ルドルフ・シュタイナー

「精神的な探求における真実の道と偽りの道 (GA243)

トーケイ、ディヴォン、1924年8月11日−22日

佐々木義之 訳


第五講

金属質の本性を通しての魂の内的な活性化

 

私は、いかに人間が日常生活の意識とは異なる意識状態を発達させることができるかということ、そして、その知識と活動の分野において、人間は今日の私たちのような意識を有していなかったということに関して、進化の歴史がいかに豊富な証拠を提供するかということを示そうと試みてきました。そして、十世紀、十一世紀、そして十二世紀に生きた学者たちの意識と、当時、例えばシャルトルの学院において知識が涵養された方法との間の関係に注意を促す、ということを次に試みました。それとの関係で、いかに私たちの現在の意識レベルとは全く関連しない知覚形態が生じてきたかということも指摘しました。ダンテの教師、ブルネットー・ラティーニの場合がそうです。

 昨日はもっと以前の時代、例えばエフェソスの秘儀の時代における人間の宇宙に対する関係を呼び起こす、ということを試みました。それによって、私たちは、当時、今日の通常の科学的な意識状態にある程度関連しているとはいえ、いかに全体として異なった意識状態が卓越的であったかを知りました。

 さて、少し脇道にそれた後、今日は私たちの探求を続けたいと思います。私は既に金属性が、つまり鉱物元素の基本的な物質性がいかに人間とその意識状態に関連しているかということを示しました。すなわち、金属銅に対する人間の関係を示した後、いわば死後間もない死者の経験に参加することを可能にするところの意識状態について記述しました。

 私たちは、ルネットー・ラティーニが発熱の後、半ば病理的な状態の中で経験したのはこのような知覚形態であった、ということに気づかなければなりません。

 彼が記述することのすべて、女神ナチュラのインスピレーションを通して彼のところにやってきたもののすべては、あの死後間もない死者の経験に与ることができる意識状態−それは私たちの日常意識に密接に関連しています−の中で、本当に達成することができるのです。私は、それはより現実性の大きい状態であった、と言いました。私たちはより力強く、より光り輝く世界に、つまり、現象世界に比べて、あらゆるものにさらなる完成をもたらす世界に住んでいるのです。

 私たちはこのことによってのみ、死の門を通って間もない魂の経験に与る可能性を有しているのです。

 それと同時に、この世界のある奇妙な特徴が明らかになります。私たちが、今お話しした意識状態をもって、その世界に滞在するとき、日常生活における通常の経験を観察することはもはや不可能になります。この世に生まれる直前の私たちの生活、生まれる前、まだ精神的な世界にいたころの私たちの経験だけを見るのです。ですから、私たちは、この意識状態の中では、私たちが通常住んでいる世界から引き離されるということに気づかなければなりません。

 それがどういうことなのかを示しましょう。ある人がある時点で生まれたとします。もし、彼が40才のとき、銅の意識状態を達成したとすれば−このことは既に一昨日の講義で説明しました−、彼の知覚はもはや現在の経験にも、彼が30才あるいは35才の時の知覚にも関連せず、ただ生まれる直前の経験を振り返ることができるだけなのです。彼は、これを彼自身についても、他の人についてもできるのですが、日常的な存在の世界を理解できません。それができるのは人間についてだけです。

 動物はその見慣れた物理的な姿では現れません。私たちは直上の世界をのぞき、集合魂と呼ばれるものを知覚します。いわば動物の種のオーラを見るのです。そして、現在の唯物的な時代においては完全に無視されているとはいえ、人類にとって最高に重要な何かがその世界に見いだされることになります。

 そして、もし、私たちが、ベルナルドゥス・シルベストリ、アラヌス・アプ・インスリスやその他のシャルトルの学院の教師たちによってあれほど生き生きと描写された存在、すなわち女神ナチュラとして絶えず存在していた存在に触れるとすれば、たとえ最高の学院であらゆる学問についてのすべての現代的な知識を学んでいたとしても、私たちには自分がはかり知れないほど無知であると感じられることでしょう。現在の知識は誕生から死までの世界にだけ適合している、死者を死の門の向こう側まで追って行ける意識をもって精神的な世界に参入するとき、それはもはや有効ではない、と感じられるのです。

 私たちが化学を探求するとき、その知識の総計は誕生と死の間の世界にとってだけ有効です。いわゆる化学は私たちが死者と共有する世界においては重要ではないのです。私たちが現象世界において獲得するすべての知識は死と新生の間のこの中間的な状態においては価値がなく、単に記憶として残るだけです。私たちは、私たちが今や居住するこの中間的な領域に関する直接的な意識を有している、私たちがあれほど多くのことを学んだあの日常的な世界は私たちの意識からかすんでしまった、と感じます。この別の世界が今や私たちの目の前に広がっているのです。

