしそうでなければそれは何も反射しないであろうからですが−ように、植物が存在するためには、地球は反射媒体として働かなければならないのです。

 私たちは今や、このことをさらに追求していくことができます。私たちは、この第二段階の意識、すなわち感覚印象から独立した目覚めの意識を発達させた後、魂の内的な強さ、つまり、すべての被造物、すべての生きるものに対する愛の精神を発達させることに向けて、次の一歩を踏み出すことができるのです。この新しい力を獲得することが認識に向かう確かな力として認められることは滅多にありません。もし、このきわめて別様に構成されている領域、そこではもはや宇宙が星々で輝いているようには見えず、精神的な存在たちが住む場所になっているような領域に参入した後、この愛の力が私たちの心と魂を満たすならば、もし、いわば宇宙の精神的な大海に乗り出した後、私たちが自分の精神的、魂的、そして肉体的なアイデンティティーを保持し、そして、無限の愛と献身の力をすべての存在に拡張することができるならば、私たちは私たちの洞察と理解を段階を追って完成に導くことになります。私たちは、そのとき、動物界や植物界だけではなく、鉱物界、特に結晶構造をもつ鉱物を超感覚的に知覚する能力をも発達させるのです。と申しますのも、鉱物結晶は、より高次の世界を探求することを望む人々にとって、観察と研究のためのすばらしいフィールドを提供するからです。

 動物界と植物界に十分に精通したとき、私たちは鉱物−結晶世界を探求することができる立場に立ちます。以前もそうであったように、私たちは私たちの注意を地上の鉱物界から宇宙についての思索に向けるように促されるのを感じます。そして、私たちは、そこで再び、生きた現実、植物界の元型に近いものを見いだすのですが、今私たちに示される像はそれとは全体として異なっています。私たちは宇宙の生きた現実、つまり、地上で見られる鉱物−結晶世界は宇宙の中で働く精神的な原則が創造したものである、ということを知るようになります。それは段階を追って地球に下降してくるのですが、地球上で、あるいは地球によって反射されるのではありません。これが決定的な点です。私たちが私たちの意識を鉱物−結晶世界についての思索から宇宙へと上昇させ、再び地球を振り返るとき、地球はもはや鏡として働いてはいません。つまり、私たちは、地球が私たちの視界から消え去っている、という印象を持ちます。植物の場合のように私たちの下方にある地球がより高次の存在たちを反射している、とは言えないのです。地球は反射媒体として働いているのではなく、消滅しているように見えます。私たちが鉱物−結晶世界によって喚起される精神的な光景について瞑想するとき、つまり、私たちの精神的な眼差しを宇宙空間から地球に向けるとき、恐ろしい深淵の上に、無の上に吊されているように見えます。私たちは待つ態度を保持するとともに、自分をしっかりと支え、心がそこにあるようにしなければなりません。待つ期間が余りにも長引くようであれば、私たちの恐れは増幅され、恐怖に駆られるようになるでしょう。私たちの足下に地面はありません。ですから、もし、私たちが自制心を、つまり、その深淵のかなたを見ることに向けて能動的な歩みを進めることを可能にする心のあり方を維持していなかったとすれば、私たちはこの全く見知らぬものである感情によってパニック状態に陥ってしまうでしょう。私たちの精神的な視界にとってはもはや存在しない地球を越えて、かなたを見なければならない、というのはこのためなのです。そのとき、私たちは、あの宇宙に関連した鉱物世界の側面ばかりではなく、環境全体に対するその関係についてもじっくりと考えるように強いられます。私たちにとって地球は存在することをやめます。鉱物世界とはひとつの全体として見るべきものなのです。

Erde:地球

 そのとき私たちが経験するのは、上方から流れ下る宇宙的な植物のエネルギーとは対照的な、下方から流れてくる宇宙のエネルギーです。私たちはいたるところに流れとそれに対抗する流れ、あらゆる方向から一点に向かう宇宙的なエネルギーの流れを見ます。植物の場合には、この宇宙エネルギーの流れは上から下に向かい、それに対する抵抗を提供する地球から植物が生えてきます。鉱物界の場合、それは全宇宙からやって来るこれらの流れの自由な相互作用によって創造されたのだ、ということが分かります。鉱物−結晶世界の場合、何も地球から反射されません。すべてがそれ自身の要素の中で反射されるのです。

