ルドルフ・シュタイナー

「精神的な探求における真実の道と偽りの道 (GA243)

トーケイ、ディヴォン、1924年8月11日−22日

佐々木義之 訳

 

第七講 

星の世界の認識、人類の歴史時代の区別とその精神的な背景

 

前回の講義では、人間がいかに様々の人生の期間を駆使して、それらの期間を精神的な視界をもって振り返るかを見てきました。彼は、このようにして、彼の意識を星の世界との十分な霊的交渉に向けて一歩一歩上昇させるインスピレーションを達成します。もちろん、この世界は、純粋に霊的な存在たちと事実の純粋に霊的な表現、顕現として理解されなければなりません。

 精神世界への扉を開き、その世界の探求に取りかかるときには、必要な意識状態と必要な魂の条件を発達させるために骨の折れる努力がなされなければなりません。私たちは、通常の意識を用いて精神的な洞察を達成できるという幻想を抱くべきではありません。

 この点を示すために、いくつかの特別な例が役立つでしょう。精神的な探求において間違いの源泉となる可能性があるものを示す前に、次のような前置きをしておきたいと思います。

 精神世界への扉の鍵を開け、いわば精神世界との対話を持つための知覚を可能にするところの精神的な訓練に真剣に取りかかる人は、人類の歴史的な進化は広範な特殊性、すなわち精神的な背景についての特筆すべき差違を示している、ということに気づきます。

 後で示すような理由によって私たちがミカエルの時代と呼ぶところの今の時代は一九世紀の終わりから三分の一、およそ一八七〇年代に始まりました。この時代に先立つ時代は三、四世紀の間続きました。精神的な認識を有する人たちにとって、この時代の性格は完全に別のものでした。さらにその時代に先立ち、やはり全く異なる性質の別の時代がありました。したがって、私たちが秘儀に参入する認識をもって過去を振り返るとき、個々の時代が全く異なる印象を呼び起こす、ということが分かります。私はこれらの印象を抽象的な記述ではなく、具体的な例によって示そうと思います。

 この連続講義の中で、人類の進化に関して様々の役割を演じてきた人々についてお話ししてきました。例えば、有名なダンテの師ブルネットー・ラティーニ、シャルトルの学院における教師たち、ベルナルドゥス・シルベストリ、アラヌス・アプ・インスリス、フィオーレのヨアキムについて触れましたが、さらに、九世紀から一二世紀あるいは一三世紀にかけてさえ、何百人の人々について語ることができるでしょう。これらの人々はそれぞれがその時代を特徴づける人たちでした。

 精神科学の立場から、人類の歴史を、例えば、ダンテやジョットーの時代、すなわちルネッサンスの時代を探求しようとする人は、精神世界にいる人間、肉体を脱いだ人間たちと交わることが絶対に必要である、と感じます。つまり、隠喩的に言うと、死と再生の間にある人間たちと面と向かって出会わなければならない、と感じるのです。秘儀に参入する認識の中で、私たちは、ブルネットー・ラティーニのような人物に対する私たちの精神的な関係は物理的な世界における私たちの仲間の人間との関係のように個人的なものでなければならない、という明確な感情を持つのです。私はこれについて、以前に述べたことの中で示唆しようと試みました。つまり、フィオーレのヨアキムやブルネットー・ラティーニについて語ったとき、私はこの時代を、私の記述にできるだけ個人的な気味を与える必要があると感じるのは明白なことである、というような仕方で記述したのです。一九世紀の三分の二に至るまで続く次の時代においては状況は全く異なります。この時代には、私たちが接触しようとする肉体を脱いだ魂と個人的あるいは個別的な関係を持つ必要はずっと少なくないのです。私たちはむしろ彼らをその全体的な環境の中で見たいと思うでしょう。つまり、彼らと直接的に接触するのではなく、何か地上的な認識、通常の意識を通して彼らと接触する必要を感じるのです。

 ここで、個人的な経験の中からあることがらを紹介させていただくのをお許しいただきたいと思います。この場合についていえば、個人的な経験は完全に客観的なものなのです。私たちの時代に先立つ時代とはゲーテの時代でしたが、私は数十年にわたって彼の作品の研究に携わってきました。最近の数年間は、精神的な存在として精神世界にいる彼と直接個人的に接触する必要が生じたのですが、当初は、個人としてのゲーテではなく、いわば星の世界における存在としての彼の宇宙に対する全体的な関係性の中で死後の彼を経験する必要がありました。他方、ブルネットー・ラティーニや彼の時代の本質に関する研究に関係する人々と精神的に接触したいときには、彼らと個人的かつ密接な精神的かかわりの中で考えや意見を交換する直接的な必要性が感じられるのです。