 私たちの目の前にぼんやりと山が現れてくると想像してみましょう。それはしっかりとした印象を与えます。遠くから見ると、それは太陽の光を反射しており、その輪郭と岩の様子が分かります。少しずつ近づき、そこに足を踏み入れると、その堅さが感じられます。私たちはしっかりとした地面の上に立っている、その現実性には何の疑いもないと感じられます。

 さて、中間的な世界においては、しっかりとしている、輝いているとして記述されたあらゆるものはいかなる意義も持たなくなります。つまり、何かが山から流れ出し、どこまでも大きくなり、そして別の種類の現実性を印象づけるのです。

 私たちは、通常の状態の生活において、山の上に雲が懸かっているのを見ます。それは水蒸気の凝縮によってもたらされたのだ、ということに何の疑いも抱きません。この現象もまたあらゆる現実性を失います。何か別のものが雲から現れるのです。それは山と雲が徐々に視界から消えるのにしたがって現れます。この組み合わせの中から、単に漠としているだけではなく、漠としていると同時に形態を与えられた新しい現実が生まれるのです。そして、それはこの中間的な世界におけるあらゆるものに当てはまります。

 多くの聴衆の前に立つと想像してみましょう。私たちが精神的な世界に入る瞬間、そのすべてのはっきりと規定された輪郭はかき消されます。私たちはそのかわり、超感覚的なイメージの形で投影された聴衆の魂と精神を知覚します。そして、周囲の神秘的で精神的なオーラが次第に私たちを包み込み、新しい世界、死者が死後に居住する世界が生じるのです。

 私たちは今、別の何かに気づきます。つまり、もし、私たちが今や参入したこの中間的な世界が存在していなかったとすれば、それがいたるところに存在していなかったとすれば、私たちは私たちの目や耳を、つまり感覚器官を有してはいなかったであろう、ということにです。化学者や物理学者たちが記述する世界は私たちに感覚器官を提供することはできません。ですから、私たちは見ることも聞くこともできなかったでしょう。私たちの中に感覚器官が組み込まれることは不可能だったのです。

 そして、ブルネットー・ラティーニがスペインから生まれ故郷のフィレンツェ近郊に戻り、彼にこの中間的な世界への扉を開いたところのあの若干の発熱に苦しんだとき、彼が発見した驚くべきこととはこのことだったのです。彼は彼の感覚器官がこの別の世界のたまものであることに、つまり、もし、この中間的な世界が感覚によって経験される世界に浸透していなかったとすれば、彼の感覚は全く発達していなかったであろうということに気づいたのです。私たちの人間としての地位は、私たちが私たちの感覚器官をこの第二の世界、この中間的な世界との結びつきに負っている、という事実によって決定されているのです。

 この第二の世界はいつの時代にも元素の世界と呼ばれてきました。酸素、水素、窒素等々の言葉はそこでは意味がありません。これらの言葉は誕生と死の間の世界にだけ適用可能なのです。第二の世界においては、土、水、空気、火、光等々の元素について語ることだけが意味を持っています。と申しますのも、水素、酸素等の特質は感覚には全く無関係だからです。化学者がスミレやアギ(セリの一種)の香りについて見いだすこと、つまり、一方はよい香りで、他方はきわめて不快であるというようなこと、そして、その化学的な組成にしたがって名づけられるあらゆるもの、それらの何ひとつとして意味がありません。第二の世界においては、香りや臭いとして現象するすべてのものは精神化されています。第二の世界の立場から記述するならばそれらは空気なのですが、希薄化された空気、精神によって完全に浸透された空気なのです。私たちの感覚は元素の世界に根ざしていますから、そこではまだ、土、水、火、そして空気について語ることに意味があるのです。

 私たちは今や、これまで誤解していたものを正しい理解へと発展させることができます。自分を論理的、客観的であるとして、以前の時代の素朴な観点は捨て去ったと主張する現代の哲学者はこれにどのように反応するのでしょうか? 彼は、このような昔の概念は原始的であり、当時、人々は粗雑な元素である土、水、火、そして空気についてだけ語ったが、今日では四つや五つの元素ではなく、七〇から八〇の元素が知られている、と主張するのです。