 皆さんが山の中で水晶の結晶を見つけたとしますと、それは普通、垂直に立っており、その基の部分が岩の中に埋め込まれています。これは妨害的な要素として働く地球的、アーリマン的な力の介入によって説明できます。実際には、水晶はあらゆる方向からくる精神的な要素の圧力によって形成されるのです。つまり、宇宙空間の中では、反射する結晶面の相互作用による自由な結晶を見ることができます。そのすべての結晶面が完全に形成されたそれぞれの結晶では、それ自身がひとつの小さな世界になっているのです。

さて、多数の結晶形、立方体、八面体、四面体、斜方晶系、十二面体、単斜晶系、三斜晶系等、実際に考え得るあらゆる種類の構造があります。私たちは、それらを検証するとき、いかに宇宙のエネルギーの流れが一点に集中し、相互作用することによって、先端が六角錘になった六角プリズム形の水晶や恐らく立方体の形をした食塩の結晶、あるいは十二面体の形をした黄鉄鉱の結晶が形成されるかを書き留めます。これらの結晶のどれもが今お話ししたやり方で形成されます。そして、宇宙空間には、地球にある様々の結晶の数と同じだけ多くの宇宙的な力が、つまり、本当にそれだけ多くの世界があり、私たちは世界の無限性を洞察し始めるのです。

食塩の結晶を見るときには、精神的な原則が宇宙の中で働いているのが分かります。食塩の結晶は全宇宙に浸透するあの精神的な現実の顕現であり、それ自身でひとつの世界なのです。そして、十二面体を検証することによって、宇宙には空間世界に浸透する何かが存在しているということ、つまり、結晶とはあるひとつの世界全体が刻印され、顕現したものであるということが分かります。私たちはそのそれぞれがそれ自身でひとつの世界であるところの無数の存在を見つめているのです。ここ地上の人間として、私たちは次のように結論づけます。地球の領域とは多数の世界の活動がそこに集中するところの焦点である、と。実に様々な存在の思考と行為がここ地上における私たちの思考と行いの中に映し出されています。結晶形態の無限の多様性の中に見られるのは、結晶の数学的−空間的な形態の中にその活動の頂点が見いだされるところの多様な存在による表現です。私たちは結晶の中に神の存在を認識するのです。この宇宙の崇高な秘密が私たちの魂を捉え、宇宙に対する尊敬や崇拝の感情として現れることの方が、純粋に知的な基盤から理論的な知識を集めることよりもはるかに重要なことなのです。

 人智学は、この「宇宙とひとつである」という感情へと導くものであるべきです。人は、人智学を通して、神的な存在が織りなす働きをどの結晶の中にも知覚することができるようになるでしょう。そうなれば、宇宙的な知識と理解が人間の魂全体に溢れ始めます。人智学の使命とは、知的な能力だけに訴えるのではなく、人間全体を照らし出し、彼が全体として宇宙に包含されていることを示すとともに、宇宙に対する尊敬と崇拝の念を彼の中に呼び起こすことなのです。世界の中のいかなる対象にも、いかなるできごとにも、人間の心と魂から出る無私なる奉仕の精神が向けられるべきです。その無私の奉仕に対しては知識や理解という報償が与えられるでしょう。

 私たちは、すべてであるところの宇宙と関わりを持ち、結晶−鉱物世界の顕現として個々の結晶が現れてくるのを見るとき、満足感に満たされます。しかし、既にお話ししたあの恐怖と不安の状態がたちまち戻ってきます。神的に秩序づけられた結晶の世界を見いだす以前、私たちは恐れに満たされていました。神的なインスピレーションを受けた世界に気づくとき、この不安の感情は消え去るのですが、しばらくすると不思議な胸騒ぎが私たちを捉え、恐怖が、つまり、結晶の形成過程全体が実体のないものであり、それはただ部分的な支えを提供するに過ぎない、という感情が戻ってくるのです。

 既にお話しした二種類の結晶、食塩と金属の結晶である黄鉄鉱を例として取り上げてみましょう。黄鉄鉱は、私たちにしっかりとした支えを提供することができる、つまり、それは堅固で耐久性がある、という印象を与えます。一方、食塩の結晶はいかなる支えにもならないように見えます。それは実体がなく、私たちはそれを突き抜けて落下してしまうかのようです。