 これは非常に重要な相違なのですが、それはこれらふたつの時代の内的、精神的な特徴が全く異なっているという事実に結びついています。今日、私たちは、人間、あるいは全人類が精神的な真実を直接理解するという珍しい機会を有する時代、つまり、秘儀参入の科学が普遍的な財産になるという時代に生きているのです。私たちは、ちょうど始まったばかりのこの時代を、文化的に開けた階層の側が主要な事実に、世俗的、物理感覚的な事実ではなく、精神的な事実に心から気づくということなしにやり過ごすべきではありません。これからの私たちの時代は精神世界に直接関連するところの精神科学を精力的に追求していかなければなりません。そうでなければ、人類は定められた使命を果たすことができないでしょう。私たちはますます精神的な時代へと入っていかなければならないのです。

 これ以前の時代には、別の力が人類の進化に主要な影響を及ぼしていました。そして、私たちが真正なる星の認識の立場から語るときには、次のように言うことができます。前世紀の七〇年代に始まった時代においては、魂的な生活や物理的な生活、科学、宗教、芸術におけるあらゆるものの中で、とりわけ太陽から輝き出る精神的な力が主要な影響力を及ぼさなければならない、と。私たちの時代においては、太陽の力の影響と活動がますます広範に行き渡るようにならなければならないのです。

 真の認識を有する人々にとって、太陽は現代物理学が記述するようなガス球ではなく、精神的な存在たちの集合体です。そして、太陽の光が物理的、エーテル的に輝くように、精神的なものを放射する最も重要な精神存在たちはキリスト教的−異教的あるいはキリスト教的−ユダヤ教的な用語法にしたがってミカエルと呼ばれる存在のまわりに集まっています。ミカエルは太陽から働きかけます。太陽からの精神的な影響はミカエルとその仲間たちの影響と呼ぶこともできます。

 私たちの時代に先立つ時代においては、人間の生活や活動、そして認識を求める探求の背後にある原動力は太陽の力ではなく月の力でした。三、四世紀にわたって続き、一八七〇年代に終わりを告げた時代の背後にあった原動力は月の力だったのです。

 この時代、地球進化に影響を及ぼしていた指導的な存在たちは、古代の用語法にしたがってガブリエルと呼ばれる存在のまわりに集まっていました。別の名を−用語はそれほど重要ではありません−選ぶこともできますが、キリスト教的−ユダヤ教的な伝統にしたがってガブリエルという名前を使うのが最もよいでしょう。

 こうして、私たちは星の世界から導かれる人間の精神的な活動を私が示したような仕方で気づくようになります。私たちは、秘儀に参入する認識を通して、誕生から歯が生え替わるまでの時期に人間の中で働いているものを確認するとき、宇宙に存在する月の活動に対する洞察を獲得します。言い換えれば、子供時代の最初の年月をインスピレーション的、遡及的に辿ることを通して、私たちは月の影響が特に活発に働いていたガブリエルの時代についての認識を得るのです。

 他方、私たちの時代の特徴的な性格を知覚するためには、私たちはもっと成熟し、私たちが二〇代から四〇代であった頃、より正確には二一才から四二才までの間に私たちの中で形成的に働いていた力を振り返ることができるような年代になっていなければなりません。したがって、私たちの時代に先立つ時代においては、世界の宇宙的な方向性に関して決定的な役割を果たしていたのは非常に若い子供たちでした。ガブリエルの時代の力は既に幼年期に働く衝動の中に投影されていたのです。私たちの時代において、太陽の力からの衝動を受け取るように運命づけられているのは三〇代や四〇代の人たちです。つまり、全世界の宇宙的な指導において決定的に重要な役割を担っているのは成人たちなのです。

 これらの事実は、私が一昨日皆さんにお話しした直接的で精神的な知覚から得られる実際的な結果です。それらは空疎な理論ではなく、実践的な知覚による果実なのです。ですから、お分かりのように、現在のミカエルの時代に先立つガブリエルの時代を理解するためには、その時代の肉体を脱いだ魂に個人的に出会う必要は特にありませんでした。これらの魂に向き合うときには、幼年期のインスピレーション的な知覚をもっていなければならなかったために、大人の前に立つ子供のように感じられたのです。