 さて、もし、ギリシャ時代の典型的な観点を有する人が今日の時代に生まれ、自分の立場についてたずねられたとしたら、次のように答えるでしょう。あなた方はもちろんまだあなた方のやり方で酸素や水素のような元素について語っていますが、私たちが四つの元素によって理解していたことを忘れています。あなた方はその構成に気づいていません。あなた方はそれらについてもはや何も知らないのです。あなた方の72や75の元素のすべてが存在していたとしても、感覚器官は決して生まれてこなかったでしょう。何故なら、それは四つの元素から生まれてくるものだからです。人間について、つまり感覚器官を備えた人間の体がどのように組み立てられているかについてもっとよく知っているのは私たちです、と。

 ブルネットー・ラティーニのように秘儀参入に向けて第一歩を踏み出した古い時代の人間が受け取った印象について推し量ることができるのは、これらの印象が魂や精神の生活にとってどのような意義を有していたかを、つまりこれらの印象によって魂が受ける活発な刺激とその予期しない衝撃的な影響を心に留めるときだけです。

 もし、これまで感覚印象の現実性を信じてきた人が、その現実は彼の感覚器官を創造することさえできなかったであろうということを、その現実の背後には私がここでお話ししてきたことのすべてが存在しているに違いないということを発見するならば、その影響はとにかく大変なものでしょう。

 私たちが普通に抱いているような自然についての古い不毛な概念をいつまでも長引かせるならば、そのような知識や理解を発達させることはできない、ということに気づくことが重要なのです。私たちがこの第二の世界に参入するとき、あらゆるものが生命の身震いを始めます。私たちは次のように自分に言います。感覚的な経験を通して我々が知っていた山は活気のないもののように見える、我々はそれが生きた力によって浸透されていることに全く気づいていなかった、今やそれが我々に明かされる。そして、以前には静的で不活発のように見えた雲の中に、これまで気づかなかった生きた生命が生きているということが今や明かになる。あらゆるものが活気づけられ、この波打ち脈打つ生命の中で、根本的な現実が明らかになるのだ、と。

 この第二の世界における自然の法則は知的に構成されているのではなく、精神的な存在に関係しています。私たちに語りかける女神ナチュラが現実の世界からの洞察を指し示し、伝えるのです。こうして私たちは、超感覚的な世界の存在を通して、私たちを取り巻く現実について学びます。私たちは自然法則によって決定される純粋に抽象的な世界から現実的な存在の世界へと上昇させられます。そこではもはや実験や分析によって自然法則に至るのではなく、異なる世界の存在たち、知識や理解を仲介する存在たち−何故なら、彼らは私たちが人間としてまだ学ぶべきこととは何かを知っているからです−、そのような存在たちがいると感じられるのです。

 こうして私たちは正しい仕方で精神的な世界に参入します。もし、私たちが感覚器官だけを、つまり目とその視覚神経、鼻とその嗅覚神経、そして耳とその聴覚神経だけを授けられていたとすれば、そしてこれらの神経がすべてその出発点において結びつけられていたとすれば、私たちは酸素、水素、窒素やその他の元素、そして私たちが生まれてから死ぬまでに知覚するところのすべてを意識することはなかったであろう、ということに気づきます。私たちは元素の世界をのぞき、周囲のいたるところに土、水、空気そして火を知覚していたことでしょう。土とその粗雑な物質、水とその液体要素の間にさらなる区別をつけようなどとは少しも思わなかったことでしょう。私たちは物理的な感覚を持った存在として元素の世界に通じています。けれども、私たちがここで既に記述されたことを意識する瞬間、私たちはまた、人間の中では、頭蓋の空間へと駆け戻る感覚神経がさらに差別化され、特殊化されるとともに、その領域において、脳の最初の兆しが形成される、ということに気づきます。その結果、私たちはそれ以上深く自分自身の中に入りません。つまり、私たちは外に向かうようになり、私たちが誕生から死までの間に経験するところのものを、土、火、空気、そして水という四つの元素の性質に付け加えるのです。

 大脳は頭蓋空間へと駆け戻る感覚神経索の段階的な変容に基づいて発達します。人間の中で自分自身へと押し戻されるこの大脳は、誕生から死までの生活においてだけ意味があります。精神的な世界についての理解にとって、知性はほとんど重要ではありません。私たちが私たちの世界と境を接する最初の精神的な領域に参入しようとするときでさえ、知性は沈黙させられなければならないのです。大脳はより高次の知覚を妨害する器官なのです。しかし、知性が沈黙させられたとしても、私たちは感覚的な経験からは逃れられません。そのためには、感覚を精神化し、イマジネーションを達成しなければならないのです。通常の過程では、感覚に導き出された外的な世界のイメージは私たちの感覚によって受け取られ、知性がそれらを抽象的で死んだ思考へと変化させます。もし、私たちが知性を沈黙させ、それでも感覚を通して世界を経験することができれば、私たちはあらゆるものをイマジネーションの形で受け取ることになります。私たちはそのことを意識し、通常の生活における意識をより高次でより精神化された状態へと発達させることによって、ついには人生に対するより深い洞察が得られるのだ、ということに気づくようになるのです。