 ですから、要するに、ある種の形態に関しては、一度私たちを捉えた恐怖、つまり、地球が無になり、深淵の上に吊り下げらているという恐怖は最終的には克服されていなかったのです。この恐怖の感情ははっきりと道徳的なものを示唆しています。この恐怖が戻ってくるとき、私たちは私たちが過去に犯したすべての罪ばかりでなく、これから犯す可能性のある罪にも気づかされることになります。

 このすべては私たちを引きずり下ろす鉛の重りとして働き、鉱物の結晶が今にも私たちを飲み込もうとして私たちの前に広げる深淵の中へと私たちを投げ込む恐れがあるものです。この時点で、私たちはさらなる経験に備えて準備していなければなりません。私たちの経験の総和は私たちが勇気を持つことを要求している、ということが分かります。そして、私たちは確信を持って次のように宣言します。私はしっかりとつなぎ止められている、私は自分が繋留されているところから漂流したりしない、私という存在の重心は今や私自身の中にあるのだ、と。

 私たちの人生全体を通して、結晶の世界に直面し、利己主義という鉛の重りが−そして、利己主義とはいつでも道徳的な罪なのですが−魂の上にのしかかる瞬間ほど、自信や道徳的な勇気が必要とされるときはありません。その上に私たちが吊り下げられているあの透明な無の空間が今や私たちに対して恐ろしい警告を発します。もし、私たちがしっかりと立ち、自信を保っているとすれば、私たちは次のように言うことができます。私の中には神の火花がある、私は消えたりしない、何故なら、私は神的な本質に与っているのだから、と。もし、このことが単なる理論的な確信ではなく、具体的な経験になるならば、私たちは自足し、自分自身の足で立つ勇気を持つことになります。私たちは決意し、さらに先に押し進むための準備を整えたのです。

 さて、私たちは、鉱物界に関して、さらに何かを学びます。私たちはこれまで鉱物の結晶についての話を聞いてきました。私たちは既にその外的な形態について議論しましたが、今や、その組成や構造、その実質や金属性について気づくとともに、ある種の基本的な金属がいかに様々の仕方で安定化させる要素として働くかを見いだします。今、私たちは初めて、人間がいかに宇宙と関連しているかを理解し始めるのです。私たちは、様々な金属の特徴、鉱物存在の実質について学び、そして、先ほど触れたあの私たちの中にある重心を本当に感じ始めるのです。

 これからお話しすることに関しては、鉱物界を記述する用語をどうしても使わざるを得ないのですが、それを言葉の上だけで受け取らないようにして下さい。私たちが心臓や頭について語るとき、常識的な見方では、物理的な心臓や頭が魔法のように現れるのですが、それらはちろん起源としては精神的なものです。ですから、私たちが人間をその全体性において、つまり、体と魂と精神から構成されている実体として見るとき、彼の重心は心臓にあるというはっきりとした印象が得られます。この中心は、彼を極端に走ることから守り、彼が外的な状況によって翻弄されることを防ぐとともに、彼に安定性を付与します。もし、私たちが、先ほど触れたあの勇敢な精神を保つとすれば、私たちは、結局は、自分がしっかりと宇宙につなぎ止められているのを見いだすことになるのです。

 意識を喪失している人はそのようにしっかりとはつなぎ止められていません。もし、彼が魂にショックを受けた状態−と申しますのも、そのような条件下では、彼は普通よりも痛みを感じやすくなっており、結局のところ、痛みとは内的な感情が増幅されたものであるからなのですが−であれば、彼は普通の意識状態にはありません。痛みのある状態では、通常の意識は排除されるのです。人は生まれてから死ぬまでの間、一種の中間的な意識状態の下で生きているのですが、これは日常生活における通常の目的にとっては都合のよいことでしょう。ところが、この意識があまりにも弱く、あまりに希薄なものになれば、彼は気を失います。もし、それがあまり濃厚に濃縮されるならば、結果として痛みが生じるのです。気絶状態で意識を失うこと、そして、痛みの影響で緊張状態にあること、これらは正常からはずれた意識状態における両極端を示しています。これらは、正に、私たちが鉱物的な結晶の世界の実質に気づくようになる以前のその世界に対する私たちの反応、つまり、一方では、気絶状態において、自分が絶えず宇宙の中に解消されてしまうかのような感情、他方では、痛みの影響下で、自分が崩壊してしまうかのような感情を示しているのです。