 それに先立つ時代、アラヌス・アプ・インスリス、ベルナルドス・シルベストリ、フィオーレのヨアキム、ハンビルのジョンやブルネットー・ラティーニの時代を探求するのは全く別のことです。この時代

は、歯の生え替わりから思春期までの時代に彼の内で働いている力を遡及的に振り返るときに獲得される力によって支配されていました。これは水星の力です。人間がこの人生期を出発点として精神的なものの知覚に対応する器官を発達させるとき、彼は何か非常に意義深いものを経験します。歯の生え替わりから思春期までの時期において、人間は何でも知りたがる子供ですが、この人生期に属する器官をもって知覚するとき、彼は再び子供の熱情を経験するのです。彼がこの時代に属する人々に個人的に会いたいと望むのはこのためです。そして、彼は秘儀参入から生まれた認識をもって、実際にそうするのです。彼は、ちょうど十才か一二才の子供が目上の人、彼の教師や先生に出会うような仕方でブルネットー・ラティーニのような人物に向き合いたいと思うのです。

 秘儀に参入する真の認識を自分のものとするとき、人間は現象世界のことがらに無関心ではありません。彼は大人であると同時に知識を渇望する子供なのです。彼はブルネットー・ラティーニと対等の立場で向き合うのですが、彼から学びたいという強烈な欲求をもってそうするのです。

 十五世紀から十一世紀にまで遡る時代の秘儀に参入する認識はこの関係から来る特別な色合いを帯びています。それは地球と人類に対する主要な衝動が水星から与えられた時代なのです。

 それを中心にあらゆるものが回っていた存在、その時代において特別な重要性を有していた存在はラファエルという太古の名前の下で知られていました。ラファエルはルネッサンスに先立つ時代、ダンテやジョットーの時代における水星だったのです。私たちは正に歴史上ほとんど知られていない人たち、その名前が記録されなかった人たちと個人的に知り合いたいと感じるのです。

 私たちが精神科学の教えに精通するとき、その時代は私たちの中に奇妙な反応を引き起こします。まず第一に、私たちはブルネットー・ラティーニやアラヌス・アプ・インスリスのような人物について教科書がほとんど何も語らないことに当惑し、もっと歴史的な事実が与えられないものかと思うのですが、私たちの地平が広がるにしたがって、通常の歴史が沈黙していることに感謝し、ありがたく思うようになります。何故なら、外的な歴史資料は単に断片的なものだからです。もし、私たちの時代の認識に関して、その歴史上の副次的な枝葉末節についての新聞記事が唯一の有効な証明であると考えられるとしたら、それが子孫の目にどのように映るであろうかを想像してみて下さい。私たちは、これらの人物に関して、百科事典の中に見られる限られた情報によってじゃまされないことにただ感謝することができるだけです。そして、私たちは、今日、人智学協会が手にすることができるあらゆる手段を用いて、これらの人物との精神的な接触を試みるとともに、精神科学の立場から彼らについて確認することができるあらゆることがらについて報告しようしているのです。

 この関連で、ラファエルの時代において自然認識にたずさわっていた人物たちと関係を持つことはとりわけ重要なことです。より深い自然認識、医学のより深い理解は、この時代の精神的な夜明け(九世紀から十五世紀)の中から超感覚的な知覚の前に現れ出るとともに、私たちに現在流行している物質概念や人間の全宇宙に対する関係についての考え方を教示してくれるところの多くの人物たちを通して伝えられます。私たちが超感覚的な視覚をもってこの時代をのぞき見るとき、その名が後世に伝えられて来なかった多くの無名の人物たちに出会うのですが、これらの人物たちは現実に存在していたのです。これら多くの人物たちが私たちの前に現れるとき、私たちは、そこに立っているのは「大パラケルスス」であるが、その名前は記録には残っていない、他方、後の時代、ガブリエルの時代には「小パラケルスス」が生きていたが、彼は大パラケルススの自然の叡智を、もはやその純粋かつ崇高な精神の形態においてではなく、思い出として有していたのだ、と言います。

 後のガブリエルの時代には「小ヤーコブ・ベーメ」が私たちの前に現れます。そして、そのときも、この人物は様々の伝統的な教えから学び取った崇高な真実、彼のインスピレーションに刺激を与えた崇高な真実を告げた、と言うのですが、私たちが本当に「小ヤーコブ・ベーメ」を理解するのは、後世には知られていない、その名前もアラヌス・アプ・インスリスやブルネットー・ラティーニと同様、たまにしか触れられることのない「大ヤーコブ・ベーメ」が私たちの前に現れるときだけです。ルネッサンスに先立つ時代は−そして、その時代の終わりには、ダンテやブルネットー・ラティーニのような有名な人物やシャルトルの学院が孤立した明かりのようにそびえ立つ一方で、その中心には、スコトゥス・エリウゲナが標石(訳注:氷河などに運ばれて意外なところで見つかる玉石)のように現れるのですが−何か力強い精神的な刺激を包含しています。中世についての外的な歴史は闇に包まれていますが、この闇は今お話しした時代を照らし出すことができる力強い人物たちの存在を隠しているのです。