orange:オレンジ色

rot:赤色

 目や耳のように私たちの体の周囲に配置された器官は元素の世界と絶えず連絡を取り、死後数年を経た死者を知覚しています。この世界についての知覚が失われるのは私たちの知性が介入するからです。人間の周囲に配置された器官は精神的な世界、死者の世界を仲介するのですが、この世界、土、水、火そして空気元素の世界は知性的な意識によって消し去られるのです。人間ははっきりと規定された輪郭を持つ物理的な世界、私たちが誕生から死までの間に滞在する世界だけを見ます。非常に異なって秩序づけられた第二の世界が本当に存在するということは疑いのないことなのですが、この世界は知性によって消し去られ、人間がながめるのはただ日常意識にとって見慣れた世界だけなのです。

 現代人が昨日お話ししたような瞑想を行わなければならないのはそのためです。過去には、そのような瞑想の後、金属実質を摂取するということが行われました。それについては前回の講演でお話ししました。より高次の意識レベルに至ることができるかどうかは、まず第一に、知性を消し去るということ、感覚器官によって仲介される知覚を精神化するということにかかっています。動物の場合、大脳が発達していないために、これらの知覚に与ることができるのですが、彼らは自我意識を有していないため、その知覚は精神にではなく、単に原始的な魂の力にだけ浸透されています。彼らは人間のように感覚が精神に照らされたときに知覚されるものを周囲の世界に知覚しません。動物の知覚は人間の知覚と同じ種類のものなのですが、劣ったものであり、個的なものになっていないのです。

 金属性について、つまり鉱物世界の現実の実質についてこれからお話しすることは、必要な留保をもって受け取られなければなりません。昨日、金属の性質を通して魂を内的に活性化させることについて、つまり言い換えれば、金属性との内的な交流を道徳的な意味で発達させることが今日の人間の精神的な発達における枢要な部分をなしているということについてお話ししたとき、その留保に対して皆さんの注意を促しました。効能化された金属の人体組織に対する処方は臨床医の役目です。ですから、皆さんには、既に議論した以外の金属の知られざる要素について私がお話ししようとしていることを、必要な留保をもって受け取っていただきたいのです。特に水銀の秘儀は精神的な面から世界に接近する人たちにとって、すなわち物理的な実質の中に精神の働きを知覚することができる人たちにとって特別な重要性を有しています。ただし、金属の水銀は精神科学が水銀的という一般的な言葉で呼ぶところのものの一部に過ぎません。水銀的なものとは液体金属の性格を有するあらゆるものを含んだものなのです。私たちが今日知っているような自然界には、このような性格に与る金属、水銀的と見なされ得る金属はたったひとつ、つまり水銀しかありません。けれどもこれは水銀という種を構成するもののひとつに過ぎません。精神科学においては、水銀的なものとは水銀的な性質を有するあらゆるものを包含しています。水銀は単に水銀的なものの典型例と見なされるに過ぎません。

 この水銀には奥深い秘密があります。水銀の人間に対する影響とは、人間が物理世界のすべての印象から、そして元素の世界からも引き離されるというものです。

 私たち人間は脳のような器官が物理的な世界から作り上げられたのを知っています。私たちはまたこの感覚の世界から他の多くの器官を作り上げたのですが、特に、物理的な生活には不可欠の一連の腺組織全体を作り上げました。

 さらに言えば−感覚器官については既にお話ししました−、第二の意識レベルに関係する世界として記述された世界からも多くの器官が作り上げられています。銅と鉄は人間をこの第二の意識レベルに引き上げます。水銀の影響は異なっています。それは必然的に宇宙の中に存在していなければなりません。そして、それは実際、微細な拡散状態で普遍的に存在しているのです。私たちはいわば水銀の大気に取り囲まれているのです。人間が通常以上の量の水銀を吸収する瞬間、彼の有機体は物理世界と元素の世界から作り上げられたすべての器官を中和しようとし始めます。人間のアストラル体がいわば刺激され、星の世界から作り上げられた器官にだけ頼るようになるのです。