 そのとき、安定性を付与するあらゆるものが心臓の領域に集中していると感じられます。そして、もし、私たちが既に示されたレベルにまで自分の意識を発達させているならば、通常の目覚めの意識を支えているのは、つまり、いくらか粗雑な表現になりますが、それを「当たり前な」ものにしているのは、地球上に細かく分散し、他のどの器官に対してよりも特に心臓に対して直接的に働きかけるところの金、金元素である、ということが分かります。

 以前、私たちは、鉱物の形成、結晶化に関する知見を得ました。今や、その実質、その金属性を知るとともに、いかに金属質が人間そのものに働きかけるかを認識します。

 外的には、鉱物界において金属が結晶として形成されるのが見られます。内的には、地球上に細かく分散した金の力が、私たちの心臓を維持し、日常生活における私たちの通常の意識を支えている、ということが分かります。金は人間の心臓という中心点に働きかけるのです。この知見を基にして、私たちは今や、私たちの探求をスタートさせる地点に立ちました。もし、私たちが知っているような金属の金を取り上げ、その色や固さ、そしてその成り立ちや構造についてのあらゆる側面に集中するとともに、その経験を内的な現実へと変化させるならば、金は心臓に関係している、ということが見いだされるのですが、別の金属、例えば鉄とその性質に集中するならば、私たちは鉄が私たちにどのような影響を及ぼすかを見いだすことになります。金には調和をもたらすような、緊張と対立を解消させるような効果があることために、人はそれによって平衡状態を取り戻すのです。もし、私たちが、金のすべての側面に精通した後、鉄に心を集中させるならば、つまり、宇宙全体を忘れ去り、鉄という金属だけに集中することによって、いわば内的に鉄と溶け合い、それとひとつになるならば、私たちはあたかも自分の意識が心臓の領域から上方に移行するかのように感じます。意識が心臓から喉頭へと上昇するのを追っていくときにも、私たちは全く意識的であり、十分に精神的な訓練を遂行していれば、何も害はありません。そうでなければ、多少のめまいを感じます。私たちの意識が上昇するとき、私たちは、強力な内的活動、高められた意識を発達させている、という事実によってこの状況を認識します。そのとき、私たちは、この上昇する意識の中に徐々に自分を移行させ、動物の集合魂が見られる世界に接触します。鉄の金属性に集中することによって、私たちは今やアストラル界に参入するのです。

 私たちが金属の形態に精通するとき、私たちはより高次の精神的な存在たちの領域に至ります。つまり、金属の実質と金属性に精通するとき、私たちはアストラル界、すなわち魂の世界に参入するのです。私たちの意識が喉頭へと上昇するとともに、私たちは新しい領域の中に現れ出るのですが、このような意識の移行が起こるのは鉄に意識を集中したからです。私たちはもはや自分が以前と同じ人間であるとは感じません。もし、この状態が十分に明晰な意識の中で達成されるならば、私たちは、それまでの自分の自我を超越し、エーテル界に参入したと感じます。地球は消滅し、私たちにとって興味のないものになります。私たちは惑星の領域に上昇し、そこをいわば私たちの住居にします。このようにして、私たちは徐々に私たちの肉体から退き、宇宙の中に組み込まれるようになります。金から鉄への道は宇宙へと続く道なのです。

Blei Saturn:鉛 土星 IV

rot:赤色

Zinn Jupiter:鈴 木星 III

orange:オレンジ

rot赤色

Eisen Mars:鉄 火星 II

Gold Rede :金 地球 I

gelb:黄色

Kupfer Venus:銅 金星 V

rosa:薔薇色

 

 

 金と鉄に次いで、私たちは錫に、つまり錫の金属性、その色や実質に意識を集中し、それによって私たちの意識が錫と全く同一視されるようにします。私たちは今や、意識がさらにもっと高いレベルに上昇するのを感じます。もし、私たちが十分な準備なしにこの段階に取りかかるとすれば、ほぼ完全に気を失い、ほんのわずかな意識の兆候も残らない、ということになるでしょう。もし、前もって十分に準備していたとすれば、この減退した意識状態の中でも自分を保持することは可能なのですが、意識が体からさらに遠くに退き、最終的には両目の間にある領域にまで達するのが感じられます。 宇宙の広大な広がりが私たちを包み込むのですが、私たちはまだ星の領域の中にいます。とはいえ、地球は遥かな星のように見えはじめます。そして、私たちは、地上に体を残してきたのだと、宇宙へと上昇し、星々の営みに与っているのだと確信します