 私たちが九世紀から十五世紀までのラファエルの時代(原注)に入っていくとき、ダンテやジョットー、そして後世にその名が知られていない人物たち、あるいはまた私が触れた別の人物たちが大きく浮かび上がってきます。彼らは身近な人間としての印象を私たちに与えます。肉体の中に一度も受肉したことのないラファエル自身はもっと背景の方向に退いています。永遠に精神世界に居住するその他の精神的な存在たちはこの時代にはそれほどはっきりとは規定されていません。大きく浮かび上がってくるのは人間、特に死者たちです。

 続くガブリエルの時代は、ゲーテ、スペンサー、バイロン卿、あるいはボルテールのような人物たちでさえ精神的な世界の中では影のような存在である、という印象を与えます。他方、私たちは、精神的な知覚を通して、人間というよりも超人のような印象を残すすばらしく壮大な存在を意識するようになります。

 彼らは今日も存在しています。そして、地球が私たちの誕生から死までの住居であるように、月の領域が彼らの永遠の住居なのです。これらの印象的な存在たちが私たちの注意を引く一方、人間の魂はもっと背景へと退いています。今日、私たち人間がそうであるように、これらの存在たちはかつて地球に結びついていた、ということが分かります。人間は物理的な体の中に生きていますが、これらの月存在たちは、地球上では、精妙でエーテル的な体の中に生きていました。そして、太古の時代には地上にあって人間と交流し、人間の精神的な教師であった存在たちは今でも私たちと共にある、ということに気づきます。彼らは、彼らの地上での使命が成就したとき、月の領域へと退き、今日ではもはや地球には関係していないのです。

 私の本「神秘学」をお読みになった方はご存じのように、月はかつて地球と結びついていましたが、後に分離しました。これらの存在たちは月の分離に際してそれに同伴し、その後、月の領域の住人となりました。ですから、私たちは、私たちが死後間もない死者たちと連絡を取ることを可能にする認識段階において入っていく世界の中でも、通常の意識に関する以前の認識をまだ保持しているために、私たちを取り囲む人たちはかつて地上において肉体を持った人間であったのだ、ということを今日の通常の覚醒意識によって認めるのです。つまり、私たちは、この異なる意識に参入するとき、ちょうど私たちが地球に属しているように月の領域に属する精神的な存在たちと共にあるのだ、ということにますます気づくようになるのです。彼らは普遍的に存在し、人間の行いに関心を寄せているのですが、それは今日の人間がそうするような物理的な観点からではありません。

 かつて人類の偉大な教師であった存在たち、すなわち、もはや地球の住人ではなく、いわば月領域の住人であるところの存在たちの中には、圧倒的な壮大さと最高度に発達した精神性を有し、内的、精神的な荘厳さに満ちた存在が見いだされます。宇宙の神秘に関する非常に多くのことがらを彼らから学ぶことができます。彼らの知識は通常の意識が到達することができる知識をはるかに凌駕しているのです。けれども、彼らはこの知識を抽象的な思考によって表現することができません。彼らのそばに近づくと、歌が押し寄せてくるのに出会いますが、彼らはあらゆるものを詩や芸術的なイメージを通して表現するのです。彼らは、その独自のやり方で、ホメロスや古代インドの叙事詩では知られていなかった崇高な調和をもって私たちを喜ばせ、魅了するのですが、彼らが私たちの前に魔法のように出現させるものすべての中には深い叡智が横たわっています。

とはいえ、彼らの中にはそれほど完全でないものたちもいます。ちょうど地上に愉快な連中や不愉快な連中がいるように、これらの異なる存在たちの間にも、その仲間たちほどの荘厳さや完全さを達成しなかったものたちを見いだすことができるのです。にもかかわらず、彼らは生徒や弟子として地球領域を離れ、月領域に生きながらそこで働き続けたために、ある程度の完成段階に到達しています。卑近な表現ですが、彼らとつき合うとき、彼らが地上のできごとに燃えるような関心を寄せているのがすぐに分かるのですが、それは全く異なる種類の関心なのです。