 ですから、水銀の金属性に、つまりその金属的かつ液体的な性質、水銀に特徴的な要素、基本的に手で感じられないほど微細でありながら、それでも人間に関係しているところの要素に意識を集中するやいなや、人間は「第三の人間」に浸透されるようになります。人間は銅との関係を通して内的な緊張を創り出すとともに、肉体を捨て去り、死後間もない死者たちを数年にわたって追っていくことができるような第二の人間に内的に浸透されるようになる、ということは既に述べました。水銀はもっとはるかに綿密に織られた魂的な組織に貢献するようなあらゆるものを引き寄せます。水銀の影響を通して、人間の器官における新陳代謝の全体が把握されるかのようです。人間は、水銀の力強い金属的な影響を経験するとき、様々な管組織を通して流れる液体循環の様相に突然注意を向けさせられることになります。その影響は気持ちがよいものとは言えません。と申しますのも、彼は、心と感覚を失ったかのように、内的な発酵状態、乱れと流れ、脈打つ生命と動きの中にあるかのように感じるからです。そして、彼はこの内的な活動が外の活動とひとつになっているのを感じます。

 既に記述しましたように、この状態は内的な生活の意識的な訓練によって生じます。水銀の活動的な影響を通して、人間は彼の脳の存在を感じることをやめるのです。脳は空虚な空間になりましたが、それは精神的な世界の知覚にとって有益なことなのです。何故なら、脳はその目的にとって全く役に立たないからです。彼が実際に感じるのは彼の有機体全体に浸透する動きと活動です。とはいえ、この発酵は最初、内的な消耗に苦しむのと同様に苦痛に満ちたものなのです。

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 内的な活動があらゆるところで外的な活動と結びつけられます。私たちは地球を離れ、元素の世界が私たちの下方にあるのを感じます。あらゆるものが流れる蒸気を吐き出すのですが、この蒸気の中には、流れる呼気の中には、精神的な存在たちが住んでいるのです。ブルネットー・ラティーニがあれほど生き生きと記述したナチュラ神が今「振り向いた」のです。

 昨日お話ししましたように、彼女はギリシャのパーセフォニーと同じ存在です。以前、彼女の眼差しはより地球へと向けられていました。つまり、彼女は死後間もない人間の生活についての経験のようにまだ地球の領域に結びついていたものを明らかにしました。今、彼女は「振り向き」、人間の下方には地球、そして元素の世界、上方には星の世界があります。地上で植物や動物に囲まれていたように、今、彼の周りには星の世界があります。彼はもはや壮大な星の世界を目の当たりにしても、自分がとるに足らないものであるとは感じません。星の世界は、彼の今の大きさでは、ちょうど地上において周りの環境との関係で感じられていたのと同じように感じられます。彼は、その身の丈が大きくなるとともに、星の世界へと成長したのです。とはいえ、その星は私たちが地上から見るような星ではありません。そこは精神的な存在たちのコロニーであるということが分かります。私たちは再び既に皆さんにお話しした世界、つまり錫の金属性との関係を通して人間の中で目覚めさせられる世界の中にいるのです。既にお話ししたように、水銀と錫の間には内的な関係があります。水銀は私たちの存在のある一定の部分に働きかけ、それを分離し、外的、物理的には星の世界として表現される精神的な世界に持ち込むのです。

 けれども、私たちは、私たちの意識状態が変化したため、今や異なる世界の中にいます。つまり、その意識はもはや感覚や脳によって決定されるのではなく、水銀の金属性が私たちの有機体から引き出したところのものによって決定されるのです。私たちは全体として異なる世界の中に、星の世界の中にいる自分を見いだします。しかし、このことは別の方法で表現することもできます。「星の世界」という言葉は空間的なものを暗示しますが、私たちは今や本当に、この新しい意識レベルを達成することを通して、誕生から死までの間、空間的に存在する世界を後にし、中間的な世界、死から再生までの間、私たちが滞在する世界に参入するのです。

 これが水銀の隠された秘密なのです。つまり、水銀は人間を現象世界から引き離し、中間的な世界への扉を開くのですが、それが可能なのは水銀が人間存在のあの部分、つまり地球から導き出されたのではなく、中間的な世界の存在たちによって彼の中に植え付けられた部分と内的な関係を有しているからです。彼が今経験する液体の循環は彼が死から再生までの間に通過する世界によって決定されるのです。