 このすべては決してそのように聞こえるほど単純なものではありません。皆さんにお話ししたような秘儀参入の道に従うときに経験すること、すなわち、意識は喉頭や頭蓋底部、あるいは眉間にあるというようなことは、これらの様々の意識が人間の中にはいつでも存在している、ということを示しています。ここにお座りになっている皆さんのすべてが皆さんの内にこれらの意識状態を有しているのです。しかし、皆さんはそれに気づいていません。それは何故でしょうか? そうですね、人間とは複雑な存在です。それは、もし、皆さんが、喉頭組織全体に意識的である瞬間に、脳と感覚器官なしですませることができていたとすれば、皆さんは決してこのぼんやりとした感情、かすかで無意識的な感情から自由ではなかったであろうからです。そして、それは実際にそうなのです。それは単に通常の心臓意識、金の意識によって覆い隠されているのです。それは皆さんのすべてが共通して持っているものであり、皆さんを人間として成り立たせているものの一部なのですが、皆さんを構成するところのこの意識に与る部分は星々の中に存在しており、地球上には全く存在していないのです。

 錫の意識は遥かな宇宙の中に横たわっています。地球が皆さんの唯一の住居である、というのは真実ではありません。皆さんの意識を地球につなぎ止めているのは心臓です。その中心を喉頭に有するところのものは宇宙の中に存在しています。さらに遥かな宇宙の中に位置しているのはその中心を眉間に有するところのもの(錫)です。鉄の意識は火星の領域を包含し、錫の意識は木星の領域を包含しています。金の意識においてのみ、皆さんは地球に属しています。皆さんはいつでも宇宙に織り込まれているのですが、金の意識がこのことを皆さんから覆い隠しているのです。

 もし、皆さんが鉛もしくは同様の金属について瞑想し、そこでもやはりその実質と金属性に集中するとすれば、皆さんは完全に体を棄て去ることになります。皆さんの肉体とエーテル体は確かに地球に取り残され、奇妙で遠くかすんだもののように見えます。岩の上にのった石ころが岩にとっては何の興味もないものであるように、皆さんにとってそれらは何の興味も起こさせないものです。意識が頭頂冠(頭蓋の縫合線)を通って、体から抜け出しているのです。宇宙の中では、どこを見ても微少な量の鉛、鉛の風味がいつでも見いだされます。この意識形態は遥かな空間へと達します。そして、頭蓋にその中心を有する意識によって、人はいつでも完全に無感覚の状態に留まるのです。

 人間がその中で習慣的に生きているところの幻想状態を思い描いてみて下さい。人間は、机の前に座って計算をしたり、文章を書いたりするとき、頭を使って考えていると思いたがるものです。実際はそうではありません。地球に属しているのはそのようなものとしての頭ではなく、その物理的な側面です。頭部意識は喉頭から上へと、遥かな宇宙にまで広がっています。宇宙が顕現するのはただ頭部中心においてのみであり、誕生から死までの皆さんの人間としての条件を決定するのは心臓中心なのです。皆さんがよい文章を書くか下手な文章を書くか、皆さんの利益が隣の人の不利益になるかどうか、このようなことは心臓中心によって決まります。人間の頭部意識が地球だけに限定されていると考えるのは全くの幻想です。何故なら、頭部は、実際には、永続的な無感覚状態にあるからです。他の器官がそれから解放されているところの痛みによってそれが奇妙に苦しめられるのもこの理由によります。この点についてもう少しお話ししましょう。現在の状況において、私たちがこの状態になる理由を見いだそうとするときには、私たちは、自分の知的な意識が根絶やしにされる、つまり、意識全体が崩壊し、完全な無感覚状態に陥る、という精神の側からの絶えざる危険にさらされることになります。