 これらの存在は好意的ではなく、どちらかというと招かれざる連中なのだ、と想像してはなりません。彼らは、その仲間と比べれば不完全であるとはいえ、現代人が通常の意識をもって到達することができるレベルをはるかに超えた明晰さ、賢さ、洞察力を有しているのです。彼らはいつでもその仲間と同じ習慣を共有しているのですが、今日の通常の人間とは異なる習慣や傾向を有しているのです。

 ここでことの詳細に入っていきたいと思いますが、これはある種の重要性を持っています。私たちがそのような存在たちと関係を持つ−これは確かにいくらか卑近な表現ですが−とき、意見交換をしたい、あれこれのことがらについて彼らと話し合いたい、という自然な感情をもつようになります。具体的な例をあげますと、私たちがこれらの存在たちと、書くことについて、人間が記述した作品について語り合っていると想像してみましょう。ある人は単純にその名前を書きとめ、別の人は自分のサインあるいはイニシャルを書くと想像します。私たちがこれらの問題についてその存在たちと議論するとき、彼らは次のように答えるでしょう。お前たち人間は全くつまらないことに、つまり、言葉の一義的な意味、例えば、「鍛冶屋」や「床屋」が何を意味しているのかに興味を持つが、それらの単語が書きとめられるときの書き手の特別な動き、各人がいかに異なった書きぶりをするか−速く書くか、骨を折って書くか、巧みに書くか、ぎこちなく書くか、機械的に書くか、芸術的に書くか−を観察する方がもっとはるかに興味深いのだ、と。これらの存在たちは人間が書くときの特別な動きのパターンに綿密な注意を払っているのです。それが彼らの興味を引くものなのです。

 そして、私が今お話ししている精神的な世界において、これらの存在たちは、既に地上には住んでいない実在たち、あるときは人間よりも下位に、あるときは上位に位置づけられるような実在たちをその取り巻きとして有しています。彼らは私たちに用語法や命名法について私たちを指導することはありませんが、彼らが地上にいたときから人類が発達させてきた筆記パターンや形態について助言を与えているのです。今日の意味での書くということは、これらの存在たちが地上にいたときには存在していませんでした。

 彼らは人間との交わりの中で、筆記が徐々に進化するのを観察してきました。彼らは指の器用な動きに興味を持ち、その器用さが後に羽ペンが加わることによって補完され、さらには万年筆によって補完されるのに注目してきました。彼らは紙に委ねられたものにはほとんど興味を持たず、それをするために必要な動きに完全に没頭したのです。

 さて、ある付加的な要素が考慮されなければなりません−今でも生き残って存在する地球からの放射は大体において見過ごされてきました。それらの放射が取る多くの形態の中に、まず今お話しした人間から発する動きがあります。これらの存在たちと語り合うことができるのは、人間から発する動きなのです。

 ところで、さしあたり、これはあの存在たちの真の領域へと導くような何かではありません。何故なら、彼らが地上に住んでいた時代には書くということはまだ存在していなかったからです。今日の人間が自分の流体放射に関して限定的な理解力しか持ち合わせていないことについて、これらの存在たちから発せられるコメントは相当に皮肉に満ちたものです。現代人には無視されますが、それはこれらの実在たちには非常によく知られたものなのです。そのように、これらの存在たちが地上にいた時代には、流体の放射、皮膚からの流体放射は決定的に重要なものだったのです。人間はその吐息を通して仲間の人間を認識するようになっていたのですが、このことは後には知られなくなりました。

 これらの存在たちが特に受け入れる第三のものとは皮膚からの発散、人間から発する空気要素です。これらすべての放射は、あとで見ていきますように、半精神的な性格を有しているかも知れません。これらの存在たちが特に敏感なのは人間から発するこれらの放射−筆記における固体要素、皮膚発汗における液体要素、皮膚呼吸における空気要素です。人間はいつでもその皮膚を通して呼吸していることを思い出さなければなりません。

 第四に、これらの存在たちは熱放射を受け入れます。これらすべては地上に存在しているために、あの月存在たちにとって特別に重要なものなのです。人間はその筆記における動作の構成やその発散における特別な性質によって判断されるのです。