 私たちは今や、ある別のことがらについて知るようになります。それもまたブルネットー・ラティーニが女神ナチュラの影響下に受け取ったものなのですが、宇宙的な液体の循環に関連した液体の循環の中で私たちは生きている、ということが意識されるようになるのです。私たちは肉体という乗り物を感覚から導かれた意識とともに脱ぎ捨て、死から再生までの間に滞在する世界にいる自分を見いだします。そして、液体の循環の本性に通じるようになるとともに、いかにこの内的な活動が、つまり私たちが死と再生の間に滞在する領域が私たちの気質、多血質、胆汁質、憂鬱質あるいは粘液質という性質を決定したかを理解し始めます。私たちは私たちの成り立ちについて単に感覚に頼るとき以上に深い洞察を有することになります。私たちが粘液質として生まれるとすれば、自分の鈍感さ、自分の無精が前回の死と今回の誕生との間の私たちの経験によって決定された、ということに気づくのです。しかし、私たちは物理的な液体の循環の中に自らを現わすこの気質との関連でもうひとつの要因について考慮しなければなりません。この液体の循環には何が含まれているかを少し考えてみて下さい。解剖学や生理学の分野では主として物理的なものが問題になりますが、物理的なものは精神的なものの表現に過ぎません。この液体の循環に関連する精神的な要素は物理的な世界のものではなく、死と再生の間にある人間にまで貫き至る世界に発するものなのです。

 私たちが様々な気質を省みるとき−そして、女神ナチュラがブルネットー・ラティーニに気質の存在とその本質に対する彼の目を開かせたことは、彼にとって圧倒的な経験だったのです−、私たちは、死と再生の間の生活が液体の循環と関連するこれら四つの異なる気質の本性を決定したのだ、と結論づけるのです。もし、私たちがもっと深く探索するならば、運命を司るカルマがその中で役割を果たしているのが分かります。

 たとえこの特筆すべき液体金属である水銀の物理的な面をよく考えてみるとしても、それについて理解し始めるのは、その隠された秘密、すなわち液体水銀の微細な一滴が秘儀参入者に奥深い秘密を明かす、ということを十分に意識するときだけです。この滴は死と再生の間の世界にその起源を有し、その構造をその世界に負うところの器官の中に精神的なものを浸透させることができるのです。

 このように、世界のあらゆる事物は相互に織りなされ、関係づけられているのです。物質的なものは幻想です。そして、物質の観点からは精神的なものもまた幻想であり、抽象に過ぎません。実際には、物質的なものは精神的なものに、そして精神的なものは物質的なものに織りなされている、というのが本当のところなのです。

もし、その起源を中間的な領域に実際に有するような器官が関係する障害が人間の有機体の中で発生したとすれば、その障害を修復するような力を活性化しなければなりません。死と再生の間の生活にその起源を有するところの循環器系の不具合を持つ患者が医師の診察を受けると仮定してみましょう。医者は、その循環器系統が精神的な世界との結びつきを断ち切られているような患者に直面することになります。それがその患者がたどった歴史です。精神的な要素と物理的な診断との関係は昨日示唆したような意味で理解されなければなりません。誤解のないようにもう一度繰り返しますと、この患者の循環器系は精神的な世界からひどく断ち切られているという診断になります。何が処置されなければならないのでしょうか?

 循環器系と精神的な世界との結びつきが回復されるように、体内に金属性を導入する、というのが正しい処置です。これが水銀の人間に対する作用です。水銀は人間の有機体に対して、精神的な世界からのみ築かれ得るような器官がその精神的な世界との関係を断ち切ったとき、それらを再び接触させるようにする、というような仕方で働きかけます。こうして、私たちは意識状態に関する知識と病気に関する知識との間に存在するいくらか危険であると同時に必要な関係を理解します。一方の知識が他方に移行するのです。

 このようなことがらは古代の秘儀において決定的な役割を果たしていました。それは私が昨日触れたようなことがらにも光を当てます。次のようなことを考えてみましょう。自然の秘密についての女神ナチュラの教えを通して、彼女に気づくことができた古い精神的な視界が失われていた時代に、ダンテの教師であるブルネットー・ラティーニがスペイン大使の地位を離れ、興奮状態の中で帰ってきます。生まれ故郷に近づき、彼の党、ゲルフ党の運命が聞こえてきたとき、彼の興奮は高まります。彼はこのすべてを、若干の発熱が彼のところにやってくる、というような心の状態で経験します。正に水銀の金属性が周囲から彼に働きかけていたのです。