 そのとき、私たちが人間について思い描くことができるのは次のようなことです。人間は喉頭(鉄)において、動物界の元型にまで達する意識を発達させます。それは星々に属する意識ですが、通常の生活においては、私たちがそれに気づくことはありません。より高いところでは、植物界の元型に関する意識が両目の領域(錫)にあり、下方にはそれを映し出すイメージがあります。すべての頂点に冠せられるのは土星の領域に達する鉛意識の中心ですが、その頭部中心は私たちが書く記事の内容には注意を払いません。それらは心臓中心の産物なのです。とはいえ、頭は宇宙空間で起こっていることを完全に意識しています。地上の出来事や活動についての私たちの記述は心臓に発するものですが、一方、頭が集中することができるのは、神的な存在が黄鉄鉱の中に、あるいは食塩や水晶の結晶の中に自らを現すその方法についてなのです。

 秘儀参入者の意識がここにいる聴衆の皆さんをざっと眺めるとき、皆さんは私の話すことを皆さんの心臓で聞いている、その間、皆さんが有する三つのより高次の意識は外なる宇宙にある、ということが明らかになります。宇宙は通常の地球意識に知られているような活動とは完全に異なる階級に属する活動の舞台なのです。宇宙の中で織りなされるもの、特に、そこで活発にされ、遠くに、そして広範に放射するものの中で私たちのために織りなされるものとは、私たちの運命の織物、私たちのカルマなのです。

 こうして、私たちは、人間の宇宙に対する関係を通して、徐々に彼を理解するようになりました。つまり、私たちは、いかに彼が外的な世界と根元的な関わりを持っているか、いかに外から根絶やしにされる危険、無感覚へと還元される危険に曝されているか、そして、結局のところ、いかに心臓によって支えられているかを理解するようになりました。

 他の種類の金属について瞑想するときの私たちの精神的なアプローチは異なっています。私たちは銅についても鉄、錫、そして鉛について行ったのと同様の手続きを踏むことができます。私たちは、銅の金属としての性質について瞑想するとき、いわばそれと溶け合い、ひとつになります。そのとき、私たちの魂全体が銅によって、つまり、その色や密度、その奇妙な筋の入った表面によって浸透されます。要するに、私たちは、銅の金属性に対する私たちの魂的な反応と完全に同一視されるようになるのですが、そのとき、私たちが経験するのは、無感覚への段階的な移行ではなく、むしろその反対です。私たちは私たちの内的な存在全体が何かで溢れるという感覚を持ちます。つまり、私たちの反応はより鋭敏になるのです。私たちは、銅について瞑想するとき、それが私たちの存在全体に浸透する、というはっきりとした印象を持ちます。それは心臓より下にある中心から放射し、そして、体全体に分散します。

 自分の中に第二の体、第二の人間を有しているかのようです。そして、内的な圧力を感じます。このことはいくらか痛みを伴うのですが、それは徐々に増加します。あらゆるものが内的な緊張状態にあるかのようです。

 秘儀参入者の意識を持ってこの状態に向き合うとき、私たちは自分の中に第二の人間の存在を感じます。そして、この経験は重要な示唆を含んでいます。と申しますのも、私たちは自分に次のように言うことができるからです。誕生と教育の産物であり、世界を理解するための道具であるところの通常の自我は、我々の人生を通して、我々とともにある。しかし、今や勢いを得たこの第二の人間の中に、訓練と瞑想を通して、その知覚能力を目覚めさせるのだ、と。この第二の人間は実際、特筆すべき存在です。彼は目と耳を別個のものとして有しているのではありません。そうではなく、それ自体が同時に目であり耳である存在なのです。彼は繊細な知覚能力を有する感覚器官に似て、私たちが通常は知覚しないものを知覚します。私たちの世界は突然、豊かなものになるのです。

 ちょうど蛇が脱皮するように、わずかの間−そして、その2、3秒の間に多くのことが経験されるのですが−とはいえ、この第二の人間、「銅」人間は体を脱ぎ捨て、精神世界を自由に動き回ります。痛みが増すという代償を払ってですが、彼は体から離れることができるのです。体から離れるとき、さらに幅広い経験が得られます。体を捨て去ることができる地点にまで達しているならば、死の門を通過した人を追っていくことが可能になるのです。