 次は恒常的に存在する光の放射です。誰でも、オーラからだけではなく、肉体やエーテル体からも光を放射しているのです。通常の状態では、これらの放射はあまりにもかすかであるために目には見えませんが、最近、モーリッツ・ベネディクトは特別にしつらえられた部屋を用いてそれらが存在することを示しました。彼は肉体が場所によって様々に異なる赤や黄色、そして青い光の放射を示す繊細なオーラによって取り巻かれているのを示したのです。モーリッツ・ベネディクトが私たちに語るのは、彼がどのようにして色のついたオーラを示したかです。彼は通常の光の条件下では体の左側半分を、オーラを出現させる条件下では別の半分を示しました。すべてはいかに適切な実験条件を設定するかにかかっています。

 第六の放射は化学的な力の放射ですが、これは、今日、地上においては例外的なケースであり、まれにしか見られません。それは当然のことながらいつでも存在しているのですが、黒魔術が行われるようなまれな場合にしか作用しないのです。人間が自分たちの化学的な放射を意識し、それらを探求するのは、地上で黒魔術が行われているときなのです。

 七番目の種類の放射は精神的な生命の直接的な放射、もしくは命の放射です。今日、化学的な放射を用いるとすれば黒魔術に陥ることは避けられませんが、それは嫌悪すべきものであり悪徳です。黒魔術は対処すべき力ですが、生命放射がそれほど重要ではないというわけではありません。今お話ししている月存在たちの場合、絶えず生命放射に依存し、それに働きかけるとともに、善のために用いているのですが、彼らは黒魔術師ではありません。何故なら、黒魔術師とはある条件下で悪に屈

し、「地上で」悪を行うものだからです。けれども月存在たちが生命放射に依存することができるのは、太陽の反射光の中に生き、その影響の下にある満月のときだけです。私たちは精神世界から学ぶものを創造的に用いるように努めなければなりません。私たちの時代の使命は生きたアイデアを見いだし、生きた概念、知覚、そして感情を発達させることであり、死せる理論を発動することではないのです。そして、これらは私たちがミカエルと呼ぶ存在に結びついた存在たちによって直接インスピレーション的に与えられるのです。

 以前のガブリエルの時代、人類は物質世界により引きつけられていました。人々は、ある条件下で人間に密接に関係する存在たちとの接触を求めようとはしていませんでした。それはこれらの存在たちがその時代には知られていなかった何か、つまり、人間から出てくる神秘的な放射に関係していたからです。

 既に述べたような仕方で私たちが死者と関係を持つところの精神的な世界は、私たちが誕生から死までの間に住むところの物理的な世界に隣接しています。けれども、この世界は他の多くの側面を有しており、その中には人間の放射の中に生きるあの力の作用効果があります。ある意味で、これは宇宙の中でもきわめて危険な領域であり、私たちが持つべきなのは、今回の連続講義でもしばしば触れましたが、これらの月存在たちから進み出てくるあらゆるものを、悪の力ではなく、善の力にするようにな魂的、霊的なバランスと抑制力です。

 実際、今の時代のすべての力と衝動は、生命放射を地上のものと考える方向に急いで向かわなければなりません。ところが、致命的に容易なのは、この生命放射と私たちが大喜びで持ちたいような他のすべての放射との間に横たわるもの、つまり黒魔術の餌食になる、ということです。人間がとりわけ好むのは、動きの中で表現されるもの−これについては後ほどお話しするつもりですが、流体放射や光放射の中に存在しているものを可視化する、ということです。このすべてはある程度善の力に関連しており、ただ善に向かうことができるだけなのですが、それは人々の間でミカエルの時代がその夜明けを迎えているためです。このすべての間に横たわっているのが、精神的な探求に向かう正しい方法を追求するためにはそれに対抗しなければならない黒魔術なのです。

 

1.人間から発する動き

2.液体要素の皮膚からの発散

3.空気要素の皮膚からの発散

4.熱放射

5.光放射

6.化学的な力の放射(黒魔術)

7.生命放射

 

 さて、地上の人間と月存在たちの間の精神世界におけるこの関係が−そして、これは無意識の領域の中で絶えず生じているのですが−生じるとき、ある種の月存在たちが筆記や描写の動きに対して発達させる興味、つまり、超感覚的に見ることができるこの興味に関しては、精神世界におけるある種の元素存在たちの中にもその残響が見いだされます。元素存在たちは月存在たちよりも低次の段階にあります。彼らは一度も地上に受肉したことはなく、霊的−エーテル的な存在として、隣接する世界に住んでいます。彼らの人間世界に対する興味の結果とは次のようなものです。観察によって、人間が筆記を通じて伝える考えは彼の全存在に働きかける、ということが分かります。それらの考えはまず最初に自我の中に存在し、そしてアストラル体に伝えられます。アストラル体は正確に自我が決めたとおりの動きを遂行します。次にそれらはエーテル体からさらに肉体にまで作用します。ある種の元素存在たちはこれらの影響を観察し、同じように反応することを望みますが、それは不可能なのです。何故なら、彼らの世界に通用する法則は筆記が実行される世界の法則とは異なるからです。筆記は地上の人間の物理世界における特