若干の発熱を私たちはどのように理解すればよいのでしょうか? それは環境中の水銀、宇宙全体に細かく分散した水銀の影響を感じる、ということを意味しています。ブルネットー・ラティーニはこの影響を経験した結果、人間がそのような経験に与ることができない時代であったにもかかわらず、精神の世界に近づくことができたのです。こうして、私たちは、人間の中には、自然科学が見いだすところのものや死後数年以内の死者と接触を持つ人が見いだすところのものが存在しているだけではなく、私たちの根本的な存在はもっとはるかに崇高な何か、私たちが死と再生の間に生きるところの純粋に精神的な領域にも関係しているのだ、ということを理解します。通常の科学的な手続きによって例えば肝臓や肺の形態を理解することができます。もう一段高次のレベルの知識−そして、その知識はより粗雑な側面においてのみ現代物理学に知られているに過ぎません−をもってすれば、感覚器官の構造を理解することができます。けれども、秘儀に参入する知識を通してそれに近づく以外には、直立姿勢をとる人間の循環器系が示す奇妙な特徴や不思議な金属の特質を理解することは決してできないのです。

 このことが示しているのは、秘儀に参入するところの知識なしに、私が記述した意味で病気の本性を理解することは決してできない、何故なら、金属が病気を癒すことができるのはその物理的な性質によってではないからである、ということです。金属の物理的な特質に関する理解をもってすれば、脳の損傷を癒すことは可能でしょう。しかし、循環する液体の障害を治療することは不可能です。ただし、このように言うことは実際には厳密に正確というわけではありません。何故なら、それによって治療することができるのは脳の最も粗雑な実質だけだからです。脳内には液体も循環していることから、現実には金属だけで脳の損傷を治療できるわけではなく、精神的な知識の助けがあってはじめてそれが可能となるのです。

 皆さんは、確かにそうかも知れない、しかし治療芸術における今日の医学の成果をどのように説明するのか?と言われるかも知れません。それに対する答は、医学に治療が可能なのは、それが金属の精神的な要素についての古い伝統的な知識の記憶をまだ保持しているからである、というものです。それが使用しているのは伝統的な知識と、ほとんど役に立ちませんが純粋に物理的な発見の組み合わせです。もし、唯物主義が伝統の犠牲の上に立って勝利を収めるとすれば、化学療法だけではいかなる治癒効果もない、ということになるでしょう。私たちは今新たに精神的なものに接近しなければならない、何故なら、太古の超感覚的な能力に関する古い伝統は徐々に失われているのだから、というような人間進化における一地点に立っているのです。

 銀の金属性の背後にある秘密は非常に特別な種類のものです。銅の背後にある宇宙的な衝動が最初のより高次のレベルにある意識を人間の中に目覚めさせ、水銀の背後にある別の宇宙的な衝動が星の世界、つまり私たちが死と再生の間で滞在する精神的な世界に関係する第二の高次のレベルにある意識を目覚めさせるとすれば、銀の金属性は全く異なる段階の意識を目覚めさせるのです。

 人間が銅と水銀の本性に対して採用したのと同じプロセスによって銀に対する彼の関係を強化し、高めるとき、彼は彼の内にあるより奥深い組織に関係するようになります。人間は水銀によってリンパ液の循環システムに関係づけられるのですが、それによって今度は宇宙の循環、宇宙の精神性に関係づけられるようになるのです。銀に対する彼の関係を強化することは前世から生き残っているすべての力と衝動との直接的な接触へと彼をもたらします。

 もし、人間が銀の奇妙な性質に集中するならば−そして、それはときとしてその効果が表れる以前かも知れません−、彼は自分の内部で、液体の血管中における循環だけではなく、血流に乗った熱の循環にも関係するあの力に集中することになります。そのとき彼は、彼の人間としての地位を彼の血液中における熱の循環に、つまり物質ではあるけれども同時に血液中の精神的な要素でもあるところのある種の内的な熱を彼が感じるということに負っているのだ、そして、この熱の中には前世からの力が活発に働いているのだ、ということに気づくのです。人間の銀に対する関係の中に表現されるのは、血の熱的な活動に影響を及ぼすことができるもの、そしてまた前世との精神的な結びつきを提供するところのものなのです。

 ですから、銀は前世から現世にまで生き残っているものを人間に思い出させるというあの金属としての効能を保持しているのです。と申しますのも、顕著な熱の多様性を有する血の循環はこの物理的な世界から導かれたものではなく、皆さんにお話しした元素の世界や星の世界から導かれたものでさえないからです。星の世界は血液循環の道筋や方向を決定しますが、私たちの中を血とともに循環する熱の中には、前生からの賦活力が働いています。私たちが人間との関係で銀の力を指し示すときには、直接この力に訴えかけているのです。銀の秘儀はこのようにして人間の前世に関係しています。銀は精神的なものがすべてに浸透していること、物理的な世界においてさえそうであることの驚愕すべき例のひとつなのです。銀を正しく理解する人はそれが人間の繰り返される地上生の象徴であることを知っています。ですから、銀の秘儀は生殖とその秘密に結びついているのです。何故なら、人間の存在が世代から世代へと繰り返されるのは生殖の過程を通してだからです。以前の地上生の中にあった精神的な存在は生殖過程を通して再び受肉します。これは血の秘儀と同じ秘儀です。血の秘儀、血の熱の秘儀とは銀の秘儀のことです。