 その場合、亡くなった人と私たちとの地上的な関係は今すべて終わりを迎えます。彼は埋葬されるか荼毘に付され、地球との関係を断ち切りました。私たちが第二の人間とともに、つまり、超感覚的な知覚とともに体を捨て去るとき、死後の魂が辿る旅路を追っていくことが可能になります。そして、私たちはそのとき、その魂が死後の最初の何年あるいは何十年かを、地上における人生を逆向きに辿りながら過ごす、ということを知ります。これは観察することができる事実です。何故なら、私たちは死の門を通ってその魂を追っていくことができるからです。私たちが人生を要約するのにかかる時間は人生の三分の一の長さです。60歳で死ぬ人はおよそ20年かけて人生の経験を要約することになるでしょう。私たちは彼の魂をこの期間を通じて追っていくことができます。私たちは今や、死後に辿る人間の経験について多くのことを知ります。人生を要約するとき、その経験は逆向きになります。いくらか粗雑な例をあげることをお許しいただきたいのですが、皆さんが死ぬ三年前に誰かの横面をひっぱたいたとしましょう。皆さんは彼にうんざりしていたので、怒りを爆発させ、彼に物理的、道徳的な痛みを与えました。皆さんは彼が自分を怒らせたという理由で彼に与えた罰によって一定の満足を得ました。さて、皆さんは皆さんの人生を逆向きに要約します。一年後にこのエピソードのところにやってきたとき、皆さんは元の怒りの爆発ではなく、その爆発の餌食になった人の物理的、道徳的な痛みを経験します。皆さんは正に彼の感情の中に入り込み、その横面の手形を物理的に経験するのです。つまり、皆さんは皆さんが与えた痛みを体験するのですが、同様のことはあらゆる行いにあてはまります。皆さんはそれに巻き込まれた人が経験することをその通りに経験します。人間の魂が死後に通過するすべてのそのような経験を追っていくことができるのです。

 その文化的な衝動を秘儀の教えに負っていた古代カルディア人たちは、これらのことがらに関して、今日の人間よりもはるかに深い洞察を有していました。注目すべきは、今日の私たちが心臓意識の中で生きているのに対し、当時、これらの古代カルディア人たちは実際、喉頭意識の中で生きていた、という事実です。彼らにとって自然な意識とは一種の鉄意識だったのです。彼らの経験は宇宙に関連していました。彼らにとって地球は、今日の私たちにとってそうであるようなしっかりとした一貫性を有していませんでした。彼らがある特別に好ましい条件下、例えば、火星存在との親しい交わりの中で生きるとき、私たちが第二の人間の意識によって知覚するような存在たちを伴って、ある存在たちが月からやってくる瞬間がやって来ました。カルディア人たちは死後の生活に関する崇高な真実をこのように間接的な仕方で知りました。つまり、彼らはこれらの真実についての教唆を外なる宇宙から受け取ったのです。

 仲介者の助けなしに死者を追っていくことができる今日の私たちにとって、そのようなことはもはや必要ではありません。私たちは彼らの経験を逆の順番に、そして、それぞれの経験を逆方向に辿ることができるのです。そして、私たちが、この第二の人間と同化するとき、現象世界よりもはるかに現実的な世界に自分が置かれているのを見いだす、というのは不思議なことです。現在のこの世界とそこにおける私たちの経験の総計は私たちが今参入する堅固で厳格な事実の世界に比べると実体がないように見えます。

 今お話ししたような仕方で死者に同伴するとき、私たちはあらゆることがらを増幅したスケールで経験します。つまり、あらゆることがより強烈に現実的なものとして現れるのです。それに比較すると、現象世界は漠とした印象を残します。秘儀に参入した意識を通して死者の世界に関係する人にとって、現象世界は色のついた仮面舞踏会のようなものです。瞑想を通して秘儀に参入し、死者とこのように密接な関係を持った人は次のように言うでしょう。お前たちは皆、色のついた仮面だ。お前たちに現実性はない。ただ色のついた仮面が椅子の上に座っているのだ、と。

 真の現実は物理的な存在領域を越えたところにのみ見いだされるのですが、その現実は、今、ここで経験することができるのです。恐らく皆さんの何人かは私の神秘劇に登場するストラーダーという人物を覚えているかも知れません。この役柄は実在の人物に基づいています。ストラーダーは一九世紀の最後の三分の一から二十世紀にかけて生きた人物の詩的で非現実的な側面を表現しています。彼は実際の人生において非常に興味深い男でした。彼の人生の出発点はカプチン修道士会の見習いでしたが、哲学のためにその職業を捨て、しばらくの間ドルナッハの修道院に滞在しました。私は彼を神秘劇の中でストラーダーに仕立てたのです。それは彼を忠実に再現したものではありませんでしたが、ある程度似たところがありました。覚えておられるかと思いますが、神秘劇第四番でストラーダーは死にます。私は、彼のキャラクターをさらに展開するための可能性をすべて使い果たしていたために、彼を死なせるより他になかったのです。もし、彼を生かし続けようと試みていたならば、私はペンを取ることができなかったでしょう。神秘劇の第五番に彼が再び登場する可能性はなかったのです。何故そうだったのでしょうか? 