権なのです。

 ところが、次のような状況が生じます。ものを書いたり、考えたり、あるいは感じるときでさえ、しっかりとそのエーテル体につなぎ止められている人々がいるのです。つまり、そのような人々の場合、エーテル体全体がそれらの過程に巻き込まれ、そしてそれが肉体に強く刻印づけられます。その自我は抑制され、アストラル体とエーテル体と肉体は筆記や描写を忠実に再現します。霊媒とはこのようなタイプの人間なのです。

 そのような霊媒たちは、自我が抑制されているために、月存在から筆記の動きを学んだ精神世界の従順な元素存在たちを自分の中に取り込みます。そして、十全なる自我意識をもってではなく、それをコントロールするところの元素存在たちの影響下で筆記の動きを実行するのです。霊媒的な筆記や描写、通常の霊媒現象が起こるのは、減退した意識状態における霊媒からの発散を通してです。これらの放射はそれをコントロールするために利用されます。

 第二の種類の放射は月存在の影響下で容易に人間の芸術的な才能を吸収することができるある種の存在たちによって利用されます。これらの存在たちもまたある種の人間たちの中に入っていくのですが、その人間の表層意識は抑制され、放射へと導かれるある種の芸術衝動をそのエーテル体とアストラル体の中に有しているのです。ある種の条件下で、このタイプの人間が元素的−精神的な存在に取りつかれ、それらの放射が、一見するとまぼろし(ファントム)の形をしたもの、つまり、その一部はその人間の人生経験についての知覚がエーテル体とアストラル体にまで沈み込み、放射として現れるところのものから構成され、別の部分は、彼の中に入り込んだ元素存在だけが住む世界から伝えられるところのものから成り立っているところのファントムに侵されているのを観察するのはきわめて興味深いことです。

 さて、同様の結果はシュレンク-ノッチングの実験からも得られました。彼の実験対象はある種の霊媒タイプの人たち、影響を受けやすい霊媒たちでしたが、彼らは、その自我が抑制され、減退した意識状態の下では、彼らの皮膚からの流体放射のために、元素存在たちにとって理想的な素材でした。そのテーマに関しては、シュレンク-ノッチングによる興味深い本があります。それをいかさまだと言う人もいれば、高く評価する人もいました。後者が彼の発見を普通ではないと考えたとしても驚くにはあたりません。何故なら、霊媒を使って実験が行われたとき、エクトプラズム、すなわち地上には見いだされない精神的な要素を体現する形態が体のある部分から流れ出した、というのは普通のことではないからです。多くの場合、霊媒が最近見たグラビアの絵がその形態に関連している、ということが分かりました。何かが霊媒から流れ出します。それは皮膚からの発散です。そして、この中には全く精神的な何かが流れ込むのですが、それには霊媒が最近グラビアや漫画雑誌の中で見た、例えばポアンカレの肖像のようなものが結びついているのです。

 人々がそのようなことに驚愕するとしても驚くにはあたりません。けれども、流行の装いをした品のよい人々が、そして、皮膚からの分泌について話したり、魂の具現化について議論したりするのを最も嫌がるであろうようなご婦人方までが、これらのエクトプラズム的な形態が紛れもない霊媒の汗から具現化されるのを見たいというみだらな欲求を感じるというのは本当に驚くべきことです。

 シュレンク−ノッチングの実験で見られた現象は、単に分泌物が皮膚からの発散を通して元素存在たちによって活性化されたエクトプラズマ的な形態へと具現化したものにすぎません。

同様にして、皮膚発散、すなわち霊媒から流出する気体の形成はある種の元素存在たちによって刺激されることがあります。けれどもこれらの皮膚発散は特定の人間の形態に非常に密接に結びついており、これらの存在たちに可能なのは、せいぜい人間自身の幽体(ファントム)を創造するという程度のことにすぎませんが、それは人間が自らの人間的な形態をそれらに非常に強く刻印することによります。そのとき私たちが目撃するのは霊媒からの幽体の流出現象です。