 私たちは今や人間の正常な状態について知るようになりました。次に、その異常な状態についての探求へと進むことにしましょう。さて、血はその熱を、人間の現在の環境からではなく、彼が前世において通過した領域から取り出さなければなりません。人間の血の熱が、私たちを精神的に前世に結びつけるところのものによって活性化されず、現在の環境の影響を受けると想像してみましょう。その場合、結果として病理的な状態が生じます。それが生じるのは血の熱に結びついているもののすべてがその自然な関連から、つまり以前の地上生から切り離されるからです。発熱とは何でしょうか? 精神科学の立場から言うと、発熱は人間の有機体が輪廻転生との関係を断ち切ったために生じるのです。もし、ある病気の場合のように、患者の有機体が以前の受肉から切り離される危険に陥るというような仕方で外的な世界によって働きかけられている、ということが確かめられたならば、医者は治療のために銀を処方します。この種の非常に興味深い例が、最近、アーレスハイムのベークマン博士の医院で見られました。精神生活においては、今お話ししたような状態が突然生じることがあります。血の奇妙な特性のために、人間の有機体が外的な状況を通して以前の受肉からの突然の遊離に脅かされるのです。そして、このことは正に最近ベークマン博士の医院においてある患者に起こったことです。けいれんしていた患者が突然予期せぬ高熱、通常の医学が言うところの原因不明の熱を発したのです。ベークマン博士はその先験的な理解をもって直ちに銀治療を施しました。彼女の話しから、その患者が完全に宇宙的な関連の図式を示していることが明らかになりました。このことから私たちは、一方では、人間の精神的な進化に結びついているものと、他方では、病理的な状態に導くものとの間の相互作用について、つまりそれらをどのように処置すればよいかについて学ぶことができます。

 秘儀参入者が地上における以前の生を探求できるというのはどのようにしてなのでしょうか? 普通の人生の場合のように、私たちが前世に結びつけられ、カルマに巻き込まれている限り、通常の意識をもって前世を振り返ることはできません。前世の影響は現世の中で感じ取られます。私たちは私たちのカルマをそれらの影響の下に成就し、私たちの人生はカルマによって決定されます。通常の意識なしには振り返ることはできないのですが、もし、そうしたいのであれば、しばらくの間その限界を振り捨てなければなりません。そして、前世を客観的に見ることができるようになったとき、私たちは振り返ることができる位置に立つことになります。

 もちろん、私たちは全く正常な方法で現状に復帰できなければなりません。そうでなければ、秘儀に参入したのではなく、精神異常の人になってしまいます。

 これは精神的な発達の過程で生じる現象です。私たちは私たちを前世につなぎ止めるところのもやい綱を解くのです。異常な場合や病理的な状態では、病気がその働きをします。病気とは、私たちが精神的な視覚やその他の意識レベルを達成するために、通常はより高次の領域において達成しなければならないものの異常な仕方での表現なのです。もし、人間のその他の組織から切り離された血がそれ自身の意識−と申しますのも、血はその他の器官がそれぞれの特別な意識状態を有しているようにそれ自身の意識を有しているからです−に支配されるとすれば、つまりその他の組織による縛りから自由になるとすれば、それはこの異常な状態の下で、ただし無意識的にですが、前世を振り返ることになるのです。意識的に振り返るためには、私たちはまず通常の意識なしで済ますことができるようにならなければなりません。病理的な状態で振り返るときには、通常の意識との結びつきが保たれているのです。

 このように、例えばカルマに関連するすべての病気に対するすばらしい治療法となる銀の金属性についての探求は、銀の秘儀から発してその他の深遠なる秘儀へと導きます。私たちは人間におけるあの様々な意識状態に関連したあらゆる金属的な本性について語ってきましたが、今度は、これらの意識状態に対する私たちの探求をこれらの状態を通して到達することができる別の世界との関連へと広げていくことにしましょう。つまり、次の講義では、精神的な知識に向かう正しい道についてより詳細に探求することを提案いたします。

(第五講・了)


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