 その役割を僧から哲学者へと変えていた当の人物はその間に亡くなっていました。そして、私は、その人物に対して深い興味を抱いていたために、彼の旅路を精神世界を通して追っていくことができたのです。彼の人物像によってもたらされるそこでの印象ははるかに現実的なものでした。彼の地上における生活と活動は、彼の死後の生活における経験に与ることができる今となっては、もはや私にとって同様の興味を起こさせるものではありませんでした。

 そのとき、奇妙なできごとが起こりました。何人かの人智学徒がことの次第にはたと気がついたのです。彼らは−人間の手際のよさに際限はありません−ストラーダーがある程度歴史的な人物の横顔であることを見つけだしたのです。彼らはその探求の過程で彼の未公開の原稿や彼が書き残していたあらゆる種類の興味深い書類を発見しました。彼らはその発見に私が大喜びするものと思って、それを私のところに持ってきたのですが、それは私にはほとんど興味のないものだったのです。一方、私が本当に興味を持っていたのは彼の死後の行為でした。このずっとはるかに現実的なものに比べれば、彼が後に残していった外的な世界に関するあらゆるものは私にとっては何の意味もないものだったのです。

 それほど骨を折って集めた情報ですが、私がほとんど興味を示さないのに人々は驚きました。しかし、そのとき私はそれを必要としていなかったのです。そして、今も必要としていません。この世界の現実とは、私たちが死の門を通った魂を追っていくときに明らかになるあの崇高な現実に比べれば、空虚なものである、というのは本当のことです。その魂が死の門の向こうで滞在しているのは、私たちが、肉体を捨て去ることができる第二の人間と同化するとき、短い間とはいえ経験することができる世界です。しかし、その短時間の間に、私たちは多くのことを経験することができます。

 現象世界に直接その境を接するこの世界の存在は全く疑いのないものです。それは死者たちがより豊かに生きる世界です。私たちは肉体を放棄するこの第二の人間を通して彼らを理解するのですが、それは、意識を喪失したというよりも、むしろ私たちの意識がより深く融合したということです。

 もし、私たちが心臓中心よりも上に上昇するとすれば、私たちの意識はよりぼんやりとしたものになり、無意識の状態に近くなります。もし、私たちが心臓中心よりも下に下がるならば、私たちの意識は強められます。私たちは現実の世界に参入するのですが、その結果として必然的に生じる痛みや苦しみに耐えることを学ばなければなりません。とはいえ、もし、私たちがこの世界を取り囲む壁を勇気と決意を持って突破するならば、その参入は確かなものになるでしょう。

 私たちは今や、通常の日常的な意識、喉頭にあける第二の意識、両目の領域における第三の意識、頭頂部における宇宙に達するところの第四の意識、そして、空間世界とは関係を持たず、時間の世界に私たちを連れ戻すところの第五の意識についての理解へと至りました。この第五の意識レベルを達成するとき、私たちは死者たちと同じ逆向きの時間軸を共有し、時間の中を旅することになります。私たちは空間から出て、時間の中へと足を踏み入れたのです。

 ですから、すべては私たちが私たちの前に新しい世界を開示する別の意識状態の中に自分自身を移すことができるかどうかにかかっています。地上における人間はひとつの隔離された世界の囚人です。何故なら、彼はたったひとつの意識状態しか知らず、他のすべての意識において、眠りの状態にあるからです。もし、私たちがそれらを目覚めさせ、発達させることができるならば、私たちは別の世界を経験することができるのです。

 人間はその意識を変化させることによって、自分自身を変化させることができる、というのが精神的な探求における秘密です。通常の方法による探求や研究によって別の世界へと貫き至ることはできません。私たちは、変容を遂げ、意識を通常とは別の新しい形態へと変化させなければなりません。


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