 人間からの熱放射や光放射をつくり出すことによって霊媒が何か目に見えるもの、これらの元素存在たちが月存在の影響下で働きかけることができる幽体のようなものを現出させるのはそれほど容易なことではありません。まず、ある種の準備がなされなければなりません。

 既にお話しましたように、自然科学は最近、暗い部屋の中である種の光放射や熱の発散を見えるようにすることができる技術を開発しました。この関連で、モーリッツ・ベネディクトの実験は最も輝かしいものです。けれども、それはいつの時代でもそうだったのです。つまり、今でもそうなのですが、黒魔術を通して物理世界を操作するだけではなく、香を焚いたり、特別な香料や調合剤を使うことによって幻覚的な効果をつくりだすという準備段階を踏んだ人だけが熱や光の発散を有効に使うことができたのです。

 これらの魔術的な儀式の目的は、人間からの熱や光の発散の中に本来存在するところの力を引き出す、ということです。エリファス・レヴィーや、パプスというペンネームを持つエンコースの著作の中には、このテーマに関するきわめて危険で疑問の多い説明が見られるのですが、これらのことがらに関して、その客観的な側面や真の本性について語るべきであるならば、それらを無視して済ますことはできません。

 これらすべてのことがらは地上的な要素の中に隠された精神的なものを利用するところの黒魔術へと直接導くものです。この精神的な要素とは何なのでしょうか? 皆さんは私の著書「神秘学概論」の中に、月はかつて地球と結びついていた、という記述を見いだされるでしょう。月に属する多くの力が地球上に残され、今や、鉱物、植物、そして動物の中に広がっています。これらの月の力は今でもそこにあるのです。ですから、私たちが、地球存在として、本来は鉱物、植物、動物、あるいは人間には属していない月の力を利用するとき、月存在たちから多くのことがらを私たちの世界にとっては見知らぬ方法で学んだ元素存在たちに出会う領域に踏み込むことになります。黒魔術師は、このようにして、まだ地上に存在している月の力を利用しているのです。けれども、彼は、このような仕方で働くことによって、元素存在たちに接触することになります。そして、これらの元素存在たちは人間と月存在たちの間の正しく正当な関係を−人がハルマやチェスのゲームを見るように−いわば監視することによって、物理世界に限りなく接近し、それをのぞき込み、そしてそこに足を踏み入れることさえ学んでいるのです。しかし、

通常の人間の場合、これらすべては無意識の中に留まり、これらの存在たちと接触を持つことはありません。ところが、月の力を使って仕事をし、彼らを試験管やるつぼの中に閉じこめる黒魔術師はこれらの元素存在たちの渦中に捕らえられることになります。

 正直でまっとうな人間もこれらの黒魔術師たちから学ぶことができます。ファウストの第一部でゲーテが示したのは人間が渦巻く力の中心にいるという状況、危険な黒魔術の近くにいるという状況です。人間は、これらの力を利用することによって、月存在たちに奉仕する実在たちが容易に人間と関係を持つことができる領域に入っていくことになるのです。こうして、黒魔術の中心地は月の力とそれに直接奉仕するようになった精神存在たちとが悪事のために共に働くところに生じます。そして、ここ数世紀にわたって多くのこの種の活動が実践されてきたために、地上には危険な雰囲気がつくりだされています。危険な雰囲気は疑いもなくそこにあり、人間の活動と月の要素との統合、動的な月の力とよこしまな月の力に奉仕する元素存在たちとの統合から産み出される夥しい力が注入されています。ミカエルの時代に太陽の領域から進み出てくることが定められているすべてのものに活発に反対しているのはこの領域なのです。そして、このことは特に魂と精神の領域における生命の発散との関連で考慮されなければなりません。

 明日は、この観点からさらに探求を行う予定です。

 

1.人間からの発散−霊媒的な力

2.液体要素の皮膚発散−物質化

3.皮膚発散−幽体の示顕

4.熱放射

5.光放射

6.化学的な力の放射(黒魔術)

7.生命の放射

         ミカエル−太陽

ガブリエル−月

ラファエル−水星

 

 

(原注)一九二四年八月一八日付けのルドルフ・シュタイナーのノート

(トーケイ、朝の講義)には、大天使の時代に関して次のような書き込

みがある。

 

一八七九−一五一〇年 ガブリエル   月

一五一〇−一一九〇年 サマエル   火星

一一九〇− 八五〇年 ラファエル  水星

 八五〇− 五〇〇 ザカリエル  木星

 五〇〇− 一五〇年 アナエル   金星

 一五〇− 二〇〇年 オリフィエル 土星

 

(第七講・了)


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